春の講義宗教改革(6)―提題第9条「三人称」~15条「帰属の属格」
提題目次 77 theses: Table of contents
第I部 「ローマ書」3章21―31節の新提案が導く神の前と人の前の総合的開示―イエス・キリストの言葉と働きによる神の意志(福音と律法)と自然(肉)の媒介と秩序づけ Comprehensive manifestation of both ‘before God’ and ‘before Man’ led by the correct understanding of Romans 3:21-31 – Intercession and Ordering between God’s wills (Gospel and Law) and Nature (Flesh) by words and works of Jesus Christ—
1 神の栄光、創造と救済を介して Glory of God via creation and salvation.
2 福音 Gospel.
3 神の信 Faithfulness of God.
4 神の二種類の意志のもとに啓示されている神の義即ち「信の律法」と「業の律法」God’s righteousness i.e. ‘the law of faithfulness’ and ‘the law of works’ being revealed under God’s two kinds of will.
5 「神の怒り」の啓示とそのモデル The revelation of ‘God’s wrath’ and its model (in Exodus).
6 神の義の二つの啓示((A)神の信義と(B)神の怒り)の非対称性 Asymmetry between two revelations of God’s righteousness ((A)God’s faithful righteousness and (B) God’s wrath).
7 悔い改めによる「業の律法」から「信の律法」のもとへの移行 Transition by repentance from the law of works to the law of faithfulness.
8 神には二種類の律法の適用において偏りがない There is no respect of person in applying God’s two kinds of law to human beings.
9 啓示の差し向け相手の三人称による提示 Employing the third person pronoun on behalf of the person whom God’s revelation is addressed to.
10 神の怒りの啓示と神の前の責任 The revelation of God’s wrath and man’s responsibility before God.
11 良心と最後の審判 Conscience and the last judgment.
12 イエス・キリストを介した福音の啓示 The revelation of Gospel through Jesus Christ.
13 律法と預言の成就としての福音 Gospel as the fulfilment of Law and Prophecy.
14 三つの名称「イエス・キリスト」、「イエス」、「キリスト」Three names ‘Jesus Christ’, ‘Jesus’ and ‘Christ’.
15 「イエス・キリストの信」における帰属の属格 Genitive of belonging in ‘the faithfulness of Jesus Christ’.
9 啓示の差し向け相手の三人称による提示
永遠の相のもとにいます神の前では誰が義人であり罪人であるかは既に明白であるが、具体的に個々人の誰が義人か罪人(或いはより慎重には怒りを差し向ける人間の「不敬虔と不義」という魂の態勢に誰があるかということ)かに関しては、イエス・キリストとモーセの石板を介したほどには誰にも明確には知らされていないため括弧に入れられ、報告者パウロにより三人称により表現されている。そこでは「彼らは誰であれこのようなこと[17種類の悪行]を行う者たち」(前条)、「イエスの信に基づく者」(第6条)と三人称で指定される者たちである。この一般化により、われらにとっては不定なものとして提示される。これにより悪行への引き渡しとして啓示される神の怒りの相手は神の前の現実即ち神自身により罪人の人間認識のもとにある誰か、或いは悔い改めにより義と認められるに至る誰かを表現することができる。
そのことはパウロが神の怒りの啓示の差し向け相手としている、三人称による「男」や「女」にも適用される。「それ故に、神は彼らを恥ずべき情欲へと引き渡した。すなわち、彼らの女たちは自然の用を不自然なものに取り換えた。同様に、男たちも女との自然の用を捨てて互いに自らの欲のままに情欲に身を焦がした。男は男と恥ずべきことを行いそして自ら自分たちの逸脱に値する報いを受け取っている」。ここで三人称表現「男」と「女」により神が具体的に誰それを理解しているかは知らされてはいない。自ら自分が男であるとさらには自らの結婚が同性婚であると思っていても、生物学を究めていたまう神はそう看做していないかもしれない。神の人間認識はイエス・キリストを介した啓示、知らしめほどには、個々人の誰にも明確には知らされてはいない。ただし、男であれ女であれパウロによりこう警告されている。「しかも、汝らは、この好機を、すなわち汝らが現に眠りから目覚める時であると知っている。それ、今やわれらの救いは、われらが信じた時よりもより近くにあるのだから。夜は更けた、日の出は近づいた。だから、われらは闇の業を脱ぎ捨て、光の武具を身に付けよう。われらは、日中にあるように慎み深く歩もう、酒盛りと酩酊によってでも、乱交と放蕩によってでも、争いと嫉みによってでもない。むしろ、汝らは主イエス・キリストを着よ、そして欲望どもへの肉の計らいを為すな」。ひとはただ神の前の福音の啓示を自らのものとするよう招かれている(Rom.1:18,1:32,3:26,1:26-27,13:11-14).
