正しい信仰と聖霊の果実 日曜聖書講義
正しい信仰と聖霊の果実 日曜聖書講義 7月10日
聖書 ローマ書第六章
「それでは、われらは何と語ろうか。われらは、恩恵が増すべく、罪に留まろうか。二断じて然らず。誰であれ罪に死んだ者であるわれらは、いかになお罪に生きるであろうか。三それとも汝らは知らぬか、キリスト・イエスのなかへと潜浸された者であるわれらは彼の死のなかへと潜浸されたことを。四かくして、われらは死のなかへの潜浸を介して彼と共に埋葬された、それはまさにキリストが父の栄光を介して死者たちから甦らされたように、そのようにわれらもまた生命の新しさのなかに歩むようになるためである。五なぜなら、もしわれらが彼の死の似様性に一致したものとなったのなら、復活のそれにもなるであろうからである。六われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えることがないためである。七それはすでに死せる者は、罪から[離れ]義とされてしまったからである。八もしわれらがキリストと共に死んだなら、また彼と共に生きるであろうことをわれらは信じる。九キリストは死者のなかから甦らされてもはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことをわれらは知っているからである。一〇なぜなら、彼が死んだ死とは、罪に対して一度限り死んだところのものであり、他方、彼が生きる生命とは、神に対して生きるところのものだからである。一一汝らもまた同様に自らが罪に対しては死んでおり、キリスト・イエスにおいて神に対して生きている者であると認定せよ」(Rom.6:1-10)。
1宗教と理性
ひとは宗教に躓く。とりわけ、理性とは別の生命原理と言える「霊」と呼ばれる「内なる人間」(Rom.7:24)という心魂の部位に躓く。確かに、理性のみにより、ひとは宇宙の起源を知り、月にロケットを飛ばし、人々の病を癒し、生命の設計図を解明してきた。理性の確かさは疑いえないものとして現代社会に屹立している。宗教は理性の逸脱である狂信や感情の逸脱である迷信に陥ることがある。そこから宗教一般が否定される。聖書が理性の吟味に耐えうるものであるかの探求が不可欠であるゆえんである。たとえどんな小さな果実に見えようとも、この伝統のなかでわたしも福音書とパウロが伝えるイエスがキリストであることの主張に矛盾を見出すことがないことが判明し安堵した。ローマ帝国を素手で滅ぼした「ローマ書」が無矛盾であることを証明できたと思う。もしこれが確立できなければ、何が迷信であり、何が狂信であるかの明確な基準をもたなかったであろう。
理性を究極的に支えているものが矛盾律という存在と思考の原理である。誰であれ、世界を観察することなしに、つまり感覚的知覚や経験に訴えることなしに、理性のみにより矛盾律「一つの視点からAはAであると同時にAでないことはない」の正しさは揺るがない。矛盾律を否定し矛盾律は成立しないというひとは、「矛盾律は正しいと同時に正しくないということはない」という矛盾律に則って「矛盾律は正しくない」と主張しており、自己論駁的である。つまり、自らが暗黙の裡に前提している矛盾律のもとに矛盾律を否定していることに気づいていない。理性はこのように矛盾律に基づき、どこまで聖書が語っていることが無矛盾であるかを吟味する。
パウロの聖霊の議論は理論的に無矛盾であることは一般的に保証できる。そのうえで、その聖霊を経験するかどうかは各人の人生の今・ここの経験に依存している。今、迷信でも狂信でもない正しい信仰について語ることができる。その一つの徴、証はこうである。ユダヤ人は信仰熱心であったが、イエスがキリストであることの証明をことあるごとに要求したことが福音書に記録されている。イエスは「よこしまな時代は徴を求める」と言う(Luk.11:29)。正しい信仰のもとにある者はイエスがキリストであることの徴を自らの信仰の増強のために求めるのではなく、神の栄光をあらわすべくイエスがキリストであることを自ら証し、証人となる。方向が逆となる。心の清いひとは正しい信仰のもとにある。聖霊の働きを迷信や狂信から異なるものとさせるのがその果実、結果である。パウロは聖霊を受けていることの証として以下の心的態勢を挙げる。「聖霊の果実は愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、信、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」(Gal.5:22)。これらは有徳者の心魂の態勢であり、それが信の根源性のもとにうみだされる限りにおいて、誰もその信仰を狂信や迷信であると非難することはできない。信仰を持つ者はこのような立派な人間になることを自らのためにではなく、自らの古き自己を葬り新たな生命にいかしめてくださる神を賛美するために求める。生きることは復活の主と共に生きることであり、イエスがキリストであることの証となる。
