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枡形夏の聖書講義1 生き抜かれた山上の説教

桝形夏の聖書講義1                                   2020年8月16日

生き抜かれた山上の説教

序言

 オリンピックイヤーであったはずの2020年8月、世界はパンデミックのただなかに苦悩しています。35度をも超える猛暑の日々、登戸学寮は60周年改修工事のまっさいちゅうです。多くの方々の若者への期待の証としてご寄付により学寮が整備されていきます。感謝です。多摩川から盛り上がる桝形山(標高85メートル)に囲まれた登戸学寮は5分も歩くと山頂につきまたその谷には蛍が舞う閑静な環境に位置しています。木々に囲まれ蝉時雨(せみしぐれ)が夏を絢どっています。

 学寮は毎朝の礼拝や食事の提供もない夏休みとなりました。留まっている学生は自炊生活となります。日曜の聖書講義も夏休みとなり、私はこの夏不定期に録音により聖書講義をお届けします。聖書に帰るたびに、平安と喜びをいただきます。この苦難の時代にあってこの喜びの福音をお分かち致したく存じます。この四か月マタイ福音書5-6章の山上の説教を学んできました。幾つかの自分なりの発見をいたしましたので、お伝えいたしたく存じます。継続的に聞いてくださっておられる方々には復習を兼ねて、いつも新たなメッセージを届ける聖書がもつその力、その生命に新たに触れることができますように。(録音では聖書引用箇所を厳密に語ることをしませんが、HP上の原稿により確認ください)。

1究極を語りそして生きるイエス

 山上の説教は人類の誰かが言わねばならなかった、ひととしての道徳上のまさにその究極の在り方である。山上の説教においては、信仰が勧められることも、不思議なる業(わざ)所謂奇跡が遂行されることもない。イエスは当時のユダヤ人の伝統的な道徳観の立場に立ちその誤りないしその不徹底さを指摘し、新しい急進化されたモーセ律法ないし究極的な道徳、新しい「教え」をただ言葉の力によって「律法学者のようではなく、権威を持っている者として」(Mat.7:29)展開している。その権威はどこから湧き上がってくるかと言えば、イエスご自身がご自分の語られることを内側から納得しており、そして単に言葉で語るだけで終わるのではなく、ひとびとにそれをそのまま生きる方であるというその気迫が伝わるそのような偽りなき人格を身に着けておられたからである。リアルタイムにその説教を聴く者たちには、彼の信実が伝わったことであろう。地の塩として大地を支える確かな堅固さと世の光としての翳りなき、清らかさと輝きが彼をつつんでいたことであろう。

 この説教は誰もが理解できる道徳の次元でその道徳上の究極が語られている。「道徳上」とはひとの善悪をめぐる判断の座である心魂の在り方のことである。道徳を主宰するのは各人における良心である。ソクラテスが「ダイモニオンの声」と呼んだもの、即ち心魂にごまかしや分裂があるときに勝手に痛みを伴い発動してしまう良心がそこでは道徳の座ないし主宰者であり、いかに主宰するかと言えば心魂の動きのそしてその帰結としての行為の監視役でありまた告発者となることによってである。

  もちろん監視役や告発者は慣習や悪に買収され発動を鈍らせることもあるが、良心の発動それ自身はひとの選択の外にあり自らのコントロールの外にある。ニーチェはこの良心の発動は「何故?」への問いのブロックとして機能すると言う。「良心からあの「ねばならない」という感情が引き起こされたのだが・・・しかしこの感情は「何故私は為さねばならぬか?」とは問わない。従って、あることが「~故に」とか「何故~」という問いをもってなされる場合にはすべて、人間は良心なしに行為することになる」。「何故に?」を自他に問いかけているあいだ、そして「何故なら」と説明を与えたり、個人的な自己弁護しているあいだ、ひとはその根源から生きていず、懐疑や探究さらには保身のうちにある。「何故に?」の問いが伴うことなしに生起する、ある心魂の痛みを伴う発動、それは良心というものが各人の心魂の各人なりの根源的座であることを示している。

 ここに一つの問いが起きよう。一方、「律法は怒りをもたらす」(Rom.4:15)とあるように、山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろうが、これを語ったイエスは人間にはとうてい満たしえない心的規範また行動規範を与えており、誰にも負えない重荷を負わせ、道徳的苦悩をもたらすだけなのではないか、彼はそれによって彼についていく者たちをただ神の怒りのもとに怯えさせ苦しめる者なのではないかという問いと懐疑である。イエスは言う、「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄すべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画(イオタとケライア)たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。 わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(Mat.5:17-20)。

 わたし個人としてはこれを語ったその人のゆえに、彼が怒りをもたらす告発者で終わるはずがないという思いがある。権威ある者として語ったそのひとがひとを欺くべく道理のない、ひとを苦しめるだけのことを語っているはずはないというこの思い、本当にひとはこの厳しい山上の説教という新しい教えを「成就する」ことができるのではないかというこの信念は個人的なものに留まるのであろうか。それともすべてのひとに妥当するものとなるのであろうか。もしこれがわたしだけの思い込みであるならば、山上の説教は福音ではないであろうし、イエスは福音を生きる方でないことはもとより、福音を言葉の上で告げる方でもないことになろう。

 権威ある者として語ったその方に偽りがなく、彼は山上の説教そのものに即して生き抜き、また山上の説教の故に死んだその方であることが明らかにされねばならない。個人的には、山上の説教はイエスにより生命をかけて遂行されたということに立ち返るとき、厳しすぎてあたかも拒絶し告発するように見えるその人に、「わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」という言葉を信じてそのふところに入っていくしかないと感じる。そこにしか良心の咎めがさり、道徳的苦悩は止むことはないと感じる。この感覚には道理があるのであろうか。この感覚の背後にそのひとへの信が発動している。

 先の懐疑への応答は「わたしの後についてこい」(Mat.4:19)というイエスをどれだけ信じるか、そして彼とどれだけ信頼関係にあふれる関係を築けるかにかかっている。「わたしは汝らを遺して孤児とはせず」(John.14:18)。この方は嘘を付く方ではない、そしてわれらを欺く方でもわれらを見捨てる方でもない、という信がその信頼関係を醸成しまた築く。この信念は道理のあるものであるのか。ひとは山上の説教を生きるとき、生命を賭すことになるが、この信念は道理のある正しいものなのか。これは福音書やパウロ書簡によりその一挙手一投足の働きが報告されておりそして彼がキリストであることが理論的に展開されているナザレのイエスそのひとをよりよく知ることによってしか、この懐疑は克服されないであろう。だからこそ福音の宣教はいつの時代でも不可欠なのである。イエスの懐に入っていくには彼をよりよく知るしかなく、とりわけ彼が生ける神の子であることを内側から納得するそのような相互の親しい関係を築くしかないのである。日曜の聖書講義をするこの身が彼と共に生き喜んでいるのでなければ、この永遠の生命は伝わらないであろう。少なくとも講義する者の必要要件であろう。聖書に描かれるイエスをできる限りテクストに即して理解すること、それがこの聖書講義の務めであり喜びである。

2業のモーセ律法と信のキリストの律法

 先の引用文における「律法の一点一画」とはモーセ律法が神の意志である限り、たとえ上位の意志に従属することがあるにしても、細部にわたりそれは天地が過ぎ去るまでは効力を持ち続ける。ただし、六百を超える律法そして戒めには重要性において差異がある。「ウーアイ(ああなんということだ(ouai, woe))、偽善なる律法学者、パリサイ人、というのも汝らははっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中で一層重要なものども、公正な審判と憐れみそして信とを等閑にしている」(Mat.23:23)。ここで「公正な審判と憐み」すなわち正義と愛とならんで「信」が挙げられる。

 愛や憐みは公正な審判とともに伝統的に「業の律法」(Rom.3:20,3:27 「モーセ律法」1Cor.9:9)に属するが、イエスとパウロは業のモーセ律法をラディカルに理解し愛に収斂させた限りにおいて、「信の律法」(Rom.3:27, 「キリストの律法」Gal.6:2)と「業の律法」が関連する唯一の道は信から愛であることがナザレのイエスの従順の生において明らかにされた。キリストは「業の律法」の充足即ち愛することをただ信に基づき遂行したのであるからには、「愛せよ」という戒めを「信の律法」と関連づけることが不可欠となる(Rom.3:26-31,13:8-10)。業の律法はイエスにより第一の戒めである神への愛と第二の戒めである自らに等しい者としての隣人への愛に収斂されている(Mat.22:36-40)。愛があるとき、すべての律法は満たされる。パウロも「愛する者は他の律法を満たしている、・・愛は[業の]律法の充足である」(Rom.13:8-10)とし、業の律法を「愛」に収斂させる。ナザレのイエスは死に至るまで従順の信を貫き、愛を全うした。「愛を媒介にして実働している信が力強い」(Gal.5:6)。信の根源性のもとに、自らの力能を誇示する奇跡のような業ではなく、愛することが遂行される限り、キリストの足跡に従うものとなる。かくして、愛への道はただ一つ信に基づくこと、即ちキリストを「受け入れること」(Mat.10:40)が残されている。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。

 これはイエスの生涯のパウロによる理論化である。イエスはご自身の生涯においてリアルタイムにおいて「信の律法」を満たしつつある。或いは人間的な言い方が許容されるなら、確立しつつある。最後の十字架上でもし彼が十字架から降りてきてしまったなら、父なる神にその信が嘉されなかったかもしれない、そのような一挙手一投足が福音書において報告されている。

3山上の説教の文脈―道徳的次元における対人論法、偽りの摘出―

 そのイエスは山上の説教(マタイ5~7章)においては信への立ち返りを直接には求めず、道徳的次元に踏みとどまる。山上の説教を心魂の偽りという視点から考察するとき、道徳的な領域と司法的な領域さらには神の領域、これら三つの領域ないし次元のあいだのユダヤ人における癒着を摘出することができる。彼に「羊飼いのいない羊のように」打ちひしがれてついてくる群衆たちに対し、「偽善者」や「偽預言者」を見分けるように教えている。イエスは、モーセ律法の枠のなかで先祖代々伝えられた教えを聞いて育ってきたユダヤ人に向けて、モーセ律法を急進化、先鋭化する。そのさい彼は弁証術(dialectic)と呼ばれる議論を吟味する技術を用いて、彼の論敵を論駁する「対人論法(argumentum ad hominem argument to the person)」の議論を展開し、彼らの道徳的、司法的次元ならびに神の前の次元の癒着を明らかにしている。対人論法とは、対話者双方に共有される見解を確認しつつ、自ら固有の立場を一旦棚上げし、対話相手ないし対話相手が馴染んでいる考えの土俵ないし立場に立ち、その土俵が持つ暗黙の前提を明るみにだし、彼らの気づかない思い込み、偏りや誤りを指摘する論法である。

 山上の説教の土俵とは、ユダヤ人が伝統的にそのもとで育てられたモーセの十戒のことである。それは多くのユダヤ人にとって彼らは神の意志としてモーセの十戒しか知らされていなかったため、イエスも彼らへの対人論法としてその次元に留まっているからである。そこではイエスは自らが立つ立場である「信」を一旦棚上げにして直ちには持ち出さず、さらには信じる者への憐みのもとに遂行される癒しなどの不思議な業(所謂奇跡)を行うこともせず、ただ言葉で同胞の伝統にチャレンジしている。ユダヤ人であるイエスと群衆のあいだで同意できることとして、神の国と地上の国そして天国と地獄さらにはユダヤ人と異邦人の二分による思考方法は馴染み深いものであり双方に共有されているという前提のもとに語りかけられる。ユダヤ人は自分たちが神に選ばれ、神の意志としての律法を授けられた民であるという認識を持ちまたそれを誇りにしている。イエスはそのモーセ律法を良心に訴えて先鋭化して、出エジプト以来の一千年のあいだに蓄積された偏りや隠されていたものを明らかにしていく。

 モーセの律法即ち十戒は神の山(シナイ(ホレブ)山)において神からモーセに示された神の意志であるが、その始めに神による恩恵の注ぎが確認されている。「われは汝らをエジプトの地から、奴隷の家から導きだした汝の神、主である。汝らはわが前に他の神々を持ってはならない」(Exod.20:2-3)。恩恵の確認のもとに、各人の責任における戒めの遂行が求められる。他の神を拝むな、偶像を作るな、安息日を守れ、などこれらを遵守する者たちと遵守しない者に対する神の正反対の対応が語られる。「われを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問うが、われを愛しわが戒めを守る者には、千代にも及ぶ慈しみを与える」(20:5-6)。たとえば、殺すか殺さないか、盗むか盗まないかという各人の行為、業に応じて神の恩恵と罰が与えられる。そこには「目には目を」などの法的な正義としての同害報復が見られ、それに対応するものとして恩恵は良き行為に対し付与されている。これは「応報思想」と呼ばれる。

 イエスはここに比量的な次元に留まりつつ自他を比較するひとの肉の弱さからくる司法的な次元と道徳的な次元の癒着の可能性を見ている。さらに神権政治(theocracy)ないし宗教的支配と司法的次元ならびに道徳次元これら三つの領域の癒着の可能性を見ている。その癒着を彼は「偽善」と名付ける。「見てもらおうとして、ひとの前で汝らの正義を行わないよう注意せよ。さもなければ、汝らは天の父のもとで報いを獲得することはない。かくして、汝が施しをするとき、ちょうど偽善者たちが礼拝堂や街角で、人から褒められようとするように、自らの前でラッパを吹き鳴らしてはならない。われ汝らに言う、彼らは自分たちの報いを受け取っている。だが、汝らが施しをするとき、汝の右手が何をするかを汝の左手に知らしめてはならない、それは汝の施しが隠されているためである。隠れていることを見ている汝の父は汝に報いを与えるであろう」(Mat.6:1-4)。

 父からの報いをいただくべく右手でなす善行を左手に知らせない、そのような急進化がなされる。ここで報いを第一に功利主義的に自らの利益として受け止めてはならない。比量的な次元で思考が展開される「目には目を」のモーセ律法における報いは正義として理解されねばならない。「彼らは自分たちの報いを受け取っている」と地上で報われた場合には、天上においても得るとするなら過剰となり、もはや等しさが成立しないため、さらに与えられることはないとされる。天の報いのほうがはかない地上の報いよりも利益になると功利主義的に考えることと両立するが、第一には等しさの分配として理解されねばならない。彼はモーセ律法の道徳的次元に留まっている。

 イエスの論敵とは厳格に業の律法を守る、しかし形式主義的な律法主義者になりがちな聖書学者とパリサイ派であった。律法主義とは簡潔に言えばまず命令形で「汝~すべし」において神の意志が与えられ、それを満たすとき直接法で「汝救われた」と救いが与えられるという思考様式である。福音とは反対方向であり、「汝救われた」と直接法により与えられ、「それにふさわしい実を結べ」と命令形が後続する思考様式である。形式的な律法主義は救いに至らない偽善であるとイエスは言う、「パリサイ人(びと)たちのパン種に注意せよ。それは偽善である。覆われているもので知られずに済むものはない。だから、汝らが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」(Luk.12:1-3)。

 イエスは彼らに「偽善」を見出し、こう非難する。「ああ、なんということだ(ouai,woe,ウーアイ)、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、内側は強奪と情欲で満ちているが[現在分詞]、杯や皿の外側を清めている。盲目のパリサイ人たち、まず杯の内側を清めよ、それはその外側も清まるためである。ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、汝らは石灰で塗った墓に似ている。何であれ外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる穢れで満ちている。このように汝らもまた外側は人々に義人に見えるが、内側は偽善と不法で一杯である」(Mat.23.23-28)。この「ああ、なんということだ」という間投詞(これ「ウーアイ」はそれ自身としては意味がなく、ただ音調により理解するしかない言葉)で始まる難詰はえんえんと七回も語られる(cf.ルカの平野の説教Luk.6:17-26)。誰がこの難詰に耐えられるであろうか。イエスは弟子と群衆に「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)、「ああ、なんということだ、汝ら律法制定者たち、人々に背負いきれない重荷を担わせながら、自分たちは汝らの指一本その重荷に触れようとしない」(Luk.11:46)と警告する。

