春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その五
山上の説教における福音と倫理その五
2024年2月25日
(今回も種々解説を加えながら録音しています)。
二・四 跳ね返りの法則「君が量るとの量りによって量り返される」
イエスは反射性、跳ね返りの法則を端的に表現している。「君が量るその量りによって量り返される」(Mat.7:2)は「裁くな裁かれないためである」の理由として提示されているが、これは単に最後の審判という神学的次元だけではなく、「君の宝のあるところ、そこに君の心もある」(6:21)という行為の目的論的構造とともに考察するとき、道徳的次元や行為の哲学など一般的に適用されるとイエスは主張していると思われる。ひとは何であれ大切にしているもの、求めているものそのものの価値により、量られる、即ちその枠の中で応答、報いを受ける、ちょうど金銭に貪欲な者が詐欺師にだまされるように。ひとは自ら量るその量りによってブーメラン効果とでも呼ぶべき跳ね返りを受け、それがはからずも自らの魂の現在地点ないし隷属を開示する。
放埓者は放埓者相応の報いを得る。アリストテレスによれば習慣づけは本意からの自発的なものであり責任が帰属し、例えば放埓が非難されるのは「快いものどもへと人を習慣づけることは容易だから」であり、「彼らはこうした快だけを知悉しているがゆえに、これらだけを快と思っている」からである(EN.III12.1119a25, VII13.1153b35)。放埓者は欲望の欠乏充足モデルのなかに身を置き過剰な欲望を持ち、自らの偏った執着故に、多くの喜ぶべき喜びを放棄し、それが充足されないとき、必要以上に苦痛を感じる。「放埓者と呼ばれるのは、快いものを獲得できないという理由で・・必要以上に苦痛を感じることによる。・・放埓者はあらゆるものと引き換えにこれらの快を選び取る。かくして、それらを得られなければ、またそれらを単に欲望するだけなら、むしろ苦痛を感じる。なぜなら欲望は苦痛を伴うからである。快のゆえに苦しむことは不条理に思える」(III12.1118b27-1119a5)。哲学者は放埓者が自己矛盾的な存在者であることの不条理さを指摘し、維持不能性を開示する。快を求める欲望が苦痛を伴うという事態は何か愚かのように思われる。無限ループの刑に処せられているかのごとくである。光のもとにないから、その闇にとらわれているように思われる。
ロゴスとエルゴンの相補的展開のもと善悪因果応報の法則を確証できるとき、人生の行為選択における明晰さに到達することになろう。この法則が偽であると主張する場合には、即ち「悪しき先行的行為選択に対して、善き果実が得られる」と信じている場合には、自ら反証を立てることが求められる、生涯かけて。もちろん善悪因果法則を信じる者もそれを生涯かけてその真理性を証明することが求められる。ロゴスはエルゴン即ち今・ここの検証の働きにより信用される。そして、自らの主張の真理性は他者からの悪しき対応を受けた場合に、善意をもって返すことが求められる。さもなければ自己矛盾となる。ソクラテスは「もし不正を行うか、それとも不正を受けるか、そのどちらかがやむをえないとすれば、不正を行うよりも、むしろ不正を受けるほうを選びたい」(プラトンGorgias.469C)と語り、また「善き人には生きていても死んでしまってからも、悪しきことは何一つないし、その人のことは、神々によって配慮されないことはない」(Apologia.41D)。自らへの対応においても自らの不利益や損害を実践的に受容することが求められる。習慣づけとはそのようなことにより、心魂の実力を養い、そのようにして獲得される知識は節制のうちに保全される実践知である。これが倫理学の第二の特徴である。
この倫理学の第二の特徴は広く他の諸学との関連において浮彫になる特徴である。倫理学は他の諸学とは異なる独自の機能を担っている。数学や物理学のような知を求める理論学があり、工学のような制作を求める制作学(術)があり、政治学や倫理学のような善き統治や善い人生を求める実践学がある。そして倫理学の特徴として、それは単に知識や理論を求めているのではなく、最高善である幸福を目指す行為遂行力即ち生きる力、実践的効力を求めていることも同意されよう。
二・五 倫理学の第三の特徴—「幸福」は「われらの力能のうちにない」―
倫理学の第三の特徴はこれまでの特徴を踏まえ人生の最高善とされる「幸福」や「祝福」の包括的な探求を遂行することである。人間の魂の分析に従事する『ニコマコス倫理学』において、アリストテレスは人間のあらゆる営みが、他のものの故、他のものかつそれ自身の故、それ自身の故に求め、選択する三種類に分類されるという。そして人は誰もがそれを究極的に求め、他のものの追求もそれのためである、そのような「最高善」を「幸福」と呼んできたとしてその理由を挙げる。「われらは常にそれ自身の故にまた決して別のもののゆえにではなく幸福を選択している。他方、われらは崇拝(・名誉)や快楽そして叡知さらにあらゆる徳を確かにそれら自身の故に選択するが(というのもわれらは[他の]何も帰結しなくともこれらのそれぞれを選ぶであろうからである)、しかし、それらを介して将来幸福になるであろうと判断しつつ、幸福のためにも選択している」(I7,1097b1-5)。
彼はこの誰もが追求する幸福の探求を手掛けるさいに、伝統的な「大衆」や「賢者」たちの「通説」に耳を傾ける。それは人間の関心の最重大事だからであり、幸福内容の理解は「これこれ好き・~愛」(I8,1099a9)と特徴づけられるように個々人異なり、同一人においても時に異なるものであるが、その大枠においては同意が得られているからである。「恐らく、幸福を最高善と語ることは何か同意されるものに見えるが、しかし幸福が何であるかはなお一層明晰に語られるべきことが求められている」(I7,1097b22-4)。この幸福とは何であるかの一層明晰な理解のために神的な「祝福」(1098a19)が導入されたと思われる。
「幸福(eu-daimonia)」という「名称」の伝統的理解として彼は「ダイモニオンは神かそれとも神の働きかである」と語るように語源的には「よいeu」の付加のもとで神からの善き守護霊の派遣が想定されているが、彼は一般的な理解を基本とする(Rhet.II23,1398a15)。「名称においても大抵の人々により同意されている。大衆も賢者たちもそれを「幸福」と呼んでいるが、「よく生きること」、「よく(うまく)為すこと」は「幸福であること」と同じであると判断している」(EN.I4,1095a18-20)。さらによく生きることは第一義的に人間の魂に属するものであろうから、「幸福な者」は「優れた魂を持つ者」と規定される (Top.II6.112a3)。並列されることの多い「祝福された者(makarios)」の語源として、「喜ぶ・嘉みする(chairein)」が挙げられる。「われらは人格的徳と悪徳とを快いものどもと苦痛なものどもに関わるものであると立てた、またほとんどの人々は幸福が快を伴うと主張する。それ故に、彼らは喜ぶこと(chairein)に因んで「祝福された者」をも名付けた」(EN.VII11,1152b5-8,cf. mala-chairein (being exceedingly pleased) →makarios))。
倫理学の成否は「全体として善く生きること」(VI5,1140a28)の包括的な理解のもと、心魂の受動から能動、今・ここの行為の最善の選択に至るまでの道筋の理論(ロゴス)を構築できるか、さらには今・ここの魂の働き(エルゴン)が例えば受動的な個々のパトス(感情、欲求)、行為そしてそれに伴う快苦を介してそのロゴスの正しさを証するロゴスとエルゴン双方の補い合いを展開できるかにかかる。
この目的論的な構造のなかで、先の第一、第二の特徴が秩序づけられる。「いかに生きるべきか」、「最も望ましい人生は何か」、を探求する倫理学が単に認識だけではなく、人生そのものに有益なものとして、ロゴスに即して生きる力を与えるものを探求することは道理ある。幸福に至るそのような実践的な力の探求が為されなければ、倫理学の務めを放棄するものであるとさえ言えよう。先の思考実験において、デヴィルが悪魔である限りその定義上、人間を破壊することを目的にしている故に、一見知性のうえで解けているように見えても、その背後に堕落させるトリックや罠が仕掛けられているに相違ない。悪魔に身を渡すことは、自らを滅ぼすことになる。ならば、真に信頼にたる存在者を信じて身を任せることの正しさが導出されよう。信が愛を生み出すそのような力ある信が正しい信仰、信頼であるとイエスは語る。「この女性の多くの罪は赦された、その証は彼女が多く愛したからである」(Luk.7:44)。言葉と働き、理論と実践のあいだに乖離がないこと、一般に正しい行為の動機づけはどこから得られるのか、この解明なしに倫理学は完成しない。
二・六 道徳法則の普遍性
「最高善」とは目的論的体系の頂点であり、それ自身として求められ、他のものゆえに望まれることも選ばれることもないものであり、幸福(well-being)がそれであるという理解は道理あるものである。イエス自身、目的論的な人生観をもっていたことは先に確認したが、ルターの言葉「神の命令なら地獄にまで行く」は端的な信従の表明であろうが、神の命令に背くよりはそのほうが「善い」と考えていると反省的次元における捉え直しには同意されるであろう。その最高善が「幸福」と呼ばれる。それ自身善である道徳法則や有徳性はそこに到達する不可欠の要素であることも同意を得ることであろう。人間の魂の本来的な在り方として、イエスは信の根源性を説き、アリストテレスは最高善である幸福の本質的な要素としての徳の根源性を、カントは道徳的な経験の基礎に普遍的な道徳法則の根源性を説いたことは同意されよう。
カントによれば、道徳法則の普遍的な適用こそが人間本性の道徳性を保障する。その道徳法則の普遍性は客観的に妥当する先天的な規範として意志そのものを規定し、幸福に相応しい人間であるべく遵守への切迫力を持つ。「道徳法則に即して自由を使用するにさいしての究極的目的の理念は主観的に実践的な実在性をそなえている」(KU.88節)。実践的効力をもつ道徳法則の無制約的な適用は立法者、行為主体を例外化することなく包摂するが、その普遍性はその断言命令が経験に依存せず、経験を導くアプリオリ(先験的)なものであることに基づく。言わば、その普遍性は経験に汚されることのないものとして祭りあげられることにある。
カントは言う、「私は対象に関与するのではなく、対象についてのわれらの認識の仕方に、しかもこの認識の仕方がアプリオリ[観察経験以前的、先験的、ロゴス上]に可能である限りにおいてかかわる、すべての認識を「超越論的」と名付ける」(KrV.B25)。超越論的な考察とは「諸概念とのみ(bloss mit Begriffen)関わる」ことになり、「単にアプリオリな諸概念からはいかなる実在的根拠についても、いかなる因果性(Kausalität)についても、その可能性を認識することはできない」(KrV.B586/A558)。
この超越論的な議論の先駆としてアリストテレスのロギコスな議論を挙げることができる。「神学(theo-logikē)」や「天文学(kosmo-logikē)」が語尾にlogikē(形式言論構築術→logic)を持つことは偶然ではなく、観察や経験の困難なものを対象とする学はこの思考様式に依拠せざるをえない。アリストテレスによればこれは矛盾律に基づき「いかに語るべきか(pōs dei legein;)」という言葉の分析力に基づく視点から「いかにあるか(pōs echei;)」の観察経験を導くないしその論理的、形式的思考による基礎を展開する言論の技術である。アンセルムスの「理性のみ」による神の存在論証は矛盾律に基づき背理法により神が単に「理解のみに在る」のではなく、「ものごとにおいても在る」のでなければならないことを存在主張として論証している(Proslogion ch.2)。それはカント的には「超越論的」な議論と親和的である。神学的対象については言語の力によるロギコスないしアプリオリな超越論的議論は経験の基礎として不可欠である[i]。
断言命令の基礎は「汝の格率[意欲の主観的原則]が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が意欲することができるような、そうした格率によってのみ行為せよ」(KpV.IV421)である。「格率」は単に恣意的な意欲ではなく、道徳法則への善意志のもとにある道徳的な意欲として秩序づけられる。自己矛盾を含むまた自己利益追求の格率は普遍化されない。例えば格率「他人のものは自分のもの」は、他人でもある自己は自らへの適用を承認しえず普遍化を許容できない。そこでは「善意志」が発動しているが、そのロギコスな規定はこうである。「無条件に善い意志とは、悪でありえない意志であり、したがってその格率が普遍的法則とされるならば自らこれと決して矛盾対立することのできない意志である」(GMS 8 BA 81/AA 437)。かくして、理論上、主観的な判断は道徳的であるべきものとして普遍的道徳法則のもとに秩序づけられる。「善悪の概念は道徳法則より先にあるのではなく、・・道徳法則に従ってのみ規定されなければならない」(KpV.V63)。実際、イエスの新しい律法理解は善悪因果応報の「善悪」の概念を極度にシャープにする。経験的に善悪を把握するとき、そこには普遍的な道徳法則がロゴスとして既に無制約的にしかも今・ここにおいて働いている。正しい働きがなされるときは正しいロゴスに即して遂行されている。
[i] 『信の哲学』 下巻第五章参照。
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その四
山上の説教における福音と倫理その四
(今回も録音においては種々解説を加えながら話しています)。
2024年2月24日
二・三 心魂の認知(ロゴス)と働き(エルゴン)の共軛と共鳴和合
第二の倫理学の特徴は第一の特徴から必然的に問われるものである。倫理学は善悪をめぐる心魂の人格的態勢に考察の基点、視点を置くとしても、そこでは真偽に関わる認知的態勢との関係が問われる。認知的な力能、態勢と人格的なそれはいかに関わるのか、知識や認識は身体に座を持つ行為選択の欲求、動機づけとはいかに関わるかが問われている。理論的な知識とその個々の実践即ちロゴス(言葉、理論)とエルゴン(今・ここの働き)はどのように関わるのかが探求されてきた。
例えば、原爆製造のマンハッタン計画に参加したジョン・フォン・ノイマンは人間の知的好奇心を妨げるものはなにもないとして、核分裂の可能性を知識として掴んだ以上はその実験およびその実践に道徳的良心の呵責を感じる必要はないと語ったと言われている。これは、知性上の真理の知識や認識の追求は至上善であり、それ故にその追及は至上命令であるという主張である。これは得られた自然法則についての知識とその善悪をめぐる実践的応用としての最善の行為選択肢の知識は異なるものであり、理論的知識が他のあらゆる判断に優先し実践の規準になるという主張を含意している。
また、この見解に即せばデヴィル(悪魔)は倫理的問題に悩まされている人間たちに解を与え、無知の捕らわれから解放しうるかという問いにおいて、デヴィルが人間以上の知性を備えている限り可能であると語られよう。それは、さらに、人工知能AIが自ら身体に基づく欲求をもたずにも、将棋における最善手を示すように、行為における最善の行為選択肢を指示することができるかという問いと類似のものである。心なきAIが人生相談に与り、結婚相手を託宣することもあろうように、デヴィルは善悪をめぐり人の判断を教示し導くことがあるでもあろう。これは認知的なものが人格的なものに優先する、理論的な知識が最高善であり、実践的価値は知識に従属するという立場である。
ここでの一つの問いは多様な与件のもとにある個々人について「いかに生きるべきか」、「最も望ましい人生は何か」をめぐって人間一般に妥当する認知的態勢と人格的態勢を包括する普遍的な理論、行為規範を構築できるかである(EN.VIII12.1162a29, Pol.VII1.1323a1)。アリストテレスによれば、認知徳と人格徳が普遍と個のままでは倫理学は成立せず、普遍と個を媒介する個々の最善の「行為選択肢(prakton)」の知識である「実践知(phronēsis)」そしてその基礎に「経験に基づく目」と語られ「人生の盛時」即ち年齢を重ねることにより発動する「叡知(nūs)」の認知的徳が媒介者として求められる(VI11.1143ab8,14)。
「実践知」は「人間的な善に関わり、真なるロゴスを伴う行為力能上の態勢である」と規定され、「行為に関わる認知的なものの働きは、正しい欲求に一致した真理を捉えることである」(VI5.1140b20,VI2.1139a30)。人格徳において中庸に向かう正しい欲求が生起する時、「欲求的叡知(orektikos nūs)」が発動する(VI2.1139b4)。叡知に基づく実践知はその欲求が正しいことの知識を与えることにより「指令的」なものとなる(VI 10.1143a8)。
人格徳は中庸を得ており快苦に対して安定しているため、行為選択肢の知識に与りそれを保全することができる。「節制(sōphroshunē)」の語源は「実践知を保全する(sozūsan tēn phronēsin)」の合成語であることが紹介されている(VI5.1040b13)。認知徳の一つである行為選択肢の保全された知である実践知は人格徳と相互に軛で繋がれており支えあう。哲学者は言う、「実践知は人格徳と共に軛に繋がれており(suzeuktai)、人格徳も実践知と共に軛に繋がれている(suzeuktai)、いやしくも実践知の諸原理はさまざまな人格徳に即しており、人格諸徳の適正さは実践知に即している限り」(X8.1178a16-19)。実践知の「原理」、始まりは人格徳の成長による。実践知は人格徳の欲求に見られる正しさを保証する。
身体の受動反応であるパトスに善い態勢にあるとはそれぞれの徳項目において中庸に接近することであり、ロゴス(理)に与る力能を獲得していく。人は恐れと臆病のパトスが中庸に近づくにつれ、勇気の理に与る力能が増し、また快をめぐる放埓と鈍感から中庸に近づくにつれ、節制の理に与る力能が増し聴従しやすい魂の態勢になる。有徳者は適切な理(ロゴス)に「聴従している」者である(I13.1102b27)。
個別の最善の行為選択肢にかかわる実践知がそれらの個別的人格徳に関与しロゴスを与え、行為に導く。そのさい、これら態勢とパトスを肯定的に関連づけるものはロゴス(理)であり、実践知はロゴス(言表・理)上例えば節制から分離されるがエルゴン(今・ここの働き)上不分離なもの即ち「共に軛に繋がれたもの」として今・ここで働く。アリストテレスの倫理学は欲求と叡知の綜合である実践知の理の統一的な実在論のもとに構築されることになる。
認知的態勢と人格的態勢が「共に軛に繋がれている」限りにおいて、先に挙げた双方の分断と知性の優位は抵抗にあうことになろう。どんなに認知的に優れていたとしても、双方の徳・卓越性が関連付けられない限り、最善の行為選択肢について発動する「欲求的叡知」の欲求が伴わないものがあるため発動せず、実践知に至らないものがあるということを含意している。純粋に知的な計算等には優れていても、最善の行為選択肢をつかむ実践知に至らないケースは容易に想定できる。純粋に理論的な研究においても、ニュートンがりんごの果実が木から落ちるのを見て、万有引力への叡知が発動したとしても、それまでの運動論の素養なしには、気づくことはなかったであろう。認知的徳の一つである「叡知(ヌース)」は叡知対象に「ヒットするかしないか」のいずれかであり、つまり真か無知かのいずれかであり、「決して偽に陥らない」とされるが、それに至るまでの認知的、倫理的態勢の陶冶は不可欠である(Met.IX10.1051b22-26,EN.VI6.1141a3)。
人生のあらゆる段階で、偶然的な選択を除いて、最善の行為選択肢に叡知が欲求を伴いヒットしないとすれば、その知性上の認知的卓越性例えば「科学的知識」、神的なものに対する「知恵」と呼ばれるあらゆる認知的活動において妨げを受ける可能性が高まると思われる。たとえ原子爆弾の原理的構造を解明したとしても、広島、長崎に原爆が投下された行為選択をめぐっては異なる行為選択肢が開かれている(例、海上での示威投下)。また、デヴィルはその定義上、人類を破壊することを事としているいる以上、その理論にはどこか悪をしのび込ませて罠をしかけているに相違ないという想定は道理あるものである。優れた知性はその罠を見抜くであろう。イエスは言う、「さがれサタン、君は私の躓きだ。神のことを思慮せず、人間のことを思慮している」(Mat.16:23)。
アリストテレスは包括的な仕方でこの双方の良好で創造的な関係をこう語る。「真なるロゴス(理・言表)は単に知ることに対してだけではなく、人生に対してもこのうえなく有益である。というのも真なるロゴスはエルゴン(今・ここの働き)に共鳴和合することによって信用されるからである。それ故にロゴスは、理解する者たちに対して、ロゴス自らに即して生きることを促すからである」(EN.X1.1172b3-8)。このロゴスとエルゴンの共軛、共鳴和合こそが実践的効力を持つ。知性なき欲求は盲目であり、欲求なき知性は無力である。
カントならこの命題を自らの意欲の主観的原則である行為の格率を意欲の客観的原則である道徳法則に即するよう促すと翻訳するであろう。このロゴスとエルゴンの相補性が道徳法則の超越論的性格と実践的な確証を与える。ロゴスはエルゴンにより信用される。AIは人工物にすぎず、神の子は身体を抱える者として受肉し、人間の「心は燃えても、肉は弱い」(Mak.14:38)その身体を抱えた霊的存在者の現実を熟知し、愛し共に苦しんだことが報告されている。「身体の贖い」(Rom.8:23)の欲求を持ちえないAIの認知的な教示は身体の弱さを知る全知者の救いの教えとは信頼度において異なるものとなろう。AIを信用するのは、或る領域におけることとなるであろう、たとえその領域が広範であるにしても、情報処理はあっても共感、憐みなき相手であることを受け手は常に確認する必要があることになろう。ルカもナザレのイエスについて、「彼は神とその民族すべてに面してエルゴンとロゴスにおいて力ある預言者となった」と報告している(Luk.24:19)。ロゴスとエルゴンの統一理論こそ求められている。
なお、気候変動等人類の不都合な真実に目をつぶり見て見ぬふりをすることがあるように、人類は、それがたとえ万人に妥当する普遍的な真理であったとしても、その真なる理を拒否することはありうることである。端的に真理を拒否する自己欺瞞、偽りとともに、長期的には壊滅、自己破壊をもたらすことを何らか知りつつ短期的な利益の故に目先の快を選択することは個人として十分にありうることである。これも理論と実践、ロゴスとエルゴンが分離されたものとして受け止められることに起因する。その首尾一貫のなさは言っていることとやっていることの異なる偽りや偽善として論難されるところのものである。
これに関しては「目には目」の同害報復のように、法に触れるものは、法にて審判される。道徳的次元に留まるなら、善悪因果応報のつまり自らの責任ある行為の果実は「跳ね返りの法則」とでも言うべきものが適用される限り、やはり正義が遂行されることになろう。少なくとも善悪因果応報の真理性が論証される限り、知りつつ真理を拒否することに抑止力となり、真理に即することへの積極的動機付けになることであろう。善悪因果応報が何等か適用される限り、悪に留まるとすれば、偽りの悪しき果実を甘受することになるからである。ただし、「目には目を」は原理的に報復の循環を阻止できない。
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その三
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その三 (「方舟」64号に掲載したものの録音公開にあわせた章節の掲載ですが、録音では解説を加えながらの収録です)。
2024年2月21日
第二章 倫理学の三つの特徴―心魂の実力の学としての態勢の倫理学―
二・一 倫理学の持つ普遍的次元
山上の説教は「天の父」に眼差しを向けさせる疑いもなく宗教的教説であるが、信じる信じない以前に、善人悪人以前に天の父の憐みを語りかける普遍的に人間一般に適用される教えとして倫理的次元を持つと思われる。福音の宣教のなかから、そのベースにある彼の基本的な行為原則を摘出したい。