10 神の怒りの啓示と神の前の責任
(B)「神の怒り」は「引き渡し」という仕方で啓示され知らしめられており、各人の責任が問われる。「神は、彼らにおいて彼ら自身の身体が辱められるべく、彼らの心の諸々の欲望における不潔へと引き渡した」。この啓示のもとでの神の前の人間においては、「神の知られるべきものごとは彼らに明らかである」として「弁解の余地がない」と報告されているが、今・ここに生きているという自覚のもとにある生身の人間は神については明確には知り得ないのだから弁解の余地があると考えることもあろう。しかし、神はそのようには考えていないということが報告されており、神が理解するその神の前で神の怒りにあてられている人間たちの振る舞いに生身の人間は習熟することが求められる。神は人間が考えるようには考えていないことが、ここで知らされている。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」。もちろん、神の前の二種類の人間たちとは人の前で今・ここに生きているわれわれの誰か以外の誰でもない。
神の前と人の前の構成員の総数は同じであり神の前と人の前の二段からなる円筒形で図解されよう。円筒形の上部は神の前を示し、中間時においては(A)義人と(B)神の怒りが向けられている行為の担い手にあらゆる人間が分節される。終わりの日には(A)義人と(B)罪人に最後の審判を介して二分される。円筒形の下部は中間時における人の前を示し、上部と同数の生身のあらゆる人間は「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる中立的な可能存在者である。(Rom.1:18,1:26,1:19-20, Isaiah,55:8-11,Rom.6:19,20).
11 良心と最後の審判
かくして、ひとは神と共なる共知としての「良心(sun-eidēsis)」の発動に習熟する必要がある。良心とは神に明らかなことがひとにも明らかなものとなる神との共同の知識が成立する心の座である。「われらは皆キリストの審判の座の前で明らかにされねばならない。それは各人が身体を介して為したことがらに応じて、各人が善きものであれ、悪しきものであれ受け取るためである。かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」。異邦人ならびに「アダムからモーセに至るまで」のユダヤ人をも含め、ひとの「良心」は「律法を持たずにも自らに対し律法」である。神の義の一つの顕れである神の怒りは律法に違反する者に対し勝手にせよという仕方で啓示されている、完全に引き渡されている限り良心は反応しないであろうが。というのも、罪との共知のもとでは、神の意志について盲目にされており、何ら良心の痛みを感じることなしに、罪の手下として悪を繁殖させるだけであろう。
律法が良心を目覚めさせる。律法という善が与えられたのは、「罪が善きものを介してわたしに死を成し遂げていることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」。ひとが悪行に身をそめているその瞬間には、自らが「死を成し遂げている」その自覚をもたないであろう。律法は罪の奴隷となり悪行に身を任せ死に向かっていることを知らしめる。律法による罪の暴きたてに呼応して、「内なる人間」が「叡知の律法」に即すことによって霊を伴う良心が発動し、葛藤が引き起こされる、そのような役割を業の律法と叡知の律法は担う。この葛藤を介して信の律法に移行するべく「福音」が宣教される。
葛藤の認知的側面は「良心の咎め([apo] suneidēseōs poneras=bad conscience)」と呼ばれ、キリストの身代わりの聖なる愛によって取去られる。「この方[キリスト]は罪人たちの代りに永続的に一つの献げものを捧げたまうたことによって、神の右の座に座したまうた。・・これらの赦しがあるところでは、もはや罪についての献げものはない。かくして、きょうだいたち、われらはイエスの血において聖所に入る認可を得ているので、その認可を彼はわれらに新しいそして生きた道として、ご自身の肉であるところの幕を介して、聖なるものとされた、そしてわれらは神の家の大祭司を得ているので、われらは良心の咎めから心を清められてしまっており、清浄な水によって身体を洗い清めつつ、信仰の確かさの十全性において、真実な心とともに近づきを得ていこう」。
最後の審判はこの「へブル書」に記されたそのような「わが福音」への神ご自身による考慮のもとに良心の発動とともに良心に訴えて遂行される。「彼らは誰であれ自らの心のなかに律法の業が書かれてあることを証明するが、それは自らの良心が共同の証人となり、そしてその間相互に自らの考量が告発しまた弁明しあうことによってであるが、それは、或る日、神がキリスト・イエスを介したわが福音に即してひとびとの隠れたことがらを審判するときである」。(Rom.2:15,5:13, 2Cor.5:10-11, Rom.2:14,7:13,7:22-23,1:2,Heb.10:12,18-22,Rom.2:15-16).
