偽りとの決別(その二)―「報い」における正義と利益の位置づけ―
登戸学寮日曜聖書講義Mat.5:21-6:34(録音においては時間の関係で引用箇所を省略しているので原稿を添付する。なお、「5報いに結果として伴う利益」は省略したため、本原稿により補っていただきたい)。
偽りとの決別(その二)Mat.5:21-6:34―「報い」における正義と利益の位置づけ―
2020年7月19日
1.はじめに
山上の説教(マタイ5~7章)を偽りという視点から考察するとき、道徳的な領域と司法的な領域さらには神の領域、これら三つの領域ないし次元のあいだのユダヤ人における癒着を摘出することができるように思われる。彼についてくる群衆たちに対し、「偽善者」や「偽預言者」を見分けるように教えている。イエスは、モーセ律法の枠のなかで先祖代々伝えられた教えを聞いて育ってきたユダヤ人に向けて、モーセ律法を急進化、先鋭化する。そのさい彼は弁証術(dialectic)と呼ばれる議論を吟味する技術を用いて、彼の論敵を論駁する「対人論法(argumentum ad hominem argument to the person)」の議論を展開し、彼らの道徳的、司法的次元ならびに神の前の次元の癒着を明らかにしている。対人論法とは、対話者双方に共有される見解を確認しつつ、自ら固有の立場を一旦棚上げし、対話相手ないし対話相手が馴染んでいる考えの土俵ないし立場に立ち、その土俵が持つ暗黙の前提を明るみにだし、彼らの気づかない思い込み、偏りや誤りを指摘する論法である。
ユダヤ人であるイエスと群衆のあいだで同意できることとして、神の国と地上の国さらにはユダヤ人と異邦人の二分による思考方法は馴染み深いものであり双方に共有されているという前提のもとに語りかけられる。ユダヤ人は自分たちが神に選ばれ、神の意志としての律法を授けられた民であるという認識を持ちまたそれを誇りにしている。
山上の説教の土俵とは、ユダヤ人が伝統的にそのもとで育てられたモーセの十戒のことである。そこではイエスは自らが立つ立場である「信」を一旦棚上げにして直ちには持ち出さず、さらには信じる者への憐みのもとに遂行される癒しなどの不思議な業(所謂奇跡)を行うこともせず、ただ言葉で同胞の伝統にチャレンジしている。ユダヤ人はこの十戒のもとに六百を超える律法解釈を提供しており、それらは一括してパウロにより「モーセ律法」および「業の律法」と呼ばれる。モーセ律法を良心に訴えて先鋭化して、出エジプト以来の一千年のあいだに蓄積された偏りや隠されていたものを明らかにしていく。
イエスとユダヤ人のあいだで同意されていることがらとして、或る心の状況や行為に対する「報い」・「報酬」が正義として与えられることである。所謂勧善懲悪の世界である。モーセの十戒の冒頭にこう神により言われていた。「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問うが、わたしを愛しわが戒めを守る者には、千代にも及ぶ慈しみを与える」(Ex.20:5-6)。イエスはもっと長いスパンにおける正義を考慮し、地上における報いよりも、天国や神の国における報いが強調され、それを前提にして八福が語られていた。
2. 律法が暴き出す二心(ふたごころ)、三心(みつごころ)
これまで学んできた八福ならびに地の塩、世の光の議論に続いて、イエスは律法をとりあげ、天地が滅びるまで律法の一点一画とも廃棄されないことを確認する。そこでイエスは言葉の力に訴え、道徳的な次元で律法を急進化、先鋭化させて良心の発動に向けて心の最も内奥に訴える議論を展開している。彼は神の義に基づく天国か地獄の審判を語る。死後の二つの世界の前提のもとで、イエスは伝承として古(いにしえ)から語り伝えられているモーセ律法を道徳的に先鋭化して、二心(ふたごころ)、或いはひとの前にも、自分の良心の前にも、神の前にもよい顔をしようとする三心(みつごころ)を暴き出している。
ユダヤ人は動機としては名誉や自己利益のためではあるが、形式的に律法を遂行することにより、正しい人間となりさらには神の前でもあわよくば神の国を手に入れようとする。イエスが「わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」 (Mat.5:20)と言うとき、パリサイ人らは概して功利主義的であり、一切のものは自らの腹、欲望の充足、利益ために手段化されていることを含意している。イエスは論難する、「ああ、なんということだ(ouai,woe,ウーアイ)、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、内側は強奪と情欲で満ちているが[現在分詞]、杯や皿の外側を清めている。・・ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、汝らは石灰で塗った墓に似ている。何であれ外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる穢れで満ちている。このように汝らもまた外側は人々に義人に見えるが、内側は偽善と不法で一杯である」(Mat.23.23-28)。パウロも言う、「その者たちについてわれ汝らにしばしば語ってきたが、しかし今涙ながらに言う、多くの者たちはキリストの十字架の敵である、彼らは地上のものごとを思慮することによって、その者たちの終局は滅びであり、その者たちの神は腹でありまた彼らの恥における栄光である」(Phil.3:17-19)。このようにひとの偽りが摘出されていく。神の前に立派であるかのごとく見せかけておいて、地上における自己の利益や名誉を追求する二心が偽りなのであった。
