その心によって清い者は穢れと偽りを克服する

日曜聖書講義 2021年5月2日

その心によって清い者は穢れと偽りを克服する

聖書

 「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:1-12)。

第六福 「祝福されている、その心によって清らかな者たち(hoi katharoi)。彼らは神を見ることになるからである」(Mat.5:8)。

 

1心とその清さ

 心の清い者が平和を造る。「その心によって」即ち心魂の根底から全身にいきわたる仕方で混じりけがなく、純一であり、統一されているということ。「清さ」は心の一つの根底的な態勢、構えであり、そこから良きパトスや行為が湧き出てくるないし遂行される。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置くものはいない。入ってくるひとに光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い」(Luk.11:33-34)。

 心の清い者、清くされた者は神を見る。ヨブ「どうかわたしの言葉が書き留められるように・・。私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27)。

 「心(kardia)」は聖霊が注がれる心魂の最も深い座をも含む思考や感情など心的働きの座である(Rom.5:5)。「魂 (phsuchē)」は基本的に生命を司る生命原理であるのに対し、「心」は意識などの心的働きの主体である。例「汝の宝のあるところ、そこに汝のもある」(Mat.6:21)。「汝らのおのおのがその心から兄弟を赦さないなら、天の父も汝らに同様に赦さないであろう」(Mat.18:35)vs.「身体を破壊しても[生命原理]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:26-28)。

 清さは身体全体に行きわたる「良心」と密接な関係にある態勢である。この一貫性こそ神に嘉みされる、神が喜ばれる心魂の態勢である。清い者は神を見るであろう。「良心」は「共知(con-science)」である。何と共に知るかが問題。最終的には神と共に知ることが良心の究極の働きとなる。「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11)。良心とは神に明らかなことがらが自らにも明らかになるその心の認知的座である。ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことがらが自らや隣人にも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。

 イエスは山上の説教において敬虔なパリサイ人の偽りを指摘している。彼らは道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人前での善行により人々からの称賛と有徳を誇り、律法の形式的遵守の故に正義を主張し、その結果天国を正当な権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:5,6:17)。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。背後に過剰を欲する貪欲が支配している。

 

2穢れ

 眼がくらむとはまさに貪欲によりわれらの生が引きずり回されることに他ならない。清さの対義語は穢れである。イエスは「汚れた霊(akatharton pneuma)」の譬えを語る(Mat.12:43)。先週学んだ譬えの分類からすれば、これは宗教的な観念についての事例による説明であり、「例話(Beispielerzählung)」と呼ばれるであろう。霊はウィルス同様宿主を必要とする。「穢れた霊は、そのひとから出ていくと、砂漠をうろつき休む場所を探すが、見つからない。そのとき言う、「そこから出てきたわが家に戻ろう」。戻ってみるとそれは空き家になっておりまた掃除が為されており整頓されているのを見出す。そこで出かけてゆき、自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込み、住みつく。かのひとの最後は最初よりも一層悪くなる。この悪い時代によってもまたこのようになるであろう」(Mat.12:43-45)。

 「空き家」とは心の隙間、空虚のことである。空虚な油断した心に霊は自分よりも悪質な七つの悪霊を引き入れると、そのひとの内面は一層悪くなる。ひとは何か自分とは異なるものにより引き回され、自らをコントロールできないそのような感覚を持つことがある。この七つの悪霊の話はそのような状況を思い出せば理解できる。もしそのような経験はないと言うなら、自らの心の内奥の動きを観察することが求められる。パトスと呼ばれる、自分でコントロールできずに湧いてくる感情や欲求なども、単に生理的なものというわけではなく、その背後に自らの心魂を破壊しようとする否定的、破壊的な勢力を見出すこともあろう。この発見は聖霊の発見と同様に重要なことである。

