天の父が完全であるように
「天の父が完全であるように、汝らも完全なものとなれ」
山上の説教マタイ5:33-48 2020年7月26日(録音では引用箇所が言及されないため、原稿を添付する。ただし、原稿にないものが録音では語られること、またその逆もある。「附録」 アンセルムスにおける正義と憐み両立の論証は録音されていないため原稿によりお読みいただきたい)。
1はじめに
今回は神の完全性について考えてみたい。イエスは彼に追随してくる群衆たちにたいし彼らに馴染みのモーセ律法を手掛かりにして道徳的次元で聴衆の良心に訴えた。イエスは山上の説教においては対人論法を展開し信仰にも奇跡にも訴えることなしに、道徳的次元において議論を良心の発動の限界点にまで導いている。彼は彼らの指導者たちの気づかない二心、三つ心の癒着を指摘し心の清さのありかを教える。「汝の宝のあるところ、汝の心もまたそこにあるであろう」(Mat.6:21)。
最も大切な宝とは何なのであろうか。道徳的にも、社会的にも宗教的にも成功することであろうか。この世もあの世もという欲張りはその心の清い者さらに憐れみ深い者と呼ばれることもないであろう。その霊によって貧しい者たちこそ神に祝福される者たちであった。この世のものによって満たされている者たち、その肉によって満足している者たちは自らの霊の渇きに気付かないであろう。言い換えれば、この世の何ものによっても満たされない者たち、この人間社会のただなかで善と悪に、真理と偽り等のあいだに何も確かなものを見出すことのできない者たちが天の父を求める。また人間と社会への失望や絶望から人間の可能性に対し諦め、この闇の世の力に圧倒され、疲れてしまった者たちが憐れみ深い羊飼いをもとめる、或いは正義に飢え渇いている者たちが正しい審判者を求める。一切を知り正義にして同時に憐れみ深い神と出会うとき、地の塩、世の光となる新たな力を得る。偽りなくつまり二心なく神を求める者、正確には「神の信」(Rom.3:3)に対し信によって応答しようとする者たちが心の清い者たちであり、後の日に神を見る者たちであった。
神ご自身は聖なる方である。この聖性は栄光に輝く光に喩えられる。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は地をすべて覆う」(Isaiah.6:3)。誰がこの聖性に耐えられるであろうか。イザヤは言う、「ああ、何ということだ、わたしは破滅だ、というのもわたしは穢れた唇の者、穢れた唇の民のなかに住む者だからだ。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見たからだ」(6:5)。しかし、この聖性が人となり、救いの光となった。「暗闇を歩める民は大いなる光を見、死の陰の地に座したる者に光が照らした、主は民を増し加え、歓喜を大ならしめた。・・ひとりの男子(おのこ)がわれらのために生まれ、一人の子がわれらに与えられた。支配はその肩におかれ、その名を呼んで霊妙なる議士、大能の神、永遠(とこしへ)の父、平和の君と称えられん。その政事(まつりごと)と平和は増し加わり、限りなし。かつダビデの位に座してその国を治め、今よりのち永遠(とこしへ)に公平と正義とをもてこれを立てこれを保ちたまわん。万軍の主の熱心これを為し給うべし」(Isaiah.9:1-6)。柔和なイエスの正義にして憐れみ深い聖性に照らされて、ひとは新たに歩みだす。「汝の道を主にまかせよ。汝の正しさを光のように、汝のための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる」(Ps.37:6)。
2「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全なものとなれ」
イエスは怒り即殺人、情欲視即姦淫、愛敵即無抵抗というモーセ律法の急進的理解を良心に訴えて説き勧める。最終的には彼は神が完全であるように、完全であれと命じる。人類に課される要求でこれ以上の強度の、大きな要求を想定することはできない。完全性によっていかなるものごとを理解すべきであろうか。その命令が導入される文脈は偽り、二心の拒否である。古への先人たちから「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられてきたが、その命令に心の中にざわめきを感じ取るひとは少なくないであろう。そこではこう言われている。「汝らは「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎め」と語られたのを聞いた。