2「古きひとは共に磔られた」
「ローマ書」6章の古き自己の死と新しい自己の生を理解するには、なぜ二千年前の過去の出来事が今・われらの「ふるき人」の死でもあるのかということを理解することが肝要である。「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えることがないためである」。これを理解するのに40年を費やした。「われら」はパウロにとっては二十年前、現代人には二千年前に十字架に共に磔られ死んでしまったとパウロは語る。「われらの古きひと」の死の知識主張において、古い罪の自己はキリストの死とともに死んでしまった、そして新しい生命は彼の復活とともに始まったと神は理解していることを聖霊の証のなかで「われら」の知識のことがらとして主張する。キリストの身代わりの死の目的は「罪の身体が滅び」、甦った方において生きるためである。この過去の出来事を現在の出来事とすること或いは現在の出来事をあの決定的な過去の出来事と結びつけること、それが聖霊の力である。聖霊について正しく理解することが求められる。
3過去を現在の出来事とする聖霊の働き
ここまで業の律法からの解放について「罪の誘惑」と題し八回ローマ書7章の吟味を通じて語って来た。もはやわれらは業のモーセ律法のもとに生きてはいない。「~すべし、そうすれば、正義と看做され救われる」という類の命令形が先行する世界には生きていない。パウロはイエスの十字架上の死と復活の出来事を中心にして一切を受け止め直す。なぜなら、それは神の信義と愛の最も明白な知らしめ、啓示であったからであり、そこにおいてこそ最も明白に神の人間認識そして意志、行為を知ることができるからである。この啓示内容は「神の知恵」と呼ばれ、何らか理解されうるものである。「私は成熟した者たちの間では[神の]知恵を語る」(1Cor.2:6)。パウロは神の知恵の啓示であるキリストの出来事をこのようにまとめる「四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:4-6)。
この福音のダイナミズムをわれらが理解するとき、知性のうえでも人格の上でもわれらの心魂はその根源から信義に基づき秩序づけられることになるであろう。そこで乗り越えるべき大きな障害が古き自己の死である。自分で業の律法を捨て去っても、別の律法や誘惑にまけるだけである。「わたしは信の律法により業の律法に死んだ。もはやわたしが生きているのではない。キリストがわがうちにあって生きている」(Gal.2:20)。キリスト・イエスにおける生命の霊によってのみ、律法のもとにあった古き自己の死と復活の主とともなる新しい自己の生が生起する。端的に言って、聖霊の今・ここの執り成しなしに古き自己の死と新しき自己の生の出来事は理解できない。
ローマ書は方法論上、「知恵の説得的議論」と「霊と力能の論証」の相違を明確に判別している(1Cor.2:4)。彼は「一四ギリシャ語圏の者にも異言語圏の者にも、知恵ある者たちにもまた愚かな者たちにもわれ負うべき責めを持つ」(Rom.1:14-15)と語り、哲学者、知者に対しては、聖霊の今・ここの働きに決して訴えることなしに、啓示の言語として「神の知恵」を展開している。ローマ書1:17-4:25における神の義の二つの啓示行為即ち罪への神の怒りとイエス・キリストの信を介した神の義と信じる者の義認の報告においては「聖霊」への言及が見られない。さらに、9章から11章において、予定の教説を展開するが、そこでも「聖霊」への言及は見られない。
それに対し、「ローマ書」5-8章は神の前と「肉の弱さ」においてあるひとの前の聖霊による媒介の議論が展開されている。これらの章の特徴は1-4章の啓示の言語においては啓示の差し向け相手は三人称「彼ら」「誰であれ~なひとは」と表現されていたが、それと異なり、一人称複数「われら」ないしパウロが手紙を介して呼びかける「汝ら」という二人称が用いられている。呼びかける対象はパウロの発話の状況のもとにある具体的な者たちことである。
