平和への道―イエスの歴史観―

平和への道―イエスの歴史観―

                     (録音は4節まで)   日曜聖書講義 2023年1月15日

聖書

「娘シオンよ、大いに踊れ。歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(ゼカリア書9:9-10)。

 

 「弟子たちはろばの子をイエスのところに連れて来た。彼らは自らの上着を子ろばのうえに敷きやってきたイエスを強いて乗せた。彼が進むと、人々は自分たちの上着を道に敷き広げた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかったとき、弟子たちの群はこぞって、自分の見たあらゆる力ある業を喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名において来ておられる王が褒めたたえられますように、天には平和が、いと高きものたちには栄光がありますように」。すると、パリサイ派のある人々が、群衆のなかからイエスに向かって、「先生、弟子たちを叱ってください」と言った。イエスは答えた言った。「汝らに言う、もしこの者たちが黙れば、[破壊される都の]石が叫びだすであろう」。エルサレムに近づき、都を見たとき、イエスはその都にたいし涙を流した。そして言う、「もし今日この日に、お前も平和の道をわきまえてさえいたなら。しかし今は、それがお前の目からは隠されてしまった。やがて時がきて、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻み四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前のなかの石を残らず崩してしまう、そんな日々が来るだろう。それらの代わりに、お前は自らへの訪問の好機をわきまえなかった」(ルカ福音書19:37-44、参照「われらの憐みの神の憐み故に、そこにおいていと高きところからの光輝きがわれらを訪ねるであろう。「暗黒と死の陰に座すものを照らし」われらの足を「平和の道」に向かわせるであろう」Luk.1:78(Ps.107:10, Is.59:8))。

 

1イエスの悔し涙

 イエスは人間が平和の道をわきまえていないことを叱責したことがここで報告されている。イエスは人間の罪が人生の窮境をもたらすと主張する。これは紀元七十年のティトス将軍ひきいるローマ軍によるエルサレム陥落を預言したものであろう。ユダヤ人たちがイエスにおいて既に神が訪れていることをわきまえないことによる、国家の崩壊である。いつであれ、どこであれ人類における平和のなさは罪の故にであることの明確な認識が求められる。罪がはびこる限り人類には平和は訪れない。イエスはそれに涙する。

 彼は幼少時からエルサレム神殿を訪れ、ユダヤ人としてこの都に畏敬の念をもちこの都を愛していた。神殿が商売に利用されていることを知って、商人たちを乱暴に追い出しさえしている(Luk.19:45-48)。神に選ばれた都そして礼拝の場としての神の宮に対する愛情が強いからこその、その都が崩落してしまうことへの屈辱が涙になったのだと思われる。ひとが悔し涙を流すのは、生起した現実を受け止め、承認することのできない状況においてである。イエスはろばの子に乗り、一行がオリブ山の下り坂にさしかかったそのとき、エルサレムの神殿が目にはいってきた。そのときイエスは、自らの心に城壁がくずれていくその近い将来の光景を心の目で見たのであろう。彼は言う、「もし今日この日に、お前も平和の道をわきまえてさえいたなら。しかし今は、それがお前の目からは隠されてしまった。やがて時がきて、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻み四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前のなかの石を残らず崩してしまう、そんな日々が来るだろう。それらの代わりに、お前は自らへの訪問の好機をわきまえなかった」。イエスの心の目にはこの悲惨な光景が浮かび、その衝撃にたいする憤りと憐みと悔しさにとらわれ、イエスは涙を流した。ひとびとは天の父がイエスを送り、ご自身の民への愛を示しているにもかかわらず、この神ご自身の「訪問の好機」を逃してしまっている。なぜイスラエルの民は預言の成就を悟らないのだ。ユダヤ民族の罪、心の鈍さへの怒りとイエス自ら愛するものを護ることのできない悔しさが、都を見たときに、涙となって表れたのであろう。ひとは自らの罪のゆえに、神に指し示された光の道を歩もうとせず、闇の道を選ぶ。他方、この都への入場の機会に、イエスご自身は十字架の道が与えられた使命であることを改めて覚悟する。

