登戸学寮HCDプログラム
2023年ホームカミングデー
日時:2023年11月25日(土)16時~18時
場所:登戸学寮・ オンライン配信
司会 結城史音
〇16:00挨拶 岸本 尚毅 (OB、理事 寮友会)
〇16:05寮生活動支援報告:
・ 川嶋すず菜 ネパールヒマラヤ、アニデッシュチュリ登山隊参加
・ 中村真子 京都、大阪日本美術研修
・ 牧真人 教会音楽講習会受講(聖歌隊指導法)(羽村市)
マティアス・マイヤーフォーファー・パイプオルガンマスターク ラス受講(長野
市)
ピアノ演奏
・ 結城史音 「きんじょの本棚」の活動
・ 吉野泉 オーストラリア アデレード大学語学研修、アルメニア イェレ
ヴァン周辺 ロシア語研修
〇17:20 卒寮生、お客様スピーチ
坂内宗男 (OB、元寮長)、大谷恵(理事)、副島茂(OB、前評議員)、
土屋真穂(評議員)
〇朗読劇:
ハンカチ―皇帝ティベリウスの乳母、友ファウスティナ物語―
(ラーゲルレーヴ原作)
結城史音(ティベリウス)、中村真子(ファウスティナ)、原島寛之、浜崎航希
(ナレーター)他
〇讃美歌 537番 わが主のみまえに
〇閉会の祈り 小西 孝蔵 (OB、常務理事)
〇茶話会
今井館ニュース第49号 登戸学寮
今井館ニュース第49号 2021年4月30日発行 7頁
登戸学寮
「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。
枡形山にふりそそぐおだやかな陽光とフレッシュな風、当地は春の息吹につつまれています。卒寮式のあと入寮式のまえ、桜のつぼみ膨らみ新しい学年を始める準備の日々です。学士号取得に伴う5人の卒寮式では遠隔からの画面上のご参列も多くあり、涙あり笑いありの名残惜しい別れのときをもちました。個性に輝く五人組ですが、その温かな一例は杉原千畝記念短歌会、人道大賞のI君による「世の中のいのちの数だけ朝がある茹でた卵がまだ温かい」。前途の幸いを祈りつつ世に放ちました、信じうることの喜びのなかで希望に満ち溢れ、地の塩、世の光たれ、との贐(はなむけ)をそえて(写真)。
当学寮は19人の新寮生を加えての新米寮長夫婦との新たな船出の一年でした。創設以来の蓄積された先輩方、愛する方々の篤い祈りの羅針盤に導かれ、コロナ感染の暗礁乗り上げを回避し、喜ばしい新天新地に向けてゆっくりと航海を続けています。昨夏に多くの方々のご厚志のもと耐震壁等60周年記念工事がおこなわれ安全、快適となりました。「学寮ニュース」8,9号、「方舟」61号を公に発信し、そこで寮生は若者らしい挑戦の姿を力一杯表現しています。
授業のオンライン化に伴い学生寮が見直されているなか、毎月の遠隔会議など新たな形での運営母体による寮生の健康を守り、実り豊かな共同生活のヴィジョン、事業計画、管理の最適解の模索は続きます。福音の旗を高く掲げつつ、寮生活が確かな人生の基盤となるよう祈りのなかで新たな春を迎えています。
黒崎幸吉著『註解新約聖書』サイト移管について
このたび、登戸学寮は創設者黒崎幸吉先生の新約聖書註解10巻のWeb版を2008年以来孜々として公開を続けてこられた大島守夫氏から引き継ぐことになりました。新しいサイトは以下の通りですが、大島氏の従前のサイトからも直ちに飛ぶことができます。なお、大島氏は新しいサイトをより良いものとしていくべく、本サイトの維持管理を引き続き担当されます。13年にわたる大島守夫氏の本註解に対する献身に心から感謝と敬意を表しつつ、学寮側担当者をお導きいただきたく願っております。大島氏による黒崎註解Web版立ち上げの経緯については当サイト内の「Web化によせて」(2008年9月)をご覧ください。千葉惠
https://kurosaki-commentary.com/
2021年度入寮式が行われました (4月11日)
2021年度 登戸学寮入寮式
入寮式式次第
2021年4月11日(日)14:00
登戸学寮
司会 伊藤直道
前奏
讃美歌 158
聖書朗読 詩編146篇
開会の祈り 結城史音
挨拶 理事長 小島拓人
来賓祝辞 監事 黒崎稔
新入寮生スピーチ
在寮生から 寮生委員長 土橋奈央
式辞 寮長 千葉惠
讃美歌 533
閉会の祈り 松井共生
後奏
記念写真撮影
理事長挨拶
小島拓人学寮理事長
・理事長の小島拓人です。
・今年は4月からの新入寮生は9名ですが、皆さん登戸学寮への入寮おめでとうございます。そしてオンラインでご参加頂いている何組ものご家族の方々にもお祝いの言葉を述べさせて頂きます。
・昨年は新型コロナウィルス問題で新入寮生が揃った入寮式の開催は実に11月と大幅に遅れましたが、今年は例年通り4月に皆さんが勢揃いして歓迎会を開催出来ますことは先ずは大変喜ばしいことであります。
・しかしながら、この新型コロナウィルスの問題は全国的な緊急事態宣言解除後も新たな感染の波が押し寄せて来ている模様で、登戸学寮があります神奈川県と近接した東京は明日12日から「まん延防止等重点措置」が適用され解決の展望が良く見えない中にあります。その様な中で、新年度早々大学のキャンパスも依然半ば閉鎖されているところが多く皆さんも大変困難な学生生活をスタートされていることに深くご同情申し上げます。
