探求と発見(1)「探せ、探せば見つかる」
探求と発見(1)―「探せ、探せば見つかる」―
日曜聖書講義 2020.11.1
1テクスト
請い求めよ、そうすればそれは汝らに与えられるであろう。探せ、そうすれば汝らはそれを見つけるであろう。叩け、そうすれば汝らに戸は開かれるであろう。というのも、請い求めているすべての者は受け取り、そして探しているすべての者は見出しそして叩いているすべての者には開かれるであろうからである。或いは、誰か汝らのうち、自分の子がパンを請い求めているのに、まさか石を与える者はいないのではないか、或いは、魚をも請い求めているのに、その子にまさか蛇を与える者はいないのではないか。かくして、汝らは悪い者であるが、汝らの子供たちには善きものを与えることを知っているなら、天にいます汝らの父はましてやいっそうご自身を請い求める者たちに善きものを与えるであろう (Mat.7:7-20)。
2神の国を探し求める
イエスはここで請い求めること、探すことそして戸を叩くことを命じている。そしてこうするすべての者ののぞみが叶えられると主張している。ここでも尋常ならざる主張に出会う。そしてこれらの問い求めはその延長線上に最終的に天の父「ご自身を求める」ことに収斂する。アウグスティヌスは『告白』冒頭で神に向かって言う。「汝は駆り立てます、汝を讃えることが喜びであるように。それは汝がわれらを汝に向けて創りたまいし故のこと、われらの心は汝のうちに憩うまで安らぎを得ることはありません」。心の探求は神を見出し、そして憩うまで続けられる。何であれ、ひとは請い求め、探し求めるが、実はこれらの探求はすべて天の父ご自身に向かうその方向に秩序づけられている、たとえ個々人にはその自覚がなく山上の説教の教えと反対の道を追求していたとしても。われらは被造物にすぎないからである。誰もが自己の限りあることを認めるが、その有限性の認識は何らか限りなきものへの眼差しをもつことができるそのような心魂の所産である。ひとは自らの存在も宇宙の存在も限りあるものであることを知っている。ひとはやはりその意味で宇宙の栄光なのである。ドストエフスキーは少女の涙を償うことのできるものが、この世に何かあるのかを問う。ひとの悲しみは何ものによっても埋めがたい宇宙の底が抜けてしまうほどに、尊いものなのではないか。この世の何ものによって、それを満たし得るのか、は確実に問われうる問いである。
イエスは山上の説教を天の父にまなざしを注ぎつつ語っている。一切の秩序づけを支えるのは天の父の憐みである。この父の愛は自分の子がパンを求めているのに石を与える親はいないという類比に訴えて論じられる。イエスは対人論法により良心に訴えつつ道徳的次元を突き破ったことをこれまで見てきたが、道徳的次元を超えるものとして自らが神の子であるという信の世界に立っていた。これら三つの命令は「まず、汝らは神の国とその義とを探し求めよ」という命令に秩序づけられる。そこではこう言われていた。「だから、「われらは何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」と言って、汝ら思い煩うな。それはみな異邦人が切に探し求めているものだ。汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、汝らは神の国とその義とを探し求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう」(Mat.6:31-33)。
良きものを父が子に与えるように、与えられるのだから、水臭いことを言わずに父に訴え求めよ。この議論それ自身に何ら不明瞭なところはなく、またこれまでと矛盾するところはない。天の父は一切を正確にご存知であり、われらの必要をもケアしてくださる。その信のなかで、請い求めること、探すことそして叩くことが命じられている。神の国と神が義であることそして神に義と看做されることを探し求めること、そのことに一切の請い求め、探求そしてドアを叩く新たな挑戦が秩序づけられる。
