イエスの譬え
日曜聖書講義「譬え」による天国の理解
2021年4月25日
聖書朗読
「弟子たちは歩み寄って「なぜあなたは彼らに譬えで語るのか」とイエスに言った。彼は答えて言った。「汝らは天国の奥義を知ることが与えられている。彼らには、しかし、それは与えられていない。誰であれ持っている者は彼に与えられることであろうそしてあり余るほどになるであろう。しかし、誰であれ持たない者は、持っているものも自分から取り去られることであろう。それゆえわたしは彼らに譬えで語る。というのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かずまた理解もしないからである。彼らに対しイザヤのこう語っている預言は成就されている。「汝らは耳によって聞くが理解せず、見てはいるが見ることはないであろう。というのもこの民の心は頑なになっており、彼らはその耳によって重く聞いた、彼らはその目を閉じたからである。彼らはいまだ目によって見ず、耳によって聞かず、心によって理解して悔い改めることをせず、わたしが彼らを癒すことがないであろう」。しかし、汝らの目は見ており、汝らの耳は聞いており、幸いだ。まことに、わたしは汝らに言う。多くの預言者、義人たちは汝らが見ているものを見ることを渇望したが、それを見なかった。また、汝らが聞いているものを聞くことを渇望したが、聞かなかった」」(Mat.13:10-17,cf.Mak.4:10-13,Luk.8:9-10,Jer.5:21,Isaiah.6:9-10)。
1聖書と譬え話
今日は福音書のなかから譬えについて学ぶ。「福音書(良き報せ、Gospels)」と言うのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと呼ばれるイエスの伝記作者たちによる四つの伝記のことである。それはイエスの言葉と行いの記録をもとにそれぞれの視点から執筆編集されたイエスが神の子であることを証ししている。福音書記者たちは直弟子たちがイエスの言葉を書き留めておいたものを元の記録(イエスの語録集)として用いそれは「資料Q」(「源泉(Quelle)を意味するドイツ語の頭文字)」と呼ばれる。マタイとルカは一番古いと思われる「マルコ福音書」(CE70年頃)を参照にしながら、自分の特ダネを加えつつイエスがイスラエルにおいて長く待ち望まれていたメシヤ(油注がれた者、救世主)であることを論証している。マタイ、マルコそしてルカは、彼らの伝記は「共観福音書」と呼ばれるが、相互に参照することができる共通のストーリーを分かち合っている。そこでは例えばイエスの教え、彼の人々との対話、目に見えない天国をこの地上のことを用いて伝える譬え話、物語、そして奇跡などからなり、イエスの生涯がとりわけ伝道に従事した訳3年間の歩みが記録されている。ヨハネ福音書はとりわけそうであるが、記者が置かれた時代や社会、思想の状況のなかでそれぞれの独自の視点からイエスが神の子であることを証している。
聖書の言語ヘブライ語やギリシャ語を学ぶことが聖書研究の基礎となる。そのもとに聖書研究の大きな役割はこれら四福音書を相互に参照しながら旧約聖書との関連さらには記者たちの独自性を研究する。聖書研究は百花繚乱というか多くの立場があり、聖書は神の言葉であり一字一句聖霊によって書かれているという逐語霊感説からそれぞれの聖書記者の作り話、妄想の産物にすぎないというフィクション説まで幅広い理解が提示されてきた。
そのなかでイエスの史実に迫ろうとする19世紀以降の歴史的批判的聖書研究が唯一の正しい方法であるものではないことは十分に留意する必要がある。とりわけパウロの神学理論を展開する「ローマ書」の理解には、言語哲学的分析が有効であると思われる。「意味論的分析」と呼ぶものはいかなる歴史学的、神学的研究もその枠のなかで遂行されねばならない、聖書文書そのものの最も基礎となる言語的理解に関わるものである。
イエスは譬え話により天国のことを教える。彼はなぜ譬えで語るかを冒頭のマタイ13章で説明している。イエスは人々の心を頑なにするためではなく、心が既に頑なであるために譬えで語る。ここで注目すべき言葉は、イエスは天国について一義的に理解する理論を展開することができると想定していることである。彼の叡知が発動し天の父の御国について知ることができると主張している。「汝らは[旧約]聖書と神の力能を知らないから彷徨っている」(Mat.22:29)。彼はわれらと同じ肉の弱さを抱えていたために、十字架上での断末魔の苦しみのなかではその叡知が一時的に発動せず、「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てられましたか」(Mat.27:46)と叫んだことが報告されている。その少し前には自らを十字架に磔る者たちについて「彼らは何をしているか知らないのですから赦してやってください」(Luk.24:34)と執り成しの祈りをしていた。この叡知の発動との関連で、譬え話は聞く者によって理解できたり理解できなかったりするという特徴がある。理論は掴んでしまえば、どんなに微妙な差異も明確な差異として理解される、そのような一義的なものである。それに対して天上のことを理解できないひとたちに、なんとか理解させようとしてこの地上の事例を用いて説明する。