[円錐形による各人「私」が帰属する道徳的、社会的、生物的、物理的そして形而上学的地平の説明]。
3.怒り即殺人、情欲即姦淫、敵即隣人
前回見たように、殺人と他者への怒りが同等のものとして扱われ、「審判に服することになるであろう」と言われていた。怒るたびに殺人罪として審判されるなら、この審判に耐えられる者はいないであろう。こう言われていた。「汝らは古(いにし)への者たちにより「汝、殺すなかれ、殺す者は審判に服することになるであろう」と言われたのを聞いている。しかし、自分の兄弟に怒る者はすべて審判に服することになるであろう。自分の兄弟に「馬鹿」と言う者は最高法院に服することになるであろう、「愚か者」と言う者は火の地獄に服することになるであろう」(Mat.5:17-22)。誰もが殺人は悪であるとは思っていようが、怒りや罵りも同様の審判に服することになると言われる。「火の地獄」に投げ込まれるとさえ警告されている。この真剣さに戸惑うばかりであろう。
姦淫についても同様である。「「汝、姦淫するな」と言われたのを汝らは聞いている。しかし、私は言う、欲情をいだいて婦人を見る者はすべて、既に自分の心の中でその婦人を姦淫したのである。もし、汝の右の眼が汝を躓かせるなら、抉り出して捨ててしまえ。というのも汝の身体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれないほうがましだからである。もし汝の右手が汝を躓かせるなら、切り取って捨ててしまえ。というのも肢体の一部がなくなっても、汝の全身が地獄に落ちないほうがましだからである」(Mat.5:27-30)。これを文字通りに実行したら、ひとはすべて盲目になってしまうのではないだろうか。
イエスもパウロも身体をもった自然的存在者としての肉の弱さを認め、「われ汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)として、人間中心的な思考を譲歩として許容している。前々回見たように、イエスは人間の肉の弱さを熟知しており、まっすぐ歩けない弱い者たちに忍耐と寛容のもとに譲歩を示しつつ、励ましている。ゲッセマネにおける信の従順を貫く苦闘の祈りのただなかにおいて、弟子たちは待ちきれず眠ってしまった。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていよ。霊は燃えるが、肉は弱いからである」(Mat.26:41)。「肉」とは土から造られた身体を持った自然的存在者の生命原理のことである。パウロは、信徒は「肉において」生きているが、「肉に即して」ではなく、「霊に即して」生きていると言う(Rom.8:1-14)。モーセ律法における離縁をめぐる譲歩も確認した(Mat.19:4-8)。しかしながら、ひとはどこまでこの譲歩の領域に居座り、この律法の先鋭化、急進化を真剣に受け止めることなく、自己中心的な態度を広げていくのであろうか。
敵の強力な軍事力を前にして、負けまいとして軍拡に走ることは聖書的には肉の弱さへの譲歩以上のものではない。イエスによる道徳の先鋭化はその譲歩を拒否している。「「目には目を、歯には歯を」(Ex.21:23)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、「悪人に手向かうな」誰であれ、汝の右の頬を打つなら、他の頬を向けよ。汝の下着を取るべく裁判にかけることを欲する者には、その上着をもその者に引き渡せ。また誰であれ汝を強制して一マイル奉仕させる者には、彼とともに二マイル前に進め。汝に求める者には、与えよ。また汝から借りようと欲する者には背を向けるな。「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、われは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれる者を愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:38-46)。
ここでも著しい言葉にであう。人類の誰かがこれを言ったということ、人類のなかにこれを言う者がいたという事実だけで、人類であることに希望を見出す。換言すれば、これらのイエスの議論においては、ひとはそこまで造り変えられ得るものであることが前提にされており、またときにそのような証となる事例を見出すことができることに励まされる。ひとはまだ自分の隠された力能、可能性に気付いていないのではないかと思わせる。少なくとも、そこまで突き詰めなければひとは救いを見出しえないそれほどの知性と道徳性を少なくともその可能性において備えた存在なのである。