 

2 残りの者の歴史

 神の歴史につらなる者たちは旧約以来少数であり、「残りの者」と呼ばれる。イザヤは言う、「汝の民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが返ってくる。滅びは定められ、正義がみなぎる」(Is.10:22)。「その日には、万軍の主が民の残りの者にとって麗しい冠、輝く花輪となる」(Is.28:5)。「主はこう言われる。「ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え・・そして言え。「主よ、汝の民をお救いください、イスラエルの残りの者を」」」(Jer.31:7)。

 新約聖書においても、この認識はかわらない。パウロはイザヤを引用して言う、「「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも、すみやかに、言われたことを行われる」。それはイザヤがあらかじめこう告げていたとおりである。「万軍の主がわれらに子孫を残されなかったなら、われらはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう」」(Rom.9:27-29)。ソドムやゴモラのように滅びてしまうことへの恐れから、ひとは悔い改めに導かれる。「ひとよ、汝は神の裁きを逃れると思うのか。それとも汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか。汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しい裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」」(Rom.2:3-6)。「神に即した苦悩は後悔なき悔い改めを働く」(2Cor.7:10)。

 自らの罪を悔い改めた者たちが残りの者とされる。残りの者たちは、主人が突然帰ってきたとき、忠実に自らの義務、仕事を行っている者たちである。善かつ忠なる僕、僕女(しもめ)たちは残りの者として主の狭く真っすぐな道を歩みぬく。「主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」(Mat.12:47)。残りの者たちはもはや徴や証拠を求める者ではなく、証を立てる者となる。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として(eis marturion)全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」(Mat.24:12-14)。

 

3 イエスの歴史観

 イエスの歴史観が報告されている。イエスは歴史に対して楽観していない。イエスは終わりの日に耐え忍んで神を求める者たちに正しい審判を約束しつつ、選ばれた残りの者たちの状況についてこう語る。「イエスは、自分たちが常に祈りそしていい加減に振る舞うべきではないことに向けて彼ら(弟子たち)に譬え話を語った。「ある町に神を畏れず人に耳を傾けることをしない裁判官がいた。その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、「私の敵対者から裁きによって私を護ってください」と言っていた。裁判官は、しばらくの間とりあおうとしなかった。しかし、その後考えた。『自分は神など恐れないし、人に耳を傾けることをもしない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、私を困らすに違いない』」。それから主は言われた、「この不正な裁判官が何を語っているか聞きなさい。神は、しかし、昼も夜も助けを叫び求めている選ばれた者たちのために正しい裁きを行わずにいることがあろうか、彼らに対し悠長にしていることがあろうか。私は汝らに言う、神はすみやかに彼らに正しい裁きを行ってくださる。しかし、人の子が来るとき、はたして地上に信仰を見出すであろうか」(Luk.18:1-8)。

 「選ばれた者たち」は歴史の不条理に苦しみ理不尽な死をも経験しよう。しかし、彼らの悲しみと喜びとともに情状酌量の余地をも一切を正確に知り、しかも憐み深い神がおり、正確な裁きが行われる(cf.Rev.211-4)。イエスは羊飼いのいない羊のようにうちひしがれて彼についてくる群衆を見て、「深く憐れんだ、そして[天国について]多くのことを教え始めた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。イエスはひとの肉の弱さに衷心からの憐みを示し、柔和であり謙遜であった。人々は自らが選ばれた者であるという自覚のもとに終わりの日までどれだけ耐え忍んでいるであろうか。イエスはその信の貫徹に楽観的ではない、それは罪があり苦難があるからである。

 イエスはこうも言う。「わたしが地に平和を投じるために来たと思うな、平和ではなく、かえって剣を投じるために来た」(Mat.10:34)。厳しい言葉が次々に投げかけられる。ひとはそのつど悔い改めにより、新たに生きなおす。歴史の個々の具体的な状況のなかで悔い改めるのは個々人である。