倫理学は「ひとはいかに生きるべきか(pōs biōteon)」、「最も望ましい生は何か(tis hairetatos bios)」、「幸福に値する人生は何か」について問をたててきた。人間が人間である限りに妥当する、普遍的な理解の提示がこの学に求められてきた。富者或いは弱者にのみ、有神論者或いは北半球の住人のみに適用される道徳法則は人の道としての「道徳」或いは「倫理(人格・人柄についての学的理解)」の名に値しない。人としての道徳或いは倫理は人生の基本的な教えとしてあらゆる行為に浸透しうるまたそこからあらゆる営みが遂行されるべき生の在り方、生の指針を人間本性の理解のもとに提示することが求められている。ひとは単に或る会員や民族の規則ではなく、普遍的な人生の規範と幸福を求めるそのような理性を備えた存在者だからである。或いは、人は誰もが他者に囲まれているが、そこに共通する対話や交流の足掛かりを必要としているからであると、或いは誰もが、その発動は各人異なるが「良心」を持つからであると言うこともできよう。
山上の説教は信じる者にも信じない者にも妥当する一つの倫理学説として普遍的に取り組むことのできる言葉の層を自ら保持していると思われる。代表的な哲学者たちの倫理学の三つの特徴を挙げて、この道の教えを諸倫理学説との対話のなかで、その教えの共通性や独自な特徴を浮き彫りにしつつ、一つの倫理学説として捉えることを試みる。それは単なる宗教的、神学的主張の提示ではなく、イエスの天と地の連続性の議論を理性の明晰性のもと普遍的な次元で捉る試みである。そのうえで倫理的次元の解明の助けを得て、福音がいかにその道徳的次元を内側から破る仕方で現出するか、その現場をとらえたい。
この試みは読者に緊張を強いることになろう。山上の説教は「天の父」や「天国」、「地獄」等への言及がなされ、「染みや虫が喰いそしてそこは泥棒たちが忍び込む」不十全な世界から完全な天国をめざすことが人生であるという認識が提示され、これは一般的な観察経験の外にある宗教的教説であり、信じることにより受容すべきことがらであると思われるからである(Mat.6:19)。この説教はせいぜい「神学的倫理学」、「倫理神学」のもとに分析されるべきであると思われるので、この事態は倫理学一般の理解の説明を要求するであろう。
まず倫理学が何を対象とし、どのような議論を展開しているかを三つの特徴に即し概説し、倫理学的地平を確認する。そのとき、偏見が除かれ、双方からの歩みよりを確認できるであろう。それによりイエスの教えを信じる者にも信じない者にも議論でき、共有できる一つの倫理学説として捉えることができると思われる。人間は宗教的人間(homo religiosus)であると同時に理知的人間(homo sapiens)でもあり、人間の本性に深く関わる山上の説教についての倫理学的次元での分析はイエスの言葉と行いの理解に裨益するところ大きいことであろう。倫理学は「いかに生きるべきか」の問のもとに思考が展開されるが、この当為「べき」の規範性は生きる力、即ち単に理論的な次元でそれが解明されたとしても、画餅におわるそのようなことがらであり、その理論を生きることそのものに移行させる実践的な効力の問を含意する。信仰が人の生の方向を定め促す実践的な効力を持つこともあろうが、望ましい人生とは何であるのかの理性による明晰な理解もそのような効力を持つことであろう。
この解明に向けて、まずナザレのイエス以前に属するアリストテレスとキリスト教思想のただなかで構築したカントの倫理学説を、時にイエスの対応する教えを引用しつつ確認する。続いて、双方の共通の地平において山上の説教を分析する。とりわけイエスにおける善悪因果応報ならびに互恵性の教えを考察する。イエスの他の言葉を参照することにより、教え全体の整合性の確認をその都度おこなう。さらに天と地の連続性の教えをめぐって、光の透明性がもたらす明晰性の思考実験のもとで、その都度、最善の行為選択肢が明らかである状況を考察する。イエスの教えは、自らの自覚として、一方で、神学的次元において、神のみ旨・み心の開示であり、それは神的視点からの人間の本性を明らかにしているが、他方、倫理学的次元において理性の普遍的な理解に訴えるものとして人間の取るべき最善の行為選択肢、歩むべき道の考察を促している。彼は黄金律において先行行為主体のひたすらなる善意こそが祝福された預言者的な生であるとする。その論拠を考察する。
二・二 目的論的な生における「習慣づけ」による心の態勢と働き
ここでは「倫理学」の特徴としてこの学を体系的に構築したアリストテレスに従い三点を挙げ、順に論じる。それらは第一に一つの学的な営みを形成する視点と射程、第二に行為形成に関わる知識と欲求の関係およびその背後にある普遍的な理論(ロゴス)と個々の行為(エルゴン)を動機づける実践的効力の関係、そして第三に人間にとって最高善とされる幸福を形成するものの三つである。
「倫理学」の視点として、ここでは、『ニコマコス倫理学』をとりあげ、ものごとの真偽をめぐる人間の知性的・認知的な働きそしてものごとの善悪をめぐる人間の倫理的・人格的な働きについて、「エートス(習慣づけられた態勢)」と呼ばれ人間の心魂に蓄積される態勢、実力とその働きに考察を向ける[i]。ここで「態勢(hexis)」とは「それに即しわれらがパトス[感情や欲求等身体の受動的な反応]に対し善く或いは悪くあるところのもの」である(EN.II5.1105b25)。例えば「怒ることに対して、かたや激しく或いは他方散漫に怒るならわれらは悪くあるが、もし中庸に(mesōs)怒るなら、善くある」(b26f)。パトスとその感受力能は「自然本性により(phusei)」(1106a9)生じるものであるが故に、人はそのこと自体により善人とか悪人とか、称賛や非難を受けることはない。
他方、徳は「われら次第」の責任を伴う行為の選択をめぐる心魂の或る態勢、実力である(III5.1113b9)。「選択の原理は欲求そして何かのため[目的]の理である。それ故に、[目的の理に関わる]叡知および思考なしに、さらに[欲求に関わる]人格的態勢なしに選択は存在しない。というのも善い行為とその反対の行為は思考と人柄(tū ethūs)なしにはないからである」(VI2.1139a32-34)。従って、それら自然的に生起するものに対する対応力として習慣づけられる心魂の態勢に徳や悪徳が属することになる。「快と苦[パトス]は態勢の徴である」とも「行為は態勢の徴である」とも呼ばれ、人の行為はその態勢に即して実力通りに発現するないし演じられるという意味において、心魂の働き全体がこの学の考察対象となる(EN.II4.1104b3,Rhet.I9,1367b31)。これは実際人間のあらゆる営み、行為を包括するように思える。というのも、人はそれまで培った態勢のもとに何らか認識や印象をもち、判断し、行為を遂行しており、意見や判断には真偽や善悪の信念が伴い(hepetai pistis)、その信念には納得が伴い、その納得には理(ロゴス)が伴っているからである。信なしに意見や判断はなく、納得や承認なしに信はなく、理とそれに基づく説明なしに納得や理解、知識はない(De An,III3.428a21f)。
イエスはこれらの魂の態勢と行為ないし感情の分析に同意すると思われる。イエスは言う、「善い人は善いものをいれた心の倉から善いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」(Luk.6:45)。道徳を成立させるものとして行為者はそれぞれの心の実力としての態勢を持ち、その態勢に応じて善か悪を行為するという共通性を持つ。彼は悪の跳ね返りについて言う、「口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚す。・・すべて口に入るものは、腹を通って外に出される・・しかし、口から出てくるものは、心から出てくるので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、淫行、盗み、偽証、悪口などは心から出てくるからである。これが人を汚す」(Mat.15:11-20)。心からでてくるこれらの悪行は瞬時に跳ね返り心を汚す。これは心の態勢の一つの指標として捉えることができる。
イエスは望ましい態勢についても言う、「天国のことを学んだ者は皆自らの倉[心に蓄積された態勢]から古いものと新しいものを自由に取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:51)。ここで「倉」とは各自の心魂を表しており、真偽に関わる認知的態勢・実力、善悪に関わる人格的態勢・実力がそこに蓄えられる。様々なものが例えば古い契約の律法や預言そして新しい新約の福音も蓄えられており、主人はそのつど適切な対応を選択すべく、最善の行為選択肢を実現する自らの力能を自由に用いることができる
このようにパトスや行為は心魂の態勢を開示するものとして普遍的であると言える。とはいえ、五感や感情、欲求がもつ身体の感受的力能とその発現、働きについての観察を通じた定量的な分析は、生理学等自然科学的分析に委ねられる。感覚や記憶そして経験さらには学習に基づきひとはものごとの真偽と善悪を判断しており、これも一つの心的行為であるが、行為を構成しているもの、動機づける心魂の態勢に倫理学は関心をむける。
かくして、ものごとの真理と善にかかわる卓越した心魂の態勢、実力は「徳」と呼ばれるが、倫理学は概して善き心魂の態勢である人格徳の視点からの心魂の認知的、人格的な営みをめぐって理論的な理解を形成する。
実際、アリストテレスは「エーティケー」とは「エトス(習慣、生活流儀、人柄)」また「エートス(習慣づけられた態勢、人柄、人格)」の学であるとして、こう語る。
「実際、徳・卓越性は二種類あり、それは認知的な徳(dianoētikē)と人格(倫理)的な徳(ēthikē)である。一方、認知的なものの大半は教示に基づきその生成と成長とを持つ。それ故にそれは経験と時間を必要とする。他方、人格(倫理)的な徳は習慣に基づき(ex ethūs)優れたものとなる(periginetai)が、この名称「人格(倫理)的徳(エーティケー)」も「習慣・人格的習性(tū ethūs エトス)」から少し変化して得たものである。そこから明らかに、人格的徳のいかなるものも自然本性上(phusei生得的に)われらに生起することはない。というのも、自然本性上存するもののいかなるものも現状とは別の仕方で習慣づけられることはないからである。例えば、石は自然本性上、下方に運ばれており、上方に運ばれるよう習慣づけられることはない。
・・かくして、これらの徳は自然本性上も自然に反しても生起するのではなく、かたやわれらがそれらを受容するべく生まれついてしまっており、他方、習慣づけを介して完全な者たち(teleiūmenois)になる。なお、われらに自然本性上備わるかぎりのものどもに関して、これらの力能をより先に与えられており、後にこれらを実働にもたらす。・・[生得的な知覚とは「逆に」]われらは先行して実働することによって徳を獲得する、まさに別の技術においても同様であるように。・・家を建てることにより建築家になり、キタラを奏することによりキタラ奏者になる。このように、われらは正義を行うことにより正しい者となり、節制することにより節制者となり、勇敢であることにより勇敢な者となる。だが諸ポリスにおいて生じていることもこの証となる。立法者たちは市民たちを習慣づけることによって善き者とする、あらゆる立法者の意欲はこれなのである。・・この時点で一言でまとめると、類似の実働に基づき当該の態勢(hai hexeis)が生じてくる。それ故に当該の一定性質の実働(tas energeias poias)を生み出さなければならない。というのもこれらの諸差異に即して態勢が随伴するからである」(EN.II1.1103a14-b23)。
このように人間の心魂の諸力能をめぐり、訓練と習慣づけにより最終的には人格的に有徳者となり、カトリックにおいては「聖人」となる。これが、五感のような生得的諸力能とは異なる、訓練や習慣づけにより生じる優れた態勢としての徳倫理学の根幹を形成する。ひとは、かつてできなかったことができるようになる、そのような自己の成長や堕落を認める限り、ひとは「君の宝のあるところ、そこに君の心がある」(Mat.6:21)というイエスの主張同様に、大切にしているものに心が向かうという普遍的な法則からなる目的論的な構造のもとに倫理的な次元で生活していることになる。誰もが承認できることとして、イエスは明らかにこの目的論的人生観を前提にしている、或いは共有しうる立場で語っている。
人間が訓練により獲得する人格態勢に対する懐疑が提示されてきた。ルターに代表される人間認識によれば、聖人に至るまでの有徳性の蓄積の可能性を信ぜず、「人間は蛆虫のつまった頭陀袋」であり、右手で為す善行を左手に知らせないことがあるとするなら、神がキリストにあって為し給う奇蹟である。そこでは人々はルターにならい「恩恵のみ」を強調することもあろう。これに対して、ここで直接応答に取り組むことはできないが、「わたしは君たちの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)として人間的な視点をも導入することのあるパウロに即して、神の前と人の前を分節することが許容されている限り、対応は可能である。人間中心的には相対的に独立した行為主体として、「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる中立的な存在である(Rom.6:20-23)。パウロはこの可能存在に対し、「君が君の側で持つ信仰を神の前で持て」と命じることにより、キリストの出来事を自らのそれとして受け止めよと励ます(Rom.14:22)。神の前ではモーセ律法に照らす限り誰もが罪人であり腐臭を放ってもいようが、人間的には人生経験を通じて心魂の成長が見られることが確認されるならば、また立派な人間とそうでない人間がいる限り、その懐疑的主張をも倫理的次元で吟味できるとしておこう[ii]。
[i] 千葉惠『信の哲学』上巻第二章第三節参照p.318-346 (北海道大学出版会 2018)、
千葉惠「アリストテレスの倫理的実在論―ロゴスに自ら即して生きること」「MORALIA」 第29号(東北大学倫理学研究会 2022)参照。
[ii] 『信の哲学』 上巻第三章第三、四節参照。
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二
山上の説教における福音と倫理その二
(「方舟」64号に掲載したものの録音公開にあわせた章節の掲載ですが、録音では解説を加えながらの収録です)。
2024年2月19日
一・三 譬え話
民衆には(3)譬え話が語られるが、それは聴衆には馴染の比喩や事例、物語により構成されており、それらは話者であるイエスがその語りが伝える天国への橋渡し、媒介者であることへの信頼に導くことが目指されている。それは結果的に信頼関係が醸成されない者たちは去っていくことをも含意する。
天と地を繋げるよう語りかつ働くイエス自身への信頼なしには、表面的に理解はしても承認し受け止めることのできないそのような類の言葉が展開されている。一方で、信じる者にも信じない者にも理解できる言葉の層があり、これを無視してはイエスの言葉をも理解できない。他方、彼の言葉は一対一の信頼関係においてのみ自らに語り掛けられているその独自の言葉として人格的に働くそのような状況を引き起こすものである。なぜなら、これは媒介者であるイエス自身を信じることなしには、決して彼の語る天がリアルなものとなることはないそのようなものだからである。
譬えはそれを聞く者の態度いかんにより理解されまた理解されないものである。E.Schweizerはドイツにおける譬え研究をまとめてこう語る。「イエスの譬えは教育的ないし倫理的な呼びかけをなす命題に還元されうるものではなく、自分が今やそれを理解し内的に習得することに満足すれば譬えの方はなくてもよい、というものではない」[i]。
譬えは一般的な真理や教訓を例証するものではないという考えは、話者と聴衆の一対一の関係を形成するものという理解に導く。「パン種の譬え」は家の台所をあずかる婦人たちの生活の基本であり日常繰り返していることに他ならず、イエスが自らに近づいているのに気づく。「神の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に隠した。すると全体が発酵するまでになった」(Luk.13:21,Mat.13:33-34)。イエスはそこで「三サトンの粉」という日常的でない二十五キロもの大量の粉に言及する。彼女たちは生活の基本を知らない男たちに、呆れつつ「一体どうやってこれを調理台の上で、或いは外に出てテントの前で本当にこねろと言うのだろうか。食べるのにいつまでもかかって、パンがみな固くなってしまうだろうに」と思案する。シュヴァイツァーは言う、「譬えを理解することができるのは、譬えによって自ら、そこで語られている物語へと引き込まれていくときだけなのだ、ということである。譬えはただ「その内側から」のみ理解することができる」[ii]。そこから、毎日酵母菌があんなに膨らんでいくのを見ている婦人たちのなかに天国とは大宴会が開かれる所なのか或いはそれほど生命力に満ちているのかという印象を醸成する。この連続と不連続に訝しがることが物語に引き込まれるということの一例であろう。譬えはこうして一人一人の反応を引き起こす。
二一世紀に生きる者にも同様でありもはや肉声と肉眼の現場にいることはできないが、伝承されている譬え話を今・ここで聞く。「種蒔きの譬え」において、イエスは茨や荒れ地に蒔かれた種との比較において、善き地に落ちた種は数十倍の実りをもたらすと語った。「善い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」(Mac.4:20)。主観的にはどんなに自らの成育環境が殺伐とし、不毛に思えても、自らが善き土地であり、善き環境のもとに蒔かれたことを信じることなしに、成長し豊かな人生をもたらすことはできない。
この譬えも躓きを含意しており、種蒔く人の意向により、荒地や茨の地そして善き地に蒔かれており、種蒔く人は不公平ではないかと訝しがる。ここで「善き地」とは神に憐みをかけられた地である以外になく、自ら荒地ではなく善き地であるという信のみが善き果実をもたらすことを知らされる。譬えを介して語られる天国とその語り手への信頼、信仰により受け止めるときだけ、自らの人生が展開し、肯定的な果実を生み出し、ひいては天国はパン種により発酵し膨らんでゆくそのような生命力溢れる世界であり、そこに入れていただくという希望が湧いてくる。これが真実か否か個々人に決断を迫られている。譬え話が持つ、悔い改めと新生をもたらす言葉の力とはそのような個々人における承認への切迫性である。二千年前十二人で始まったこの運動が今・ここでプラスワンの実りをもたらすかという切迫性をもって語り掛けられる。
この世界の悪、不十全性の故に、イエスは自らについて沈黙することがある。彼の使命遂行の途上においては、明らかにされないものごとがある。これは聖書学でW.Wrede以来「メシヤの秘密」と呼ばれていることに関わる。イエスは自らを「人の子」として語り、媒介の働きにおいてまことの人であることを強調し自己限定している。イエスは彼の公生涯においてメシヤと看做されることを肯わず、周囲に厳しくそう理解しないよう戒めていたという問題である。確かなことは、O.Cullmannにより説得的に論じられているように、荒野の誘惑やペテロによるメシヤであることの告白、ピラトやカヤパの尋問に対する彼の応答「それはあなたが言っていることです」に見られるように、彼はユダヤ人の政治的メシヤとなり政治的王国を建築する者と看做されることを拒否したことである(Mat.4:8-10,26:64,27:11-14,Mk.8:27,33)。クルマンはこう纏めている。「(a)イエスは称号「メシヤ」に対して極度の留保を示した。(b)彼は実際その称号をサタンの誘惑と結び付けられた特殊な観念であると看做した。(c)決定的な諸箇所で彼は「メシヤ」の代わりに「人の子」を用いたそして一方を他方と或る対立のうちに置くことさえした。(d)彼は意図的にユダヤ人のメシヤの政治的概念形成に対抗してebed Yahweh[「神の僕」:「ebedは苦しんでいる神の僕である」p.55]に関連する諸観念を据えた。これらすべての点はイエスがローマ人によって政治的メシヤとして処刑された事実の皮肉を示している」[iii]。
イエスが「メシヤ」という呼称の政治的含意に注意を払っていたことは明らかである。実際、弟子たちの逃亡は単に連累への恐れということではなくイエスに政治的メシヤを期待していたことによっても説明されよう。「わが王国はこの世界に基づいていない」(John.18:36)。
明らかなことに、神の計画がユダヤ人による政治的支配の実現をイエスに託していたとすれば、これはすべての国民に告げられるべき福音の成就とは全く異なるものとなる。イエスは自らがユダヤ人の王を目指していると誤解されることは決して認めがたいことであったであろう。それ故にこそ、多義的でもある「メシヤ」の語用を避けたのだと思われる。
それとの対比において、大祭司の「お前は神の子、メシヤか」との政治的支配者の意味での確定をもくろむ追及に対し、イエスは彼らに「人の子」と自らを呼び、ダニエルの預言が自らに適用されると公言し、(1)自己言及として引用する。「あなたたちはやがて人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗ってくるのを見る」(Mat.26:63-64,Luk.22:66-71,Dan.7:13)。所謂メシヤの秘密はイエスの自己意識の変化という類のものではなく、彼は受肉した神の子として政治的メシヤへの誘惑を受けまたゲッセマネの苦闘の祈り等に見られるように、神の意志を一つ一つ実現していった。
重要なことは、イエスはイスラエルの歴史と自らが実現しつつある信に基づく神の国の福音を競合させることは決してないことである。神は永遠の相のもとに自らの意志をイスラエルおよび人類において実現させる自らの歴史の展開において、まず一つの民族を自らの民として選び律法を与え具体的な歴史を介して鍛錬し、自らの理解する正義と罪を明確に知らしめている。イエスはその計画に即しモーセ律法が「一点一画」たりとも廃棄されることはないという尊敬を貫きつつ、彼に託された神の国の福音の成就をめざし、神の意志を遂行する。その途上の歩みと成就を福音書は報告している。かくして、イエスは古い葡萄酒と新しい葡萄酒双方の保全を自らの使命とした。それは信の従順により純化されたモーセ律法を充たすことにより遂行された。事の成就を受けてのパウロは「信の律法」と「業の律法」の二つの啓示を前提に双方を秩序づけた(Rom.3:27)。
一・四 イエスの言葉の普遍的理解
イエスの宣教の言葉は誰もが理解できる言葉であるに相違ない。さもなければ、何も伝えることも導くことも生起しない。イエスの天の父のみ旨を伝えようとする言葉はこの連続と不連続の感覚、居心地の悪さ或いは躓きを聴衆の意味理解において引き起こす。しかし、語り手であるイエス自身の言行にこそ天の消息が見いだされること、即ち彼が実は(1)自らを伝達していたことを理解するとき、ひとはのっぴきならない態度決定の前に立たされていることに気づく。(1)自己言及と(3)譬えの判別において、イエスは持つ者と持たざるものを識別していた。そこで「持っている者」が「誰であれ」と語られており、この対比は奥義の知識が授けられている弟子たちに限定されてはいない。天と地の連続性とその憐みの充溢を受け取っている者は「誰であれ」さらに善きものを受け取る。他方、心頑なで信じない者は持っているものも取り去られると語られる。両者は憐みのもとにあるか否かで判別され、憐みへの信なしには譬えを正しく理解することはできない。
天と地がある限り、そしてイエスが媒介者である限り、常に彼の言葉と働きは躓きでもあろうが、人間の数々の行為のなかで「欲すること」と「行為すること」が同時でありうる心魂の根底に生起する信のみがこれを乗り越えることができる。例えば、国家の指導者になりたいという欲求と指導者として働くことには時間差があるが、信じることは同時でありうるものである。このことは信が心魂の根源的行為であることを示している。
確かに、何であれ誰かの語りを理解することに程度の差異が生起する。「語られている物語へと引き込まれていくときだけ」とシュヴァイツァーにより注解されるが、自らの経験に照らし合わせて、パン作りの譬えを通じて天国を理解する者もいれば、ただ言葉として言われていることを理解する者もいよう。この譬えを信じイエスについていこうとする者もいれば、不条理として拒絶する者もいよう。この彼の譬えや語り掛けを真実として受け止めるか否かが、あの溢れる生命力のなかでの発話がもたらす切迫性である。