4道徳の座としての良心

 彼はこのように指導者たちの偽りを指摘するが、そのさいの彼の唯一の武器は誰の心魂にも宿る「良心」である。イエスは良心の発動の一つの状況をこう記している。「汝が祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が汝に何か反意を(ti kata sū)もっていることを思い出したなら(mnēsthēs<mimnēskō)、その供え物を祭壇の前において、まず兄弟と仲直りし、それからそれを供えよ」(Mat.5:23-24)。ひとを傷つける言動や小さな不和の芽に気づいたら、まずそれを取り去って良心の咎めを解消してから、供え物によってであれ神と心おきない懇ろな交わりに入るよう命じている。力点は「まだ訴訟人が汝を裁判官に引き渡しそして裁判官が下役に引き渡し牢屋に投獄しないあいだに」という「投獄」の恥辱を受けたくないという功利主義的なことがらにあるのではなく、そのような計算以前に、誰かの反感に気づく、目覚めていること、ないし良心の発動におかれるべきである。イエスはここで「思い出す」という仕方で良心の発動を前提にしている。小さな否定的な事件や不和の芽が摘み取られることは大惨事が未然に防がれたことを含意しているかもしれない。今日的にも「ヒヤリハット」は大事故の背後にはそれに至る多くの小さな危険が潜み、蠢いていることを表現している。「汝らはあらゆる好機に祈りつつ目覚めていよ」(Luk.21:36)求められる。

 さて、「良心」とは「共同の知識(suneidesis, con-science)」ということを意味していた。問題は何と共に知るかということである。人食い人種は部族と共にカルニヴァルに何ら痛みを感じない。今際の時に、友人に自分の一番おいしい部位を与えるのだと言う。イエスもパウロも福音は人々に喜びをもたらすとするが、それは良心の咎めと両立しない。業の律法のもとに生きる限り、ひとは良心の咎めのうちに生きることになるであろう。神と共に、聖霊と共に知ることに、良心のなだめを見出している。正義との観点で良心の平安を考察してみよう。

 イエスは正義のために迫害されるものの祝福を第八福としてこう挙げる。「祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:10-12)。

 第八福は正義に関わる人々への祝福である。この箇所を理解するひとつの視点は良心の鋭敏さである。正義に対する感受性の発動なしに、ひとびとの大勢に、世間に唯々諾々と従っているなら迫害されることはないであろう。イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、われは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:43-46)。イエスは隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵や友は偶然的な関係にすぎないからである。

 彼はこの文章に続いて所謂「無抵抗主義」を基礎づけるが、それは例えば今・ここで襲われている愛するひとのために正当防衛として相手に立ち向かい自分の生命を捧げるそのような行為をさえ拒否する理由となる。「自分を愛してくれる者を愛したところで、汝らにどんな報いがあるであろうか。[ローマ帝国雇用の]取税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになるだろうか。異邦人でさえ同じことをしているではないか。だから汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全な者となれ」(Mat.5:46-48)。愛する者が暴力を振るわれているときに、生命をかけて守ったとして、それは巷間では勇敢な行為と看做されることもあろうが、聖書的には肉の弱さへの譲歩に過ぎない。友を愛し敵を憎むとき、そこに自らの二心を見出し、その偽りに良心が発動することもあろう。家族への愛、好む同士の友愛、ひとはどこまでこの人間的な思いに居座り続けるのだろうか。

「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全な者であれ」と神に似せて造られた者としてひとの本来的な姿が提示されたとき、現実と本来性のあいだのギャップ、落差を知らされる。本来性は「内なる人間」(Rom.7:22)が開かれたとき、認識することのできるものである。パウロは神の意志を知ることができるとし、その認知機能に「叡知(ヌース)」を割り当てる。「かくして、兄弟たち、神の憐れみによりわれ汝らに勧める、汝らの身体を神に喜ばれる生ける聖なる献げものとして捧げよ、それは理性に適う汝らの礼拝である。汝らこの世界に同調するな、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを汝らが識別すべく、叡知の刷新により変身させられよ」(Rom.12:1-2)。二番底と言うべき、自然性の生の原理である「肉」の底に神の働きかけに対応する部位が「内なる人間」であり、霊と叡知からなる。「外なる人間は日々滅び衰えるが、内なる人間は日々新たである」(2Cor.4:16)。この叡知の刷新による変身を通じて、次第にキリストに似た者となる。

 その本来性との関連で良心が発動するようになる。良心とは共知であった。最終的には聖霊と共に知ることである。心の清い者は心魂の底から神と和解しており、良心の発動は聖霊により保証されており、痛みなしに平安のうちに神についての明晰な認識として働く祝福された者である。良心という自然性に属するものとしてではなく、むしろ叡知として平安のうちに神の意志を知り、平安のうちに神との共知が成立している。その叡知の発動においては良心は肉の部位の一番奥底において平安のうちに宥められている。ただ、その聖霊の証の体験も肉の弱さのために例えば記憶として肉に回収されるために、常に叡知の刷新が求められている。

5パウロにおける憐れみ―聖霊による良心の証―

 パウロが「キリスト・イエスにおいて顕された神の愛からわれらを引き離すものはなにもないとわたしは確信する」(Rom.8:36)と福音の勝利を宣言したその直後に、彼は同胞に対し「わたしに大きな憂いそしてわが心に絶えざる痛みがある」と自らの止み難いパトスに言及する。それは彼がかつて共に迫害者であった同胞ユダヤ人に対し今なおキリストを受け入れない者たちに抱くパトスの発動であった。

 パトスは常に変化する身体に伴うものであるがゆえに、彼と言えどもその人生のエルゴン(働き)として絶えず喜んでだけいるわけではない。外的環境の過酷さに身体が悲鳴を上げたり、また何かのきっかけに過去を思い出したりするときの身体の働き・エルゴンは一様ではない。それだから、変動する身体の働きとは別にロゴスの知識の安定性が求められる。「わたしはわが主キリスト・イエスの知識の優越の故に、あらゆるものを損失と考える、彼の故にわれ一切を失ったが、それらをわれ塵芥と看做す」(Phil.3:8)。この看做すはパトスとは離れた認知的な働きである。迫害のただなかで身体的苦痛を受けている状況においても、ロゴス上の明確な理解はそのひとの心魂を支え励ますこともあるであろう。

 パウロは「ローマ書」8章終わりの勝利の賛歌に続き、救いなき同胞への憐れみが自然に溢れ、彼は「自らキリストから離され、呪われてあることを祈った」(Rom.9:3)。パウロはかつてユダヤ教の指導者としてキリスト教徒を迫害していた。彼は旧約聖書の正義の観念に基づき新しい「この道」の者たちが誤った教えであると思い、迫害した。復活のキリストに出会い救いを見出した(Act.9)。義人アナニアはダマスコ途上で光にうたれ落馬したパウロを助けるように示され、驚いて言う。「主よ、わたしは、そのひとがエルサレムであなたの聖徒たちにどんな悪事を働いたか、大勢のひとから聞きました・・」。「行け、かれは異邦人や王たちまたイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどれほど苦しまなければならないかを(hosa dei auton huper tu onomatos mu pathein)、わたしは彼に示そう」(Act.9:13-16)。パウロはこの回心後、いまだに旧約に留まっており新約を、福音を知らない同胞に強い憐みと責任を感じた。

「わたしはキリストにおいて真実を語る、偽らない、わが良心が聖霊において共にわたしに証ししている、わが心に大きな憂いと絶えざる痛みがわがうちにあると。すなわち、わたしは肉におけるわが同族、兄弟たちのためにキリストから離され、自ら呪われてあることを祈ったのである。彼らは誰であれイスラエル人であり、子の定めと栄光と契約と律法制定と礼拝と約束は彼らのものである。父祖たちもそしてキリストも肉に即しては彼らからのものである。この方こそあらゆるものごとのうえにある神であって、永遠に褒め称えられるべき方である、アーメン」(Rom.9:1-5)。

 同胞のユダヤ人はナザレのイエスを長く預言され待ち望まれていたキリストであることを認めようとしない。そして現代までユダヤ教徒にとって神は沈黙を保っている。ユダヤ人のこの無知識はかつての自分のことであった。救いを知った今、自分は救いからもれてでも同胞を救いたいという憐みの思いに支配されている。第五福で学んだ憐みとは、誰か苦境にあるひとにたいし対極の認識に基づく落差の知識に基づき生じるものであった、しかも、その不幸にふさわしくない人格の持ち主が陥った困窮している、不運な事件に巻き込まれているそのようなひとに対する認識に基づくものであった。一般的にも、神による人間ついての認識を学んだ今、パウロは神の前での同胞の本来性と現状の落差に深い憐れみを感じずにはいられなかった。救いの喜びをなんとしても伝えたかった。痛みを伴う自分のこの思いが真実であることは聖霊が共に証してくれると主張する。その自己認識に偽りがないことが聖霊により保証されており、良心の痛みとしての発動はない。良心は聖霊と共知しており、その確かさには揺るぎはない。ただし、身体的なパトスとして「大きな憂いと絶えざる痛み」が彼を襲う。憐れみからくる憂いと痛みである。神ないし聖霊との接触による知識としての叡知の刷新は肉に例えば「記憶」として回収されるために、常に叡知の刷新が必要とされる。

 パウロ同様ひとは終わりの日までは完全には癒されることはないであろう。パトスとして否定的な過去が首をもたげることもあるであろう。そのたびに十字架を仰ぐことであろう。自らの外に確立された福音の高貴さ、高価さ代えがたさに彼は自己の救いの追求さえも塵芥と看做す。それほどおのれから解放されていたのであった。「わたしに生きることはキリスト、死ぬことも益なり」(Phil.1:21)。彼の良心と信仰は彼のこれらのパトスの底においてわれらの外(extra nos)にある救いの確かさに平安を見い出していた。

6結論

 自らの知的誠実さ、学的良心と信仰のあいだの不一致、ギャップに苦しむ者たち、いわゆる哲学者にパウロから一つの問いが投げかけられることであろう。「汝は神よりも人格なき矛盾律をより一層信じ愛するのか」と。ひとは知性から成り立っているように、身体を備えたものとしてパトスからも成り立っている。認知的な次元での信は「死者の甦りを信じる」という類の目的語を伴うが、信実な神の圧倒的な現臨の前においては目的語や信念内容の表白ではなく、ただ「信じます、信なきわれを憐れみ給へ」という端的なひれ伏しが遂行されるであろう。イエスご自身、天国から新鮮な空気がそそがれ喜びが溢れ出すパトスと天後の知識を持つに至った知性を祝福して言う。イエスは「天国のことを学んだ律法学者は自分の蔵から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:52)。古いものとは旧約のことであり、新しいものはその延長線上に打ち立てられた新約のことであるという理解がなされる。天国のことを学んだ者はきちんと心魂という自分の倉庫を管理しており、知性においても人格においても一切を天国との関連において秩序正しく考慮することができまた行為を形成することのできるひとのことである。そして山上の説教を遂行しているイエスご自身はこの新約を身にまとっていたのである。福音を彼自身の一挙手一投足を通じてこの地上に実現している。イエスは言い給う、「神の国は汝らのただなかにある」(Luk.17:21)。彼と共にあるとき、神の国がいかなるものであるかを知ることができる。福音である。喜びである。

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山上の説教における福音ーリアルタイムのイエスそのひと―

マタイ5-6章 2020年8月2日 (今回は前講がなかったため1時間弱の講義となった。時間の余裕があったためゆっくり、原稿を読まずに語った。聖書の引用はこの原稿からのものである)。

山上の説教における福音―リアルタイムのイエスそのひと―

                                                        2020.8.2

 1序 

 この前期最後の聖書講義においてこれまでの学びを振り返りながら、山上の説教は彼がそのために受肉した福音を持ち運びつつ、モーセ律法の成就の新たな道を指し示すものであったことを明らかにしたい。山上の説教の高い道徳を実現させるその道行が、福音書において報告、展開されるリアルタイムのイエスの信の生涯であったことを指し示したい。すなわち、山上の説教は、一方、良心の咎めにいたるモーセ律法の急進化により、聴衆がそのもとに育ったユダヤ教の伝統のなかで強調されたパリサイ主義的律法理解の偽りを摘出しつつ、他方、良心を癒す「神の国と神の義」を説き明かしていることを明らかにしたい。

 見取り図を描こう。神に嘉みされる、好まれる人々がどのような人であるかが八福として提示される。その喜びに基づき、神に栄光を帰すべく地の塩、世の光となるよう励まされる。これら二つの「立派な働き・業(ta kala erga)」はひとびとの模範となるものである。イエスはその立派な業の基礎は既にモーセ律法即ち業の律法において与えられていることを確認する。彼は自らを「安息日の主人」と語り、律法主義的なパリサイ人のようにとりたてて厳格にモーセ律法を順守しなかったことから、彼が[聖]書に描かれている律法と預言者を廃棄するためにきたと思われていた。しかし、彼はユダヤ人がそのもとに育てられた「(モーセ)律法の一点一画」たりとも終末まで廃れることはなく、「私は・・成就するために来た」と主張する。

 そのうえで彼は律法についての伝統的な言い伝えを急進化させる。イエスはモーセ律法を急進化させ怒り即殺人、情欲視即姦淫、敵即隣人、愛敵即無抵抗という仕方で双方を同化させる。これらの滑稽とも言えるほどの真面目さにおける偽りとの決別はひとびとにイエスないし神との共知としての良心の発動に導かれる。ひとの心は例えばカルニヴァル(人肉食)に良心の痛みをもたない部族があるように、この急進化により良心が発動するそのような知識に基礎づけられ、知識に制約されるそのようなものである。イエスは究極の良心規準を提供したと言える。それにより、彼は宗教指導者たちの、道徳的次元でも司法的次元でもまた宗教的次元でも人からも神からも褒められようとする二心、三心の偽りを指摘している。彼はそのさい対人論法を展開する。聴衆であるユダヤ人とイエスのあいだで同意されているのは、天国と地獄があること、神に律法を与えられたユダヤ人としての誇りである。聴衆が馴染みの教えはモーセ律法に基づく応報思想としての正義感である。「目には目を」「歯には歯を」の同害報復においては、等しさの分配という司法的正義が主な正義の理解である。イエスはそのユダヤ人の立場から天国や地獄における「報い」の概念も等しさの分配としての正義に基づき展開する。

これらがこの四か月の講義の流れであった。二心の排除において良心の発動が山上の説教の目的のようにさえ思われよう。しかし、この説教には既に権威ある方の教え、福音が見いだされうる。山上の説教においては良心が癒されるその福音に基づいて急進化された律法の成就の方向が示めされていたのである。

良心が宥められ心に平安を得るのは、道徳的次元とは異なる恩恵の次元に立つときのみであろう。イエスは「モーセ律法」ないし「業の律法」を急進化し道徳的次元において良心のことがらとして摘出した。神にはもう一つの正義の意志として「信の律法」がイエス・キリストの信を介して啓示されている。それは「目には目を」の比量的な正義の次元ではなく、比量や比較を絶する善である。そこでのみ聖霊と共に知る良心の平安が与えられる。

 山上の説教を理解する鍵語は「モーセ律法の急進化」「良心の発動」「偽りの摘出」そして「八福」と八福に基づく「第一に神の国と神の義とを求めよ」そしてそこから導かれる「明日のことを煩うな」の励ましである。

2 八福!もう一度

 イエスそのひとが神に八つの仕方で祝福されていることを彼の生涯の福音書の報告の様々な場面を紹介しつつ明らかにしてきた。イエスは三人称で一般的に神が好むひと、神に嘉みされるひとがいかなる者たちであるかを八つ枚挙している。「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(5:3-12)。

 マタイ5章から7章は山の上での教えであるため、「山上の説教(垂訓)」と呼ばれている。「祝福されている」と訳される言葉は「幸いだ」と訳すこともできる。とはいえ神とその御座である天国との関連で語られているがゆえに、神に祝福されるのでなければ幸福であることはできないため、より直截に「祝福されている」と訳した。これらは神に祝福される八つの心魂の態勢・状態またその働きにある者たちについて三人称で一般的に言われている。とはいえ、福音書のイエスの言葉は常に具体的な対話の状況・文脈のなかで対人論法により語られている。それ故にこの三人称表現も彼を求めて山を登ってきた寄る辺ない群衆に対して彼がもった今・ここの憐みから、通常否定的な状況と思われている悲しみなどの心の受動や苦境、そして柔和、憐れみ深さ、清らかさなどの肯定的な心の態勢そして迫害や平和を造る対人関係にこそこれらの祝福が発せられていると考えねばならない。彼ご自身が神に祝福される八福の担い手であったことが、福音書の様々な報告から確認することができる。祝福されていない者が他者を祝福することはできないであろう。

イエスご自身はユダヤ教の伝統のなかで「イスラエルの失われた羊」に遣わされているという自覚をもち福音宣教を始められたが、この三人称の表現はユダヤ人であれ、異邦人であれ誰であれこの憐みのもとに含まれていることをも含意している(Mat.15:21-28)。語りの文脈の具体性と射程の一般性双方を捉えねばならない。実際、類似の宣教の文脈において「群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れみ」、「彼らに多くのことを教え始められた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。彼は彼についてくる群衆を深く憐れんでいたのである。その憐みのなかでの神の国の宣教すなわち神の国がどのようなものであるか、天上の倫理がいかなるものであるかについての「教え」とそれがもたらす知識は弱った人々を救いだす力である。神の国についての明晰な理解がひとを新たにするという言葉の力を山上の説教は示している。彼は彼を求めて山に登ってきたひとびとを見捨てることは考えられず、彼の権威ある祝福は聴衆を励ますものであった。