しかし、わたしは汝らに言う、「汝らの敵たちを愛せよ、そして汝らを迫害する者たちのために祈れ、それは汝らが天における汝らの父の子となるためである。天の父は悪しき者たちにも善き者たちのうえにも太陽を昇らせまた正しき者たちにも不正な者たちのうえに雨を降らせる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにどんな報いがあろうか。[ローマ帝国の]取税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんなに優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全なものとなれ」(Mat.5:43-48)。
敵は隣人となることもあろう。さらには敵が友となることもあろう。善人も悪人にも神は憐みを示している、そのことがひとの二心を摘出させ、偽りとの決別へ、完全性への命令に結実する。われらは自らのうちにひとを分け隔てする二心があることに気付くのは、例えば、敵がひどい目にあうとそこにひそやかな喜びを感じてしまう時である、たとえそのような自己をすぐに恥じるとしても。友にさえ同じような感情をいだくこともあろう。どこまでもおのれを中心にしてしか世界を受けとめることができないその自己に落胆する。完全性からほど遠い、救いから漏れている自己を見出す。それが良心の咎めである。ひとはどこで分裂が癒され、自己が自己自身との一致において良心の咎めなく生きることができるのであろうか。
イエスは最後の審判の座において、端的に、右手で為す善行を左手に知らせることのなかった清く、憐み深く、良心の咎めなき祝福された者と良心の発動が促される呪われた者たちを判別する。イエスは言う、「[イエス]「わが父に祝福された者たち(hoi eulogēmenoi)、天地創造のときから汝らのために用意されている国を受け継げ。汝らはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・正しい者たちは応えるであろう、「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したのは、わたしに為したことである」。・・[イエス]「呪われた者たち(hoi katēramenoi)、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。汝らはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらは汝が飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」(Mat.25:34-45)。
自らの胸に手を当て、吟味反省する時、おのれの高ぶりに気付く。山上の説教はブーメランのようであり、何か否定的な思いがわきあがるところ、そこに戻ってくる。貪りの思いが起こると、「その心によって清い者は祝福されている」が響き、怒り「愚か者」と言うなら、「火の地獄に投げ込まれるであろう」と言われ、誰かの人格を否定するなら、「裁くな」と言われ、良心の痛みが発動する。イエスは畳みかけるように、人間が想定しうる究極と言える、神の完全性に倣うように命じる。神は宇宙の外側で永遠の現在のうちにいたまい、言わばタイムマシンに乗っており、宇宙の法則から歴史に至るまで一切を知っていたまう認知的に十全な方であり、人格的に恣意的な依怙贔屓することのない公正で正しい方でありしかも同時に憐み深い人格的に十全な方であった。神の意志はイエス・キリストを介してほど、個々人の誰にも知らされていないため、たとえ永遠の昔から救いに選ばれ予定されていたとしても、各人にとっては自らが神に選ばれキリストにより愛されていることを信じることは常に実質的である。
イエスは呼びかけて言う。「疲れている者たち、重荷を負っている者たちは皆、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛を汝らのうえにかつぎ[繋ぎとめ]なさい。そしてわたし[の足どり]から、わたしがその心柔和であり(praus)また謙った者であることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に休息を見出すことであろう。というのも、わたしの軛は良いものでありそしてわたしの荷物は軽いものだからである」(Mat.11:28-30)。イエスの軛、荷とは何か?天の父が憐み深く、信じる者を救い出す方であることへの幼子の信仰である。有徳な者も悪人も魂の根底に生起する悔いた砕けた魂における「信じます」と幼子のように縋ること、それがイエスと共に軛を背負って歩くことである。そこでは何の立派さも要求されず、ただ自らに偽りのない信が生起する場所・二番底即ちパウロの言う聖霊に反応する心の内奥の「内なる人間」(Rom.7:22)から生きるとき、同じ軛に繋がれた主が肉の生全体を一なるものとして秩序づけてくださる。荷物を運ぶとはイエスの御跡に従って歩むことであり、そこではイエスの弟子でありうることが無常の光栄となる。イエスに似た者になること以上に喜ばしいことはないからである。このように神の完全性にはナザレのイエスを介して近づくことができる。