イエスご自身が聴衆の分かりやすさのために天国のことを譬えにより語られるとき、彼は人間中心的に語っていると言うことができる。人間的なことがらから神の国を類推することがなされる。そこでは当然、人間的な心の働きが前提にされており、たとえ聖霊の媒介があったとしても自然的な次元で理解される。人間の責任ある自由の根拠としての心魂の独立性を前提にして議論している。譬えには三種類即ち本来の譬え(Gleichnis)と狭義の譬え話(Parabel)と例話(Beispielerzahlung) があるとされる。(塚本虎二先生のまとめによるユーリッヘルの説『塚本虎二著作集』第三巻p.464-5)。「本来の譬え」は「日常生活の領域において一般的に承認される経験」と規定される。「狭義の譬え話」と「例話」は双方とも「自由に案出された物語」であるが、狭義の譬え話は「宗教的観念の用に利用された譬え」であり、例えば「放蕩息子」(Luk.15:11-32)の譬えがそうである。「例話」はそれ自身が既に宗教的、道徳的である物語であり、例えば「善きサマリヤ人」(Luk.10:30-35)の物語があげられる。すべて天国のこと、人間の本来性について教えるものであるから宗教的、道徳的な教えを含んでいるが、アクセスの仕方として人間の様々な事象、行いを手掛かりにしていることは共通している。
2 宝を見つけた農夫の譬え
例えば、天国は農夫が借地の畑で宝をみつけたら、持ち物をすべて売って地主から畑を買うそのようなものに譬えられる。「天の国は畑に隠された宝物に似ている(homoia)。ひとはその宝を見つけると隠した、そして喜びながら戻って自分が持っている限りの持ち物すべてを売り、その畑を買う」(Mat.13:44)。これは天国の特徴に類似した日常生活の事例であるが、他方、ありそうもないことであるため願望も含まれている仕方で挙げられる。確かに、地上の一切を売り払ってでも手に入れたいものがあるとすれば、それはそのひとに最も善きものであることを含意している。他方、そのようなことは生じないのではないかという思いをもひとに湧き起こさせる。それほど、似ている事象はあるにしても稀なることとして天国は惹きつけもし、懐疑をも生じさせる。
もし聴衆のなかに農夫がいれば、自分の鍬が何かにあたったときの感触を思い出すであろうし、それが宝物であればよいなと思ったことであろう。譬えにはイメージ喚起力がある。天国というものは宝物のようなものなのだというイメージは人々の思いを惹きつけ、天国のことをよりよく理解したいと思いに導かれることであろう。またそんなことはありえないとして躓きにもなるであろう。「聞く耳ある者は聞け」とはまさにこのことである。
3天国のことを学んだ者の心魂の倉―良き木と良き実―
イエスは天国のことを理解した者とはどのような者であるかを類似性の指摘により教える。これも一般的、日常的なものであり本来的な譬えに分類されるであろう。「天国のことを学んだ律法学者は自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:52)。古いものとは旧約のことであり、新しいものはその延長線上に打ち立てられた新約のことであるという理解がなされることもあるが、きちんと心魂という自分の蔵・倉庫即ち心魂の脳の部位を管理しており、知性においても人格においても一切を天国との関連において秩序正しく考慮することができまた行為を形成することのできるひとのことである。
人間に最も重要なことを学んだ者は生の全体のなかで個々のものをそれは古いものであれ新しいものであれ自由に適切に位置づけ、行為することができる一家の主人に似ている。この発言を単にパトスに対して良い態勢にある人格的な有徳性に対してだけではなく、その認知的な卓越性に対する賞賛と読むことができる。アリストテレスの実践知者は生全体の目的構造との関連において、個々の文脈において或る有徳な行為を最善と認識し選択する心魂の力能ある態勢にある者のことである。そのひとには個々の選択の現場でそれ自身としてどんなに犠牲を払うことがあったとしても善き行為を選択できるそのこと自体に喜びが伴う。
