聖書と宗教1―人間の探求―
2021年度第一回日曜聖書講義 4月4日
実際の学寮での日曜聖書講義では2節の「宗教」まででタイムアップとなりました。今年度から対話をすすめつつ講義をすることにしたため、録音は原稿ほど進まないことになることをご了承ください。来週は3節「初めての聖書」からのリアルタイムの講義となります。
聖書と宗教1―人間の探求―
詩篇139編
主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計(はか)らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない。どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府(よみ)に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる(Ps.139:1-10)。
① ヘラクレイトス「魂(phsuchē)の限界を、たとえひとが魂の全行程を歩むとしても、見出すことはできない。それほど魂は奥深い理(ことわり)を持っている」(『断片』71(45))。
② パウロ「人間たちの誰が人間の深さを知ったであろうか」(1Cor.2:11)。
③ パスカル「人間とは何という怪物、何という珍奇、妖怪、混沌、矛盾の主、何という驚異。・・真理の受託者にして、曖昧と誤謬のドブ、宇宙の栄光にして、宇宙の廃物。この縺れを誰が解くのか」(『パンセ』434)。
④ 宮沢賢治「われやがて死なん、今日または明日。あたらしくまたわれとは何かを考える。われとは畢竟法則の外の何でもない。からだは骨や血や肉や、それらは結局さまざまの分子で幾十種かの原子の結合。原子は結局真空の一体。外界もまたしかり。われわが身と外界とをしかく感じ、これらの物質諸種に働くその法則をわれと云う。われ死して真空に帰するや、ふたたび、われと感じるや」(『疾中』)。
⑤ 正岡子規「悟りとは死を恐れなくなることではなく、いかなる状況においても平気で生きうることだ」
⑥ 禅仏教「悟りとは人生にはマジックがないことを知ること」。座ることにより悟りをえることを期待して山門をくぐる者に 禅師は「ごはんは食べたか」、「掃除はしたか」と聞く。マジックを期待せず当たり前の生活ができるようになることが悟り。「一大事と申すは只今この時なり」。「向かはんと擬すれば、即ち背く」。
1人間の探求
魂は人間にとってずっと謎であったことは最初に確認されるべきことがらである。ヘラクレイトスは「魂(phsuchē)の限界を、たとえひとが魂の全行程を歩むとしても、見出すことはできない。それほど魂は奥深い理(ことわり)(bathun logon)を持っている」と言う(『断片』71(45))。パウロも「人間たちの誰が人間の深さ(bathē[2:10])を知ったであろうか」を問う(1Cor.2:11)。この「魂」、「心」と呼ばれるものが人類にとって最も重要なものであるなら、ひとは誰もがそれぞれの仕方で人類にとってこの最も重要なことがらに関わっている。「魂(phsuchē)」はギリシャ語では生命原理であり、「心(kardia)」は意識の座であり、新約聖書においては基本的に区別されてはいるが、日本語では判別せずに用いられることもあり、今後「心魂」と書き「こころ」と読ませ生命の支えのもとになされる行為主体・意識主体を指示するものとして理解する。
パスカルは言う、「人間とは何という怪物、何という珍奇、妖怪、混沌、矛盾の主、何という驚異。・・真理の受託者にして、曖昧と誤謬のドブ、宇宙の栄光にして、宇宙の廃物。この縺れを誰が解くのか」(『パンセ』434)。ひとは何をしていても自己理解に関わり、またその制約のもと責任ある自由のなかで何かを為し、自らと世界の理解を行為に反映させている。そしてその行為は縺れのなかで解きつつまた縺れつつ進むことであろう。望むらくはその深い理が少しずつ明るみにおいて捉えられることである。
ひとは何をしていても善悪を判断しつつ道徳的存在者として生きており、ひとは何をしていても地域社会のなかで政治、経済、法律等の制度のもとに生きており、ひとは何をしていても地球環境のなかで栄養摂取、吸収等の代謝、生殖そして死という生物的存在者として生きており、ひとは何をしていて重力や光、エネルギーの法則のもとに物理的存在者として生きている。そしてひとは何をしていてもどこから来て、どこへ行くのか生と死の前と後を、私とは一体何者なのかを問う宗教的、形而上学的(Meta-physics物理学を超えた(~の後))存在者として生きている。
ひとはこれらの問いのもとに投げ出された存在者であり、それぞれの地平において学問即ち知識を求める探求が成立している。それぞれの次元・層から人間は成り立っており、それぞれの次元・層の自己理解のあいだで緊張や矛盾を感じることがあり、それを「認知的不協和」と呼ぶ。例えば、道徳的にこれはよくないと思いつつ、社会的存在者として会社の命令で法に反することをする。生物的には十分に子孫を遺すことができるのに、社会的に一人前ではなく所謂「モラトリアム」期間においてあり、結婚することができない。ひとは親を選ぶことができず、何故かこの国においてこの地域において生きてしまっている。ひとはどこで分裂が癒され自己が自己自身との一致において満ち満ちて生きるかが問われている存在者である。あらゆる営みにその理解が反映されるところの自己理解を哲学では「実存」と呼ぶ。聖書的には「信仰」と呼ばれる心魂の根源的態勢のことである。
2宗教
宗教は「神」や「仏」そして「無」等と呼ばれるこの宇宙全体を司るものについて成り立つものであり、そのような包括的存在者、存在との関わりを主張するものである。これらの呼称のもとにあるものは不可視な存在者であるため、どこまでも人間の心魂は深く正しくまた浅く誤って関わることができる。宗教がおうおうにして狂信に陥るのは人間に与えられた理性に背くことによってである。また迷信に陥るのは人間に与えられた身体の受動的反応である「パトス(pathos, passive)」と呼ばれる感情や欲求の一形態である恐れなどに捉われることによってである。従って、宗教に関わるときは、自らの「心魂の耕作(cultus animi)」を通じて正しく理性と感受性を用いて関わることが肝要となる。
宗教は、不可視なそれとして完全に把握できない存在者について成立するというその本性上、人間の心魂の実力が問われることなく、つまり認知的にどれほど愚かであっても、人格的にどれほど悪くとも持つことのできる信仰によってアクセスされうるものである。それ故に「信仰」について正しい理解を持つことが求められると同時に、自己について、また社会、生物そして宇宙の法則について探求し続けることが求められる。洗脳という仕方での堕落した宗教の在り方は唾棄すべきものであり、懐疑が喜ばしい探求に変わり心魂の内側からの納得こそ宗教に関わる者にとって最も重要なこととなる。
他方、「信仰」という心魂の根源的態勢をめぐる理解として、十全に知ることができないからこそ信仰によって突破するということがおこる。確かに、或る意味では神についてはあらゆる学問を究めた者によってだけ正しく理解されうるものであると言うことができる。しかしそれと同時に、信仰によって幼子のようでありさえすれば関わることのできるものであるとも言わねばならない。前者は人間的な言い方であり、後者は聖書的な言い方である。全知全能の創造者にして救済者という究極の存在者に関わる様式はどんなに愚かでもどんなに悪くとも幼子のようでさえありさえすればよいという考えは彼我のあまりの距離をまともに受け取るとき相応しい態度であると言うことができる。それ故にこそ常に自己の現在地点についての偽りのない認識、理解とともに、宇宙の存在者、万軍の主、救いの神を仰ぎ見る心魂の刷新が求められる。
預言者イザヤは言う。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。