他方、物語に引き込まれていようがいまいが、最低限の理解は承認するにも拒絶するにも双方のあいだで成立しているものでなければならない。それは言葉が持つ普遍性への信頼なしには言語の学習も伝達もあり得ないからである。イエスの生涯を踏まえて、イエスがキリストであることを宣教するパウロの立場からキリストについての宣教が始まる際の聴き手と語り手の関係を確認することができる。「それでは、信じることのなかったその方にいかにひとびとは呼びかけるであろうか。聞くことのなかったその方をいかに彼らは信じるであろうか。しかし、宣教する者なしにいかに彼らは聞くのであろうか」(Rom.11:14)。この聞くことを介して誰にも共有される語句の意味を理解する段階があり、そのゴールは、「わたしは君たちのうちにキリストが形づくられるまで産みの苦しみをなす」(Gal.4:19)と語られるように、キリストが宣教の聴き手のただなかに実働することである。単なる情報の伝達ではない、言葉とその意味理解の伝達が遂行されている。不連続の認識は聞く側の不十全性、罪による、即ち語る媒介者への信においてないことを含意している。福音はその信によってのみ正しく理解されるそのような言葉である。
この最低限の普遍的な理解の企てが山上の説教を倫理的教説として読むことを可能にする。信じる者も信じない者も同様に理解できるその普遍性において倫理学は構築される。福音はわれらの外に明確に立てられていることであろう。しかしその承認或いは拒絶はその明確な理解のもとになされる備えを必要としている。これが福音と倫理の関係である。
このことはキリスト以前の例えばアリストテレスの有徳性の理解と比較することを可能にする。なによりも、天の父の憐み深さが自然を介して示されている。「茨から葡萄が、アザミからイチジクが採れるだろうか」とイエスが言うように、「ヒトがヒトを生む」複製機構の安定性はアリストテレスによれば「最も自然的なものごと」であるが、イエスにおいても憐み深い自然の創造者である神の産物として太陽や雨と同様に自然の恵みに数えられる(Mat.7:16,Aristoteles, De Anima, II4.)。春になると花々が芽吹き、蜜蜂がやってくる、この秩序ある自然の循環が恩恵であるように、ひとは外に自己完結的に明確に立てられた福音の故に、それが神の憐みの現れであると信じ、信に基づく正義・義を受け取り、その義の果実としての愛に向かう。その愛の不十全性に悔い改め、また神の憐みに立ち返る。この望むらくは螺旋的深化をもたらす循環こそ中心に恩恵が立っているから生起するものである。倫理学はその中心への志向を括弧にいれつつ、周辺を循環することの基礎となる理解を展開する普遍の言葉である。
[i] E.シュヴァイツァー『イエス・神の譬え』山内一郎監修辻学訳p.51f(教文館1997)
[ii] 同掲書 p.56
[iii] O.Cullmann, The Christology of the New Testament, p.126 (London 1959)
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その一
春の連続聖書講義として「方舟」64号に掲載した「山上の説教における福音と倫理」を何回かにわけて、それも解説を加えながら公開いたします。そのつど録音された文章をその都度掲載します。
山上の説教における福音と倫理 (その一
千葉 惠 2024年2月16日
「イエスは、毎日、宮で教えていた。祭司長や律法学者、民衆の指導者たちは彼を殺そうと謀ったが、どうすべきか術を見出さなかった。というのも、すべての民衆が彼に群がって聞いていたからである」(Luk.19:47-48)。
「パウロはアゴラで、毎日、居合わせた人々と議論した。また或るエピキュロス派やストア派の哲学者たちが彼と議論した」(Act.17:17-18)。
「人間にとっての最大の善は、毎日、徳についてまた他のものごとについて議論を交わすことである、それらについて君たちは私が自分と他人を吟味しているのを、また吟味なき生は生きるに値しないと問答するのを聞いてきた」(プラトン『ソクラテスの弁明』38a)。
序
本稿においてナザレのイエスの山上の説教(「マタイ福音書」五―七章)を秩序ある仕方で理解したい。イエスはそこで普遍的な倫理学の析出を可能とする一般的な人間事象の認識を述べている。「君が量る量りで量られる」や「木は実によって知られる」などの心魂の態勢と行為のあいだの法則的な命題は善悪因果応報の跳ね返りの法則とでも言うべきものを導出させ、他の倫理学説との対話を可能にさせる。それにより、信じられるべきものである或いは信によってしか与(あずか)ることのできない「福音」は普遍的に了解可能な自然事象および人間事象のなかで心魂の根源として他の一切の営みを秩序づけるものであることを明らかにしたい。最初にイエスの語りが「福音」のもと四つの種類に秩序ある仕方で分類される複層的なものであることを確認する。続いて、倫理学の特徴を三つあげ、イエスの語りにも対応するものを見出すことができることを指摘し、倫理学との対話を試みそして人間事象の学問的な視野のもとで彼の山上の説教を分析したい。
旧約から新約への橋渡しとなる象徴的な説教群が山上の説教として編集されている。山上の説教はユダヤ教の律法を純化したものとして最も厳しい律法が展開されていると思われるが、それが実はまず福音の宣教であり、純化された律法が福音にいかに秩序づけられることにより遵守する実践的効力を得るにいたるかを伝えている。イエスはこの橋渡しを、奇蹟にも聖霊の付与にも訴えることなく、あまりの直截さと端的性の故にひとには躓づきを与えるが、誰もが少なくとも文字的意味を理解できる言葉のみにより伝えている。この説教をそのまま自ら実践し、旧約の古い革袋を自ずと内側から破り、福音の新しい革袋に喜びと平安そして生命を注いでおり、それによって律法が遵守可能であることを身をもって証している。
無償の「贈りもの」である罪の赦しの「福音」は天の父である神とその子イエスの協同作業として自己完結的に実現されている(Rom.3:24)。新約聖書において報告されているイエスの言葉の核である「福音」はその生涯の途上においても受難と復活においても福音の自己完結性のゆえに自己言及的なものであり、八つの祝福そしてモーセ律法の純化、先鋭化双方ともにイエスの言行において十全に理解されるものとなる。すなわち、彼は(旧約)聖書へのひたすらなる尊敬において自らの生を作り上げるが、預言と律法は彼を指示しまた彼において成就されるものであり、「聖書全体」がそれ故に人類の歴史全体がイエスとの関連において理解されるものとなっている(Luk.24:27)。「家を建てる者が退けた石が隅の親石となった」その内実を倫理学との対話を通じて普遍的な仕方で確認する(Ps.118:22,Luk.20:17)。
第一章 イエスの語りの複層性
一・一 「福音」の宣教と自己言及
ナザレのイエスは「彼に群がって聞き」にくる群衆にエルサレムの神殿やシナゴーグにおいてそしてガリラヤの野原や山上において何を語り、何を教えていたのであろうか。彼はアブラハムやイサク、ヤコブのイスラエルの族長たちに導かれた歴史の帰趨について、そして神のみ旨・み心(thelēma)は、モーセに啓示された律法を介して知らされていることまたイザヤやヨナ等の預言者たちの働きを介して知らされていることを語り教えた。彼は時空の外にいて天地を創造し、永遠の現在のもとに一切を知っている全知全能の「天の父」とそのみ旨について語った(Ps.139)。彼は天の父のみ旨を知っておりそれを教えようとした(ただし、終わりの時を除く(Mak.13:32))。彼は「天の父のみ旨を行う者が天国に入れていただく」ことを直截に語った(Mat.7:21)。彼は律法と預言者を通じて聖書に伝えられる神のみ旨・意志は自らの受難と復活において実現されると語り、神の国の福音の内実は自ら自身のことであると教えた。「祝福されている、君たちの目と耳は、というのも君たちの目は見ておりまた耳は聞いているからだ。まことに私は君たちに言う、多くの預言者や義人は君たちが見ているものを見たかったが見ることができず、君たちが聞いていることを聞きたかったが聞けなかった」(Mat.13:17)。
イエスがユダヤ教の改革者として始めた宣教活動は福音・善き音信、即ち神の国の救いを伝えるものであった。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」(Mak.1:14-15)。イエスは聖書に即し福音を「イスラエルの失われた羊たち」に伝えることにより宣教活動を始めたが、彼は人々の信に出会い、その根源性の故に異邦人に対しても伝えたことが報告されている(Mat.15:21-28)。福音は自らを介して実現されるものであり、「福音」はパウロによれば、「信じる[と神が看做す]者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:4)。聴衆には悔い改めてこの新しい教えを信じるように促した。それが彼の短い宣教活動の内実であるが、その前提にイエスは聴衆が神のみ旨を知ることができそしてそれをなんらか遂行できると考えていた。
イエスの語りは複層的であり、概して四種類に分類されよう。(1)宣教する者と宣教される者が同一であることに基づき自己言及的に語られる。(2)神の憐みは天と地の連続的なものとして光や野の百合空の鳥など自然事象の比喩を介して語られる。(3)天と地の不連続性は人間事象の不十全性、悪や罪に由来するが、地上のものごとの譬え話によりまた歴史の帰趨をめぐる自らの預言や警告、叱責により架橋が試みられる。(4)自然事象、人間事象についての一般的法則が語られるが、この次元での発言が主に福音を一般的に支える倫理的な法則性を導出させる。
福音書が報告するイエスの言葉の(1)自己言及が極めて特徴的である。神の国の福音を宣教しつつ、その媒介者である自らを語る。彼の言動そのものに神の国が何らか今・ここに現在しているそのようなものがこの自己言及である。聖書への尊敬のなかで聖書に基づく歴史の帰趨が自らに結実するその認識が語られている。「聖書全体」がイエスを預言しまたイエスにおいて成就されそしてイエスを介して理解可能なものになるとイエス自身により発言されている。
イエスはガリラヤの野辺においては信の従順の生涯の途上にある。彼はまことの人として(旧約)聖書に記されていることに基づき、神のみ旨を忖度し自らの生を最善の行為選択肢の認知と実践においてその都度構築していった。イエスは自らの生涯が聖書に即したものであるとともに、その預言と律法の成就であるという自己認識のもとに一挙手一投足を歴史に刻んでいた。聖書全体が新しく福音のもとに位置づけられる。この福音の言葉の自己言及性は福音の事象が神とイエスの協同作業であり、自己完結的なものであることに基礎づけられる。パウロが「福音に[君たちと]共に与るために、福音のためにわたしはいかなることをも為す」と語るとき、信じる者に救いをもたらす福音とは何かひとにより与(あずか)られるものであり、福音それ自身は自己完結的なものであることを含意している(1Cor.9:23,cf.1:11)。ひとは自己完結的なものに対しては、例えば修繕の要のない完璧な家があり提供されるとして、受容するか拒否するかのいずれかによってしか関わることができない。その家は清らかで争いも病も死もないと言われ招かれたたとしてひとはどうするであろうか。
福音書に報告されているイエスの言葉には理論的教説の展開は見られない。彼が語る言葉はユダヤ教の伝統のなかで言い伝えられる教説を取り上げ、それを先鋭化したものであり、また自然事象に訴えるものであり、譬え話により具体的に教える。これらはすべて天の父のみ旨がいかなるものであるかを教えるものであると同時に、それは話者であり媒介者であるイエスとの信頼関係の醸成を目的としている。それもすべて心魂の根底における「その通りです、本当です(ita est, verum est)」という承認と同意そして信頼が問われている。その意味ではどこまでもイエスと聴衆者の一対一の関係が基本である。この点について譬え話が著しい役割を発揮する。
イエスは地上の(3)譬え話により天国がどのようなものであるかを語る。イエスは、自ら語る譬えは憐まれていることの自覚のなかで聞き理解する者と聞いてもこの憐みを悟らない者を判別する機能を持つと理解している。同時に譬えは叱責や警告をも発しまた含意しており悔い改めに導く機能を有している。「イエスは弟子たちに言った。「君たちには神の国の奥義が授けられているが、外側のかの者たちにはあらゆるものごとは譬え話のなかで明らかになる」(Mak.4:10)。彼は平行箇所でこう語る、「君たちに天の国の奥義を知ることが授けられているが、かの者たちには授けられていない。というのも、誰であれ(hostis)持っている者は、その者には与えられるであろうそしていや増し与えられるが、誰であれ持っていない者には、持っているものをもその者から取り去られるであろうからである。このことの故に、わたしは彼らに譬えにおいて語る、というのも、彼らは「見るけれども見ず、また聞くけれども聞かずそして理解しない」からである」」(Mat.13:11-13)。
ここで「奥義」とはイエスがメシヤであること、そして復活の勝利により彼の言行の一切が明らかになったときに回顧的に語られている(1)自己完結的な福音への「自己言及」のことが含意されていよう。
イエスは自らの復活のあと、エマオの途上において復活の主とは気づかなかった二人の弟子と共に歩きながら、真の預言者たちについて言う。「「ああ、預言者たちが語ったすべてのことを信じることに至らない、何という、愚かでその心鈍い者たち。キリスト[メシヤ]はこれらの苦しみを忍んでそして栄光に至るはずではなかったのか」。そして、イエスはモーセとすべての預言者から始めて聖書全体において(en pasais tais graphais)、ご自分について書かれていることを説明した」(Luk.24:25-27)。この自己言及は復活の勝利を挙げたからこそ語りうるものであった。そのことは、彼が信の従順の生の途上において天と地の媒介者である預言者と律法について三人称で語っていたものごとについて、イエス自ら言葉と行いにおいて偽りなく実現した後には、自らを指示している或いは自らとの関連において理解されるものとなったことを明らかにしている。
天の父のみ旨を明らかにし語る者は実は自らについて語っている一種の自己言及であったことになるが、このような事態は先ず言葉と行いにおいて偽りのない者においてのみ語りうる言葉であったということである。「わたしについてモーセ律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は必ずすべて実現する」(Luk.24:44)という甦ったのちのイエスの発言は神の子に相応しい言葉であるが、何世紀をもかけて編集された書物が人類の歴史全体を見渡し全体として一人のひとの子にして神の子について記している。言ってみれば、人類の歴史の帰趨はイエス自身への信にかかっていると報告されている。この書物は二千年の歴史の審判を経ているが、おそらく人類史上現在にも後にも他にこのような言語使用を見出すことはできないであろう。
なお福音書記者やパウロは宣教するイエスの言葉と働きを報告することを通じて宣教している。この宣教は間接的であり、種々の事実誤認の可能性は残る(神は人間の弱い言葉を介して伝達されることを許容している、つまり神が許容し認可しなければこのような形でさえ纏められることのなかったであろう書物が「聖書」であり、この意味においてそれは「神の言葉」である)。イエスその人においては自らの使命の認識と遂行のあいだには乖離はないであろう。誰かがたとえそこに乖離がなくとも自己認識つまり神の子として聖書の預言通りの受難と復活を遂げるという自己認識に誤りがある、自己欺瞞であると主張するなら、それは復活によってのみ反駁される。復活は神の専決行為だからであり、イエスに罪がなかったことの証だからである。
甦ったキリストは聖書の預言を自己言及のもとにまとめる。「そして彼らに言った、「キリストは苦しみを受けそして死者たちのなかから三日目に復活する、そして[キリスト]自身の名においてすべての異邦人に罪の赦しへの悔い改めが、エルサレムから始めて、宣教される」と書いてある。君たちはその証人である」(Luk.24:44-48,cf.Act.17:2)。復活については数百人の証人が挙げられている(1Cor.15:6)。一切を創造し統べ治める神から派遣され永遠の生命を与える神の愛の体現者であるイエスの言動に関わる者は、宣教する者と宣教される者が同一人である彼の言葉を真理であると信じ神の子キリストであると受け入れるか否かの態度決定が常に迫られている。そこでは「信じる」の対義語は「信じない」ではなく「裏切る」となるそのようなものである。宇宙を統べ治める父と子の協同作業の外に出ることのできる者は誰もいないからである。これが彼の言葉の根源的な層である。
パウロはこの福音の包括性をこう語る。「もし神がわれらの味方なら、誰がわれらの敵であるか。そもそもご自身の子を惜しまず、われらすべてのために彼を引き渡したその方が、いかに彼と共にあらゆるものをわれらに賜わらないということがあろうか。誰が神に選ばれた者たちを告発するのか。神が義とする方である。誰が罪に定めるのか。キリストは死んだ、いやむしろ甦り、神の右にある方であり、またわれらのために執り成したまう。誰がキリストの愛からわれらを引き離すであろうか。艱難か、災害か、迫害か、飢餓か、裸か、危険か、それとも剣か。まさにこう書いてある、「あなたの故にわれらは終日死に渡されています、われらは屠られる羊として認定されました」。しかし、われらはこれらすべてにおいてわれらを愛する方を介して勝ち得て余りある。というのも、死も生命も天使も支配者も現在あるものも来るべきものも諸力も、高きものも深きものも、他のどんな被造物も、われらの主キリスト・イエスにおける神の愛からわれらを引き離しうるものは何もないとわたしは確信するからである」(Rom.8:31-38)。
偽りの預言者が現れ自らをそう主張したとして、その言動を疑い偽りと判断しそれを信ぜず無視する者は裏切ったことにはならない。そこに愛はないからである。イエスは自ら神の子であると信じ、父のみ旨に従いその言動に偽りがなく各人の罪の赦しのために生涯を捧げた。これを信じるのか裏切るのか。なぜかと言えば、父は自らの専決行為として御子と自らの信義そして愛の証に彼を甦らせたからであり、この大きな物語の外にいる、逃れうる場所を持つ者は誰もいないからである。換言すれば、各人はこの物語の登場人物であり、この物語は信の根源性のもとに語られ展開されており、受け入れない者は不信な者として裏切るそのようなものだからである。それ故にこそ福音とはあらゆる者に宣教されねばならないそのようなものである。「多くの偽預言者があらわれ、多くの者たちを惑わすであろう。不法がはびこる故に、多くの者たちの愛が冷やされるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶその者は救われるであろう。そして御国のこの福音はすべての居住地においてあらゆる異邦人に向けて証言(marturion)として宣べ伝えられるであろう、そして終わりが来る」(Mat.24:12-14)。イエスの福音の言葉はこの根源的な(1)自己言及の層を持ち、人間中心的に人間とその魂を普遍的に考察する倫理学はこの層を持つことはできない。
一・二 天と地の連続と不連続
イエスは天と地の媒介者として神の憐みと祝福を山上の聴衆に伝える。これが彼の(2)天と地の連続性の言葉である。彼は人間としてまた同胞ユダヤ民族として共有しているもののなかに、天の父のみ旨、意志を見出し、それに新たな光をあてる。彼はガリラヤの野辺の百合の花、空の鳥を愛で、生命を育む光や雨そして親子の情愛に見られる自然を介して働いている天の父の憐みと恩恵を語る。「空の鳥をよく見よ。種も蒔かず、刈入れもせず、倉に納めもしない。だが、君たちの天の父は鳥を養ってくださる。君たちは鳥たちよりも一層優れているのではないか」(6:25-26)。
この自然を介した天の父の憐みの宣教のなかでイスラエルの伝統において預言者たちとモーセにより与えられた律法に聴衆の心を向けさせる。彼は、政治的、宗教的圧制、弾圧そして貧困、病などの苦難のなか精神の輝きを失い諦めの思いに支配されていた同胞に、パレスチナの自然と伝統を正面から引き受け聴衆を新たな発見に導く。
天と地の媒介は自然事象や人間事象であり、それを明晰に伝達するのはイエスの言葉である。天と地は天来の光の比喩によりその連続体であることが伝達される。他方、イエスは(3)その不連続にも聴衆の思考を喚起する。一方で「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる」(5:45)その自然の恵みを語りつつも、地は「嵐」や地震などの自然災害に見舞われる(7:27)。一方「君たちの誰がパンを欲しがるおのが子に石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように君たちは悪い者でありながらも、自分の子には善いものを与えることを知っている」のであり、これにより憐み深い父を連想させつつも、他方、地の父は「悪い者であり」虐待し姦淫する者たちである(7:9-11,5:27)。イエスは律法の純化により地上の不十全性を知らせつつ、天に眼差しを向けさせる。「君たちにあっては地上に諸々の宝を積むことがないように、そこには染みや虫が喰いそしてそこには泥棒たちが忍び込みそして盗むところである。しかし、君たちは天に宝を積みなさい、そこには染みも虫も喰うことがなくまた泥棒たちが忍び込むこともまた盗み出すこともない。というのも、君の宝があるところ、そこに君の心もあることになるであろうからである」(6:19-20)。この不十全な悪しき世界にあって、天の父が自然と人々を育み、導いてこられた祝福に思いをよせるように聴衆を導く。連続性は憐みという天来の光により確保され、不連続性は人間の「悪さ」によって生じる。この地上の否定的なものごとに不平を言い煩うのではなく、天の父の憐みに眼差しを向けさせる。
生命の力に息吹く神のみ旨が預言者と律法の純化、先鋭化を通じて、道徳的次元を乗り越え、人間の本来的な在り方としてまた新たな生命の在り処として言葉によって伝えられる。媒介者であるイエス自身が理解されるとき、連続と不連続の緊張は解消する、ただし、あくまでも肉の弱さにおいてある者たちにおける解消であり、常にその媒介者への立ち返りが不可欠となるそのような解消である。山上の説教はイエス自身の生涯を表しており、彼自身において満たされることにより律法から福音への真っ直ぐな道を指し示している。実際八福はすべてイエスの生涯において確認されること、そして純化されたモーセ律法はイエスにおいて実現されたことを確認する。このことは基本的に連続と不連続そして一般的な自然事象、人間事象((2)(3)(4))の言葉において語られる山上の説教も間接的に或いは預言的に(1)自己言及的でありイエス自身を指示していることを含意している。
イエスの四種類の語り
本年度最後の日曜聖書講義です。山上の説教と倫理学がいかに対話可能であるかを模索してきました。福音の語り(宣教する者イエスと宣教される者が同一である自己言及)のもとにいかに憐みや祝福による天と地の連続性の語りそして「悪い者」の故に不連続のなかで譬えや警告により地から天に架橋する語りが秩序づけられるかを吟味します。さらに第四の語りの層としてイエスは善悪因果応報の一般法則を導出することを赦す事例を挙げている。例えば、「君が量るその量りによって量られる」、「木は実によって知られる」そして「宝のあるところ、そこに君の心がある」であるが、これらは一つの倫理的地平を表現しており、福音と道徳的次元がいかにかかわるかを吟味しています。
山上の説教における道徳的次元を内破し確立する福音
「山上の説教における福音と倫理」「方舟」64号を書き上げ、60年かかってようやく福音と律法(道徳的次元)、旧約と新約、イエスとパウロの関係、秩序づけができ安堵しています。春休みに連続講義として掲載いたしますが、今週は「木は実によって知られる」の一般法則の解釈として従来の三種類とは異なる第四の立場を展開しています。
山上の説教は福音である
山上の説教は福音である
2023年12月24日
本年最後の講義です。ようやく山上の説教を福音という視点から読むことができ、パウロともスムーズに関係づけられることを話しました。良いお年を。千葉惠
山上の説教―山のうえにおかれた街は隠されることができない—
山上の説教
「山のうえにおかれた街は隠されることができない」
(録音は基本的に以下の文章の朗読ですが、全体が以下の文章において改善されています。文章において補っていただければ幸甚です)。
はじめに—自然と信仰の循環を可能にする確かさ—