12 イエス・キリストを介した福音の啓示
福音における神の義はイエス・キリストを介して啓示されている。神の信義と義認の啓示の報告はこうである。(A)「しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、神の義は(f1)イエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである」。(Rom.3:21-26)
13 律法と預言の成就としての福音
この箇所は神ご自身による人間認識に基づくご自身の行為についてのパウロによる報告である。神はイエス・キリストの信を介したご自身の義の啓示が「律法と預言者たちにより証言」されているものであると認識しておられる。神はイエスの信の生涯が、アブラハムやモーセに約束したことがらの成就、さらにイザヤの神われらとともに(インマヌーエール)預言や苦難の僕の預言の成就であると認識しておられる。「神の言葉が失墜したというごときものではない。・・彼らはアブラハムの子孫であるが故に、彼ら皆がその子供であるのではない。むしろ「イサク[から生まれる者]において汝[アブラハム]の子孫と呼ばれるであろう」。すなわち、肉の子供たちが神の子供たちではなく、約束の子供たちが子孫と看做される」。「彼[モーセ]は何と言っているか、「言葉は汝の近くにある、汝の口のなかにそして汝の心のなかにある」、これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である」。
イザヤは預言する。「それ故、主ご自身が汝らに徴を与えられるであろう。見よ、処女が身ごもりそして息子を産むであろうそして汝は彼の名を「インマヌーエール」と呼ぶであろう」。
イザヤは苦難の僕を預言する。「主よ、誰がわれらの伝聞を信じましたか。また主の御腕は誰に啓示されましたか。われらはご自身の御前にその方を子供のごとき者、乾きたる土における根のごとき者として報告しました。彼には[見るべき]姿なく、また栄光もない。そして彼は[見るべき]姿をまた美しさをもたず、彼の姿は尊ばれずまたすべての者たちに見捨てられたことをわれらは見て知っている。彼は打たれ、傷あるひとであり、病を担っていることを[ご自身]知っている。というのも、彼の顔は背けられそして敬われることがなく、認められることがなかったからである。この方はわれらの罪を担い(pherei)そしてわれらのことで苦しめられており、われらもまた彼が苦しみ、神によって病のうちにありそして圧迫のうちにあると看做した。しかし、彼はわれらの罪の故に傷つけられたのでありそしてわれらの不法の故に病いを負わされたのであった。われらの平安の訓育(paideia eirēnēs hēmōn, cf. musar(ヘブライ語), discipline)が彼のうえにあり、われらはその傷によって癒された。
われらはみな羊の如くさ迷い、ひとはおのが道に迷い込んだ。そして主はわれらのそれらの罪に彼を引き渡された。そして彼は苦しめられていることの故に口を開くことはない。彼は屠り場に引かれた羊のごとくに、毛を切る者の前に黙す子羊のごとくに、彼は口を開かない。その辱めにおいて彼の咎めはもくろまれた。誰が彼の世代を述べ伝えることになろうか、彼の生命はこの地から取り去られ、わが民の不法の数々から死へとはこび去られたことを。「わたしは彼の埋葬の代わりに悪者たちを、そして彼の死の代わりに富者たちを与える。なぜなら彼は不法を為さなかったからである、彼の口に偽りは見いだされなかったからである」、そして主もまた彼を疫病から浄めることを望みたまう。もし汝らが罪に関して[自らを]捧げるなら、汝らの魂は長生きの子孫を見ることになるであろう。そして主はご自身の御手のなかで彼の魂のその苦しみを取り除くことを望みたまう、それは彼に光を示し、そして理解を形成し、多くの者に良く仕えた正しき方を義とするためである。そして彼が彼らの罪を担うであろう(anoisei)。このことの故に、彼は多くの者たちを獲得するであろう、そして強者たちの戦利品を分配するであろう。彼の魂は彼らに抗して死に引き渡されたそして不法の者のうちに数えられた、そして彼自身多くの者たちの罪を担った(anēnegke)そして彼は彼らの不法の故に引き渡されたのであった」 (Rom.3:21,9:6-9,10:8, Isaiah.7:14,53:1-12)。