3神の認知的十全性
詩人は神の全知をこう語り賛美する。「主よ、汝はわたしを究め、わたしを知っておられます。座るをまた立つをも知り、汝は遠くからわが思いを悟っておられます。歩くのもまた伏すのも見分け、またわたしの道にことごとく通じておられます。わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに、しかし、見よ、主よ、汝はすべてをご存知にいます。汝は前からも後ろからもわたしを囲み、わたしのうえにその御手を置いてくださる。その驚くべき知識はわたしにはあまりに素晴らしいものであり、それは高くて、わたしはそれに到達できません。どこへ行けばわたしは汝の霊から離れることができましょうか、またはどこに逃れれば、汝の御顔を避けることができましょうか。天に登ろうとも、汝はそこにいます。陰府(よみ)に床を設けても、視よ、汝はそこにいます。曙の翼を駆って海のはてに住むとも、そこにおいてさえ、汝の御手はわたしを導き、そして汝の右の手はわたしを捉えてくださる」(Ps.139.1-10)。
宇宙万物の創造主にして救済主である神の如くに完全になる、認知的に十全な者となるということは、ひと各人を構成している諸層、諸次元に通暁して、正しく認識し判断できるようになることである。ひとは誰であれ何をしていても道徳的存在者として善悪を判断して生きており、ひとは何をしていても社会的存在者として経済、政治、法律などのもとで判断しつつ生活しており、ひとは何をしていても生物的存在者として栄養摂取、代謝、生殖のもとにあり生物としての自己を自己に宿るウィルスの本性にいたるまで知ることが求められ、ひとは何をしていても物理的存在者として光や重力の法則等のもとに運動しており、また形而上学的(Meta-physics 物理学を超えた学)存在者として、「ある」と「あらぬ」と「成り去りゆく」世界において存在と消滅にかかわっている。宮沢賢治はこの形而上学的存在者についてこう問う。「われやがて死なん、今日または明日、あらためてわれとは何ぞやと考える。われは幾十かの原子と分子の結合なりせば、畢竟するところ真空と異なるところあらず、われは死して後、真空に帰するや、それともあらためてわれと感じるや」(「疾中」)。
パウロは死後の世界について、もし死者の復活がなければ、「飲めや歌えや、明日は死ぬ身だ」と主張する者たちの認識を伝える。パウロはそのような見解に「汝ら欺かれるな」と励ます(1Cor.15:32-33)。彼はイエス同様、ひとは死して真空に帰すのではなく、神の前に立たされると主張する。この尋常ならざる主張はひとつには人文、社会諸科学から生物学そして宇宙にいたるまであらゆる学問の通暁を介して、正しく吟味されることであるのかもしれない。しかし、これらすべての層が神の前に「在る」ものとして秩序づけられるとき、様々な分裂は癒され、一なる者として希望の生を生きる。ひとびとはその十全な全体の知識を持たずにも信により秩序を得、乗り越えてきたのである。信のもとにキリストの弟子でありうることを最も光栄なこととして、「艱難をも喜ぶ」(Rom.5:4)そのような秩序ある生が生み出されてきた。
その秩序は「内なる人間」を構成する「叡知」と「霊」によって基礎づけられ、ひとびとは不思議な平安を経験してきたのである。「叡知」については「汝らこの世界に同調するな、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを汝らが識別すべく、叡知(ヌース)の刷新により変身させられよ」(Rom.12:1-2)と励まされる。神の意志に叡知がヒットすることもあろう。パウロはまた言う、「わたしは汝らについて確信している、汝ら自ら善きもので満ち、あらゆる知識を十全に備えており、互いに忠告しあう力ある者たちであると」(Rom.15:14)。彼は自ら書く生死をめぐる形而上学的なことがらを読者が「読んで理解できる」はずだと主張する(cf.2Cor.1:13)。
