狂信でも迷信でもない、正しい信―「人々自身の背きを彼ら自身において考慮することなしに」

日曜聖書講義 2022年7月24日

狂信でも迷信でもない、正しい信―「人々自身の背きを彼ら自身において考慮することなしに」

聖書

 5:14キリストの愛われらを抱(いだ)き給う、というのもこうわれらは判断しているからである、ひとりのひとがすべての者の代わりに死んだ、かくしてすべての者たちが死んだのだと。15彼はすべての者たちの代りに死んだ、それは生きている者たちがもはや自らにおいて生きることなく、むしろ自分たちの代りに死にそして甦った方において生きるためである。16かくして、われらは今やもはや誰をも肉に即して知るまい。たとえわれらが肉に即してキリストを知っていたとしても、今やもはやそう知ることはないであろう。17かくして、もし誰かがキリストのうちにあるなら、それは新しい被造物である。古いものごとは過ぎ去った、見よ、あらゆるものごとは新しくなった(kaina ta panta)。

 18あらゆるものごとはキリストを介してわれらをご自身と和解させ給うたところの、そしてわれらに和解の勤めを与え給うたところの神に基づく、19というのも神は世界[人類]をご自身と和解させつつ、その仕方は[世界の]人々自身の背きを彼ら自身において考慮することなしに、また和解の言葉をわれらに委ね給うたことによってであるが、キリストのうちにいましたからである。20かくして、われらはキリストの代わりに神がわれらを介して招いておられることの使者となっている、そしてわれらは勧める、汝らは神と和解せよ。21神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為し給うた(huper hēmōn hamartian epoiēsen)、それはわれらが彼において神の義となるためである」(2Cor.5:14-21)。

 

1問題の所在

 新興宗教の非道を背景にした国家的事件が起き、今、あらためて宗教における信・信仰の正しさが問われている。カントは理性を逸脱した信仰を「狂信」と呼び、感情の逸脱した信を「迷信」と呼んだ。一般的には、正しい信仰は理性と共存できるものであり、パトス(身体的受動即ち感情や欲求)に対し良き態勢を生み出すものであることが求められる。例えば、恐れると顔が青ざめ、怒ると赤くなるように、身体的なパトスである恐怖に対しては勇気が、快楽に対しては節制が心魂に実力である態勢として蓄積されているとき、パトスに対する良き態勢そして有徳な行為が秩序のうちに生み出される。人格の安定と未来の趨勢をも含め世界と人間がいかなるものであるかそしていかに行為を選択すべきかに熟知しているひとは決して狂信や迷信に陥ることはないであろう。認知的な態勢そして人格的な態勢が整う方向に向かわずに、「不条理なるがゆえに我信ず」(テルトリアヌス)即ち「3+5=10故に信じる」等の偽りや、恐怖に陥れ信に誘う理不尽な卑劣さは到底許容できない。しかし、信・信仰は心魂の根源的態勢として幼子のようであることこそ求められているのではないのか。疑わず純一で二心なき心にこそ信の力、本来性が宿るのではないのか。信の根源性は人間性の未熟と成熟といかに関連するのか。包括的な人間理解のもとで正しい信を位置づけることが求められる。正しい信はどこに保証されるのか。

2循環ではない信を基礎づける真理論

 聖書には萬物の創造者にして全知、全能の神による人間との関わりが記録されている。神の人間認識、意志や判断が歴史のなかで知らしめられており、とりわけ御子の受肉と死と復活にいたる信の従順の生涯において最も明白に知らされている。そこで報告されている神の意志に即すことが正しい信仰の指標となる。ひとはそこに循環を嗅ぎつけるでもあろう。その宇宙の統帥者、神の啓示に基づき信が秩序づけられるという主張は、そもそも神の自己啓示を前提にしており、人間の願望の反映であって、願望に基づく信仰により信仰の正しさを主張する無限ループの自閉ないし絶望が待っている、と。しかし、自らの尻尾を食べ回転し続ける蛇の自己食尽、信仰の自家中毒は神の認識と行為の議論が明白に無矛盾である限りブロックできる。

 一般に躓きとなる発話「聖霊は働いている」は真理の対応説によれば実際今・ここで働いている聖霊の実在性を捉えた場合に真となるが、その言明と世界の対応を一旦括弧に入れ、それより弱い真理論である「整合説」によれば、言語網それ自身が無矛盾に構築されている限りその言明は真である。例えば、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学はそれぞれ異なるシステムでありそれぞれの真理性を整合性故に主張できる。聖書で展開される有神論はシステムとして無矛盾である限り、それは真理であると主張することができる。そこでは聖霊は風のように時空をおもうがままに通過するが、他の様々な事象例えば科学により解明される因果的な事象と棲み分けされそれぞれにおいて整合的であることが求められる。もちろん、無神論も聖書がカヴァーする領域に対応する仕方でその否定において広範に無矛盾なシステムを構築する限り、それは真であると主張されよう。有神論も無神論も理論としていずれが優れているかはより広範な領域をカヴァーできるか、さらには何よりもわれらがそこに住む現実世界により検証されうるかにより吟味されよう。双方の整合的なシステムのいずれが現実世界に対応しているかは常に吟味の対象となる。その意味で対応説は整合説において一時的に括弧にいれられたものであることが分かる。