・しかしながらこうした困難な時代であればこそ、黒崎幸吉先生が企図された登戸学寮というキャンパス外での学生生活の存在価値がこれまで以上に高まっていると認識いたします。登戸学寮は聖書の学びを通して健全なる判断力と確固たる責任感を有する人材の育成を目指しております。そして登戸学寮は寮生の寮外での様々な活動を支援するプログラムを計画しておりますので、皆さん千葉寮長ご夫妻の下、共同生活の場を大いにご活用頂きたく思います。
・今日の世界は対立と分断の中にあります。また社会制度や組織の大きな変革の時代を迎えており、世界全体、社会全体が新しい秩序が求められています。そうした変革の時代の中にあればこそ皆さんのような次代を担う若い方々への期待は大きいのです。そして登戸学寮というキャンパス外の共同生活を通して古典中の古典である聖書の、時代を超えた人間の智を超えた真理の一端を学ぶことを起点として、皆さんの見識が高められることを期待致す次第であります。
・今年の新入寮生歓迎会の開催にあたり、改めて皆さんの入寮をお祝いし、歓迎と期待のことばを申し上げて私の挨拶とさせて頂きます。
来賓祝辞
黒崎 稔学寮監事
皆さん こんにちは! ただいまご紹介戴きました公益財団法人登戸学寮の監事を務めております黒崎です。
新寮生の皆さんが多くの学生寮の中からこの登戸学寮を選んで戴き大変嬉しく思う次第と共に、皆さんにとっても最良の選択であると思います。
今年の大学入試はコロナの影響で受験生の皆さんが自宅に籠り勉強する時間が長かった為に結果として非常にレベルの高い競争になったと聞いております。
その様な厳しい競争を勝ち抜いてきた皆さんですのできっと素晴らしい大学生活を送れると信じております。その大学生活を皆さんは登戸学寮で過ごす事になる訳ですが、寮長や寮長の奥様から学寮の設立の主旨をお聞きになられたと思いますが、登戸学寮は他の学寮とは異なり単に寝る場所や食事を提供するだけではありません。
学寮の玄関を入られた正面に額が飾ってありますが、生涯を聖書の研究と基督教独立伝道に捧げた私の父(黒崎幸吉)が60数年前に大学教育が学術教育に集中し、人としての教育がなされていない事を憂い、地方から上京して勉学に励む前途有望な大学生にキリスト教精神に基づく精神的教育を施し日本の為そして世界の為に役に立つ人材を育成する場として設立したものです。
皆様の中には今までにキリスト教に接した方もいらっしゃると思いますがそうで無い方々は是非朝礼や日曜礼拝に積極的に出席戴き聖書に接して下さい。
また、寮には多くの先輩達が色々の大学で様々な勉強をされておりますし、多彩な趣味を持っておられる方々もおられます。それらの方々と親しく接する事により幅広い知識や教養を身につけて戴ければ登戸学寮における寮生活はきっと豊かなものになるでしょう。
更に、60年以上の歴史を持つこの学寮では既に600名以上の方々が卒寮し社会の様々な方面で活躍されております。先程ご挨拶された小島理事長も卒寮生の一人ですし、他にも多くの卒寮生がこの学寮を支えて下さっております。皆様も是非卒寮生の方々とも交流を深めて戴きたいと願っております。コロナの蔓延防止と言う課題があるのではっきりとした事は申し上げられませんが、毎年11月に学寮で開催予定のホームカミングデイには卒寮生や登戸学寮に関係する方々も多く参加されますのでそのような機会を積極的に捉えて実社会おける対応力を培って下さい。
最後になりましたが、皆さん一人一人が十分に健康に留意され明るく元気な学生生活・寮生活を送られる事を願って私のお祝いの言葉とさせて戴きます。
式辞
千葉惠学寮長
1.
9人のみなさん、大学入学そして2年生への進級おめでとうございます。登戸学寮へのご入寮おめでとうございます。小島理事長、黒崎監事そしてオンラインでのご参列の理事・評議員・監事ご一同と共に心から歓迎いたします。
何らかのご縁で26人の先輩たち、厨房、事務スタッフそして私ども二人とこれから共同の生活を共にすることになりました。どんなドラマがこの学寮での共同生活を通じて待っているのでしょうか、どんな未来が紡がれていくのでしょうか楽しみです。このところ連日、新寮生が正装して大学の入学式参列のため坂を下りていくのを見送りました。二年生たちも正装してやはり嬉しそうに一年遅れの入学式のため坂を下りていきます。式から戻ったひとに愛校心がわいてきたかを聞きますと、「少し」という控えめの応えに内心喜びました。何かのご縁でご自分の所属先となった集団、組織を愛しうることは喜びであると思います。一年生にとっては大人の世界の仲間入りです。新たな世界に汽笛ならして船出です。帆を一杯に張り上げ、南の風に乗っていざ出発です。勉学やスポーツ、芸術そしてバイト活動に、幸多からんことを祈ります。よかったです。昨年来のコロナの忘れがたい状況で、寮生皆さんの学生生活が健康で有意義なものとなるよう祈るばかりです。
本日オンラインでご参列のご家族様におかれましては、今日まで手塩にかけてお育てになられたご子息、ご息女が大人として自律の生活に向かうそのような一つの転換点、節目を迎えられました。おめでとうございます。これまでの様々な出来事に思いを馳せつつ、安堵とともに一抹の寂しさをも感じておられることでありましょう。
2.
