聖書と宗教3―祈りによる神との交わり―
日曜聖書講義 2021年4月18日
[初めて聖書に触れるひとに入門的、一般的、歴史的な聖書理解の枠組みを与えつつ、主題ごとに神とひととの交わりについて学ぶ。アブラハムからモーセに至る経過を最近のルクソール近辺のアメンホテプ3世のころの都市が発掘された(前14世紀)。ヨセフや出エジプトの年代確定になんらか有益な情報を得られることが期待される。ここでは祈りについて学ぶ。録音では本稿の最後まで到達しなかった。]
聖書と宗教3―祈りによる神との交わり―
聖書朗読
「汝らは祈るとき、偽善者たちのようになってはならない。彼らは礼拝堂や広場の角で立ち続けて祈ることを好む、彼らが人々に見てもらうためである。わたしは汝らに言う、彼らは彼らの報いを現に受け取ってしまっている。しかし、汝が祈るとき、汝の部屋に入りなさい、そしてその戸を閉めて、隠れたところにいます汝の父に祈りなさい。隠れのうちに見ています汝の父は汝に報いるであろう。
祈る者たちは異邦人たちのようにくどくどと喋るな、というのも彼らは自分たちの祈りは多くの言葉において聞き入れられると思っているからである。だから、彼らに倣うな。なぜなら汝らの父は、汝らがご自身に求める前に、汝らが必要としているものごとをご存知だからである。だから汝らはこのように祈りなさい。
「天にましますわれらの父よ、汝の御名が聖なるものとされますように、汝の御国が来ますように、汝の御心が成りますように、天におけるように地の上でも。われらの日用の糧を今日もわれらにお与えください、そしてわれらの負債をわれらに赦してください、われらも自分の負債ある者たちに赦しを与えてしまっておりますように。われらを試みにあわせず、われらを悪から救いだしてください」。
もし汝らがひとびとに彼らのあやまちを赦すなら、汝らの天の父は汝らにも赦すであろう。もし汝らがそのひとびとに赦さないなら、汝らの父も汝らのあやまちを赦さないであろう」(Mat.6:5-15)。
1祈りとは
山上の説教のなかでイエスはひとびとにどのように祈るかを教えている。それは伝統的に「主の祈り」と呼ばれる。目に見えない神との交わりは「祈り(プロスエウケー)」と呼ばれる。ひとから神に向けての働きかけである。イエスは隠れた部屋での神との一対一の交わりを勧めている。ひとは神との親密な交わりの場を必要としていることを示している。黙々と働きながら神に思いを向ける黙想も親密な交わりが成り立つのであれば、祈りと呼ばれるであろう。長々と言葉にすることは勧められない、神はわれらに必要なものを祈り求める前からご存知だからである。神様は時空の創造者として永遠の現在のうちにおられ、運動のうちにある従って時間の流れのうちにある宇宙を統べ治めていたまう。
一切をご存知な方には何を求めなくとも、何を言わなくともいいのではないかという考えに対しては、自分のことに関心をもちいつも心にかけており愛してくれるひとのことを思い出すよう促そう。その人と共にいること、共に過ごすことは喜びであり慰めであり励ましであることを思い起こそう。平安と喜びに満たされるであろう。われらはしかしそのような時間ばかりを過ごすわけにはいかず、社会のなかで学寮のなかで様々な人々と関わって生きている。だからこそ親密な神との祈りの時間は貴重なものとなる。
そのような愛してくれるひとがおらずそのような温かい、心の休まる交わりを経験したことがないというのであれば、福音を伝える者、即ち良き報せを伝える者はますます神様が心にかけケアしてくださることを伝えることが大切なことになる。聖なる、全知全能の神があなたを支え励ましておられることを知ることが、ちょうど愛するひとと共にいたいと思うように、神との親密な交わりである祈りに向かわせる。
聖なる神と交わるにはわれらに二心、三つ心があるときには、神にまみえる相応しい態度ではない。祈りは端的に言ってわれらの心を清めるために必要である。心が清められて神との親密な関係にあるときのみ、われらは愛するひとと共にいるときのように力を得て、あらたに歩み始める。カルカッタの路上にころがる人々を助け続けたマザーテレサは朝の二時間を一人で過ごしたという。聖書に記されている父なる神との対話のなかで、心を調整するべく一日の働きの心の準備をしていたのであった。
今、毎朝読んでいる詩篇においては神に対する直截な呼びかけが多く集められている。神に感謝し、賛美しまた敵に苦しめられていることを嘆き、訴え援けを求めている。このような祈りを赤の他人になすことは考えられない。神との親密な関係にある者だけがこのような祈りをなすことができる。詩人は賛美する「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はその御手の業を示す」(Ps.19:1)。万軍の主がそばにいてくださることを感じ取ること、そのことが祈りを通じてなされる。マザーが二時間を聖書の黙読や瞑想についやしたとしても、最後は主の祈りに帰ったことであろう。くどくどと繰り返し冗長になるな、六つの祈りで十分であるとイエスは教える。