ひとは直ちに反論するであろう、自らの祈りが聞かれなかった人々の事例は枚挙に暇がないと。餓死した人々、戦死した人々、病死した人々、自らの意に反して悲惨な事件が生起し続けているではないか。請い求めたものを与えられることも、探したものを見つけることがなかったことも、新たな挑戦でドアを叩いたが挫折してしまったことも、これらは巷で「夢は破れた」或いは「うまくいかなかった」こととして成功例よりもはるかに多く容易に見いだせることがらではないか。これらの反論は神の非存在ないし、神はいても助けてくださらないことへの懐疑から提示される。これは深刻なそして日々日常の懐疑であると言える。わたしどもはすぐに神の御顔を見失ってしまう。
この懐疑に対する応答としては、さしあたり、「神の国」を求め、そこから一切の必要なものを秩序づけているかが問い直されよう。これまで、超越的な神の国についてはイメージを持ちにくいということもあり、この地上の一挙手一投足において神の国を持ち運んだナザレのイエスをよりよく知ることにより、神の国の実質を知ることができることを学んできた。そして神の義と愛を学んできた。「神の国は汝らの只中にある」(Luk.17:21)とも「二人、三人わが名において集まるところ、そこでわたしも彼らのまんなかにいる」(Mat.18:20)とも言われていた。神の国へのアクセスはナザレのイエスを介して最も適切になされる。われらは彼と共に生きているかをまず自戒する必要がある。そのときわれらに必要なものが何であるか、それまでの自らの判断で必要と思っていたものから変化しているかもしれない。地の塩、世の光になりたいという思いが強まり、請い求めるものが変わってくることもあろう。かつて魅力的に見えたものが塵芥に見えることもあるであろう。山上の説教で祝福されている者たちにこそなりたいと思うことであろう。おのれを離れて隣人を愛し、神に栄光を帰すことを請い求めるよう心の在り方が変容し、認識の刷新が起こることもあろう。
3探求のパラドクス:(ここで「パラドクス・逆説」とは知らないものは知らず、知っているものは知っており双方を繋げる探求は成立しないという通常想定されない主張)
確かに、イエスによるご自身が神の子であるという信の世界に基づき、一切は神様の秩序のもとに服し、低くせられ、この世界に御子が贈られたことにすがり、そのことを喜んでいる、それだけで満たされることもあろう。救いはわれらの心にではなく明確に歴史のなかに打ち立てられた十字架を仰ぎ見るとき、懐疑が消えていくこともあろう。しかしながら、その手前のことがらとして、わたしたちは自分が何を求めているのか、探しているのか知っているのであろうかが問われる。一般的に「幸福」といってもその実質について正確に知ったうえで、それを探求しているのであろうか。よく言われるように「青い鳥」は自分たちの家にそして心の中にいるのかもしれない。何を請い求めているかも知らずに右往左往して人生が終わってしまうならまことに残念なことである。その問いが不明瞭なときに、たとえその答えにであったとしても自らが求めている問いの答であるということを知ることができないのではないかという問題である。ひとは知らないものについて、知らないのだから決してその知らないものについて知るにいたることはないという、古来「メノンのパラドクス」や「探求のパラドクス」と言われてきたものである。
ひとはまず語Xの意味の理解から初めて、Xの存在や本質の探求に向かう。そしてまず語Xの意味は言語共同体において親が子供に言葉を教えるように伝えられていく。それが探求の手がかりを提供する。だからパウロも言う、「それでは、信じることのなかったその方にいかにひとびとは呼びかけるであろうか。聞くことのなかったその方をいかに彼らは信じるであろうか。しかし、宣教する者なしにいかに彼らは聞くのであろうか。しかし、遣わされなかったなら、いかにひとびとは宣教するのであろうか。まさにこう書いてある、「いかに麗しいことか、よきことを告げる者たちの足は」(Rom.10:14-15)。