 註解者たちは旧約聖書にこの八福についての先駆的記述を探しあて指摘している。たとえば『イザヤ書』61章で類似の記述に出会う。「主ヤハヴェの霊がわたしに臨んだ。ヤハヴェはわたし[イザヤ]に油を注ぎ、貧しい者に喜びの音信(おとずれ)を告げ 心傷ついた者を医(いや)すために わたしをお遣わしになったのだ。囚われた人に自由を 囚人に解放を告げ ヤハヴェの喜びの年と われらの神の復讐の日を告げ すべて悲しむ者を慰め・・衰えた心の代わりに賛美の衣を与えるためである」(Isaiah.61:1-3 関根正雄訳)。「柔和な者は地を嗣(つ)ぎ 豊かな平和を喜び楽しむことであろう」(Ps.37:11)。

イエスはご自身の使命を福音の宣教にあると心得ておられたので、このイザヤや詩篇の言葉などを自ら引き受けてその伝統のもとにそしてその伝統を超えて新しい教えを展開した。その山上での最初の福音が八福の教えである。第一の祝福は「その霊によって貧しい者たち」に与えられる。「その霊によって((i) pneumati)」(与格)はいかなる仕方で貧しい者が幸いかの説明である。例えば、「欲望によって富んでいる者」、「肉によって満たされている者」たちは直ちにはその祝福のもとにいないであろう。肉によって満たされた者は霊の渇きを感じることも、霊による満ち足りを求めることはないであろう、その空しさに襲われるというのでなければ。

 ルターは肉による満ち足りた者について言う、「彼[イエス]はユダヤ人の教えと信仰に抗して、この山上の説教を始めた。もちろん彼らだけではなく、全世界の教えと信仰に抗して彼は説教を始めたのであるが、そこにおいてはその[全世界の教えの]最善においては、もし世界がただ所有、名誉そしてその富を持ちさえするなら、そして世界がこの目的のためにだけ神に奉仕さえしているなら、この世界は豊かであるという考えにしがみついているものであった。イエスは、今や、説教を続けそして彼らが最善である、地上において最も祝福されている、すなわち、良き、静かな日々を持ちそしていかなる不快にも苦しむことがない、と看做したことがらの愚かさを示している。幾人かは詩篇73篇において述べられている。「死ぬまで彼ら[神に逆らう者]は苦しみを知らず、からだも肥えている。誰にもある労苦すら彼らにはない。誰もがかかる病も彼らには触れない」(Ps.73:4-5)。というのも、それは人間たちが求める主要なものごとであるからである、すなわち彼らは喜びと快を持ちそしていかなるトラブルも持たない。

今やキリストはそれを一新する、まさに反対のことを宣言する、そして悲しみと苦しみを持つ者たちを「祝福されている」と呼ぶ、そしてそのように一貫して、これらすべての言明は世界の思考様式とは、ちょうどそれ[その思考様式]がそれ[一つの方向]を持つことになるであろうように、反対の方向になされる。というのも世界は飢え、トラブル、不名誉、軽蔑、不正そして暴力を苦しむことを欲しないからである、そしてすべてから解放されることのできる者たちをそれは祝福されていると数えるからである」Commentary on the Sermon on the Mount by Martin Luther,p.31-2, tr.Charles A. Hay, (Philaderphia:Lutheran Publication Society 1892).

身体をもった自然的存在者の生の原理をパウロは「肉」と呼ぶ。その肉によって満ち足りている者とはこの世界で得られる金銭、健康、地位、友人、家族さらには道徳的有徳性において欠けがなく十全であるそのような者のことを言う。それに対し「その霊によって貧しい者」とはこれらのこの世のいかなるものによっても満たされず、おのれの不十全性故に滅びてしまう空しいものであると認識しており、飢え渇きのうちに神を求める者のことである。詩人は言う、「涸れた谷に鹿が水をもとめるように神よ、わが魂は汝を求める。神に、生命の神に、わが魂は渇く。いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わが糧は涙ばかり。ひとは絶え間なく言う、「汝の神はどこにいるのか」と」(Ps.43:2-4)。このような者がその霊によって貧しい者であり、神に祝福される者である。

3「汝の宝」はどこにあるのか―帰一的秩序付け―

 この世の通常の価値を逆転させる山上の説教はこのように革命的でありかつ危険でさえある。「汝の宝があるところ、そこに汝の心もあるであろう」(Mat.6:21)。ひとは、通常、宝すなわち大切にしているものを同時に多く持つであろう、われわれが価値を置くところのもの、それは健康でありまた、同時に望む職業に就くことでありさらには家庭円満であったり、多くあることであろう。しかし、そこでは「誰も二人の主人に仕えることはできない。というのも一人を憎みそして他方を愛する、或いは一方に親しみ他方を軽んじるであろうからである。汝らは神とマモン(富)に仕えることはできない」(Mat.6:24)と言われてしまう。何を着て、何を食べようかというこの世に宝を積みつつ、また永遠の生命を頂きたいというあの世にも宝を積むということは、心が二心に分裂してしまうことに他ならない。心の清さを宝とするひとは、天にのみ宝を積むひとであるか、少なくとも地上のよきものどもが天の宝により秩序づけられている人々であり、この集中なしに心の清さを獲得することはできない。この世のものごとはいかに天の国によって秩序づけられるのか。

「汝らのうち誰が思い煩いにより、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つか注意して見よ。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく、栄華をきわめたソロモンでさえ、これらの花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、汝らにはなおさらのことではないか、信わずかな者たちよ。だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」思い煩うな。それはみな異邦人が切に求めているものだ。汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりも第一に、神の国と神の義とを求めよよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう」(Mat.6:28-33)。

天の父はこれら生活のことが必要であることをご存知であり、これらすべては神の国と神の義に秩序づけられる。心の眼差しは最初に神の国を仰ぎ見ることが求められている。神により正義だと看做されることに向けられる。そのナザレのイエスは自らガリラヤの野辺を歩きながら、天国について教えつつ、その一挙手一投足において神の意志をさらには神の国を持ち運んでいた。イエスは「天国のことを学んだ律法学者は自分の蔵から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:52)と言う。古いものとは旧約のことであり、新しいものはその延長線上に彼自身においてリアルタイムに打ち立てられつつある新約のことであるが、天国について学んだ者はきちんと心魂という自分の倉庫を管理しており、知性においても人格においても一切を天国との関連において秩序正しく考慮することができまた行為を形成することのできるひとのことである。

4リアルタイムに神の国を約束しているイエスの権威

イエスご自身は野の百合空の鳥の慰めの言葉により、「汝ら」と呼びかける聴衆に対し神の国と神に義とされることを約束している。律法の急進化をただ要請しているわけではない。その根拠を天の国における報いとして約束している。イエスご自身にとっての宝は福音(罪人を義とし救いだす善き報せ)を迷える羊たちに伝えることである。即ち天の父が愛であることを自らの一挙手一投足によって伝えることである。この生涯をより一般的に統一的に表現するなら、彼の宝は天の父のみ旨、意志を完全に遂行することである。彼は生命をかけて神の国を伝え、神の国の現実をこの地上で持ち運んで生きた。「神の国は汝らのただなかにあり」(Luke.17:21)。この権威なしに、ひとにあれほどの律法の成就を要求することはできない。あの世ばかりかこの世をも失わせる、ひとにそのような危険思想を植え付けるだけのこととなる。

イエスは律法を急進化させ愛に収斂させている。「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽しそして汝の魂を尽しそして汝の思考を尽して愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身の如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat.22:36-40)。一切の業の律法は愛に収斂する。パウロも言う、「汝ら、互いに愛することのほか、誰にも何も負うてはならない。というのも、愛する者は他の律法を満たしているからである。なぜなら、「汝姦淫するな」、「汝殺すな」、「汝盗むな」、「汝貪るな」、そしてたとえ何か他の戒めがあるにしても、それはこの言葉「汝の隣人を汝自身のごとくに愛せよ」により包摂されているからである。愛は隣人に悪を働かぬ。かくして、愛は律法の充足である」(Rom.13:8-10)。愛が業の律法の冠である。

彼は地上においてかそれがかなわなければ天上における希望として愛を実現すること、それ以外の宝を持たなかった。換言すれば、彼は父に御言葉の受肉において派遣された者として、自らが神の子であることを信じ、「神の子の信によって」(Gal.3:30)愛に向かう信の従順の生涯を貫いた。「神の信」に対し信によって応答すること、愛に方向づけられる信それが彼の宝であった。キリストの弟子であろうとする者はその道に続く。「もはやたしは生きてはいない、われにおいてキリストが生きている。しかし、今わたしが肉において生きているところのものを、わたしはわたしを愛しそしてわがためにご自身を引き渡した神の子の信によって、信において生きている」(Gal.3:20)。またパウロは言う、「汝らはすべてキリスト・イエスにおける信を介して神の子なのである」(Gal.3:26)。

誰であれ様々な宝遍歴を経験したとして、この世の満ち足りの空しさ、薄っぺらさを経験した者には、これ以上の宝をもつことはないであろう。そこでのみ良心の咎めから解放されている。問題はこの一つを宝とするには古い自己の死を介することによってだけ、他の諸々の宝、偶像から解放されるという、この信の出来事を必要とすることである。「すべて信に基づかないものごとは罪である」(Rom.14:23)。彼はその信に基づき、愛の充溢である神の国を一挙手一投足においてこの地上に持ち運んでいたのである。

人口に膾炙した「野の百合空の鳥」というメッセージが彼のリアルタイムに実現されつつある福音に基礎づけられていたことを確認した。他方、イエスは同時に聴衆に対人論法において議論を展開していた。聴衆に馴染みのモーセ律法の枠の中で律法を急進化させつつ宗教指導者たちの偽りを摘出していた。対人論法として相手の土俵で論じており、直接に信仰を説くことも、奇跡に訴えることもなく、ただ言葉の力によりご自身が旧約の枠の中で、律法を急進化させることによってだけ整合的になる、その一挙手一投足において新たな契約を打ち立てている。

5業に基づく正義としての「報い」を乗り越えるもの

神の国と地の国の価値の逆転、さらには神の国による地の国の秩序づけ、ひいては福音と律法の関係の新たな樹立について、それを理解する一つの鍵は「報い(mistos)」という概念である。イエスは言う、「汝らの正義を人々の前で彼らに見てもらうべく為さないよう注意せよ。さもなければ、汝らは天にいます汝らの父のもとで報いを得ることはない(echete)からである。かくして、汝が憐みを施すとき、それはまさに偽善者たちが礼拝堂や街角で人々によって褒められるために為しているように、汝の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。まことに汝らに言う、彼らは彼らの報いを受け取っている。しかし、汝が憐みを施すとき、汝の憐みの施しが隠れるために、汝の右手が何を為すかを汝の左手が知ることをあらしめるな。そして隠れているものを見ている汝の父が汝に償うであろう」(Mat.6:1-4)。天において報いを得るか、この地上で報いを得るかいずれかであって、双方ということはない。それは「祈り」に関しても「断食」に関しても同様であり、ひとに見られるために大通りで祈り、断食するなら、「彼らは彼らの報いを得ている」(6:5,6:16)と言われる。そこから「汝らは汝らにおける宝を天に積め」(6:20)と命じられる。

かくして、報いは地上で既に得てしまった場合、天に積むことにはならず、天において報いや償いを得ることもない。イエスはあれかこれかを迫っている。報いはモーセ律法の応報思想の枠の中で理解する限り、正義を含意する。だから、地上で報いを得てしまえば、天国は過剰な報いとなり等しさとしての正義を得ることはない。宗教指導者たち、ひいてはわたしどもの偽善は地上でも天上でも報いを得ようとする二心であった。イエスはユダヤ人の当時の伝統的理解のなかで、誰もが持つであろう良心に訴えて、偽りを摘出している。言わば彼らの土俵で戦っている。それ故に「報い」は第一義に業の律法に基づく正義を意味しており、単に功利主義的な理解を提示しているわけではない。功利主義的に「最大多数の最大幸福」やその類の主張のもとにある快の最大化を目指すことが許容されているなら、この世の快とあの世の快双方を追求するであろう。しかし、それは正義と言う視点からブロックされており、快が報いの規準であるとは看做されていない。

天に宝を積み、そこで報いを得ることを命じるイエスご自身は或る確信のもとに権威をもって、彼についてくる者たちに未来についての約束を為している。一方モーセ律法に即して、応報の正義という観点からしてこの世界で報いをえることのない場合には天上で受けることは正義である。他方、ご自身はモーセ律法を超える権威を持つ方として、聴衆に天の報いを約束し励ましている。パウロはモーセが自らの栄光の翳りに不安を覚えたことを見逃さずに言う、「その神はわれらをして文字のではなく、御霊の新しい契約に仕える者として十全なものと為したまうた。というのも、文字は殺し、御霊は生を造るからである。しかし、たとえ、石に刻まれた文字における死の奉仕が栄光のなかに生じ、その結果イスラエルの子たちはモーセの顔の栄光の故に、それはやがて消えゆくべきものであるが、直接凝視しえざるほどのものであったとしても、霊の奉仕はいかにはるかに栄光のなかにあることになるであろうか」(2Cor.3:6-8,Ex.34:30)。

パウロはここでキリストを介した生命を与える霊の栄光と力能と神からモーセに授かった文字による栄光の程度の異なりを伝えている。十戒を示されたモーセの顔の輝きに麓にいた民は畏れを抱いたが、霊がもたらす栄光はそれに遥かに勝るものであった。その栄光ある主が明日のことを煩うな、天の父は汝らの一切の必要をご存知である、天に宝を積むとき、その報いは大きい、そのことを約束している。かくして、どうしてもこの世界における報いへの要求と自らの立派さへの誇りが残る業に基づく義よりも、天国への信に基づく義のほうがより根源的であることがわかる。

最大の報いとは何であろうか。それは各人の「宝」に応じて異なるであろう。イエスにとっては父と子の揺るぎなき愛の交わりであり、敵が友となり、支配からも支配されることからも自由な唯一のところで出来事になる友と友との揺るぎなき愛の交わりである。それは急進化された律法の理解にも基礎づけられうるものである。それはただイエスのように憐み深く、柔和な者にだけ与えられる祝福である。新約的には御子の受肉による福音の啓示の故に、何か野の百合、空の鳥のように神の憐みとケアのうちにあるとするなら、それは旧約的な報いではもはやなく、キリストにおいて示された神の憐みの聖霊を介して溢れでたものであると言える。「渇いている者は誰であれ、わたしのところに来て飲みなさい。私を信じる者は書に書いてあるとおりに、その者から生きた水が川となって流れ出るようになる」(John.7:37-38)。「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。

6 平和の君

今学期の学びで個人的にインスピレーションであったのはイエスの柔和さとその柔和さをめぐるゼカリヤの預言である。イエスは第三福の柔和な者であった。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を汝らのうえに繋げなさい。そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は良きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28)。イエスは暴れ馬のような方ではなく、イエスは驢馬の子にのってやってくる平和の君であった。その彼の軛に繋がれて歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与える者となる。平和の君だからである。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。

イエスの弟子であろうとする者はイエスの担いやすい低い軛に繋がれることである。ひとは見捨てても彼は決して見捨てることはない。誰であれ、ご自身の栄光を棄てられ、ひととなり、貧しいもの、悲しむ者、争いを好まない者、正義から不当に見放され正義に飢え渇いている者、憐み深い者、平和を造る者そして正義のために迫害される者たちとどこまでも共にいたまう方のところなら行くことができる。この世界で見失われているひとびとであればあるほど、イエスの軛につながれつまり神の子の信のもとに生きることによって、この人生を歩むことができる。

イエスの軛に繋がれ歩んでいるとき、次第にイエスの歩調に合うものとなり、次第に造り変えられていくであろう。この世界に何ら確かなものがないと思い絶望する者でも、このような八つの心の働き、状況においてある者が祝福の対象であるなら、人類にその一番低い所にセーフティネットは明確に張り巡らされていることを知るにいたる。イエスのもとにならいくことができる。