聖書はなにか人格に関わるものと捉えられがちであるが、認知的な卓越性は聖書においても重要な位置を占める。パウロは「わたしはわが主キリスト・イエスの認識の優越の故に、あらゆるものを損失と考える、彼の故にわたしは一切を失ったが、それらをわたしは塵芥と看做す」(Phil.3:8)と言う。人類は人間としての認知的卓越性・徳を備えた者を「賢者(sage)」と呼び、人格的に有徳な者を「聖者(saint)」と呼んできたが、ひとは知性と人格を総合するものを求めてきた。天国を学ぶことによりひとの心魂は秩序づけられ、ものをよく見ることができるようになり、あやまることなくその都度の行為を選択することができる。
その行為の選択を導くものが「律法」という神の意志である。律法はそこに正義が成立する神の意志であるが、モーセを介して啓示された「業の律法」とイエスを介して啓示された「信の律法」の二種類がある。イエスは神の言葉「われは憐れみを欲し(eleos thelō) 、犠牲を欲さぬ」(Mat.9:13, 12:7, Hosea6:6, 1Sam.15:22, Prv.16:7)に立脚し、ユダヤ教の改革者として業の律法をラディカルに解釈し、律法遵守を神への愛と隣人への愛という二つの戒めの遵守に収斂させる(Mat.22:36 )。そして、それは、外面的な行為、例えば施しをしたか否かとは異なり、愛したか愛さないかに関しては、直ちにはひとの目には明らかではないそのようなものである。それを動機づける心魂の実質こそ、つまり神と隣人への愛があるか、その態勢においてあるかということが問題にされている。
外見上同様の有徳な行為に見えても、その動機が帰属する心魂の態勢が有徳でない限り、それは有徳な行為ではない。心魂に満ちてくるものが、口をつき、行動を引き起こす。内側が清くなければ、外側も或る刺激に対しては抗しえず、穢れたものとなる。「口からでてくるものは、心からでてくるので、かのものどもこそ人を汚す。というのも言い争い、悪意、殺意、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒涜は心から出てくるからである」(Mat.15:18-19)。
そしてイエスはその心には「倉」と呼ばれる習慣づけられた態勢があると指摘する。「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとせよ。木の良し悪しは結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、汝らは悪しき人間であるのに、どうして善いことが言えようか。ひとの口からは、心にあふれていることが出てくる善いひとは、善いものを入れた倉から善いものを取り出し、悪いひとは、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」(Mat.12:33-35)。
ここで「倉」とはここでは培われた心魂にしまわれている態勢以外のことではない。その行為の美しさ、立派さ、適切さそれ自体に基づき、正しく、勇気のある、そして節度をわきまえ思慮深く行為することが求められている(アリストテレスNic.Eth .III11.1116a10 15, b30 )。外見上有徳に見える行為もその内側の心魂が清くなければ、善き行為とは認識されない。イエスは人々がどのような状況にあるかを正確に識別する。彼は「鳩の如く素直に、しかも蛇の如く聡くになれ」(Mat.10:16)と促す。パウロも「自ら識別することがらにおいて自らを審判しない者は祝福されている」(Rom.14:23)と言う。例えば、このひとは次にこのような行動を取るだろう、どう対処すべきであろうかという思案のもとに、ひとは識別して生きていかざるをえない。しかし、その識別はひとを裁くことと同じではない。そのひとを愛するために識別するからである。地の塩、世の光たるべく、そのつど最善の行為が選択されることが求められている。
4塔と戦争の譬え―識別することをめぐって
イエスはこの識別を譬え話で伝える。
「汝らのうち誰か塔を建てようとするとき、資金が完成にもたらすかどうか、まず腰をすえて支出を計算しない者がいるだろうか。それは土台を築いただけで完成するだけの力がなく、見ている皆が彼を嘲り始めて「この男は建築を始めたが完成できなかった」と言うことがないようにするためである。
或いは、誰か王が他の王に戦争を始めるべく進軍しているとき、まず座って、彼に二万の兵とともに向かってくる王に、一万の兵で応戦できるかどうか熟慮しないであろうか。できないなら、まだ敵の王が遠くにいるとき、使者を送り休戦に向かうことがらを尋ねることであろう。このように、汝らのうち自らに属しているあらゆるものごとに別れを告げない[apotassetai(renounce)棄却する、断念する]者は誰でもわたしの弟子であることはできない」(Luk.14:28-33)。