この学寮は入寮にあたり作文を課しています。今年は4人が「私の人生の理想」に挑戦し、5人が内村鑑三の『後世への最大遺物』の読書感想文に挑戦しました。両課題ともに自らの心、精神の現在地点が人類史のなかでどこにあるかをはからずも示すものとなっています。ここでは作文を紹介しながら、心の現在地点を確認しあい、約18年間の古き自己の一つの葬式となり新生の誕生日となることを期待して門出を祝いたいと思います。
現在地点という意味では高校時代は皆さんそれぞれの仕方で受験勉強に取り組みました。わが国においては現代の重要な通過儀礼と言えます。これを正面から引き受け、よくがんばりました。前の勤め先の大学で、1年生に入学後半年して、今受験したらどれだけ得点できるかを聞くと皆さん自信なげに半分くらいと答えます。あれだけ勉強したのに、終わってみると忘れてしまっていることに気づかされます。受験の時は必要に迫られて学習したものの、不必要になり忘れてしまいます。この事実は興味、関心、心に深く刻まれた体験、さらには使命感こそ学習と記憶を蓄積させ思考を刷新、展開させるものであることを示しています。
大学受験は何故か社会的関心の高いことがらであり、あたかも一生がそれで決まってしまうかの如く語られることもあります。これまでの勉強は知性の基本的な能力である理解力、情報処理能力の迅速さと正確さを養うものであり、人であることの基礎を築く一つの大事な要素ですが、大学入試においてその一要素による選抜が行われざるをえません。その選抜があたかも人間としての格付けであるかのごとく受け止められるなんとも残念な風潮があります。世間的にもてはやされ、羨望や嫉妬のさらには軽蔑の対象にさえなります。多くの人々がそれぞれの仕方でこの問題を乗り越えてきましたが、わたしどもも本日これを皆で乗り越えたいと思います。
ひとは節目に卒業を迎えますが、昨今はアイドルたちがグループを離れる時「卒業」と言います。先ごろ、二人の寮生からあれほど入れあげていたディズニーに行きたいとはもはや思わなくなったこと、またアイドルのグッズを買わなくともファンでありうると考えるにいたったことを伺いました。それには「卒業おめでとう」と言いました。人生に前と後ろがある限り、ひとは一歩ずつ(望むらくは)前進していきます。人々は多くの仕方で古い自己から卒業してきました。他方、人生に前進も後退もない、ひと各自にそのつど良いと思われるものがそのひとにとって良きものであるという相対主義、刹那主義の主張はやがて虚無主義・ニヒリズムまた人生の傍観者となる冷笑主義・シニシズムに陥ってしまいます。もちろん「前へ進め、前へ進め、だけど前ってどっちだろう」という混乱や懐疑の時期をひとは通ります。その葛藤が前進の鍵を握るのです。諦めずに誠実に自らに向き合っているとき、世間の風潮やひとの評判に左右されることから卒業し、いつも喜びが刷新される新しい自己理解、人間理解に到達することもありましょう。偏差値隷属を克服するには、闘争心ではなく柔和な心が、悪意ではなく善意が、競争ではなく協力が、おのれ一人ではなく共にあることが良きものとなる新たな価値を見出し、人生を新たに理解する視点が必要となります。
3.
ここでは時間の制約上内村の『後世の最大遺物』から新しい視点、価値を受け止めた5人の作文を紹介しながら考察します。今から130年前内村による芦ノ湖畔における33歳のときのこの講演において、彼はひとがそこに生を受けた愛する地球と人類に対し、生きたことの証、形見(memento)として金銭や事業、思想などを遺すことは大きな生き甲斐であると述べています。そのうえで、「勇ましい高尚な生涯」こそすべてのひとに遺すことのできる、しかも後世に何ら害悪を与えることのない最大の遺物であると主張します。即ち、一般的には人格の完成を求めることが各人にとって目標となると主張されています。
内村は後世つまりわたしどもが死んでしまった地点を基準点にして、「自分は後世に何を遺せるのであろうか?」という問いのもとに、次の世代の眼差しにより自らの人生を逆方向に考察し、位置づけています。後世のひとはわたしの人生をどう見るだろうかという問いでもあり、現在の自己中心的な視点から離れることだと言えます。Nさんはこう書いています。「今まで自分が何かを遺して死にたいと思うことはほとんどなかったが、作者[内村]の「われわれが死ぬまでにはこの世の中を少しなりとも善くして死にたい」という意見には非常に感銘を受けた。後世への遺物は自分の利益のためではなく、自分がこれまで多くの人々に助けられてきたことを今度は自分が後世に生きる人々を助けるために遺していくものであることだと気が付いた。今までは誰かのために尽くすという言葉の真意を理解していなかったが、この世界が知り合いだけでなく見ず知らずの人々の善意によってより善くなっているということを考えると自分にも後世への遺物が必要であると確信した」。またZさんはこう書いています。「「この日本を少しなりとも善くして逝きたい」というような冒頭の熱い文があることで、自分の気持ちも熱くなった」。これなのです。視点を変えることによって人生と世界が或る感情の変化を伴い異なって見えてくるのです。
このように今から一世紀以上前のこの夏期講習会講演は後世の多くの人々に志を与えました。一昨年アフガニスタンで銃弾に倒れた医者井戸を掘るの中村哲医師もこの本に触発されたと述懐しています。たまたまこの世界に叡知体として生まれてきた皆さんは問われています、後世に何を遺していくのかと。聖書は永続するものは支配することからも支配されることからも唯一自由な心魂において生起する我と汝の等しさとしての愛だと言います。