 ナザレのイエスは山上の説教においてモーセ律法を内面化、純化し究極の道徳を説いた。良心(sun-eidēsis=con-science)は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」という仕方で突然働く一つの知識である(Mat.5:23)。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。イエスは旧約律法の枠内に留まりつつ、聴衆が旧約の内側から自らの力で正義を実現しようとする道徳的行為に巣食う各人の魂の偽りを指摘していた。イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて、聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り抜けていた。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなく、イエスはこれらが神自身の認識であることを伝える。イエスは言う、「かくして汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全でありなさい」(Mat.5:48)。パウロは人のあるべき姿として神の前で明らかなこれらのことがらが「汝らの良心にも明らかになっていることを望む」と語り、神自身の認識を人が自らの良心において受け止め認識するよう、その共知を目指している(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。

 イエスは良心に訴え一旦道徳を内側から破り、信仰に招く。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが汝らの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。・・まず神の国とご自身の義を求めよ」(Mat.5:44-6:33)。恵み深い神との正しい関係を信仰により築くことにより根源的な正義が開かれる。「わたしは汝らの神となり、汝らはわが民となる」(Lev.26:12)。この神の約束に信頼すること、それが信仰である。神の信の先行性のもとにひとの応答としての信により形成される等しさが関係の正義を生む。国家が法により秩序を維持するさいに関わる正義を当事者の行為にふさわしい等しさの「配分の正義」或いは「秩序維持の正義」と呼び、信仰による神の信とひとの信の或る等しさの成立を「関係の正義」或いは「根源的正義」と呼ぶ。この信に基づく「義の果実」が「愛」である(Phil.1:11)。「愛は隣人に悪を行わない。愛は[業の]律法の充足である」(Rom.13:10)。愛されていること、憐みをかけられていることの信なしに愛に到達しない。ただ、信から愛の道を歩む。

 

4残りの者も国家(肉)において生きている

 このイエスの危惧或いは厳しい預言は各人が少数者の自覚のもとに信の根源性にその都度立ち帰ることが歴史に対する正しい取り組みであることを教えている。人類の歴史に対する楽観が一切ないこと、それが歴史の最先端にいる者に自覚を促す。各人はどこまでも自らの責任ある自由においてこの歴史を生きる。かくしてイエスの弟子たる者は無抵抗、無審判の山上の説教に即してイエスの軛を共に担い彼の「柔和と謙遜」を身にまとい、共に歩む抜くことが人生の目標となる。イエスに従う者は「残りの者」としてその証を立てることに専心する。その生を導くものは信に基づく正義である。

 われらに不和があり争いがあるのはわれらの罪の故にである。「すべて信に基づかないものごとは罪である」(Rom.14:23)。戦争がその最も先鋭化した姿である。イエスは言う、「ひとが全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひとは自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。不正により全世界をわがものにしても、信に基づく義により与えられる神的な生命を失うとき、それを償うものはこの世界になにもない。この発言はカントが中世の言葉として引用する「正義をして支配せしめよ、たとえ世界が滅ぶとも」と同じ内実を持つものである。この格言は、イエスの不正による世界支配の視点を転換し、正義の実現のほうが世界の存続より重要であることを伝えている。たとえ世界が不当な仕方で不正義のもとに所持され存続したとしても、正義が蔑ろにされるとき、世界にとって生存の意味はない。換言すれば、正義により魂が神の前で保全されなければ、世界の存在に意味はない。正義がなければ、個々人の存在に意味がないのと同様に、生命原理である魂以上に人間にとっては重要なものはなく、その魂は正義なしに維持されない。詩人は言う、魂は褒めたたえるために生きる、と。「塵は汝を褒めたたえんや、汝の真理を宣べ伝えんや」(Ps.30:16)。われらの罪を悔い改め信に立ち帰ること、それが選ばれた少数者のその都度の道である。