これら四つの章においてはパウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)とし、「われら」、「汝ら」の視点から福音を自らのこととして今・ここで受け止め直す。そのさい、パウロの自覚として聖霊の今・ここの執り成しを受けているという自覚のもとに議論を展開している。パウロは、例えば「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている[現在完了形]」(Rom.5:5)と語りかけるが、その発話のただなかで今・ここにおいて愛が注がれているという自覚のもとにある。もし聖霊の執り成しがないとき、この発話がなされた場合にはこの文章は偽となるそのようなパウロにおける聖霊の働きの証として議論は展開されている。これを「今・ここのエルゴン(働き)言語」と呼ぶ。「六われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている」という知識主張は聖霊の執り成しのなかで、あの十字架の出来事はまさにわれらの古きひとの死であったということが執成されており、聖霊の証故に知識として主張している。それ以外にこの箇所を正しく理解することはできない。
4 理性と聖霊の働きの相補的な論証―ロゴスとエルゴン―
パウロは神の知恵を語るとき、聖霊に対する言及なしに語る。聖霊はその神の前のことがら、即ち神の認識や判断、行為等「神の知恵」を何らか人の前のひとの現実とさせる力である。神の前の人間現実と人の前の人間現実はパウロにより相互に異なる言語網において展開されている。前者は神の啓示行為に基づき、福音の宣教においてパウロが「知恵ある者たちにも愚かな者たちにもわたしは負うべき責めを持つ」、その「知恵ある者」に対応するべき神の知恵の報告である(Rom.1:16)。「わたしは成熟した者たちのあいだでは神の知恵を語る」(1Cor.2:6)。ここで「神の知恵」とは「キリストが神の知恵となった」(1Cor.1:30)と言われるところのそのキリストのことである。所謂信に基づく義(信仰義認論)と選び(予定)の教説は「知恵」に訴えて展開される。「深いかな神の知恵と認識の富とは」(Rom.11:33)。信に基づく義の議論(「ローマ書」1:17-4:25)および選びの教説(9:6-11:36)において、この知恵の説得が聖霊に対する一切の言及なしに遂行されている。パウロはこれを「知恵の説得的議論」と呼ぶ。
知恵の説得的議論においては、ひとの心的状態は直接には問題にされずに、神にそう「認定される(看做される)」場合には義人であり、或いは神の怒りの対象とし、悔い改めを迫られているとする議論が一般的に三人称で展開される。彼はこの神の知恵の報告を「わたしは汝らに或る部分において一層大胆に書いた」と述べている(Rom.15:15)。
この知恵の説得とは別に、神の前と人の前の双方を媒介するものが今・ここにおいて働く(D)復活の主キリストないし聖霊であり、その議論は「霊と[神の]力能の論証」と呼ばれる。(エルゴンD)「神の愛はわれらに賜った聖霊を媒介にしてわれらの心に注がれてしまっている[現在完了形]」。このパウロの発話はその発話の時点で聖霊が注がれていない場合には偽となる、そのような今・ここの働きのなかでの語りである。聖霊を媒介として神の愛の今・ここの働きはそこからロゴス言語として(ロゴスD)「もし神の愛が注がれるとするなら、それは心への聖霊の賦与を媒介にする」と一般的な言明を引き出すことのできるものである。
条件文「もしキリストが汝らのうちにあるなら」(Rom.8:10)においては、キリストや聖霊の執り成しがある場合もない場合もあることを含意している。神が怒りの啓示として各人の裁量に「引き渡して」(Rom.1:24)しまっているときには、聖霊の媒介行為は悔い改めに導く場合にだけ想定される。ただし、人智を超えた神の自由は確保されたままであり、聖霊の執り成しの証は罪との葛藤さらには平安、愛の生起において確認される。
このように一方では聖霊への言及のない知恵、ロゴスによる説得があり、他方、それと平行した仕方で聖霊の力能の働きに訴えたエルゴンによる論証がある。双方が相補的な仕方で展開されている。パウロは「ローマ書」においてこれら二つの視点から分節することを許容する仕方で彼の神学議論を体系的に論じた。福音をロゴス次元において神の前のことがらとして分節することが許容されるとき、ひとはその証としてのエルゴンにより、その正しさを確認し、ロゴスの明晰性はそのエルゴンの純化に貢献するであろう。そこには聖霊の執り成しが働いてもいよう。「わたしは、神に向かうことがらに関して、キリスト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、神の霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:18-19)。パウロは自らの宣教活動が主イエスの自らへの内在によるものであることを誇っている。彼の自覚としてはキリストが彼を介して理論と実践を展開している。また彼のこの自覚とは別に肉にあるものとしてその宣教の言葉と働きそれだけを「語る」として自らの責任において遂行していることをも明確にしている。
