聖書入門:神の探求
2022年度日曜聖書講義第1回 4月3日
聖書入門:神の探求
聖書箇所
「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまたひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからも私を囲み、御手をわたしの上に置いてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え、あまりに高くて到達できない。
どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府(よみ)に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙(あけぼの)の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし御手をもってわたしを導き、右の手をもってわたしをとらえてくださる。
わたしは言う、「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す」。闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない。
あなたはわたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造りあげられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。
(15-17節省略)
あなたの御計(おんはか)らいはわたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを究めたと思っても、わたしはなお、あなたのなかにいる」(詩篇139篇1-18)。
聖書講義(約35回)の探求対象:神そしてひとの心魂(こころ)
〇唯一神: 神の探求は神が宇宙の唯一の創造者、統帥者であることをめぐってなされる。その唯一の神は時間と空間の創造者として宇宙の外に永遠の現在にいます宇宙の栄光であることが聖書(旧約聖書と新約聖書双方)において報告されている。
〇神は知性、人格(道徳)、感性(五感)、そして霊性をその心魂に備えている存在者であるわれら人類に御子を派遣しとりわけ関わり、神は人類をご自身の愛の対象として創造され歴史を導いていることが報告されている。
方法 2000年読み継がれた聖書をテクストとして取り上げる。(そのさい、古典として遺されている哲学書等における人間や存在の探求を参照にする)。
〇「聖書」はThe Bookと呼ばれる古典として人類の吟味、検証を経て歴史に遺されている。古典は歴史の審判を経ておりしかも歴史を審判するものとして人類の歴史を導いている。古典テクスト研究の確かさの実験、検証は各人の日々の人生そのものにより確かめられる。聖書は科学や心理学、社会学の実験や調査による定量化、数量化による仮説の検証と矛盾せず、相補的である。
〇「聖書」は「神の言葉」であるということの理解について。
聖書は「ヤハウェ(ヘブライ語、固有名)」と呼ばれる「神(エル)」とその神により選ばれたイスラエルの民との関わりの記述とその歴史的展開が旧約聖書として39書残されている。その展開のなかで神はご自身の御子(イエス・キリスト)を受肉(ひととなること)により人類に派遣した。ナザレのイエスの伝道および受難と復活の記録が新約聖書として27書残されている。 (「イエス (ヨシュア)」は固有名、「キリスト」は旧約聖書において神に選ばれた人物が預言者や王として立てられるその職務授与のさいに、儀式として頭に「油注がれる」ことに由来。(「油注ぐ」メッシャー →メシヤ (ヘブライ語)、キュリオー →キリスト(ギリシャ語)」))。
聖書はヘブライ語やギリシャ語という人間の文字で書かれている。その聖書は「神の言葉」と言われることがある。その理解として、様々な立場が想定されている。最も強い解釈は逐語霊感説(verbal inspiration)と呼ばれる。神によるイスラエルとの交わり御子の派遣とその生涯の記録は神の使いである聖霊により聖書記者たちに息吹を吹き込むようにあらゆる言葉を伝え、聖書記者たちはペンのようになり神の言葉がインクとして流れ出たという理解である。最も否定的な解釈としては神は聖書記者たちにより捏造された偶像であり偽りであるという虚構説(fiction)が考えられる。
この講義の立場は人類の歴史に最も影響を与え続けた古典として遺されてきた書物であることに対する尊敬に貫かれる。当方に理解できないことがあるとして、それは当方の知性や心魂の未熟さ故のことであり、宇宙の栄光として宇宙の外にいますそして人類を愛のもとに創造した存在者への探求に貫かれる。ルターは言う、「聖書を正しく理解するところ、そこに聖霊が宿る」。神と人類を媒介する聖霊の援けを得ることができるかも知らない。
「聖書」が「神の言葉」であるということの理解として、最も道理があると思われるものはこうである。一方、神ご自身について語り理解することができる知性的存在者である人類が宇宙全体とともに創造された限りにおいて、同じ知性的存在者として神がその宇宙の法則や宇宙の目的とともに人類に理解されることを許容しておられると想定することは道理ある。他方、人類がその歴史のなかで陥った神への背きに基づく悲惨と窮状を救出すべく神が御子を派遣した限りにおいて、人類は神の愛の対象であると理解することは道理ある。この知性的であり愛の対象である人類により神ご自身が人間の言葉で理解されることを認可したと想定することは道理ある。これに基づき、神と選びの民さらには人類全体との交わりが人間の言葉で記録されることを許容したという意味において、「聖書」は「神の言葉」であると理解することができる。当然人間の知性や道徳性の弱さそして言語の限界により、様々な神認識や状況認識とその報告において誤りや不備が見られるであろうが、それは聖書記者ならびに人類の限界として理解される。
当方としては、70年近い人生において聖書の理解に取り組んできたが、聖書に裏切られた経験は一度もない。人間そして自己の探求、理解において聖書に基づきまた他の古典文書に基づき探求してこれたことを喜び感謝している。それは当方の理解があまりに低いためということもあるであろうが、人生の経験全体を通じて聖書が伝える神を求め、共に生きてきたことを感謝し賛美している。詩篇詩人は言う、「測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業(しぎょう、ゆずり)を受けました」(Ps.166)。