春の講義最終回宗教改革(7)―提題16条「出来事」―18条「無償の贈りもの」
提題目次 77 theses: Table of contents
第I部 「ローマ書」3章21―31節の新提案が導く神の前と人の前の総合的開示―イエス・キリストの言葉と働きによる神の意志(福音と律法)と自然(肉)の媒介と秩序づけ Comprehensive manifestation of both ‘before God’ and ‘before Man’ led by the correct understanding of Romans 3:21-31 – Intercession and Ordering between God’s wills (Gospel and Law) and Nature (Flesh) by words and works of Jesus Christ—
1 神の栄光、創造と救済を介して Glory of God via creation and salvation.
2 福音 Gospel.
3 神の信 Faithfulness of God.
4 神の二種類の意志のもとに啓示されている神の義即ち「信の律法」と「業の律法」
God’s righteousness i.e. ‘the law of faithfulness’ and ‘the law of works’ being revealed under God’s two kinds of will.
5 「神の怒り」の啓示とそのモデル(出エジプト記)―罪とは何か― The revelation of ‘God’s wrath’ and its model (in Exodus):What sin is.
6 神の義の二つの啓示((A)神の信義と(B)神の怒り)の非対称性 Asymmetry between two revelations of God’s righteousness ((A)God’s faithful righteousness and (B) God’s wrath).
7 悔い改めによる「業の律法」から「信の律法」のもとへの移行 Transition by repentance from the law of works to the law of faithfulness.
8 神には二種類の律法の適用において偏りがない There is no respect of person in applying God’s two kinds of law to human beings.
9 啓示の差し向け相手の三人称による提示 Employing the third person pronoun on behalf of the person whom God’s revelation is addressed to.
10 神の怒りの啓示と神の前の責任 The revelation of God’s wrath and man’s responsibility before God.
11 良心と最後の審判 Conscience and the last judgment.
12 イエス・キリストを介した福音の啓示 The revelation of Gospel through Jesus Christ.
13 律法と預言の成就としての福音 Gospel as the fulfilment of Law and Prophecy.
14 三つの名称「イエス・キリスト」、「イエス」、「キリスト」Three names ‘Jesus Christ’, ‘Jesus’ and ‘Christ’.
15 「イエス・キリストの信」における帰属の属格 Genitive of belonging in ‘the faithfulness of Jesus Christ’.
16 「イエス・キリストの信」は一つの出来事である ‘The faithfulness of Jesus Christ’ as an event.
17 神の義とイエス・キリストの信に「分離はない」 ‘There is no separation (diastolē)’ between God’s righteousness and the faithfulness of Jesus Christ.
18 無償の「贈りもの」としての罪から義への贖い Atonement of sin transferring to righteousness as a free ‘gift’.
16 「イエス・キリストの信」は一つの出来事である
イエス・キリストは彼において神の信とひとの信が対応した、即ち神がご自身の信の媒介として用いるべく嘉したその信が帰属した方である。換言すればひとりの神・人において神の義の啓示の媒介となる信が生起した。「イエス・キリストの信」における属格「の」は双方の信が対応したところの一つの出来事の範疇のもとに理解される。出来事は行為と異なり行為者の意図は問われず括弧に入れられ、背後に行為主体が想定されるにしても歴史のなかで生起したこととして記述される。例えば、行為文「シーザーはルビコン川を渡った」と歴史的な出来事の記述「ルビコン川の渡渉はシーザーにおいて生じた」、これら二つの文は真理値において等値である。行為文においてはその行為主体シーザーの意図が主題となる。他方、出来事文においてはシーザーによるローマ奪還の契機となった歴史的事実に焦点が当てられている。同様に、歴史的事件、出来事を表現すべくこの属格は理解される。「神は一人の信を嘉みし信に基づくご自身の義の啓示の媒介に用いた」と「神に嘉された一人の信において神の信に基づく義が生起した」も等値である。
ナザレのイエスにおいて神に嘉みされる信が生起した。啓示行為は父なる神の専決行為であるが、その意図即ち福音ないし信の律法の知らしめはひとつの歴史的事件を介して遂行される。「神の怒り」は彼が創造された「天から」下されているように、「神の義」は「イエス・キリストの信を媒介して」信じると神が看做す者に知らされている。そこで「神の義」とこの「信」のあいだには「分離はない」と神ご自身により看做されている。「信」の出来事の用法は他にも「その信が到来する以前には、われらは将に来たりつつある信が啓示されるべく閉じ込められながらも、律法のもとに保護されていた」と語られている。(Rom.3:22,1:18,3:22,(cf.3:25-26),Gal.3:23).