わたしどもは現在太陽王ルイ14世が受けることのできなかった医療を受けることができます。遠くない先にウィルスが対話者間で可視化され、がんのワクチンもできることでしょう。このように人類は連綿として人類史的な展開のなかで課題を克服してきているのです。先日生物学の読書会で「チャンスは準備された心に降り立つChance favors the prepared mind」というパスツールの言葉に出会いました。ノーベル賞と言わずとも、自らの課題に誠実に向き合い心の準備に余念がないとき、自分なりの解決案に出会う幸運に恵まれることもあるでしょう。ひとはそれを「セレンディピティ」とか「叡知(ヌース)」の発動と呼んできました。このひらめきは見えない理(ロゴス・ことわり)に「ヒットするかヒットしないか」つまり対象に当たっており真であるか空振り無知であるかのいずれかであり、その限りで間違う、偽(いつわる)可能性がないとアリストテレスやパウロにより言われていました。そのようなコンピューターの検索に対応する認知機能が人に備わっていることが既に二千年以上前に知られていたのです。これは成功した地点から語られる知識の一つの種類です。
真理と偽りの判別に関わる知識には五種類あり、「叡知(ヌース)」と呼ばれる不可視な対象にヒットするこの機能はその一つです。他に、ひとは行為を選択しながら生きていますが、その行為が善か悪かを知る認知能力は「実践知」や「賢慮(プロネーシス)」と呼ばれます。これは心魂の判断は真偽にかかわる認知的なものと善悪に関わる人格的なものの総合的な知識として行為の選択に関わります。人類は賢者(sage)と聖者(saint)と特徴づけられる心魂の二つの卓越性・有徳性をめぐってそれを総合する課題に取り組んできました。ものが善く見える認知的に明晰な賢者と正義や憐み、慈しみなどの人格的な聖者、これらの二つの有徳性の総合こそ、人間として優れていること、人生の目標だと捉えられてきました。
人間は身体を持つことにより、身体的反応・受動(パトスpassive)としての感情や欲求が自然に湧いてきます。感情や欲求は選び取ることはできず怒ると赤くなったり、恐れると青ざめたり身体に変化がおきます。それがはからずもそのひとの心魂の実力、人格的態勢(かまえ)を明らかにしていると言われます。人格的に有徳なひとは喜怒哀楽などの「パトスに対し良い心の態勢にある者」だとされます。怒らないのではなく、怒るべき時に怒るべき仕方で怒るべき程度の怒りが自然に湧いてきて、その感情を伴い等しさを配分できる者が正しい者だとされます。勇敢なひとは恐れに対し、節度あるひとは快楽というパトスに対し良い態勢にあります。ひとはそれぞれの行為の選択において葛藤を伴う場合にはまだ有徳とは言えず、ものごとが冷静に善く見えており、どんなに犠牲を払おうとも、その行為を選択することが最善であるという判断に到達している者が「実践知者(プロニモス)」であり、その認識に身体的な喜びを伴いつつ一つの最善の行為を遂行します。例えばソクラテスは毒人参を飲み、イエスは十字架につきました。ともあれ、人類は心魂の在り方として真理と虚偽の識別と、善と悪の識別のうえで、事実と価値の総合を企ててきたことを覚えておいてほしいと思います。
4.
高校時代はこれまで何千年の知の蓄積の学習に専心してきました。少し気障に言えば皆さんは高校時代には百点しか取らせてもらえませんでした。しかし、君が新たな知見を得たり英雄となった場合には、それが人類の共有財産として教科書に記され、次世代の高校生に今度は百点を取らせる立場になります。またこれまでは同年齢の同等の教育を受けたひとびととのあいだの相対的な競争であり、少し皮肉に言えば予め輪切りのように囲い込まれた者同士、勝てる相手とだけのどんぐりの背比べをしてきました。I君は書いています、「漠然とした夢をもち、皆が行くからと、イワシの群れのように私も大学へ進学することを決めた」と。この日本における環境の霊(genius loci)にそまりながら皆さんは今日まで来ました。自らの現在地点を人間の探求を通じてより広く深い視点から新たに位置付けることが求められています。
そして今人類は生態系、気候変動、紛争、貧困、疫病等様々な問題、窮境に囲まれており、若者たちにより解を見いだされるのを待っています。それがどんなに個人的な問いであったとしても所謂問題解決型の学問が今始まったのです。そういう大海原に飛び込んだのです。そのこと自体を祝します。もちろんそのためには指導者のもとで長い訓練を積まねばなりませんが、基本的には皆さんの心がけにかかっているのです。志のあるところそこでは新たな問いを見出し解決に向かいます。Yさんは「内村は『源氏物語』を批判しているが、私はこの作品も世に人の気持ちを訴えた文学の一つだと思う」と述べ、六条の御息所を例に挙げ、紫式部について「怨霊になることでしか気持ちを表明できないような、無視されていたその時代の女性の気持ちに寄り添い、代弁する役割を担っていた」と理解しています。文学は心の探求なのです。
ひとはそれぞれのっぴきならない現実をもちます。虐げられた人々、戦争や自然災害などで苦しむひと、ご家庭の不幸、また人生になんの確かさもないという実存の不安、主観的にはのっぴきならないことが何もないということのっぴきならなさ、そのような窮境を人類は何らかの仕方で克服しようと努力してきました。みなさんは、今ここで呼吸をするとき、人類未踏のことを行っています。皆さんはその歴史の最先端におり、次の世代のために自らにとって重要と思われる問いを探求し、克服する視点を持つとき、広い視野の中で現実を変革していくのです。
高校までは答えが一択で与えられているなかでの正解を導きだすそのような敷かれたレールを走っていました。よく走りぬきました。これからは自分の足で立って、自ら世界の真理、真相を探求し、善悪を判断していくことが求められています。或る体験至上主義者がいました。そのひとは殺人以外すべてやったと嘯いていました。君たちの中で誰かひととおり体験しなれば、人生が何であり、何に価値があるかわからないではないかというひとがいるかもしれません。沸騰したやかんは触れずにも火傷を予見出来そうなものですが、そう考えるひとはそれをやってみるしかないでありましょう。あまり他人に迷惑をかけずに、かすり傷で済むことを祈るばかりです。たとえ放蕩息子のようになってしまっても、オセロの黒石、黒歴史であったものが一気に白石に変わる恩恵をも人類は経験してきました。聖書によれば、「わが足すべりぬと言いしとき、主よ、汝の憐みわれを支えたまえり」(Ps.94:18)とあります。
5.