われらは神の如き全知に向かう。ただし、自ら知恵ある者と誇る者がいたなら、こう警告される。「知識はひとを高ぶらせる、しかし愛は築く。もし誰かが何かを知ってしまっていると思うなら、未だ知るべき仕方で(kathōs dei gnōnai)知らなかったのである」 (1Cor.8:1 2 )。知るべき仕方とは何か。人間は神に造られた者として自然というテクストをまた人間というテクストを探求するその仕方であり、決して自らの発明に帰されることなくこれまで隠されていたロゴスの発見として、「その通り、本当だ」という同意による知識の獲得である。この信のもとにひとは正しく知識を持つにいたる。われらはこの己の認知的不十全性のなかで、自己が自己自身との一致において良心の咎めなく喜んで、平和を造る者となることを望んでいる。その希望はナザレのイエスの信の従順の生涯に基礎づけられている。
4「いっさい誓うな」の基礎づけ
イエスが群衆に「誓うな」とモーセ律法を急進化させるとき、その根拠はひとびとの誓いや約束など言葉の具現化力能、実行力の不十全性を指摘することによってである。ひとは己を正しい仕方で知らないからこそ、誓いを行うとイエスによって看做されている。彼は言う、「また汝らは古へのひとびとにより、「汝は偽って誓うな、汝の誓いを主に果たせ」と語られたことを聞いている(cf.Lev.19:12,Num.30:2-3,Deut.23:21)。しかし、わたしは汝らに言う、いっさい誓うな、天にかけても、というのも神の座であるから、また地にかけても、ご自身の足台であるから、さらにはエルサレムに向けても、大きな国の街であるから、汝の頭にかけても、というのも一本の髪の毛を白く或いは黒くすることもできないからである。汝らの言葉は「然り、然り、否、否」であれ、それ以上は悪しきものからでてくる」(Mat.5:31-37)。
この誓いの禁止は十戒の第二戒「汝は汝の神ヤハヴェの御名をみだりに唱えてはならない」(Ex.20:7)と関連づけられる。「主よ、主よと言う者が皆天の国に入れていただけるわけではない、天にいますわが父の御意(みこころ)を為す者が入れていただけるであろう」(Mat.7:21)。前文の偽りの誓いで引用した当該箇所(cf.Lev.19:12,Num.30:2-3,Deut.23:21)においても、神への誓い、訴えのおざなりな言葉への警戒が語られていたが、一旦誓ったならそれを守るようにという実践の戒めに移行させられてきた。主の御名を唱えることによって免責されるわけではない。イエスはそれを急進化させ、一切誓うことのないように命じる。というのも、一方で天から地まで一切が神の支配のもとにあり神の御意が実現されるが、他方、人間が自らに頼るには神の力能との関連においてあまりに微力であることの認識が働いているからである。ひとは自分の身長を伸ばすことも髪の毛を自然に即して白くも黒くもできない。
ひとは神との関係においておのれを知るとき、「然り、然り、否、否」しか誠実さをもって応答することができないところまで追いつめられる。それが自然に思えるとき、神とひとの関係が生きたものとして形成されているときである。自然が語り出すこと、テクストが語り出すことに耳を澄ますだけで、「その通りだ、然り(本当)だ(ita est verum est)」と心の内側からの同意が偽りなくなされることであろう。内側からの納得は双方が等しいものとなり、支配のもとでのいかなる種類の洗脳とはまったく異なる。
5神とひとを媒介するイエス
永遠の神と不十全な人間、この彼我の差は媒介者によってだけ橋掛けられ、近づくことが許容されるであろう。主の軛を主と共に担ぐとき、主の歩みからその柔和と謙りを受け取り、ひとは造り変えられていくことであろう。誓うなと語られるイエスご自身が共に軛を担う者に御意をなす力をそのつど与えてくださることであろう。神は善人にも悪人にも等しく雨を降らせ、太陽を昇らせたまう。敵もイエスがそのひとのために受肉し、死んだまさにそのひとのことである。「キリストがその者のために死んだそのかの者を汝の食物によって滅ぼしてはならない」(Rom.15:15)。われらが神に敵対していたときに、神は愛を示したとパウロは言う。「かくして、今や、われらは彼の血において義とされたのであるから、さらにいっそう彼を介して怒りから救われるであろう。なぜなら、もし、われらは、われらが敵であったときに、神と、ご自身の御子の死を介して、和解させられたのであるなら、さらにいっそう、われらは、和解させられた者として、彼の生命において救われるであろう」(Rom.5:9-10)。キリストに倣い迫害する者を祝福して呪わないとき、ひとは神に一歩近づくことになるであろう。
6聖書に記される神は完全か?
