「豚に真珠」
「豚に真珠」
日曜の聖書講義2020年10月25日
1テクスト
「汝ら裁くな、裁かれないためである。というのも、そこにおいて汝らが裁くその裁きにおいて汝らは裁かれるであろう、そしてそこにおいて汝らが測るその測りにおいて汝らに測り与えられるであろうからである。何故、汝は汝のきょうだいの目にある塵を見るのか、しかし汝の目にある丸太に気づかないのか。或いはどうして汝は汝のきょうだいに言うのか、君の目から塵を取らせてくれ、と、見よ、汝の目の中に丸太がある。偽善者よ、まず汝の目から丸太を取り出せ、そうすれば汝のきょうだいの目から塵を取りだすべくはっきりと見えるであろう。
聖なるものを犬たちに与えるな、汝らの真珠を豚たちの前に投げるな、彼らがそれらを自分の足で踏みしだくことがないようにまた向き変って汝らを打ち倒すことがないように」(Mat.7:1-6)。
2「裁くこと(krinein)」と「識別すること(dokimazein)」
今日は犬と豚の話である。この春からずっと恐れていたパッセージについに到達してしまった。「聖なるものを犬たちに与えるな、汝らの真珠を豚たちの前に投げるな」。この言葉は私の脳裏にたびたび思い起こされてきた一節である。この一節が直ちに連想させるパッセージは「ヘブル書」の「生ける神の御手に陥ることは恐ろしいことである」(Heb.10:31)というものである。この言葉はまず聖書を教える立場にある者、説教者に向けられる。わたしがここで描かれる犬であり豚であるのではないか。聖なるものを穢してしまっているのではないか。神は「聖なる、聖なる、聖なるかな万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う」(Isaiah.6:3)と、そして「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。汝が畏るべき方は主、御前に慄(おのの)くべき方は主」(Isaiah.8:13)と、イザヤにより賛美されたその方である。そのイザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは穢れた唇の者。穢れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は主なる万軍の主を仰ぎ見た」(6:5)と言う。ときどき、このような穢れた者がこのように聖なる方について何か語ることが許されるのかと思わされる。そのとき、十字架を仰ぐ、われらはこの聖なる宇宙の栄光なる神に、受肉した御子を通じてアクセスすることが許されていると、そして栄光を棄てひととなり信の従順によりご自身の一挙手一投足を通じて神の国を持ち運んだ方であると。
この箇所は、一般的には、福音の権威を理解せず、反抗する者たちにたいしては、警戒せよそして福音を安売りするな、彼らは聖書を学ぶ機が熟していない、福音とその宣教を蔑ろにしまた攻撃するそのような者を相手にするな、と理解されることがある。福音を受け取る機が熟するとはどのような状態にあるものなのであろうか。人間にそれが判別できるのであろうか。
登戸学寮は寮の基本方針として福音のもとに運営される。単なる営利目的のアパートのようなものではないと言われる。日曜の聖書講義を義務として負う管理者そしてここに住む学生諸君もこの基本方針のもとに共同生活を過ごす。管理者側に福音を語る機が熟していないということがあるであろう。寮生側に福音を聞く機が熟していないということがあるであろう。語る側の条件とは何であろうか。聴く側の条件とは何であろうか。われらは皆ここで描かれる犬や豚であった場合、この学寮は成り立ちゆかないということであろう。それでも続ければ「偽善者よ」と叱責を受けることになるであろう。そのような緊張のもとにあることは事実である。
わたしはこの春赴任の際に、何はなくとも福音を喜んでいよう、毎日罪の赦しを喜んでいようと心に定めて来た。また、この日曜の聖書講義は様々な意味においてまことに不十分なものであることも認識しているが、聖書を正しく引用している限り、それは何らかの仕方で伝わるであろうという信念のもとに話をしている。また聞く君たちについては、たとえ今まで聖書を読んだことがないにしても、20年生きてきているならば、正しく聖書の話をしている限り何らか伝わるであろう、み言葉を心に蓄えること、それが若者には重要だという信念のもとにある。