イエスご自身は山上の説教の展開においてイエスご自身が探求の最終ないし完成段階におり、神の国がいつくるかは父にしか分からないと言いつつも、神の国について知識を持っている立場にある方として群衆を導いておられる(Mat.24:36)。もちろんイエスご自身肉の弱さを抱えていたため、ゲッセマネの祈りや十字架上の叫びに見られるように、心身の極度の苦痛のなかで、糞尿にまみれ、明確な知識を今・ここで保持していくことが困難となり一時的に曇らされたかもしれない。また天の父を否定すべくデヴィルの最後の誘惑を経験されたでもあろう。「「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」。少し進んで行って、うつ伏せになり祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心(みこころ)のままに」」(Mat.26:36-39)。しかし、天の父は御子の甦らしを介して、イエスがその死に至るまで信の従順を貫き正義であったことを証しておられる。探求し発見した者は知者となる。他方、懐疑に沈む者はおのれの判断基準から逃れることができず、いつまでも循環を繰り返す。神はいるのかと問いながら、自ら真理の最高裁判所の席に座り神を尻にしいて周りを見回して、「神は見つからない」と言い続けている。決定的に重要なことは懐疑が喜ばしい探求に変わるかということである。自らの理性を裁判官とすることなくその席を降りて、厳と秩序をもって存在している世界と宇宙の前に膝まづくことである。「諸々の天は神の栄光を顕し、大空は御手の業を知らしめる」(Ps.19:1)。
4 探求項目と過程
ここでは探求論と呼ばれる、ものごとを尋ねそして知るに至る手続きについて個人的な探求を振り返りながら確認したい。この七章の箇所は子供のころの記憶につながる。父と野球をしていて、ボールをうしろにそらし藪にはいってしまうと、後方から野太い声で「探せ、探せば見つかる」という励ましを聞いていたことを思い出す。実はその後の私の人生はこの言葉に導かれたと言ってよい。探し求めること、そして見出すこと。わたしは何を探していたかもわからない時期を過ごした。ニヒリズム即ちこの世界に何も確かなものはないのではないのか、偽りで満ちているのではないかという懐疑に囚われていた。私は揺るがない確かなものがこの人生のただなかにあることを探し求めていた。それは一般的には「求道者」と呼ばれる段階であろう。私の懐疑の暗い日々のなかで、私の学問生活はアリストテレスの『分析論後書』における探求論の研究から始められた。
長い学生生活はギリシャ語テクストとの格闘に注がれた。私の修士論文も博士論文もアリストテレス『分析論後書』における科学的知識と探求の理論についてであった。未だに駆け出しのようなものであるが、アリストテレスのテクストに長く携わっていると、分かったときには(一体そういうことがあるとして)、彼はこれ以外の仕方ではこの事態を表現できなかったというそのギリギリの緻密さが分かるそのような感覚に捉われるようにはなってきた。逆に或る翻訳を見てアリストテレスはそんな緩いことを書くはずはないと思って見直すと誤訳であったりすることがしばしばおこる。この堅固なテクストの研究により懐疑が喜ばしい探求に変容したことは、僥倖であったと思う。もちろん今でもひとりの探求者でしかないが、ことあるごとにブレークがおき、世界に確かなものがあるというそのことだけで嬉しいそのような日々となった。
何かを問うとき、最も明らかなのは、自らが問うていることが何であるかを明確に認識することである。その第一歩は「美しくアポリア(行き詰まり)を提示する」ことである。思考を前進させる第一歩は自らの問いや自らが陥っている窮状を正確に知ることであり、そのうえで、人生が何のためにあるかという類のbig questionではなく、手前の一つ一つの結び目を明らかにし解(ほど)いていくことである。換言すれば解のある問いをその都度立てることが求められている。