ここで一つの問いが提示されよう。旧約聖書において記されている神は完全であるのか、と。モーセ律法それ自身が急進化されうるものであるとするなら、神は真剣に人間と取り組んでいなかったのではないか。不十全な戒めを与えたのではないか。それに対しては、一つにはこう応答できよう。イエスは十戒の解釈として提示された600を超える律法に軽重の差異があることを認めている。イエスご自身は旧約のなかで新約を打ち立てようとする途上の生を今・ここで遂行している。その彼は神の律法を一つの体系のもとに捉え、軽重を明確に判別している。「ああ、なんということだ、学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばきそして憐みそして信をないがしろにしている」(Mat.23:23)。イエスは信の従順を貫いた。そしてそこにおいて公正なさばきつまり正義と憐みつまり愛が和解し両立するにいたったのである。
さらに問われもしよう、神には「忍耐」や「寛容」そして「後悔」など時間的経過を含む人間的な特徴が帰属させられるが、一切を知りしかも正義であとされる神にとって「後悔」のような不十全な認知は神の不完全性を示すのではないか。ノアが洪水のあと祭壇を築き捧げものをすると、主はその芳(かぐわ)しい香りを嗅いで、ご自身の心のなかで語った。「わたしは人間のために大地を呪うことを二度とすまい、というのも人間の心の想いはその若年から悪しきものだからである。わたしが今回為したようなすべての生き物を打つことは再びないであろう。地の続く限り、種蒔きの時と刈入れの時、また夏と冬、そして昼と夜は止むことはないであろう」(Gen.8:20-22)。
この疑問に対しては幾つかの応答が可能であるが、二つを挙げる。「神の賜物そして召命は変えられない」(Rom.11:29)とあるように、神ご自身のことがらとしては不変な神の意志において後悔は想定できない。しかし、神は、とりわけ、御子の受肉を介して時間的な存在者となることを引き受けており、歴史の展開のなかで不十全な人間により人間的に記述されることを許容していると思われる。それにより読者においては神の経綸の歴史的な展開をより身近なものとして理解できる。
一千年以上かけて編集された「聖書」は「神の言葉」であるのかという問いに対しては、それが神の言葉としての神の意志と認識の記述であるかどうかはイエス・キリストにおいて神の意志が知らされているほどには、明確に知らされてはいないと応えることができよう。ただし、聖書が神とひとの関わりの歴史のなかで神についての権威ある記述として残ってきた事実は神がご自身について人間の不十全な記述によってであれ、このように記録されることを認可したと想定することは十分に許容される。
続いて、二つ目の応答として、神話的な表象と非神話的な理論的把握のあいだに棲み分けはあっても、矛盾のないことを指摘できる。神は永遠の今において宇宙の外にいまし、同時に、とりわけ、御子の受肉を介して時間的存在者として記述されることを許容している。G.ライルは神話と理論的な議論のあいだの両立可能性を主張する。「神話はもちろんおとぎ話ではない。神話とは一つのカテゴリー[議論領域]に属する諸事実の、別のカテゴリーに適切な慣用語句における表現である。したがって、ひとつの神話を論破することは、それらの事実を否定することではなく、それらを再配置することである」([『信の哲学』上p.672)。
一つの文脈において「最初の人間」(1Cor.15:45,Gen.2:7)アダムの土をこねての創造神話は進化の過程におけるホモサピエンスの出現として自然的な組成の言語による対応を語りうる。例えば人間の創造と自然的な事象としての人間の発生は哲学的な力能と実働の様相存在論により再配置される可能性をわたしは見る。さらに蛇の誘惑によるアダムの堕罪神話は、悪の起源が宇宙論的な善悪二元論のもとに運命論的、宿命論的に逃れ得ないものではなく、歴史のなかで外から偶然入ったものであること、そして事実上生物的な死という形でそれに支配されているが、そこから逃れ得るものであるという一般的な議論に変換可能である。その神話を基礎にパウロが神学的なカテゴリーにおいて、どれだけ人類が悪から逃れうるものであるかを福音の宣教として説得的に論証しているかが問われる。
「神の怒り」については、神がモーセに十戒を付与したあと、アロンら流浪の民は待ちきれずに金の子牛を作り偶像崇拝に陥っていたことが範型的な事例として挙げられる。神は怒り「レビ人を用いて3千人を倒した」と報告されている(Ex.32:28,Rom.1:18-32)。他方、「ローマ書」1章においては「神の怒り」は勝手にせよという仕方で「欲望に引き渡す」ことによってまた「叡知の機能不全に引き渡す」という放任によって自らの義を知らしめている(Rom.1:24-26,28)。