イエスは所謂「無抵抗主義」を基礎づけるものとして次のように言うが、それは例えば今・ここで襲われている愛するひとのために正当防衛として相手に立ち向かい自分の生命を捧げるそのような行為をさえ拒否する理由となる。「自分を愛してくれる者を愛したところで、汝らにどんな報いがあるであろうか。[ローマ帝国雇用の]取税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになるだろうか。異邦人でさえ同じことをしているではないか。だから汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全な者となれ」(Mat.5:46-48)。愛する者が暴力を振るわれているときに、生命をかけて守ったとして、それは巷間では勇敢な行為と看做されることもあろうが、聖書的には肉の弱さへの譲歩に過ぎない。友を愛し敵を憎むとき、そこに自らの二心を見出し、その偽りに良心が発動することもあろう。家族への愛、好む同士の友愛、ひとはどこまでこの人間的な思いに居座り続けるのだろうか。
これは天の父の思いとは異なるとされる。神の想いは天が地よりも高いように、はるかに高いと言われる。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。天の父は「われらが[神に対し]敵であったとき」(Rom.5:10)、御子の受肉と信の従順の生涯を介して、父の愛を示したことのゆえに、ひとの罪の赦しが歴史のなかで恩恵として明らかにされた。そこでは神はわれらの功績にかかわらず「イエスの信に基づく者」を嘉みし、イエスの十字架における罪の赦しの出来事をその者の出来事だと看做したまう。神のこの愛の啓示の媒介となったイエスご自身が同じ肉である人間に認知的、人格的に十全である神の完全性に倣うよう命じている(cf.Ps.139)。
神ご自身が人間に信実を貫いており、「父は悪人にも善人にも太陽を登らせ、正義な者にも不義な者にも雨を降らせてくださる」(Mat.5:45)。イエスは神の完全をもちだし、ひとの良心にチャレンジしている。イエスは命じる、「汝が祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が汝に何か反意を(ti kata sū)もっていることを思い出したなら(mnēsthēs<mimnēskō)、その供え物を祭壇の前において、まず兄弟と仲直りし、それからそれを供えよ」(Mat.5:23)。ひとを傷つける言動や小さな不和の芽に気づいたら、まずそれを取り去って良心の咎めを解消してから、供え物によってであれ神と心おきない懇ろな交わりに入るよう命じている。力点は「投獄」の恥辱を受けたくないという功利主義的なことがらにあるのではなく、誰かの反感に気づく、目覚めていること、ないし良心の発動におかれるべきである。イエスはここでも「思い出す」という仕方で良心の発動を前提にしている。
ここまで先鋭化されると何ひとつ身動きが取れなくなるというか、もうこのような教えについていきたくないと思う者もでてくることであろう。しかし、滑稽とさえ思えるほどのこの真面目さはひとの心に深く刻まれることになるであろう。少なくとも心をともなわず形式的な仕方でモーセ律法を守っているから自分は正しい立派な人間であると語ることはできなくなる。そして当然権威をもって語るイエスの前で、自分は神に義とされると主張することはできない。この律法に照らし合わせて自らの振舞いを顧みるとき、誰もこの試験にパスする者はいないことであろう。それほどまでにイエスの要求は高い。そして天地が滅びるまで、「律法の一点一画たりとも廃棄されない」と語られている。そうであるとしたなら、これらの一点一画までも遵守する力をどこかから得るしかないであろう。イエスは、それは信であると言う。彼は「信じる者には何でもできる」(Mac.9:23)と言う。神の前とひとの前を媒介するものが神の子にして同時に人の子であるイエス・キリストに帰属した信である。
4. 律法充足の道―信における正義に伴う利益
八福においてその心において清い者とは陰りなく全身が明るく輝いている者のことであった。それは一切を神との関係において捉えており、神との信実な関係の構築のみに関心を注いでいる人々のことであった。「信の律法」は神ご自身にとって「モーセ律法」、「業の律法」よりも根源的であり、神がキリストにあって信実でありそれ故に正義であったとき、ひとは信において応答するのかそれとも裏切るのかが問われていたのであった(Rom.3:27)。「汝が汝自身の側で持つ信を神の前で持て」(Rom.14:22)。神の圧倒的な信に対しては信でありうることだけで(その結果として)光栄であり喜びである。おのれの利益や名誉から自由になり、平和の君にただひたすら従う清い者でなければ、平和を造る者とはなれないことをこれまでに確認した。パウロはかつて同胞とともに迫害していたキリストそのひとによって救われたのち、まだキリストを拒んでいる同胞ユダヤ人のためなら、「呪われて」救いから外されることをも厭わなかった(Rom.9:1-5)。