 また実用説と呼ばれるさらに緩い真理論がある。これは或る信念のもとに生きるとき、人生がうまくいっている限りにおいてその信念は真であるという主張である。「神は存在する」という信念のもとに生きるとき、或いは「人生はできるだけ多くの快楽を味わうことだ」という信念のもとで生きるとき、社会や家庭における生活に支障なく、さらに充実したものである限りにおいて、その信念は正しいという実際的(pragmatic)な主張である。これらの真理論は相互に矛盾するものではなく、統一理論が求められる。

3「ローマ書」の無矛盾性

 パウロの体系的な神学論文「ローマ書」は明確な方法論的自覚「ロゴス(理論)と(聖霊等の今・ここの)エルゴン(働き)により」展開されており、聖霊は復活のキリストにある生命として経験するしかないということではなく、その明確な理論が展開されている(15:18)。なお、福音書においてもロゴスとエルゴンの相補性は明確に確認できる。復活の主がエマオへの道を歩く弟子たちに同行したさいのことである。彼らは傍らを歩く復活の主に「神とすべての民の前にエルゴンとロゴスにおいて力ある預言者となったナザレのイエスに関わるものごと」について語った(Luk. 24:19)。理論と実践、ロゴスとエルゴンの相補性は何かを理性的に説得しようとする限り、従わなければならない基本的な道である。「理論は実践により信用される」(アリストテレス)。

 「ローマ書」においては言語層が五つに分節されうるよう無矛盾の議論が展開されており、神の前と人の前そして双方を媒介する聖霊の働き等それぞれ整合的な言語網が張られている。彼は「知恵ある者にも責任がある」(1:14)とし知識人を説得すべく所謂信仰義認論(1:17,3:21-4:25)と予定論(9:6-11:32)をいかなる聖霊への言及もなしに、神の人間認識、行為として展開する。彼は神の知恵に対する畏れの中で「私は一層大胆に書いた」と報告している(15:15)。永遠の現在にいます神が御子の受肉により時間的な存在者となることを引き受けることにより、神の「予め」の計画の位置づけは一つの「神の知恵」の報告である。「ああ、神の富そして知恵と知識の深さよ。ご自身の裁きはいかに究めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。34すなわち、「誰か主の叡知を知っていたのか、それとも誰かご自身の顧問官になったのか、35それとも誰かご自身に予め与えてそしてご自身から報いを受けるのであろうか」。36なぜなら、あらゆるものはご自身からそしてご自身を介してそしてご自身に至るからである。栄光は永遠に[神]ご自身にあれ、アーメン」(11:33-36)。

 転じて、「ローマ書」第5-8章において彼は「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる可能存在としての人間の「肉の弱さ」への譲歩により「人間的なことを語る」が、その「われらの弱さ」の内に宿る聖霊が今・ここにおいて神の意志を「呻きをもって執り成している」と神の前と人の前の媒介を報告している(6:19,22,8:26)。聖霊について彼が「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(5:5)と現在完了形で語る時、聖霊の注ぎが今・ここで起きていなければ偽となる文を提示している。パウロは聖霊の今・ここの働きの現場における議論をも展開しており、それを彼は「霊と[神の]力能の論証」と呼んでいる(1Cor.2:4)。他方、このエルゴン言語とは別に、この文章は「もし神の愛がわれらの心に注がれるとすれば、それは心に宿る聖霊を介してである」と条件文により、その役割を一般的に理解することができる。

 あの啓示の出来事と終末までの中間時においては、聖霊は風のように自由に時空をゆききし、御心に適う者に神の意志を取次ぐ。神の意志はあの過去のゴルゴタの丘において最も明晰に知らされていることが聖霊の働きの基礎となる。パウロは言う、「われらの古きひとキリストと共に磔られた」(6:6)と、またその平行箇所において「キリストにある者たちは諸々の情と欲とともに肉を磔た」(Gal.5:24)。これらの過去形の言明において、ゴルゴタの出来事をわれらの現在のことがらであるという神の認識と意志の聖霊による執成しが表現されている。神は、2千年前のキリストの死において、現在生きているわれらのこれまでの歩みを古き自己として死んでしまったと理解してい給うことを、聖霊は心のなかで知らしめ執成している。

 神はキリストの死をわれらの罪の身代わりの死と理解してい給う。パウロはその啓示に基づき、「コリント後書」においてはこう「判断」している。

 「キリストの愛われらを抱(いだ)き給う、というのもこうわれらは判断しているからである、ひとりのひとがすべての者の代わりに死んだ、かくしてすべての者たちが死んだのだと。15彼はすべての者たちの代りに死んだ、それは生きている者たちがもはや自らにおいて生きることなく、むしろ自分たちの代りに死にそして甦った方において生きるためである」。神の意志としてキリストの身代わりの死がすべての者たちの古き自己の死を包摂している。他方、それは今・ここで生きているその都度の現代人たちが、復活の主の生命を生きるためであると。神はあの出来事において十字架の「キリストのうちにいました」が、啓示の出来事は一つの歴史の方向性を定める(1Cor.5:18,Rom.3:25)。復活の主と共に今を生きることである。