もう一点皆さんの注意を引いた内村の議論は金や事業そして思想も重要な遺物であるが、そのなかで最大なものは「勇ましい高尚な生涯」であるという主張です。Iさんが「私はこういった類の本が苦手である」と書いていますが、おそらくその背後の理解としてこの種の主張は各人異なる理解に帰するのであり、数学のように明確な解をえることができないという想定があると思われます。ただIさんは読み終わって「自分の知らなかった世界に触れることの面白さ」に言及しています。よかったです。
またNさんは続けます。「二つ目は、後世への最大遺物は「勇ましい高尚なる生涯」であり、これは誰でも遺すことができるということだ。私は・・現時点で後世に遺せる物はなく将来的にも厳しいのではないかと感じていた。・・しかし、[著者内村による]「われわれの生涯はけっして五十年や六十年の生涯にはあらずして、実に水辺(みずべ)に植えたる樹のようなもので、だんだんと芽を萌き枝を生じてゆくものである」という箇所を読み、自分は社会全体のある小さな一部分を担っており、その存在はたとえ小さくても全体につながっているということに気が付いた。・・より善い後世のために自分の生涯をどのように送るべきかよく考え、誠実に生きていきたい」。アーメンです。
なぜ勇ましい高尚な生涯が最大の遺物と呼ばれうるのでしょうか。なぜひとは道徳的でなければならないのでしょうか。Why be moral? 聖書的には明確であり、万物の創造者である神が自らに似せて人類を造り、その神が信に基づき正義であり、愛であり人格的に十全であるからです。この基本理解のもとに、内村は勇ましい高尚な生涯とは誰もが遺そうと思えば遺せる善きものであり、何ら害悪のないものであるからこそ、最大であると主張します。この主張の背後に、人間が人間である限り共有しうる心魂(こころ)というものがあり、ひとは何をしていてもその心魂による自己理解、世界理解を一挙手一投足に反映させており、どのような境遇におかれても心がけ次第でわれらの生はいかようにもなるという前提があります。ひとは誰もが親を選べないことそして死ぬこと、そこに平等性がありまた人生の醍醐味があるのです。
誰にとっても最も重要なはずの心魂が腐っていては何も良き果実はうまれません。だからこそ、心魂とそのケア、耕作(cultus animi)(キケロ)が最も重要であるという理解がこの主張の背後にあります。聖書によれば、「ひとが全世界を不当に手にいれることそして自らの心魂が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひとは自らの心魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。ひとは何をしていても、「そうするお前は何者か?」と問われています。この問いに対して聖書では「汝の宝のあるところ、汝の心もある」(Mat.6:21)と応答されています。
本当に大切なもの、宝とは何でしょうか。聖書的には信仰により神との正しい関係を築き、互いに愛することを通じて永遠の生命をいただくことです。この争いと競争の世界にあって互いに愛し合うことそれが後世への最大遺物です。人間的には信仰の強い弱いがあるでしょうし、司法上の量刑が示すようにより悪い人間もいましょう。この世の事例である限り比較級で処理される可能性に常にさらされますが、イエスの良き羊飼いの譬えにあるように、一匹の迷える羊を探すべく、羊飼いは九十九匹をおいて探しに行きます。「汝らのあいだで誰か百匹の羊を持っておりそしてその一匹を見失ったとき、荒野に九十九匹を残して失われた羊を見つけるまでそれを尋ね歩かない者がいるか。見つけたなら喜びその羊を自らの肩にかけそして家に友人たちと隣人たちを集めて言うであろう、「わたしとともに喜んでください、わたしはわが失われた羊を見いだしたのだから」」(Luk.15:4-6)。
たとえ99に下十桁に0がつくほど羊を所有する富裕な羊飼いがいたとして、羊飼いはそれらをさしおいて迷える一匹を探すでしょう。イエスは言います。「わたしは良き羊飼いである。良き羊飼いは自らの魂を羊たちのために置く」(John.10:11)。どんなに羊の数が増えてもこう語られるであろうという信、それが比較を拒絶する神の愛、恩恵の端的性を示します。そこではいかなる種類の比較、競争からも自由です。パウロは「汝らのなかで嫉妬と競争心があるところでは、汝らは肉的でありまた人間に即して歩んでいるのではないか」と詰問します(1Cor.3:3)。嫉妬と競争心は表裏の関係にあります。所謂勝者はますます競争的となりより多くを得ようとし、敗者は卑屈となり強者への嫉妬に駆られます。そこには比較級の世界しか存在しないのです。比較を超える比超級の世界を神の愛がもたらしたのです。「神は独子を賜うほどにこの世界を愛された」(John.3:18)。この比超級の基盤における毎日の心魂の刷新のもとに、比較の世界であらざるをえないこの世にあって後世の人々のために勉学、芸術、スポーツそして経済活動に従事するとき、良き実りがもたらされることでありましょう。
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内村は講演を「あの人はこの世の中に活きている間、真面目なる生涯を送ったと言うことを後世の人に遺したいと思います」と締めくくっています。気にかかっていた過去や比較に引きずられるのではなく、たとえ、それが自分なりの小さな一歩の前進だったとしても、景色がかわってくることでしょう。かつて見えなかったものが見えてくるのです。パウロは言います。「見よ古きは過ぎ去った、あらゆるものが新しくなった」(2Cor.5:17)。心魂の窓を開け放ち、和紙が水を吸収するように世界を冷静に観察学習し、そして人類の幸福のためにご自身の心魂の探求を通じて世界の真善美の探究に進んでゆきましょう。その鍛錬の場としての登戸学寮入寮を心からお祝いします。
学寮を360°パノラマ写真でご覧ください
このたび、360°カメラで写真を追加しました。写真を回転させていろいろな角度から学寮をご覧いただけます。お勧めは屋上からの枡形山の春の木々と富士山の眺望です。「入寮案内」のコラムからお入りください。
「方舟」61号(学寮年誌)刊行(2021年1月)
「方舟」61号送付のご挨拶に寄せて―パンデミックのただなかに屹立する山上の説教―