2主の祈り―天と地のことがらをめぐる二つの祈りの秩序づけ―
イエスは「主の祈り」において明確な祈りの対象に対し明確な祈りがあることを群衆に教える。山上でイエスは群衆に天の父に何をどのように祈るべきかを教えている。
イエスはその信の従順の生涯をリアルタイムのうちに貫いた。途中で神の御心を実現しなかったならば「キリスト(油注がれた者→救世主)」と呼ばれることなかったであろう。その一挙手一投足のなかでイエスは主の祈りを教える。最初の三つは眼差しを天に向け神ご自身に栄光と賛美を帰し、聖性を賛美し、御国の到来を願い、御心のこの地に成ることを祈る。「天にましますわれらの父よ、汝の御名が聖なるものとされますように、汝の御国が来ますように、汝の御心が成りますように、天におけるように地の上でも」。これらは簡潔であるがゆえにこそ、神ご自身の聖性と御国と御心の地における成就、神ご自身についてこれらは包括的な一般的な祈りであり、これら以外の何も神について祈ることはないであろう。
祈りの相手はどこまでも「天にましますわれらの父」であり、「天の父が完全であるように」(5:48)と言われたその天の父に祈るということは、もともと祈りというものの対象としてふさわしい。偶像、アイドルに祈っても裏切られるだけであろう。イエスはパリサイ主義を嫌ったが、偽りが、二心、三つ心が忍び込むとき、ひとはパリサイ主義に陥る。偽りは本来、神の子として造られた自己に対し、あたかも自らの力で生きているかの如くに看做すこと、或いは偶像という自らの願望の投映に自らを見出すことに他ならない。詩人は罪を擬人化して、自らの心にしのび込む「不法」と呼ぶことにより、罪の欺きを暴き立てる。「自らのなかで罪を犯させるべく不法が語りかける、「自分の目の前に神の畏れはない」と。というのも、それは自分に対し欺いたからである、自分の不法を見出しそしてそれを憎むに至るまで。彼の口から語られたことは不法と欺きである。彼は善を為すべくわきまえ知ることを欲しなかった」(Ps.36.1-4)。偽りから解放されている存在者に対して祈るのでなければ、祈りそのものが自他の欺きとなるであろう。
しかし、一切を知りそして公平にして憐れみ深い正義にして同時に愛でありたまう天にいます父なる神に祈ることは、誰もが「祈る」ということがらにおいて望むことであろう。恣意的な神々に祈ったとして、それはあたかも運命という名のもとに翻弄されるだけの人間存在と変わることがないであろう。祈るに値する信実な対象でなければ、われらの祈りは空を切るような手ごたえなきもの、或いは唆され欺かれるだけであろう。言葉の力として、ここまでは誰にも同意を得られることであろう。
イエスには天の父がいますことはなんら疑いの余地もないほど明らかなこととして山上の説教をそして主の祈りを教えている。もしこれが揺らいだら、すべてが偽りとなる。その意味でイエスは明確な信のもとに説教している。ただし、山上の説教においてイエスはユダヤ教の伝統的な道徳観のもとに群衆と共に立ち、その視点から心魂の道徳的次元で発動する良心に訴え、パリサイ人に代表される各人に潜む偽りを摘出し乗り越えるよう群衆を励ましている。その良心の発動は宮に捧げものをもっていく途中で急に自分に反感を持つ人を「思い出したなら」(5:23)という仕方で、突然気づくそのようなことがらである。心に潜む偽りの乗り越えは天の父に委ねられる。「われらを試みに遭わせず、われらを悪から救いだしてください」と。その意味において主の祈りでは道徳的次元を内側から破り、その眼差しを向けるべき方向が教えられていると言ってよい。実際、そこでは聖霊の注ぎも奇跡さらには、「信(pistis)」や「罪(hamartia)」という語句を見出すことはできない。当時の道徳観の言語で心に潜む偽りを乗り越えるべく言葉のみによりチャレンジしている。主の祈りもそのチャレンジの一つである。
