福音のダイナミズム―律法からの解放―
福音のダイナミズム―律法からの解放― 日曜聖書講義 7月3日
聖書 ローマ書第八章
「かくして、今や、キリスト・イエスにある者たちにはいかなる罪の定めもない。二なぜなら、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放したからである。三というのも、ひとが肉を介してそこにおいて弱くなっていたところの律法の[遵守(じゅんしゅ)し]能(あた)わざることを、神はご自身の子を罪の肉の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その肉において罪を審判したからである、四それは律法の義の要求が肉に即して歩まず、霊に即して歩んでいるわれらにおいて満たされるためである。五なぜなら、肉に即してある者たちは肉のことがらを思い、他方、霊に即してある者たちは霊のことがらを思うからである。六というのも、肉の思慮内容は死であり、霊の思慮内容は生命と平安だからである。七それ故に、肉の思慮内容は神に敵する、なぜなら神の律法に従わないからである、というのも従いえないからである。八しかし、肉にある者たちは神を喜ばすことができない。九とはいえ、汝らは肉においてあるのではなく、霊においてある、いやしくも神の霊が汝らに宿るなら。だが、もし誰かキリストの霊を持たぬなら、その者は彼のものではない。一〇他方、キリストが汝らのうちにあるなら、かたや身体は罪の故に死であるが、他方霊は義の故に生である。一一しかるに、イエスを死者たちから甦らせた方の霊が汝らのうちに宿るなら、キリストを死者たちから甦らせた方は汝らの死すべき身体にも汝らのうちに宿るご自身の霊を介して生を賜わるであろう。
一二それ故、かくして、兄弟たち、われらは肉に対し肉に即して生きる義務ある者にあらず、一三というのも、もし汝らが肉に即して生きるなら、汝らは死ぬばかりだからである。しかし、もし汝らが霊により身体の諸行為を死なすなら、汝らは生きるであろう。一四というのも、神の霊に導かれる者である限り、その者たちは神の子だからである。一五なぜなら、汝らは再び恐れに至る奴隷の霊を受けたのではなく、われらがそのなかで「アッバ父よ」と呼ぶ、子としての定めの霊を受けたからである。一六御霊自らわれらが神の子たちであることをわれらの霊と共に確証したまう。一七もし、われらが子であるなら、われらは相続人でもある。かたや神の相続人であり、他方キリストと共同の相続人である、いやしくもわれらが共に栄光に与(あずか)るべく、共に苦難に与(あずか)っているのなら」(Rom.8:1-17)。
「ヨハネの第一の手紙」「われらはわれらが死から生に移行したことを知っている、というのもわれらはきょうだいたちを愛しているからである」(1John.3:14)
1生の全体を秩序づけるものは理性か信か
人類の歴史が伝える確かなものの一つに、信の根源性を掴んだ人々は、自らの信仰生活を最後まで持続しえたことがある。喜びがあるからである。ルターはこの信の根源性を「信仰のみ」即ち「信仰」プラス「愛」ではないと語った。彼はパウロの「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)に言及し、信が愛を生み出す力であるとした。親鸞も「罪悪深重、極悪熾盛」、「いずれの業も及びがたき身」として専修念仏の力のもと易行道を歩みぬいた。あらゆる行為の指針となりあらゆる行為に浸透する心の在り方をめぐる基本的理解は簡潔でしかも常にその確かさを確認できるものであるに違いない。それは身体にその座をもつ「感情」(ファウスト)でも、心の普遍的な一機能「理性」(アリストテレス)でもなく、その根底に宿る二心なき幼子の「信」である。そのさいそれが正しい信であれば、適切な理性や感情がそれに伴い、信の正しさは理性の逸脱である例えば自らを神とする狂信や感情の逸脱例えば恐れの過剰である迷信に陥ることなく、認知的、人格的態勢の成長を促す限りにおいて証されている。イエスは言う、「天国のことを学んだ者は皆自らの倉[心に蓄積された態勢]から古いものと新しいものを自由に取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:51)。
信仰の熱心に生きている人々は奇異の目で見られることがある。イエスご自身も天の父なる神と自らのあいだに、神の前とひとの前のことがらに籬(まがき)をもうけることなく、自らを神の子ないし神と共にある者と看做し、そのような言葉と行いを貫いた。彼の権威ある大胆さは人々を一方で信仰に導き、他方で躓きを与えた。信仰熱心なユダヤ人はイエスがキリストであることの「徴・証」を自らのために求めたが、正しい信仰者は自らの心魂の実験を介しつつ証することにその生涯を用い神に賛美を捧げる。一切を統べ治めています神の事柄は個々人の魂の事柄であり、なぜなら魂は神の意志を知りうるとされているからであるが、その魂が実験と検証の場所である限り、常住坐臥のこととなる(Rom.12:1-2)。