神は業の律法の充足に即して律法遂行者に報いを与えると報告されており、さらにイエスは彼が祝福する八福の者たちにおいて、神によって天国における報いが与えられると報告されている。地上の具体的な生活においてであれ、死後の天国においてであれ、聖書はそのような神が嘉みする者に対する報いとしての正義を主張している。ただし等しさとしての正義に続くもの、伴うものとして、「報い」や「報酬」を利益という視点から功利主義的に捉える発想もイエスに認められている。「偽善者は、断食しているのをひとに見てもらおうと、顔を見苦しくする。汝らに言う、彼らは自分たちの報いを受けてしまっている」(Mat.6:16)。イエスはさらに言う、「地上に富みを積むな。・・富は、天に積め。そこでは虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗みだすこともない。汝の富のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.6:19-21)。
この地上における霊による貧しさ、悲しさ、柔和さ、正義の飢え渇き、憐れみ深さ、心の清らかさ、平和を造ること、そして正義のために迫害されることが祝福されるのは、天国における神のもとでの慰め、平和、さらには敵が友と友となることの喜びなどの報いを得るからである。その報いは神が与える祝福としての正義であるが、そこに利益を見ることも許容されている。これは神の正義に即した終わりの日の審判であり、同時に正義に伴う利益でもある。
その報いへの希望を支えるものはこの地上にあっては神の国への信である。しかし、山上の説教の対人論法は信をもちださずに展開される。信と自己利益としての報いはいずれが心魂の根源性かという議論に関しては両立しがたいからである。神が信であったときに「信の律法」として求められているのは信のみだからである。たとえば、自らが救われたい、平安を得たいという欲求つまり利益への追求から信仰を持つとするなら、神を利用することを自覚している場合には神の信に対応する信ではなく、神の信ならびに自らの信仰を利用することとなる。そこでは信はそれが本来あるべき心の根源には位置づけられない。汝の宝のあるところ、心もあるとするなら、信ではなく自己の利益が宝である。そのような者は神により「イエスの信に基づく者」さらには「アブラハムの信に基づく者」と終わりの日に看做されないかもしれない(Rom.3:26,4:16)。
他方、自らの信仰に懐疑をもち、自分は神を利用しているのではないかと疑う者がいるとしたら、それは信仰を「貪るな」という業の律法のもとに従属させることとなり、信仰を業の律法のもとで盗むか、盗まないかと同じ次元で理解することとなる。神に「信ぜよ」と命じられているとき、信仰を貪るか貪らないかという業の律法の次元で捉えるのではなく、神を信じるか裏切るかが問われているのである。信の律法は神ご自身にとって業の律法より根源的なのである。
山上の説教においては「信」の派生語はただ一回「信少なき者たち(oligopistos)」と否定的な呼びかけにおいて用いられ、その信少なき群衆に野の百合、空の鳥を見るようにそして花や鳥のように煩うことのないように命じられる (Mat.6:30)。イエスは信に基づく義・正義をこそ自らの立場としているが、この説教においては憐みをかける群衆への呼びかけ以外に「信」について論じることをしていない。そのことはさしあたり「報い」を神の正義のみならず人間の利益という功利主義的な観点から理解することを、イエスの説教は許容していることを含意している。しかし、モーセ律法は心がともなわなくとも形式的に守ることのできるものであった。殺すとか姦淫するとかいうことは誰の目にも分かりやすいものであり、形式上自分は立派な人間であると誇る余地を残している。業の律法のもとに生きる者は形式的であれ「あらゆる律法を満たす義務がある」(Gal.5:3)と語られる。そしてその業に基づき審判されるとき、義とされないであろうことが警告されている(Rom.3:20,Gal.3:11)。
イエスは功利主義的なユダヤ人に分かりやすい次元で議論を展開している。「ユダヤ人は徴を求める」とあるように、彼らは神を見えないものごとに対する信によってというよりも見えるところで利益を感じていたい民族であった。もちろんそれはユダヤ人に限らず、信と信の根源性に立ち返らない限り、ひとはことごとくその次元にあることであろう。パウロは言う、「ユダヤ人は徴を要求しそしてギリシャ人は知恵を探究するのであるからには、われらは、しかし、十字架に磔られたキリストを宣べ伝える、それ[十字架]はかたやユダヤ人には躓きであり、他方異邦人には愚かなものである。とはいえ、ユダヤ人にもギリシャ人にも呼び出された者たち自身にとっては、キリストは神の力能でありまた知恵である」(1Cor.1:22)。イエスの十字架に至る信の従順の生涯は神の力能と神の知恵を明らかにするものであった。
