中間時における生―聖霊のロゴスとエルゴン―

中間時における生―聖霊のロゴスとエルゴン― 日曜聖書講義7月17日

聖書 ガラテア書5章

 「キリストはわれらを自由へと解放した。それゆえ、汝らはかたく立てそして二度と奴隷の軛に繋がれるな。見よ、わたしパウロが汝らに言う、もし汝らが割礼を受けるなら、キリストは汝らになんら益をもたらさない。だが、わたしはすべての割礼者に、お返しに、一切の律法を為す義務があると証言する。誰であれ、汝ら、律法のうちに義とされようとする者たちはキリストから切り離されている、恩恵から落ちこぼれている。というのも、われらは信に基づく義の希望を霊によって受け取っているからである。というのも、キリスト・イエスにおいては割礼も無割礼も何ら力なく、かえって愛を介して[今・ここで]働いている信が力あるからである。

汝らは立派に走り続けてきた。誰が汝らを真理により説得されることのないよう妨げたのか。この説得は汝らを呼び出している方に基づいていない。わずかのパン種がパン生地全体を膨らませる。わたしは主にあって汝らについて確信している、汝らは別の何ものにも思考を向けないと。汝らを混乱させている者は、その者が誰であれ、審判を受けるであろう。だが、きょうだいち、もしわたしがなお割礼を宣べ伝えているのなら、なぜなおもわたしは迫害されているのか。その場合には、十字架の躓きは取り去られてしまっている。この徴によってもまた汝らを誘惑している者たちは切り捨てられるであろう。

 きょうだいたち、なぜなら、汝らは自由へと召されたからである。ただ、汝らは自由を肉に対する機会に隷属させるな、むしろ愛を介して互いに隷属せよ。なぜなら、すべての律法は一つの言葉において、「汝の隣人を汝自身のごとくに愛せよ」において満たされてしまっているからである。もし汝ら互いに噛みあい貪りあうなら、汝ら互いに消耗しあう、そうならないよう気を付けよ。だがわたしは言う、霊によって歩めそして肉の欲を満たすな。というのも、肉は霊に抗して欲求し、霊は肉に抗して欲求するからである、というのもこれらは互いに対置させられているからである、その結果もし汝らが望むならそうするであろうところのものどもを汝らが為すことがないであろう。肉の働きは明らかである、それらは姦淫、不潔、放埓、偶像崇拝、魔術、敵意、戦い、不和、激情、抗争、意見の相違、扇動、異端、嫉妬、泥酔、酒盛り、そしてこれらに類似のことどもであり、それらをわたしは汝らに前もって言っておく、それはまさにわたしがかつて、このような類のものどもを為す者たちは神の国を嗣ぐことはないであろうと語ったことである。他方、霊の果実は愛、喜び、平和、寛容、優しさ、親切、信、柔和、自制である。これらに反する律法はない。だが、キリストにある者たちは諸々の情と欲望と共に十字架に磔てしまった。もしわれらが霊によって生きようとするなら、霊に適合し続けもしよう。互いに挑みあい、互いに嫉みあって、われらは空しきものに栄光を帰すことのないものとなろう」(Gal.5:1-26)。

1ロゴス(理論)とエルゴン(働き)の相補性―過去形がもたらす福音―

 前回パウロの「ローマ書」5-8章の「霊と[神の]力能の論証」(1Cor.2:4)において、キリストの出来事が「われら」の出来事であると神が看做していることを執成すのが聖霊の働きであることを学んだ。パウロはこれらの章においてわれらの「肉の弱さ」への考慮と譲歩故に、人間中心的に「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる中立的な存在者を前提にして、聖霊がその弱さにおいて憐み「われらの心」において神の愛、神の意志を今・ここで「執成している」ことを学んだ。聖霊については経験するしかないというわけではなく、この聖霊の働きを今・ここで経験できることは幸いなことではあるが、明確に理論的に理解できるようパウロは論じている。理論(ロゴス)と実践・働き(エルゴン)は相互に補い合うものであることが望ましい。

 パウロは例えば「ローマ書」3:21-4:25で明確に信に基づく義を、愛の果実とは別に、理論的に普遍的に妥当するものとして展開している。他方、5章から8章では聖霊による執り成しの行為は今・ここの働きのなかにあるという自覚のもとでの「われら」の証言としてパウロは展開している。信義と愛の関係はエルゴン上つまり聖霊の今・ここの力ある働きとして証されるそのような、今・ここの働きのことがらである。「愛を介して働いている信が力ある」(Gal.5:6)。愛を介して働いている信が力強い。これは一般的、理論的な主張でもあり、また実際にひとが今・ここで経験しているそのような個々の心的事象に適合する主張でもある。

