山上の説教における福音ーリアルタイムのイエスそのひと―
マタイ5-6章 2020年8月2日 (今回は前講がなかったため1時間弱の講義となった。時間の余裕があったためゆっくり、原稿を読まずに語った。聖書の引用はこの原稿からのものである)。
山上の説教における福音―リアルタイムのイエスそのひと―
2020.8.2
1序
この前期最後の聖書講義においてこれまでの学びを振り返りながら、山上の説教は彼がそのために受肉した福音を持ち運びつつ、モーセ律法の成就の新たな道を指し示すものであったことを明らかにしたい。山上の説教の高い道徳を実現させるその道行が、福音書において報告、展開されるリアルタイムのイエスの信の生涯であったことを指し示したい。すなわち、山上の説教は、一方、良心の咎めにいたるモーセ律法の急進化により、聴衆がそのもとに育ったユダヤ教の伝統のなかで強調されたパリサイ主義的律法理解の偽りを摘出しつつ、他方、良心を癒す「神の国と神の義」を説き明かしていることを明らかにしたい。
見取り図を描こう。神に嘉みされる、好まれる人々がどのような人であるかが八福として提示される。その喜びに基づき、神に栄光を帰すべく地の塩、世の光となるよう励まされる。これら二つの「立派な働き・業(ta kala erga)」はひとびとの模範となるものである。イエスはその立派な業の基礎は既にモーセ律法即ち業の律法において与えられていることを確認する。彼は自らを「安息日の主人」と語り、律法主義的なパリサイ人のようにとりたてて厳格にモーセ律法を順守しなかったことから、彼が[聖]書に描かれている律法と預言者を廃棄するためにきたと思われていた。しかし、彼はユダヤ人がそのもとに育てられた「(モーセ)律法の一点一画」たりとも終末まで廃れることはなく、「私は・・成就するために来た」と主張する。
そのうえで彼は律法についての伝統的な言い伝えを急進化させる。イエスはモーセ律法を急進化させ怒り即殺人、情欲視即姦淫、敵即隣人、愛敵即無抵抗という仕方で双方を同化させる。これらの滑稽とも言えるほどの真面目さにおける偽りとの決別はひとびとにイエスないし神との共知としての良心の発動に導かれる。ひとの心は例えばカルニヴァル(人肉食)に良心の痛みをもたない部族があるように、この急進化により良心が発動するそのような知識に基礎づけられ、知識に制約されるそのようなものである。イエスは究極の良心規準を提供したと言える。それにより、彼は宗教指導者たちの、道徳的次元でも司法的次元でもまた宗教的次元でも人からも神からも褒められようとする二心、三心の偽りを指摘している。彼はそのさい対人論法を展開する。聴衆であるユダヤ人とイエスのあいだで同意されているのは、天国と地獄があること、神に律法を与えられたユダヤ人としての誇りである。聴衆が馴染みの教えはモーセ律法に基づく応報思想としての正義感である。「目には目を」「歯には歯を」の同害報復においては、等しさの分配という司法的正義が主な正義の理解である。イエスはそのユダヤ人の立場から天国や地獄における「報い」の概念も等しさの分配としての正義に基づき展開する。
これらがこの四か月の講義の流れであった。二心の排除において良心の発動が山上の説教の目的のようにさえ思われよう。しかし、この説教には既に権威ある方の教え、福音が見いだされうる。山上の説教においては良心が癒されるその福音に基づいて急進化された律法の成就の方向が示めされていたのである。
良心が宥められ心に平安を得るのは、道徳的次元とは異なる恩恵の次元に立つときのみであろう。イエスは「モーセ律法」ないし「業の律法」を急進化し道徳的次元において良心のことがらとして摘出した。神にはもう一つの正義の意志として「信の律法」がイエス・キリストの信を介して啓示されている。それは「目には目を」の比量的な正義の次元ではなく、比量や比較を絶する善である。そこでのみ聖霊と共に知る良心の平安が与えられる。
山上の説教を理解する鍵語は「モーセ律法の急進化」「良心の発動」「偽りの摘出」そして「八福」と八福に基づく「第一に神の国と神の義とを求めよ」そしてそこから導かれる「明日のことを煩うな」の励ましである。
2 八福!もう一度
イエスそのひとが神に八つの仕方で祝福されていることを彼の生涯の福音書の報告の様々な場面を紹介しつつ明らかにしてきた。イエスは三人称で一般的に神が好むひと、神に嘉みされるひとがいかなる者たちであるかを八つ枚挙している。「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(5:3-12)。