イエスは「神の子の信」により信の従順の生涯を貫いた(Gal.2:20)。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。人類のなかに、まことにひとであり同時にまことに神の子である方がおられる、これを信じるかが問われている。聖書をとりわけ福音書を読むことによりひとは次第にナザレのイエスがわれらと同じひとであり、しかもわれらと同じ単なるひとではないことに気づいていく。そのことに内側からの納得が得られるとき、信じることの喜びが生起する。信の根源性は心魂の根源を形成するものであるがゆえに、一切の行為がそこから生まれてくるそのような心魂の全体にかかわるものとなる。
感情や理性を心魂の根源に据えるときにも、それらはあらゆる営みを導くものとなるであろう。アリストテレスにおいては、身体的な情動(パトス)である怒りや恐れや快に対して良い態勢にある正義や勇気そして節制という人格的な態勢は心魂の「徳・卓越性」と呼ばれる。心魂の善悪に関わる人格的態勢と真偽に関わる認知的態勢はその人格的成長と認知的成長を常に補いあいつつ、導きあう。個々の状況において何を為すのが最善の行為かを知るに至る「実践知・思慮深さ(phronēsis)」が正義や勇気等の人格的態勢を秩序づける。彼は実践知について「人間的な善に関わる行為力能上のロゴス(理)を伴う真なる態勢である」と特徴づけ、その心魂が何を為すべきかをめぐり真なる態勢にあるということは「正しい欲求に同意している状態」である(Nic.Eth.6.2,1139a30)。可能な行為の選択肢のなかで最善のものを認識することは、「全般にわたってよく生きること(to eu zēn holōs)に対してどのようなものがよいか熟慮しうること」(1140a28)に基づく。
かくして、実践知は自らの人生全体においてよく生きようと欲求する人格的態勢の成長のもとに、最善の行為を捉える理性の働きである。それ故、今・ここの状況における最善の行為に関わる実践知は指令的なものとなる。「選択を正しいものにするのは徳であるが、選択のために本来なされる限りの[手段的な]ものごとは徳ではなく、それとは異なる力能に属する。・・「才知・頭のよさ」と呼ばれる力能がある。これは設定された目標・目当て(skopos)に向かって進んでいくものごとを実行することができ、当の目標に到達する力能のことである。かくして、当の目標が美しい場合は、この力能は賞賛されるが、その目標が卑劣なものである場合は、それは「狡知・ずる賢さ」にすぎない。それ故、実践知者(phronimos)も才知があるとわれらは言い、狡知にたけた者もまた才知があると言う」(Nic.Eth.6.12,1144a20-28)。
有徳な者は正しい行為を正しい行為それ自身の故に選択するように、正しい選択とその正しい実践は有徳の証であり、実践知はその有徳性に伴う認知的卓越性である。「あらゆる[勇気、正義等の人格的]徳は同時にひとつの実践知に内属するであろう。・・かくして、この正しい選択は実践知なしにはまた[人格的]徳なしには成り立たないであろう。なぜなら、一方徳はゴールを実践せしめる(poiei prattein)が、他方、実践知はゴールに向かうものごとを実践せしめるからである」(6.13,1145a1-6)。立派な人間は正しい人生の目標を持ち、正しい動機付けによりそしてそのゴールに向かう正しい方策、手段により成し遂げることのできる者である。この意味で、理性は指令的、律法主義的なものである。
他方、もし感情や気分を生の根底におくなら、そのつどの身体的な反応に基づき行為が選択されることとなり、その生はカオスとなり、秩序は生まれないであろう。よく生きようとする者にとっては生全体が問われるそのような根源的な生の原理が求められている。ひとの心魂とその在り方により形成される生とは秩序なきものものであり続けることのできない、そのようなものであると言うことができる。ひとは分裂があるとき、その分裂の癒しを求めざるをえないということに他ならない。アリストテレスの理性は心魂の人格的かつ認知的態勢の成長に伴う実践知により秩序づけられうるとし、聖書は信により神との正しい関係を持つことなしには分裂は癒されないと主張する(信と理性の両立性について、ここでは議論できない)。
2業のモーセ律法からの解放における罪の贖い
イエスやパウロは信の根源性を当時のパリサイ派律法主義者等の業のモーセ律法の根源性の主張との対比において捉えている。イエスは山上の説教でモーセ律法を乗り越え、心魂の根源を問う形で極性化する。彼は山上で「裁くな」、「色情を抱くだけで姦淫」、「左頬をも向けよ」とモーセ律法を純化し究極の業の律法を語りつつ、「まず神の国とご自身の義を求めよ」と信仰に招く(Mat.6:33)。彼はこの「天の父の子」、「神の子の信」により信の従順を貫き、「福音」即ち「信じる者に救いをもたらす神の力能」を歴史に確立した(1:16)。
