平和への道(2)―悔い改め—
平和への道(2)―悔い改め—
日曜聖書講義 2023年1月22日
聖書
「娘シオンよ、大いに踊れ。歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(ゼカリア書9:9-10)。
「弟子たちはろばの子をイエスのところに連れて来た。彼らは自らの上着を子ろばのうえに敷きやってきたイエスを強いて乗せた。彼が進むと、人々は自分たちの上着を道に敷き広げた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかったとき、弟子たちの群はこぞって、自分の見たあらゆる力ある業を喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名において来ておられる王が褒めたたえられますように、天には平和が、いと高きものたちには栄光がありますように」。すると、パリサイ派のある人々が、群衆のなかからイエスに向かって、「先生、弟子たちを叱ってください」と言った。イエスは答えた言った。「汝らに言う、もしこの者たちが黙れば、[破壊される都の]石が叫びだすであろう」。エルサレムに近づき、都を見たとき、イエスはその都にたいし涙を流した。そして言う、「もし今日この日に、お前も平和の道をわきまえてさえいたなら。しかし今は、それがお前の目からは隠されてしまった。やがて時がきて、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻み四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前のなかの石を残らず崩してしまう、そんな日々が来るだろう。それらの代わりに、お前は自らへの訪問の好機をわきまえなかった」(ルカ福音書19:37-44、参照「われらの憐みの神の憐み故に、そこにおいていと高きところからの光輝きがわれらを訪ねるであろう。「暗黒と死の陰に座すものを照らし」われらの足を「平和の道」に向かわせるであろう」Luk.1:78(Ps.107:10, Is.59:8))。
1新しいものとの出会い
ひとびとのあいだに不和や争いがあるとき、それはわれらの罪の故にである。先週このことを学んだ。ひとはどこからひとを愛する力を得るのだろうか。もしおのれの臍のみを眺め、自らにしか関心がなければ、常にその自らの利益との関連で周囲の人々との関わりが、時間と空間が位置付けられるであろう。眼差しは内側を向いていると言える。自ら関心のあるもの、好きなものは確かに自らの外にあるであろうが、自らの欲求、欲望の投映でしかない。そこに、新しいものとの出会いはない。シモーヌヴェイユは言う。「悪の単調さ、そこには新鮮さが何もない。そこではすべてが同じものだ。そこでは実在するものがない、すべてが空想の産物なのだ。質ではなく量が大きな役割をはたすのはこの単調さのせいである。多くの女をものにするドンファンのように、多くの男をものにするセリメーヌのように、われわれは偽りの永遠を求めるよう強いられている。それが地獄だ」。
自ら、世界に対し正面から向き合い、自分を勘定にいれずに、「よく見聞きし分かりそして忘れず」と世界に開かれるとき、新しいものにであう。それ以外は自らの欲望のもとに捉われ、支配され、空想により世界を一色で塗りたくり、何ら新しいものには出会わない。その証拠にそこでは質ではなく量がものを言う。悪というのは単調なものである、そこには何ら新しいものがないからである。
われらは罪の奴隷であるとき、死を成し遂げつつある。罪の刺激のもとにあるときは、悪行は義務にさえ見え、悪行のただなかでは一種の興奮のなかで死に向かっていることを認識できない。しかし、悪の単調さを知るべきである。そこには何ら新しいもの、生命を輝かすものを見出すことはないのである。単におのれの古い欲望にこだわり、そこにつけいる罪によって死に誘われているだけである。われらの、たとえ刺激に満ちていると思っても、生活が単調であるとき、空想のなかで自己を肥大化させている限り、何ら新しいものに出あわない。現実の何か確かなものにゴツンとぶつからない限り、夢から覚めることはないであろう。
2 律法主義と良心
ひとはただ業の律法を投げ捨てることはできない。たとえ律法を捨てても、良心が律法として働く。異邦人ならびに「アダムからモーセに至るまで」のユダヤ人をも含め、ひとの「良心」は「律法を持たずにも自らに対し律法」である(Rom.5:14,2:14)。「一四律法を持たない異邦人たちが自然に律法のことがらを行う時、その者たちは律法を持たずにも自らに対し律法なのである。一五 一六彼らは誰であれ自らの心のなかに律法の業が書かれてあることを証明するが、それは自らの良心が[律法と]共同の証人となり、そして算段に基づき自らのあいだで互いに告発し或いはまた弁明することによってであるが、それは、或る日、神がキリスト・イエスを介したわが福音に即してひとびとの隠れたことがらを審判するときである」(Rom.2:14-16)。かくして、「良心(sun-eidesis)・共同の知識(con-science)」が社会通念、共同体との共知であれ、放埓者同士のあいだでの共知であれ、ひとは業の律法から自らを解放することはできない。空き家になった心に常に何かがはいりこみ、自らを隷属させ支配する、それがデヴィルであれ、自らの救いの条件であれ。
モーセの十戒、山上の説教、司法的な次元での分配の正義のもとでの懲罰の働きはわれらに罪それ自身の醜悪さを知らしめ、罪に勝利したキリストに導くことであった。一般的に、もしわれらが「惨めだ、われ、人間」(Rom.7:25)と叫ぶことがあるとするなら、それは業の律法が内なる人間を介して何等か働いており、悔い改めを促していることを示している。苦悩するとき、われらは喜ぼう。「汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか」 (Rom.2:4)。