[附録] 新型コロナと「神の怒り」

人類の歴史は神の計画のうちにおかれている。今回のコロナ禍を「ローマ書」一章の視点から捉えてみる。まず天災と人災に分けることができるなら、罪は神とひとの関係であるため人災の側面についてのみ記す。ひとは自然に対し暴力的な搾取に明け暮れ、コロナウィルスに慎重に取り組むことなしに、自らの楽しみや利益を優先させ医療崩壊そして社会崩壊を引き起こすとき、勝手にせよと神は各人の裁量に引き渡しており、何ら関与されない。ところが、人類は自分の力でそれを終息させることができないほど、身勝手にウィルスをまき散らして健康弱者を窮境に陥らせている。もちろんわれわれにはゼロリスクということはありえず、いかなる理由であれ一旦感染してしまったなら、それは一種の運命共同体として身近な感染者を自らのこととして引き受けるしかないであろう。それによってのみ、われと汝の絆がつくられていくであろう。ただし、このコロナウィルスをめぐるここでの議論は聖書的には神の意志としてイエス・キリストやモーセを介して知らしめられているほど明晰に知らされているわけではないことに留意が必要である。これは歴史の渦に翻弄されている各年代の者がその時代の窮境を聖書に照らして「神の怒り」として捉える一つの視点である。悔い改めはいつの時代のいかなる状況においても求められている。

 

 

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天の父が完全であるように

「天の父が完全であるように、汝らも完全なものとなれ」

山上の説教マタイ5:33-48  2020年7月26日(録音では引用箇所が言及されないため、原稿を添付する。ただし、原稿にないものが録音では語られること、またその逆もある。「附録」 アンセルムスにおける正義と憐み両立の論証は録音されていないため原稿によりお読みいただきたい)。

1はじめに

 今回は神の完全性について考えてみたい。イエスは彼に追随してくる群衆たちにたいし彼らに馴染みのモーセ律法を手掛かりにして道徳的次元で聴衆の良心に訴えた。イエスは山上の説教においては対人論法を展開し信仰にも奇跡にも訴えることなしに、道徳的次元において議論を良心の発動の限界点にまで導いている。彼は彼らの指導者たちの気づかない二心、三つ心の癒着を指摘し心の清さのありかを教える。「汝の宝のあるところ、汝の心もまたそこにあるであろう」(Mat.6:21)。

 最も大切な宝とは何なのであろうか。道徳的にも、社会的にも宗教的にも成功することであろうか。この世もあの世もという欲張りはその心の清い者さらに憐れみ深い者と呼ばれることもないであろう。その霊によって貧しい者たちこそ神に祝福される者たちであった。この世のものによって満たされている者たち、その肉によって満足している者たちは自らの霊の渇きに気付かないであろう。言い換えれば、この世の何ものによっても満たされない者たち、この人間社会のただなかで善と悪に、真理と偽り等のあいだに何も確かなものを見出すことのできない者たちが天の父を求める。また人間と社会への失望や絶望から人間の可能性に対し諦め、この闇の世の力に圧倒され、疲れてしまった者たちが憐れみ深い羊飼いをもとめる、或いは正義に飢え渇いている者たちが正しい審判者を求める。一切を知り正義にして同時に憐れみ深い神と出会うとき、地の塩、世の光となる新たな力を得る。偽りなくつまり二心なく神を求める者、正確には「神の信」(Rom.3:3)に対し信によって応答しようとする者たちが心の清い者たちであり、後の日に神を見る者たちであった。

 神ご自身は聖なる方である。この聖性は栄光に輝く光に喩えられる。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は地をすべて覆う」(Isaiah.6:3)。誰がこの聖性に耐えられるであろうか。イザヤは言う、「ああ、何ということだ、わたしは破滅だ、というのもわたしは穢れた唇の者、穢れた唇の民のなかに住む者だからだ。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見たからだ」(6:5)。しかし、この聖性が人となり、救いの光となった。「暗闇を歩める民は大いなる光を見、死の陰の地に座したる者に光が照らした、主は民を増し加え、歓喜を大ならしめた。・・ひとりの男子(おのこ)がわれらのために生まれ、一人の子がわれらに与えられた。支配はその肩におかれ、その名を呼んで霊妙なる議士、大能の神、永遠(とこしへ)の父、平和の君と称えられん。その政事(まつりごと)と平和は増し加わり、限りなし。かつダビデの位に座してその国を治め、今よりのち永遠(とこしへ)に公平と正義とをもてこれを立てこれを保ちたまわん。万軍の主の熱心これを為し給うべし」(Isaiah.9:1-6)。柔和なイエスの正義にして憐れみ深い聖性に照らされて、ひとは新たに歩みだす。「汝の道を主にまかせよ。汝の正しさを光のように、汝のための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる」(Ps.37:6)。

2「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全なものとなれ」

 イエスは怒り即殺人、情欲視即姦淫、愛敵即無抵抗というモーセ律法の急進的理解を良心に訴えて説き勧める。最終的には彼は神が完全であるように、完全であれと命じる。人類に課される要求でこれ以上の強度の、大きな要求を想定することはできない。完全性によっていかなるものごとを理解すべきであろうか。その命令が導入される文脈は偽り、二心の拒否である。古への先人たちから「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられてきたが、その命令に心の中にざわめきを感じ取るひとは少なくないであろう。そこではこう言われている。「汝らは「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎め」と語られたのを聞いた。しかし、わたしは汝らに言う、「汝らの敵たちを愛せよ、そして汝らを迫害する者たちのために祈れ、それは汝らが天における汝らの父の子となるためである。天の父は悪しき者たちにも善き者たちのうえにも太陽を昇らせまた正しき者たちにも不正な者たちのうえに雨を降らせる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにどんな報いがあろうか。[ローマ帝国の]取税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんなに優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全なものとなれ」(Mat.5:43-48)。

 敵は隣人となることもあろう。さらには敵が友となることもあろう。善人も悪人にも神は憐みを示している、そのことがひとの二心を摘出させ、偽りとの決別へ、完全性への命令に結実する。われらは自らのうちにひとを分け隔てする二心があることに気付くのは、例えば、敵がひどい目にあうとそこにひそやかな喜びを感じてしまう時である、たとえそのような自己をすぐに恥じるとしても。友にさえ同じような感情をいだくこともあろう。どこまでもおのれを中心にしてしか世界を受けとめることができないその自己に落胆する。完全性からほど遠い、救いから漏れている自己を見出す。それが良心の咎めである。ひとはどこで分裂が癒され、自己が自己自身との一致において良心の咎めなく生きることができるのであろうか。

イエスは最後の審判の座において、端的に、右手で為す善行を左手に知らせることのなかった清く、憐み深く、良心の咎めなき祝福された者と良心の発動が促される呪われた者たちを判別する。イエスは言う、「[イエス]「わが父に祝福された者たち(hoi eulogēmenoi)、天地創造のときから汝らのために用意されている国を受け継げ。汝らはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・正しい者たちは応えるであろう、「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したのは、わたしに為したことである」。・・[イエス]「呪われた者たち(hoi katēramenoi)、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。汝らはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらは汝が飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」(Mat.25:34-45)。

 自らの胸に手を当て、吟味反省する時、おのれの高ぶりに気付く。山上の説教はブーメランのようであり、何か否定的な思いがわきあがるところ、そこに戻ってくる。貪りの思いが起こると、「その心によって清い者は祝福されている」が響き、怒り「愚か者」と言うなら、「火の地獄に投げ込まれるであろう」と言われ、誰かの人格を否定するなら、「裁くな」と言われ、良心の痛みが発動する。イエスは畳みかけるように、人間が想定しうる究極と言える、神の完全性に倣うように命じる。神は宇宙の外側で永遠の現在のうちにいたまい、言わばタイムマシンに乗っており、宇宙の法則から歴史に至るまで一切を知っていたまう認知的に十全な方であり、人格的に恣意的な依怙贔屓することのない公正で正しい方でありしかも同時に憐み深い人格的に十全な方であった。神の意志はイエス・キリストを介してほど、個々人の誰にも知らされていないため、たとえ永遠の昔から救いに選ばれ予定されていたとしても、各人にとっては自らが神に選ばれキリストにより愛されていることを信じることは常に実質的である。

 イエスは呼びかけて言う。「疲れている者たち、重荷を負っている者たちは皆、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛を汝らのうえにかつぎ[繋ぎとめ]なさい。そしてわたし[の足どり]から、わたしがその心柔和であり(praus)また謙った者であることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に休息を見出すことであろう。というのも、わたしの軛は良いものでありそしてわたしの荷物は軽いものだからである」(Mat.11:28-30)。イエスの軛、荷とは何か?天の父が憐み深く、信じる者を救い出す方であることへの幼子の信仰である。有徳な者も悪人も魂の根底に生起する悔いた砕けた魂における「信じます」と幼子のように縋ること、それがイエスと共に軛を背負って歩くことである。そこでは何の立派さも要求されず、ただ自らに偽りのない信が生起する場所・二番底即ちパウロの言う聖霊に反応する心の内奥の「内なる人間」(Rom.7:22)から生きるとき、同じ軛に繋がれた主が肉の生全体を一なるものとして秩序づけてくださる。荷物を運ぶとはイエスの御跡に従って歩むことであり、そこではイエスの弟子でありうることが無常の光栄となる。イエスに似た者になること以上に喜ばしいことはないからである。このように神の完全性にはナザレのイエスを介して近づくことができる。

 3神の認知的十全性

 詩人は神の全知をこう語り賛美する。「主よ、汝はわたしを究め、わたしを知っておられます。座るをまた立つをも知り、汝は遠くからわが思いを悟っておられます。歩くのもまた伏すのも見分け、またわたしの道にことごとく通じておられます。わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに、しかし、見よ、主よ、汝はすべてをご存知にいます。汝は前からも後ろからもわたしを囲み、わたしのうえにその御手を置いてくださる。その驚くべき知識はわたしにはあまりに素晴らしいものであり、それは高くて、わたしはそれに到達できません。どこへ行けばわたしは汝の霊から離れることができましょうか、またはどこに逃れれば、汝の御顔を避けることができましょうか。天に登ろうとも、汝はそこにいます。陰府(よみ)に床を設けても、視よ、汝はそこにいます。曙の翼を駆って海のはてに住むとも、そこにおいてさえ、汝の御手はわたしを導き、そして汝の右の手はわたしを捉えてくださる」(Ps.139.1-10)。

 宇宙万物の創造主にして救済主である神の如くに完全になる、認知的に十全な者となるということは、ひと各人を構成している諸層、諸次元に通暁して、正しく認識し判断できるようになることである。ひとは誰であれ何をしていても道徳的存在者として善悪を判断して生きており、ひとは何をしていても社会的存在者として経済、政治、法律などのもとで判断しつつ生活しており、ひとは何をしていても生物的存在者として栄養摂取、代謝、生殖のもとにあり生物としての自己を自己に宿るウィルスの本性にいたるまで知ることが求められ、ひとは何をしていても物理的存在者として光や重力の法則等のもとに運動しており、また形而上学的(Meta-physics 物理学を超えた学)存在者として、「ある」と「あらぬ」と「成り去りゆく」世界において存在と消滅にかかわっている。宮沢賢治はこの形而上学的存在者についてこう問う。「われやがて死なん、今日または明日、あらためてわれとは何ぞやと考える。われは幾十かの原子と分子の結合なりせば、畢竟するところ真空と異なるところあらず、われは死して後、真空に帰するや、それともあらためてわれと感じるや」(「疾中」)。

 パウロは死後の世界について、もし死者の復活がなければ、「飲めや歌えや、明日は死ぬ身だ」と主張する者たちの認識を伝える。パウロはそのような見解に「汝ら欺かれるな」と励ます(1Cor.15:32-33)。彼はイエス同様、ひとは死して真空に帰すのではなく、神の前に立たされると主張する。この尋常ならざる主張はひとつには人文、社会諸科学から生物学そして宇宙にいたるまであらゆる学問の通暁を介して、正しく吟味されることであるのかもしれない。しかし、これらすべての層が神の前に「在る」ものとして秩序づけられるとき、様々な分裂は癒され、一なる者として希望の生を生きる。ひとびとはその十全な全体の知識を持たずにも信により秩序を得、乗り越えてきたのである。信のもとにキリストの弟子でありうることを最も光栄なこととして、「艱難をも喜ぶ」(Rom.5:4)そのような秩序ある生が生み出されてきた。

 その秩序は「内なる人間」を構成する「叡知」と「霊」によって基礎づけられ、ひとびとは不思議な平安を経験してきたのである。「叡知」については「汝らこの世界に同調するな、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを汝らが識別すべく、叡知(ヌース)の刷新により変身させられよ」(Rom.12:1-2)と励まされる。神の意志に叡知がヒットすることもあろう。パウロはまた言う、「わたしは汝らについて確信している、汝ら自ら善きもので満ち、あらゆる知識を十全に備えており、互いに忠告しあう力ある者たちであると」(Rom.15:14)。彼は自ら書く生死をめぐる形而上学的なことがらを読者が「読んで理解できる」はずだと主張する(cf.2Cor.1:13)。

 われらは神の如き全知に向かう。ただし、自ら知恵ある者と誇る者がいたなら、こう警告される。「知識はひとを高ぶらせる、しかし愛は築く。もし誰かが何かを知ってしまっていると思うなら、未だ知るべき仕方で(kathōs dei gnōnai)知らなかったのである」 (1Cor.8:1 2 )。知るべき仕方とは何か。人間は神に造られた者として自然というテクストをまた人間というテクストを探求するその仕方であり、決して自らの発明に帰されることなくこれまで隠されていたロゴスの発見として、「その通り、本当だ」という同意による知識の獲得である。この信のもとにひとは正しく知識を持つにいたる。われらはこの己の認知的不十全性のなかで、自己が自己自身との一致において良心の咎めなく喜んで、平和を造る者となることを望んでいる。その希望はナザレのイエスの信の従順の生涯に基礎づけられている。

  4「いっさい誓うな」の基礎づけ

 イエスが群衆に「誓うな」とモーセ律法を急進化させるとき、その根拠はひとびとの誓いや約束など言葉の具現化力能、実行力の不十全性を指摘することによってである。ひとは己を正しい仕方で知らないからこそ、誓いを行うとイエスによって看做されている。彼は言う、「また汝らは古へのひとびとにより、「汝は偽って誓うな、汝の誓いを主に果たせ」と語られたことを聞いている(cf.Lev.19:12,Num.30:2-3,Deut.23:21)。しかし、わたしは汝らに言う、いっさい誓うな、天にかけても、というのも神の座であるから、また地にかけても、ご自身の足台であるから、さらにはエルサレムに向けても、大きな国の街であるから、汝の頭にかけても、というのも一本の髪の毛を白く或いは黒くすることもできないからである。汝らの言葉は「然り、然り、否、否」であれ、それ以上は悪しきものからでてくる」(Mat.5:31-37)。

 この誓いの禁止は十戒の第二戒「汝は汝の神ヤハヴェの御名をみだりに唱えてはならない」(Ex.20:7)と関連づけられる。「主よ、主よと言う者が皆天の国に入れていただけるわけではない、天にいますわが父の御意(みこころ)を為す者が入れていただけるであろう」(Mat.7:21)。前文の偽りの誓いで引用した当該箇所(cf.Lev.19:12,Num.30:2-3,Deut.23:21)においても、神への誓い、訴えのおざなりな言葉への警戒が語られていたが、一旦誓ったならそれを守るようにという実践の戒めに移行させられてきた。主の御名を唱えることによって免責されるわけではない。イエスはそれを急進化させ、一切誓うことのないように命じる。というのも、一方で天から地まで一切が神の支配のもとにあり神の御意が実現されるが、他方、人間が自らに頼るには神の力能との関連においてあまりに微力であることの認識が働いているからである。ひとは自分の身長を伸ばすことも髪の毛を自然に即して白くも黒くもできない。

 ひとは神との関係においておのれを知るとき、「然り、然り、否、否」しか誠実さをもって応答することができないところまで追いつめられる。それが自然に思えるとき、神とひとの関係が生きたものとして形成されているときである。自然が語り出すこと、テクストが語り出すことに耳を澄ますだけで、「その通りだ、然り(本当)だ(ita est verum est)」と心の内側からの同意が偽りなくなされることであろう。内側からの納得は双方が等しいものとなり、支配のもとでのいかなる種類の洗脳とはまったく異なる。

  5神とひとを媒介するイエス

 永遠の神と不十全な人間、この彼我の差は媒介者によってだけ橋掛けられ、近づくことが許容されるであろう。主の軛を主と共に担ぐとき、主の歩みからその柔和と謙りを受け取り、ひとは造り変えられていくことであろう。誓うなと語られるイエスご自身が共に軛を担う者に御意をなす力をそのつど与えてくださることであろう。神は善人にも悪人にも等しく雨を降らせ、太陽を昇らせたまう。敵もイエスがそのひとのために受肉し、死んだまさにそのひとのことである。「キリストがその者のために死んだそのかの者を汝の食物によって滅ぼしてはならない」(Rom.15:15)。われらが神に敵対していたときに、神は愛を示したとパウロは言う。「かくして、今や、われらは彼の血において義とされたのであるから、さらにいっそう彼を介して怒りから救われるであろう。なぜなら、もし、われらは、われらが敵であったときに、神と、ご自身の御子の死を介して、和解させられたのであるなら、さらにいっそう、われらは、和解させられた者として、彼の生命において救われるであろう」(Rom.5:9-10)。キリストに倣い迫害する者を祝福して呪わないとき、ひとは神に一歩近づくことになるであろう。

  6聖書に記される神は完全か?

