神の民「残りの者」の歴史―魂の渇きは柔和と謙りにより満たされる―

2022年10月30日聖書講義

神の民「残りの者」の歴史―魂の渇きは柔和と謙りにより満たされる―

 

 「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:1-12)。

 

1はじめに

 皆さんにはそれぞれ憧れのヒーローやヒロインがいることでしょう。そのひとを思い出すと、喜びがわき力が湧いてくる。私のヒーローはイエス・キリストです。何か良いことが起きた時、また悪いことが起きた時、喜んでいるときにまたどんなに落ち込んでも、たとえ意識の表層に浮かんでこないことがあったとしても、彼が一番魂の低い所で支えてくださっている、導いてくださっているという思いに戻っていきます。この世のものを追求しながらも、この世のなにものによっても満たされない魂をかかえていることに気づくとき、山上の説教を思い出します。

 「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである」(Mat.5:1-10)。

 その言葉において「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全な者になりなさい」(5:48)と人類にとっての究極の道徳を語り、そしてそれを「天の父」への幼子の信仰のもとに生き抜いてしまったひと、言葉と行いのあいだに何ら乖離のなかった恐らく唯一の人間が歴史のなかに出来事になった。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙りが伝わる。栄光を捨ててのご自身の自己卑下が弱小者への祝福を裏付ける。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂く以外に、ひとは謙遜を学び自らより弱小者への憐みを頂き、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者にはなりえない(Gal.6:1,Mat.5:9)。

 

2価値の逆転

 この彼は人類にとって善きものの認識を最も明確な仕方で逆転させたと言ってよいであろう。或いはそれまでの歴史において自らの良心に照らしてうすうす気づいていたが、隠蔽していたひととしての本来的な在り方がナザレのイエスにおいて言葉と行いにおいて明白にされたと言うことができよう。この神の歴史につらなる者たちは旧約以来「残りの者」と呼ばれる。これは或る出来事の帰結であり神の肯定の対象、否定の対象双方に用いられる表現であるが、肯定的な歴史を刻む者たちは常に残りの者であると言える。イザヤは言う、「汝の民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが返ってくる。滅びは定められ、正義がみなぎる」(Is.10:22)。「その日には、万軍の主が民の残りの者にとって麗しい冠、輝く花輪となる」(Is.28:5)。「主はこう言われる。「ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え・・そして言え。「主よ、汝の民をお救いください、イスラエルの残りの者を」」」(Jer.31:7)。

 新約聖書において、イエスは終わりの日に耐え忍んで神を求める者たちに正しい審判を約束しつつ、選ばれた残りの者たちの状況について楽観的ではない。「それから主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神はすみやかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」(Luk.18:8)。それだけ狭く真っすぐな道を正しい者たちは歩むことになる。残りの者たちはもはや徴や証拠を求める者ではなく、証を立てる者となる。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として(eis marturion)全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」(Mat.24:12-14)。

 パウロはイザヤを引用して言う、「「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも、すみやかに、言われたことを行われる」。それはイザヤがあらかじめこう告げていたとおりである。「万軍の主がわれらに子孫を残されなかったなら、われらはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう」」(Rom.9:27-29)。

 パウロによれば、「福音」とは「信じる[と神が看做す]すべての者に救いをもたらす神の力能」であった(Rom.1:16)。福音は「聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかからの甦りに基づき神の子と判別された」その方についてのものである(1:4)。神の力能はひとを救いだす御子の甦りに至るまでの力溢れる働きにおいて確認される。パウロはひとを救い出すその福音に神の力能を見出し、これまでの一切の価値が逆転したと報告している。キリストの信に基づき罪赦されたことから、この人生全体が、新たに、復活の主の生命に与(あずか)るためのものという位置づけを得る。彼は「ピリピ書」で言う。