マタイ5章から7章は山の上での教えであるため、「山上の説教(垂訓)」と呼ばれている。「祝福されている」と訳される言葉は「幸いだ」と訳すこともできる。とはいえ神とその御座である天国との関連で語られているがゆえに、神に祝福されるのでなければ幸福であることはできないため、より直截に「祝福されている」と訳した。これらは神に祝福される八つの心魂の態勢・状態またその働きにある者たちについて三人称で一般的に言われている。とはいえ、福音書のイエスの言葉は常に具体的な対話の状況・文脈のなかで対人論法により語られている。それ故にこの三人称表現も彼を求めて山を登ってきた寄る辺ない群衆に対して彼がもった今・ここの憐みから、通常否定的な状況と思われている悲しみなどの心の受動や苦境、そして柔和、憐れみ深さ、清らかさなどの肯定的な心の態勢そして迫害や平和を造る対人関係にこそこれらの祝福が発せられていると考えねばならない。彼ご自身が神に祝福される八福の担い手であったことが、福音書の様々な報告から確認することができる。祝福されていない者が他者を祝福することはできないであろう。
イエスご自身はユダヤ教の伝統のなかで「イスラエルの失われた羊」に遣わされているという自覚をもち福音宣教を始められたが、この三人称の表現はユダヤ人であれ、異邦人であれ誰であれこの憐みのもとに含まれていることをも含意している(Mat.15:21-28)。語りの文脈の具体性と射程の一般性双方を捉えねばならない。実際、類似の宣教の文脈において「群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れみ」、「彼らに多くのことを教え始められた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。彼は彼についてくる群衆を深く憐れんでいたのである。その憐みのなかでの神の国の宣教すなわち神の国がどのようなものであるか、天上の倫理がいかなるものであるかについての「教え」とそれがもたらす知識は弱った人々を救いだす力である。神の国についての明晰な理解がひとを新たにするという言葉の力を山上の説教は示している。彼は彼を求めて山に登ってきたひとびとを見捨てることは考えられず、彼の権威ある祝福は聴衆を励ますものであった。
註解者たちは旧約聖書にこの八福についての先駆的記述を探しあて指摘している。たとえば『イザヤ書』61章で類似の記述に出会う。「主ヤハヴェの霊がわたしに臨んだ。ヤハヴェはわたし[イザヤ]に油を注ぎ、貧しい者に喜びの音信(おとずれ)を告げ 心傷ついた者を医(いや)すために わたしをお遣わしになったのだ。囚われた人に自由を 囚人に解放を告げ ヤハヴェの喜びの年と われらの神の復讐の日を告げ すべて悲しむ者を慰め・・衰えた心の代わりに賛美の衣を与えるためである」(Isaiah.61:1-3 関根正雄訳)。「柔和な者は地を嗣(つ)ぎ 豊かな平和を喜び楽しむことであろう」(Ps.37:11)。
イエスはご自身の使命を福音の宣教にあると心得ておられたので、このイザヤや詩篇の言葉などを自ら引き受けてその伝統のもとにそしてその伝統を超えて新しい教えを展開した。その山上での最初の福音が八福の教えである。第一の祝福は「その霊によって貧しい者たち」に与えられる。「その霊によって(tō(i) pneumati)」(与格)はいかなる仕方で貧しい者が幸いかの説明である。例えば、「欲望によって富んでいる者」、「肉によって満たされている者」たちは直ちにはその祝福のもとにいないであろう。肉によって満たされた者は霊の渇きを感じることも、霊による満ち足りを求めることはないであろう、その空しさに襲われるというのでなければ。
ルターは肉による満ち足りた者について言う、「彼[イエス]はユダヤ人の教えと信仰に抗して、この山上の説教を始めた。もちろん彼らだけではなく、全世界の教えと信仰に抗して彼は説教を始めたのであるが、そこにおいてはその[全世界の教えの]最善においては、もし世界がただ所有、名誉そしてその富を持ちさえするなら、そして世界がこの目的のためにだけ神に奉仕さえしているなら、この世界は豊かであるという考えにしがみついているものであった。イエスは、今や、説教を続けそして彼らが最善である、地上において最も祝福されている、すなわち、良き、静かな日々を持ちそしていかなる不快にも苦しむことがない、と看做したことがらの愚かさを示している。幾人かは詩篇73篇において述べられている。「死ぬまで彼ら[神に逆らう者]は苦しみを知らず、からだも肥えている。誰にもある労苦すら彼らにはない。誰もがかかる病も彼らには触れない」(Ps.73:4-5)。というのも、それは人間たちが求める主要なものごとであるからである、すなわち彼らは喜びと快を持ちそしていかなるトラブルも持たない。