この夏の異常な暑さ、そしてアドヴェントの冬のひきしまった寒さの日々。歳月の移ろいのなかで四季は巡りゆく。この確かな自然法則のもとにあることの恩恵、自然の循環の恩恵を思う。それと同様に、神のキリストを介した憐み、神にはわれら一人一人が独子をたまうほどに値高き者と認識されていることの憐み、これがひとを動かし、そこに信仰生活の循環を引き起こす。神の憐みへの信仰そして信仰に基づく正義・義、さらに義の果実としての愛へさらにはその愛の不十全性の自覚のもとに悔い改め、神の憐みに立ち戻る。この信仰生活の循環も確かなものが明確に中心にあるからこそ、望むらくは中心をめぐり螺旋的に深化しつつ、繰り返すことができる。神の憐みの先行性こそ、恩恵に他ならない。
一、山上の説教の主題—天の父のみ旨—
ナザレのイエスによる山上の説教は広くは「いかに生きるべきか(pōs biōteon)」(アリストテレス)という倫理学の問への限界的な生の描写として人類がもちえた最も理想的な道徳的生として今日に伝えられてきた。この説教の故に、ひとは或いは遵守の困難さにまた現実生活との折り合いのつかなさに絶望や無視のうちにうちすごしてきた。或いは、ひとはこの印象の強い一群の言葉を記憶に留め廃棄せず受け止めて来たという事実、誰かにより語られねばならなかったものの喜ばしき伝承において、人類に絶望しない証と捉えられた。この究極の道徳を説き、信の従順の故に自らその教えを生き抜いた人がひとりおり、そこに偽りがなかったからこそ「権威」(Mat.7:29)があったと報告されている。この人は人間本性、人間とは何かの理解をめぐり、父のみ旨の行使を介してその報いとして「天の父の子となる」(5:45)ことを教えた。
このあまりの尋常ならざる教えに、或る人は純化された律法の遵守が目的ではなく、遵守困難さを知らしめ福音に追いやる機能を持つ、或いは心情において善い意志を持つ限り、果実がなくとも善い木であり、その善意志だけが問われていると解し、また或る人は終末が切迫したなかで、倫理的にこの世に別れを告げ完全な妥協のない新時代への備えと解されてきた(H ヴェーダー『山上の説教』序章参照(日本キリスト教団出版局 2007)。
ナザレのイエスは、しかしながら、揺るぎのない仕方で、文字通りのことを意味しつつ、基本的に実行可能なものとして語り、自らそれを生き抜いた思われる。さもなければ、彼は聴衆に不可能なことを要求し苦しめるだけの教説を説くこととなり、彼の偽りのない憐み深い生と相容れない。
彼はこの説教において聴衆の置かれた圧制、貧困、病、無学等の現状を正面から引き受け、宗教的、神学的な用語をほとんど用いず、奇蹟の執行も聖霊への言及もなく、道徳的次元を共有しつつ、福音を指し示す。彼は、対人論法により、天と地の媒介者として日常経験することによりイメージ喚起力の強い光や雨、野の百合空の鳥のような自然事象、そして自らの言葉を媒介として天と地の連続性を神の憐れみのもとに明らかにしていく。
イエスは、光の透明性のなかで、天と地は薄い皮膜一枚に隔てられているように捉えており、その隔ての被膜そのものが光のゆえに透明にされ、連続的な天と地を隠れなき光のもとに捉え直す。「君たちは世の光である。山の上におかれた街は隠されることができない。・・このように君たちの光を人々の前に輝かせなさい、それは人々が君たちの良い働きを見て、君たちの天の父を崇めるようになるためである」(5:14-16)。彼はその透明な光のなかで、王であれ無一物であれこの世のいかなるものにも満たされないその霊によって貧し者、その心によって清らかな者、義に飢え渇く預言者的な生を純化し、彼らを祝福する。また「君たちは昔の人々にこう語られたのを聞いた。・・しかし、私は言う」(5:33)とモーセに授けられた神と人への正しい交わりの律法を先鋭化する。これらの純化、先鋭化はイエスの生涯を確認するとき、彼がはからずも自らに課した生であり、彼はその預言者的また律法的な生を十字架まで生き抜き、最も低い所に祝福の安全網を敷いた。
二、山上の説教における信の根源性
イエスは「イスラエルの失われた羊」(15:24)に遣わされたという自覚のもとに、「群衆が飼い主のいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ」(9:36)。彼は次第に形骸化して伝承されるユダヤ教の伝統の改革者として、神の言葉に生命を取り戻し、端的に神の意志、み旨を語り掛ける。「天にいますわが父のみ旨を行う者が天の国に入れていただくことになる」(7:22)。「み旨・み心(thelēma)」とは神の人間に対する意志、人間認識であり、神が価値あると看做すものが人間にとっても価値あるものである。「君の宝があるところ、かしこに君の心もある」(6:21)と語られるように、たとえひとは自ら追い求める美や良きものの価値を主張したとしても、その宝が次第に神のみ旨と合致するようにイエスは教える。主の祈りにある、「あなたのみ旨が天におけるごとく地においても成りますように」(6:10)。
天と地はこのみ旨により、法則的に秩序づけられており、人間にとっての本来性は「まず、ご自身の御国とご自身の義を求めよ」(6:33)と父との正しい関係を形成することに成り立つ。この「求めよ」は良いものをくださる方に信頼し、「信じなさい」の平易な言い換えである。「君たち求めなさい、そして与えられるであろう、探しなさい、そして見出だすであろう、叩きなさい、そしてそれは君たちに開かれるであろう。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(7:7-8)。この現在形による命令と未来形さらに現在形による応答には、父の憐みの現前が前提されており、イエスは八福と同様に確信のもとに語ることができる。何を着ようか、食べようか、生活の煩いの前に、「まず」、神との正しい関係を持つよう求めなさい。そして神はアブラハム、イサク、ヤコブらをその信仰によって義としたように、義としてくださるであろう(cf.8:10-11,Heb.ch.11)。
旧約の信に基づく義の先駆と共に、この教えはイエス自身により実践され、その後義認の系譜として連綿と受け継がれる。父なる神は御子の信の従順の生涯を嘉みした。「神の信」に対応する御子の信の従順の生涯がひとの神への信を基礎づけ、信の本性である双方向性、互恵性を基礎づける(Rom.3:3)。「まず、ご自身の義」に示される根源的な信には信の応答のみがふさわしい。それ以外、何によって神に対面するのか。十字架上の御子の父への望である人間の罪を赦すことをかなえるべく、神は御子を血による贖いとして「差し出した」(Rom.3:24)。神は「イエス・キリストの信」(Rom.3:22)、十字架に至る御子に帰属した信を介して「君たちに御子の義をあげよう」と差し出された。われらはただ「ください、ありがとう」と言って受け取る。これが父と子の信に基礎づけられる、ひとの信の根源性である。この根源性は「信仰のみ」、「信仰+αではない」という仕方で語られることがある。ルターは「われらは乞食だ、それが本当だ」と言い憐みを求めつつ死んだと伝えられる。その彼は「信仰とはくださいと言って差し出された手である」と言う。何を疑う、求めよ、さらば与えられん。
イエスは自らの信の歩みの途上において、信の根源性による他の一切の秩序づけをこう語る。「君たちの天の父は、これらのもの[衣食住]がみな君たちに必要なことをご存知である。まず、ご自身の御国とご自身の義とを求めなさい、そうすればこれらすべてのものは君たちに加えて与えられるだろう。だから、明日のことまで思い煩うな」(6:32-34)。
神は憐み深く、道徳的態勢(心の実力、構)以前に「善人にも悪人にも」(5:45)等しく雨を降らせ、太陽を昇らせていたまう。「明日のことまで思い煩うな」(6:34)と、毎日を野の百合空の鳥を養ってくださる天の父を仰いで、子が父にパンをねだり求めるように信頼せよと教える。「君たちの誰がパンを欲しがる自分の子供に石を与えるであろうか」(7:9)。かくして神の憐れみへの信仰こそ、神との正しい関係であることをイエスは教えている。これは福音の宣教に他ならない。「福音」とはパウロによれば「信じる者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:16)。
かくしてイエスはその一挙手一投足において信の従順の成就に向かいつつ、山上の説教において旧約の道徳的次元を内側から破ってアブラハムらに先駆のある福音を打ち立て、そのもとに新たに律法を秩序づけている。旧約の古い革袋を破って新しい天の国の生命と祝福があふれ出す。モーセの「業の律法」に基づく義は旧約律法の革袋に注がれ、福音の「信の律法」の革袋に天来の新しい生命が注がれる(Rom.3:27)。イエスは言う。「人々は新しい葡萄酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けて葡萄酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい葡萄酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。
三、先行する神の憐れみへの信仰
天と地の連続性において神の憐みが先行する。イエスは人間が髪の毛を白くも黒くもできず、「思い煩いにより、寿命をわずかでも延ばすこと」(6:27)もできないのと比し、天の父は認知的、人格的に完全な方であると伝え、憐み深い父のみ旨を行うことにより、ひとも完全な者になると励ます。「わたしは君たちに言う、敵たちを愛しなさい、自分を迫害する者たちのために祈りなさい。君たちが天にいます君たちの父の子となるためである。父は悪人たちにも善人たちにも太陽を昇らせ、正しい者たちにも不正な者たちにも雨を降らせてくださる。・・そのとき、天の父が完全であるように、君たちも完全であることになろう」(5:44-48)。天の父は人間の善悪、正邪の道徳的次元以前に人類に対し分け隔てなく憐み深い。
この説教においてはその憐み深さは言葉で伝えられているが、イエスは信の従順を貫きつつあり父のみ旨を十字架上で遂行した時点において、言葉と行い双方によりイエス・キリストを介して神の憐れみ深さ、福音が最も明確に知らされるに至る。その意味において律法から福音への橋渡しの現場が山上の説教である。イエスは生の現場で自らが共にいるとして招く、「疲れた者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。君たちを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。君たちは君たちの魂に安息を見出すであろう。わが軛は負いやすくわが荷は軽いからである」(Mat.11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信であり、イエスは単に言葉のみではなく自らと共に生を歩むよう励ます。それ故に彼の実人生のただなかで信の対象は天の父のみならず、彼において顕されつつある神の憐れみへの信となる(Rom.10:9,8:39)。
四、二種類の神の義と神との共知としての良心
山上の説教では二種類の神の義が語られる。それは、信に基づく義と「君たちの義がパリサイ人のそれに優らなければ天の国に入ることはできない」(5:20)と語られる文脈における業に基づく義であり、旧約のただなかで福音が切り開かれていく。業に基づく義は旧約律法において語られ、「業の律法」即ち「モーセ律法」(Rom.3:20,27,1Cor.9:9)は神の山におけるモーセに対する神の顕現により知らされている。十戒は「君たちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである」(Exod.20:20)。そこでの行為は偶像を拝むー拝まない、姦淫するー姦淫しない、貪るー貪らない等二者択一であり、一方を選択するとき義であり、他方は罪とされ、「わたしを愛し、戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与え」、否む者には「父祖の罪を子孫に三、四代に問う」相応の報いがある。モーセ律法を介して知らされている神のみ旨は罪を犯さないようにする人生の規範、道徳訓である。これらは外的に観察可能な規範である。これは行為選択への加点と減点による裁きであり、その意味で人間にも義と罪は相対的に判別可能なものとなる。しかし、信に基づく義は端的に神の前のことがらであり、神の判断に属する。そして神の判断は御子の信の生涯に明らかにされており、そこでの信の対義語は信じないというよりむしろ裏切りであり、人は信による証を立てていく。
光が媒体を透明なものにするように、神は「隠れたことを見ている・・願う前から君たちに必要なものを知って」おり一切が明瞭なものとして眼前にある(5:6-8)。これほどの透明性のもとでは心は隠すことができず良心が神の言葉を相手にすることにより研ぎ澄まされていく。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。
イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り信に招く。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなく、これらは神ご自身の認識であり、「神に明らかなことがらが君たちの良心・共知(sun-eidēsis, con-science)にも明らかになっていることを望む」とパウロにより共知が目指されていることがらである(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。
自らにはとりわけ厳しく、隣人にはひたすら善意のもと赦すそのような教えは良心の咎めを容易にもたらす。良心の痛みの除去は神がキリストにおいてわれらを理解しておられることを共に知るときである。この共知についてパウロは言う、「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えないためである」(Rom.6:6)。この「われら」の知識主張は聖霊の今・ここの媒介なしに理解できない。聖霊は二千年前と現在を自由に往来し、聖霊があの二千年前の過去の出来事が「われらの古き人」の死であると神が看做してい給うことを呻きを以て今・ここで執成している。「キリスト・イエスにおいて顕された神の愛からわれらを引き離すものは何もない」その信において良心の咎めは拭われる(Rom.8:39)。イエスが「この女性の多くの罪は赦された、というのも多く愛したからである」(Luk.7:47)と語るとき、罪赦されたことの徴は愛し得ることにあることを知らされており、イエスの軛に繋がれ愛敵の道に歯を食いしばって共に歩む、そこに罪赦されたことの証を得るからである。
生命にいたる狭い門から天国に入った一人の人がいる。それは罪のなかったこと故に神の子であることが判明した。その方は永遠の生命のうちに神の右の座にいて或いは各人の心魂の根底において聖霊として「神に即して」(Rom.8:27)執成していたまう。パウロ同様、キリストがわがうちに生きるのであれば、山上の説教を充たしうるそのような希望が湧いてくる(Gal.2:20)。数百ある律法は「律法の冠」である「愛」に収斂されている(Rom.13:10)。イエスは「律法の一点一画も廃棄されない」(5:18)その神の意志への尊敬のなかで、「律法全体と預言者が依拠している」愛に業の律法を集中させ、信の従順により愛の律法を成就した(5:45,17,22:40)。「敵をも愛する」隣人愛に他のすべての律法を秩序づける。彼は野の百合空の鳥に見られる神の愛を自ら生き抜き自らの信義の証である復活の生命を介して、信義と「義の果実」としての「愛」これら二つの神の義を媒介した(Phil.1:11)。そこでは「信の律法」により最も純化されたモーセの「業の律法」が秩序づけられたと言うことができる。
かくして、山上の説教はもはや審判の言葉としてではなく、希望の言葉として受け止め直される。山上の説教は信から義へ、義から愛への一本道の究極に位置することになるであろう。イエスは福音成就の途上において山上の説教を語り生き抜いていた。パウロはその十字架と復活の視点から福音と律法を秩序づけることができた。かくしてイエスとパウロは狭き真っすぐな道の途上の言葉とその生の成就の視点として調和する。倫理学の主題である「ひとはいかに生きるべきか」の当為「べし」に含意される実践的効力の問は、イエスとパウロにおいては「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)その力強い信の狭い真っすぐな道を歩むことにある。
五、旧約の善悪因果応報から新約における「贈り物」へ
天地の連続性は以上の二種類の正義の法則によって秩序づけられている。天と地を包括する法則が働いている。旧約的な文脈にある山上の説教においては、それは勧善懲悪の善悪因果応報或いは「跳ね返りの法則」と呼ばれよう。行為主体の態度如何が問われ、行為選択の法則はこうまとめられる。「もし君たちが、人々が君たちに為してくれるよう欲するものごとがあるならば、そのかぎりのすべてのものごとを君たちもまた彼らにそのように為さねばならない。というのもこれが律法であり預言者たちであるからである」(7:12)。イエスはこの「黄金律」において、聖書の律法と預言者たちは愛することに集中していたことを伝えている。これは神の憐みの先行性を人間同士の交わりに移行させる命令である。まず自分から善意を行動で示そうと励まされる。行為主体の善意の先行性が、良き跳ね返りの生起する必要不可欠な要素である。神がわれらの信による応答を待っているように、人間同士の交わりにおいても善行の先行性が信頼関係を生み、豊かな応答の好循環が生起する。黄金律は善き行為の始点たれという励ましである。
他方、跳ね返りは悪意や偽りにも生起する。「目には目を、歯には歯を」(5:38)のような同害報復をも含め、相対的な分配としての正義は因果応報として一種の跳ね返りを持つ。「悪行の報いは悪行そのものである」(アウグスティヌス)。或いは悪人は「自ら掘った穴に陥る」(Ps.7:15)。悪の行為選択はまさにその心的態勢さらにその実害において罰を受けている(cf.Rom.1:18-32)。この道を歩む者は「すべての律法を満たす義務がある」(Gal.5:6)、「律法を行う者が義とされる」(Rom.2:6)が、誰もそれを充たし得ず、すべての口が塞がれる。「業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。律法を介した神による罪の認識があるからである」(Rom.3:20)。
山上の説教において敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人前での善行により人々からの称賛と有徳を誇り、律法の形式的遵守の故に正義を主張し、その結果天国を正当な権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:5,6:17)。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。パリサイ人の誇りと自己義認には背後に過剰を欲する「貪欲な狼」が支配している(7:15)。外見上の善行のご褒美には貪欲に基づく誇りが伴う余地がある。。業の律法は端的ではなく、相対的、外見的、比量的な正不正を問題とする。
同様に、自らを優越した位置におく「裁く」ことは神のみ旨ではない。それは最初の人間が「善悪を知る」木の実を食べて以来、人間が神に背き生の主人公となっている象徴として挙げることができよう。「ひとを裁くな、裁かれないためである。というのも君たちが裁くその裁きにおいて君たちは裁き返され、君たちが量るその量りにおいて君たちにも量り与えられるからである。なぜ君はきょうだいの目にある塵を見るが、自分の目にある梁に気づかないのか。・・神聖なものを犬にやってはいけない、君たちの真珠を豚に投げてやってはいけない[むしろ飼料を与えよ]、豚たちがそれらを脚で踏みつけ、向き直って君たちに突進してくることのないように」(7:1-6)。
ここで「裁く(krinein)」とは、ちょうど羊飼いが羊と山羊を「えり分ける」ように、究極的には最後の審判において栄光の主が「栄光の裁きの座」につき、義人と罪人を「右」と「左」に分ける、そのようなことがらに向かう過程である(25:31-33)。人は神の位置を占めえない。貪欲や優越感はその跳ね返りを報いとして受ける。パウロは途上の人間が「罪に定める(katakrinein)」時、それは自らに跳ね返ると言う。「すべて裁いている君、ひとよ、君には弁解の余地がない。なぜなら、君は他人を裁くそのことがらにおいて、君自身を罪に定めているからである。というのも、君、裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。裁き合うとき双方とも同じ「業の律法」のもとにあり、赦しではなく優越者として罪に定めあっている。「裁くな」においてイエスはモーセの業のそれ自身における律法の適用の否定にまで至っている。これは神において信の律法による業の律法の乗り越えを意味していよう(cf.Rom.7:4,8:2,Gal.2:19「[信の]律法により[業の]律法に死んだ」)。
「裁き」が「梁」や「塵」等様々なレヴェルで遂行されているように、誰もがそれにより隣人の行為や人格を認識し判断する規準として、ひとは普遍的に量りを持つ。ここでは「裁き」と異なる「識別すること(dokimazein)」(cf.Rom.14:22)の重要性が説かれ、「君はきょうだいの目の塵を取り除くべくはっきり見るようになる」そのような愛が両者を判別する。豚には真珠ではなく飼料を与えることが最善の行為選択肢である。ひとは誰もが自らの認識規準のもとでひとや出来事を識別、判断せざるをえないが、それは神のみ旨に即して憐みを規準にして遂行せよと命じられる。
親切と高ぶりのもとに裁きを遂行することには天と地の包括的、長期的な善悪因果応報のもとに跳ね返りがあるであろう。そこで「報い」は一つの対人論法において用いられ、功績や罰を問う因果応報と呼びうる次元で語られる。旧約律法の理解として因果応報を前提にすることは、イエス自身が理解する信に基づく正義と緊張におかれる。神の憐れみの先行性への信は根源的な双方向性のもとでの受容、応答である。これは神主導の非可逆的な関係であり、対人関係における先行性とは異なる端的な、無比較的、無非量的な憐みの「贈りもの」(Rom.3:22)であり、その応答が受領、承認としての信である。
神の憐みの前提のもとでの八福の結論において「喜べ、大いに喜べ、天における報いが大きい」と語られるとき、比較的かつ相対的な配分的正義ではなく、イエスに従う者への端的な信に基づく正義の次元における神からの祝福が語られている(5:12)。祝福される者たちは比較を絶した善の贈りものを前にして神に賛美を帰しつつも、報いを受けることを自らの功績と唱え、誇ることはないであろう。功績的ではない信に基づく正義がここでは開示されている。というのも、神の前ではこの「報い」は十字架上で「赦してやってください」というイエスの願いを父なる神が聴き届け、かなえる「贈り物」と理解すべきことがらだからである(Luk.23:34)。「報い」は第一に御子の信の従順への報いである。イエスへの信頼が神に嘉みされ、功績への顧慮を伴わない恩恵として与えられる正義とその果実がこの言葉「報い」において理解される。加点減点の善悪因果応報の旧約的領野は過ぎ去っている。無比較的、端的な善がそこにある。パウロは言う、「それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介してである」(Rom.3:27)。イエスと共なることに人生の一切が秩序づけられる。「誇る者は主において誇れ」、キリストの軛を共に担えることに誇りを見出す(2Cor.10:17)。
六、結論
彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から「柔和と低さ」が伝わり、山上の説教を少しずつ生きうるものと「変身させられ」ていくであろう(Rom.12:2)。「憐れむ者は祝福されている。憐れまれるであろうからである。その心によって清らかな者は祝福されている、神を見るであろうからである。平和を造る者は祝福されている、その者たちは神の子と呼ばれるからである」(5:7-8)。彼の軛を担ぎ主と共にペースを合わせ隣を歩みうること、それは端的な「贈りもの」であり、祝福である。
聖書の死生観(5)―何故旧約聖書には永遠の生命への希求がほとんど見られないか?
聖書の死生観(5)―何故旧約聖書には永遠の生命への希求がほとんど見られないか?