17 神の義とイエス・キリストの信のあいだに「分離はない」
ここで神の義はその啓示の媒介である(f1)「イエス・キリストの信」と「分離はない」ものとして啓示されている。この(f1)「ピスティス(信)」は個々人の心的態勢として持つ「成長」や「増大」、「弱い」「強い」という変動ある(f2)「ピスティス(信・信仰)」と異なり、神の義の啓示の媒介として十全なものである。神はこの義の啓示の差し向け相手が、信義の分離のなさ故に、業の律法に基づく者ではなく「信じる者すべて」であると認識しておられる。神による知らしめとしての啓示の差し向け相手は「信じる者すべて」でなければならない。「泳ぎ」という概念は「水」の理解なしには理解されないように、言明の真理を「信じること」なしに、その真理を「知ること」はない。信の認知的対義語である懐疑のうちにある者は言明の真理を知ることはないことは明らかである。このように言語的な制約からして、啓示の差し向け相手はその真理を信じる者でなければならない。福音は人類すべてに差し向けられているが、「イエス・キリストの信」を介して神の義は知らしめられておりそれを信じることなしには神の義を知ることはない。
神の義は「業の律法を離れて」即ち分離されて、しかしイエス・キリストの信とは分離なきものとして啓示されている故に、神ご自身にとって、信の律法は業の律法より、より根源的である。これがみなもとの神の信である。業の律法とは離されて、信義の分離なき福音が啓示されている。それ故に、神はその否定的な前提の含意として業の律法のもとでは「すべての者が罪を犯した」そして自らの栄光を授けるに足らないと認識しておられる。
従来ヒエロニムスのnon enim est distinctio(「というのも区別はないからである」)以来この箇所は信じる者のあいだに何ら区別や差異がないと翻訳されてきた。しかし、続く「なぜなら」という理由文が明らかにしているように、その長い一文(23-26節)は「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに「分離はない」ことを説明している。「ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機」さらには「ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」とあるように、信義の分離のなさが報告されている。
かくして、明らかにこれまでの翻訳は誤りだったと言わねばならない。ここではひとの信仰という心的状態に区別や差異がないかが問われてはいない。もし神が例えば聖フランシスとヒトラーの信仰に差異を見ないとしたらそのような神は不義であろう。実際、罪に程度と差異のあることが報告されている。「死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配した」。ここでは神ご自身の認識として神はナザレのイエスの信の生涯を嘉みし、イエス・キリストの信として神・人において生起した信を介してご自身の義を知らしめたが、その信義に分離がないと理解しておられることが報告されている。(Rom.3:22, Phil.1:25, 2Cor.10:15, Rom.14:1,15:1,3:22,3:21,3:23,3:25-26, 5:14).
18 無償の「贈りもの」としての罪から義への贖い
神は誰であれすべての人間をその罪に対する「キリスト・イエスにおける贖いを媒介にして」、「ご自身の恩恵により贈りものとして」「義を受け取る者たち」であると認識しておられる。全人類が業の律法のもとでは罪を犯したと看做され、全人類が御子の贖いによる義認の対象であると看做されている。
「その彼[イエス・キリスト]を神は、・・その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」。この差し出しが御子の贖いを介した「贈りもの」である。「[業の]律法は怒りを成し遂げる」ものであるが故に、神は信の律法のもとに御子を義認への「贈りもの」として差し出すことにより、ご自身に関して業の律法のもとに罪人を審判することから自らを解放できる、業の律法の行使を差し控えることができると認識しておられる。
「贖い」はその語句の意味をめぐって、常に問われてきた。アンセルムスは「信無き者」による反論を紹介する。彼らには「私たちがこの解放(liberationem)を「贖い・買い戻し(redemptionem)」と呼ぶことを不思議に」思えている。彼らはキリストが「罪と神の怒りと地獄と悪魔の力からわれらを贖った(redemit(to buy back, redeem))」ことに反論し、神が苦しむことを望み、「最後にはその血で贖うほか」救いえなかったと信じることを「狂気の沙汰(quasi fatuam)」とする。神学的負荷のない或いはそれ以前の意味論的分析によれば、神による啓示の神の前の言語網が二種類分節されるため、その一つである業の律法からもう一つである信の律法のもとに移行させることが神による贖いの行為である。神が業の律法の行使を控えることにより業の律法のもとにある者をそこから解放し、キリスト・イエスにおいて新に打ち立てられた信の律法のもとに移行させることである。移行させられた者は同時に神に嘉みされる信を自らの責任において持ったことであろう。これは歴史のなかに啓示された贈りものであり、この語は業の律法を前提にするがそれとは分離され、信の律法の言語網のなかに位置づけられる。
贖いの無償性、贈りもの性とは、エルゴン(働き)上「キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした」ということに他ならない。ただしこの「ガラテア書」における「われら」は「ローマ書」では三人称「信じる者すべて」に一般化されている。それは聖霊の媒介の働き(エルゴン)を括弧にいれ「知恵の説得的議論」としてロゴス(理論)上一般的に論じるためである。個々人の誰が神にそう看做されているかは知らされていない。パウロによる「ローマ書」における神の義の第二論証としてのこの啓示の報告は聖霊の媒介を前提にせずにも理解できるように展開されている。ナザレのイエスは信に基づく義を成就したと神に看做されることにより、ひとを罪から義に贖いだす、ないし移行させるものとして、神はもはやひとに業に基づく義を求めることなく、信に基づく義だけを求めることができると看做しておられる。その信の律法においては神が御子において信であったときに、それに対して裏切るのかそれとも信により対応するのかが問われ、ただ信だけが求められている。