3悔い改め
悔い改めは旧約においては、基本的には、業の律法の内側のことで遂行された。洗礼者ヨハネは言う。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-12)。試練を表現する「火」と復活の主の現臨を表現する「聖霊」により洗礼を授けられるとき、ひとは信の律法のもとにイエスをキリストであると信じるに至る。
業の律法のなかで悔い改め、良い行いをすることではなく、業の律法から信の律法のもとに移行すること、それが悔い改めである。「神に即した苦悩は後悔なき悔い改めを働く」(2Cor.7:10)。業の律法のもとに、自らをそして他者を審判しながら生きること、これは苦しみである。律法や理想の文字に頼るとき、ひとは生命なき働きを、せいぜい心の内側ではなく、外側でつじつまを合わせる、形だけの律法を守るそのような生活となる。「文字はひとを殺し、霊はひとを生かす」(2Cor.3:6)。このような生命のない生活は続けられないこれに気づくとき、福音により生命に至る信の律法が切り開かれたことに導かれる。
まず、自らの欲望や、理想や律法の投映ではなく、イエスの十字架と復活にいたる信の生涯を自らのことがらとして受容すること、それが悔い改めである。悔い改めによる魂の刷新を頂き真っすぐな道を歩む。罪赦されたことの証は、自らの涙でイエスの足を洗う女性に見いだされる。イエスは言う、「彼女の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。信に基づく正義とその信義の「果実」(Phil.1:11)は愛しうることである。自らの罪が「赦されてしまっている」ことの証は愛することに確認される。「木はその果実によって知られる」。罪の赦しは神の前のことがら、神の専決行為であるが、この歴史におけるその証は愛しうることでありますなら、われらは新しくされ、歯を食いしばって敵をも愛する。
旧約の古い革袋を破るイエスの山上の説教は、その厳しい言葉を自らの信の従順による完遂故に、福音の革袋である信の律法のもとで愛の戒めに収斂、変換されている。われらは「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)、即ちモーセの古い革袋から解放されて、新約の革袋のなかで生命の泉に与ることであろう。時代が厳しくなるほど、この端的な生命の泉を渇き求める。信義に基づき愛しうること、そこに生命の泉が湧いてくる。
パウロは心の根底に二心なき幼子の信仰が宿るとき、業の律法から解放されると主張する。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Gal.2:19-20,Rom.8:2)。ここでも過去形が救いの確かさを表現している。われらの外の出来事がわれらの出来事なのである、聖霊が執り成している限りにおいて。
この生命に触れることは聖霊の今・ここの働き・エルゴンである。これは経験するしかないというわけではなく、一般的に神とひとの媒介としてあの十字架と復活の過去の出来事を自らの出来事とさせるそのようなものであると理論化することができる。神のもう一つの根源的な意志である信の律法により業の律法から解放される。そこでの業の律法から信の律法への移行は悔い改めによるが、生命の霊の律法により導かれる。「神に即した苦悩は後悔なき救いに至る悔い改めを働く」(2.Cor.7:10)。ここに福音のダイナミズムがある。
キリストにおいて業の律法からそれ故に罪から解放された。既に罪とその値である死に対する勝利はわれらの外に、キリストのうちに立てられたのである。律法は悔い改めに導き新約においては律法から解放し、キリスト・イエスの生命に与らせる。
結論 残りの者も国家(肉)において生きている
イエスの認識において人類の歴史に対する楽観が一切ないこと、それが歴史の最先端にいる者に自覚を促す。各人はどこまでも自らの責任ある自由においてこの歴史を生きる。イエスは少数者の自覚のもとに信の根源性にその都度立ち帰ることが歴史に対する正しい取り組みであることを教えている。かくしてイエスの弟子たる者は無抵抗、無審判の山上の説教に即してイエスの軛を共に担い彼の「柔和と謙遜」を身にまとい、共に歩む抜くことが人生の目標となる。イエスに従う者は「残りの者」としてその証を立てることに専心する。その生を導くものは信に基づく正義である。
われらに不和があり争いがあるのはわれらの罪の故にである。「すべて信に基づかないものごとは罪である」(Rom.14:23)。戦争がその最も先鋭化した姿である。イエスは言う、「ひとが全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひとは自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。不正により全世界をわがものにしても、信に基づく義により与えられる神的な生命を失うとき、それを償うものはこの世界になにもない。この発言はカントが中世の言葉として引用する「正義をして支配せしめよ、たとえ世界が滅ぶとも」と同じ内実を持つものである。この格言は、イエスの不正による世界支配の視点を転換し、正義の実現のほうが世界の存続より重要であることを伝えている。たとえ世界が不当な仕方で不正義のもとに所持され存続したとしても、正義が蔑ろにされるとき、世界にとって生存の意味はない。換言すれば、正義により魂が神の前で保全されなければ、世界の存在に意味はない。正義がなければ、個々人の存在に意味がないのと同様に、生命原理である魂以上に人間にとっては重要なものはなく、その魂は正義なしに維持されない。詩人は言う、魂は褒めたたえるために生きる、と。「塵は汝を褒めたたえんや、汝の真理を宣べ伝えんや」(Ps.30:16)。われらの罪を悔い改め信に立ち帰ること、それが選ばれた少数者のその都度の道である。