今やキリストはそれを一新する、まさに反対のことを宣言する、そして悲しみと苦しみを持つ者たちを「祝福されている」と呼ぶ、そしてそのように一貫して、これらすべての言明は世界の思考様式とは、ちょうどそれ[その思考様式]がそれ[一つの方向]を持つことになるであろうように、反対の方向になされる。というのも世界は飢え、トラブル、不名誉、軽蔑、不正そして暴力を苦しむことを欲しないからである、そしてすべてから解放されることのできる者たちをそれは祝福されていると数えるからである」Commentary on the Sermon on the Mount by Martin Luther,p.31-2, tr.Charles A. Hay, (Philaderphia:Lutheran Publication Society 1892).
身体をもった自然的存在者の生の原理をパウロは「肉」と呼ぶ。その肉によって満ち足りている者とはこの世界で得られる金銭、健康、地位、友人、家族さらには道徳的有徳性において欠けがなく十全であるそのような者のことを言う。それに対し「その霊によって貧しい者」とはこれらのこの世のいかなるものによっても満たされず、おのれの不十全性故に滅びてしまう空しいものであると認識しており、飢え渇きのうちに神を求める者のことである。詩人は言う、「涸れた谷に鹿が水をもとめるように神よ、わが魂は汝を求める。神に、生命の神に、わが魂は渇く。いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わが糧は涙ばかり。ひとは絶え間なく言う、「汝の神はどこにいるのか」と」(Ps.43:2-4)。このような者がその霊によって貧しい者であり、神に祝福される者である。
3「汝の宝」はどこにあるのか―帰一的秩序付け―
この世の通常の価値を逆転させる山上の説教はこのように革命的でありかつ危険でさえある。「汝の宝があるところ、そこに汝の心もあるであろう」(Mat.6:21)。ひとは、通常、宝すなわち大切にしているものを同時に多く持つであろう、われわれが価値を置くところのもの、それは健康でありまた、同時に望む職業に就くことでありさらには家庭円満であったり、多くあることであろう。しかし、そこでは「誰も二人の主人に仕えることはできない。というのも一人を憎みそして他方を愛する、或いは一方に親しみ他方を軽んじるであろうからである。汝らは神とマモン(富)に仕えることはできない」(Mat.6:24)と言われてしまう。何を着て、何を食べようかというこの世に宝を積みつつ、また永遠の生命を頂きたいというあの世にも宝を積むということは、心が二心に分裂してしまうことに他ならない。心の清さを宝とするひとは、天にのみ宝を積むひとであるか、少なくとも地上のよきものどもが天の宝により秩序づけられている人々であり、この集中なしに心の清さを獲得することはできない。この世のものごとはいかに天の国によって秩序づけられるのか。
「汝らのうち誰が思い煩いにより、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つか注意して見よ。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく、栄華をきわめたソロモンでさえ、これらの花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、汝らにはなおさらのことではないか、信わずかな者たちよ。だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」思い煩うな。それはみな異邦人が切に求めているものだ。汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりも第一に、神の国と神の義とを求めよよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう」(Mat.6:28-33)。