「イエスの信に基づく者を義とする」義認は神の専決行為である。神は「イエスの信に基づく者」に贈りものとして義を付与するが、人類「すべての者」にその贈りものは既に差し出されている。歴史のなかで神は御子の信を介して彼の血におけるご自身の「現臨の座」として御子を差し出したからである。神は既に御子を差し出しておりそして御子の信に基づく者を義とすることを知らしめている。神の義の知らしめは「信じる者すべて」即ち神がその信仰を嘉みする者に対して遂行されている。これは信じなければ知ることはできないという認識論的な制約、さらには概念の理解として「水」の理解が「泳ぎ」の理解に先行するように、「信」は「知識」の概念理解に先行するそのような言語的制約からくるものである。
人類すべてに贖罪を提示していることと、それを人類すべてが知り受け入れ和解するということは同じことではない。神はご自身がその信仰を嘉みする者に知らしめている。神の側から言えば、誰が義人であるかは予め定められており、知られており、その者たちに知らしめている。啓示の報告の含意として、信じる者すべてはイエス・キリストの信を媒介にして神が義であることを知っている。今・ここに肉の弱さにおいてある生身の人間はこの神の前の事実に習熟する必要がある。
神は福音の啓示の否定的前提である過去時制(「罪を犯した」)と全称量化(「すべての者」) において、今や罪を犯した者たちはすべてが「義を受け取る者たち」へと過去から現在に変換すべく表現されていると認識しておられる。神は過去表現により罪人が福音との関連にある限り過ぎ去ってしまったと認識しておられる。この変換表現により、業の律法が福音との関連で新たに理解されると認識しておられる。業の律法にはひとをして罪を知らしめ、福音に追いやる働きが与えられる。
パウロは信仰義認を業の律法とは異なる次元或いは神ご自身にとりより根源的な意志であるとして神の憐れみに帰属させる。「働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、その者の信仰が義と認定される」。福音の啓示の故に業の律法のもとに生きてきたすべての罪人に信に立ち返るように呼びかけることができる。ひとが神の権能ある選びに対してなしうる準備は福音の信に固着することだけである。自らがその選びにあることを信じることはどこまでも実質的である。なぜなら三人称で表現されている「信じる者すべて」に個々人の誰が含まれ、義とされているかをめぐって、自らが含まれているかどうかは神の意志がイエス・キリストにおいて明白には啓示されたほどには個々人の誰にも知らされていないからである。この移行が福音において啓示されており、個々人の誰がそのように移行されたかは個々人の信にゆだねられており、この仲介者の信を媒介することはひとの企てとして必須となる。
贖罪をめぐるこの意味論的分析から導かれることがらのうえにその神学的理解は展開されねばならない。イエスは十字架に至るまで信の従順を貫き人間の偽りにより死刑に処せられたが、イエスはその処刑を自らを磔る罪人たちの代わりにそして彼らのために受忍した。神はイエスが何ら罪なき者でありながら人類の身代わりの死を遂行したことを嘉みした。身代わりにおいてパウロによればもはや神は各人の背きを「彼ら自身において考慮することなしに」、キリストにおいて考慮することによって、「神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為したまうた」。ここで神は無罪の御子に身代わりの罪を担わせたないし、御子が担うことを認可した。御子が人類の罪を身代わりの罪として被ったのである。神はそこでは当然御子は罪なきことを知っており、背負う罪は身代わりの罪であることを知っていたまう。パウロは命じる、「汝らは主イエス・キリストを着よ、そして欲望どもへの肉の計らいを為すな」。「着る」とは神の前に立つとき、われらがわれらをわれら自身において考慮することなしに、彼の義を着ている限り、つまりその信が嘉みされている限り、たとえ自らの内面が清められていなくとも、自らの業(わざ)の実力にかかわらず、神は罪と死に勝利したキリストの愛においてわれらを見給うということである。
業の律法の適用のもとでは「律法を行う者たちが義とされるであろう」。それ故にダビデのような姦淫者は救われない。パウロはダビデの詩を引用しつつ信の律法のもとにある者をこう特徴づける。「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものとみなされる。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される。ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みした。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。
キリストの身代わりによる贖罪を神学的に理解するべく用いられるパウロのテクストはこの「ローマ書」当該箇所のほかには「第二コリント書」5章、「ガラテア書」3章などがある。身代わりが「自らの背きを自らにおいて考慮しない」ことを可能にするその様式をめぐる詳しい神学的議論はこれまで「ローマ書」の意味論的分析において遂行された業の律法から信の律法への移行に基づきその枠のなかで第II部で展開する。 (Rom.3:23-24, 4:15,Anselmus, Cur Deus Homo, I6, I1, I6,Gal.3:13,1Cor.2:4, Rom.3:25-26,3:22,4,2,Cor.5:19,5:21,Rom.13:14,2:13, 4:4-8,2Cor.5:19,Anselmus, ibid. Praefatio).