アリストテレスは『形而上学』においてこう述べる。「困難を乗り越えようと欲する者にとっては美しくアポリア・行き詰まりを提示することが有益である。というのも、後の乗り越えは先に立てられたアポリアの解であり、足枷を知らない者にそれを解くことはできないからである。思考におけるアポリアはものにおける足枷を表わしている。つまり、ひとはアポリアに陥っている限り、その点で足枷を架けられている者と平行状態にある。どちらの場合にも先へ進むことはかなわない」(Met.III1.995a27-33)。
ひとは自ら問うていることがらを明晰に自覚しているのでなければ、たとえ答えに出会ったとしても、それが自ら問うているものの答えであるとは気づくことはないであろう。病気が治り健康になったひとが、健康がこんなに素晴らしいもの、軽やかなものであったのかを再認識するように、自分で自らの心魂に不必要な足枷を掛けてしまっていながら、それを足枷とも認識せず、そのような状況が正常であると思っていることがある。そういうものが人間であると勝手に思い込んでいるのかもしれない。解放されてみて、こんなに足というものは軽いのかという認識や何であれ自ら盲目にされ隷属させられていたことを知るそのようなことはあるであろう。探求とは解はあるという信のもとでの解放に向かうことであり、これまで数か月学んできたように神に明らかなことが各人の良心にも明らかになる共知の探究である。
パウロは自然的な生命原理である肉の底に、良心により何等か結合される「内なる人間」(Rom.7:22)と呼ばれる神と関わる心魂の部位について語るが、わたしどもはその内なる喜ばしい部位を知らずに過ごしているのかもしれない。自己の探求においても、宇宙の探求と同様に、美しく問うところにのみ、アポリア・行き詰まりを明晰に提示する限りにおいて、思考の確実な前進が期待できる。探求であり、美しく問いを提示する限り、それは答えのある問いであり、そして答えの発見は次の問いを備えるであろう。
ここでは私がアリストテレス研究に捧げることになった文章を紹介しよう。彼は探求の項目と過程を論じる箇所で、「ケンタウロスや神は存在するか」を事例として挙げる。そのとき背筋がゾクゾクとしたあの40年以上前の感覚を覚えている。彼が私と同じ問いを持っており、この探求論を理解すれば、神を知ることができるのではないかとそう思った箇所である。『分析論後書』II巻の第1章を私は「探求の四項目と発見的探求」と名付けたが、探求論は発見の視点から展開されることが重要な論点である。
[89b23]探究されるものごとは、われらが学的に知る限りのものと、数において等しい。われらは四つのものごとを探究する、即ち、「[Ia]~ということ(事実)」、「[Ib]それ故に~ということ(理拠)」、「[IIa]あるか(存在)」そして「[IIb]何であるか」である。例えば、「[Ia]果たして太陽は蝕を蒙るのか、蒙らないのか」という仕方で、「[Ia]果たしてこれであるのか、それともこれであるのか」と数え挙げて探究する時、事実を探究している。事実の探究があるということの証拠は、太陽が蝕を蒙るのを発見して、探究をやめるということにある。太陽が蝕を蒙るということを始めから知っているなら、われらは「[Ia]果たして~か」を探究することをしない。ところで、事実を知っている時、われらは理拠[理由根拠]を探究する。例えば、月が蝕を蒙るということを、或るいは地球が動いているということを知って、月が蝕を蒙る理拠を、また地球が動く理拠を探究する。かくして、われらは、これらについてはこのように探究するが、他方、或るものどもについては別の様式で探究する。例えば、「[IIa]果たしてケンタウロスや神はあるのか、それともあらぬか」という仕方で探究する。私は「[IIa]~はあるか否か」ということで、「端的に」それが存在するか否かを語っており、「それが白であるか否か」を語っているのではない。われらはそれが存在することを知って、何であるかを探究する。例えば、「[IIb]神は何であるか」、或るいは「[IIb]人間は何であるか」を探究する。
[二章は朗読を割愛しますが、以下のように展開されます]。
[a] [b]
[I] SはPであるか? → なぜSはPであるか?
[II] Sは存在するか? → Sは何であるか?
[I&II] 中項[M]は存在するか? → 中項[M]は何であるか?