 「[3:7]わたしは何であれわたしに利得であったものごとをキリストの故に損失と看做している。しかし少なくともわたしは彼の故に一切を失ったが、[8]わが主キリスト・イエスの認識の優越していることの故にわたしはあらゆることを塵芥(ちりあくた)と看做す。それ[損得認識の逆転]はキリストを手に入れ[9]そしてご自身のうちにわたしが見いだされるためである、だが、それ[獲得・内在]は律法に基づくわたしの義ではなく、キリストの信を介した、即ちその[彼の]信のうえで神からの義を持つことによってであり(having righteousness from God through the faithfulness belonging to Christ i.e. on the ground of Christ`s faithfulness)、 [10]その結果、 [キリスト]ご自身をそしてご自身の甦らしの[神の]力能を、そしてご自身の死と同じ形姿になることによって、ご自身の諸々の受難への共同の与りを知ることに至る、[11]もしいかにかしてわたしが死者たちからの復活に到達するのなら。[12]わたしが既に得た或いは既に完全になったということではなく、わたしもまたキリストによって掴まえられたところのもののうえで(ep`hō(i))、わたしもまたはたして掴まえるかどうか追い求めている。[13]きょうだいたち、わたしは自らを現に掴まえてしまっているとは看做してはいない。だが一つのことを、かたや後方のものどもを忘れ去り、前方のものどもに身を伸ばしつつ、[14]キリスト・イエスにおける神の上方への招きの褒章へと眼差しを向け追い求めている」(Phil.3:8-14)。

 この価値の逆転は神がイエスの信の生涯を介して罪と死に勝利する甦らしを彼に与えたことに基礎づけられる。福音とはこの御子の甦りを介して罪と死から義と生命へそして栄光へと信じる者を救い出す神の力である。この神の力がイエス・キリストの信を介してその十字架と復活において一回限り決定的な仕方で歴史に刻まれた。この世に頼るものを何も持たない者にはただ復活のキリストがわれらと共に聖霊として働いていたまうことを信じて生きていく。そしてそれは人類の歴史において待望はされてはいたが、明確には知らされなかった人間の最も根源的な力能、ポテンシャルの開示であった。キリストの柔和が心に宿るとき、「何であれわたしに利得であったものごとをキリストの故に損失と」なる。パウロは言う、「わが主キリスト・イエスの認識の優越していることの故にわたしはあらゆることを塵芥(ちりあくた)と看做す」。自分がこだわっているこの世の幸い、自らの平安これらさえ塵芥となる。それはイエス・キリストを知ったことの故に、価値が逆転してしまったことによる。

 われわれはこれほどの方向転換を人生において持つであろうか。社会の慣習、マスコミが垂れ流す浮ついた価値、教育上の序列何かそのような価値基準がいつのまにか真実なものとして刷り込まれ、洗脳されてしまっているのではないだろうか。あまりにも圧倒的なこの世の情報の故に、渇いた魂が心の奥底で求めている真実なものが見失われてしまう。世情に流されて、魂の表層を生の原理としてこの世に垂れ流されている所謂「よきものども」を追い求めていく。

 

3ソフトパワーにおいて確認される歴史の正しさ

 これを克服させるのは最終的に信による突破であるが、求道においてこの世界の人生の真理を探究することが不可欠な前提となる。とりわけ歴史がどのような方向に進んでいるのかを見極める必要がある。剥き出しの暴力、パワーだけが歴史を動かすものなのか、柔和と謙りのソフトパワーはどこにいってしまったのか。ひとは誰もが心の奥底でそれを求めているのではないのか。聖書は神の義が歴史を導いていると言う。神の義は二種類あり、そのひとつはモーセの「業の律法」であり、もうひとつはナザレのイエスを介して知らされた信に基づく義が切り開く「信の律法」である(Rom.3:27)。信はどんなに愚かでもどんなに悪くとも幼子のようでさえあれば持つことのできる魂の根源的態勢である。価値の逆転は御子の信の従順の生によって歴史に刻まれたが、われらは誰もがその「神の信」(Rim.3:3)への応答として信じることができる限りにおいて、その歴史に刻まれた出来事に対応する力能を持っている。信じることができる。ひとは倒れても、あらたに立ち上がる。それは魂における信の根源性の故にそうすることができる。ヨハネ福音書は復活の主をこう報告している。弟子のひとりトマスは復活の主イエスが来られたとき、他の弟子たちと一緒にいなかった。弟子たちが「われらは主を見た」と言う。するとトマスは「あの方の手にくぎの跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。その八日後に戸が閉まっていたのにイエスが来て真ん中に立ち、「汝らに平安があるように」と言われ、トマスに言われた。「汝の指をここにあてて、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスは「わが主、わが神」と言い、ひれ伏した(John.20:24-29)。