「汝ら思い煩うな。魂[生命の源]は食物より一層大切なものであり、身体は衣服より一層大切なものであるのではないか。空の鳥たちを見よ、鳥たちは撒きもせず、刈りもせず、倉に集めもしない、そして汝らの天の父は彼らを養っていたまう。・・野の百合がいかに成長するかよく観よ。百合たちは労することも、紡ぐこともしない。だがわたしは汝らに言う、ソロモンでさえ彼の一切の栄華のなかで百合たちのひとつほどに着飾ってはいなかった。しかし、もし神が今日生えており明日炉にくべられる野の草をこのように着飾ってくださるなら、はるかに一層汝らを着飾ってくださるのではないか、信小さき者たちよ。・・まず神の国とその義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。だから、汝らは明日のことを思い煩うな、明日は自らを煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(Mat.6:25-34)。
昨年来の大嵐のなかいかがお過ごしにていらっしゃいますでしょうか。お守りのうちにお健やかにお過ごしでいらっしゃいますように。登戸学寮をいつもお支えお導き下さり、ありがとうございます。心から御礼申し上げます。ここに創設以来の寮生文集年誌「方舟(はこぶね)」61号をお送りします。学寮の事情は年毎に異なりますが、今年度はオンライン授業という前代未聞の状況のなかで若者たちは共同生活を通じての自らの現在地点を記しています。卒寮生各位におかれましては、ご自身の学寮時代を思い出すよすがとして、また寮生各位におかれてはいつか読み返す時、自らの前進を確認できる一つの基点となりますよう願っております。歴代寮生のご家族の皆様そして学寮に思いをお寄せくださる皆様には、近況報告そして日頃のお支えに対する感謝の徴として本誌をお受け止めいただければまことに幸甚に存じます。
おかげ様にて、日増しに強まる嵐のなか、学寮は護られて新たな航海を続けております。創設時の黒崎幸吉先生の篤い祈りに呼応するように、学寮に何らか関わる多くの方々の今日に至る篤い祈りによって護られていますことを、この学寮が枡形山に囲まれ護られているように感じるその感覚とともに、日々新たにいたしております。「天に登る戸」(黒崎先生)としての学寮の使命を新たに受け止めております。
世界と日本は苦難のただなかにあります。近年、東日本大震災、福島原発事故そして今回のパンデミック等に、何か時代は聖書的な人間理解に追い付いてきたと感じます。人間社会が自律したものとして自らを司法や行政、経済等の制度化、律法化のもとに位置付け、さらに科学技術を促進させることは人間の知性の証でありましょう。実際、医療の進歩にこそこの苦境からの脱出の光明を見ます。しかし、これらは心魂の最も根底に成立する神との正しい交わりに頼らずにすむシステムの構築に向かうとき、言わば肉を厚くし、二心、三つ心の偽りに陥る危険にさらされています。これらの営みは、最も良きものによる秩序づけなしには、自らの理解する公平さ、技術革新、効率性等の名のもとに、この同胞である人類、自然、惑星全体を考慮することなしに、自らの隠れた欲望、自己利益を正当化するシステムの作成に向かう傾向にあります。風土病の拡大や気候変動がその一例となるのではないでしょうか。
21世紀のパンデミックCovid-19は、聖書的には人類共通の問題というものが実際にあり、ひとりの不注意や身勝手が隣人を苦しみや死に追いやるそのような運命共同体にあること、人類全体で協力して対処すべき問題が人類史的な状況のなかで生起していることを教えています。パウロは「被造物全体が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにある・・われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ呻いている」と言います(Rom.8:22-23)。この疫病の蔓延は運命共同体としての人類が全体として救いを求めているという創造と救済の聖書的な人間認識を含意しています。疫病、飢饉、貧困は世界を不安定なものとし自国第一主義の風潮のもと国際関係の緊張や戦争に至ることでありましょう。イエスは「不法があまねくはびこるので、多くの者の愛が冷える」(Mat.24:12)その状況とともに預言します、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、様々な場所で大きな地震と飢饉と疫病が起こるであろう。恐るべきことと天からの大きな予兆が起こるであろう」(Luk.21:10)。「そのとき大きな苦難が起きるであろう、苦難よ、それは世界の始まりから今まで起きなかったそしてもう起きないであろうそのようなものだ」(Mat.24:21)。彼はこの終末預言の警告のもとに人類を救いだすべく十字架まで信の従順を貫きました。
銀河のさらには宇宙全体のいつの日かの崩壊は人類の知性により或る程度予想されていますが、イエスのこれらの預言によりそのような自然事象さえも、神による宇宙の創造から救済そして新天新地の創造にいたる神の歴史の中に位置付けるかが問われています。そのスケールを人類は考慮にいれることができるのでしょうか。肉の欲につけこみ誘い、ひととひととの関係を引き裂くものは擬人化される「罪」と呼ばれますが、その罪に同意する仕方でひとが「自らの腹に仕え」、自らの腹を神とし「地上のものごとを思慮」するとき、そのひとに「罪が巣食う」とあります(Rom. 7:7-25,16:18,Phil.3:19)。ヴィジョンを失い矮小な目先のことに捉われてしまいます。常に心の刷新により目覚めていることが求められます。
イエスは山上の説教において聖霊の賦与や奇跡に訴えることなしに、ただ良心に訴え言葉の力だけでモーセ律法の純化、内面化によりひとびとの偽りを摘出します。道徳的次元を内側から破りでて、「天の父の子となる」よう信仰に招きます。この純化に耐えられず、しかも信に至らず、人類の歴史は心情倫理と責任倫理をわけ、後者の視点から社会の秩序を守る制度を充実させてきました。「裁くな」、「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は正当防衛を不可能にするため、個人の心の在り方として賞賛しても政治や公共は到底山上の説教に与することはできないと主張されます (Mat.ch.5-7)。しかし、このような棲み分けは全体として一つのものであるひとの心とその身体を介した営みを理論上そして実際上分断するものであり、心なき制度化、形式化がはびこり、その前提のもとでの業に基づく「目には目を」の比量的正義の追求は人間がそこにおいて最も人間であるその心を苦しめることになります。ひとの良心はそのような二心に満足できないのです。福音における神の憐みへの根源的な信に基づく正義・義認のみが良心を宥めます。