天の父はこれら生活のことが必要であることをご存知であり、これらすべては神の国と神の義に秩序づけられる。心の眼差しは最初に神の国を仰ぎ見ることが求められている。神により正義だと看做されることに向けられる。そのナザレのイエスは自らガリラヤの野辺を歩きながら、天国について教えつつ、その一挙手一投足において神の意志をさらには神の国を持ち運んでいた。イエスは「天国のことを学んだ律法学者は自分の蔵から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:52)と言う。古いものとは旧約のことであり、新しいものはその延長線上に彼自身においてリアルタイムに打ち立てられつつある新約のことであるが、天国について学んだ者はきちんと心魂という自分の倉庫を管理しており、知性においても人格においても一切を天国との関連において秩序正しく考慮することができまた行為を形成することのできるひとのことである。
4リアルタイムに神の国を約束しているイエスの権威
イエスご自身は野の百合空の鳥の慰めの言葉により、「汝ら」と呼びかける聴衆に対し神の国と神に義とされることを約束している。律法の急進化をただ要請しているわけではない。その根拠を天の国における報いとして約束している。イエスご自身にとっての宝は福音(罪人を義とし救いだす善き報せ)を迷える羊たちに伝えることである。即ち天の父が愛であることを自らの一挙手一投足によって伝えることである。この生涯をより一般的に統一的に表現するなら、彼の宝は天の父のみ旨、意志を完全に遂行することである。彼は生命をかけて神の国を伝え、神の国の現実をこの地上で持ち運んで生きた。「神の国は汝らのただなかにあり」(Luke.17:21)。この権威なしに、ひとにあれほどの律法の成就を要求することはできない。あの世ばかりかこの世をも失わせる、ひとにそのような危険思想を植え付けるだけのこととなる。
イエスは律法を急進化させ愛に収斂させている。「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽しそして汝の魂を尽しそして汝の思考を尽して愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身の如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat.22:36-40)。一切の業の律法は愛に収斂する。パウロも言う、「汝ら、互いに愛することのほか、誰にも何も負うてはならない。というのも、愛する者は他の律法を満たしているからである。なぜなら、「汝姦淫するな」、「汝殺すな」、「汝盗むな」、「汝貪るな」、そしてたとえ何か他の戒めがあるにしても、それはこの言葉「汝の隣人を汝自身のごとくに愛せよ」により包摂されているからである。愛は隣人に悪を働かぬ。かくして、愛は律法の充足である」(Rom.13:8-10)。愛が業の律法の冠である。
彼は地上においてかそれがかなわなければ天上における希望として愛を実現すること、それ以外の宝を持たなかった。換言すれば、彼は父に御言葉の受肉において派遣された者として、自らが神の子であることを信じ、「神の子の信によって」(Gal.3:30)愛に向かう信の従順の生涯を貫いた。「神の信」に対し信によって応答すること、愛に方向づけられる信それが彼の宝であった。キリストの弟子であろうとする者はその道に続く。「もはやたしは生きてはいない、われにおいてキリストが生きている。しかし、今わたしが肉において生きているところのものを、わたしはわたしを愛しそしてわがためにご自身を引き渡した神の子の信によって、信において生きている」(Gal.3:20)。またパウロは言う、「汝らはすべてキリスト・イエスにおける信を介して神の子なのである」(Gal.3:26)。
誰であれ様々な宝遍歴を経験したとして、この世の満ち足りの空しさ、薄っぺらさを経験した者には、これ以上の宝をもつことはないであろう。そこでのみ良心の咎めから解放されている。問題はこの一つを宝とするには古い自己の死を介することによってだけ、他の諸々の宝、偶像から解放されるという、この信の出来事を必要とすることである。「すべて信に基づかないものごとは罪である」(Rom.14:23)。彼はその信に基づき、愛の充溢である神の国を一挙手一投足においてこの地上に持ち運んでいたのである。