今日のテクストにおいてまず確認できることは、「裁くな」という文脈のなかで、聖なるものを犬にやるな、真珠を豚にやるなと語られていることである。或る種の人々が犬や豚になぞらえられており、「裁くな」と言われたその舌の根の乾かぬうちに、見下したような言葉にであい、躓きとなることであろう。しかし、犬にはドッグフードが豚には牧草が与えられるべきことには誰もが同意しよう。野の百合空の鳥を見よと言われるイエスは当然犬や豚にたいする神のケアをも説くことであろう。
しかし、問題は実際の犬や豚ではなく、ここでは犬や豚になぞらえられる人間について議論されていることである。彼は山上の説教においてパリサイ人に容赦しないように、聖なるものや真珠の価値を理解しないこれらの動物になぞらえられる人々にも容赦はしない。イエスは彼らがどのような状況にあるかを正確に識別する。彼は「鳩の如く素直に、しかも蛇の如く聡くになれ」(Mat.10:16)と促す。パウロも「自ら識別することがらにおいて自らを審判しない者は祝福されている」(Rom.14:23)と言う。例えば、このひとは次にこのような行動を取るだろう、どう対処すべきであろうかという思案のもとに、ひとは識別して生きていかざるをえない。地の塩、世の光たるべく、そのつど最善の行為が選択されることが求められている。イエスはこの識別をたとえ話で伝える。
「汝らのうち誰か塔を建てようとするとき、資金が完成にもたらすかどうか、まず腰をすえて支出を計算しない者がいるだろうか。それは土台を築いただけで完成するだけの力がなく、見ている皆が彼を嘲り始めて「この男は建築を始めたが完成できなかった」と言うことがないようにするためである。或いは、誰か王が他の王に戦争を始めるべく進軍しているとき、まず座って、彼に二万の兵とともに向かってくる王に、一万の兵で応戦できるかどうか熟慮しないであろうか。できないなら、まだ敵の王が遠くにいるとき、使者を送り休戦に向かうことがらを尋ねることであろう。このように、汝らのうち自らに属しているあらゆるものごとに別れを告げない[apotassetai(renounce)棄却する、断念する]者は誰でもわたしの弟子であることはできない」(Luk.14:28-33)。
ここでイエスは彼についてくる者たちに識別の正しさを求めるなかで、ご自分の弟子となる覚悟ないし自己認識がいかなるものであるかをも識別するよう伝えている。ちょうど塔を建てる者が自ら持つ資産について計算するように、福音に従う道は全身全霊をイエスにかける者であることの識別が求められている。「ここに福音の権威があり、福音の躓きがある。機が熟していないとき、双方に言い分はあるであろうが、争いや裏切りとなり、それは宗教の歴史において分派や異端などとしてしばしば目撃されることである。一方は自分が最も大切にしているものが、踏みにじられ、侮辱されているという感覚を持つ。他方はその熱さに、押し付けを感じ、身を引くか、偽りを嗅ぎだし嫌悪する。そのようなことは起きてきた。趣味や気質の齟齬や反発であれば、やり過ごすこともできようが、心魂の根底に関わる、永遠に関わる宗教をめぐって争うとき、ひとは深く傷つく。共同生活をめぐってもこれは或る程度避けえないことであろう。
3古い書類袋からでてきた一通の手紙
学寮においても日常生活を共にするなかでの聖書講義をめぐって争いから無視にいたるまでの多くのパターンが考えられる。過日、古い書類の束から一通の手紙がでてきたので、ご紹介したい。もう時効であろうから許容されるであろうと判断する。寮長(X先生)と思想上の軋轢で寮をでた学生(Y氏)が寮の後輩に送った手紙である。
「どうもX先生の考えをあまり高く評価することができず、あちらこちらをさまよっておりました。一時は主観的なイデオロギーをひねくりますことをきらって、実定法や制度研究に没頭した結果、司法試験や上級公務員採用試験も通りましたが、やはり人間が人間として生きていくためには、信仰が必要だと言い切ることはできませんが、何らかの価値体系、換言すれば信条に立脚することが必要であり、かかるエトス[涵養された精神性]なり、価値体系を深く吟味することは青年期だけではなく一生を通じて非常に重要であります。信仰というものは、超現世的なものであり、その妥当性を正当化するためには神という超越的な権威の人格化したものが要請されるものであります。そして信仰は自己が絶対不変の永遠の真理であることを主張するため、他の価値体系と激しく衝突し、壊滅させることを要求します。