 ここで一つの問いが提示されよう。旧約聖書において記されている神は完全であるのか、と。モーセ律法それ自身が急進化されうるものであるとするなら、神は真剣に人間と取り組んでいなかったのではないか。不十全な戒めを与えたのではないか。それに対しては、一つにはこう応答できよう。イエスは十戒の解釈として提示された600を超える律法に軽重の差異があることを認めている。イエスご自身は旧約のなかで新約を打ち立てようとする途上の生を今・ここで遂行している。その彼は神の律法を一つの体系のもとに捉え、軽重を明確に判別している。「ああ、なんということだ、学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばきそして憐みそして信をないがしろにしている」(Mat.23:23)。イエスは信の従順を貫いた。そしてそこにおいて公正なさばきつまり正義と憐みつまり愛が和解し両立するにいたったのである。

 さらに問われもしよう、神には「忍耐」や「寛容」そして「後悔」など時間的経過を含む人間的な特徴が帰属させられるが、一切を知りしかも正義であとされる神にとって「後悔」のような不十全な認知は神の不完全性を示すのではないか。ノアが洪水のあと祭壇を築き捧げものをすると、主はその芳(かぐわ)しい香りを嗅いで、ご自身の心のなかで語った。「わたしは人間のために大地を呪うことを二度とすまい、というのも人間の心の想いはその若年から悪しきものだからである。わたしが今回為したようなすべての生き物を打つことは再びないであろう。地の続く限り、種蒔きの時と刈入れの時、また夏と冬、そして昼と夜は止むことはないであろう」(Gen.8:20-22)。

 この疑問に対しては幾つかの応答が可能であるが、二つを挙げる。「神の賜物そして召命は変えられない」(Rom.11:29)とあるように、神ご自身のことがらとしては不変な神の意志において後悔は想定できない。しかし、神は、とりわけ、御子の受肉を介して時間的な存在者となることを引き受けており、歴史の展開のなかで不十全な人間により人間的に記述されることを許容していると思われる。それにより読者においては神の経綸の歴史的な展開をより身近なものとして理解できる。

 一千年以上かけて編集された「聖書」は「神の言葉」であるのかという問いに対しては、それが神の言葉としての神の意志と認識の記述であるかどうかはイエス・キリストにおいて神の意志が知らされているほどには、明確に知らされてはいないと応えることができよう。ただし、聖書が神とひとの関わりの歴史のなかで神についての権威ある記述として残ってきた事実は神がご自身について人間の不十全な記述によってであれ、このように記録されることを認可したと想定することは十分に許容される。

 続いて、二つ目の応答として、神話的な表象と非神話的な理論的把握のあいだに棲み分けはあっても、矛盾のないことを指摘できる。神は永遠の今において宇宙の外にいまし、同時に、とりわけ、御子の受肉を介して時間的存在者として記述されることを許容している。G.ライルは神話と理論的な議論のあいだの両立可能性を主張する。「神話はもちろんおとぎ話ではない。神話とは一つのカテゴリー[議論領域]に属する諸事実の、別のカテゴリーに適切な慣用語句における表現である。したがって、ひとつの神話を論破することは、それらの事実を否定することではなく、それらを再配置することである」([『信の哲学』上p.672)。

 一つの文脈において「最初の人間」(1Cor.15:45,Gen.2:7)アダムの土をこねての創造神話は進化の過程におけるホモサピエンスの出現として自然的な組成の言語による対応を語りうる。例えば人間の創造と自然的な事象としての人間の発生は哲学的な力能と実働の様相存在論により再配置される可能性をわたしは見る。さらに蛇の誘惑によるアダムの堕罪神話は、悪の起源が宇宙論的な善悪二元論のもとに運命論的、宿命論的に逃れ得ないものではなく、歴史のなかで外から偶然入ったものであること、そして事実上生物的な死という形でそれに支配されているが、そこから逃れ得るものであるという一般的な議論に変換可能である。その神話を基礎にパウロが神学的なカテゴリーにおいて、どれだけ人類が悪から逃れうるものであるかを福音の宣教として説得的に論証しているかが問われる。

 「神の怒り」については、神がモーセに十戒を付与したあと、アロンら流浪の民は待ちきれずに金の子牛を作り偶像崇拝に陥っていたことが範型的な事例として挙げられる。神は怒り「レビ人を用いて3千人を倒した」と報告されている(Ex.32:28,Rom.1:18-32)。他方、「ローマ書」1章においては「神の怒り」は勝手にせよという仕方で「欲望に引き渡す」ことによってまた「叡知の機能不全に引き渡す」という放任によって自らの義を知らしめている(Rom.1:24-26,28)。

 パウロによれば「神の怒り」という神話的な表象も「欲望における不潔」や「恥ずべき情欲」そして「叡知の機能不全」に「引き渡し」を受けた者たちに矛盾なく適用されるものである。例えば確信犯として神に反抗し悪行に身を染める者たちは「彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけでなく、行う者たちを是認さえしている」(Rom.1:32)と神の前にいる罪人として記されている。彼らは神の「峻厳」や「怒り」を知ることはできても、「善性」や「憐み」を知ることのできない者と神に看做されている。これが叡知の機能不全に引き渡された者たちの認知的な偏りである。

 また出エジプト記において、神の判断が「われを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問うが、われを愛しわが戒めを守る者には、千代にも及ぶ慈しみを与える」と報告されていた(Ex.20:5-6)。ここに神の恣意性、依怙贔屓を見出す者もいるであろう。それに対しては幾つかの応答が可能であるが、ここでは、業の律法のなかでは、もし罪に価する罰を課すことなく、三、四代で赦されたとするなら、それは人間的には「恩赦」としての憐みの賦与以上のものではないことである。「目には目を」の業の律法のなかでそれを減免している以上のものではない。人類の歴史において掛け値なしに正義と憐れみが両立するとするなら、それは神とひとにとって完全な関係であると言えよう。例えば、恩赦は正義にもとるとひとは考えよう。また溺愛は憐れみにもとるとひとは考えよう。神の正義と憐みの完全な両立はイエス・キリストの信を介してしか実現されなかった。神は人類に信実を貫いたことにより正義であり、その信は「愛を媒介にして実働して」いるところの憐れみを伴う信であった(Gal.5:6)。

  7「信の律法」により「業の律法」に死んだ

 業の律法と信の律法はイスラエルの歴史の展開のなかでモーセという人物が選ばれ、また時が満ちて、つまり好機に、ナザレのイエスが選ばれ彼らを介して神の意志として知らしめられている。モーセ律法がなければ、われわれの罪の自覚は乏しいものとなっていたことであろう。「律法は怒りを成し遂げる」(Rom.4:15)。またパウロは石板に刻まれた文字としての業の律法は罪に利用されるが、その律法は神ご自身の意志としては聖なるものであり、罪と律法が心に働きかけ三つ巴の戦いを引き起こすとして言う。「律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である。それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ、罪が善きものを介してわれに死を成し遂げていることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」(Rom.7:12-13)。神はイスラエルの心魂をめぐる歴史の展開に応じて、ご自身の意志を啓示している。業の律法によりいかにひとが良心にもとる自己撞着と癒着に陥っているかを明らかにする必要があった。もしイエスがモーセ律法以前に受肉して殉教の生涯を送ったとしても、自己の罪の自覚のないところではひとは真剣に子羊の贖罪を受けとめることはできなかったであろう。業の律法の啓示を介して一千年以上の神の民の訓練が遂行され、時が満ちて御子の受肉が生起した。

 良心の葛藤、痛みからの解放は業の律法に生きる限り得ることはできない。パウロはイエスの業のモーセ律法の急進化を受けて、神ご自身にとって、より根源的なイエス・キリストの信の律法によりモーセ律法のもとに生きることをもはやせず、業の律法に死んだと主張する。「しかし、今やわれらがそこに閉じ込められていたもののうちに死にそこから解放された」(Rom.7:6)。すなわちわれらは山上の説教から解放されたのである。パウロは「ガラテア書」において自らの自覚としてこの業の律法から信の律法への移行を罪の値である死からキリストにおける生への移行として語る。「われは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。われはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわれは生きてはいない、われにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。

 もはやひとは業の律法に即して生きることはない。ひとはちょうど「霊に即して」生きており、「肉に即して」生きてはいないが「肉において」生きているように、「信の律法に即して」生きており、「業の律法に即して」生きていないが「業の律法において」生きている。換言すれば、山上の説教に即して生きるのではなく、信に即して山上の説教において生きる。これが「愛を媒介にして実働する信」(Gal.5:6)の力である。「業の律法」は「信の律法」より少なく根源的であるが、神の意志である限り、天地が滅びるまで「律法の一点一画」たりとも廃棄されないと語りうる。業の律法の極が愛である以上、信に基づき愛の道を歩むであろう。罪赦されたことの証は愛しうることであった(Luk.7:47)。ひとは歯を食いしばってその信のもとに敵を愛することであろう。

 この二種類の神の義の啓示を介して、信の律法のもとに生きる以外に義とされる道のないことが知らされている。「信に基づかないすべてのものごとは罪である」(Rom.14:23)。業の律法に基づくと神に看做される者は終わりの日にその業に応じて報いを受けるが、そこでは誰も義と看做されることはないであろうからである(Rom.3:20)。「ひとよ、汝は神の裁きを逃れると思うのか。それとも汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか。汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しい裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」」(Rom.2:3-6)。かくして、ひとは悔い改めにより怒りを逃れて信の律法のもとで罪の赦しの義認に向かうことができるだけである。

[付録]アンセルムス『神はなぜ人間になったか』における正義と憐みの信に基づく両立論証

 神の子がまったきひとりの人間となり罪なしに信の従順を貫いた。そのイエスを十字架に磔ることは他の罪とは比量不能なほどの悪であるということは彼が比量不能なほどの善であったことを示している。イエスは業の律法の相対性、比較、比量の次元を突破している。神は人類に対し信(「まっすぐ rectitudo」)に基づき正義であり、その信はご自身の子を人類にたまう、その比量不能な愛、憐みを介して啓示された。アンセルムスは一つの思考実験としてイエスを殺さねば世界全体がそして神以外の一切が滅びるという想定のもとに弟子ボゾに選択を迫る。ボゾは彼を殺すか、それとも世界全ての罪を自らに担わされるかいずれかの選択において、「この行為一つを為すよりも、・・この世の一切の過去に犯された、また未来の罪をもこの身に受けたい」と応答する。

 アンセルムスは微笑みつつ、一切の罪が神に対して犯されていることに注意を向ける。従って、万物一切が神のものであるその位格(父と子)への罪は、ひとの前のいかなるものとも比較を絶する。彼は言う、「このひとの肉体的生命に加えられた罪は、神の位格以外に加えられた罪がいかに大きくまた多くとも、比較を絶する(incomparabiliter)ことがわかる」(Cur Deus Homo 『神はなぜ人間に』II14)。キリストの殺害がそれほど比較を絶する悪であるとするなら、彼が「どれほどの善」であったかも分かる。「かくして君は見る、もしこの[イエスの]生がかのものども[罪]に対し捧げられるなら、この生がいかにして一切の罪に打ち勝つであろうかを」(II14)。

 二巻十八章(II18)では、「人間の救済がどれほどの理をもって彼の死から帰結するか」が問われる。「彼以外誰一人、死をもって、いつか喪失する必然性なきもの[罪なき者に与えられる生命] を神に捧げ、或いは自ら負っていなかったもの[人類の罪]を神に完済した者はいない。彼はいかなる必然性によっても決して喪失することのなかったものを自発的に父に捧げ、自らのために負っていなかったもの[身代わりの死]を罪人たちのために完済した」(II18)。かくして、「神の憐みが、実はそれよりも偉大でまた正義なるものが考えられないほどに、偉大で正義にかなったものであることをわれらは見出した。・・父なる神が「わが独子を受け、汝の代わりに捧げよ」と言い、また子自身が「われをとり、汝を贖え」と言われた場合以上に、深い憐みを考えることができるか。・・全負債を超える値が、ふさわしい愛情とともに与えられている方にとって、彼が全負債を赦すことよりも何か正しいことはあるか」(II20)。ここに正義と憐みの両立のなかで、人類の負債一切が神の前で赦された。この両立においてこそ神の完全性は最も明白に知られるであろう。

 

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偽りとの決別(その二)―「報い」における正義と利益の位置づけ―

登戸学寮日曜聖書講義Mat.5:21-6:34(録音においては時間の関係で引用箇所を省略しているので原稿を添付する。なお、「5報いに結果として伴う利益」は省略したため、本原稿により補っていただきたい)。

偽りとの決別(その二)Mat.5:21-6:34―「報い」における正義と利益の位置づけ―

                                                         2020年7月19日

1.はじめに

 山上の説教(マタイ5~7章)を偽りという視点から考察するとき、道徳的な領域と司法的な領域さらには神の領域、これら三つの領域ないし次元のあいだのユダヤ人における癒着を摘出することができるように思われる。彼についてくる群衆たちに対し、「偽善者」や「偽預言者」を見分けるように教えている。イエスは、モーセ律法の枠のなかで先祖代々伝えられた教えを聞いて育ってきたユダヤ人に向けて、モーセ律法を急進化、先鋭化する。そのさい彼は弁証術(dialectic)と呼ばれる議論を吟味する技術を用いて、彼の論敵を論駁する「対人論法(argumentum ad hominem argument to the person)」の議論を展開し、彼らの道徳的、司法的次元ならびに神の前の次元の癒着を明らかにしている。対人論法とは、対話者双方に共有される見解を確認しつつ、自ら固有の立場を一旦棚上げし、対話相手ないし対話相手が馴染んでいる考えの土俵ないし立場に立ち、その土俵が持つ暗黙の前提を明るみにだし、彼らの気づかない思い込み、偏りや誤りを指摘する論法である。

 ユダヤ人であるイエスと群衆のあいだで同意できることとして、神の国と地上の国さらにはユダヤ人と異邦人の二分による思考方法は馴染み深いものであり双方に共有されているという前提のもとに語りかけられる。ユダヤ人は自分たちが神に選ばれ、神の意志としての律法を授けられた民であるという認識を持ちまたそれを誇りにしている。 

 山上の説教の土俵とは、ユダヤ人が伝統的にそのもとで育てられたモーセの十戒のことである。そこではイエスは自らが立つ立場である「信」を一旦棚上げにして直ちには持ち出さず、さらには信じる者への憐みのもとに遂行される癒しなどの不思議な業(所謂奇跡)を行うこともせず、ただ言葉で同胞の伝統にチャレンジしている。ユダヤ人はこの十戒のもとに六百を超える律法解釈を提供しており、それらは一括してパウロにより「モーセ律法」および「業の律法」と呼ばれる。モーセ律法を良心に訴えて先鋭化して、出エジプト以来の一千年のあいだに蓄積された偏りや隠されていたものを明らかにしていく。

 イエスとユダヤ人のあいだで同意されていることがらとして、或る心の状況や行為に対する「報い」・「報酬」が正義として与えられることである。所謂勧善懲悪の世界である。モーセの十戒の冒頭にこう神により言われていた。「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問うが、わたしを愛しわが戒めを守る者には、千代にも及ぶ慈しみを与える」(Ex.20:5-6)。イエスはもっと長いスパンにおける正義を考慮し、地上における報いよりも、天国や神の国における報いが強調され、それを前提にして八福が語られていた。

2. 律法が暴き出す二心(ふたごころ)、三心(みつごころ)

 これまで学んできた八福ならびに地の塩、世の光の議論に続いて、イエスは律法をとりあげ、天地が滅びるまで律法の一点一画とも廃棄されないことを確認する。そこでイエスは言葉の力に訴え、道徳的な次元で律法を急進化、先鋭化させて良心の発動に向けて心の最も内奥に訴える議論を展開している。彼は神の義に基づく天国か地獄の審判を語る。死後の二つの世界の前提のもとで、イエスは伝承として古(いにしえ)から語り伝えられているモーセ律法を道徳的に先鋭化して、二心(ふたごころ)、或いはひとの前にも、自分の良心の前にも、神の前にもよい顔をしようとする三心(みつごころ)を暴き出している。