[第2章 言語上導出される二つの探求行路と中項の探求の同定ならびに探求対象の存在論上の三分類
[89b36]かくして、われらが探究する事柄とわれらが発見し、知る事柄はこれらでありそしてこれだけの数である。しかし、事実そして端的な存在を探究する時、われらは「[I&IIa]果たしてその中項が存在するか否か」を探究している。事実或るいは存在を知って、つまり、[Q1]「部分的に」或るいは「端的に」知って、[90a1]新たに「[Ib]何故にか」或るいは「[IIb]何であるか」を探究する時、その時われらは「[I&IIb]中項は何であるか」を探究している。私が「事実」或るいは「存在」を(Q1)「部分的に」そして「端的に」ということであると言うが、一方、部分的にということで「[Ia]果たして月は蝕を蒙るのか、或るいは大きくなっているのか」を意味している。他方、端的にということで「[Ib]月や夜は存在するか否か」を意味している。[a5]従って、すべての探究において、「[I&IIa]中項は存在するか」或るいは「[I&IIb]中項は何であるか」を探究しているということが帰結する。というのも、中項は根拠であり、あらゆる探究において根拠が探究されているからである。「[Ia]果たして[月は] 蝕を蒙るのか」[即ち] 「[I&IIa]何か根拠は存在するか否か」。これらの問いの後に何か根拠が存在することを知って、それでは「[I&IIb]それは何であるか」をわれらは探究する。これやあれではなく、[a10][Q2]「端的に」実体が存在することの根拠、或るいは端的にではなく、自体的な内属性或るいは付帯的な内属性の「何ものか」が存在することの根拠は、中項である。[Q2]「端的に」と私が言うのは、例えば、月や地球、太陽或るいは三角形のような、基体のことである。自体的内属性の「何ものか」とは蝕、[三角形が] 等辺か不等辺かのいずれか、[天体が] 中間にあるかあらぬかのいずれかである。というのも、これらすべてにおいて[a15]「[IIb]何であるか」と「[IIa]何故にか」が同じであることは明らかだからである。「[IIb]蝕とは何であるか」。「[IIb]地球の遮蔽による月からの光の消失である」。「何故に蝕があるのか」、或るいはむしろ、「[Ia]何故に「月」は「蝕を蒙る」のか」。「[IIa]「地球」が遮蔽することによって、「光」が「消失すること」の故にである」。「[IIb]ハーモニー[調和音]とは何であるか」「[IIb]高音と低音における数の比である」。「[Ib]何故に「高音」は「低音」と調和するのか」。[a20]「[Ib]「高音」と「低音」が「数の比を持つこと」によってである」。「[IIa]果たして高音と低音は調和することがあるのか」。「[I&IIa]果たしてそれらの音のあいだに数における比は存在するのか」。われらはそれが存在することを把握して、「[I&IIb]それではその比が何であるか」を探究する。
探究が中項についてであるということは、中項が可感的なものである場合に明らかである。[a25]というのも、われらは感覚的認識を持たない場合に、例えば、蝕について、それが存在するか否かを探究するからである。もしわれらが月面にいたなら、蝕が生じるかどうか、さらには何故に生じるかも探究することはなく、それらは同時に明らかであったであろう。即ち、感覚するということから、普遍を知るということもわれらに生じたであろう。というのも、一方では、今、地球が遮蔽しているという感覚があり、そして今、月が蝕を蒙っているということが明らかであろうからである。[a30]他方では、このことから普遍が生じたであろうからである。
かくして、先に述べたように、「[IIb]何であるか」を知るということと[Ib]「何故にか」を知るということは同じことである。このことは「端的に」あるものでありそして内属するものどものうちの何ものかでないものである場合においても、或るいは内属性のうちの何ものかである場合、例えば二直角であること、或るいは、それよりも大きい角または小さい角であるということ、においても[ 同様 ] である。]