イエスはご自身の言葉と働きにおいて福音を持ち運びながらモーセ律法を含め生の一切を福音に秩序づけています。「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(7:11)。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられます。「まず神の国と神の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう」(6:32)。そこでは、制度、技術そして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるでありましょう。キリストにあって憐み深い神を信じることによる神との正しい関係にこそ、パンデミックに負けない平安と希望がわきます。
登戸学寮はこのようなヴィジョンと使命のもとに建てられたのだと受け止めます。このような海図なき時代にあって、時代の徴を正しくつかみ地の塩、世の光としての役割を少しでも担いえますなら、幸甚に存じます。今後とも困難が続きます。創設以来の寮生の皆様、そのご家族の皆様、学寮に心をお寄せくださる皆様のご健勝とご平安を心からお祈り申し上げます。今後とも学寮とのお交わりを賜りますなら幸甚に存じます。
2021年1月24日 登戸学寮寮長 千葉 惠
今井館ニュース48号寄稿
登戸学寮
「主、家を建て給うにあらずば、建つる者の勤労は徒労(むな)しく、主、城を護り給うにあらずば衛士(えじ)の覚めをるは徒労しきことなり」(詩篇127:1-2)。
2020年のオリンピックイヤーはパンデミック一色となり危機の年となりました。この大嵐のなか、学寮は護られて新たな航海を続けています。8月3日、二つの高気圧に覆われた力強い夏空のもと、築62年の男子棟改修工事が始まりました。仮設足場の気の遠くなるような上下左右運動の運搬、組立に始まり、この過酷な労働条件に耐え抜いた屈強な男たちが―スナフキン帽の黒装束の細身青年を交え―チームで学寮の改修に取り組みました。屋上には防水シートが美しく張り巡らされ、外壁の汚れは高圧洗浄により流され、養生に覆われた壁はシールと三重の塗装により見違える外観となっていきます。耐震工事はセメフォースアンカー様式によるもので最後にグラウトが流し込まれ盤石の壁面が出現しました。
学寮の心(ソフト)に賛同くださる多くの方々の、次世代を担う若者への期待のあらわれとしてのご厚志がこのように具体的に形を成していきます。見えない所でのご労苦の果実により、そして建築現場の若者たちのエネルギーの迸りを介して、学寮は美しく甦りました。この場を借りて心から御礼申し上げます。学寮のハードが見ず知らずの青年たちに甦らされていくなか、学寮の若者たちは多くの愛に支えられて学寮のソフトをそれぞれの仕方で実らせていくことでありましょう。
10月5日新しい表札の除幕をかねて玄関ポーチにて竣工式が行われました。讃美歌第二189番の歌詞を変え唱和しました。「丘の上の学寮へ、のぼる石畳み、春は桜の花びら、手のひらにうけてのぼる。ディンドン、ディンドン、ディンドン。夏はみどりさわやか、陰も涼しくて、高く口笛吹いては、肩組み合わせてのぼる、ディンドン、ディンドン、ディンドン」。
登戸学寮 寮長 千葉惠
新型コロナウィルスへの対応
日本も第三波に見舞われ、どこまで感染が拡大するか予測のつきにくい状況が出来しています。目に見えないものを相手にしているこの困難な状況のなかで、感染しない、もし感染してしまったなら、ひとに感染させない、自分がその最後の者になるという自覚が求められています。わたしども登戸学寮は新しい生活様式に則り、マスクの無償提供や非接触型体温計の設置そしてアルコール消毒などの備えを充実させつつ共同生活を続けています。今日まで感染を免れましたことを感謝するとともに、今後も寮生各位のご協力のもと、最後まで感染を被らない最長不倒にいたるよう細心の注意を払っていきたいと存じます。これまでの取り組みにつきましては当HPの「登戸学寮の入寮をお考えの方にまたそのご家族様に」や「登戸学寮ニュース8号」のコロナウィルス特集3頁をご覧いただければ幸甚です。また聖書的にはこのパンデミックをどのように捉えるべきかについては「枡形夏の聖書講義2,3」「パンデミックと聖書」により論じています。文章そして録音双方によってアクセスできます。世界中が苦しみの中におかれていますこの状況において、人類の英知により、この困難を乗り越えますよう心からお祈り申し上げます。閲覧者各位におかれましても、くれぐれもおだいじになさってください。
『登戸学寮ニュース9号』お届け(HP版)
公益財団法人登戸学寮 理事長 小島拓人
寮長 千葉 惠
主、家を建て給うにあらずば、建つる者の勤労は徒労(むな)しく、主、城を護り給うにあらずば衛士(えじ)の覚めをるは徒労しきことなり。(詩篇127:1-2)。
二つの高気圧に二重に覆われ暑かった夏がいつのまにか狐に抓まれたように一気に秋の気配を深めております今日この頃いかがお過ごしにていらっしゃいますでしょうか。2020年のオリンピックイヤーはパンデミック一色となり危機の年となりました。世界中が尋常ならざる状況におかれ、日常生活もままならない緊張のただなかで、お護りのうちにお健やかでいらっしゃいますように。創設以来黒崎先生や学寮を愛し、支えてこられた方々の篤い祈りが学寮を囲み、疫病にたいし固い盾となり、学寮は今日まで感染を免れ、護られて新たな航海を続けています。
ここに『登戸学寮ニュース9号』をお届けいたします。学寮の近況などをお知らせいたします。寮生によるエッセイとアンケートによるものが数本掲載されました。今どきの若者の雰囲気が伝わればと存じます。寮友会からの悲喜こもごものお知らせもあります。この春から日曜の聖書講義は山上の説教にとりくんでおりますが、その一端をお伝えさせていただきます。この夏60周年改修工事がおこなわれ、学寮が美しく甦りました。将来の日本を託す若者たちへのご期待のなかでの皆様のご厚志により、また工事関係者のご努力のもと、無事に竣工いたしましたことをお知らせさせていただきます。学寮へのお励まし、お支え心より御礼申し上げます。学寮ニュースにより学寮がより身近になり、親しみをお持ちいただければまことに幸甚に存じます。