 心の清さと空き家、即ち心の空虚さは別である。その心によって清いものは心魂の根底から純なる一なるものに思いを寄せており、二心や三つ心から自由である。心から信仰のもとにあるとき、心は満たされているため空虚になることはない。幼子の信仰がそこにはある。イエスが単純な子供を好きであるのは、あれこれ自分に有利なように策略をねったりしないからである。ああ、幸いだ、心の清い者たち。

 しかしながら、清さ、純粋な混じりけのなさを人生において追求することへの反論が提示されよう。「清濁併せ呑む」ことこそ大人の条件である。免疫系に見られるように異質なもの、複雑なものが自己を構成していたほうが強いのではないか。良心の発動などくそくらえだ。どこまでも良心は麻痺しうるものであり、強者は思うがままに振る舞う。良心を持ち出す人間は弱者であり、強者への怨念があるからこそ、平等を語り、社会的弱者の救済を語るのではないのか。「強者の利益こそ正義である」(プラトン『国家』第一巻)とは古来語られてきた陳腐なことであると言える。そのような弱肉強食の社会をひとは求めているのであろうか。単にそれ以外の人生の選択肢を知らないから、そのイワシの大群の流れに身を任せて泳いでいるのではないのか。

 しかし、身体においても痛みに気ずかず麻痺してしまったなら、どこまで身体が破壊されているかわからないように、良心が麻痺してしまったなら、どこまで心が悪くなってしまうかわからない。われらの心が清くないから、そういう者たちが祝福されていると思われるのである。「聖性の霊」(Rom.1:4)に即して神の光に照らされるとき、穢れに気付き、良心が疼く。清いイエスをより知ることにより清さへの憧れを持つに至る。

 イエスは群衆が押し寄せてきたため、ペテロに船をだすよう依頼し、船の上から説教した。そのあとペテロに漁にでるように勧めた。「二艘の舟を魚で一杯にしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモンペテロはイエスの足許にひれ伏して、「主よ私から離れてください。私は罪人です」」(Luk.5:8)。大漁であることと自らの罪、穢れの告白といかなる関係にあるのか。ここで実はペテロに漁に出るよう勧めたとき、ペテロは疑ったのであった。昼間だったからである。ガリラヤ湖では夜が漁に適しておりそして昨夜も不漁であった。この伏線のもとでの大漁であった。自ら疑ったペテロの告白は聖なる清らかな方を前にして咄嗟にでた言葉である。「主よ私から離れてください。私は罪人です」。聖なるものにふれたとき、われらは畏れに捕らわれる。同様に、子の癒しを懇願する父は言った。「おできになるなら、憐れんで助けてください」。そうするとイエスは言われた。「「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる」。その子の父はすぐに叫んだ。「信じます。信なきわれを憐み給え」(Mak.9:23-24)。

 イザヤは畏れ慄きつつ神を賛美する。「聖なる、聖なる、聖なるかな万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う」(Isaiah.6:3)。「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。汝が畏るべき方は主、御前に慄(おのの)くべき方は主」(Isaiah.8:13)。そのイザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは穢れた唇の者。穢れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は主なる万軍の主を仰ぎ見た」(6:5)と言う。

ときどき、このような穢れた者がこのように聖なる方について何か語ることが許されるのかと思わされる。ひとは疑い、多くの惑わしに捕らわれているとき、清い者ではない。ひとは信じることができない自らに罪を見出す。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。イエスを介して神の意志を知り、イエスを介して或いは彼の後ろに隠れて神にまみえる。

 

3不正な番頭の譬え

 イエスはこの世の成功者は先述の良心の発動の鈍いタイプであることを認めている。そしてそのような者たちも何らか新たな良きものを認識すれば、そちらに自らの心魂をそして知性をも向けることができることが「不正な番頭」の譬えで語られている(Luk16:1-13)。番頭が店の金を横領していた。内部告発があり、主人が調査した。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告をだしなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」。そうすると不正な番頭は店に借金のある者たちをひそかに呼び出し、油百バトスの者には証文をわたし五十バトスと書かせた。そのようにして不正を隠蔽した。「主人はこの不正な番頭の抜け目のないやり方を褒めた。この世の子らは、自分の仲間にたいして光の子らよりも賢く振舞っている。そこで、私は言っておくが、不正の富で(ek tū mamōna tēs adikias)友達をつくりなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。だから、不正の富について忠実でなければ、誰があなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。・・どんな召使も二人の主人に兼ね仕えることはない」(Luk.16:1-13)。