 聖霊の執り成しのもとでの発話は、その発話の時点で執り成しがないときには、偽りとなるそのような言明である。パウロが「神の愛はわれらに賜わった聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」と現在完了形「注がれてしまっている」と語るとき、もしこの発話の時点で、神の愛が注がれていなかったなら、この主張は偽りとなる(Rom.5:5)。パウロは信義と愛を理論上根拠と結果という因果性のもとにあることを拒否し、風のように吹く聖霊の自由を受け止めたうえで、その聖霊の自由に基づく今・ここの証として愛を生み出す力ある信仰について証言している。ただし、そのさいにおいても個々の働きを一般化即ちエルゴン言語を普遍化することはでき、「もし神の愛がわれらの心に注がれるとするなら、それはわれらに賜る聖霊を介してである」という仕方で条件文で表現される。条件文は実際の働きにより検証される。これを「信義と愛の因果性の理論(ロゴス)上の拒否と働き(エルゴン)上の証による相補性」と名付ける。

 聖霊が媒介する過去の一事件と現代人の死と新生に生きるわれらの古き人の死は過去形で表現される。「キリストに属する者たちは肉を諸々の情と欲とともに十字架に磔てしまった」(Gal.5:24)。「われら知るわれらの古きひとはキリストと共に磔られてしまった」(Rom.6:6)。聖霊の働きはキリスト・イエスを介して啓示された神の前即ち神の認識、行為をとひとの前即ち今・ここで二千年後に生きているわれら個々人の「古き人間」の死であることを伝え、同化させる力ある働きである。古くなることのない過去の一事件と今・生きている現代人を結び付けている。パウロは言う、「キリストに属する者たちは肉を諸々の情と欲とともに十字架に磔てしまった」(Gal.5:24)。また彼は言う、「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えることがないためである」。キリストの身代わりの死の目的は「罪の身体が滅び」、「甦った方において生きるため」である。ここでは「われら」に関わる明確な聖霊論的な議論(第5-8章)のなかであるため聖霊の証のもとでの今・ここにおける知識主張が遂行されている。「ガラテア書」の古き肉の磔においても、心魂の刷新は欲望と情に捉われている古き人間「肉」の死を介して遂行される。古き肉は死んでしまったが、生物として生存している限りにおいて、新しい肉は中立的なものとして生きている。そこでは「キリスト・イエスにおける生命の霊」が新たな生を導く。

 パウロは言う、「かくして、今や、キリスト・イエスにある者たちにはいかなる罪の定めもない。二なぜなら、キリスト・イエスにある生命の霊の律法がわれらを罪と死の律法から解放したからである。三というのも、ひとが肉を介してそこにおいて弱くなっていたところの律法の[遵守し]能わぬことを、神はご自身の子を罪の肉の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その肉において罪を審判したからである、四それは律法の義の要求が肉に即して歩まず、霊に即して歩んでいるわれらにおいて満たされるためである。五なぜなら、肉に即してある者たちは肉のことがらを思い、他方、霊に即してある者たちは霊のことがらを思うからである。六というのも、肉の思慮内容は死であり、霊の思慮内容は生命と平安だからである。七それ故に、肉の思慮内容は神に敵する、なぜなら神の律法に従わないからである、というのも従いえないからである。八しかし、肉にある者たちは神を喜ばすことができない。九しかし、汝らは肉においてあるのではなく、霊においてある、いやしくも神の霊が汝らに宿るなら。しかし、もし誰かキリストの霊を持たぬなら、その者は彼のものではない。一〇しかし、キリストが汝らのうちにあるなら、かたや身体は罪の故に死であるが、他方霊は義の故に生である。一一しかし、イエスを死者たちから甦らせた方の霊が汝らのうちに宿るなら、キリストを死者たちから甦らせた方は汝らの死すべき身体にも汝らのうちに宿るご自身の霊を介して生を賜わるであろう」(Rom.8:1-10)。