これまで、ヨブ記や詩編、イザヤ書、エゼキエル書への参照のもと幾つか箇所で永遠の生命への要求とまではいかないが希求のみられることを確認してきたが、確かにフォンラートが言うように、新約聖書と比する時、一目瞭然にその数の僅かさに驚かされる。楽園の追放から御子の派遣までの準備期間として、預言はされていてもキリストを知らない民においては、今・ここで自然や人を介して働きかける主との応答に忙殺されていたということは言えるであろう。とりわけ、詩篇14篇に見られるように、神との関わりにおいて罪を指摘し続けられるとき、確かに永遠の生命を神に要求することはおこがましいことと看做されたこともその一要因であろう。キリストの復活の生命が証する永遠の生命への求めは見られないにしても、今の充溢、時との和解としてのボエチウス的な永遠は旧約人にも知られていたと言うべきである。というのも、彼らは愛を知りまたその感情実質である喜びを知っていたからである。ボエチウスは「永遠」を必ずしも時間の持続として捉える必然性はなく、「全的な、限定なき生の同時かつ完全な把握(Aeternitas est interminabilis vitae totae simul et perfecta possessio)」と規定している。これは新天新地としての神の国の永遠の持続と矛盾するものではない。というのも神の国をボエチウス的な意味での今の充溢と理解することができるからである。放物線が接線に触れるように、来たりかつ去り行く運動の一種としての時間の流れの矢に、現在が後悔のような過去により支配されることも、また焦りや不安のように未来により支配されることもなく、時との和解としての今の充溢として捉えることができる。これは永続の一つの現世的な徴であると言える。最も現在的な感情は喜びであり、喜びがあるとき、そこには現在をそのまま肯定しており、そこに希望がわいている。いつも喜んでいる人には放物線が次々に降りてきている人であると言える。
このような意味での永遠は旧約人の経験するところであった。「いかに楽しいことでしょう。主に感謝をささげることは いと高き神よ、御名を褒め詠い、朝ごとに、あなたのまことを宣べ伝えることは 十弦の琴に合わせ 琴の調べにあわせて。主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます」(Ps.92:1-5)。キリストにより永遠の生命を受けることのない者にはこの主への賛美と感謝において、今の充溢に生きていたと言える。旧約は永遠の生命のロゴス・理論をもたなかったが、実質的には永遠の徴は十分に経験されていたと言える。
聖書の死生観(4)永遠をめぐって
聖書の死生観(4)永遠をめぐって
聖書朗読 エゼキエル書37章1-14節、ヨハネ黙示録21章1-8節 旧約聖書において永遠の生命の木から遠ざけるべく、楽園を追放されたためにか、旧約人は神に永遠の生命を要求することはなかった。今・ここにおいて働いていたまう神がリアルであり、この人生における最善の行為選択肢と民族としての祝福を求めた。それでも、人間の本性が「内なる人間」を抱える限り、神の聖霊を受容する力能を有する限り、ヨブや詩人(16編)とともに預言者たちがインスピレーションを受ける時には永遠の生命を求め、賛美する。神の厳格さが支配的であるが、キリストの預言、証としての旧約人が描かれている。人類は一つの歴史を生きている。録音では永遠と感情の文法など自由に話しています。
聖書の死生観(3)旧約から新約への展開(2)
聖書の死生観(3)旧約から新約への展開(2)
聖書の死生観(1)で提示したテクストの1.2「旧約から新約への飛躍」から3「神が生死を支配する—今・ここにおいて働く旧約の神」さらに4「何故永遠の生命への追求は旧約人にはわずかしか見られないのか」まで自由に論じました。94頁に「永遠の生命を待望するということが、ヨブや預言者等特異な状況にある個人を除いては記録されていない」と書いたが、その具体的な箇所について質問がありました。ヨブ記19章25節に「わたしは知っている わたしを贖う方はいきておられ ついに塵の上に立たれるであろう。この皮膚がそこなわれようとも この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう」とあり、これは身体を贖う神が塵の上にたたれ、その神を仰ぎ見る日が来るという希望を表していると理解します。Scofield Study Systemの当該箇所注にはこうあります。「19:26この箇所は旧約聖書における生ける贖い主の信仰の最も崇高な諸表現の一つを含んでいる:地上へのご自身の人格的な顕われ、ご自身の故の祝福された者の復活における神的なものの人格的参与、そして義人による神の確かなヴィジョンがそれである」。なお、詩篇16:8-11にはこうあります。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府(よみ)に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、生命の道をおしえてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い右の御手から永遠の喜びをいただきます」。この箇所で詩人はインスピレーションを受け、魂の踊るような喜びを表現しています。それは永遠の生命における神の御顔を仰ぐ生活を表しています。イザヤ書65章17節に「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。はじめからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にものぼることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ」と語られています。これは永遠の生命への希望の表現と理解します。
聖書の死生観(2)旧約から新約への歴史の展開
2023年10月8日
聖書の死生観(2)旧約から新約への歴史の展開
詩篇139編
主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計(はか)らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない。どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府(よみ)に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる(Ps.139:1-10)。
先週「聖書の死生観」原稿全体をアップしていますが、その「1.2 旧約から新約への飛躍」をめぐって自由に語っています。
聖書の死生観(1)
はじめに 2023年度春から夏までは毎週日曜対話形式にて山上の説教を学びました。対話形式でしたので、録音を控えました。できれば近日中にマタイ福音書5-7章の連続講義を書斎における録音としてお届けします。秋も対話形式を続けますが、基礎になる資料として、「聖書の死生観 ―旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ― 千葉 惠」(『死生学年報』2022、東洋英和女学院大学死生学研究所編 pp.83-102)https://toyoeiwa.repo.nii.ac.jp/records/1726を用いつつ、自由に対話を続けます。ここにこの論文全体とともに本日の録音をお届けします。
83
聖書の死生観 ―旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ― 千葉 惠
「わたしは裸で母の胎をでた。また裸で帰ろう。主与え、主取りた まう、主の御名は褒むべきかな」(Job. 1:20)
「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、なかにはいっても、主イ エスの遺体が見当たらなかった。途方にくれていると、輝く衣を 着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せる と、二人は言った。「なぜ生きておられる方を死者のなかに捜すの か。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」」(Luk. 24: 2–6)。
1. 死生観と神観念
1.1. 生と死の動的な関わりの探求
2021 年夏、疫病の蔓延で医療崩壊のみならず、生が死に飲み込まれる人 生崩壊の兆しさえこの国に広がった。人類が生存する限り問われる死が新た に問われた。死後についてなにがしか語ることは宗教の大きな仕事である が、神など超越者をめぐっては、三つの態度が考えられる。そのなかで対立 する二つの立場を突き詰めると、一方で一切を正確に知り公平な審判を遂行 する一人の存在者がいるという唯一神論としての有神論となり、他方、個々 人の一切はこの生の活動期間ののちに無に帰するという無神論となる。双方 とも明確な信念のもとに生を構築する。第三の立場として神についてひとは 知りえないという不可知論がその間にあり、最も理性的な態度のように見え る。しかし、不可知論は神が存在する、それ故に死後、神の前に立ち何らか の審判を受けるという想定のもとで、日々迫られる個々の行為を選択すると 84 いう生を構築できないため、有神論を懐疑においてであれ真剣に受け止めな い限り、事実上、無神論に吸収される。
無神論に基づく死生観は、ここで展開する有神論の論述の否定として理解 される。永遠の生命など存在せず、死後、肉体は自然とその生態系に還元さ れていくという見解である。不可知論は判断保留のまま生を遂行する。孔子 は、弟子の子路が死について尋ねたとき、「わたしは生を知らない、どうし て死について知っているだろうか」と応答した(『論語』先進 11-11)。孔子 の立場は生が何であるかを知れば、死を理解できるかもしれないというもの であり、強い不可知論ではない。とはいえ、これらの立場は生を死によって 知り、死を生によって知るという動的な関係において捉えてはいない。 双方を分断したうえで、生の側から死を推し量ることがある。ひとは自ら の過酷な生のゆえに死を望むことがある。そこでの暗黙の前提には死は一切 の悪しきことの消滅であり、死後は、神ありなしに拘わらず、生のもつ過酷 さをもたないかのごとき希望的観測がある。そうかもしれない、そうでない かもしれない。これに対し、双方を包括的に捉えるとは、生と死は何らか連 続的であり、死が一刻一刻迫っているという事実こそ生に意味を与え、その 生の内実が死に飲み込まれない肯定的なものである限り、死はその生の延長 線上に肯定的なものとして開かれると捉える。その意味で死の何らかの理解 が生を構成しており、生の何らかの理解が死を取り込んでいる。
生と死を包括的な視点から捉えることにより、生死の分断的な思考を免れ ることができる。ひとはそのような総合的な、しかも前向きな理解を求め る。実際、ひとは生きていることの充実感を得るには未来に時間が開かれて いるという感覚を必要としている。死はその前向き、肯定的な生の構成要素 でありうる。生死を支配する神は人類の歴史においてそのような機能を担う ものとして看做されてきたのであり、信じること、あるいは懐疑においてで あれ有神論を真剣に考慮することが生死を真剣に受け止めることを可能にさ せる。突き詰めれば、宗教において生きて働く神を相手にするのでなけれ ば、生死を動的な連関のもとで総合的に受け止めることはできない。「総合 的」とは人類の歴史を考慮しつつそのなかに個人を位置づけ、各自が神への 信仰、眼差しのなかで個々の古き自己の死と新しい自己の生命の再生の経験 のフィードバック(送り返し)を介して、全体としての自己理解を形成深化 させることである。死を支配する者があるという信なしに、死は不可知の闇 聖書の死生観 85 に留まる。
1.2. 聖書の死生観―旧約から新約への飛躍
本稿において聖書が伝える死生観を紹介、吟味する。コンコルダンス(字 句索引)によれば、聖書には「生命」(「命」)と「死」とその類縁語はそれ ぞれ約数百回見出すことができる(木田/和田 1997)1) 。二千頁の一つの書 物において均せば、二頁に一度はいずれかとその類縁語が現れていること になる。それ故にこの書は生命と死をめぐる書であると言ってよい。一方 で、悪行や暴飲暴食が死を招くということや、他方で「ひとの生涯は草のよ う、野の花のように咲く。風がその上に吹けば消え失せ、生えていたことを 知る者もなくなる」という類の人生の儚さへの言及は、アダムの末の誰もが 語るであろう一般的な理解である(Prov. 11:19, Lev. 10:9, Ps. 103:15, Job. 14:1)。
同様に、民族のリーダーたちは自らの使命の成就として長寿を全うした が、そのこと自体に祝福された生を見ることも万国共通であろう。ユダヤ民 族の始祖「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先 祖の列に加えられた」(Gen. 25:8, 15:15)。エジプトのファラオの娘の子と して育てられたモーセやその後継者ヨシュア、そして長老たちの死も生の成 就でありその長寿は祝福されたものであった(Deut. 34:1–8, Josh. 24:29– 31)。旧約において「ダビデは先祖と共に眠りについた」(1Ki. 2:10)という 表現に見られるように、他の固有名の挿入によるこれと同じ構文は 40 か所 以上で見られ、慣用表現であったことがわかる(木田/和田 1997, 745)。 この「眠りについた」という表現はエデンの園における「生命の木」に暗 示されるように、生物的死が一切の終わり「永眠」というものではなく、覚 醒の可能性を示唆していると言うことができる。この表現は新約における義 人、聖徒の死が一時的な眠りであるという特徴づけを基礎づけたと推測され る。もし神に背かなければ、アダムであれ誰であれ、たとえ生物として土に 返ったとしても、義人の死は新約聖書においては「眠り」であると捉えられ ることになる(Mat. 27:52, 1Cor. 15:6, 18, 20, 51)。
The Book と呼ばれる人類の歴史で最も読まれているこの書物は、一つの 出来事を契機に二つの異なる文書が連続的な歴史の展開として編集されてい る。イエス・キリストの復活、即ち死者たちのなかからの甦りを契機にし 86
て、旧約聖書と新約聖書の死生観は断絶と呼べるほどの飛躍を遂げている。 新約において「永遠の生命」と呼ばれるものの在り処が、歴史のなかで全 人類に向けて神により知らしめられたと報告されている(John. 3:18, Rom. 5:21)。新約との著しい対比として、旧約において来世についての思弁や 幻、永遠の生命の獲得とその希求の記録はほとんど見られない。その理由を 探りつつ、人間の永生の可能性を基礎づける(神学的には御子の贖いの十全 性故に)「ただ一度」(Rom. 6:10)限り生起したと報告される死者の復活、 甦りの事件が両文書の連続性と飛躍を道理あるものと理解させる、そのよう な異なる記述を許容する同一の神についての理解を深めたい。 新旧約を貫く神の特徴づけは明確であり、唯一の神ヤハウェは宇宙万物の 創造者として時空の外にあり、永遠の現在において過去も未来も現在のこと として了解している全知にして全能なる宇宙の栄光である(Gen. 1:1–2:4, Ps. 90:4, 91:1, 139:1–24, Rom. 1:19–20)。
双方の相違としては、神は自ら の愛の相手として人間を創造したが、楽園追放後の人間との関わりの仕方、 即ち媒介が御子の出来事を契機にして判別される。一方、旧約においては 天、主の使い、預言者そして洪水や疫病等自然事象を介してその都度の今・ ここにおいて、具体的な状況にある人々に働きかけていることが記録されて いる2) 。預言者たちは人格的な存在者として神の言葉を取り継ぐ。定型表現 「万軍の神(主)は言う」は預言者たちにより 150 回以上用いられ、神の認 識や判断が取り継がれている。神の審判の預言は至るところに見いだされる (eg. Hosea 7:13–8:14, Isa. 30:12–14, Jer. 5:14–17)。ユダの王ゼデキアは じめ高官たちは紀元前 6 世紀に 70 年間にわたりバビロンに拘束された(Jer. 25:11)。それはユダの堕落に対する神の怒りであった。「わたし[神]はエ ルサレムを瓦礫の山、山犬の住処とし、ユダの町々を荒廃させる。そこに住 む者はいなくなる」(Jer. 9:6–10)。 他方、新約において、神は根源的な仕方で神の子であり同時に受肉により 真の人の子である和解の執り成し手イエス・キリスト、ないし聖霊を介して 関わっていると報告されている。ナザレのイエスが自ら天父の子であるとい う「神の子の信」、信の「従順」を貫きその都度の今・ここの働きにおいて 完全に神の義と神の意志、計画を実現したことにより、神により御子とし て嘉みされ甦りを与えられたと報告されている(Gal. 2:20, Phil. 2:8, Rom. 4:25)。そのことにより、イエス・キリストは父なる神の信義の啓示および
聖書の死生観 87
神の人間認識、判断の普遍的な仕方での啓示の媒介者とされる。そしてこれ は父と子の協働の知らしめであるが故に、これは最も明白な神の自己顕現で ある(John. 16:32, Rom. 3:21–26, 2Cor. 5:19)。
かくして、この自己顕現に基づき旧約における自然事象また族長、預言者 を介した神の諸顕現を理解することは道理あるものとなる。根源的かつ普遍 的に知られる父と子の協働作業のほうが具体的な状況、とりわけ窮状にある 個々人に受け止められた限りにおいて記述される神よりも純化された仕方で 神の特徴およびその働きが理解されうるからである。さらに、御子の派遣は 然るべき時に決定的な仕方でなされたとする限り、その充足の時に至る準備 期間として他の一切の顕現は理解されるからである。永遠の生命の知らしめ の準備として旧約が位置づけられる。
両文書の報告において、同一の神が自らの隠れと顕現において歴史を一 直線に展開させていると理解される。パウロは 433 節からなる「ローマ書」 において、旧約に先駆的形態のある信に基づく義・正義が、モーセを介した 旧約の中心的啓示である業に基づく義・正義よりも神自身にとってより根源 的であることを論証する。彼はそこでキリストにおいて成就された福音(信 義論、予定論)を旧約から 60 節(箇所)以上すべて肯定的に引用すること により裏付けている(千葉 2018, 456, 155.n.3)3) 。救世主の復活の知らしめ こそがそれまでの旧約人の知らされざるなかでの苦闘と待望を特徴づける。 彼らは一回限りの歴史の進行のなかで政治的メシヤの出現であれ他の何かで あれ救いを暗中模索していたが、自ら知らずにも、あるいはわずかに自覚的 に復活による永遠の生命を求めていたことが明らかになる。
2. アダム―その組成と堕罪
2:1 人類の始祖アダムとひとの心身の構成要素
人類の始祖の誕生神話によれば、神が土に生命の息を吹き込むことにより ひとが生きるものとなったとされている。「主なる神は土(アダマ)の塵で ひと(アダム)を形づくり、その鼻に生命の息(pnoē zōēs)を吹きこんだ。 そして人間は生きる魂となった」(Gen, 2:7)。G. フォン・ラートは言う。「用 いられる材料は土である、しかし人間は最初に神の口から神的な息のまった く無媒介的な吹きこみによって『生きもの(Lebewesen)』になった。この 88
七節はかくして、ヤハヴィストには珍しいことであるが!、一つの厳密な定 義を含んでいる」(v. Rad 1978, I,163)4) 。 人間が地水火風という自然の構成要素と異ならないものにより形成されて いることは、最も基礎的なこととして共約的に確認できることである。その ことは三十数億年の生命の進化の過程を経ての人類の誕生という理解にも道 を備えることになるが、進化の問題をここで論じることはできない(千葉 2018, 第二章一節四)。ここで確認すべきことは、なによりも、人間の構成 要素に関するこの最も基礎的な事態が含意することとして、現代科学が対象 とする人間と聖書の伝統のなかで新約の使徒パウロがナザレのイエスの生涯 に基づき解明しようとする人間は、少なくとも同一の質料的な基礎を持つと いうことである。パウロは旧約以来の伝統のなかで、「最初の人間アダムは 生きる魂となった、最後のアダムは生命を造る霊となった」(1Cor. 15:45) と語り、生物的な生命原理として「魂」を提示し、またその延長線上に最後 のアダムとしてのキリストをさらなる新たな永遠の生命の原理となる「霊」 として提示している。 人間の心身の構成原理について確認する。伝統的に「魂(phsuchē)」が 生命原理として最も基礎的なものであると位置づけられる。そのうえに 「心(kardia)」に内属する感情や思考、信念等の心的事象が生起し、さらに は「内なる人間」と呼ばれる心の底に内属する霊的事象が出現する(Rom. 7:24, 2Cor. 4:16)。パウロにおいては「人間」は、「最初の人間」とその生 物的な死を介して「第二の人間」双方から成り立つと想定されている。第一 の人間は「魂的身体」を持ち、第二の人間は「霊的身体」を持つ。第一の人 間アダムは「土に基づき土製の」組成を持ち「生きる魂」となった。第二の 人間は「天から」の者であり、「終局のアダム」と呼ばれるキリストが「生 命を造る霊」となったことに基礎づけられる(1Cor. 15:44–48)。 この事態は神話的には、鼻に吹き込まれた「生命の息」と呼ばれる人間の 魂体に関し、生物的な生命に関しては現代科学の知見は日進月歩であるが、 現代科学がまだ解明できていないことがらを、あるいは異なる仕方で表現し ていることがらを、パウロがすでに把握している可能性を否定しない。パウ ロは「霊(pneuma)」をその心身、魂体を統一する最も基礎的な要素とし て提示している。聖霊を受けたか否かについて、新約は帰結主義をとってお り、愛の実践や平安、喜びの果実を得ているとき、即ち人格的成長が確認さ 聖書の死生観 89 れるとき、その証があると主張される(Luk. 7:44, Gal. 5:22)。信が聖霊を 受動する心魂の根源的部位において生起する限り、つまり正しい信である限 り、真偽の知識に関わる理性の逸脱である狂信からも、心魂の人格的徳(善 悪)に関わる身体的なパトス(受動的情念)の過剰(例、恐怖)である迷信 からも自由とされ、賢者となり聖者となるからである(千葉 2018, 序文 32, 第二章三節, 四節)。 アダムの存在論的な身分はいかなるものか。土製の自然に還元できるの か。神が土製のものに息を吹き込んで「生きる魂」となった以上、人間は実 質的には神的・霊的なものにより形成されている。しかし、聖霊が改めて注 がれることは多くの箇所で語られている以上、この創造の息吹は聖霊を意味 してはいない。生命原理としての魂のことが語られていることは明らかであ り、その息吹は続いて与えられるでもあろう聖霊の注ぎを受けとる部位、「内 なる人間」として理解することができる。少なくとも、単に土だけによって 造られているわけではないので、何らかの神的行為に対応しうるもの、即ち 通常の生命活動のただなかで聖霊を受け取るこのとのできる部位が力能にお いて心魂の根底に内在していると理解すべきである。それが神的息吹の注ぎ により「生きる魂」となった人間の実質であると考えられる。 実際、次のようにも言われている。「魂的人間は神の霊のことがらを受け 取らない。というのも彼は愚かでありそして知ることができないからであ る、というのもそれは霊的に吟味されるからである。霊的な者はすべてを吟 味するが、彼自身は誰によっても吟味されない」(1Cor. 2:14)。「内なる人 間」が実働することにより霊的な人間は最も包括的に人間であることを把握 した者であり、人間は自らが、肉の魂的な生命に還元されないことを知って いる5) 。
2:2. 堕罪とその影響―「善悪を知る木」と「生命の木」
これらは誰もが持つ心魂の態勢、働きであると聖書は主張する。一方で、 生命の誕生であれ長寿であれ、祝福は土から造られた自然的な心魂のうえに 注がれる。創造は「はなはだ良かった」のである(Gen. 1:31)。自然的なも のは草木であれ動物であれ、自らの生命の力能の十全な発揮においてこそ自 然であり本来的である。人類の始祖アダムとエヴァは祝福のもとにあり、人 類の隆盛に向けて生殖も祝福されている。「産めよ、増えよ、地に満ちて地 90
を従わせよ」(Gen. 1:28)。もし罪がなければ、ひとの人生はすべて自然の ままに祝福されたものであったであろう。楽園神話においてはひとは神の目 前で生活しているがゆえに、霊の媒介の働きは必要とされていない。 神はエデンの園の中央には「生命の木」と「善悪の知識の木」を生えいで させた。最初のひとは園の木の実を自由に食することが許されていたが、「善 悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ」と警告 されていた(Gen. 2:17)。彼らは「神の如くになる」(3:4)という蛇の誘惑 に負けて、この木の実を食した。すると目が開け裸であることを恥じた。ル ターは「罪とはおのれの内側に曲がってしまった心である」と言う。彼らは 神から自律した行為主体として善悪を判断して生きる道を選んだ。ひとは 「啓蒙」と呼ぶでもあろうが、神の視点から言えば、従順の中での善悪の識 別を介しての道徳的鍛錬は嘉みされたであろうが、神から離れての啓蒙は背 きであり罪であった。神は「塵にすぎないお前は塵に帰る」という仕方で、 自然的な生物的死を生命維持の労役とともに罰として与えた(3:19)。 楽園追放の理由は、彼らが「生命の木」からも取って食べ「永遠に生きる 者」となる恐れがあったからである(3:23)。ここでは時満ちて御子の派遣 を介して永遠の生命が与えられる、そのような歴史を踏まえることなしに、 永遠の生命を一気に獲得することが問題視されている。なぜ人類には初めか ら永生が明らかな仕方で与えられなかったかが説明されねばならない。 ひとは道徳的となる力能および永遠の生命に与る主体となる力能を、その 創造において所有していた。少なくともそれらが然るべきときに神から与え られた際には、それらの実を食し消化するする力能を備えていた。エデンの 園から追い出せば、盗まれ食されることがなくなるという想定のもとに彼ら は園を追放されたのであるから、それ以前も以後も彼らが食する力能を失っ たわけではない。とはいえ、時が満ちたなら善悪の木のみならず、生命の木 を食することが許されていたかもしれないが、最初の人間には許されなかっ た。 人類がその後もこの力能を所持していると看做すべきことは、一つの民族 の展開のなかで、預言の成就として永遠の生命を担った御子の復活が生起し たことから確認される。堕罪後人類の歴史は自然的制約というこの与件のも とで、神への背きと死の乗り越えを課題として引き受けることになる。生物 的死が単に自然事象であり神への背きの罰であるという認識の欠如こそ神へ 聖書の死生観 91 の背きを示しており、悔い改め立ち帰りがその都度求められている。それが 原罪の持つ波及範囲の最も確かな理解である6) 。
3. 神が生死を支配する―今・ここにおいて 働く旧約の神
生物的死はこのように聖書において罪の罰であるという基礎理解のもと に、旧約における来世、永遠の生命への希求の記録の欠如についていかなる ものとして理解しうるか考察したい。旧約人はアブラハムの信とモーセ律法 により鍛えられることとなる。彼らの歴史における神の意志の明確な知らし めは、信仰に基づき義とされたアブラハムへの子孫の繁栄の約束と信仰に基 づきエジプト脱出を導いたモーセへの十戒に見られる。この恩恵に絶えず立 ち返ることは彼らのあらゆる神との関わりの規準、礎石となった。旧約の義 人の系譜が信仰に基づくものであったことは「ヘブライ書」で旧約人 14 人 の言及のもとに記録されている(11:1–40)。
モーセは神の命に従い、ヘブライ人をエジプトから導きだし、神の山ホレ ブにおいて神から律法(十戒)を啓示された。「汝はわたしをおいて他に神 があってはならない。……わたしは主、汝の神。わたしは嫉む神である。わ たしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛 し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。……汝の 神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は 罰せずにはおかない」(Exod. 20:4–7)。