この春桜咲く学寮に多くの新寮生を迎えたこともあり、学寮は若い生命に輝いています。寮生たちの多様な才能、若々しさ、これは壮観でさえあります。若い魂を育てるCultus Animi(魂の耕作)の場としての学寮がこの混迷の世界にあってよき働きを為しえますようお見守り、お導きいただきたく存じます。
2020年10月17日
公益財団法人 登戸学寮
登戸学寮への入寮をお考えの方にまたそのご家族様に
登戸学寮への入寮をお考えの方にまたそのご家族様に
2020年オリンピックイヤーは尋常ならざる、忘れがたいコロナ禍の一年となりました。感染はとどまることを知らず世界を飲み込んでいきます。9月となり秋の気配を朝夕感じるこの頃ですが、学事歴上ははやくもAO入試など受験シーズンを迎えています。この8か月登戸学寮は寮生各位の医療、社会そして学寮を崩壊させないという合言葉のもとに自覚的な協力をいただき感染を免れてきました。新型ウィルスの振る舞いも次第に明らかとなり、三密を避けるなどの対策が有効であることが判明しております。学寮は個室であること、さらに密を避けうる十分な共有スペース(資料室・図書室、談話室・図書室、多目的ルーム(卓球台、テレヴィ)さらには食堂・集会室、そして複数のキッチン)があること等がハード面での感染回避の要因となっています。また医療関係の学生たちが自覚高く啓蒙に努めてきたこと、理事長以下、学寮先輩医師のそのつどのご指導による検温、経過観察等のコロナ対策を施してきたことなどもなんらか貢献していると思われます。もちろん、見えないウィルス相手であり、油断はできず、自ら感染しているかもしれないという前提の下で、感染させるより感染を被るほうがよく、自らで連鎖をストップさせるという自覚は今後も不可欠です。
一学期は大学がオンライン授業となり、寮生も寮内に留まることが多くありました。今年新入生を十数名迎えましたが、留学生を含め多様な大学から構成される寮生諸氏におかれては楽しくまた秩序ある交流がもたれています。日曜の聖書講義を基軸に、各種勉強会、消防訓練、近隣の広福寺のご協力によりその竹林から切り出した10メートル近くの竹を利用してのコロナ対応流しソーメン、先輩寄贈の佐賀牛のバーベキュー、手料理振る舞い会などのイヴェントを通じて交流を深めてまいりました。共同生活を通じての友情や社会性の育みはやはり学生寮ならではの果実と存じます。
現在、登戸学寮は創立60周年記念改修工事を行っています。10月に竣工いたしますが、原資は学寮創立の趣旨にご賛同くださり、次世代を担う若者たちに期待を寄せる多くの方々のご寄付により耐震工事、外壁塗装工事などの改修、キッチンの新築が行われています。学寮生活の快適性、利便性は一層増しております。
地方から首都圏への大学進学を考慮している方々、既に在学しつつも一人での学生生活に不安を感じる方々、さらにはThe Bookと呼ばれる人類の最も多くの人々に読まれてきた聖書に関心のある方々、また若い時に心魂の探究を歴史の審判に耐えてきた聖書により遂行したい方々におかれましては、一度当学寮への入寮をご考慮いただければと願っております。またご子息、ご息女の寄宿先をお探しで、学寮の運営精神に賛同されるご家族様にもご考慮いただければと願っております。資料請求をまた体験入寮も承っております。当学寮への入寮が、大学での学習や部活そしてアルバイトを通じて、さらには学寮における新たな出会いのなかでの共同生活を通じての社会性を育み、豊かな人生を歩む基盤になりえますなら、まことに幸甚に存じます。
2020年9月5日
登戸学寮寮長千葉惠(北海道大学名誉教授、哲学博士 D.Phil. Oxford University)
New「2020年度黒崎幸吉記念キリスト教講演会」の再度の変更のお知らせ
「2020年度黒崎幸吉記念キリスト教講演会」
の再度の変更のお知らせ
2020年8月29日
公益財団法人登戸学寮
新型コロナウィルス問題の対応に鑑み、当初6月7日に予定しておりました掲記講演会につきましては、本年11月21日に登戸学寮で開催致すことでご案内しておりました。しかしながら、周知のとおり新型コロナウィルス問題に大きな改善の動きは見られなく、延期スケジュールでも本講演会の開催は難しいと判断致します。従って通常の形での公開講演会の開催は中止し、下記のとおり誌面開催と致しますのでご承知置き頂きたくご連絡申し上げます。
記
2020年度黒崎幸吉記念キリスト教講演会の誌面開催
1.講師・題目(変更無し)
小畑 蒔恩(桜美林大学二年 登戸学寮卒寮生)
「大学と演劇、京劇俳優たちの身体」
星野 咲(成城大学大学院二年 登戸学寮寮生)
「横溝正史が日本探偵小説にもたらしたもの」
大友 浩(札幌独立キリスト教会主管者)
「福音による人間形成」
2.誌面開催要領
登戸学寮の文集『方舟』次号(来年1月発行予定)を黒崎幸吉先生ご昇天50周年記念号として同誌に講演内容を掲載する。
本件お問合わせ先:noborito@gakuryo.or.jp 044-933-0819
以上
「2020年度黒崎幸吉記念キリスト教講演会」延期のお知らせ
「2020年度黒崎幸吉記念キリスト教講演会」の変更のお知らせ
2020年5月23日
公益財団法人登戸学寮
新型コロナウィルス問題の対応に鑑み、6月7日に予定しておりました掲記講演会につきましては、下記の通り開催日時と場所を変更致しますのでご連絡致します。
記
1. 日時:2020年11月21日(土)午後1-3時
2. 場所:公益財団法人登戸学寮
〒214-0032 川崎市多摩区枡形6-6-1
注1. 講師・題目に変更はありません。
注2. 当日は参加者用送迎車(小田急線向ヶ丘遊園駅⇒登戸学寮)を用意致します。
注3. 講演会後にホームカミングデイ(午後3時半―5時)が開催されますので、ご自由にご参加ください。
本件お問合わせ先:noborito@gakuryo.or.jp
044-933-0819
以上
New!「登戸学寮ニュース」8号が公刊されました。
2020年度が新たな体制のもとスタートしました。コロナ禍の船出となりましたが、近況お知らせします。学寮を寮長として12年間また長く理事長としてお支えくださった大島智夫先生の追悼号でもあります。