 この譬えは、われらはこの世にある限り完全に正義であることはできないことを教えている。日常の豊かな生活は誰か例えば途上国のひとの労働の搾取のうえに成り立っていることであろう。この社会のシステムが完全に公平であることはなく、多くの者たちはその与件のなかでより条件のよい待遇を受けようと競争している。それを前提にしたうえで、主人は番頭が店の資金をごまかした額について悪知恵を働かせて何らかの経済原則に基づいて帳尻をあわせようとしたことを褒めたのである。一応帳簿上収支があえば、不正が発覚することはないからである。イエスは不正の富というこの世のことがら、即ち小さな事柄について忠実であったうえで、その富を使ってでも天国という大事を獲得せよと教えている。

 われらはこの世の成功者でありたいのか、それとも天国を求める心の清い者でありたいのか。可能存在であるわれらには双方が開かれている。そしてこの譬えはそれは二者択一ではなく、天国のもとにこの地上の営みは秩序づけられうると主張している。問題は天国をまず求めるかである。歌謡曲にあるように「アナタナーラドオスルー」。

イエスは山上の説教において正義と憐みを天国との関連において位置付けた。終わりの日に一切が明らかとなり、正義と憐みが実現されるこのスケールの大きい考察範囲の広い主張は、日々個人的に争い、そして何らか調停を試みている自らの現実を認める者たちにとっては、唯一の希望として受入れられることであろう。一つの可能性であることには相違ない、しかもそれは救いか滅びかの二者択一のなかで提示されている。人々が日常生活で苦労しているのは、自らの欲求をもちながらも、それを野放図に開放するとき、社会からの制裁にあうことは経験しており、他方そのような者たちから被害を受けることも経験しており、課題はそのような循環を抜け出す救いを求めるかということに収斂されるからである。山上の説教では、もし神の国を求めることなく、右目や右手が罪を犯させるなら抉りとり切り取ってしまえ、全身が地獄に投げ込まれるよりましである、と警告される(5:27-30)。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。

 

4良心の発動と信による偽りの克服

 良心の発動は自らの偽りや穢れに関わる。ニーチェは良心の直覚性について鋭く指摘している。良心はわれらの意識を超えて発動する。ニーチェはこの良心の発動は「何故?」への問いのブロックとして機能すると言う。或いは「何故?」と問うているときには良心は発動しないと言う。「良心からあの「ねばならない」という感情が引き起こされたのだが・・・しかしこの感情は「何故私は為さねばならぬか?」とは問わない。従って、或ることが「~故に」とか「何故~」という問いをもってなされる場合にはすべて、人間は良心なしに行為することになる」。ひとは神の前にでないでよいというアリバイを作るために、「何故?」を問う。「何故悪人が栄えるのか?」、「何故何の悪いことをしていない者が悲惨を経験するのか?」など。少なくともこのような問いのもとにある者には良心は発動していない。良心は瞬時の共知である。

 イエスには天の父がいますことはなんら疑いの余地もないほど明らかなこととして山上の説教をそして主の祈りを教えている。山上の説教においては「天の父の子となること」がめざされている(Mat.5:45)。ただし、イエスはユダヤ教の伝統的な道徳観のもとに群衆と共に立ち、その視点から心魂の道徳的次元で発動する良心に訴え、パリサイ人に代表される各人に潜む偽りを摘出し乗り越えるよう群衆を励ましている。その良心の発動は宮に捧げものを供えるさいに途中で急に自分に反感を持つ人を「思い出したなら」(Mat.5:23)という仕方で、突然気づくそのようなことがらである。自分に「何か反感を持っているひとに気づいたなら」、引き返して仲直りせよ、そしてそれからあらためて捧げものとともに礼拝せよと言われていた。気になることがあるとき、心が純一に清められてはおらず、二心の偽りがあるからである。