このような戦闘的性格は原始クリスト教において特に顕著であり、そこへの復帰を唱える無教会主義においても強烈であり、X先生もその人となりとあいまって非常に戦闘的であったような気がします。しかし現代文明は、人間を最高の価値とし、超越的なものを認めないということがその特徴であります。ある特定の超越的イデアを信奉することは、その人についてみれば人生の支えとなり、生き甲斐ともなることがあり、非常に有益なこともありますが、しかしその人のおかれている状況の独自性を忘れ、一般的に妥当すべきものと考えることは非常に危険であります。しかし信仰は本来絶対の真理たらんと欲するものであるため、ちょっとしたことによってその危険におちいることがあります。そのため、或る人のいう真理の内容を聞くことのみに専念して、その「A」なら「A」という信条を、くりこみ理論によって棚上げし、その信条がなぜ要請されるか、あるいはいかにして成立したかということを吟味しなければなりません。私が登戸学寮にいたころ、政治学のゼミ(Z先生)のテーマが自己偏満というもので当時考えが至らず、理解できませんでしたが、いろいろ見分を広めてみますと、結局次のようなことであるようです。「A」という命題を証明できないにもかかわらず(つまり「嘘」である)あたかも証明できたのかのように断定してしまう場合(人に演説することは断定した形で述べなければ効果がないから)、それが度重なると、自分でもいつのまにか証明したかのような気になってしまって「嘘」であることが自覚されなくなるという過程をいうものである。このような価値判断についての考察はマックスウェーバーによって問題提起され、現代は政治学が問題としてとりあげています。ゾレン(当為)とザイン(実在)の区別です。・・・本年3月についにやめられたということのいきさつについて知りたいと思いますから、詳細にお知らせください。またX先生がやめられたのは、おそらくその考え方が多くの人とあわなかったからであろうと推測しているのですが、今度のZ先生というのはどういう考えの持ち主でしょうか。一度出た人がなかなか戻ってこないというのは、出た人のだいぶぶんが、あまり感銘を受けることがなく、本当に有意義だったと思うことがすくなかったからであると思います。・・・・」。
厳しいご批判である。つきつめれば、寮長X先生の性格が戦闘的であることもあいまって、寮長の聖書講義ならびに指導は偽りであると主張しておられる。双方に言い分はあるであろう。寮長からすれば、手紙の書き手Y氏は自らの罪に砕かれておらず観念的、批判的であり、まだ福音を聴く心の準備ができておらず、機は熟してはいないと言うであろう。Y氏は寮長が個人的な見解を「一般的に妥当すべき」とし普遍化させ自らと超越的な真理を癒着させており、自らの「信仰」が「絶対不変の真理」であると自己陶酔に陥った偽り者であると言うであろう。それは「非常に危険なこと」だとしている。ただし、寮長がこの春学寮を去ったことを聴き及ぶにつけ、他の寮生の見解を確かめて自らの認識の正しさを証明したいという思いに、確信のなさや不安も垣間見える。
似た者同士が往々にして衝突するのは、自らに重要と思えるそしていつも気にかかるそのことがらに思いを馳せている、そのような規準が測りとなり、その点でそれぞれ自らより劣っていると思われる相手に適用されることになるからである。両極とその間はひとつの物差しで測られる。ここで元寮生Y氏が手にしているもの差しは単純に言えば神の「超越」性、「超現世性」、彼岸性と人間の現実性、現世性、此岸性(しがんせい)のあいだに置かれている。彼Y氏は自らの立場を「現代文明は、人間を最高の価値とし、超越的なものを認めない」という立場に立っていると思われる。その物差しからすれば、存在しないはずの超越性に寮長は自己を癒着させ、自己尊大化のもとに「他の価値体系と激しく衝突し、壊滅させることを要求」しているように受け止めたと思われる。