5探し求めドアを叩き、見出し開かれた記録―回心記―
ここで私自身の歩みの中で、請い求めそして探し求め、ドアを叩いて発見し、開けてもらったその個人的な体験として、今回と次回私の回心の経験と留学経験について語ることをお許しいただきたい。毎週日曜ごとに取り組んでいるテクストに関して偽りのないことを語ることは一つのとても困難な課題である。とりわけこの春からはじめて仕事として聖書講義をするようになって、その責任の重さがこれほどまでなのかを実感しつつ、伝道者や牧師の方々のご苦労にようやく思いをはせるようになった。私が師事した関根正雄先生が或る時、おのれに死なずに日曜の聖書講義をしたことは一度もないと言われたが、土曜の夜祈りのなかで夜が明けることが多かったようである。これまで体験を語ることを避けてきたが、実際に起こったことを報告することは福音の一つの証という位置づけとなるであろう。その体験の受け止め方は多様であっても、歴史のなかに生じたことがらの報告としては偽りのないものであり、個人的に受けた恩恵を思い出す機会とすることをお許しいただきたい。回心のとき、「これが、人々が連綿として語ってきたあの聖霊というものか」と私は独り言を言ったが、聖霊に初めて触れたのであったと思う。もし「聖霊」という言葉を知らなければ、私は少なくとも自らのこの平安と静かな喜びに名前をつけることも、人類と聖書の歴史のなかにこの体験を位置づけることもなかったことであろう。
探求においては、少なくとも語句の意味を知っておくことが必要であり、そして探し求めようとすることによって発見に至るかもしれないそのようなことがらである。わたしは新しく生まれ変わったと自らの経験を捉えるにいたった。今日はこの回心の記録を恥ずかしながら紹介することをお許しいただきたい。
1984年2月になったばかりの寒い夜に三田のアパートで回心を経験した。10年生活した学生寮春風学寮は改築のため、退去していた。追い詰められ、絶望的な状況のなかで、「信じます」と心の底からはじめて告白しひれ伏したとき、私の内奥が暗黒から光明へ、苦悩から「一切の叡知を超える神の平安」(Phil.4:7)と光がわたしの心に差し込み平安へと次第に別の世界に移される経験をした。それは「御霊の呻き」と題して「おとずれ 64 特集 関根正雄先生伝道50年」(2000.1)に掲載いただいた。回心後10数年たってから1998年に回顧したその文章をここに記す。
「御霊の呻きー覚書―」
この夏[1998]のある日の午後、ふと手にした哲学書の背表紙の内側に1984年6月10日と記された自筆の文章を見い出した。
こうゆう夜は愛する人とそこはかとなく語りあいたい。日曜の深夜、雨がシトシト降り、道ゆく車も数少なく、バッハのパルティータが軽やかに聞こえてくる、こんな夜。ギリシャ教父のお話しもとってもうまくでき、関根先生とも八時間もともにおり、エクレシアにつらなる喜び、一人ではないという喜び、公的に神の民に属しているという喜び、私の一挙手一投足がエクレシアの故に神の国の前進の戦いに参与しているという喜び。私の生が無意味ではないという喜び。
この鉛筆書きに触れ、記憶の小箱が開けられたかのように、そのころの思い出が甦ってきた。その冬のある夜を境にして、その後日記には毎日のように「平安」「平安」という字が通奏低音のように書きつけられ、「ああうれしわが身も主のものとなりけり」(賛美歌529番)が自づと口をつく日々となった。その夜は私の新生の時となった。その当時の静かな喜びの感覚がそのまま甦ってきた。1983年のある晴れわたった秋の日、関根正雄先生から一枚の葉書を頂いた。森有正から教わったというアウグスティヌスの言葉が引用されていた。「誤った広い道を大手を振ってのし歩くより、正しい小道を [当時の言葉で] びっこをひきずりながらトボトボ歩くほうがはるかにまさる」。関根先生の千代田無教会集会にコンスタントに出席するようになって8年、28歳の秋私は将来の何の見通しもなく、哲学の研究を大学院で続けながら、己の罪との苦闘を強いられていた。こびりつく悪さの感覚、人生をまっとうできないという不安、愚かさに対する失望、最後のところ何も確かなものはないというニヒリズム。私は当時このような自分なりの現実を背負って、人生に前と後ろがあることも知らずに、あてどなくトボトボと足をひきずりながら歩いていた。