 ユダヤ人は動機としては名誉や自己利益のためではあるが、形式的に律法を遂行することにより、正しい人間となりさらには神の前でもあわよくば神の国を手に入れようとする。イエスが「わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」 (Mat.5:20)と言うとき、パリサイ人らは概して功利主義的であり、一切のものは自らの腹、欲望の充足、利益ために手段化されていることを含意している。イエスは論難する、「ああ、なんということだ(ouai,woe,ウーアイ)、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、内側は強奪と情欲で満ちているが[現在分詞]、杯や皿の外側を清めている。・・ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、汝らは石灰で塗った墓に似ている。何であれ外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる穢れで満ちている。このように汝らもまた外側は人々に義人に見えるが、内側は偽善と不法で一杯である」(Mat.23.23-28)。パウロも言う、「その者たちについてわれ汝らにしばしば語ってきたが、しかし今涙ながらに言う、多くの者たちはキリストの十字架の敵である、彼らは地上のものごとを思慮することによって、その者たちの終局は滅びであり、その者たちの神は腹でありまた彼らの恥における栄光である」(Phil.3:17-19)。このようにひとの偽りが摘出されていく。神の前に立派であるかのごとく見せかけておいて、地上における自己の利益や名誉を追求する二心が偽りなのであった。

[円錐形による各人「私」が帰属する道徳的、社会的、生物的、物理的そして形而上学的地平の説明]。

3.怒り即殺人、情欲即姦淫、敵即隣人

 前回見たように、殺人と他者への怒りが同等のものとして扱われ、「審判に服することになるであろう」と言われていた。怒るたびに殺人罪として審判されるなら、この審判に耐えられる者はいないであろう。こう言われていた。「汝らは古(いにし)への者たちにより「汝、殺すなかれ、殺す者は審判に服することになるであろう」と言われたのを聞いている。しかし、自分の兄弟に怒る者はすべて審判に服することになるであろう。自分の兄弟に「馬鹿」と言う者は最高法院に服することになるであろう、「愚か者」と言う者は火の地獄に服することになるであろう」(Mat.5:17-22)。誰もが殺人は悪であるとは思っていようが、怒りや罵りも同様の審判に服することになると言われる。「火の地獄」に投げ込まれるとさえ警告されている。この真剣さに戸惑うばかりであろう。

 姦淫についても同様である。「「汝、姦淫するな」と言われたのを汝らは聞いている。しかし、私は言う、欲情をいだいて婦人を見る者はすべて、既に自分の心の中でその婦人を姦淫したのである。もし、汝の右の眼が汝を躓かせるなら、抉り出して捨ててしまえ。というのも汝の身体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれないほうがましだからである。もし汝の右手が汝を躓かせるなら、切り取って捨ててしまえ。というのも肢体の一部がなくなっても、汝の全身が地獄に落ちないほうがましだからである」(Mat.5:27-30)。これを文字通りに実行したら、ひとはすべて盲目になってしまうのではないだろうか。

 イエスもパウロも身体をもった自然的存在者としての肉の弱さを認め、「われ汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)として、人間中心的な思考を譲歩として許容している。前々回見たように、イエスは人間の肉の弱さを熟知しており、まっすぐ歩けない弱い者たちに忍耐と寛容のもとに譲歩を示しつつ、励ましている。ゲッセマネにおける信の従順を貫く苦闘の祈りのただなかにおいて、弟子たちは待ちきれず眠ってしまった。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていよ。霊は燃えるが、肉は弱いからである」(Mat.26:41)。「肉」とは土から造られた身体を持った自然的存在者の生命原理のことである。パウロは、信徒は「肉において」生きているが、「肉に即して」ではなく、「霊に即して」生きていると言う(Rom.8:1-14)。モーセ律法における離縁をめぐる譲歩も確認した(Mat.19:4-8)。しかしながら、ひとはどこまでこの譲歩の領域に居座り、この律法の先鋭化、急進化を真剣に受け止めることなく、自己中心的な態度を広げていくのであろうか。

 敵の強力な軍事力を前にして、負けまいとして軍拡に走ることは聖書的には肉の弱さへの譲歩以上のものではない。イエスによる道徳の先鋭化はその譲歩を拒否している。「「目には目を、歯には歯を」(Ex.21:23)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、「悪人に手向かうな」誰であれ、汝の右の頬を打つなら、他の頬を向けよ。汝の下着を取るべく裁判にかけることを欲する者には、その上着をもその者に引き渡せ。また誰であれ汝を強制して一マイル奉仕させる者には、彼とともに二マイル前に進め。汝に求める者には、与えよ。また汝から借りようと欲する者には背を向けるな。「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、われは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれる者を愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:38-46)。

 ここでも著しい言葉にであう。人類の誰かがこれを言ったということ、人類のなかにこれを言う者がいたという事実だけで、人類であることに希望を見出す。換言すれば、これらのイエスの議論においては、ひとはそこまで造り変えられ得るものであることが前提にされており、またときにそのような証となる事例を見出すことができることに励まされる。ひとはまだ自分の隠された力能、可能性に気付いていないのではないかと思わせる。少なくとも、そこまで突き詰めなければひとは救いを見出しえないそれほどの知性と道徳性を少なくともその可能性において備えた存在なのである。

 イエスは所謂「無抵抗主義」を基礎づけるものとして次のように言うが、それは例えば今・ここで襲われている愛するひとのために正当防衛として相手に立ち向かい自分の生命を捧げるそのような行為をさえ拒否する理由となる。「自分を愛してくれる者を愛したところで、汝らにどんな報いがあるであろうか。[ローマ帝国雇用の]取税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになるだろうか。異邦人でさえ同じことをしているではないか。だから汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全な者となれ」(Mat.5:46-48)。愛する者が暴力を振るわれているときに、生命をかけて守ったとして、それは巷間では勇敢な行為と看做されることもあろうが、聖書的には肉の弱さへの譲歩に過ぎない。友を愛し敵を憎むとき、そこに自らの二心を見出し、その偽りに良心が発動することもあろう。家族への愛、好む同士の友愛、ひとはどこまでこの人間的な思いに居座り続けるのだろうか。

 これは天の父の思いとは異なるとされる。神の想いは天が地よりも高いように、はるかに高いと言われる。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。天の父は「われらが[神に対し]敵であったとき」(Rom.5:10)、御子の受肉と信の従順の生涯を介して、父の愛を示したことのゆえに、ひとの罪の赦しが歴史のなかで恩恵として明らかにされた。そこでは神はわれらの功績にかかわらず「イエスの信に基づく者」を嘉みし、イエスの十字架における罪の赦しの出来事をその者の出来事だと看做したまう。神のこの愛の啓示の媒介となったイエスご自身が同じ肉である人間に認知的、人格的に十全である神の完全性に倣うよう命じている(cf.Ps.139)。

 神ご自身が人間に信実を貫いており、「父は悪人にも善人にも太陽を登らせ、正義な者にも不義な者にも雨を降らせてくださる」(Mat.5:45)。イエスは神の完全をもちだし、ひとの良心にチャレンジしている。イエスは命じる、「汝が祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が汝に何か反意を(ti kata sū)もっていることを思い出したなら(mnēsthēs<mimnēskō)、その供え物を祭壇の前において、まず兄弟と仲直りし、それからそれを供えよ」(Mat.5:23)。ひとを傷つける言動や小さな不和の芽に気づいたら、まずそれを取り去って良心の咎めを解消してから、供え物によってであれ神と心おきない懇ろな交わりに入るよう命じている。力点は「投獄」の恥辱を受けたくないという功利主義的なことがらにあるのではなく、誰かの反感に気づく、目覚めていること、ないし良心の発動におかれるべきである。イエスはここでも「思い出す」という仕方で良心の発動を前提にしている。

 ここまで先鋭化されると何ひとつ身動きが取れなくなるというか、もうこのような教えについていきたくないと思う者もでてくることであろう。しかし、滑稽とさえ思えるほどのこの真面目さはひとの心に深く刻まれることになるであろう。少なくとも心をともなわず形式的な仕方でモーセ律法を守っているから自分は正しい立派な人間であると語ることはできなくなる。そして当然権威をもって語るイエスの前で、自分は神に義とされると主張することはできない。この律法に照らし合わせて自らの振舞いを顧みるとき、誰もこの試験にパスする者はいないことであろう。それほどまでにイエスの要求は高い。そして天地が滅びるまで、「律法の一点一画たりとも廃棄されない」と語られている。そうであるとしたなら、これらの一点一画までも遵守する力をどこかから得るしかないであろう。イエスは、それは信であると言う。彼は「信じる者には何でもできる」(Mac.9:23)と言う。神の前とひとの前を媒介するものが神の子にして同時に人の子であるイエス・キリストに帰属した信である。

4. 律法充足の道―信における正義に伴う利益

 八福においてその心において清い者とは陰りなく全身が明るく輝いている者のことであった。それは一切を神との関係において捉えており、神との信実な関係の構築のみに関心を注いでいる人々のことであった。「信の律法」は神ご自身にとって「モーセ律法」、「業の律法」よりも根源的であり、神がキリストにあって信実でありそれ故に正義であったとき、ひとは信において応答するのかそれとも裏切るのかが問われていたのであった(Rom.3:27)。「汝が汝自身の側で持つ信を神の前で持て」(Rom.14:22)。神の圧倒的な信に対しては信でありうることだけで(その結果として)光栄であり喜びである。おのれの利益や名誉から自由になり、平和の君にただひたすら従う清い者でなければ、平和を造る者とはなれないことをこれまでに確認した。パウロはかつて同胞とともに迫害していたキリストそのひとによって救われたのち、まだキリストを拒んでいる同胞ユダヤ人のためなら、「呪われて」救いから外されることをも厭わなかった(Rom.9:1-5)。

 神は業の律法の充足に即して律法遂行者に報いを与えると報告されており、さらにイエスは彼が祝福する八福の者たちにおいて、神によって天国における報いが与えられると報告されている。地上の具体的な生活においてであれ、死後の天国においてであれ、聖書はそのような神が嘉みする者に対する報いとしての正義を主張している。ただし等しさとしての正義に続くもの、伴うものとして、「報い」や「報酬」を利益という視点から功利主義的に捉える発想もイエスに認められている。「偽善者は、断食しているのをひとに見てもらおうと、顔を見苦しくする。汝らに言う、彼らは自分たちの報いを受けてしまっている」(Mat.6:16)。イエスはさらに言う、「地上に富みを積むな。・・富は、天に積め。そこでは虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗みだすこともない。汝の富のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.6:19-21)。

 この地上における霊による貧しさ、悲しさ、柔和さ、正義の飢え渇き、憐れみ深さ、心の清らかさ、平和を造ること、そして正義のために迫害されることが祝福されるのは、天国における神のもとでの慰め、平和、さらには敵が友と友となることの喜びなどの報いを得るからである。その報いは神が与える祝福としての正義であるが、そこに利益を見ることも許容されている。これは神の正義に即した終わりの日の審判であり、同時に正義に伴う利益でもある。

 その報いへの希望を支えるものはこの地上にあっては神の国への信である。しかし、山上の説教の対人論法は信をもちださずに展開される。信と自己利益としての報いはいずれが心魂の根源性かという議論に関しては両立しがたいからである。神が信であったときに「信の律法」として求められているのは信のみだからである。たとえば、自らが救われたい、平安を得たいという欲求つまり利益への追求から信仰を持つとするなら、神を利用することを自覚している場合には神の信に対応する信ではなく、神の信ならびに自らの信仰を利用することとなる。そこでは信はそれが本来あるべき心の根源には位置づけられない。汝の宝のあるところ、心もあるとするなら、信ではなく自己の利益が宝である。そのような者は神により「イエスの信に基づく者」さらには「アブラハムの信に基づく者」と終わりの日に看做されないかもしれない(Rom.3:26,4:16)。

 他方、自らの信仰に懐疑をもち、自分は神を利用しているのではないかと疑う者がいるとしたら、それは信仰を「貪るな」という業の律法のもとに従属させることとなり、信仰を業の律法のもとで盗むか、盗まないかと同じ次元で理解することとなる。神に「信ぜよ」と命じられているとき、信仰を貪るか貪らないかという業の律法の次元で捉えるのではなく、神を信じるか裏切るかが問われているのである。信の律法は神ご自身にとって業の律法より根源的なのである。

 山上の説教においては「信」の派生語はただ一回「信少なき者たち(oligopistos)」と否定的な呼びかけにおいて用いられ、その信少なき群衆に野の百合、空の鳥を見るようにそして花や鳥のように煩うことのないように命じられる (Mat.6:30)。イエスは信に基づく義・正義をこそ自らの立場としているが、この説教においては憐みをかける群衆への呼びかけ以外に「信」について論じることをしていない。そのことはさしあたり「報い」を神の正義のみならず人間の利益という功利主義的な観点から理解することを、イエスの説教は許容していることを含意している。しかし、モーセ律法は心がともなわなくとも形式的に守ることのできるものであった。殺すとか姦淫するとかいうことは誰の目にも分かりやすいものであり、形式上自分は立派な人間であると誇る余地を残している。業の律法のもとに生きる者は形式的であれ「あらゆる律法を満たす義務がある」(Gal.5:3)と語られる。そしてその業に基づき審判されるとき、義とされないであろうことが警告されている(Rom.3:20,Gal.3:11)。

 イエスは功利主義的なユダヤ人に分かりやすい次元で議論を展開している。「ユダヤ人は徴を求める」とあるように、彼らは神を見えないものごとに対する信によってというよりも見えるところで利益を感じていたい民族であった。もちろんそれはユダヤ人に限らず、信と信の根源性に立ち返らない限り、ひとはことごとくその次元にあることであろう。パウロは言う、「ユダヤ人は徴を要求しそしてギリシャ人は知恵を探究するのであるからには、われらは、しかし、十字架に磔られたキリストを宣べ伝える、それ[十字架]はかたやユダヤ人には躓きであり、他方異邦人には愚かなものである。とはいえ、ユダヤ人にもギリシャ人にも呼び出された者たち自身にとっては、キリストは神の力能でありまた知恵である」(1Cor.1:22)。イエスの十字架に至る信の従順の生涯は神の力能と神の知恵を明らかにするものであった。

 5.報いに結果として伴う利益

 功利主義的な自らの利益という視点からの思考も一般的な分析のもとに位置付けられる。ひとの行為選択の動機は目的―手段連関のもとに三種類に判別される。(1)他のものの故に何かを為す場合、(2)他のものかつそれ自身の故に何かを為す場合、(3)何かをそれ自身の故に為す場合である。ひとは生活のためにお金を必要とするが、お金は(1)他のものの故に求められる。(2)風呂好きのひとはそれ自身かつ衛生保持のために風呂に入ることであろう。(3)神の栄光をそれ自身の故に求めるひともいようし、自らの「心魂のよくあること(well-being幸福)」を究極的善としてそれ自身の故に求めるひともいよう。神とひとのあいだに信と信が成立するのであれば、それは(3)それだけで選択されるでもあろうが、それが結果として喜びを伴うものであってもかまわない。喜びのために信実であろうとするならそれは(1)か(2)に分類されることになる。キリストの軛につながれその平安と柔和と清さのほうがこの世の成功よりはるかに良いと思えるひともいることであろう。「疲れたる者、重荷を負う者、われにきたれ。汝らを休ませてあげよう。わが軛をかつぎあげそして[わが歩みから]学べ、わたしが柔和であり謙っていることを。そうすれば汝らは汝らの魂に安息をみいだすであろう。というのもわが軛は良きものでありわが荷は軽いからである」(Mat.11:28-30)。そのひとはそのように自らの認識を位置づけた時には、(1)か(2)に属するであろう。

 「他のものの故に」という手段―目的連関を利益という視点から考察する限り、功利主義的な思考に帰属させられることになるであろう。そのことは何ら否定されてはいない。パウロは言う、「われはわが主キリスト・イエスの知識の優越の故に、あらゆるものを損失と考える、彼の故にわれ一切を失ったが、それらをわれ塵芥と看做す」(Phil.3:8)。ここで利益の対義語である「損失」という言葉が見られる。しかし、パウロの自覚としては(3)キリストと共にあること、それをそれ自身において求められる善としつつ、その結果として他のものの価値が塵芥(じんかい)に帰したということであろう。利益のために何かをすることを功利主義的であるとすれば、結果として利益を伴うことがあったとしても、それは定義上功利主義的ではない。とはいえ、時に(3)キリストと共にあることをそれ自身として求め、他の時に苦境にあって信に伴った喜びを思い出し、(2)平安のためにも共にあることを求めるということがあったとしても、神に否定されることはないであろう。この種の思考は一種の功利主義的思考と両立可能であると言える。というのも人間中心的な思考も譲歩として許容されているからである。

 6.野の百合空の鳥を見よ!