ここでイエスは彼についてくる者たちに識別の正しさを求めるなかで、ご自分の弟子となる覚悟ないし自己認識がいかなるものであるかをも識別するよう伝えている。ちょうど塔を建てる者が自ら持つ資産について計算するように、福音に従う道は全身全霊をイエスにかける者であることの識別が求められている。ここに福音の権威があり、福音の躓きがある。識別が審判に変わらないことを願うばかりである。個々人においては自らを顧み、内側からの納得が得られた場合に、イエスの弟子となることが求められる。
機が熟していないとき、双方に言い分はあるであろうが、争いや裏切りとなり、それは宗教の歴史において分派や異端などとしてしばしば目撃されることである。一方は自分が最も大切にしているものが、踏みにじられ、侮辱されているという感覚を持つ。他方はその熱さに、押し付けを感じ、身を引くか、偽りを嗅ぎだし嫌悪する。そのようなことは起きてきた。趣味や気質の齟齬や反発であれば、やり過ごすこともできようが、心魂の根底に関わる、永遠に関わる宗教をめぐって争うとき、ひとは深く傷つく。共同生活をめぐってもこれは或る程度避けえないことであろう。そのなかでひとは一歩一歩前進していく。しかし、この神の国への信仰なしにはひとは前に進むことができないとされる。
5種蒔きの譬え―信仰による前進―
種蒔きの譬えはイエスの宣教を介して神のみ言葉、み心が聴衆の心に蒔かれそれを受け止めた信仰の実りについてのものである。「イエスは彼らを多くの譬えで教えた、そしてご自身の教えのなかでこう言われた。「聞け、そして見よ。種を蒔く者が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞け」と言われた」(Mac.4:2-10)。
この譬えにおいてみ言葉の蒔き手はイエスご自身であり、受け止める心、拒否する心等われらの様々な心の環境のもとにみ言葉が蒔かれる。これは人生にも適用される。誰も自らの親を選べない、そこに自らの生が奪われ、焼け枯れる運命の過酷さを見るひともいよう。同時にそこに「誰も~ない」という人生の或る意味での平等さと醍醐味がある。自らに生が与えられたことを厳しい与件に思えても、肉の親の背後にいたまう蒔き手を信じ、自らを「良い土地」であると受け止めることなしには三十倍、五十倍に実らすことはできず、蒔き手に対する信頼が不可欠となる。荒地に蒔かれ悲惨にしか思えない与件であるにしても、聞く耳を持ち神に与えられた良い土地であると信じるとき、開墾が始まり、自らの与件から推定されるものの百倍の実りをもたらすこともあろう。豊かな実りとはイエスご自身にとって「天の父の子となる」こと以外ではないであろう。
結論
正しい信仰は幼子のような信頼である。一切を知り統べ治めておられる神に対する人間の態度はイエス・キリストの信の媒介故に、彼の信に基づく義とその義の果実としての愛に対する幼子の信仰が相応しい。パウロはとりわけ「ローマ書」においてまた「ガラテア書」において正しい信仰とはいかなるものかの議論を展開する。永遠の生命の保証として主の復活はわれらの信仰を引き起こしそして信に基づく義を保証するものである。パウロは主の復活という神の歴史への介入から十字架とその生涯を捉えなおしたのである。神が愛である限り、この人生は良き土地となる、復活の主が共にいたまうからである。「主はわたしの運命を支える方。測り縄はわたしに向けて良き地に落ちた、わたしは良き嗣業(ゆずり)を得た」(Ps.16:5-6)。
なお、当のイエスご自身も苦闘のただなかにあったことを忘れてはならない。山上の説教が生命を懸けて生き抜かれたことによって、ひととして想定しうる最も偽りのない在り方が歴史のなかで打ち立てられた。新しい生命が福音という新しい革袋に入れられた。主イエスの甦らしを遂行したまう神の力能によって古い業の律法も新しい信の律法の光のもとに照らし直され新しくなり、業のモーセ律法は何等か新しい酒に変換させられる。それは少なくとも人類にひとりは福音の光のもとに山上の律法を成就した方がいるからであり、それゆえに神はナザレのイエスをご自身の御心に適う者として嘉みし、ご自身の信に基づく義の啓示の媒介として用いられたからである。かくして、業に基づく義とは異なる信に基づく義が、業の律法の冠である愛を実現させるその力能が人類に付与されるに至った。モーセ律法は信の律法に秩序づけられた。信の力能こそ彼の十字架と復活において明らかにされたのである。「「できるものなら」と言うのか、信じる者にはあらゆることができる」(Mac.9:23)。「できる」というその力能があらゆるものの力能であるとして、そのあらゆることは当然愛の業に収斂される。それ故にこそ、われらは山上の説教をそれにより満たしうるのではないかとの希望を抱く。