年があらたまり1984年の2月になったばかりのある寒い深夜、私は平伏して、生まれて初めて心の底から、追い詰められ他に逃れ場のない苦しみのなかで、呻きつつもハッキリとした声で「信じます」と応答した。その時、胸の奥の心の底が抜け、聖霊としか言いようのない何か確かな平安がその穴のあいた心の底から全体にじょじょに広がっていくのを経験した。パウロの「すべての人の思いにすぐる神の平安」が出来事になった(「ピリピ」4:7)。その時から、『聖書』が自分の書になった。パウロの書簡や詩篇、イザヤ書が自分で書いたように理解できるように思え、いたく驚いた。霊の言葉は霊によってのみ理解される。『聖書』がそれによって書かれている同じ霊に触れたことがほどなく理解された。そこを掘ればいつも恵みが泉のようにわきあがる場所を見い出したと言える。これは恵まれた体験であり、それまでの混沌とした生から抜け出し、新しい生のはじまりであった。そしてその静かな喜びは「古典への招待―聖書の場合―」という連載作品を生み出した。今でもあの作品の一行たりとも喜びなしに書かなかったことを覚えている。先生は一年後、留学のご挨拶に伺うと、「あれは神学的回心だったと思う」と感想を述べてくださったのは、「古典への招待」をお読み頂いたことと無関係ではないと思う。しかし、何故にか「古典への招待」においてはその夜のことを書くことはできなかった。アウグスティヌスは回心の経験が探究の出発点となり、自ら体験したことのロゴスを自己の探究という仕方で紡ぐことになったが、私にとってもこの世界に確かなものがあるというだけで喜びであるそのような体験であったが、自分において出来事になったことが何であるかをロゴスとして捕らえるには相応の時を必要としていたのであろう。ルターやバルトも汲めども汲み尽くしえない恩恵の泉を生涯かけてロゴスに代え、その上に生を築いていったのであろう。ルターは「聖書のすべての箇所は無限の理解に対して開かれている」と言う(WA.4.318,40)。
今、あれから14年半が過ぎ、あの日の出来事をふりかえると、あれはエクレシアのなかにおいて起こった出来事であったことが理解される。集会に連なり日曜ごとに関根先生の聖書講義を拝聴した。先生のお話しは若い定まりなき心には、時に新鮮な感動をもって、時に激しい神の怒りの言葉として迫り、日常の生において最大の関心と規範とならざるをえない仕方で集会が私の心を占めていた。あの日々なしに私にあの恵みが与えられたかどうかは、疑わしく思っている。少なくとも、自己と他者をごまかし、神にも偽りであり、あわれみを知らず定かならざる生をしばらく続けていたであろうことは、ほぼ確実に言えることである。今となって、集会に通った十年がどれほどの恵みであったか、その後の生において大きな財産となっていたかが、はっきり認識される。