生命と死は、神の祝福と呪いの関連におかれる。「わたし[モーセ]は今 日生命と幸い、死と災いを汝の前に置く。……汝の神、主を愛し、その道に 従って歩み、その戒めと掟と法とを守るならば、汝は生命を得、かつ増え る。……もし汝が心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し 仕えるなら、……汝らは必ず滅びる」(Deut. 30:15–18)。モーセは偶像崇 拝に陥った民を一日で三千人処刑して、神の言葉を伝達した。「わたし[神] に罪を犯した者は誰でもわたしの書から消し去る。……わたしの裁きの日に、 わたしは彼らをその罪のゆえに罰する」(32:28, 33–34)。
神が唯一であり他のいかなる神をも拝するなという唯一神の顕現とその神 の名をみだりに唱えるなという戒めは、イスラエル民族の思考と行動を支配 92
した。神になずむことへの禁止は、神への畏れのなかで死後への勝手な思弁 や要求をブロックする。さらに口寄せや霊媒を通じての死者との交流の禁止 は、神から知らされていない事柄に対する思弁や希求の禁欲を強いている (Deut. 18:11, Lev. 19:31, 20:6, 20:27, 2Ki. 21:6, 23:24, 2Chr. 33:6, Isa. 8:19, 19:4)。
彼らの思考の枠は、アブラハムの約束の成就への信とモーセ十戒の遵守に よる祝福と懲罰のもとに定められた。それはちょうど厳格な親の訓育のもと 真面目で規範意識の高い子供が育つことと類比的である。パウロによれば、 厳格な律法主義者には「誇り」が残り信に至らない可能性が指摘されている (Rom. 3:27)。それでも、どのような養育環境にあっても人間が人間である 限り共通する心魂の働きである感情や憧れ、思考そして信念を抱いている、 あるいは何らかの心魂の法則性のもとに心的事象は生起すると想定すること は道理がある。
ここで旧約における死生観をめぐって彼らの特徴的な理解を幾つか挙げ る。(a)生と死一切が神の支配のもとにある。預言者エゼキエルはバビロン 捕囚のただなかで神の言葉を取り継ぐ、「すべての生命はわたし[神]のも のである。父の生命も子の生命も、同様にわたしのものである。罪を犯した 者、その者は死ぬ」(Ezek. 18:3)。エレミヤはバビロン王ネブカドレツァル の侵攻を預言し神の言葉を取り継ぐ。「見よ、わたしは汝らの前に生命の道 と死の道を置く。この都に留まる者は戦いと飢饉と疫病によって死ぬ」(Jer. 21:8)。生死は神に属するものである。「何ごとにも時があり、天の下の出 来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時がある」(Eccl. 3:1–2)。
(b)神は生物的死や洪水、隕石の落下、そして疫病など自然的事象を介 して自らの意志、とりわけ懲罰を知らしめる。(c)アブラハムは彼の子孫の 繁栄に対する神の約束を信じ、それにより神と正しい関係に入った。旧約に おいても信仰義認の系譜がその民族に対する神の祝福、肯定的な交わりの源 泉である。(d)神を信じ畏れモーセ律法を遵守する者には祝福が与えられ る。永遠の生命希求の代替として、指導者たちに見られる長寿とその祝福は 定型句「眠りについた」により表現されている。(e)祝福と懲罰の前提とし て、ひとは誰もが自らの責任ある自由のもとに生きており、神に背くことも 立ち帰ることもできる。ただし、楽園追放の与件のもとで立ち帰りが常に必
聖書の死生観 93
須事項となる。かくして、ひとは追放後さらに背くか、それとも主を畏れ立 ち帰り神と正しい関係を結ぶに至るかが問われている。
ここでは(b)自然事象が神の意志を媒介するその擬人化、自然化につい て考察する。例えば、人類の悪の蔓延りに対する神の怒りがノアの洪水を引 き起こしたと報告されている。「神はひとを創造したことを後悔し、心を痛 めた」(Gen. 6:6)。神はノアの家族が生き延びるように箱舟の建造を命じる が、そのとき「すべて肉なる者を終わらせる時がわたしの前に来ている。彼 らの故に不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」 (6:13)。
またソドムとゴモラの町が、その悪に対する神の怒りのもと硫黄の火によ り滅ぼされたと報告されている。この「硫黄の火」は近年の考古学的研究に より、紀元前 1650 年頃死海近辺のヨルダン川東岸における隕石の落下であ ることが判明しつつある。ソドムについて神は三人の使いを介してアブラハ ムに告げた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びがとても大 きい」(Gen. 18:20)。彼は神に願い、五十人の義人がいたとしても滅ぼす のかとソドムの都のために執り成す。彼は義人の存在を十人まで値切り、神 から「その十人のために滅ぼさない」との応答を得ることができた。しか し、ソドムにはそれだけの義人を見出しえなかった。 ダビデの時代にイスラエルにおいて、北の端であるダンから南の端であ るベエルシェバまで疫病がもたらされ七万人が死んだと報告されている (2Sam. 24:15)。「御使いはその手をエルサレムに伸ばして滅ぼそうとした が、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言った、『も う十分だ、その手を下ろせ』」(24:16)。
この物語や義人の値切りにみられるように、旧約において神は擬人化され ており、意見を変え得るものとして宇宙の栄光を捨てた人間的な神として描 かれている。しかし、新約の視点から言えば、これらは真の媒介者キリスト を知らない者たちへの神の憐みの表現として理解される。宇宙の栄光である 神は自らが理解されるべく、旧約人の認知的制約のもとで自然事象を介して 人間と関わる。このように旧約においては神についての普遍的な理論化は遂 行されることはなく、個々の神とひとの今・ここの人間的な交わりが記録さ れている。かくして、旧約の神は、神とひととのあいだを分けない仕方でそ の都度の今・ここにおいて関わる「エルゴン(働き)の神」と特徴づけられ 94
よう。
4. 何故永遠の生命への追求は旧約人には わずかにしか見られないのか
旧約と新約の死生観の論述内容の相違は興味深い。御子の受肉、受難と復 活を介して啓示された福音が相互の連続性と展開とともに、新約から見る限 り旧約における欠落そしてそれ故に待望が明らかになる。ここで、新約の視 点から明らかになる旧約における不在ないし僅少の例を挙げる。(1)永遠 の生命の獲得の記録はもとよりその希求。(2)神と敵とのあいだの執り成 しの働きとその祈り(とりわけ「詩篇」における)。(3)聖霊による肉の弱 さにある個々人への内在を介した呻きを伴う神の肯定的な意志の執り成し。 (4)指導者や預言者たちの有徳者であることの記録、そして立派な有徳な 人間になることへの奨励、ただし神による義人の認証を除く。(5)聖霊に よる一つの身体としての集会、教会の形成。(6)異邦人の救い。これらの 記述が皆無ないし僅かにしか見られない7) 。
ここでは(1)について考察したい。詩人は神への讃美の機会を失わな いためにこの世の生存を嘆願する。「あなたは、わたしの生命を死に渡すこ となく、あなたの聖者が朽ちることを許さず、生への道を教えてくださる」 (Ps. 16:10)。「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐みを乞います。わ たしが死んで墓にくだることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝を ささげ、あなたの真実を告げ知らせるでしょうか」(Ps. 30:10)。「あなたは 死者に対して驚くべき御業をなさったり、死霊が起き上がってあなたを讃え るでしょうか。墓の中であなたの慈しみが、滅びの国で、あなたの真実が語 られたりするでしょうか」(Ps. 88:11)。生きている限りにおいて、一切を 支配し導く神に讃美を捧げることができ、そのなかで祝福を頂くことができ る。
端的に言って、旧約人は直接的な仕方での永遠の生命を待望するというこ とが、ヨブや預言者等特異な状況にある個人を除いては記録されてはいな い。その待望は、民族の集団心理として、楽園追放以後、主の名前を「みだ りに唱えるな」、「貪るな」という戒めに包摂されるタブー・禁忌であり、避 けられたのであろうか。生命の木の実の実質は始めの人間の背きの故に言及
聖書の死生観 95
することさえ許されなかったのであろうか。アダムが裸であることを恥じ、 また茂みに隠れたように、旧約人は神への怖れのなかで自らの心情を吐露し たり、最も重要な願望をさえ安易に要求できなかったのであろうか。復活は あまりに信じがたきことであったのであろうか(Mat. 22:23)。永遠の生命 への希求の記録の欠落は、これらの複合的事情によるものであろう。
フォン・ラートは幾つかの箇所を論拠に挙げつつ、旧約人は来世を望む ことがなく彼が「此岸性」と呼ぶ現実世界への集中を彼らの特徴としてあ げる(Ps. 90:4–11, 34:14ff, 88:6–11, Job. 9:2–5, 29–31, Deut. 3:15ff, Isa. 38:11ff)。「旧約聖書には、死後の生に対する要求はない。それは、人間が 簡単に要求できるものでもなく、まして、自分勝手にわがものにすることが できるものではないことを知っており、それよりも、人間は完全に神の恵み に依存しているということの方が重要だったのです。……この待期期間、つ まり、永生への希望の明白な欠如については、あたかも神が自分の共同体 に、まず、初めに、完全な此岸を与えられたのではないかというふうに説明 できるのではないでしょうか。実際、旧約の定めは、神の此岸に対する意志 を含んでいます。……すべての不安が解消されるであろうと人々を誘惑する 彼岸によって相対化されることはなく、むしろ、大地と人間は、神の側か ら、「出口なし」と示されて、それを真摯に受け止めたのです。……あらゆ る彼岸信仰は、神の此岸に対する意志を無視する明らかな不服従と言うべき です」8) 。
しかしながら、フォン・ラートによる旧約人のこの理解は正しいのだろう か。これまでの論述に基づくとき、少なくとも、「此岸性」と「彼岸性」、ひ との世界と神の世界の分断を含意するこの表現は、生と死を総合的に捉える ことを不可能にしており、貧弱な死生観しか持ちえず、旧約人を矮小化して はいないであろうか。神から「出口なし」を示された人間はどこに希望を見 出すことができるであろうか。より適切な表現を求めるべきである。
旧約においては神が人間と関わる媒体は洪水や疫病そして死等自然事象を 介してであり、そこではこの世界の事象を媒介にして具体的に関わる今・こ このエルゴン(働き)の神の報告で満ちているがゆえに、何か彼岸即ち神の 前の事柄が考慮されずに、此岸即ちこの自然的世界だけが考慮される、その ような印象を与えたのだと思われる。しかし、エルゴンの神はひとの現実世 界から分けられてはいないだけのことであり、その同じ神がどこまでも宇宙 96
の栄光の神である。この神は当然死を支配している以上、死後を考慮してい るが、そのことは新約において明確に知らしめられた。神は旧約人にはアブ ラハムの信仰義認とモーセの業の律法に基づく義認の枠のなかで、自らが人 間的に理解されることを許容しつつ、恩恵を思い起させることにより罪とそ の値である死の乗り越えを迫っていた。罪と死の乗り越えが彼らの課題でな かったはずはない。あたかも旧約人が此岸に閉じ込められたかに見えるの は、神が自ら譲歩して彼らの理解に応じて今・ここにおいて具体的に人間的 な様相において関わったからである。
5. 旧約のエルゴンの神と新約のロゴス及びエルゴンの神
新約において、媒介者が真の人間であり真の神の子である場合には、神の 前、即ち神自らの人間認識と判断から、ひとの前、即ち肉の弱さのもとにあ る人間の自由な責任主体を理論(ロゴス)上判別し、しかも両立的なものと して論じることができる(千葉 2018, 第三章)。ただし、イエス・キリスト を介しての、神のひとへの関わりは神の前とひとの前を分けない今・ここの 具体的な神的かつ人間的働き(エルゴン)であることは常に留意されねばな らない。新約の神を「御子故のロゴスとエルゴンの神」と呼ぶ。まさに「ロ ゴス(理・ことわり)は神であった」(John. 1:1)。
旧約における啓示の媒介は預言者や自然事象であり、それらの今・ここの 働きの蓄積であり、理論があるとしてもこれらの働きの経験の総合として帰 納に留まる。旧約では未だに、一回限りの決定的な啓示に基づき、他の一切 の顕現が理解される新約における総合的神学が構築されることはなく、それ 故に神が自らいかに認識し判断したかの知らしめをそれ自身として析出する ことができない。此岸と彼岸の支配者である神が関わっているという限りに おいて旧約人が出口なき此岸に自らを閉じ込めたということではない。そこ で報告されているのは、永遠の神が人間的となり旧約人と分断されない仕方 で彼岸のメッセージを此岸にその都度伝えたことである。
二つの文書における一方の欠落と他方の充満の対比は興味深く、この著し い論述の相違、そしてそれにも関わらずその連続性をここまで確認した。そ れは同一の神が一つの計画のなかで、決定的な啓示、知らしめを介してそれ 以前とそれ以後の人々の知識をめぐるコントラストを著しいものにしたとい
聖書の死生観 97
う理解を道理あるものとする。ひとの心魂はいつの時代にあっても生死の根 源的な理解においては同じ働き、反応をするという見解は道理あるものだか らである。これは、例えば、人類が持つ同一の知性の展開のもとに科学が進 み、人類が不老不死を獲得した場合、その後の死生観は今とまったく異なる であろうことと類比的である。
旧約における神は自らの正義と憐みを人類に理解されるよう自然事象を介 して自らの人間認識と判断を伝達する、自然化され、擬人化された神として 描かれることを許容している。即ち、人間に近い神であり、人間の自然的生 存を左右する神として人間の、とりわけ窮境における神理解を投影されるこ とを許容している。旧約人と関わる限りの神は、宇宙の栄光としての超越的 な神というより、その都度怒りや後悔などと表現される仕方で人間に関わる 内在的な神と言うことができる、もちろん旧約における宇宙の栄光としての 神讃美は豊かなものでありつつ。新約では神の超越性は御子の媒介によりロ ゴス上確認される。神のエルゴンは御子においてその都度確認される。
預言者たちは今・ここの具体的な状況において民の罪を告発し、神への立 ち帰りを要求している。このやりとりの集積が旧約人の歴史であった。かく して、旧約人は自らの心魂の内面において神の臨在と不在を感じつつ、今・ ここの神との交わりにこそ自分たちの信仰の生命線を見ていたと言うことが できる。救いが自らの外にイエス・キリストのうちに明確に立てられた新約 とは異なり、エルゴンの神の隠れと顕現のもとに自らの心の up and down のなかで自らの心の状態が常に問われていた。「詩篇」はその記録であり、 敵への執り成しを祈る余裕はなかった。旧約人は神について「隠れています 神」と呼ぶことがあるように、十全な神の顕現が与えられない(Isa. 45:15, Deut. 29:28)。「いつまで主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に 火と燃え続けるのですか」(Ps. 89:47–49)。新約においては、この訴えはな されえない。なぜなら、旧約において待ち望んだ「贖い主」、「仲保者」が到 来したからである(Job. 9:33, 33:23, Isa. 43:13, 47:4, 49:7, 54:5)。
しかしながら、顕現も報告されている。ヨブが神の正義を疑い問いかけ 追及したはてに、神が旋風のなかから顕現して言った(神義論については、 千葉 2018, 456–462)。「これは何者か、知識もないのに、言葉を重ね、神 の経綸を暗くするとは。男らしく腰に帯をせよ」と応答したその時に、そ の事実だけで、ヨブの一切の懐疑は払拭され、喜びに満たされている(Job. 98
38:1–3)。イザヤは「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」の顕現に恐れ慄き つつ「滅び」を覚悟したが、火鉢による唇の清めにより「汝の咎は取り去ら れ、罪は赦された」という今・ここの罪の赦しの経験にいたっている(Isa. 6:3–7)。旧約人はこの今・ここの働きを求め、何らかの顕現により満たさ れつつ待望を続けた民族であった。
6. 結論
エルゴンの神、即ちひととその都度の今・ここにおいて関わる神が前史と して描かれなかったなら、父と御子の協働行為としての福音は正しく福音と して位置づけられなかったことであろう。あの準備期間においてこそ、同一 の神の御子の派遣の必然性と、さらには罪と死の克服としての受肉、宣教、 受難、復活の主は正しく理解されるにいたる。かくして、他の民族の歴史か らはナザレのイエスは誕生しなかったという理解は道理がある。同様に生と 死も旧約のあの禁欲的な準備なしに、総合的な理解はかなわなかったであろ う。
もしユダヤ人の歴史のなかでの受肉はもとより、何の歴史的交流なしに UFO のようにアブラハムの時代に神が全人類に突然現れ、神自身が人類の 創造者であることを知らしめたとして、それは人類の歴史になんら関わらな い神である。その神による救済は棚ぼた式であり、多くの人はたとえ宇宙船 を操る認知的卓越性を認めたとしても、人格的な正義(公平)と愛(憐み) の両立を知ることはなかったであろう。即ち、信に基づく正義を介して自ら の罪が贖われたこと、罪と死に対して勝利が与えられ、懲罰としての死が永 遠の生命に飲み込まれたその神の愛を信じるに至らなかったであろう。
「見よ、わたし[パウロ]は汝らに奥義を語る。われらすべてが眠りにつ くということにはならず、かえってわれらすべてが、不可分の間に、瞬く間 に、最後のラッパにおいて、変化させられるであろう。というのも、死者た ちもまた、ラッパが鳴ると、不死なる者たちとして甦らせられそしてわれら もまた変化させられるであろうからである。というのも、この朽ちるものが 朽ちないものを着させられそしてこの死ぬものが不死を着させられねばなら ないからである。しかし、この朽ちるものが朽ちないものを死ぬものが不 死を着させられるであろうとき、そのとき書き記された言葉が出来事にな 聖書の死生観 99 るであろう。『死は勝利に飲まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにあ る、死よ、汝の棘はいずこにある』[Isa. 25:8, Hos. 13:14]。罪が死の棘で あり、罪の力能が[罪の]律法である[Rom. 7:23]。われらの主イエス・ キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する。かくして、わが愛する 兄弟たち、あらゆるときに主の働きにおいて満ち溢れつつ、汝らの労苦が主 にあって無駄なものではないことを知りつつ、動かされることなく、堅固た れ」(1Cor. 15:51–58)。
ユダヤ民族の歴史の展開においてモーセ律法(「業の律法」(Rom. 3:19– 20, 3:27))が先ず神の意志として啓示され、その正義の規準との関連で神 への背きが告発され、この民は祝福とともに罪の懲罰を受けてきた。そのな かで時が満ちてもう一つの神の意志(「信の律法」(3:27))が御子の受肉と 信の従順の生涯により福音として啓示されている。罪とその値である死が克 服された。
新約の視点から「へブライ書」記者は旧約の人々をこう特徴づけている。 「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、 約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさった ものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結されることがな いためである」(Heb. 11:39–40)。旧約人は新約人を待って初めて彼らの生 が何であったかが初めて明確にされ、完結されるものであった。
旧約人の宿命として、彼らは神と自らの交わりのエルゴンの積み重ねをア ブラハムの信とモーセ律法のもとに続けた。そこには祝福と懲罰の経験が あった。自らの心魂を離れて神の審判に耐えうる力はなかった。新約人は自 らの外に、イエス・キリストのうちに自らの救いの力を見出した。旧約人は 明確な知識をもたずにも神の義と愛という一本の道を忍耐のもとに歩み続け たそのただなかに、キリストを待望するエネルギーが蓄積されていったので あった。 100
注 1) 新約からの引用は私訳を用い、旧約からの引用は基本的に日本聖書協会『新共同 訳』(1987)を用いる。
2)「天」は旧新約全体で約 650 回使用のうち「天から」は旧新約それぞれ約 60 回現 出、「御使い」は旧約で約 50 回、「天使」は新約で約 200 回現出。前掲辞典。
3) 本稿は多くの箇所において千葉(2018)の論述を前提にしており、関連ないし詳 述箇所は本文内で示す。
4) この文章で旧約の記者の一人であり神を表現する際、固有名「ヤハウェ」を用いる 「ヤハヴィスト」においては具体的な記述が多く定義を企てることはないとされて いる。これはこの文書一般の傾向であり、理論的な展開よりも神とひとの具体的な 関わりが記録されている。
5) 生命と魂そして永遠の生命につらなる霊について、即ち、聖書が展開する心身論に ついてのより詳しい議論は、千葉 2018, 第四章「パウロの心身論」を参照された い。
6) カトリックとプロテスタントにおいて、最初の人間の腐敗はどれほど著しいかの論 争がある(千葉 2018, 第八章、九章第二節一)。カトリック教会は 4 世紀ヒエロニ ムスによりラテン語に翻訳されて以来聖典とされた Vulgata 版を 1970 年の Nova Vulgata において、アダムの原罪が血を介して遺伝的に伝わるという遺伝罪という 考えの典拠とされることもあった箇所(「ローマ書」5:12)の翻訳を修正している。 罪は神の前の概念であって自然的な概念ではなく、罪の遺伝子が子孫に伝達される という類の議論はなされえない(千葉 2018, 上巻 32, 705–710)。遺伝罪という理 解は既に克服されたとして、人類はすべて神の前に罪を犯したと理解されている。 アダム以来、ひとびとはずっとアダムを「模倣」(ペラギウス)してきたと理解さ れる(千葉 2018, 第六章 147)。あるいは、「模倣」という言い方が躓きを与える とすれば、神の前に一度は嘉みされなかった者として振る舞ってきたことになる。 「すべての者は罪を犯した」(Rom. 3:23, 5:12)。
7) 旧約人は新約において知らされているキリストの一つの身体を形成するそのような 共同体や教会の観念をもたなかった。C. H. マッキントッシュは言う、「個々の霊 の救と教会を一の特別の存在として聖霊によりて組成する事とは全く別事である。 ……旧約聖書にはどこにも教会の神秘について直接の啓示がない」(C.H.M. 1927, 16, 18)。「エペソ書」において使徒は言う。「キリストの奥義は、今彼の聖なる使 徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人 の子たちには知らされてはいなかった」(Eph. 3:4)。
8) フォン・ラートは J. ウェルハウゼンの問いを紹介する。「宗教的な動機をもった誠 聖書の死生観 101 実な人たちが、それほど長く、死後の永生への希望なしにありえたのはなぜか」。 ラートはこの問いが事実に即したものではないとし、「なぜなら、旧約聖書には、 死後の生に対する要求はないから」と理由を提示する。しかし、これは人間本性か らして、また生死の本性に鑑みて、旧約人に対する過度の要求、また過度の特殊民 族性への要求が含まれている(フォン・ラート 2021, 67–68)。
参考文献 木田献一/和田幹男監修 1997:『新共同訳聖書コンコルダンス:聖書語句辞典』キリ スト新聞社。 千葉 惠 2018:『信の哲学』上巻、北海道大学出版会。 フォン・ラート 2021:「旧約聖書における生と死についての信仰証言」『ナチ時代に 旧約聖書を読む:フォン・ラート講演集』荒井章三(編訳)、教文館。 C.H.M(Mackintosh, C. H.)1927:『創世記講義』黒崎幸吉(訳)、一粒社。 Von Rad, G. 1978: Theologie des Alten Testaments 7 Auflage, München: Kaiser Verlag. 102
Life and Death in the Bible: From Accumulations of Expectant Waiting in Preparation in the Old Testament to its Fulfillment in the New Testament CHIBA Kei
There is a salient difference in the treatment of life and death in the Old and New Testaments which are edited as a consecutive Book. While there are few appearances of passages in which people yearned for eternal life in the former, plenty such passages are found in the latter. Jesus Christ is truly a son of God and truly a man as the Mediator between God and man, whose resurrection is supposed to have taken place only once in human history. The event of his resurrection led to a leap in understanding life and death among people who received the Gospel which the Old Testament had prophesied. Gerhard von Rad explained the attitude of the Israelites in the Old Testament as ‘this worldliness.’ By opposing this characterization which inevitably severs life from death, and things before God from things before man, I explain why ‘there is no demand of life after death’(Rad) in the Old Testament. God associated with the people in the Old Testament through natural phenomena such as floods and meteorites, by allowing Himself to be described and personified with emotions such as regret and anger. This is an expression of God’s mercy to be understood by those who do not know the Mediator. God is at work here and now through natural phenomena in the Old Testament and through His only son in the New Testament. In the latter, we can understand God not only by His unsevered acts between Him and man through the Mediator here and now, but also by the lucid universal account that shows God’s will and cognition revealed in His son without appealing to Holy Spirit’s work of intercession. Therefore, we can call the God of the Old Testament as ‘God of ergon (being at work here and now)’ and Him of the New Testament as ‘God of both ergon and logos.’