 残りの者は国家において生きていることを正面から引き受け、司法制度等の国法に従い懲罰の配分的な正義のもと、法に従い秩序を保ち義務を果たすことであろう。「われらはわれらに賜った恩恵に即して異なる賜物を持っている」(Rom.12:6)。そこでは為政者のタレントを持つカエサルは自らの心奥に立ち帰り、そのつど罪を悔い改めて、譲歩された人間中心的な世界で統治者として自らの責任において、国家の安寧と秩序を維持すべく国を法のもとに正義にかなって統治するであろう、神の国をめざしつつ。そこに矛盾がないとしたなら、二種類の正義があり、信の律法により業の律法が秩序づけられており、配分的正義は愛により基礎づけられているからである。そして愛は信により基礎づけられていた。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣をあげず、もはや戦うことを学ばない」(Is.2:4)。

 

5「狭い門から入りなさい、滅びに通じる門は広い」(Mat.7:13)

 山上の説教は良心による道徳の内破とともにこの世界に何ら頼るもののない最も低い人々に向けて語られている。神に嘉みされる心魂の態勢が八つ挙げられ、イエスはその心魂を祝福する。それは、ひとは神に向けて造られているからであり、後の日に慰められ、神に出会うと励まされる。この世のいかなるものによっても満たされないその霊によって貧しい者、悲しんでいる者、柔和な者、義に飢えそして渇いている、憐れむ者、その心によって清らかな者、平和を造る者、義のために迫害されている者を神は祝福するが、十字架上のイエスはまさにその一人であった(Mat.5:1-10)。御子の派遣とは死に打ち勝ち天国で神にまみえるその力を人類に知らしめることであった。イエスは言う、「これらのことを話したのは汝らがわたしによって平安を得るためである。汝らには世で苦難がある。しかし、雄々しかれわれ既に世に勝てり」(John.16:33)。

 聖書は明確に神の意志に即する残りの者たちに関係の正義を教え、いかなる立派な行為よりも手前に神との関係を正すことを教える。ここに人間としての本来性があるからである。これら八福は実は本来的人間のこの世界にある現実を示している。闘いなしにはない、しかしそれは信仰の正義の闘いであり、この信仰を持ち続けるための闘いである。この世界のどん底に落とされても、信仰を持つことはできる。信仰とは、知識や立派な人格などとは異なり、「欲すること」と「行うこと」が同時でありうるわずかなことがら、根源的なことがらである。それ故に、二心さえなければ、幼子のごとくでありさえすれば、誰もが持ちうる心の態勢である。

 

結論

 イエスはガリラヤの野辺に招きたまう。「疲れたる者、重荷を負う者、われにきたれ。汝らを休ませてあげよう」(Mat. 11:29-30)。「わたしは汝らを残して孤児(みなしご)とはせず」、「わたしが去るならば、わたしは助け主を汝らのもとに送るであろう」、そう言われる方である(John.14:18,16:7)。イエスはその言葉に偽りがなく、彼は山上の説教を生き抜き、また山上の説教の故に死んだ。「神はご自身の独子を賜るほどにこの世界を愛したまうた」(John. 3:16)。イエスを介して派遣された聖霊は山上の説教における道徳的存在者としてのひとの究極的な在り方を実現させるそのような聖性に相応しい。かの聖なる方がひととしてガリラヤの野辺を逍遥されたのである。

 ひとはガリラヤの野辺をただまっさらな目と心をもって歩かれたキリストのところになら行くことはできる。彼はどこまでも信実であり、憐みたまう。彼は共にわれらの軛を共に担ってくださる。「わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしがその心によって柔和でそして低いことを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」。イエスの軛に繋がれ歩調に合わせて歩むとき、栄光を捨てひととなった低さとそれに基づく弱小さへの憐みと柔和さが次第に伝わってくる。キリストと共に担う軛とは自らが神の子であるとの信仰であり、その荷とは彼から伝わる柔和と謙遜であるが、キリストの低さと共にあることによりこの世から解放された者に伝わる生の喜びと軽やかさである。復活の主がいますところ、父なる神が聖霊において共にいましたまう。

 

 

 

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