 かくして、われらの人生はその都度古き自己を情と欲とともに十字架に磔て死んでしまい、復活の主の霊を受けて新たに生きなおす、その繰り返しであると言うことができる。現代人はそのつど聖霊の媒介を信じて、二千年前の十字架に今・ここでおのれを支配しようとする諸々の情と欲とともに古き自己を磔る。とはいえ、聖霊は経験するしかないということにはならず、ひとの側としては、聖霊の働きはあの十字架と復活の出来事は自らのものであったそしてあの死と生は自らの情と欲を含んだ古き人間の死でありそして復活の主の生に与ることだと自らに言い聞かすこと、それが聖霊を受け取る準備となる。想念を二千年前の出来事に集中させる。その繰り返しのなかで次第にその聖霊は身体をも清め、愛に収斂される業の律法をその生命のなかで満たしていくことであろう。

2業の律法から信の律法に導く悔い改め

 業の律法の働きはわれらに罪それ自身の醜悪さを知らしめ、罪に勝利したキリストに導くことであった。一般的に、もしわれらが「惨めだ、われ、人間」(Rom.7:25)と叫ぶことがあるとするなら、それは業の律法が内なる人間を介して何等か働いており、悔い改めを促していることを示している。苦悩するとき、われらは喜ぼう。「汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか」 (Rom.2:4)。悔い改めは旧約においては業の律法の内側のことであった。洗礼者ヨハネは言う。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-12)。試練を表現する「火」と復活の主の現臨を表現する「聖霊」により洗礼を授けられるとき、ひとは信の律法のもとにイエスをキリストであると信じるに至る。

 キリストにおいて業の律法からそれ故に罪から解放された。既に罪とその値である死に対する勝利はわれらの外に、キリストのうちに立てられたのである。律法は悔い改めに導き新約においては律法から解放し、キリスト・イエスの生命に与らせる。われらは罪の奴隷であるとき、死を成し遂げつつある。罪の刺激のもとにあるときは、悪行は義務にさえ見え、悪行のただなかでは一種の興奮のなかで死に向かっていることを認識できない。しかし、悪の単調さを知るべきである。そこには何ら新しいもの、生命を輝かすものを見出すことはないのである。単におのれの古い欲望にこだわり、そこにつけいる罪によって死に誘われているだけである。

 ひとはただ業の律法を投げ捨てることはできない。たとえ律法を捨てても、良心が律法として働く。異邦人ならびに「アダムからモーセに至るまで」のユダヤ人をも含め、ひとの「良心」は「律法を持たずにも自らに対し律法」である(Rom.5:14,2:14)。「一四律法を持たない異邦人たちが自然に律法のことがらを行う時、その者たちは律法を持たずにも自らに対し律法なのである。一五 一六彼らは誰であれ自らの心のなかに律法の業が書かれてあることを証明するが、それは自らの良心が[律法と]共同の証人となり、そして算段に基づき自らのあいだで互いに告発し或いはまた弁明することによってであるが、それは、或る日、神がキリスト・イエスを介したわが福音に即してひとびとの隠れたことがらを審判するときである」(Rom.2:14-16)。かくして、「良心(sun-eidesis)・共同の知識(con-science)」が社会通念、共同体との共知であれ、放埓者同士のあいだでの共知であれ、ひとは業の律法から自らを解放することはできない。空き家になった心に常に何かがはいりこみ、自らを隷属させ支配する、それがデヴィルであれ、自らの救いの条件であれ。

 パウロは心の根底に二心なき幼子の信仰が宿るとき、業の律法から解放されると主張する。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Gal.2:19-20,Rom.8:2)。ここでも過去形が救いの確かさを表現している。われらの外の出来事がわれらの出来事なのである、聖霊が執り成している限りにおいて。

 この生命に触れることは聖霊の今・ここの働き・エルゴンである。これは経験するしかないというわけではなく、一般的に神とひとの媒介としてあの十字架と復活の過去の出来事を自らの出来事とさせるそのようなものであると理論化することができる。神のもう一つの根源的な意志である信の律法により業の律法から解放される。そこでの業の律法から信の律法への移行は悔い改めによるが、生命の霊の律法により導かれる。「神に即した苦悩は後悔なき救いに至る悔い改めを働く」(2.Cor.7:10)。ここに福音のダイナミズムがある。