 天の父は水臭くない方であり、この世界での生存をケアしている。ただし、人生に最も重要なことはまず神の国と神の義を求めることであるとされるが。「それ故にわたしは汝らに言う、汝らが何を食べ、何を飲もうか汝らの魂によって思い煩うな、また汝らが何を着ようか汝らの身体によって思い煩うな。魂は食べ物より以上のものであり、身体は衣服より以上のものではないか。空の鳥をよく見よ。種も蒔かず、刈入れもせず、倉に納めもしない。だが、汝らの天の父は鳥を養ってくださる。汝らは鳥よりも一層優っているのではないか。汝らのうち誰が思い煩いにより、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つか注意して見よ。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく、栄華をきわめたソロモンでさえ、これらの花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、汝らにはなおさらのことではないか、信少なき者たちよ。だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」思い煩うな。それはみな異邦人が切に求めているものだ。汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ。だから、明日のことまで思い煩うな。明日のことは明日が自ら煩う。その日の労苦はその日だけで十分である」(Mat.6:25-34)。

 イエスは群衆にガリラヤの野辺で風にそよぐ花々をそして澄み渡った乾いた空を舞う鳥たちを指さしながら、生きることの祝福を語った。明日のことを煩うな、一日の労苦はその日で十分である。この「煩うな」という命令形から父なる神を信ぜよを読み取ることは難しくない。対人論法を介して、信の根源性を間接的に説いたのであった。律法について、急進化、先鋭化させて良心の発動に向けて心の最も内奥に訴える議論は「業の律法」を離れることを、業の律法への煩いを棄てて、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である」その信に導いている。

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偽りとの決別―山上の説教における道徳的次元―

偽りとの決別―山上の説教における道徳的次元―

   登戸学寮日曜聖書講義 マタイ5:13-6, 2020年7月12日

1 はじめに

 先週まで3か月かけてマタイ5章冒頭により山上の説教の八福を学んできた。これは端的に言って、神はどのような人々を好んでいるか、どのようなひとに憐みをかけているかをめぐる、神にとって好ましいひとの心的態勢、行為そして他者との関わりの八つのリストである。イエスに従っていこうと思い、山上までついてきた人々へのイエスによる慰めと励ましという文脈において、この八つの「祝福」「さいわい」が語りかけられた。そしてイエスご自身こそ八福そのひとであり、八福のそれぞれに該当する彼の経験を主に福音書に即して確認した。神には好きな人がいるという言い方に、ひとは躓くかもしれない。神は「われヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(Rom.9:13)とあるように「欲する者を彼[神]は憐れみ、欲する者を頑なにする」(9:18)方であると一方で報告されており、他方、「神には偏り見ることはない」(Rom.2:11)と、公平に審判する方であることが報告されているが、その両立の問いは神ご自身においては「信の律法」が「業の律法」より根源的であることにより解決される。今は論じえない。ともあれ、聖書を学んでいくと、神は人間についてどのように考え、どう関わるかが分かってくる。

 イエスは八福の究極を生きた。ナザレのイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたあと、天が裂けて聖霊が鳩のようにくだり、響きわたる声がイエスを祝福している。「汝はわが愛する子、われは汝を嘉みした」(Mac.1:12)。イザヤ書の預言がマタイにより引用されている。「視よ、わたしが選んだわが子、わが魂が嘉みしたわが愛する子。わが霊をその子のうえに置こう、そして彼は異邦人に正しい裁きを伝えるであろう。彼は争わず、叫ばず、誰か大路で彼の声を聞くこともないであろう。正しい裁きを勝利にもたらすまで、彼は傷める葦を折ることなく、煙れる亜麻を消すことはないであろう。異邦人も彼の名に希望を抱くであろう」(Mat.12:18-21,Isaiah,42:1-4)。旧約以来の預言がナザレのイエスにおいて成就している。

 「弟子は師に優らず」(Mat.10:24)。ひとは彼の軛に共に繋がれることにより、彼の祝福にならうことができるだけである。しかし、いつの時代にあってもキリストの弟子として歩む者は、歴史上の展開、変遷という新たな文脈のなかで新たな課題を受け取り、キリストの苦しみの足らざるところを補う者となる。それぞれの時代の弟子たちは御跡に従いつつであう様々な苦しみをキリストの苦しみに与るものであると受けとめ、そこでの苦しみは光栄に変換される。パウロは「わたしは今汝らのために苦しみのうちにあることを喜ぶそして[キリスト]ご自身の身体、それは教会であるが、その身体のためにわが肉においてキリストの苦しみの足らざるところを満たす」と言う(Col.1:24)。

 ナザレのイエスはご自身の一挙手一投足、人生全体においてひとが経験しうる最底辺・bottomをそしてひとが経験しうる人格としての至高・the highestを明らかにした。時代状況のなかで、人間が経験しうるボトム、苦しみそのもののなかに祝福があるとするなら、ひとはどのような状況においてであれ希望のうちに忍耐することができることであろう。悲惨に対してそして人類の悪に対してひいてはその背後でひとに寄生し生物的死のみならず神の前の死を画策する罪に対して勝利があるとするなら、このような生を生きたひと以外に救いを見出すことはできないであろう。

 新約聖書は旧約聖書に基づきつつ、イエスが誰であり、何を遂行したかの記録である。そしてイエスご自身の生涯が一歩でも旧約聖書の延長線上からはずれたり、他の神々を拝したならば、宇宙を支配し導く「神はひとり」(Rom.3:28)ではなくなってしまう。イエスは信仰により狭く真っ直ぐな道を歩み抜いたのである。彼はユダヤ教の改革者として一人の預言者であり、そしてイスラエルの預言者であることに留まらず、異邦人をも含め全人類にとってもの救世主であったのである。誰か救世主がこの地上にいるとするなら、あらゆることを正確に知っておりそれに基づき正しく、公平に判断することができ、しかも同時に憐み深い存在者がいなければならない。全知でありしかも正義にして同時に憐み深い存在者がいるのでなければ、ひとはこの不公平な世において、希望をもって生きることはできないであろう。神の国の希望のうちに生き得ること、信じ得ることそれ自身大きな祝福である。山上の説教はそのような人類が経験しうる究極的なことがらのなかでの神の国の希望が展開されている。だから、二千年もひとびとはこれらの著しい言葉を記憶し、ここに立ち返りまた伝えてきたのであろう。  

2 祝福に基づく励まし―地の塩にして世の光―

 本日から山上の説教における八福の続きを学ぶ。7章終わりまでの残りの箇所を偽りという視点から学ぶとき、最も理解できるように思える。モーセ律法の伝統に立ちつつ、行い(業)を究極まで急進化させる。そこでは信仰についての語りも、不思議な業(奇跡)への訴えもなしに、さらには人格化されたサタンを持ち出すこともなしに、将来における神との関わり、神の国における祝福を前提とするだけで、相対的に自律したものとして道徳的次元における良心に訴えて教えが展開される。良心は共同の知識(con-science)として「内なる人間」(Rom.7:24)を構成する「叡知(ヌース)」という神の意志を認知する機能と関わるものであったが、それは司法的次元を突破するところで自らの偽りに対して発動する。実際、7章までにイエスが非難する「偽善者(hupokritēs)」や「悪人」という語句は十回以上見出される。道徳的次元とは、善き者と悪いものが判別される次元であり、悪人との対応の仕方を教え、偽善者とならぬよう警告を与えられる次元である。またイエスがイエスである限り、山上の説教のここかしこに慰めと励ましも見出される。それは神に祝福される者となることに他ならない。

 地の塩、世の光(5:13-16)。この二つはセットで受けとめられる必要がある。塩は、相撲において土俵を固めまた清めるものとして用いられてきた。食塩が食物の鮮度を保つように、地の塩は地上に住む人々を腐敗や惰弱から保護し、堅固にする役割を担う。今、「地の塩」と聞いてまっさきに思い出すのは医療従事者の方々である。自らの健康と生命を賭して、感染症のひとびとを助けている。また3.11のとき「福島fifty」と呼ばれた人々も原発をひいては日本を守るべく地の塩となった。そのような人々はこの世界を縁の下で支えている地の塩だと思う。ひとびとは地の塩の効き目ゆえに一歩一歩安全に保たれ大地を踏みしめて歩くことができる。多くの場合、地の塩として働く人々はあまり目立たず黙々と自らの勤めに忠実なことであろう。タラントの譬えで、自らの職務に忠実であった僕(しもべ)について主人は言う、「善かつ忠なる僕(しもべ、「僕女」しもめ)、・・汝の主人の喜びに入れ」(Mat.25:21)。後の日にただそのように呼ばれること、それがキリストの弟子の人生の目的である。

 他方、世(世界)の光は輝き、ひとびとに行く手を示しまた喜ばしい光栄ある生を明らかにする。そのひとの振舞いの背後に所謂オーラつまり後光がさすそのような特別な印象を与えることであろう。一点の翳りなき明るさは清いものに与えられる祝福であった。「汝の全身が明るく、少しも暗いところがなければ、・・全身は輝いている」(Luk.11:36)。大地に撒かれる地の塩は、その効き目が維持される限り、大地を堅固にする支え役であるのに対し、世界を照らす光は、灯し続けられる限り、それ自身明るく輝き、ひとびとの道しるべとなる。

 地の塩、世の光は、かくして、すべて神に栄光を帰すことに方向づけられている。それはナザレのイエスが双方であることによって父なる神に栄光を帰したからである。しっかり堅固な大地を踏みしめつつ、歩むべき真っ直ぐな道を照らすそのような生をイエスは歩み抜き、そして彼についてきたひとびとに命じている。「かくして汝らの光を人々の前に輝かせ。これ人々が汝らの良き働きを見て、天にいます汝らの父に栄光を帰すためなり」(Mat.5:16)。

 3 律法の一点一画

 「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄すべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画(イオタとケライア)たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。 われ汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう。汝らは古(いにし)への者たちにより「汝、殺すなかれ、殺す者は審判に服することになるであろう」と言われたのを聞いている。しかし、自分の兄弟に怒る者はすべて審判に服することになるであろう。自分の兄弟に「馬鹿」と言う者は最高法院に服することになるであろう、「愚か者」と言う者は火の地獄に服することになるであろう」(Mat.5:17-22)。

 業の律法を成就するために来たというイエスのこの発言の背後には、彼がモーセ律法を文字通りの仕方では護っていないと非難されていたことが想定される。イエスは安息日を遵守しない。「もし汝ら[パリサイ派]が「わたしが求めるものは憐みであって、生贄(いけにえ)ではない」(Hose.6:6)という言葉が何であるのかを知っていたなら、咎めなき者たちを審判しなかったであろう。というのも、人の子は安息日の主だからである」(Mat.12:1-14,cf.Luk.13:10ff,14:1ff)。このことはイエスが自らを業の律法より上位にある者であると看做していることを含意している。それは実質的には彼が「神の信」(Rom.3:3)の律法のもとに、正義を実現しつつあることを含意している。「人の子」という表現はナザレのイエスの人間性を強調するさいに用いられる。ナザレのイエス、この自分がキリストであり、業の律法を或る秩序のもとに置くと宣言している。さらに、彼は断食の戒め(Mac2:18)や清めの規定(Mac.7:1)に従わず、また神殿を破壊しようとする(Mac.14:58)。聖書学者ならびにパリサイ主義者たちはこのような発言に神を冒涜する涜神(とくしん)の罪を犯しているように思えた。さらにとりたてて文字通りに律法を遵守しているように見えないイエスの律法軽視を彼らは危険視している。イエスの実際の行動とここでのイエスの律法の一点一画も廃らないという主張は矛盾しないのであろうか。いかに調停されるのであろうか(これは次回に語られるであろう)。

4 二心―業の律法の遵守による神からの恩恵の奪取とひとからの名誉―

 これまでの講義のなかでの一つの強調点は山上の説教(5-7章)には「信」「信仰」ということが見られず、モーセの十戒、業の律法の枠のなかでイエスご自身が業の律法を急進化させていることである。それは多くのユダヤ人にとって彼らは神の意志としてモーセの十戒しか知らされていなかったため、イエスも彼らへの対人論法としてその次元に留まっているからである。また、信じる者に対する数々の不思議な業(所謂「奇跡」)は8章以降で報告されるが、山上の説教はただ言葉の力により遂行されている。

 モーセの律法即ち十戒は神の山(シナイ(ホレブ)山)において神からモーセに示された神の意志であるが、その始めに神による恩恵の注ぎが確認されている。「われは汝らをエジプトの地から、奴隷の家から導きだした汝の神、主である。汝らはわが前に他の神々を持ってはならない」(Exod.20:2-3)。恩恵の確認のもとに、各人の責任における戒めの遂行が求められる。他の神を拝むな、偶像を作るな、安息日を守れ、などこれらを遵守する者たちと遵守しない者に対する神の正反対の対応が語られる。「われを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問うが、われを愛しわが戒めを守る者には、千代にも及ぶ慈しみを与える」(20:5-6)。たとえば、殺すか殺さないか、盗むか盗まないかという各人の行為、業に応じて神の恩恵と罰が与えられる。そこには「目には目を」などの法的な正義としての同害報復が見られ、それに対応するものとして恩恵は良き行為に対し付与されている。

 イエスはここにひとの肉の弱さからくる司法的な次元と道徳的な次元の癒着の可能性を見ている。さらに神権政治(theocracy)と司法的次元ならびに道徳次元これら三つの領域の癒着の可能性を見ている。その癒着を彼は「偽善」と名付ける。「見てもらおうとして、ひとの前で汝らの正義を行わないよう注意せよ。さもなければ、汝らは天の父のもとで報いを獲得するとはない。かくして、汝が施しをするとき、ちょうど偽善者たちが礼拝堂や街角で、人から褒められようとするように、自らの前でラッパを吹き鳴らしてはならない。われ汝らに言う、彼らは自分たちの報いを受け取っている。だが、汝らが施しをするとき、汝の右手が何をするかを汝の左手に知らしめてはならない、それは汝の施しが隠されているためである。隠れていることを見ている汝の父は汝に報いを与えるであろう」(Mat.6:1-4)。

 父からの報いをいただくべく右手でなす善行を左手に知らせない、そのような急進化がなされる。イエスは山上の説教においてはモーセ律法を信仰や不思議な業に訴えることなしに、道徳的次元において急進化させ捉え直す。彼の論敵は厳格に業の律法を守る、しかし形式主義的な律法主義者になりがちな聖書学者とパリサイ派であった。「パリサイ人(びと)たちのパン種に注意せよ。それは偽善である。覆われているもので知られずに済むものはない。だから、汝らが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」(Luk.12:1-3)。

 イエスは彼らに「偽善」を見出し、こう非難する。「ああ、なんということだ(ouai,woe,ウーアイ)、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、内側は強奪と情欲で満ちているが[現在分詞]、杯や皿の外側を清めている。盲目のパリサイ人たち、まず杯の内側を清めよ、それはその外側も清まるためである。ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、汝らは石灰で塗った墓に似ている。何であれ外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる穢れで満ちている。このように汝らもまた外側は人々に義人に見えるが、内側は偽善と不法で一杯である」(Mat.23.23-28)。この「ああ、なんということだ」で始まる難詰はえんえんと七回も語られる(cf.ルカの平野の説教Luk.6:17-26)。誰がこの難詰に耐えられるであろうか。イエスは弟子と群衆に「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)、「ああ、なんということだ、汝ら律法制定者たち、人々に背負いきれない重荷を担わせながら、自分たちは汝らの指一本その重荷に触れようとしない」(Luk.11:46)と警告する。

 私は何故か「偽善」という言葉をこれまで使うことができなかった。それは子供のころからパリサイ主義へのイエスの批判に触れてきて、自らが偽りであり、何をしても偽りであり偽善ではないかという思いにかられ、そこから正しい者は誰もいない、どこまでも自己追求、自己の生存を賭したとしてもそれはたかだか名誉の追求という偽善にすぎない、善と悪のあいだに差異はないという一種のニヒリズムに陥っていた。自分が偽りなのであり、他者を偽りと責めることはできないと思われた。ただし、残念ながら、ひとの他の側面、例えば自分には正しい判断には思えないようなことがらについては裁くことのあることは反省点である。謙り、心柔和な者は幸いである。ひとには気になるところとそうでないところに凸凹がある。

 しかし、イエスは異なる。彼はその心によって清いからである。彼はひとの内心をよく見抜いている。おのれの保身や自己栄光化、他者への恐れ、自己卑下そのようなものからまったく自由であった。端的に言って、山上の説教は聞く者の自らと人類の偽りを抉り出す。どこかでひとは自己と他者そして神をごまかしていることが、道徳的次元だけで明らかにされてしまう。イエスはここで信仰にも奇跡にも訴えることなく、ただ言葉で聴衆の良心に訴えている。「「目には目を、歯には歯を」(Ex.21:23)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、われは汝らに言う、「悪人に手向かうな」誰であれ、汝の右の頬を打つなら、左の頬を向けよ。・・・「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、われは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:38-39, 43-46)。