人口に膾炙した「野の百合空の鳥」というメッセージが彼のリアルタイムに実現されつつある福音に基礎づけられていたことを確認した。他方、イエスは同時に聴衆に対人論法において議論を展開していた。聴衆に馴染みのモーセ律法の枠の中で律法を急進化させつつ宗教指導者たちの偽りを摘出していた。対人論法として相手の土俵で論じており、直接に信仰を説くことも、奇跡に訴えることもなく、ただ言葉の力によりご自身が旧約の枠の中で、律法を急進化させることによってだけ整合的になる、その一挙手一投足において新たな契約を打ち立てている。
5業に基づく正義としての「報い」を乗り越えるもの
神の国と地の国の価値の逆転、さらには神の国による地の国の秩序づけ、ひいては福音と律法の関係の新たな樹立について、それを理解する一つの鍵は「報い(mistos)」という概念である。イエスは言う、「汝らの正義を人々の前で彼らに見てもらうべく為さないよう注意せよ。さもなければ、汝らは天にいます汝らの父のもとで報いを得ることはない(echete)からである。かくして、汝が憐みを施すとき、それはまさに偽善者たちが礼拝堂や街角で人々によって褒められるために為しているように、汝の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。まことに汝らに言う、彼らは彼らの報いを受け取っている。しかし、汝が憐みを施すとき、汝の憐みの施しが隠れるために、汝の右手が何を為すかを汝の左手が知ることをあらしめるな。そして隠れているものを見ている汝の父が汝に償うであろう」(Mat.6:1-4)。天において報いを得るか、この地上で報いを得るかいずれかであって、双方ということはない。それは「祈り」に関しても「断食」に関しても同様であり、ひとに見られるために大通りで祈り、断食するなら、「彼らは彼らの報いを得ている」(6:5,6:16)と言われる。そこから「汝らは汝らにおける宝を天に積め」(6:20)と命じられる。
かくして、報いは地上で既に得てしまった場合、天に積むことにはならず、天において報いや償いを得ることもない。イエスはあれかこれかを迫っている。報いはモーセ律法の応報思想の枠の中で理解する限り、正義を含意する。だから、地上で報いを得てしまえば、天国は過剰な報いとなり等しさとしての正義を得ることはない。宗教指導者たち、ひいてはわたしどもの偽善は地上でも天上でも報いを得ようとする二心であった。イエスはユダヤ人の当時の伝統的理解のなかで、誰もが持つであろう良心に訴えて、偽りを摘出している。言わば彼らの土俵で戦っている。それ故に「報い」は第一義に業の律法に基づく正義を意味しており、単に功利主義的な理解を提示しているわけではない。功利主義的に「最大多数の最大幸福」やその類の主張のもとにある快の最大化を目指すことが許容されているなら、この世の快とあの世の快双方を追求するであろう。しかし、それは正義と言う視点からブロックされており、快が報いの規準であるとは看做されていない。
天に宝を積み、そこで報いを得ることを命じるイエスご自身は或る確信のもとに権威をもって、彼についてくる者たちに未来についての約束を為している。一方モーセ律法に即して、応報の正義という観点からしてこの世界で報いをえることのない場合には天上で受けることは正義である。他方、ご自身はモーセ律法を超える権威を持つ方として、聴衆に天の報いを約束し励ましている。パウロはモーセが自らの栄光の翳りに不安を覚えたことを見逃さずに言う、「その神はわれらをして文字のではなく、御霊の新しい契約に仕える者として十全なものと為したまうた。というのも、文字は殺し、御霊は生を造るからである。しかし、たとえ、石に刻まれた文字における死の奉仕が栄光のなかに生じ、その結果イスラエルの子たちはモーセの顔の栄光の故に、それはやがて消えゆくべきものであるが、直接凝視しえざるほどのものであったとしても、霊の奉仕はいかにはるかに栄光のなかにあることになるであろうか」(2Cor.3:6-8,Ex.34:30)。
パウロはここでキリストを介した生命を与える霊の栄光と力能と神からモーセに授かった文字による栄光の程度の異なりを伝えている。十戒を示されたモーセの顔の輝きに麓にいた民は畏れを抱いたが、霊がもたらす栄光はそれに遥かに勝るものであった。その栄光ある主が明日のことを煩うな、天の父は汝らの一切の必要をご存知である、天に宝を積むとき、その報いは大きい、そのことを約束している。かくして、どうしてもこの世界における報いへの要求と自らの立派さへの誇りが残る業に基づく義よりも、天国への信に基づく義のほうがより根源的であることがわかる。