パウロによれば「神の怒り」という神話的な表象も「欲望における不潔」や「恥ずべき情欲」そして「叡知の機能不全」に「引き渡し」を受けた者たちに矛盾なく適用されるものである。例えば確信犯として神に反抗し悪行に身を染める者たちは「彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけでなく、行う者たちを是認さえしている」(Rom.1:32)と神の前にいる罪人として記されている。彼らは神の「峻厳」や「怒り」を知ることはできても、「善性」や「憐み」を知ることのできない者と神に看做されている。これが叡知の機能不全に引き渡された者たちの認知的な偏りである。
また出エジプト記において、神の判断が「われを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問うが、われを愛しわが戒めを守る者には、千代にも及ぶ慈しみを与える」と報告されていた(Ex.20:5-6)。ここに神の恣意性、依怙贔屓を見出す者もいるであろう。それに対しては幾つかの応答が可能であるが、ここでは、業の律法のなかでは、もし罪に価する罰を課すことなく、三、四代で赦されたとするなら、それは人間的には「恩赦」としての憐みの賦与以上のものではないことである。「目には目を」の業の律法のなかでそれを減免している以上のものではない。人類の歴史において掛け値なしに正義と憐れみが両立するとするなら、それは神とひとにとって完全な関係であると言えよう。例えば、恩赦は正義にもとるとひとは考えよう。また溺愛は憐れみにもとるとひとは考えよう。神の正義と憐みの完全な両立はイエス・キリストの信を介してしか実現されなかった。神は人類に信実を貫いたことにより正義であり、その信は「愛を媒介にして実働して」いるところの憐れみを伴う信であった(Gal.5:6)。
7「信の律法」により「業の律法」に死んだ
業の律法と信の律法はイスラエルの歴史の展開のなかでモーセという人物が選ばれ、また時が満ちて、つまり好機に、ナザレのイエスが選ばれ彼らを介して神の意志として知らしめられている。モーセ律法がなければ、われわれの罪の自覚は乏しいものとなっていたことであろう。「律法は怒りを成し遂げる」(Rom.4:15)。またパウロは石板に刻まれた文字としての業の律法は罪に利用されるが、その律法は神ご自身の意志としては聖なるものであり、罪と律法が心に働きかけ三つ巴の戦いを引き起こすとして言う。「律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である。それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ、罪が善きものを介してわれに死を成し遂げていることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」(Rom.7:12-13)。神はイスラエルの心魂をめぐる歴史の展開に応じて、ご自身の意志を啓示している。業の律法によりいかにひとが良心にもとる自己撞着と癒着に陥っているかを明らかにする必要があった。もしイエスがモーセ律法以前に受肉して殉教の生涯を送ったとしても、自己の罪の自覚のないところではひとは真剣に子羊の贖罪を受けとめることはできなかったであろう。業の律法の啓示を介して一千年以上の神の民の訓練が遂行され、時が満ちて御子の受肉が生起した。
良心の葛藤、痛みからの解放は業の律法に生きる限り得ることはできない。パウロはイエスの業のモーセ律法の急進化を受けて、神ご自身にとって、より根源的なイエス・キリストの信の律法によりモーセ律法のもとに生きることをもはやせず、業の律法に死んだと主張する。「しかし、今やわれらがそこに閉じ込められていたもののうちに死にそこから解放された」(Rom.7:6)。すなわちわれらは山上の説教から解放されたのである。パウロは「ガラテア書」において自らの自覚としてこの業の律法から信の律法への移行を罪の値である死からキリストにおける生への移行として語る。「われは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。われはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわれは生きてはいない、われにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。