 神が十字架において知らしめている一つのことは、御子の信の従順の生涯ゆえに御子とご自身の信義の分離のなさである。彼はその理由を展開する。「あらゆる者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24キリスト・イエスにおける贖いを介してご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たち」(Rom.3:23-24)であると神が理解していことがまずその分離なき啓示の基礎にある理解である。すべての者は業のモーセ律法のもとに一度は生きており、罪を犯したという認識を前提に、すべての者が無償で恩恵により義とされる者であるという認識を提示している。その認識と中間時におけるわれらの現実には緊張があるであろう。中間時においてはパウロによれば「神がわれらを介して招いておられる」(Gal.2:20)。それ故に、「神はイエスの信に基づく者を義としている」(Rom.3:26)と三人称で報告されている人間たちの外延・集まりと人類「すべての者」がイエスの信に基づく者と看做されるに至るかは終わりの日に啓示される。「なぜなら、今という好機の苦難は、われらに啓示されるべく来たりつつある栄光に比して、取るに足らないとわれは看做すからである。なぜなら、被造物の切なる憧憬は神の子たちの啓示を待ち望んでいるからである」(Rom.8;18-19)。この中間時においては十字架で提供された無償の恩恵を信仰により受け取るか否かが問われている。終わりの日に万人が救済されたか否かがわかる。明らかなことは神の意志が十字架において提示されていることである。

 パウロは言う、「16かくして、われらは今やもはや誰をも肉に即して知るまい。たとえわれらが肉に即してキリストを知っていたとしても、今やもはやそう知ることはないであろう。17かくして、もし誰かがキリストのうちにあるなら、それは新しい被造物である。古いものごとは過ぎ去った、見よ、あらゆるものごとは新しくなった(kaina ta panta)。

 18あらゆるものごとはキリストを介してわれらをご自身と和解させ給うたところの、そしてわれらに和解の勤めを与え給うたところの神に基づく、19というのも神は世界[人類]をご自身と和解させつつ、その仕方は[世界の]人々自身の背きを彼ら自身において考慮することなしに、また和解の言葉をわれらに委ね給うたことによってであるが、キリストのうちにいましたからである。20かくして、われらはキリストの代わりに神がわれらを介して招いておられることの使者となっている、そしてわれらは勧める、汝らは神と和解せよ。21神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為し給うた、それはわれらが彼において神の義となるためである」(2Cor.5:16-21)。

 われらの自覚としては、その都度情と欲とともに古き自己を十字架に磔る。そこではもはや神は各人の背きを「彼ら自身において考慮することなしに」、キリストにおいてわれらを考慮することによって、「神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為した」(2Cor.5:18-21)。神は身代わりの罪を罪なきイエスに罪なきままに担わせた。彼の身代わりの出来事をわれらのこととして受け止めさせること、それが聖霊の働きである。

 

結論

 過去と現在、時空を自由に行き来する聖霊の働きは十字架の死をわれらの古き人の死と同化させている。神の意志を正しく知ること、それが正しい信仰に導く。聖霊の働き一般を理論的に納得したうえで、その都度聖霊の媒介がそこにあり魂が刷新されることを求める。ただし、正しい信は自らのためにイエスがキリストであることの徴・証明を求めるユダヤ人にその範型がある自らの義を主張する者たちと異なり、あの啓示の出来事に基づき、キリストと共に歩むことにより神の栄光を顕すべく証していく。そのさい正しい信は人間に与えられた認知的、人格的力能を十全に発揮させる。神と世界をよく知り、愛することにより証される。

 われらは中間時に生きており知らされていることと知らされていないことの間にある。神の意志は全人類の救済であることが十字架において明確に知らされた。他方、われらが復活の主と共に生きるかはわれらの課題である。自らを自らにおいて考慮せずに、十字架の主において考慮するよう信じることが促されている。パウロは心の根底に二心なき幼子の信仰が宿るとき、罪に定める業の律法から解放されると主張する。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Gal.2:19-20,Rom.8:2)。

 魂の根源に二心なき純一な幼子の信が位置づけられるとき、信義が生まれ「義の果実」(Phil.1:11)として愛が生まれる。これら魂の肯定的で創造的な諸活動を生み出すことを証し賢者と聖者への道を歩むとき、誰も狂信や迷信の誹りを投げかけることはできない。

 イエスは言いたまう、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものだ」(Mat.13:52)。人間に最も重要なことを学んだ者は生の全体のなかで個々のものをそれは古いものであれ新しいものであれ自由に適切に位置づけそしてそれに対応して行為を選択することができる一家の主人に似ている。この発言を単にパトスに対して良い態勢にある人格的な有徳性に対してだけではなく、その認知的な卓越性に対する賞賛である。

Previous
Previous

心の清い者は祝福されている―業の律法と信の律法―

Next
Next

中間時における生―聖霊のロゴスとエルゴン―