福音書においてもイエスご自身の福音宣教が「エルゴンとロゴスにおいて」遂行されたことが報告されている。復活の主がエマオへの道を歩く弟子たちに同行したさいのことである。彼らは傍らを歩く復活の主に「神とすべての民の前にエルゴンとロゴスにおいて力ある預言者となったナザレのイエスに関わるものごと」について語った(Luk. 24:19)。何であれ、論証や証が説得的となるためにはロゴス・理論とエルゴン・実践双方が導きあい、補い合うそのような議論が不可欠となる。複層的な関係を形成するロゴスとエルゴンは、伝統的そして今日的な表現を含めるとき、多岐にわたり枚挙できる。例えば、理論と実践、知識をもたらす推論と発見的探求、論証(証明)と帰納(実験検証)、語彙の意味の説明言表とそれにより指示される(働きにある)ものごと、抽象されたものごとと具体的な今・ここのものごと、ソフトとハードウエア、遺伝情報とその読み取り、楽譜と演奏等として分節され、そしてそれらは相互にそれぞれを必要としている。
聖書においても、具体的には、憐れみの発動というエルゴンにおける主のロゴスによる宣教はこう報告されている。「彼が外にでると多くの群集を見た、彼らが「飼い主のいない羊のごとく」彷徨っていた。イエスは彼らを深く憐れんだが、この今・ここの憐みのエルゴンが「彼らに多くのものごとを教え始めた」とあるよう言葉を生み出している(Mak.6:34)。ここで主イエスは天国について「多くを教えた」のであり、言葉による宣教である。「ローマ書」の信に基づく義と選びは神の知恵の一つの報告であった。
彼らの宣教活動はこの種の理論(ロゴス)とそれに伴う実践(エルゴン)により構成されていた。パウロは言う、「われらの福音は言葉において(en logōi)だけではなく、力能においてまた聖霊においてもそして確証の十全性においても汝らに生起した(egenēthē)」(1Thes.1:5)。パウロはさらに言う、「「受け取るべき好機に、わたし[神]は汝に聴いたそして救いの日に汝を援けた」。見よ、今や歓迎すべき好機、見よ、今や救いの日。われらは誰にもいかなる躓きを与えることなしに(それはわれらの宣教の奉仕が咎められることのないためであるが)、あらゆる場合において神の奉仕者として自分たちを表現している、大いなる忍耐において、艱難において、窮乏において、行き詰まりにおいて、鞭打ちにおいて、監禁において、暴動において、労苦において、徹夜において、断食において、貞潔において、知識において、寛容において、親切において、聖霊において、偽りなき愛において、真理のロゴスにおいて、神の力能において(en logōi alētheias, en dunamei theū)、右手と左手の義の武器を介して、栄光と恥を介して、悪評と好評を介して[われらは自分たち自身を表現している]。われらは迷わせる者また真実である者として、知られていない者そして知られている者として、死につつある者としてそして見よわれらは生きている、懲らしめを受けつつそして殺されていない者として、悲しむ者しかし常に喜んでいる者として、貧しい者としてしかし多くを富ましている、何も持たない者としてそして一切を持っている[そういう者として自分たち自身を表現している]」(2Cor.6:1-10)。福音は一つのロゴスであり、そして各人のその証、自己表現・プロデュースは一つのエルゴンである。
結論
イエスご自身山上の説教をロゴスとして一般化されうる教えとして語り、そしてそれを信の従順により力の限り生き抜いたそのエルゴンにより、彼はご自身の言葉・ロゴスの正しさを今・ここのエルゴンにおいて証していたまう。彼の人格からにじみでる権威は彼の力ある聖なる言葉とそれに対応する力ある聖なる働き、即ちロゴスとエルゴンの合致に基づくものであった。彼の言葉は生きられることにより、偽りはなかった。そのような染みや傷、汚れなき聖なる方には甦りによる永遠の生命こそふさわしい。死は「罪の給金」(Rom.6:23)だからである。この人格は神ご自身により「わが愛する子、わたしは汝を嘉みした」と神の子として祝福されたが、御子の復活は永遠の生命の交わりのうちにいたまう父と子にふさわしいものである(Mak.1:11)。
付録アンセルムス「神はなぜ人になったか」。ボゾはこれらの長い対話の終り近くで、信じうることそれ自身が喜びであることを表白するが、それは信が明確なロゴスをもっていたことの認識からくる喜びである。「何もこれ以上理に適うものはなく(nihil rationabilius)、何もこれ以上甘美なるものもなく、何もこれ以上、世が聞くことのできる望ましいものはありません。私はこのことから、わが心がどれほど喜びにあふれているかを語ることができないほどの信を抱きます。といいますのは、神はこの御名のもとにご自身に向かういかなる人をも受け入れたまわないことはないと私には思われるからです」 (II19)。