 この現代、二千年前のまさにあの歴史のただなかのトマスのような状況においてはないと言うかもしれない。しかし、歴史は偶然的なものとしてなんら方向もなく進行しているのではなく、二つの力のもとにそのやりとりのなかで進行しているように思われる。ひとつは剥き出しの暴力に代表される闇の力とそれに抗しようとする光の力。主イエスはその光の道、残りの者たちが歩むべき道を示された。トマスの信は愛に向かったはずである。信の正しさは愛への道を歩む限りにおいて確認される。「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)。この愛の道はソフトパワーに身を包むときだけ、歩みうるものである。

 

4神義論―「引き渡し」としての神の怒り

 ひとは問うであろう。神は本当に歴史を導いているのか。その懐疑は理不尽と思える苦難のうちに呻吟するヨブに代表される。この歴史は本当に神の意志に即して展開されているのか、神は本当に正義なのかを疑う伝統は神義論と呼ばれる。神が正しいのなら、どうしてこれほどの不正義が世界に満ちているのか、と人は問う。歴史の帰趨を明確に知ることはできるのか。これも信により魂の根源性から生きるとき、旧約の預言者たちのようによく見えるようになるものと思われる。

 罪の現実が神の歴史を捉えることを困難にする。「[業の]律法は怒りを成し遂げる」とあるように、「神の怒り」の規準は「業の律法」、モーセの十戒を介して明確に啓示されたとパウロにより報告されている(Rom. 4:15,1:18,3:27)。「ローマ書」一章の議論の展開としてまず「神の義」は福音において啓示されていることが提示され、その神が義であることの第一の理由が神の怒りにあると報告されている。「なぜなら神の怒りは天から不義のうちに真理をはばむ人間たちのすべての不敬虔と不義のうえに啓示されているからである[現在形]」(Rom. 1:18)。神の怒りは今・ここで真理をはばむと神に看做されている人間たちの裁量のもとにある不敬虔と不義という心魂の態勢のうえに、即ち心魂の或る在り方のうえに「引き渡し」、勝手にしろという仕方で啓示されている(「引き渡した」:Rom.1:24, 26,28)。怒りの啓示内容は人間化された心的状態ではなく、神の行為において顕されている。そして彼の議論のなかではその怒りは福音に立ち帰らしめるものとして位置づけられる。

  現在啓示されている神の怒りの理由をパウロは神ご自身の知らしめとして「なぜなら、神が彼らのただなかで明らかにしたからである」と過去時制により報告している(Rom.1:19)。この時制は暗くされた悟りなき心が偶像崇拝に陥ったことそして三度現れる「引き渡した」の過去用法とともに一つの出来事を念頭においている。神の怒りの歴史のなかでの一つの啓示行為が現在の怒りの啓示の保証ないしモデルになっていると考えられる。パウロはこの過去形表現により、神がモーセに石板を介して十戒を提示した時、出エジプトの民がそのモーセの不在のあいだに偶像崇拝等に陥った具体的な事実を表し、ひとが神の意志を知りまた知りうることの一つの証拠として提示している。実際、この引用箇所における過去時制表現、例えば「神は引き渡した」、「彼らは損得勘定において空しきものとなった」、「彼らは……愚かな者となった」は「神の怒り」とともに、聖書中、出エジプトの民の偶像崇拝事件の論述にそのまま見出される。「ローマ書」における「(神の)怒り」やこれらの表現と同じ語彙をパウロが用いた七十人訳の出エジプトの一連の当該個所において見出すことができる。これらはすべてアロンのもとで金の子牛を鋳て偶像を拝んだ出エジプトの民の記事に符合し、神は偶像崇拝についての律法に即し怒りを示して、レビ人を介し一日に三千人を倒したことが報告されている。なお、業の律法の啓示以前においてまた異邦人においては良心が業の律法のもとにあることを示す(「引き渡した」:Rom.1:24, 26,28=Ex. 1:13: 「怒り」:Rom.1:18=Ex. 32:10-13, 「空しき者となった」Rom. 1:21=Jer.2:5, 「愚かな者となった」Rom. 1:22=Jer.10:14,Exod.20:1-7,Rom.3:19-20,15:23)。