イエスは「律法の一点一画も廃棄されない」その神の意志への尊敬のなかで、「律法全体と預言者が依拠している」愛に業の律法を集中させ、信の従順により愛の律法を成就した(5:45,17,22:40, Gal.2:20)。イエスは野の百合空の鳥に見られる神の愛を自ら生き抜き自らの信義の証の復活を通じて、信義と「義の果実」としての「愛」これら二つの神の義を媒介した(Phil.1:11)。信は神との義を形成し、その義の果実として愛が形成される限りにおいて、正義と愛はナザレのイエスにおいて両立するものとして生きられた。神はこのイエスの信の生涯を嘉みし、「すべての者は罪を犯した」が「キリスト・イエスにおける贖いを介してご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たち」であることを知らしめている(3:23-24)。贖いとは人々の罪をキリストの血によって買い取り義を贈りものとして与えることである。
神の愛を素直に受ける信の根源性に至るためには罪の定めに至る業のモーセ律法からの解放が求められる。「業に基づくすべての肉は神の前で義とされないであろう。というのも、律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(3:20)。その解放とは罪に定める業の律法からの解放である。それは業の律法の指針のもとに生き、目の塵と梁の間で自他の裁きと貪りがもたらす自他の破壊に疲れ、モーセ律法をただ投げ捨てることではない。生の規範を投げ捨てた心は空になり、本願誇りにより何をしても赦される無律法主義や「善を来たらすため悪を為そう」偽悪主義が蔓延り、空の「わが家」に悪霊が入り込む(2:12,3:8, Mat.12:43-45)。福音の故に律法は乗り越えられる。律法を捨てると同時に罪が贖われ義とされたことを受け取る。
業の律法からの解放は罪に死んだことを含意すると共に義の生命を受け取ることである。「わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(7:4-6)。律法に死んでしまった以上、立派な行為やそれへの誇りからも解放されてしまっている。
律法への隷属はどれだけ規範、恐れや裁き、軽蔑、羨望等より縛られているかにより認識される。律法のもとでは偶像を「拝む―拝まない」、「貪る―貪らない」等各人の責任ある行為の二者択一が問われ、その遵守により自らを義とする誇りが残る。律法に死んだ者はこの二者択一のなかで立派な行為を常に気にかけ、それ故に自他を審判することはもはやない。「神ご自身の恩恵による贈り物」である罪の赦しのあるところ、「義を受け取る者たち」に誇りはない(3:24)。「誇りはどこにあるか、閉め出された、それは業の律法を介してか。然らず、信の律法を介してである」(3:27)。信の律法のもとでは「信じる―裏切る」の二者択一となる。神の愛がキリストにおいて既に与えられているからである。信じることは未熟な幼子でもできることである、或いは素直なそして保護者なしには生き得ないことを直覚的に知っている幼子にこそできることである。
3キリスト・イエスにおける生命の霊
裁きと罪の欲情から解放された心は信がもたらす義の新しい生命によって満たされる。「しかし、今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(8:2)。「わたしは神によって生きるために、[信の]律法を介して[業の]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。疑いなき幼子の信は神からの愛の促しのもとに生起する。「希望の神が、汝ら、聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で汝らを満たしたまうように」(Rom.15:13)。信じうること、ただそのことが嬉しい。
信→義→愛、ここに福音のダイナミズム、力動性がある。律法から解放された心魂にこの生命が流れ入る。放物線が接戦に触れるように、天来の愛がもたらす生命が現在、今・ここに注がれ、過去と未来による支配からも解放され、時との和解が生起する。キリストの軛を担い彼と共に信義の道を歩むとき、共軛の牛の体温のように彼の柔和と謙遜が伝わる。キリストと共にある平安と喜び、福音の力に触れている者はそこから一切の思考と行為がうみだされていく。ルターは言う。「わが心のうちに一つの箇条即ち、キリストの信(Fides Christi)が統治している。それはそこから、それを介してそしてそこへとわがあらゆる神学的思考が、昼も夜も、流れいでそして流れ戻るところのものである」。
4 結論
福音と律法の相違は直接法「汝の罪赦された」が先行し、命令法「それ故に汝相応しい実をむすべ」が後行するか、「汝これこれ為すべし、これこれ為すべからず」の命令法が先行し、直接法「汝罪赦された」が後行するかのいずれかにより判別される。クラーク先生は明治初期札幌農学校に赴任するさい、ただBe gentlemanとだけ言った。これが命令法であるとするなら、われらはWe shall be gentlemen and ladies.と勧奨にかえよう。業の律法は生命をもたらさない。理性は律法主義であり、それ自身としてはわれらに救いをもたらさない。信なしに人類は神との正しい関係ひいては人間との正しい関係を生み出すことはできない。信を根源とするか理性を根源とするかそれが問われている。人類の歴史を振り返ろう、自らの歴史を振り返ろう。そのとき、われらに救いをもたらすものが何であるかを知ることになるであろう。