最大の報いとは何であろうか。それは各人の「宝」に応じて異なるであろう。イエスにとっては父と子の揺るぎなき愛の交わりであり、敵が友となり、支配からも支配されることからも自由な唯一のところで出来事になる友と友との揺るぎなき愛の交わりである。それは急進化された律法の理解にも基礎づけられうるものである。それはただイエスのように憐み深く、柔和な者にだけ与えられる祝福である。新約的には御子の受肉による福音の啓示の故に、何か野の百合、空の鳥のように神の憐みとケアのうちにあるとするなら、それは旧約的な報いではもはやなく、キリストにおいて示された神の憐みの聖霊を介して溢れでたものであると言える。「渇いている者は誰であれ、わたしのところに来て飲みなさい。私を信じる者は書に書いてあるとおりに、その者から生きた水が川となって流れ出るようになる」(John.7:37-38)。「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。
6 平和の君
今学期の学びで個人的にインスピレーションであったのはイエスの柔和さとその柔和さをめぐるゼカリヤの預言である。イエスは第三福の柔和な者であった。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を汝らのうえに繋げなさい。そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は良きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28)。イエスは暴れ馬のような方ではなく、イエスは驢馬の子にのってやってくる平和の君であった。その彼の軛に繋がれて歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与える者となる。平和の君だからである。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。
イエスの弟子であろうとする者はイエスの担いやすい低い軛に繋がれることである。ひとは見捨てても彼は決して見捨てることはない。誰であれ、ご自身の栄光を棄てられ、ひととなり、貧しいもの、悲しむ者、争いを好まない者、正義から不当に見放され正義に飢え渇いている者、憐み深い者、平和を造る者そして正義のために迫害される者たちとどこまでも共にいたまう方のところなら行くことができる。この世界で見失われているひとびとであればあるほど、イエスの軛につながれつまり神の子の信のもとに生きることによって、この人生を歩むことができる。
イエスの軛に繋がれ歩んでいるとき、次第にイエスの歩調に合うものとなり、次第に造り変えられていくであろう。この世界に何ら確かなものがないと思い絶望する者でも、このような八つの心の働き、状況においてある者が祝福の対象であるなら、人類にその一番低い所にセーフティネットは明確に張り巡らされていることを知るにいたる。イエスのもとにならいくことができる。
[附録] 新型コロナと「神の怒り」
人類の歴史は神の計画のうちにおかれている。今回のコロナ禍を「ローマ書」一章の視点から捉えてみる。まず天災と人災に分けることができるなら、罪は神とひとの関係であるため人災の側面についてのみ記す。ひとは自然に対し暴力的な搾取に明け暮れ、コロナウィルスに慎重に取り組むことなしに、自らの楽しみや利益を優先させ医療崩壊そして社会崩壊を引き起こすとき、勝手にせよと神は各人の裁量に引き渡しており、何ら関与されない。ところが、人類は自分の力でそれを終息させることができないほど、身勝手にウィルスをまき散らして健康弱者を窮境に陥らせている。もちろんわれわれにはゼロリスクということはありえず、いかなる理由であれ一旦感染してしまったなら、それは一種の運命共同体として身近な感染者を自らのこととして引き受けるしかないであろう。それによってのみ、われと汝の絆がつくられていくであろう。ただし、このコロナウィルスをめぐるここでの議論は聖書的には神の意志としてイエス・キリストやモーセを介して知らしめられているほど明晰に知らされているわけではないことに留意が必要である。これは歴史の渦に翻弄されている各年代の者がその時代の窮境を聖書に照らして「神の怒り」として捉える一つの視点である。悔い改めはいつの時代のいかなる状況においても求められている。