 偶像崇拝において明らかにされているのは罪とは自己神化であることに他ならない。モーセの十戒即ち業の律法の第一戒において神はモーセに命じている。「主はこれらのことばすべてを語り[モーセに]呼びかけた、わたしは汝をエジプトから奴隷の家から導き出した汝の神である。わたし以外に汝に他の神々があることはないであろう。汝は自らに偶像をまた天上にあるまた地上にあるそして水のうちにいる限りのいかなるものの似像をも造ることはないであろう、彼らに礼拝することも彼らに仕えることもないであろう。なぜならわたしは汝の神、嫉妬する神だからである、父祖たちの諸々の罪に対しわたしを憎む子孫たちに三、四代報いつつ、わたしを愛しわが戒めを守る者たちに対しその子孫たち千代に憐みを施しつつ」(Exod.20:1-7)。

 罪とは、ヤハウェ神以外の神々を拝むこと、偶像を造ることである。偶像・アイドルの制作は人間がそれを拝することによって依存しつつ、実は偶像を自らの欲望なり心の平安に奉仕させている。それはまことの神を神としないことであるがゆえに、偶像を造るその自己が創造者としての神となる。そのような自己神化こそ第一戒は禁じている。神はモーセに信実であるがゆえにこそ、自ら以外に関心がむけられるとき、それを許容することはなく、それを記述すべく「嫉妬」という人間的な特徴づけが許容される。ここに業の律法の背後に信の律法が働いており神ご自身においては二つの律法の関係は揺るぎないことが分かる。ただユダヤ人に対する啓示の順序として業の律法が人々の心と歴史の進展にとって不可欠なものとして知らしめられている。

 神に罪と看做される者はこの第一戒に見られるような自己神化を行う者のことであり、自己神化こそが罪である。「われら知る、律法が律法のうちにある者たちに語る限りのものごとは、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服するものとなるためである。業の律法に基づくすべての肉は神の前で義とされないであろう[未来形]。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:19-20)。業の律法がモーセを介して啓示されたのは、ひとが自ら申し開きできない者であることを知らしめ、世界が神に服従するようになるためである。業の律法はそのもとにおいて例えば偶像を拝むかそれとも拝まないか、貪るか貪らないかが問われているが、その二者択一の行為において神に嘉みされないことを明らかにしている。つまり、ひとは業の律法のもとに生きるときは二者択一の一方例えば偶像を拝むことになると神に認識されている。罪が神の前の概念であるということは、神との関係が開かれない限り、肉こそ自己の座であり自己を拝み自己に仕えることが自覚なしに遂行されることになる。これが神に対する背きであり、そこでは神は自己の座の尻に敷かれており、周りを見回しても神を見出すことはないであろうそしてそれ故に罪とは何であるかが理解されないであろう。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.15:23)。

 

 5「残りの者」の歴史

 この引き渡しの歴史が一方では進行している。他方、「残りの者」と呼ばれる光の道をまっすぐに歩む者たちの歴史も同時に進行している。

 パウロは「ローマ書」でイスラエルの救済の可能性の論証を展開している(Rom.ch.9-11)。彼はイスラエルの躓きの歴史を振り返り異邦人の救いの開けそしてそれを介してのイスラエルの救済を確認している。パウロによる同胞への思いと誇りが見られる。「神はご自身の民を見捨てたのか・・断じて然らず。われもイスラエルである」(11:1)。旧約を引用しつつ彼は恩恵を確認にしている。「「われバアルに膝をかがめなかった七千人を」わがために「残した」。かくして、今という好機においても、このように恩恵の選びに即して残りの者が生じた」(11:4-5)。「恩恵の選び」には人間の出自や資質は考慮されない。「イスラエルは追い求めているそのものを獲得しなかったが、選ばれた者は獲得した」(11:7)。選びの者たちであるバアルに膝をかがめなかった七千人は神への畏れのなかで、実際の歴史において偶像崇拝に陥らなかったことが報告されている(1King.19:18)。