激しい思想上の戦いがここに見られる。実際、激論が交わされたことであろう。戦闘的なひとには戦闘的なひとがぶつかることは、よく見られる現象である。先に学んだように裁く者同士は「同じことをしている」。パウロは言う、「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を罪に定めているからである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。相手に対しこれ、例えば自己理解の普遍化、をするから善くない、その反対は良いという主張は業の律法に即したものである。同様にY氏の報告が含意するところによれば、X先生はキリスト教の教えは絶対的真理であり、信じることは良いことであり、その反対は悪しきことであると主張する。「同じこと」とは双方ともこの場合業の律法のもとに生きているということである。業の律法のもとにある肉は誰も義とされないのであり、自ら罪に定めている(Rom.3:20)。イエスは信の律法のもとに愛を成就しつつあるそのなかで、パリサイ人が自ら気づいていない彼らの「目のなかの塵」を取ろうとしたのであり、厳しい警告は業の律法のもとでの裁きではない。自らの偽りに気づいていない者たちを救おうとするその愛の成就は十字架に極まる。
Y氏は、他方、そのなかで「価値体系」を持つこと、「信条に立脚すること」も「エトス」・精神性の涵養に重要であると、人間にとって超越的な傾向が不可避なことも認めている。超越性と此岸性は両極のように見えて、その基礎に共通性を見て取ることができる。ひとつにはそれぞれを極性化することにより、対立の構造に置くとき、双方のバランスを取る努力ないし試みがなされていないことである。つまり観念的だということである。自らの理念を極のそれぞれの一方に投映している可能性がある。一方の極から他方の極を審判することはたやすいことである。そしてその意味においてこの図式のもとでは信仰による超越論者も信念による現世論者もパウロによれば「同じこと」をしている。
イエスは超越的なものをこの現実のただなかで担っておられた。「神の国は汝らの只中にある」(Luk.17:21)。彼はそのような同じ物差しを相互に振り回すことについて言う。「何故汝は汝のきょうだいの目にある塵を見るのか、しかし汝の目にある丸太に気づかないのか。或いはどうして汝は汝のきょうだいに言うのか、君の目から塵を取らせてくれ、と、見よ、汝の目の中に丸太がある。偽善者よ、まず汝の目から丸太を取り出せ、そうすれば汝のきょうだいの目から塵を取りだすべくはっきりと見えるであろう(diablephseis)」。Y氏が「ザイン」と「ゾレン」、事実と価値、存在と当為を判別するが、善悪は各人の「思い」「選好」の投映に過ぎず、事実に基づかないという主張は双方の数ある理解の単にひとつの立場でしかない。「Aは善である」の「である」はザインであり、価値が事実や存在に基礎づけられるという主張は「価値の実在論」と呼ばれる。ものごとが「はっきり見える(diablephō: I see thoroughly)」ひとには当然ものごとの在り方の良し悪しも見えていることであろう。
4「裁くな」を正当化する実がなるまでの時間
二週前に、「神の国とその義」により一切のひとの営みが秩序づけられるべきことを山上の説教の骨子として学んだ。そして「神の国」を理解する重要なアクセスはナザレのイエスを理解することであると論じた。神の国の超越性はナザレのイエスの此岸性によって補われるとき、われらは取りつく島を見出す。神の国が現実に根差し具体化される。そこではイエスを介して受けとめられる神の国により、宇宙のことがらから日常のことがらまで一切が適切な位置に秩序づけられることの故に、一つの規準で一切が測られることはなく、きめ細やかな差異と特徴の認識をもたらす。その探求は心魂の根底から身体そして宇宙全体の探求となる。つまり、ナザレのイエスの信の従順のもとに展開される多様性はひとがそこにおいて生きる喜びをもたらすこそすれ、ひとを審判することから解放する。彼にとって信とは神との根源的な関係であり、その喜びと使命のなかでひとを生命がけで愛した。彼に留まる限り、自らのいたらなさが反省されることがあっても、隣人に牙を向けること、隣人を罪に定めることから解放される。
山上の説教において、われらはイエスにより偽りを指摘された。良心、神との共知により鋭敏にさせられた場合、道徳的次元に留まることはできないのであった。われらは偽りであることを認めよう。しかし、福音がわれらを救い出す神の力であった。ここでの一つの問いはパウロは「福音の真理」(Gal.2:5)を偽りの福音からいかに判別しているかである。これは大きな問であり、ここではイエスの一つの言葉「果樹はその実によって知られる」を手掛かりにアクセスを心みたい。「福音」は「信じる者[と神が看做す者]に救いをもたらす神の力能」であった。この力に触れ救いを経験したひとはそれを真理であると認識するであろう。その喜びからそれを隣人に伝えたいと思うであろう。