先生の著作集第一巻に『聖書の信仰』と題される、月刊誌『預言と福音』の1950年5月から1979年6月までの巻頭言を集めたものがある。これを私は繰り返し拝読するが、この夏一つの発見をしたように思える。一文一文がほとんど人間が語りうるギリギリのところから凝縮された形で述べられ、一言一句おろそかに詠むことのできない文章の集まりであるが、先生の言葉のほとんどすべてがある特別な場所から紡ぎだされているように思われた。それはキリストの十字架の低さと言ってもよいが、より的確には御霊の呻きにあわせられて言葉が生まれてくるように思われた。そこから生きることと苦しむことの重ねられることの多い先生の文章を拝読するとき、よく理解できるように思われた。それに思い当たった後に著しい言葉に出会った。「真剣さ」という巻頭言(1968.10)の最後に「御霊の呻きの執り成しこそわたくしにはすべてなのである」と述べられていた。常に明晰で曖昧さのない文章の集まりのなかではあるが、これほど断定的にご自分の「中心的な信仰の支え」(『著作集』20巻422頁)に関して述べておられる箇所を他に見い出すことはできない。先生におかれては「御霊の呻きの執り成し」が真実にすべてであったのだと思われる。それはつとに「矛盾」(1952.8)や「御霊の呻き」(1954.3)に明確に見られる。
ルターには「神の義」が彼の信仰把握の中心点であった。ルターは『ローマ書』1章17節について「わたしは昼も夜も思索していたが、ついにわたしはそこで神の義を、義人が神の賜物によって生きるところの、すなわち、信仰によって生きるところの義として理解し始めた。・・ここでわたしはまさに生まれ変わったように感じた。そして開かれた門を通ってまさに天国に入ったように感じた」と述べている(WA.54.186.3)。そのように、関根先生には「御霊の呻き」が中心点であるように思える。先生は三巻にわたる『ローマ人への手紙講解』のあとがきを「朝な夕うめきに答えみ霊なるみ神この身に満ち給うなり」という歌で結んでおられる(『著作集』第20巻430頁)。私の恵みの体験は、実は日曜ごとに先生が御霊の呻きにあわせられて聖書の講解をされているなかで、起こったことだったことが伺える。
確かに私はあの時、自分に絶望し破滅以外にない自分なりのどん底に落ち込んでいた。日曜ごとに、イエス・キリストが神に見捨てられ、激しい神の怒りを受けて十字架上で死んだことと、十字架上のイエスにおける神のなさ、低さにわれわれがあわせられる時に信仰が神のまったき恩恵として与えられることが語られていた。神の愛と神の義が集中している究極の場所が十字架である。「エリ、エリ」のイエスの叫びは御霊の呻きであり、その時御霊により父なる神に執り成しが行われていたのであった。私も、他にすがる場所のない一番低いこところに落ちた時、私の呻きは御霊の執り成しの言葉だったのだと思う。なによりも義なるイエスの十字架の低さにあわせることが御霊の呻きによる執り成しであると言えよう。なにであれ苦しいことがあり呻く時、そのただなかに御霊の呻きの執り成しを聞くことが、信じることであるとも言えよう。苦難や悲惨や罪のあるところ、そこにキリストは御霊として共に呻いてい給う。そして十字架のイエスは復活の主であり給う。被造物全体が呻き、そして御霊の実を持つわれわれも呻き、そしてそれらの呻きのただなかで「御霊みずから、言葉にあらわせない切なる呻きをもって、わたしたちのために執り成して」おられる(「ローマ書」8:26)。これは福音である。喜びの音信である。
最近、集会の量義治先生が1972年に御霊の呻きの執り成しにおいて回心された報告を拝見し、時を貫きエクレシア全体において御霊が分かち与えられていることに深い感謝を持つ(量義治『無信仰の信仰』59頁)。そのことを或るひとに話すと、「関根パラダイムのなかで回心が起こるのだね。祝福されたことだ」と応答したが、まさに祝福されたことだと思う。被造物全体が贖われることを求めて呻いている、この人類史上最も難しい時代に、その呻きのただなかで御霊がともに執り成していてくださるとは、なんと感謝すべきことであろう。1998年9月24日 千葉惠」
[註、森有正の典拠についてはアウグスティヌス『省察と箴言』ハルナック編、服部栄次郎訳、岩波文庫272頁参照。「古典への招待 I-IV」(1984-1985)は北大図書館電子レポジトリHUSCAPにより閲覧いただけます。URIは以下です。http://hdl.handle.net/2115/16875 ]