3中間時

 われらはキリストの出来事から終わりの日にいたるこの中間時において、肉の途上の生を生きている。そのわれらにとって、主の十字架と復活を介した福音の勝利が罪に罰を与えており、そしてそれ故に罪から逃れる道を示されている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。さらに中間時における罪の審判はやがて来る終末における最終的な「イエス・キリストを介した勝利」により「最後の敵である死」を克服し「神の国」に与る希望が生じることに確認できるであろう。罪が滅ぼされるとき、罪からの「給金」である「死」も滅ぼされる(Rom.6:23)。そしてそれは最終的に終わりの日に「瞬時に」生起する。「「死は勝利に飲み込まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにかある、死よ、汝の棘はいずこにかある」。しかし、死の棘は罪であり、罪の力能は[罪の]律法である。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する」(1Cor.15:52,15:54-57)。

 イエスは自らの信・信仰により罪に勝利したために、「イエスの信」は神の信に対応するひとの信として神の義の啓示の媒介に用いられた。神はイエスの信の従順の生涯を嘉し、彼において罪を罰した。「神はご自身の子を肉の罪の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その[イエスの]肉において罪を審判した」(8:4)。罪に対する罰は罪が寄生する文字としての業の律法とは別に信の律法が啓示された故にわれらの外に生起した。

 この中間時にあっては、罪に対する審判の表象は擬人化された罪、サタンを足もとに踏みしだくそのようなものとして描かれる。ひとは今・ここの具体的な状況において「道そして真理そして生命」(John.14:6)でありたまうイエスの御跡に従う限り、つまり信に基づき愛への道行きに従う限り、イエスは共にいたまいサタンを足で踏みつけていたまい、最後の日に神が踏み砕かれる。「平和の神がすみやかに汝らの足下にサタンを砕くであろう」(Rom.16:20)。

 もし業の律法のもとに生きるなら、キリストはサタンから足をはずされ、ただちに罪の誘惑にさらされるであろう。この肉の生においては信のもとに復活の主とともにある限りにおいてだけ、罪から解放されている。終わりの日にいずれの律法のもとに審判を受けるかは個々人には明確には知らされてはいない。幼子の信は肯定的、創造的生を生み出す心魂の根源的態勢であり、善き業としての愛はその「義の果実」(Phil.1:11)であり、心魂の根底にある態勢とその帰結、結果としての働きは類比的ないし平行関係においてあり、いずれかから審判されることであろう。いずれの場合においても「愛を媒介にして[今・ここで]働いている信が力ある」(Gal.5:6)、その信の根源性こそ考慮の基点であることには相違ない。

 「ローマ書」においてパウロは隣人を裁くことに、業の律法のもとに生きていることの一つの証が見られると主張する。「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を裁いているからである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。隣人の欠陥をあれこれ裁くとき、当人も隣人同様「同じことを行っている」つまり業の律法のもとに比較と競争のなかに生きている。パウロはこの認識の表明に続いて、「汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか」(2:4)と悔い改めに導く。われらはそのつど古い人間を、情と欲と共に古い肉をキリストの十字架に磔る。それが信の律法のもとに遂行される。そこでは業の律法から解放された「日々新たな」「内なる人間」が「霊に即して」この「肉において」生きる(2Cor.4:16,Gal.2:20)。

4結論 

 われらは中間時に生きている。終末までひとは自らの罪の罰として生物的罰を与件として引き受けている。しかし、永遠の生命の希望において、罪とその値である死に対して勝利している。「なぜなら、今という好機の苦難は、われらに啓示されるべく来たりつつある栄光に比して、取るに足らないとわれは看做すからである。なぜなら、被造物の切なる憧憬は神の子たちの啓示を待ち望んでいるからである。というのも、被造物は空しきに服したが、それは自発によらず、服従させた方の故にであるが、被造物それ自身が滅びへの隷属から神の子たちの栄光の自由へと解放されるであろうという望みのうえでのことだからである。なぜなら、われらはすべての被造物が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにあることを知っているからである。しかし、ただそれだけではない。われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ、自らのうちで呻いている。なぜならわれらは希望により救われたからである。しかし、見られる希望は希望ではない。というのも、誰が見ているものを望むであろうか。しかし、われらが見ないものを望むならば、忍耐をもって待ち望む」(Rom.8:18-25)。主の到来を待ち望んでいる。そこには新し天と新しい地が打ち立てられることであろう。黙示録の記者ヨハネは言う、「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聴いた。「見よ、神の幕屋がひとのあいだにあって、神がひとと共に住み、ひとは神の民となる。神は自らひとと共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」」(Rev.21:3-5)。われらは中間時に生きている、そこでは二千年前の福音の出来事に常に立ち返り、古き自己を磔、新たにされて、いつの日にか罪と悪に支配されることのない世界を希望のうちに待ち望みつつ歩む。

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