 「恩恵の選び」において神が或る者たちには自らの約束に信であることを示しており、信の律法が機能していることが理解される。他方、或いはそれと同時に、「神には偏り見ることがない」(Rom.2:6)ことも歴史においてヤコブとエサウの生涯、バアルに膝をかがめなかった七千人の生涯において確認される。イスラエルの或る者たちにも信の律法が適用されることにより救いにもたらされる。「彼ら[イスラエル]は倒れるために躓いたのではないかとわれ語っているのか。断じて然らず。むしろ、彼らの罪過によって、救いが異邦人のものとなり、彼ら自身を嫉妬させるためである。・・わが血肉を嫉妬せしめそして彼らのうち幾人かを救う」(11:11-14)。

 歴史上、神はご自身をイエス・キリストにおいて最も明白な仕方で二千年前に知らしめている。そして「わたしは汝らを遺して孤児とはせず」(John.14:18)と言われるように、御子の昇天後は聖霊が派遣され、心の内奥において呻きをもって執り成しています。神の恩恵に浴している人々つまりイエス・キリストや聖霊を介しての神の働きかけに応答している人々には、それは単に導かれているという一般的な解釈を遂行するというのではなく、その感謝そして賛美さらにはただ栄光を帰することの一つ一つの働きが、神の前とひとの前を分けることのない仕方で歴史を造る働き(エルゴン、being at work)においてある。この歴史を人間は神の前に在るという信のもとに、神のエルゴンとひとのエルゴンの交流において造る。神の前とひとの前をロゴス(理論)上分ける一般的な言葉と今・ここのエルゴン双方からの神の前とひとの前の相補的な展開が求められている。そのとき、信仰は理性(ロゴス)の逸脱である狂信からも、またパトス(感情などの今・ここの身体的受動)の働き(エルゴン)が過剰(例えば恐怖)となることにより生じる迷信からも自由にされ、正しい信のもとに良き果実が生みだされていく。

 

6結論

 登戸学寮の歴史においても、黒崎先生の弟子でこの土地を寄贈くださった小町夫妻の一つ一つの今・ここの働きなしに、黒崎先生の構想は少なくとも登戸において実現されなかった。「零戦パイロットの至宝」と呼ばれた小町定氏の戦記を読むとき、驚嘆すべきほどの細い道が学寮建設にまでつながっていたことがわかる。登戸学寮の歴史もこれまで同様、一つ一つの働きがこの神の愛への信そして神の子であることの信のもとに遂行されている限りにおいて、先行者たちの献身は何らか生きて働いていく。その一つの歴史に連なっている。そしてこの歴史は繋がっていき、黒崎先生が学寮建設に向かったその道に、多くの方々の細いしかし確かな道が合流した。そしてこれからも。

この戦争と疫病の2022年、闇は濃くあり、「引き渡し」(パウロ)のもとに勝手にせよと放任された悪の数々の出現のなかで歴史が進んでいるが、「残りの者たち」が地の塩、世の光として狭い確かな道を歩む歴史も続いる。その光の道を歩んでいきたい。

                     

 「わたしは葡萄の木、汝らは枝である。わたしのうちに留まる者は、わたしもまたその者のうちに留まる、そうしてこの者は多くの実を結ぶ。というのも、わたしを離れては、汝らは何も為しえないからである」(John.15:5)。

 

 「恐るるなかれ、われ汝と共にあり、驚くなかれ、われ汝の神なり、われ汝を強くせん。・・汝はわが僕なり、われ汝を造れり。イスラエルよわれは汝を忘れじ。われ汝の咎(とが)を雲の如く消し、汝の罪を霧の如くに散らせり、汝われに帰れ、われ汝を贖いたればなり」(Is.41:10,44:21-23)。

 

Previous
Previous

天の父の完全性と悔い改めの力

Next
Next

新しい生命―敵の罪を担うキリストを仰ぐ―