天にましますわれらの神に栄光を帰し、そして地に住むわれらのケアをもとめる。続く三つの祈りは地上に住むわれらの願いである。「われらの日用の糧を今日もわれらにお与えください、そしてわれらの負債をわれらに赦しください、われらも自分の負債ある者たちに赦しを与えてしまっておりますように。われらを試みにあわせず、われらを悪から救いだしてください」。これは山上の説教の骨格、基本構想に合致する。彼はこの説教をひとつの基本構想のもとにこう秩序づけている。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、汝らにはなおさらのことではないか、信少なき者たちよ(oligopistoi)。だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」思い煩うな。それはみな異邦人が切に求めているものだ。汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国とご自身の義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう。だから、明日のことまで思い煩うな。明日のことは明日が自ら煩う。その日の悪しきものごとはその日だけで十分である」(6:30-34)。
「何よりもまず、神の国とご自身の義とを求めよ」。「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である」。この帰一的な構造が主の祈りの構成でもある。天から地であって、地から天ではない。もし主の祈りがなかったなら、われらはどのように祈ったらよいか、とりわけこの帰一的な構造のもとでの秩序付けをこれほど簡潔にして要を得た仕方で理解することはなかったであろう。まず眼差しを天に向け仰ぎ見ることが祈りのさいに為すべき最初のことがらである。それほどわれらの眼差しは地を這いつくばっている。この祈りは仰ぎ見ることを教える。「主よ、わが魂は汝を仰ぎ望む。わが神よ、汝により頼む」(Ps.25:1)。山上の説教がわれらの心魂とそこから生まれる行為の一切を秩序づけるように、主の祈りはそれを求める祈りであると言ってよい。この説教の内部で、主の祈りはこの説教全体を神とひととを結びつける祈りという仕方で秩序づけている。
4罪の赦し
天のことがらに続き、地上の生活のことがらとして、生存に必須な食物を求める祈りが勧められている。またわれらを試みに遭わせず、悪から救い出してくださいとは、自然災害や戦争や争いそして疫病や飢餓そして事故などに囲まれているわれらにとって、常に喫緊のことがらである。
そして何よりもわれらの最も難しいことをクリアさせることによって天と地を秩序づけようとしている。それは赦すということである。「そしてわれらの負債をわれらに赦しください、われらも自分の負債ある者たちに赦しを与えてしまっておりますように」。ここで「赦しを与えてしまっておりますように」と現在完了形で語られている。その都度負い目ある者また「われらにあやまちを犯した者」を赦してしまっていなければ、この祈りを日常に祈ることができないというハードルが置かれている。これこそわれらを日々新たにする。われらの心魂は刷新を必要とする。「明日のことを煩うな」における「煩う(merimna)」は「部分、分割(meris)」を構成要素にしている。心が煩うとは様々なことに思いが分断されていることを言う。
主の祈りが山上の説教に基づく生を導く主導原理である。まず神の国と神の義である。ここでも「罪の赦し」ということばは見られず、元来「借金」も意味する「負債」「負い目」さらには、「失敗」や「失態」を意味する「あやまち」が用いられる。イエスは群衆たちに道徳的次元に留まりつつ、それを内側から突破するよう言葉の力により教え導いている。主の祈りを教えたことに続いて直ちにこの祈りに帰る。「もし汝らが人々に彼らのあやまちを赦すなら、汝らの天の父は汝らにも赦すであろう。もし汝らがその人々に赦さないなら、汝らの父も汝らのあやまちを赦さないであろう」。それだけこの第五の祈りが主の祈りの隠れた中心であることが分かる。
主の祈りはキビキビとしており、最も困難なことが日々の日常の祈りに織り込まれている。必要にして十分なことがらが簡潔に枚挙されている。それはただの六つである。隣人を愛するとか、自らが平安であるようにとか祈らずとも、「御心が成るように」の一言に包摂されている。思い悩むという仕方での自我中心から解放されることの祈りである。その自己への執着から解放させるものが赦しの祈りであり、それがなされない限り、実はこれを祈れないそのような厳しいものである。イエスは招く、「疲れたる者、重荷を負うものわれに来たれ、汝らを休ませてあげよう」(11:28)。そう言われる方である。われらを苦しめる方ではないはずである。
祈りは神の国と義を求めるべく心を整えるものである。「天の父は求める者に聖霊をくださる」(Luk.11:13)と言われるように、神に聖霊を求め、清められるために祈りがある。主の祈りも心を神に向け、神からの憐れみとして聖霊をいただく、そのような父と子の交わりである。主の祈りを教えるイエスご自身はリアルタイムにこの福音を新しい契約を実現すべくこの地上の生を歩んでおられた。