「量り」の反射性(1)
春の聖書講義 4月30日 (原稿を用意しましたが、講義は自由に話しています。先週休講であったため、二週分の話をしたうえで対話を促します。対話は録音されていません。量りの反射性の話は複数回続きます)。
「量り」の反射性(1)
—道徳的反射性の主張は自然や歴史をも含めどこまで普遍的な法則か―
「ひとを裁くな、裁かれないためである。というのも汝らが裁くその裁きにおいて汝らは裁かれ、汝らが量るその量りにおいて汝らにも量り与えられるからである。なぜ君はきょうだいの目にある塵を見るが、自分の目にある梁に気づかないのか。或いはどうしてきょうだいに向かって「君の目から塵を取らせてくれ」と言うのか、見よ、自分の目に梁があるではないか。偽善者、まず自分の目から梁を取り除け、そのとき君はきょうだいの目の塵を取り除くべくはっきり見るようになるであろう。神聖なものを犬たちにやるな、汝らの真珠を豚どもに投げてやるな、豚たちはそれらを脚で踏みつけ、向き直って汝らに突進してくることのないように」(マタイ7:1-6)。
「汝らの天の父が憐み深くあるように、憐み深くあれ。汝らはひとを裁くな、そうすれば裁かれないであろう。ひとを咎めるな、そうすれば咎められないであろう。赦してやれ、そうすれば赦されるであろう。与えよ、そうすれば汝らにも与えられるであろう。人々は [穀物を]押込み、揺すり込み、溢れている良い量り(metron kalon)を汝らの懐に入れてくれることだろう。というのも汝らが量るその量りで汝らに量り返されるからである。イエスは彼らに譬えを語った。盲人が盲人を導くことはできない。双方とも穴に落ちるのではないか。弟子は師に優らず。しかし皆訓練することにより自分の師匠と同じようにはなるであろう。しかし何故君は君のきょうだいの目にある塵を見るが、自分の目にある梁に気づかないのか。どうして君は自ら自分の目にある梁を見ることをせず、君のきょうだいに「きょうだい、わたしに君の眼にある塵を取らせてくれ」と語ることができるのか。偽善者、まず君の眼から梁を取り除け、そのとき君は君のきょうだいの目にある塵を取り出すようすっかり見えるようになるであろう
」(Luk.6:36-38)。
1反射性の諸次元
1.2二つのテクストの共通性と強調点の異なり
ここで「裁く(krinein)」とは、ちょうど羊飼いが羊と山羊を「えり分ける」ように、究極的には最後の審判において栄光の主が「栄光の裁きの座」につき、正しい者と不義な者を「右」と「左」に分ける、そのようなことがらに向かう過程である(Mat25:31-33)。パウロは途上の人間が裁くことを「罪に定めること」「有罪判決すること」「咎めること」と訳されうる語句(katakrinein)を用いる。それは自らに反射的に返ってくるものであるとして言う。「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を罪に定めている(katakrineis)からである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。裁き合うとき双方とも同じ業の律法のもとにあり、赦しではなく罪に定めあっている。
罪に定めることは旧約におけるモーセの業の律法の仕事である。「裁くな」においてイエスはモーセの業の律法の適用の否定にまで至っている。イエスは旧約の伝統のただなかで神の国の福音を持ち運んだ。「聖書」は神がそこにおいてひとと共にある「旧い契約」と「新しい契約」に基づき編集された。それは神の意志の知らしめが「モーセの律法」「業の律法」から「キリストの律法」「信の律法」へと展開されたことに呼応する (Jer.31:31,Rom.3:27,1Cor.9:9.21)。
日常生活においては目の梁に対する呪いとしての断罪もあれば、目の塵と言える軽微な生活習慣に至るまでひとは誰かに否定的な態度を取ることがある。「裁き」は様々なレヴェルで遂行されている。このグラデーションとでも言うべき審判の濃度の変異はイエスが前提にしている「量り」と呼ばれる道徳的判断規準の適用範囲の普遍性に見られる。この普遍性はひとは誰もがそれにより隣人の行為や人格を認識し判断する時に用いる規準(道徳的判断の視点)のそれである。それはマタイとルカで同様の文言において報告されている。マタイでは「汝らが量るその量りにおいて汝らにも量り与えられる」と、ルカでは理由文において「というのも汝らが量るその量りで汝らに量り返されるからである」と報告されている。
両福音書において同じ反射性が前提にされているが、マタイでは裁きと異なる識別することの重要性が説かれ、ルカでは赦しや贈与等肯定的な行為の反射の豊かさが強調されている。そのうえでひとは誰もが自らの認識規準、判断基準のもとでひとや出来事を判断せざるをえないが、それは神の意志や認識にできる限り対応するように遂行せよと命じられる。「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全であれ」(Mat.5:48)。そのとき、ひとの目から塵を取ってあげることができ、歴史に肯定的なものを遺すことになる。
1.2 自然法則上の反射
反射性を一般的な文脈にどれだけ拡張できるかは興味深い問である。反射性は様々な次元で語られうる。ひとつには自然的な次元、また自己完結的な次元、さらには対人関係の次元、そして歴史上時間を経たうえでの反射性を経験する次元等が想定される。ひとは色眼鏡をかけると、網膜に映る映像は脳における処理を介してその色を反映したものとして現れ見て取られる。これは自然的な反射性の一例である。
1.3 行為における自己完結的な反射
ひとは数多くの選択肢のなかから一つをその都度最善と判断し選択するが、その行為を選択すること自体が一つの反射性の報いを受け取っている。「悪行の報いは悪業そのものである」と言われる文脈である。善業もそうであり、誰も見ていないところで誰かを助けたり、何らか良き行為をするとき、そうしなかった自分から自らにくだす識別や裁きとは異なる、良い自己認識を獲得する。これは自己完結的な次元における反射性である。
1.4 対人関係の反射と負のスパイラルを克服する応答
さらに、ひとの善意を信じて接する人は善意で返されることの多いことも、悪意をもって接するひとが悪意をもって返されることと同様に、しばしば経験することであろう。信用できないと認識しているひとの行動の受け止めはそこに裏があるのではないかと思え、ますます信用できなくなり負のスパイラルに陥ることも起きよう。喧嘩や戦争の報復合戦、応酬は対人間の反射性の否定的な好事例である。とはいえ、視点を換えて接することにより「見直した」ということが起こることも事実であり、改善していることを発見したり誤解していたことに気づくことも日常の経験である。パウロは悪意をもって向かってくる者に善意をもって返せと励ます。それによってしか負のスパイラルを逃れることはできないからである。「汝らを迫害する者たちを祝福せよ、祝福せよそして呪うな。喜ぶ者たちと共に喜び、泣く者たちと共に泣くこと。互いに思いを同じくし、高ぶった思いを抱かず、低き者たちと共にありつつ。汝ら自らの側で賢き者となるな。誰にも悪に対して悪を報いることなく、あらゆるひとびとの前で善き事柄に配慮しつつ。可能なら、汝らの側からはあらゆるひとびとと平和を保ちつつ。愛する者たち、自ら復讐することなく、むしろ怒りに場所を与えよ。まさにこう書いてある、主は言われる「復讐はわれにある、われ報いるであろう」。むしろ、「もし汝の敵が飢えるなら、手ずから一片食べさせよ、渇くなら、彼に飲ませよ。なぜなら、こうすることによって汝は炭火を彼の頭上に積むであろうからである」。悪によって負かされるな、善によって悪に勝て」(Rom.12:14-21)。
1.5 時間経過を伴う歴史上の反射
時間の経過を経ての反射性も経験することがある。種蒔きの譬えで神の言葉が「良い土地」に蒔かれることもあるが、これに比せられる「美しくかつ良い心」は、「言葉を聞いてしっかり受け止め忍耐をもって実りをもたらす」能動的な行為において確認される。良い果実をもたらす者は自らが後に神の言葉が蒔かれた良い土地であったと認識する。反射性の法則がここで神の言葉の能動的な受容とその果実から語られているが、時系列においては自らが神の言葉が蒔かれた良い土地であると受け止め信じて励む者は良い果実を生み出す。ここで自ら量る量りは良い土地であることの信であり、その信のもとにある能動が「他の種は良い土地に落ち、成育して百倍の実を結んだ」(8:7)その結果をもたらし、結果にその信が反映されている。これは判断規準として肯定的な信を置いた場合のそれにより量られる果実である。
ひとが「泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶ」(Rom.12:15)とき、そこで分かち合われる共感の応酬も反射性の肯定的な好事例である。当方の態度に応じて、何らかの反射的な受け取りがあるということは道徳的判断から始まり、一般的な認識にいたるまで適用される普遍的な法則であると言えよう。マルコはイエスの言葉をこう報告している。「汝らが量るその量りにおいて汝らに量り与えられるであろう。というのも、持っている者は自分に加えて与えられるであろうし、また持たない者は持っているものをも自分から取り上げられるであろうからである」(Mac.4:24-25)。前向きな規準により取り組む者はさらに成功し、後ろ向きな規準により消極的に取り組む者は失敗することになる。ただし、人間関係においては他者からの「受け取り」は一様ではないことは言うまでもないが、悪意に対し忍耐をもって善意により応答するとき、負のスパイラルの反射から解放される。反射性の法則は或る理解のもとにある自己とその理解により帰結において量られる自己とのあいだまたは自己と自然的な応答さらに神による応答とのあいだに限定するときより確かなものとして普遍性を主張できるであろう。
このように「裁くな」という戒めにはより広い適用を持つ審判や計量の反射性とでも言うべき能動と受動の相即が前提になっている。自らあてがう認識や判断規準が自らを量る尺度になると言われる。キリストを尺度にする者から神に意図的に背くことを尺度にする確信犯のあいだで尺度・量りが推移する。イエスの認識、判断規準は山上の説教においてとりわけ先鋭化されて報告されている。
契約における信の力と規則—組織管理と仕えること—
春休み聖書講義 2023年2月26日
契約における信の力と規則—組織管理と仕えること—
「愛は不作法をせず、おのれの利を求めず、いらだたず、悪を数えない」(1Cor.13:5)。
「聖書」は「旧い契約」と「新しい契約」に基づき編集されている。それは神の意志が「モーセの律法」「業(わざ)の律法」から「キリストの律法」「信の律法」への知らしめにおいて展開されたことに対応する(Rom.3:27,1Cor.9:9.21)。学寮にもモーセの「業の律法」に比せられる寮則がある。寮則は神の啓示ではなく、生命に与りやすい「信仰的清純の環境」(学寮設立趣意書)を備えるための、人間の責任ある自由のもと改訂可能な生活の指針である。入寮のさい相互の信頼のもとに契約を交わし、約束に信実であり正しい人であると信じ共同生活を遂行する。その信に基づく正しさが証明されるのは愛の果実を生むか否かであると受け止め、相互に愛するよう努める。愛とは支配からも被支配からも唯一自由な場で出来事となる我と汝の等しさである。友と友、寮生と寮長、妻と夫等この等しさのもとにある愛の感情実質は端的な喜びである。そこでは共同生活は楽しく豊かなものとなる。管理者の喜ばしい職務は、寮生各位に神の愛を注がれているという信を常に刷新しつつ、各位の健康を守り、学業を支援し立派に社会に送りだすことである。これが信→義→愛(「義の果実」)の一本道であり、学寮はその実験の場であり、この一本道を歩んできた先達たちの細い真っすぐな光の道を仰ぎ見る度に励まされる。
寮則は経験に裏付けられた愛の具体化の目安、参考にすぎず、クラーク先生は札幌農学校一期生に「紳士たれBe gentleman!」とだけ語った。愛と信頼に生きる者は感謝と賛美のうちに、旧約の数百ある律法は信の律法のもとでの愛に変換され、業の律法を言挙げせずにすべての律法を満たす。「愛を媒介にして働いている信が力強く」、「愛は律法を充足する」(Gal.5:6,Rom.13:10)。寮則例えば「23時以降自由に食べてよい」は「食べた奴シバク」から「信の律法」のもとで「お腹をすかした人に食べてもらえて嬉しい」に変換される。
学寮に赴任したさいに「寮生活が不適の場合には退寮することに同意します」という「誓約書」を見て、驚いた。擬人化される罪は「神はそう言ったのか」とエヴァを誘惑する蛇のように、文字としての律法を殊の外好み寄生し、神と人との関係を破壊すべく誘惑する。もちろん罪は生きた「聖」(7:14)なる神の意志に歯向かえないが、「モーセは死に仕える務め」を引き受け、石板に自ら刻み直したその十戒には寄生できる。パウロは言う、「文字は殺し、霊は生かす。もし石の文字のうえに形成される死に仕える務めが栄光のうちに生じており、用いられなくなる彼の栄光の故にさえイスラエルの子らがモーセの顔を直視できないほどであるなら、どうして霊に仕える務めがいっそう栄光のうちにないことになるであろうか」(2Cor.3:6-8)。モーセの顔の輝きは束の間であり、輝きの喪失を恐れ「自分の顔に覆いをかけた」(2Cor.3:13)。かくして、「誓約書」について「この伝家の宝刀をゆめゆめ(努々)抜いてはならぬ」という自戒は新たにひとを縛る文字となり、さらに、罪に負かされてしまうであろう。
律法主義とは「~為すべし」の命令法が先行し、直接法「君は義である」が後行する。福音は直接法「君は義であり救われた」が先行し、命令法「それにふさわしい実を結べ」が後行する。パウロは言う、「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。
イエスが福音を実現しつつあるとき、「律法の一点一画とも廃棄されない」という山上での純化された語りははモーセ律法の新たな機能が罪を知らしめ福音に導くことにあることを知らしめている(Mat.5:18,Rom.7)。「先ず神の国とご自身の義を求めよ」(Mat.6:33)。福音は信に基づく義として歴史に打ち立てられた。悔い改めとは山上の説教を満たしえない自己に苦しみ信の律法のもとに移行することである。「神に即した苦悩は後悔なき救いに至る悔い改めを働く」(2Cor.7:10)。自らの正義を主張する者は自らの生活様式を維持したまま、自らの義の規準のもとに他者を審判するが、神の意志に即す悔い改めとは高ぶる自らが御子とともに磔られたと信じ、そこから解放され「キリストの律法」(Gal.6:2)のもとに彼と共に生きる者となることである。
神は公平であり、「神には偏り見ることがない」(Rom.2:11)。神は、一方、古い旧約律法のもとに生きる者には業の律法を適用する。そこでは「すべての律法を為す義務がある」こと故に、「律法を行う者たちが義とされる」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」(Gal.5:3,Rom.2:13,2:6)。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と報告される時、ヤコブは信の律法のもとに生き、エサウは業の律法のもとに生きたことが想定されている、ただエサウがその後悔い改める可能性は否定されていない(9:13)。「滅びにふさわしい怒りの器を大いなる寛容のうちに忍耐したのなら・・」どうか(9:22)。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」(11:22)。
神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は目が曇らされ神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできない。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した」(1:28)。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるであろう。
信の律法のもとに生き「神の善性」に留まろうとする者への審判規準は「イエスの信に基づく者を義とする」神に対する幼子の信を抱くか否かである(11:22,3:26)。イエスはユダヤ教の伝統のただなかに「新しい契約」である福音を実現すべく信の従順を貫いた。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けてそして酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。
業の律法の適用のもとでは姦淫者ダビデは救われない。パウロはダビデの詩を引き信じる者の義を語る。「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものと看做される。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される。ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:4-8)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに審判することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みした。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。
寮則では朝礼拝出席しない者には朝食は「保障されない」。誰かがそのような「罰」を受ける筋合いはなく朝食分の金銭的保障を求めたとしよう。ここでも経営と創設の精神の実現という基本的なディレンマが顔をだす。まず管理者には寮生の健康を守ろうとする親の愛があるかを自ら吟味する。同時に健康のために生活を改め規則正しく7時に起き、共に讃美歌により心を清めて始めようと励ます。寮の支援者のおかげで市況より安く生活できている事実さらに調理職員は朝食三時間勤務の契約でありその後は住み込み職員の奉仕であることを伝える。それでもパンフに「二食付き」とあると抗弁されたなら、聖書には神は公平であり、「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」(Ps.18:26)という諺を伝える。神が僻む者に僻む者として振る舞うとあるのは自らの魂の歪曲を神に投影しているからであり、悔い改めない限り憐み深い神に出合うことはない。僻む者は自らの欲望や思いを世界と神に投影し、その枠のなかでしか世界や神を思い描くことができない。 朝を皆で七時に食べ心を清めて一日を始めようという励ましを、脅しや罰という拗けた思考しかできず信頼のないところでは、業の律法に訴え寮則違反を指摘する。それはちょうど法治国家が「徒然に剣を帯びているわけではなく」、相対的自律のもと法による強制力を持つのと類比的である(Rom.13)。
「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」(Mat.22:21)。もちろん一切は神のものであるが、人間には委ねられているものがあり、また「肉の弱さ」「頑固さ」の故に法や政治そして経済制度等「人間中心的」にものごとに取り組むことが許容されている(19:8,Rom.6:19)。神の前にあることと法治国家のもと相対的自律性のもとにあることの関係は常に吟味される。パウロは命じる、「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て。自ら識別することがらにおいて、自らを審判しない者は祝福されている」(14:22)。神の意志の啓示すなわち神がキリストにおいて為したことがらを常に自らのこととして責任ある自由のもとに受け止める。「信に基づかないすべてのものごとは罪である」(14:23)ことを思い起こし、自らの責任ある自由において遂行することがらが、信仰に基づくものであり審判でないかを吟味する。管理者は啓示された二つの神の意志の類比のもと相対的に自律した自らの責任において寮則を適用するが、主の如く赦しきれなかった自らの胸を打つこともあろう。
パウロは信じることの喜びをうたう。「希望の神が、汝ら聖霊に満ち溢れるべく、信じることにおける喜びと平和で満たしたまうように」(Rom.15:13)。「今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(8:2)。この生命のなかで、規則は愛の目安、参考となるが、これらの規則は社会環境等により改変されることもあろう。寮則はモーセ律法のように神に啓示されたものではなく、生命に与りやすい環境を整えるための、人間中心的な生活の指針であり改訂可能である。しかし、人類には愛されたことの信に基づく義とその果実としての愛の一本道が照らし続けられている。十字架上で既に愛されていることを信じて、その都度業の律法に死に悔い改め信の律法に生きよう。それ以外に否定的なもの、破壊的なものを歴史から排除する道はないのである。
平和への道(4)―一本の真っ直ぐな道―
日曜聖書講義2月5日(本年度最終講義)
平和への道(4)—一本の真っ直ぐな道―
聖書「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない」(マタイ7:13-14)。
はじめに
本年度最終講義です。35回目です。今回で学寮を巣立つひとびとには別れの集まりということになります。無教会の伝統に即して「聖書講義」という名前ですが、これは毎朝食事をとるように、心の栄養を取る営みなのです。レシピのように情報としての知識の提供がおこなわれつつ、神様と出会い魂が刷新されるそのような場となることを願って毎週続けてきました。語る者拙く、35回提供された聖書の話をおいしくない、食べたくないと思う事が多かったことでしょう。ご自分の生活と関連性を見出せないと思うこともあったことでしょう。それでも最後まで出席し、共に食事に与ってくれた皆さんにはありがとうを、言いたい。よかったです。これが今後の人生にとって、少しでも栄養になればと願っています。語る者の第一の務めは毎週福音に立ち帰り魂が刷新され喜びをもってここに立つことです。このつとめに従事できたことは感謝です。魂の刷新なしには日曜のこの話はできないのです。
2悔い改め
魂の刷新とは「悔い改め」と呼ばれる。その果実はイエスの「謙遜と柔和」をいただくことである。イエスは彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(Mat.11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙りが伝わる。栄光を捨ててのご自身の自己卑下が弱小者への祝福を裏付ける。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂くことにより、ひとは謙遜を学び自らより弱小者への憐みを頂き、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者になることができるであろう(Gal.6:1,Mat.5:9)。
食事の前に手を洗うように、霊の糧をいただくには悔い改めが必要とされる。眼差しをこの世のこと、おのれのことから、天に向け直すことが求められる。「ひとよ、汝は神の裁きを逃れると思うのか。それとも汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか。汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しい裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」」(Rom.2:3-6)。
悔い改めとは業の律法から信の律法に立ち帰ること、そしてそこで罪赦されたことを確認し、その証拠は隣人を愛しうることであるその信から義から愛への一本道を歩みうることである。業の律法から解放されることにより、600数十ある旧約律法は信の律法のもとにある愛に変換されている。ただ信による愛の実現に向かう一本道をキリストは指し示している。パウロは「ガラテア書」において自らの自覚としてこの業の律法から信の律法への移行を罪の値である死からキリストにおける生への移行として語る。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。
3 モーセは顔にヴェールをかけたがわれらはキリストを着る
モーセは神の山で業の律法を与えられた。彼が十戒をさずかり麓におりてきたとき、彼の顔は輝いていたが、その輝きが消えるのを恐れて顔を隠したことが「出エジプト記」(34:33)において報告されている。パウロはその輝きの消えていくのを恐れてヴェールをかけたモーセを見逃さなかった。文字として律法を受けとめる限り、それは罪の寄生の巣となる。だからこそ、神の義は「律法を離れて」(Rom.3:21)福音において新たに啓示されたのである。パウロは福音により霊に仕える務めを死に仕える務めである業の律法と対比して言う。「もし石の文字のうえに形成される死に仕える務めが栄光のうちに生じており、用いられなくなる彼の栄光の故にさえイスラエルの子らがモーセの顔を直視できないほどであるなら、どうして霊に仕える務めがいっそう栄光のうちにないことになるであろうか」(2Cor.3:7-8)。神の山で十戒を与えられたモーセの顔の輝きはつかのまであり、彼は輝きの喪失を恐れ「自分の顔に覆いをかけた」(2Cor.3:13)。モーセは死に仕える務めを引き受けたのである。より少なく根源的な神の意志である律法は、かくして、悔い改めを介してキリストに導くものとして新たに位置づけられる。「神に即した苦悩は後悔なき救いに至る悔い改めを働く」(2Cor.7:10)。
業の律法の適用のもとでは「律法を行う者たちが義とされるであろう」(Rom.2:13)。それ故にダビデのような姦淫者は救われない。パウロはダビデの詩を引用しつつ信の律法のもとにある者をこう特徴づける。「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものと看做される。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される。ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(4:4-8)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みした。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。
パウロは命じる、「汝らは主イエス・キリストを着よ、そして欲望どもへの肉の計らいを為すな」(13:14)。「着る」とは神の前に立つとき、われらがわれらをわれら自身において考慮することなしに、彼の義を着ている限り、つまりその信が嘉みされている限り、たとえ自らの内面が清められていなくとも、自らの業(わざ)の実力にかかわらず、神は罪と死に勝利したキリストの信義に基づく愛においてわれらを見たまうということである。詩篇詩人は言う、「不法を赦され罪覆われし者は祝福されている」(Ps.32:1)。われらはキリストのヴェールを着せてもらうとき、神はわれらのこの醜悪な罪の現実を直視することなく、罪覆われた者として見給う。キリストがわれらの楯であり砦であり、衣服である。
4「わたしは神によって生きるために、[信の]律法を介して、[業の]律法に死んだ」
パウロは「ガラテア書」において言う。「われらは自然本性においてユダヤ人であり、[業の律法を何らかの仕方で遵守しており]異邦人に基づく罪人ではない。しかし、ひとはイエス・キリストの信を媒介にしてでなければ、業の律法に基づいては義とされないことをわれらは知っているので、われらもまたキリスト・イエスを信じた、それはわれらがキリストの信に基づきそして業の律法に基づかず義とされるためである。というのも、すべての肉は業の律法に基づいては義と看做されないであろうからである。しかし、もしわれらがキリストにおいて義とされることを求めつつ、われら自身もまた[業の律法に基づく者と同様に]罪人であると見出されたなら、それではキリストは罪に仕える者なのか。断じて然らず。というのも、もしわたしが廃棄したものども、それらをわたしが再び建てるなら、わたしは自らが違反者であることを証明するからである。というのも、わたしは神によって生きるために、[信の]律法を介して[業の]律法に死んだからである。わたしはキリストと共に十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている。しかし、わたしは、今わたしが肉において生きているところのものを、わたしを愛しわがためにご自身を引き渡した神の子の信によって、信において生きている。わたしは神の恩恵を無駄にしない。というのも、もし義が[業の]律法を介するものであるなら、キリストは空しく死んだことになるからである」(Gal.2:15-21)。
この「ガラテア書」においてパウロは直截である。もはや自分は生きていないと言う。キリストを着ることによって、彼がわたしのなかで生きていたまう。キリストが共に生きているとき、われらはただ信から義そして義から愛への一本道を歩む。数百あるモーセ律法は「信の律法」(Rom.3:27)すなわち「キリストの律法」(Gal.6:2)のもとに愛に変換されている。われらはわれら自身の力では愛を充たすことができない。ただ、悔い改めにより信に立ち帰る。モーセ律法に対しては死んでしまったのである。この再生が悔い改めである。そこにキリストの現在(presence)と呼ばれる聖霊が宿っていたまうことであろう。パウロが「ローマ書」で信仰義認の理論を展開するが、その理論を読む者を聖霊がそこにおいて執り成していると理解することを妨げるものは何もない。パウロが「キリストがわたしを介して[神の知恵の]言葉・ロゴスによってそして[聖霊の]働き・エルゴンによって成し遂げたこととは何か別のことを語ることはないであろう」と報告するとき、彼は自覚として今・ここで働く聖霊の執り成しのなかで信仰義認論を展開している(Rom.15:18)。
5「すべて木に架けられた者は呪われている」―文字に寄生する罪による「律法の呪い」―
「ガラテア書」においてパウロは業の律法のもとにいる者の「呪い」をこう語る。「誰であれ業の律法に基づく者たちは呪いのもとにある。というのも、こう書いてある、「律法の書にそれらを為すべく書かれているあらゆるもの[戒め]に留まらない者はすべて呪われる」。しかし、律法のうちにある誰も神の前に義とされないことは明らかである。というのも、信に基づく義人が生きるであろうからである。しかし、律法は信に基づいておらず、「それらを為す者が律法において生きるであろう」。キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした、われらの代わりに呪いとなることによって、というのもこう書いてある、「すべて木に架けられた者は呪われている」」(Gal.3:10-13)。