その伝え方は各自の個性や人格に依拠するところが多く、或るひとの場合は「戦闘的」となることもあろう。福音の真理を高らかに掲げるであろう。「聖なるもの」の光と輝きそして透明な清らかさ、これがわれらを照らしわれらの醜悪さと穢れを暴き出すでもあろう。しかし、手紙主Y氏が主張するように、超越的なものを相手にする場合、その経験を真実と確認することは、或る意味で即ち自然科学の対象のように仮説と実験による検証を経て誰にも妥当する理論となるような仕方で見出すには容易ではないという問題がある。「自己偏満」に陥り、自ら偽りであることを自覚できないほどに陶酔してしまうこともあろう。心の内側からの納得と洗脳は常に識別することが求められる。
イエスは「裁くな」に続いて、こう語り、自己偏満や自己陶酔からの解放に導く。「汝ら狭い門から入れ。というのも破壊に導く門は広くそしてその道は容易である。そしてそれにより入る人々は多い。というのも生命に導く門は狭くそしてその道は困難である、そしてそれを見出す人々は少ないからである。偽りの預言者たちに注意せよ。彼らは羊の衣を着て汝らに近づくが、内側は簒奪する狼である。汝ら彼らの実から彼らを認識せよ。茨からブドウを或いはアザミから無花果を収穫することはない。このように、すべて良い果樹は良い実を結び、悪い果樹は悪い実を結ぶ。良い果樹は悪しき実を結ぶことができず、悪い果樹は良き実を結ぶことができない。良い実を結ばないあらゆる果樹は伐られてそして火に投げ込まれる。従って、少なくとも彼らの実から汝らは彼らを認識せよ」(Mat.7:13-20)。
ここでの主張は明確である。果樹の良し悪しはその実により知られる。歴史が各人の人生が真実で良きものであったか、それとも偽りの言葉だけであり、実際は悪しきものであったか証明するであろう。果樹が果実を実らすまでに時間を要する。それが「裁くな」という戒めを正当化する。後の日にはっきりわかる。ヨーロッパの諺に「神のひきうすはゆっくり回る、しかし細微にすりつぶす」というものがある。たとえひとの人生は、果樹のようにはこの世界で結果がわからなくとも、神の前では一切が明らかである。審判は神の仕事である。ひとに残されたことはただ愛することである。
「愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず・・誇らず、高ぶらず、礼を失せず、自らの利益を求めず、いらだたず、恨まない」(1Cor.13:4-5)。愛のうちにあるものは否定的なパトスに引きずられることはない。愛は「誰に対しても悪に対して悪をかえさず」(Rom.12:17)、「互いに兄弟愛において慈しみ、相互に尊敬において導き手とする」(Rom.12:10)。愛は希望におけるわれと汝の等しさであった。支配からも被支配からも唯一自由な場所において出来事になるわれと汝の等しさが出来事になることを求めて右の頬を打たれたら左の頬を向けつつ、敵が友と友となることを求める。シーソーのバランスが取れている状態、それが愛の一つの描きである。
審判の背後にあるのは否定的なパトスである。そこに自己吟味がなされないため、偽りとなる。偽りはこれまで学んできたように、二心、三つ心により支配されており、心の清さにおいてないことであった。愛は双方の理解と和解に導くことであろう。争いのあるところ、そこが知恵のだしどころである。「裁くな」は人と人とを引き裂くことを仕事とするデヴィルの心臓に突き刺さる言葉である。裁かず愛するとき、ひとはこの争いを乗り越えることができるであろう。そして、それは後の日に果実により知られるであろう。
5結論
誰かと何かを角突き合わせているときには、頭を冷やそう。一般的に言っても、宇宙は広くその探求対象は広大無辺である。自らの観念ではなく夜空に輝く満天の星を見あげよう。宇宙はわれらの観念の外に明確に輝いている。カントは「われを超えて輝く天空とわが内なる道徳律」(『実践理性批判』)双方に眼差しを注ぎつつ、確かなもののもとに探求の生涯を送った。極論になりがちな観念ではなく、野の百合空の鳥に超越的なものの愛情を感じ取り、共知としての良心が深められるとき、宇宙が確かなものにより支えられていることを認識するにもいたるであろう。ナザレのイエスの生活を通じて超越的なものの確かさを、神の愛の確かさを知るとき、ひとは観念から解放される。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。