 主の祈りで学んだが、「われらに負い目ある者を赦しましたように、われらの負い目をも赦してください」と祈るよう教えられていた(Mat.6:12)。赦してしまっていないとき、実は主の祈りを祈れないのであった。心に偽りがあるからである。心に潜む偽りの乗り越えは天の父に委ねられる。「われらを試みに遭わせず、われらを悪から救いだしてください」と(6:13)。その意味において主の祈りでは道徳的次元を内側から破り、その眼差しを向けるべき方向が教えられていると言ってよい。そこでは「まず神の国と神の義とを求めよ」と直截に命じられ、そこから道徳はじめ人生の一切を秩序づけるよう信仰に招かれる。もしこれが揺らいだら、すべてが偽りとなる。その意味でイエスは明確な信のもとに説教している。

 イエスは人生の一切を神の国と神の義への信仰により秩序づける。イエスは誰にも担いえない重荷を課す方ではなく、その重荷から解放する信仰に招いていたまう。業の律法のもとに生きるパリサイ人への彼らの自己矛盾を指摘する厳しい言葉の数々も、ご自身がそのもとにある信の律法への立ち返りを促すものであった。イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。

 神の比較を絶する圧倒的な善に触れ、罪赦された者は良心の咎めも取去られる。良き羊飼いは99匹を野において1匹の迷える羊を探し求めるが、それが1億匹であったとしても同様に探し求めるであろう。これが比較を絶する善であった。神は御子の身代わりの死を嘉みし復活させることにより、「世界」に対し神の前のことがらとして既に二千年前に「和解させた」(2Cor.5:14-21)。ご自身としてはキリストにあって個々人の罪をもはや咎めることも思い出すこともなく、水に流している。エレミヤは神が新しい契約を結ぶ日のことを預言する。「わたしは彼らの不正を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない(tōn hamartiōn autōn ū mē mnēsthō eti)」(Jer.34:31)。イザヤも預言する、「わたしは汝の背きを雲のように、罪を霧のように散らした(apēleiphsa>apaleiphō,( aor.))。わたしに立ち帰れ、わたしは汝を解き放つであろう(lutrosomai>lutroo, (fut.))」(Isaiah,44:22)。和解とはイエス・キリストにおける出来事であり、そこに立ち帰る限りにおいてわれらの罪は神の前で水に流されており、神の心にわれらの背きはもはや留まり、思いだされることはいない。

 パウロも言う。「ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:6)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、彼の信仰を嘉みした。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。

 

5結論

 この愛に触れてひとの心は正気を取り戻し、清められていく。ひとは「罪の奴隷」でも「義の奴隷」でもありうるまた悪霊も聖霊もいただけるそのような中立的な可能存在である。ひとは罪の誘惑にまけ、罪の奴隷となる。「そのとき、汝らはいかなる果実を得た(実を結んだ)のか。それは今や、汝らが恥としているものである。しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さにいたる果実を持している、その終局は永遠の生命である」(Rom.6:21)。ひとの心は清められ次第に聖なる者とされていく。天国は支配からも被支配からも自由な愛に満ちた聖なる場所である。「神の国は食することと飲むことではなく、聖霊における義と平和そして喜びである」(Rom.15:17)。天国の清らかさに触れてひとは清さにあこがれるようになる。穢れから解放され、罪赦されたことの「証」「徴」は隣人を愛しうることである(Luk.7:36-49)。清い者は心がまっすぐなひとであり、良心の咎めがない。拗け曲がり複雑ではない。勝手に発動する良心が平安を得ているのは憐みによる。

「平和の神ご自身が汝らをあますところなく聖なるものとし、汝らの霊と魂と身体とがわれらの主イエス・キリストの来臨の時に備え非の打ちどころのないよう完全なまでに護られるように」(1Thesa.5:23)。

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