ここでの問いは誰に或いは何にキリストが呪われたのかというものである。「律法の呪い」の「の」は文字の律法に囚われることによる呪いという理解に導く。「われら」は、罪が寄生する文字としての律法に囚われ欺かれ、キリストを磔た。そこから「われら」はキリストが代わりに呪われることにより「贖い」だされている。律法は神の意志としては「聖」であり「霊的」である(Rom.7:12,14)。しかし、モーセは神の指で書かれた十戒の石板を怒って割ったために、主の契約を新たに自ら書き直している(Exod.34:28)。「文字は殺す」(2Cor.3:6)。なぜなら、罪は霊的な効力のない文字としての律法には寄生しひとを神に背くよう唆すからである。ひとは自らの肉を「貪る」(Rom.7:7)とき、罪により文字としての律法が利用され誘われわれらを神に背かせる。
キリストが「われらの代わりに呪いとなることによって」により、罪の寄生のもとにある神に背いた人間に呪われたと理解すべきである。罪のないキリストが生ける神に呪われることはやはり想定できない。そこでは神が不義となる。罪に誘われた人間たちの罪をキリストが受苦するという意味において呪われ、彼はその木に架けられるという「呪い」を通じて彼らの呪いからの贖いを遂行した、自ら信の従順を貫くことにより呪いに打ち勝ったという仕方で。神はそこで御子がわれらの肉に寄生する罪に呪われ死に至ることを認可している。その身代わりの愛故に神が予めご自身の子と定めた者たちに無償の「贈りもの」を与えることができる(Rom. 3:24)。
結論 業の律法の新しい機能と永遠の生命
福音が啓示されることにより、パウロは「ローマ書」七章で業の律法に新たな機能を見出している。彼はそこで肉と「内なる人間」(7;24)と罪の三つ巴を描くが、誰であれ「汝貪るな」(7:7)と二人称で命じられている者が仮想的な一人称「われ・わたし」として誰にも当てはまる仕方で主語に立て、自らに巣食う罪の罪性の著しさを知ることによって葛藤し、その葛藤を通じて悔い改めに至る過程を論じている。悔い改めとはモーセ律法からキリストの律法のもとに方向を転換することである。
新しい葡萄酒は新しい革袋に入れられねばならない。「ガラテア書」において「キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした、われらの代わりに呪いとなることによって」と語られ、この「律法の呪い」は人類が文字としての律法に留まる限り、神によるものではなく、罪に寄生されている文字としての律法の呪いとなったと理解すべきである。かくして、人間的には罪に呪われたら死ぬしかないであろうが、イエスは神の前では清い無罪のままであり続けたため、殺されたのち永遠の生命のみなもととなったのである。彼は罪に誘われた人間からの呪いを受けたが、それに抗してナザレのイエスは十字架上で嘉みされている。神はそこに現臨していたまうた。
神は十字架上のイエスを見捨ててはおらず、共にいました。イエスは罪なき者、信に基づく義でありつつ、人類の罪を担ったが故に、神は十字架上のイエスの肉において、むしろ、罪を審判したのである。「ひとが肉を介してそこにおいて弱くなっていたところの律法の[遵守し]能わぬことを、神はご自身の子を肉の罪の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その[イエスの]肉において罪を審判した」(Rom.8:3)。 神はひとびとの背きを「彼ら自身において考慮することなしに」、罪をそれ自身としてキリストにおいて罰した(2Cor.5:19)。罪と「罪の給金」である「死」に対し甦りの主は勝利したのであった(Rom.6:23)。
卒寮生の皆さんは社会にすだっていきます。何か学寮のことを思い出すことがあったなら、そのときこの「福音」のことも思い出してください。今はわからなくとも、いつか必ず力になることでしょう。人生は探求です。喜ばしい探求です。前途の祝福を祈ります。
平和への道(3)―魂の医者とかわす新しい契約—
日曜聖書講義 2023年1月29日 (本稿については録音はありません)
平和への道(3)―魂の医者とかわす新しい契約—
聖書
「イエスはそこをたち、とおりがかりに、マタイという人が酒税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。パリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」といった。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。「わたしは憐みを欲し、犠牲を欲しない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人々を招くためではなく、罪人たちを招くためである。
そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとパリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」といった。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時がくる。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、敗れはいっそうひどくなるからだ。人々は新しい葡萄酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けて葡萄酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい葡萄酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:9-17)
1医者を必要とする者は病人である。
わたしはかつて魂の医者を必要としていた。そして良い医者にであって、相当快復した。しかし、肉の弱さを抱えているため、その医者の処方に常に従ってきたわけではなく、教えに背き再び病状が悪化することがある。その病気は直接には目に見えない魂の病であるが、魂を癒す医者にはその病状は良く見えている。その医者にかからなければ、病を病として認識できない。魂の病はその医者との関係において、定まる病である。とはいえ、自らを顧みるとき、全体としては明確に快復傾向にある。かつての自らの病状を思い返すことにより、それは明確に認識できる。かつてあれさえなかったらと思っていたことが、あれがあったからこそと思えるようになる。負の歴史が正の歴史に変換される。
魂とは身体がそれによって生きるところの生命の原理また意識活動の原理であるので、身体にその症状が現れ、多くの場合他の人々にも明らかとなる。様々な症状が考えられるが、端的に言えば、ひとびととの良好ならざる関係においてその症状は顕著になる。ひとびとを傷つけ、人生の運命を悪い方向に変えてしまうことは最も顕著な症例である。そしてそれは罰としての死に至る。パウロは言う、「一九われは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る。すなわち、汝らはまさに汝らの肢体を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの肢体を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。二〇というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。二一では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。二二しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。二三なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:19-23)。
平和への道は罪の赦しに基づくしかないと個人的には確信している。わたしはかつて「いかなる果実を得たのであろうか」。思い出すのもおぞましい死の臭いのただよう腐敗であった。ひとびとをそれにより不幸にしてきた。「堅くたって、二度と罪の奴隷の軛につながれるな」(Gal.5;1)と言われる。魂の医者はわたしにはキリストである。キリストのもとにその都度立ち帰り、その癒しを受けて、ひとびとと新たな思いで接する。その都度悔い改めて、良きサマリア人のように隣人となるように心がける。かつての腐臭放つ果実を思い出し、二度と奴隷の軛に繋がれたくないと心を改める。悔い改めとは業の律法から信の律法に方向を転換することである。信の律法に立ち帰り、もはや隣人をも自己をも審判しない。十字架上で罪が赦されてしまっていることをその都度信じる。
ホセア書にあるように、神ご自身は人々から犠牲を欲することはなく、憐みを欲している(Hosea 6:6)。イエスはこの意味を考えるように促している。旧約律法の遵守としてアザゼルの山羊のように自らの罪の贖いのために、山羊の背に石をくくりつけ荒野に放ち野垂れ死にさせる、そのような犠牲は求められていない(「贖罪の献げもの」については例えば「レビ記」16章参照)。所謂スケープゴート(身代わりの山羊)である。神ご自身が被造物から憐みを受けることではなく、被造物同士で憐みを掛け合うことを神は欲し求めている。羊飼いのいない羊のように彷徨っているわれらにイエスは腸(はらわた)から「深く憐れんだ」ことそして彼は神の国について「多くを教えた」と報告されている。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」 (Mat.9:36,cf.Mak.1:41、6:34)。神はわれらの罪の現実を憐れんでくださる。
2新しい革袋と古い革袋
「神には偏り見ることがない」(Rom.2:11)。イエスはユダヤ教の伝統のなかで「新しい葡萄酒」と呼ばれる福音を持ち運んだ。「新しい葡萄酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けて葡萄酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい葡萄酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。神は、一方、古い旧約律法の革袋のもとに生きる者には「業の律法」を適用する。そこでは「すべての律法を為す義務がある」こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」(Gal.5:3,Rom.2:13,2:6)。モーセ律法においては「貪る」か「貪らない」かにより、「盗む」か「盗まない」かにより義と罪が定まる。
他方、「信の律法」のもとに生き「神の善性」に留まろうとする者への審判規準は「イエスの信に基づく者を義とする」神に対し幼子の信を抱くか否かである(Rom.11:22,3:26)。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とあるのは、前者が信の律法のもとに、後者が業の律法のもとに生きたことが想定されているからである、ただしエサウがその後悔い改める可能性は否定されていない(9:13)。「滅びにふさわしい怒りの器を大いなる寛容のうちに忍耐したのなら・・[どうであろうか]」(9:22)。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」(11:22)。神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は目が曇らされ神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできない。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全(adokimēn noun)に引き渡した」(1:28)。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるであろう。 まさに神は「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」(Ps.18:26)。
3新しい契約—数百の律法は愛の律法に変換される―
福音は「新しい契約」の革袋にいれられる。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(Jer.31:33)。
この約束への神の信実に基づく正義は、御子を派遣しその信の生涯により確立された「福音」と呼ばれる神の愛において確認される。御子は「神の子の信」の従順の生を貫き神の義の啓示の媒介となった。イエスは、今・ここにおいて福音を持ち運んだが、その実現の極において、彼を十字架に磔た敵である罪人の罪を贖うべく、罪なき者として罪ある者の身代わりの死を遂げた。神はそれにより愛を人類に示した。「神はご自身の独子を賜るほどにこの世界を愛したまうた」(John.3:16)。
それによりモーセ十戒の古い契約に基づく「業の律法」はイエスを介して十字架において成就した神の意志「信の律法」に秩序づけられ、包摂されるに至った。数百ある業の律法は信の律法のもとで愛に変換された。神への愛と隣人への愛「これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちは基づいている」(Mat.5:18,22:40)。「愛は隣人に悪を行わない。かくして愛は[業の]律法の充足である」(Rom.13:10)。業の律法は愛を介して信の律法に変換された。愛は神に愛されていることの信に基づき発動し、律法は満たされうる。というのも「愛を介して働いている信が力強い」からである(Gal.5:6)。こうして、律法の一切は「神の信」に基礎づけられる(Rom.3:3)。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:22)。
かくして、モーセ律法のように「貪る」か「貪らない」かではなく、「信じる」かそれとも「裏切る」かにより神の前で義と罪は定まる。自らの涙と髪で主イエスの御足を清める女性についてイエスは言った。「彼女の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。自ら罪赦されたことの証が愛しうることであるなら、ひとは歯を食いしばって悪人に手向かわず右の頬を打たれ、左をも向ける。一切を神の愛への信のもとに愛において応答する。平和はこの信の根源性によってのみつくられる。
4 契約と誓い
学寮に赴任したさいに「寮生活が不適の場合には退寮することに同意します」という「誓約書」を見て、驚いた。罪はもちろん「霊的」で「聖」なる神の意志に歯向かうことはできないが、モーセが刻み直した文字としての律法には寄生できる(Rom.7:12-14)。「文字は殺し、霊は生かす」(2Cor.3:6)。「この伝家の宝刀をゆめゆめ(努々)抜いては・・・」という一文は新たにひとを縛る文字となり、さらに、罪に負かされてしまうであろう。
山上の説教における「誓うな」の戒めが迫る。イエスは言う、「また汝ら昔の人々にこう語られたのを聞いている。「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」。しかし、わたしは言う、一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、汝の頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、白くも黒くもできないからである。汝らは、「然り、然り」、「否、否」と言いなさい。それ以上のことは、悪い者からくる」(Mat.5:33-37)。
確かにわれわれは自然上髪の毛の色を変えることはできない。自然法則に基づいて、生きざるをえないように、神の前の法則を正しく知る必要がある。神の前では誓いは無用である。人々はこれにより司法制度が成り立たないと考えたが、肉の弱さへの譲歩としての人間中心的な政治や経済そして司法の諸制度は許容されている。山上の説教は「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全であれ」と、神との関係において律法そして道徳を極性化、純化している(Mat.5:48)。神の前には一切が明らかであるので、誓う必要もない。信の律法に立ち帰りそのつど、その通りであるものには「その通りです」と言い、或いはその通りでないものには「いえそうではありません」と語れば十分である。神の前に誓えると思うのは自惚れにすぎず、おのれを知らない自己欺瞞である。信の律法を与えられたことに、つまりわれらは神の前に罪人であり、信に立ち帰ることにより義とされるということに、「その通りです」と語るだけでよい。文字としての律法をたてにとり、誓ったのだから守れと言ってもそれは罪に負かされるだけである。
文字として律法を受けとめる限り、それは罪の寄生の巣となる。だからこそ、神の義は「律法を離れて」(Rom.3:21)福音において新たに啓示されたのである。パウロは言う、「もし石の文字のうえに形成される死に仕える務めが栄光のうちに生じており、用いられなくなる彼の栄光の故にさえイスラエルの子らがモーセの顔を直視できないほどであるなら、どうして霊に仕える務めがいっそう栄光のうちにないことになるであろうか」。神の山で十戒を与えられたモーセの顔の輝きはつかのまであり、彼は輝きの喪失を恐れ「自分の顔に覆いをかけた」(2Cor.3:7,13)。彼は死に仕える務めを引き受けたのである。より少なく根源的な神の意志である律法は、かくして、悔い改めを介してキリストに導くものとして新たに位置づけられる。「神に即した苦悩は後悔なき救いに至る悔い改めを働く」(2Cor.7:10)。業の律法の新しい機能は罪を知らしめることである。パウロは言う、「われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である」(Rom.7:7-12)。
モーセ律法は正しく福音に秩序づけられねばならない。業の律法が神の意志である限り、「天地が過ぎ去るまで律法から一点一画たりとも過ぎ去らない」とイエスご自身はモーセ律法の純化のなかで業の律法への尊敬を貫いた。イエスは「律法を廃棄するためではなく、成就するために」来られたのであり、死に至るまで信の従順を貫くことにより成就した(Mat.5:17-18)。
結論 契約に基づく信頼関係
契約は或る種の均しさにおける対等な者同士の信、相互信頼に基づく約束である。その背後に寮生各位はキリストにおいて神に愛されているという当方の信がある。そこでは数百ある業の律法は信の律法のもとにおける愛の律法に変換されている。寮長はこの信に基づく「義の果実」として喜ばしい「愛」の職務を担う(Phil.1:11)。それは寮生各位の安全と健康をまもり、学業成就に向けて支援し、立派に社会に送り出すことにある。そのことをことあるごとに肝に銘じる。最後までそれを成し遂げ得たなら、それは義とされた者の良き果実であると言える。もはや「律法のもとにではなく、恩恵のもとに」生きている(Rom.6:15)。他方、寮生諸君にとって、この契約への信の果実は如何?今言えることは、契約の信頼関係に戻ろうと言うことである。
平和への道(2)―悔い改め—
平和への道(2)―悔い改め—
日曜聖書講義 2023年1月22日
聖書
「娘シオンよ、大いに踊れ。歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(ゼカリア書9:9-10)。
「弟子たちはろばの子をイエスのところに連れて来た。彼らは自らの上着を子ろばのうえに敷きやってきたイエスを強いて乗せた。彼が進むと、人々は自分たちの上着を道に敷き広げた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかったとき、弟子たちの群はこぞって、自分の見たあらゆる力ある業を喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名において来ておられる王が褒めたたえられますように、天には平和が、いと高きものたちには栄光がありますように」。すると、パリサイ派のある人々が、群衆のなかからイエスに向かって、「先生、弟子たちを叱ってください」と言った。イエスは答えた言った。「汝らに言う、もしこの者たちが黙れば、[破壊される都の]石が叫びだすであろう」。エルサレムに近づき、都を見たとき、イエスはその都にたいし涙を流した。そして言う、「もし今日この日に、お前も平和の道をわきまえてさえいたなら。しかし今は、それがお前の目からは隠されてしまった。やがて時がきて、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻み四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前のなかの石を残らず崩してしまう、そんな日々が来るだろう。それらの代わりに、お前は自らへの訪問の好機をわきまえなかった」(ルカ福音書19:37-44、参照「われらの憐みの神の憐み故に、そこにおいていと高きところからの光輝きがわれらを訪ねるであろう。「暗黒と死の陰に座すものを照らし」われらの足を「平和の道」に向かわせるであろう」Luk.1:78(Ps.107:10, Is.59:8))。
1新しいものとの出会い
ひとびとのあいだに不和や争いがあるとき、それはわれらの罪の故にである。先週このことを学んだ。ひとはどこからひとを愛する力を得るのだろうか。もしおのれの臍のみを眺め、自らにしか関心がなければ、常にその自らの利益との関連で周囲の人々との関わりが、時間と空間が位置付けられるであろう。眼差しは内側を向いていると言える。自ら関心のあるもの、好きなものは確かに自らの外にあるであろうが、自らの欲求、欲望の投映でしかない。そこに、新しいものとの出会いはない。シモーヌヴェイユは言う。「悪の単調さ、そこには新鮮さが何もない。そこではすべてが同じものだ。そこでは実在するものがない、すべてが空想の産物なのだ。質ではなく量が大きな役割をはたすのはこの単調さのせいである。多くの女をものにするドンファンのように、多くの男をものにするセリメーヌのように、われわれは偽りの永遠を求めるよう強いられている。それが地獄だ」。
自ら、世界に対し正面から向き合い、自分を勘定にいれずに、「よく見聞きし分かりそして忘れず」と世界に開かれるとき、新しいものにであう。それ以外は自らの欲望のもとに捉われ、支配され、空想により世界を一色で塗りたくり、何ら新しいものには出会わない。その証拠にそこでは質ではなく量がものを言う。悪というのは単調なものである、そこには何ら新しいものがないからである。
われらは罪の奴隷であるとき、死を成し遂げつつある。罪の刺激のもとにあるときは、悪行は義務にさえ見え、悪行のただなかでは一種の興奮のなかで死に向かっていることを認識できない。しかし、悪の単調さを知るべきである。そこには何ら新しいもの、生命を輝かすものを見出すことはないのである。単におのれの古い欲望にこだわり、そこにつけいる罪によって死に誘われているだけである。われらの、たとえ刺激に満ちていると思っても、生活が単調であるとき、空想のなかで自己を肥大化させている限り、何ら新しいものに出あわない。現実の何か確かなものにゴツンとぶつからない限り、夢から覚めることはないであろう。
2 律法主義と良心
ひとはただ業の律法を投げ捨てることはできない。たとえ律法を捨てても、良心が律法として働く。異邦人ならびに「アダムからモーセに至るまで」のユダヤ人をも含め、ひとの「良心」は「律法を持たずにも自らに対し律法」である(Rom.5:14,2:14)。「一四律法を持たない異邦人たちが自然に律法のことがらを行う時、その者たちは律法を持たずにも自らに対し律法なのである。一五 一六彼らは誰であれ自らの心のなかに律法の業が書かれてあることを証明するが、それは自らの良心が[律法と]共同の証人となり、そして算段に基づき自らのあいだで互いに告発し或いはまた弁明することによってであるが、それは、或る日、神がキリスト・イエスを介したわが福音に即してひとびとの隠れたことがらを審判するときである」(Rom.2:14-16)。かくして、「良心(sun-eidesis)・共同の知識(con-science)」が社会通念、共同体との共知であれ、放埓者同士のあいだでの共知であれ、ひとは業の律法から自らを解放することはできない。空き家になった心に常に何かがはいりこみ、自らを隷属させ支配する、それがデヴィルであれ、自らの救いの条件であれ。
モーセの十戒、山上の説教、司法的な次元での分配の正義のもとでの懲罰の働きはわれらに罪それ自身の醜悪さを知らしめ、罪に勝利したキリストに導くことであった。一般的に、もしわれらが「惨めだ、われ、人間」(Rom.7:25)と叫ぶことがあるとするなら、それは業の律法が内なる人間を介して何等か働いており、悔い改めを促していることを示している。苦悩するとき、われらは喜ぼう。「汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか」 (Rom.2:4)。
3悔い改め
悔い改めは旧約においては、基本的には、業の律法の内側のことで遂行された。洗礼者ヨハネは言う。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-12)。試練を表現する「火」と復活の主の現臨を表現する「聖霊」により洗礼を授けられるとき、ひとは信の律法のもとにイエスをキリストであると信じるに至る。
業の律法のなかで悔い改め、良い行いをすることではなく、業の律法から信の律法のもとに移行すること、それが悔い改めである。「神に即した苦悩は後悔なき悔い改めを働く」(2Cor.7:10)。業の律法のもとに、自らをそして他者を審判しながら生きること、これは苦しみである。律法や理想の文字に頼るとき、ひとは生命なき働きを、せいぜい心の内側ではなく、外側でつじつまを合わせる、形だけの律法を守るそのような生活となる。「文字はひとを殺し、霊はひとを生かす」(2Cor.3:6)。このような生命のない生活は続けられないこれに気づくとき、福音により生命に至る信の律法が切り開かれたことに導かれる。
まず、自らの欲望や、理想や律法の投映ではなく、イエスの十字架と復活にいたる信の生涯を自らのことがらとして受容すること、それが悔い改めである。悔い改めによる魂の刷新を頂き真っすぐな道を歩む。罪赦されたことの証は、自らの涙でイエスの足を洗う女性に見いだされる。イエスは言う、「彼女の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。信に基づく正義とその信義の「果実」(Phil.1:11)は愛しうることである。自らの罪が「赦されてしまっている」ことの証は愛することに確認される。「木はその果実によって知られる」。罪の赦しは神の前のことがら、神の専決行為であるが、この歴史におけるその証は愛しうることでありますなら、われらは新しくされ、歯を食いしばって敵をも愛する。
旧約の古い革袋を破るイエスの山上の説教は、その厳しい言葉を自らの信の従順による完遂故に、福音の革袋である信の律法のもとで愛の戒めに収斂、変換されている。われらは「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)、即ちモーセの古い革袋から解放されて、新約の革袋のなかで生命の泉に与ることであろう。時代が厳しくなるほど、この端的な生命の泉を渇き求める。信義に基づき愛しうること、そこに生命の泉が湧いてくる。
パウロは心の根底に二心なき幼子の信仰が宿るとき、業の律法から解放されると主張する。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Gal.2:19-20,Rom.8:2)。ここでも過去形が救いの確かさを表現している。われらの外の出来事がわれらの出来事なのである、聖霊が執り成している限りにおいて。
この生命に触れることは聖霊の今・ここの働き・エルゴンである。これは経験するしかないというわけではなく、一般的に神とひとの媒介としてあの十字架と復活の過去の出来事を自らの出来事とさせるそのようなものであると理論化することができる。神のもう一つの根源的な意志である信の律法により業の律法から解放される。そこでの業の律法から信の律法への移行は悔い改めによるが、生命の霊の律法により導かれる。「神に即した苦悩は後悔なき救いに至る悔い改めを働く」(2.Cor.7:10)。ここに福音のダイナミズムがある。
キリストにおいて業の律法からそれ故に罪から解放された。既に罪とその値である死に対する勝利はわれらの外に、キリストのうちに立てられたのである。律法は悔い改めに導き新約においては律法から解放し、キリスト・イエスの生命に与らせる。
結論 残りの者も国家(肉)において生きている
イエスの認識において人類の歴史に対する楽観が一切ないこと、それが歴史の最先端にいる者に自覚を促す。各人はどこまでも自らの責任ある自由においてこの歴史を生きる。イエスは少数者の自覚のもとに信の根源性にその都度立ち帰ることが歴史に対する正しい取り組みであることを教えている。かくしてイエスの弟子たる者は無抵抗、無審判の山上の説教に即してイエスの軛を共に担い彼の「柔和と謙遜」を身にまとい、共に歩む抜くことが人生の目標となる。イエスに従う者は「残りの者」としてその証を立てることに専心する。その生を導くものは信に基づく正義である。
われらに不和があり争いがあるのはわれらの罪の故にである。「すべて信に基づかないものごとは罪である」(Rom.14:23)。戦争がその最も先鋭化した姿である。イエスは言う、「ひとが全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひとは自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。不正により全世界をわがものにしても、信に基づく義により与えられる神的な生命を失うとき、それを償うものはこの世界になにもない。この発言はカントが中世の言葉として引用する「正義をして支配せしめよ、たとえ世界が滅ぶとも」と同じ内実を持つものである。この格言は、イエスの不正による世界支配の視点を転換し、正義の実現のほうが世界の存続より重要であることを伝えている。たとえ世界が不当な仕方で不正義のもとに所持され存続したとしても、正義が蔑ろにされるとき、世界にとって生存の意味はない。換言すれば、正義により魂が神の前で保全されなければ、世界の存在に意味はない。正義がなければ、個々人の存在に意味がないのと同様に、生命原理である魂以上に人間にとっては重要なものはなく、その魂は正義なしに維持されない。詩人は言う、魂は褒めたたえるために生きる、と。「塵は汝を褒めたたえんや、汝の真理を宣べ伝えんや」(Ps.30:16)。われらの罪を悔い改め信に立ち帰ること、それが選ばれた少数者のその都度の道である。