もはやひとは業の律法に即して生きることはない。ひとはちょうど「霊に即して」生きており、「肉に即して」生きてはいないが「肉において」生きているように、「信の律法に即して」生きており、「業の律法に即して」生きていないが「業の律法において」生きている。換言すれば、山上の説教に即して生きるのではなく、信に即して山上の説教において生きる。これが「愛を媒介にして実働する信」(Gal.5:6)の力である。「業の律法」は「信の律法」より少なく根源的であるが、神の意志である限り、天地が滅びるまで「律法の一点一画」たりとも廃棄されないと語りうる。業の律法の極が愛である以上、信に基づき愛の道を歩むであろう。罪赦されたことの証は愛しうることであった(Luk.7:47)。ひとは歯を食いしばってその信のもとに敵を愛することであろう。
この二種類の神の義の啓示を介して、信の律法のもとに生きる以外に義とされる道のないことが知らされている。「信に基づかないすべてのものごとは罪である」(Rom.14:23)。業の律法に基づくと神に看做される者は終わりの日にその業に応じて報いを受けるが、そこでは誰も義と看做されることはないであろうからである(Rom.3:20)。「ひとよ、汝は神の裁きを逃れると思うのか。それとも汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか。汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しい裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」」(Rom.2:3-6)。かくして、ひとは悔い改めにより怒りを逃れて信の律法のもとで罪の赦しの義認に向かうことができるだけである。
[付録]アンセルムス『神はなぜ人間になったか』における正義と憐みの信に基づく両立論証
神の子がまったきひとりの人間となり罪なしに信の従順を貫いた。そのイエスを十字架に磔ることは他の罪とは比量不能なほどの悪であるということは彼が比量不能なほどの善であったことを示している。イエスは業の律法の相対性、比較、比量の次元を突破している。神は人類に対し信(「まっすぐ rectitudo」)に基づき正義であり、その信はご自身の子を人類にたまう、その比量不能な愛、憐みを介して啓示された。アンセルムスは一つの思考実験としてイエスを殺さねば世界全体がそして神以外の一切が滅びるという想定のもとに弟子ボゾに選択を迫る。ボゾは彼を殺すか、それとも世界全ての罪を自らに担わされるかいずれかの選択において、「この行為一つを為すよりも、・・この世の一切の過去に犯された、また未来の罪をもこの身に受けたい」と応答する。
アンセルムスは微笑みつつ、一切の罪が神に対して犯されていることに注意を向ける。従って、万物一切が神のものであるその位格(父と子)への罪は、ひとの前のいかなるものとも比較を絶する。彼は言う、「このひとの肉体的生命に加えられた罪は、神の位格以外に加えられた罪がいかに大きくまた多くとも、比較を絶する(incomparabiliter)ことがわかる」(Cur Deus Homo 『神はなぜ人間に』II14)。キリストの殺害がそれほど比較を絶する悪であるとするなら、彼が「どれほどの善」であったかも分かる。「かくして君は見る、もしこの[イエスの]生がかのものども[罪]に対し捧げられるなら、この生がいかにして一切の罪に打ち勝つであろうかを」(II14)。
二巻十八章(II18)では、「人間の救済がどれほどの理をもって彼の死から帰結するか」が問われる。「彼以外誰一人、死をもって、いつか喪失する必然性なきもの[罪なき者に与えられる生命] を神に捧げ、或いは自ら負っていなかったもの[人類の罪]を神に完済した者はいない。彼はいかなる必然性によっても決して喪失することのなかったものを自発的に父に捧げ、自らのために負っていなかったもの[身代わりの死]を罪人たちのために完済した」(II18)。かくして、「神の憐みが、実はそれよりも偉大でまた正義なるものが考えられないほどに、偉大で正義にかなったものであることをわれらは見出した。・・父なる神が「わが独子を受け、汝の代わりに捧げよ」と言い、また子自身が「われをとり、汝を贖え」と言われた場合以上に、深い憐みを考えることができるか。・・全負債を超える値が、ふさわしい愛情とともに与えられている方にとって、彼が全負債を赦すことよりも何か正しいことはあるか」(II20)。ここに正義と憐みの両立のなかで、人類の負債一切が神の前で赦された。この両立においてこそ神の完全性は最も明白に知られるであろう。