5.報いに結果として伴う利益
功利主義的な自らの利益という視点からの思考も一般的な分析のもとに位置付けられる。ひとの行為選択の動機は目的―手段連関のもとに三種類に判別される。(1)他のものの故に何かを為す場合、(2)他のものかつそれ自身の故に何かを為す場合、(3)何かをそれ自身の故に為す場合である。ひとは生活のためにお金を必要とするが、お金は(1)他のものの故に求められる。(2)風呂好きのひとはそれ自身かつ衛生保持のために風呂に入ることであろう。(3)神の栄光をそれ自身の故に求めるひともいようし、自らの「心魂のよくあること(well-being幸福)」を究極的善としてそれ自身の故に求めるひともいよう。神とひとのあいだに信と信が成立するのであれば、それは(3)それだけで選択されるでもあろうが、それが結果として喜びを伴うものであってもかまわない。喜びのために信実であろうとするならそれは(1)か(2)に分類されることになる。キリストの軛につながれその平安と柔和と清さのほうがこの世の成功よりはるかに良いと思えるひともいることであろう。「疲れたる者、重荷を負う者、われにきたれ。汝らを休ませてあげよう。わが軛をかつぎあげそして[わが歩みから]学べ、わたしが柔和であり謙っていることを。そうすれば汝らは汝らの魂に安息をみいだすであろう。というのもわが軛は良きものでありわが荷は軽いからである」(Mat.11:28-30)。そのひとはそのように自らの認識を位置づけた時には、(1)か(2)に属するであろう。
「他のものの故に」という手段―目的連関を利益という視点から考察する限り、功利主義的な思考に帰属させられることになるであろう。そのことは何ら否定されてはいない。パウロは言う、「われはわが主キリスト・イエスの知識の優越の故に、あらゆるものを損失と考える、彼の故にわれ一切を失ったが、それらをわれ塵芥と看做す」(Phil.3:8)。ここで利益の対義語である「損失」という言葉が見られる。しかし、パウロの自覚としては(3)キリストと共にあること、それをそれ自身において求められる善としつつ、その結果として他のものの価値が塵芥(じんかい)に帰したということであろう。利益のために何かをすることを功利主義的であるとすれば、結果として利益を伴うことがあったとしても、それは定義上功利主義的ではない。とはいえ、時に(3)キリストと共にあることをそれ自身として求め、他の時に苦境にあって信に伴った喜びを思い出し、(2)平安のためにも共にあることを求めるということがあったとしても、神に否定されることはないであろう。この種の思考は一種の功利主義的思考と両立可能であると言える。というのも人間中心的な思考も譲歩として許容されているからである。
6.野の百合空の鳥を見よ!
天の父は水臭くない方であり、この世界での生存をケアしている。ただし、人生に最も重要なことはまず神の国と神の義を求めることであるとされるが。「それ故にわたしは汝らに言う、汝らが何を食べ、何を飲もうか汝らの魂によって思い煩うな、また汝らが何を着ようか汝らの身体によって思い煩うな。魂は食べ物より以上のものであり、身体は衣服より以上のものではないか。空の鳥をよく見よ。種も蒔かず、刈入れもせず、倉に納めもしない。だが、汝らの天の父は鳥を養ってくださる。汝らは鳥よりも一層優っているのではないか。汝らのうち誰が思い煩いにより、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つか注意して見よ。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく、栄華をきわめたソロモンでさえ、これらの花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、汝らにはなおさらのことではないか、信少なき者たちよ。だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」思い煩うな。それはみな異邦人が切に求めているものだ。汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ。だから、明日のことまで思い煩うな。明日のことは明日が自ら煩う。その日の労苦はその日だけで十分である」(Mat.6:25-34)。
イエスは群衆にガリラヤの野辺で風にそよぐ花々をそして澄み渡った乾いた空を舞う鳥たちを指さしながら、生きることの祝福を語った。明日のことを煩うな、一日の労苦はその日で十分である。この「煩うな」という命令形から父なる神を信ぜよを読み取ることは難しくない。対人論法を介して、信の根源性を間接的に説いたのであった。律法について、急進化、先鋭化させて良心の発動に向けて心の最も内奥に訴える議論は「業の律法」を離れることを、業の律法への煩いを棄てて、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である」その信に導いている。