14 三つの名称「イエス・キリスト」、「イエス」、「キリスト」
パウロにおいては「イエス・キリスト」という執り成す媒介者への表現は「イエス」や「キリスト」と異なり媒介の前置詞「介して」、「における」、「基づいて」を伴い、行為主体として動詞を伴う主文の主語に立てられない。というのも、パウロは同時に神の子でもひとの子でもある存在者に一つの行為を帰属させることができないと判断したからである。「われらの主イエス・キリスト」は「肉に即して」ダビデの末裔であり全く人間であるが、他方、「聖性の霊に即して」死人の復活により「神の御子と判別された」神の子でもある(第2条)。
ただし「イエス・キリストは主である」と同一性言明の主語となることがある。「主」はわれらがその所有物であるところの主人を意味する。「生きるにしても死ぬるにしても、われらは主のものである」。この職名ないし尊称を伴った固有名には無時間的な同一性言明「ある」および時間的な出来事の主体として「なる」が語られるが、行為「する」が決して語られることのない存在者神・人を指示する。神でもひとでもある存在者には一つの行為は帰属させられない。さらに神はイエス・キリストに帰属した知恵、義、聖そして贖いにおいてご自身が嘉みする者の知恵、義、聖そして贖いであると看做しておられる。「汝らは[神]ご自身に基づき、キリスト・イエスにおいてある、その方は神からのわれらにおける知恵、義、聖そして贖いとなられた」(なお、「キリスト・イエス」という語順の変更は母音の連続を避けるなど発声上の便宜による)。
他方、「イエス」は行為主体として用いられる。「イエスの信」において、イエスは神の言葉に信実であったという、彼の根源的な心的行為ないし態勢を語っている。「イエスの信に基づく者」は「アブラハムの信に基づく者」と同じ語句の構成であるが、アブラハムへの信仰が想定されないように、ナザレのイエスはひととして「神の言葉が信任された」民族の一員として神の約束の言葉に自らの信により応答した。イエスは自ら神からの職務としてメシア(受膏者)・キリストであるという自覚のもとに十字架の死に至るまで従順を貫き罪なき者であったために、父なる神が専決行為として復活を与えたことを介して、神の子であることが判別された。
「キリスト」においては、「キリストは神の右にある方であり、またわれらのために執り成したまう」と媒介行為の主体である。かくして「イエス・キリスト」はそのような神・人を指示している。神・人を表現するこの固有名において神とひとの肯定的媒介となったことが表現されている。(Rom.3:21,8:34,10:9, 1:2,1Cor.1:30,Rom.3:26,4:16,3:2,8:34).
15 「イエス・キリストの信」における帰属の属格
「イエス・キリストの信」における「の」は神の子でもひとの子でもある媒介者に帰属した神の信とそれに対応するひとの信を表現する帰属の属格である。この信は神の信とひとりのひとナザレのイエスの信により構成されている。業の律法より根源的な神の義が歴史のなかで啓示されたさい、その啓示はイエス・キリストに生起した「信」を媒介にして遂行されている。これがあらゆる信にとってのみなもとの信である。(f1)「イエス・キリストの信」における「の」は出来事の範疇における帰属の属格として理解される。啓示行為は父なる神の専決行為であり、二人の啓示行為主体は想定されないため、また「イエス・キリスト」は行為主体として用いられないため(前条)、主格的属格(イ・キの=~が持つ)の読みは否定される。またひと各人が自らの心的状態として持つ(f2)信仰は神の義の啓示の媒介となることはありえないため、目的的属格(イ・キの=~への)の読みは否定される。
(ただし「ガラテア書」の一文「われらの父なる神とわれらの罪のためにご自身をお与えになられた主イエス・キリストから、汝らに恩恵と平安があるように」において、分詞構文「与えた」が「主イエス・キリスト」の行為として用いられるが、祈願文のなかの従属的な位置にあることさらに「父なる神」とセットの表現であることが考慮されねばならない。この議論の流れを考慮した節約的な短縮文のなかで、主文は祈願文であり、双方「から」の平安が祈られており、単独の主文の主語として「イエス・キリスト」が行為主体としては用いられているわけではない)。(Rom.3:22,Gal.1:3-4).