 隣人を愛し、敵を憎むことは一種の二心(ふたごころ)である。敵も隣人であることもあろうからである。ソクラテスも『国家』第一巻のなかで正義とは「友人を益し、敵を害することだ」という定義に疑義を提示している。ひとはそのような二心にどこか偽りを感じるのであろうと思う。ソクラテスのように良心が鋭敏であれば、このような正義の規定、聖書の言い伝えに疑問を感じることでもあろう。自分を特別視すること、それは生存と繁栄にプログラムされた生物にとっては抜きがたい傾向性であるが、そこに偽りを感じてしまう。しかし、聖書はその特別視を一概に否定しているわけではなく、「汝の隣人を、汝自身を[愛する]如くに、愛せよ」と言い、「われ」と「汝」のあいだの「等しさ」を主張する。ひとりひとりとのあいだに、支配からも支配されることからも自由となり相互の等しさが出来事になるとき、もはや自分を特別視していることにはならない。ひとは愛が出来事になるとき、自らの良心が宥められていることにであう。喜びがあるからである。

 しかし、悪人に手向かうなという命令はどうであろうか。所謂イエスの「無抵抗主義」である。自分に関しては、ちょうど殉教者たちが不思議な平安に満たされたときのように、可能かもしれないが、自分の愛する者がそのような状況にあるとき、看過することはできないように思われる。「われらが[神に対し]敵であったとき」(Rom.5:10)、神はわれらにモーセ律法の同害報復のように比較比量的な対応とは異なる、比較を絶する善をイエス・キリストの信を介して人類に示した。比較考量の世界では決して良心に平安を得ないのである。業に基づく正義とは別に信に基づく正義の領域が開けてくる。このことが想定されるとき、右の頬を打たれて逃げたり、愛する者のために正当防衛を試みることが完全には神の御心に適うものではないのではないかと思われてくる。神の想いはわれらの想いと異なる(Isaiah.55)。

 偽りは究極的には神の子として造られた自己に対し、あたかも自らの力で生きているかの如くに看做すことに他ならない。詩人は言う、「自らのなかで罪を犯させるべく不法が語りかける、「自分の目の前に神の畏れはない」と。というのも、それは自分に対し欺いたからである、自分の不法を見出しそしてそれを憎むに至るまで。彼の口から語られたことは不法と欺きである。彼は善を為すべくわきまえ知ることを欲しなかった」(Ps.36.1-4)。

 山上の説教においてイエスはひとが耐えうる限界状況そして為し得る限界状況を明白に提示した。それによって、ひとは何かどこまで落ちてもセーフティネットがあることを見出し、またどこまで登ってもひととしての最高の真実な在り方があることについて権威をもって語りかけられているのを知る。良心が宥められるほどに恩恵は圧倒的であり、その力によりひとはここまで高くなることができるのか、ひとは栄光を棄ててここまで低くなることができるのかをキリストの一挙手一投足において知らされる。

 ひとは人間のそして自らの不都合な真実に向き合うことを避け、また人生の苦しみに耐えられず、気晴らしや、願望をともなう思い込みに事実を歪めてしまう。イエスはひとがそのもとに創造された神との正しい関係性なしに、その生はどこまでも偽りであり空しいものであることを説き、神への立ち返りと自らが神の子であることを信じるよう促す。彼にはどこにも偽りを見出すことができない。父なる神への信にひたすら生きたからである。その心によって清い方そして憐み深い方だからである。彼についていこうと思う。「不法を赦され、罪を覆われし者は祝福されている。主にその咎を数えられざる者、その心に偽りなき者は祝福されている」(Ps.32:1-2)。

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祝福されるひと(その三)その心によって清いナザレのイエス

追記:録音を公開すると同時に、参照箇所を明瞭にするために日曜聖書講義の原稿も添付する。

祝福される人(その三)―その心によって清いナザレのイエス―

                                         2020.7.5登戸学寮日曜聖書講義

1はじめに

 「その心によって清い者」とはその心に二心(ふたごころ)がなく、心の目が光のように明るく澄んでおり、ものごとがよく見え最終的に「神を見る」者のことであった。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置く者はいない。ひとが入ってくるとき光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い。それだから、汝のうちにある光が暗くないか吟味せよ。かくして、もし汝の全身が明るく、何か暗い部分をもたないなら、ともし火が明るさによって汝を輝かすときのように、全体を輝かすものとなるであろう」(Luk.11:33-36)。山の上にある街は隠れることがなく、周囲を照らす。そのように「世の光」はこの世界を支え、導く(Mat.5:14,cf.Phil.2:12-15)。

清い者は心の分裂がないため、良心も宥められ喜んでいる者たちのことであった。詩人は祈る、「主よ、わがうちに清い心を創り(kardian katharan ktison en emoi)、わがうちに確かな新しい霊を起こしてください」(Ps.51.12)。新しい霊が注がれることによって清い心が創られ、心魂の根源から分裂が癒され秩序ある者として生きる。新約においてはキリストの軛に繋がれて一緒に歩む覚悟を決めることによって、根底から清められる。

 他者そして自己に嘘をつくとき、自覚していれば良心の咎めを感じる。分裂があるからである。良心とは共に知る、共通の知識(con-science)により形成されるものであった。問題は何と共に知るかである。自覚的な嘘とは別に真実であると思いこんでいる心からの嘘がある。集団で思いこむことにより、良心を鈍くさせ麻痺させることはまま起こる。他方、パウロは「われキリストにおいて真実を語る、偽らない、わが良心が聖霊において共にわれに証ししている」と語っていた (Rom.9:1-5)。パウロは自らの思いや認識が真実であると主張するさいに、神や聖霊の証に訴えて、神と共に知っていることを偽りではないことの理由とする。信じることができることそれだけで嬉しいという感情は良心の咎めがなく、清められたひとに与えられる心からの平安であり喜びである。心の平安これが聖霊を注がれたことの証である。「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)とパウロは言う。

 心の清い者、或いはより正確には清くされた者は神を見る。ヨブは苦悩の中で言う、「どうかわたしの言葉が書き留められるように・・。わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27,Handel, Messiah, ‘I know that my Redeemer lives’). 腹の底から焦がれているならば、そのひとは心の清い者に相違ない。 

2 清さvs清濁併せ呑む

 その心によって清い者とはなによりもまずイエスご自身のことである。彼がその範例であり、彼の一挙手一投足がその清さを示しているが、ここではイエスの心の清さについての福音書における報告をいくつか見る。心の清さは清濁併せ呑むということとあいいれない。政治など統治をする者にとって、人間とはそもそも欲望や競争心を持つ者であって、それらをそのまま認め、そのバランスを取ること、調整する能力こそ心の広さや太っ腹を示すものとして政治的有徳性であると数えられるかもしれない。その行きつく先はルイ14世が言ったように、「朕は国家なり」として三権(立法府、行政府、司法府)を自らの恣にすることであろう。イエスは一方では「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返せ」(Mat.22:21)という仕方で政治権力の相対的自律性を認めつつも、ご自身の使命の遂行に関して、そのような政治権力と手を握り協力したり、妥協することはなかった。パリサイ派の人々がイエスについて言う、「先生、われらは知っています、あなたは真実な方ですそして神の道を真実に教えていますそして誰にも気を遣うことがありません。というのもあなたはひとびとの顔つきを伺うことがないからです」(Mat.22:16)。

ローマ初代皇帝アウグストスとその養子ティベリウスの治世においてガリラヤなど「四地方領主」とされたヘロデ大王の子ヘロデ・アンティパスとのイエスのやりとりが報告されている。イエスは伝道に弟子たちを派遣しその成果がヘロデに伝わった。「十二人は出かけていき、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気を癒した。領主ヘロデはこれらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「[洗礼者]ヨハネが死者のなかから生き返ったのだ」と言うひともいれば、「エリヤが現れたのだ」というひともいて、さらに、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言うひともいたからである。しかし、ヘロデは言った、「ヨハネならわたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこの噂の主(ぬし)は」。そして彼はイエスに会ってみたいと思った」(Luk.9:6-9)。

 そのような状況のなかで、こう報告されている。「パリサイ派の人々が何人か近寄ってきてイエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。イエスは彼らに言った。「行って、あの狐に、「わたしは今日も明日も悪霊を追い出し、癒しを遂行しそして第三の日にわたしは[死において]全うされる。さもなければ、わたしは今日も明日も、その続く日も歩み続けねばならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことは許容されていないからだ」とわたしが言っていたと伝えよ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、雌鶏(めんどり)が雛を羽根の下に集めるように、わたしは汝の子らを何度集めようとしたことか。だが、汝らは応じようとはしなかった。視よ、汝らの家は見捨てられる。言っておくが、汝らは「主の名によって来られる方が褒めたたえられるように」と言うときがくるまで、決してわたしを見ることはない」」(Luk.13:31-35)。

 イエスは狭い真っ直ぐな道を歩きとおした。自らの使命は信じる者に救いをもたらす福音を宣教することであり、それが父の御心であると信じぬいた。彼はこの信の従順の帰結として罪人たちの身代わりの死の道を歩み続けた。彼は「信じる者には何でもできる」(Mac.9:23)という信のもとに、二心なく秩序のもとにあり、ものがよく見えており右顧左眄することなく一途に進んだ。ヘロデはそのために用いられたことであろう。一般的に清濁併せ呑む者は、しまいには、真理と偽り、善と悪、過度と不足、そして清いものと濁ったもの、これら両極のあいだに差異を見出すことができなくなり、人生には確かなものがないというニヒリズム(虚無主義)或いは少なくともシニシズム(冷笑主義)に陥っていくことであろう。10人殺せば大悪党であり、100万人殺せば英雄となる、このような世界はものがよく見えない人間がおのれの欲望や愚かさを世界に投映している、或いは自らの混乱したパトスを吐しゃ物として世界に吐き掛け、一緒くたにしているそのような状況である。ものごとを正しく識別する心の清い者はさいわいだ。

 イエスは引き続き七十二人の弟子たちを伝道に派遣し、彼らが福音を宣教しそして癒しなどに大きな成果をあげてもどってきたのを見て、こう言う。「わたしは悪魔が稲妻のように天から落ちるのを観想した。視よ、わたしは汝らに蛇や蠍をそして敵のあらゆる力を踏みしだく権威を授けた、しかもいかなるものも汝らに不正を働くことはない。ただし、霊どもが汝らに服従するからといって喜んではならない。むしろ汝らの名が天に書き記されていることを喜べ」(Luke.10:18-20)。ここでは自分たちの伝道の成功をそれ自身として誇るなと警告されている。イエスは「邪悪で神に背いた時代の者たちは徴を欲しがる」(Mat.16:4)と警告しているが、その邪悪さが求める不思議な業(奇跡)や徴は端的に言って、他人にはできない力を見せつけ、この世で何者かでありたいという二心である。ここでは癒しなどの奇跡をなしうるおのれにうぬぼれることのないように、むしろ、天国に入れていただくことを喜ぶように、二心なき一途な神への信に喜びを見出すよう弟子たちは促され、励まされている。

 ルカはそこで報告している。「そのときイエスは聖霊によって喜びに溢れて[天に向かって]言った。「天地の主である父よ、褒めたたえます。汝はこれらのことを知恵者や学識ある者には隠して、幼子たちに顕されました。その通りです、父よ、というのも汝の御前に[汝の]嘉みしたまうものごとがこうして生起したからです。あらゆるものごとはわが父によりわたしに委ねられました。また父でなければ子が誰であるかを誰も知ることなく、そして子と子が顕そうとするその者においてでなければ父がいかなる方であるかを誰も知りません」。そして彼は弟子たちに対し向きをかえ、自らのこととして、言った。「汝らが見ているものごとを見ているその数々の目は祝福されている。というのも、わたしは汝らに言う、多くの預言者たちそして王たちは汝らが見ているものごとを見ることを欲したが見ることはなかった、そして汝らが聞いているものごとを聞くことを欲したが聞くことはなかったからである」」(Luke.10:21-24)。ここでイエスはこの伝道の成功が父と子の揺るぎない関係の証であることを喜んでいる。イエスの一挙手一投足、例えば伝道の成功をもたらしたところの学なき弟子たちの選び、選定は、父の御心に適い、そのことを喜び、神に賛美を帰している。イエスの生が父なる神に嘉みされていることを確認できるものとして、不思議なる業や栄光ある業が歴史のなかで遂行されていると位置づけられている。父なる神のみがイエスをご自身の子であるとご存知であるそのような状況のなかで、子が父を顕わにする権能を持っていることが父と子のゆるぎない関係を介して顕されていく。イエスはこの出来事がこの世界で重く見られない幼子のような者たちを介して実現されていること、すなわちこの世の権力を介せずに実現されていることを賛美した。それ故に、これらの栄光が権力者たちに憎まれ妬まれ彼に苦難の道を強いている。権力者たちに媚び諂い、彼らに奇跡をなす権能を与えることはなかったからである。

 福音とは、博識な者や立派な者たちのものではなく、モーセの業の律法を突破するものとして、他に縋ることのできない罪人を招く信の律法のことである。心魂の根源に信が生起するとき、救いの確かさのなかで平安と喜びが出来事となるまさにそのものであった。心魂の根底が偽りから、裏切りから解放されるのは、「目には目を、歯には歯を」のように常に比較考量のもとにある業のモーセ律法の遂行によってではなく、比較を絶した善が、恩恵としての罪の赦しがこの世界に実現しそしてその確かさへの信に基づき、人生の一切を秩序づけるときである。この世のものに頼るものがあればあるほど、ひとはこの根源的な信に立ち返ることが難しい。

 健全な99匹の羊を置いて或いは9999匹をおいて一匹の迷える羊を探すことは経済原則即ち肉の法則にあわないであろう。さらには司法的な等しさの分配にも適合しないであろう。宇宙の栄光である神の独り子が受肉しひととなり、旧約聖書に基づきつつも、業の律法よりも一層根源的な信の従順を貫くことにより業の律法の冠である愛を成就したその御子は他の何ものにも代えることのできない比較不能な善である。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。  

3清き者の眼差し

 もう一か所イエスの清さを示す報告を見てみよう。イエスの眼差しは憐みをたたえつつすべてを射抜くそのようなものである。彼が裏切られたときのその眼差しについてルカは見落とさず報告している。最後の晩餐において、イエスは弟子たちに「わが国」において彼らが「王座に座る」ことを予言する。異邦の王たちは民のうえで権力を奮って「恩人(euergetai, benefactors)」と呼ばれるが、弟子たちには給仕する者のほうが給仕される者「より偉大」であると言う。「上に立つ者は仕える者のようになりなさい。・・汝らはわが数々の試練のうちにおいて共に踏みとどまってくれた。まさに父がわたしに支配権を備えてくださったように、わたしもまた汝らに備える、それは汝らがわが国におけるわが食卓で食べそして飲むためであり、そして汝らは王座に座りイスラエルの十二部族を裁くことになるであろう。

 シモン、シモン、視よ、サタンは汝らを小麦のように篩にかけることを[神に]請い求めた。わたしは汝の信仰がなくならないように汝のことで祈った。汝が[ひとびとに]眼差しを向ける番になったとき汝の兄弟たちを支えよ。しかし、ペテロは言った、「主よ、わたしはあなたとともにおりますそして牢獄と死に至るまで歩みぬく覚悟はできています」。だが彼は言った、「ペテロよ、今日、鶏が鳴くまで、三度わたしを知らないと汝は否定するであろう」」。

 捕縛された夜、イエスが大祭司カヤパのもとで尋問を受けているとき、ペテロは焚き火をしているひとびとのあいだに交じりながら外からその様子を見ていた。深夜から明け方になる時刻、「一時間ほどたつと、また別のひとが、「確かにこのひとも一緒だった。ガリラヤ[方言]の者だから」と言い張った。だが、ペテロは「ひとよ、あなたが言うそのことをわたしは知らない」と言った。まだこう語っているうちに、突然、鶏が鳴いた。主は振り返りペテロをじっと見た。そしてペテロは主の言葉、「今日、鶏が鳴く前に私を三度否定するであろう」を思い出した。彼は外に飛び出し、さめざめと泣いた」(Luke 22:29-34,59-62)。ペテロはこのときの主の眼差しを生涯忘れることができなかったのであろう。時がきて彼が殉教する番になった際に、主が通常の十字架刑であったため、彼は主に申し訳なくどうか自らを逆さ磔にしてくれと言って、死んでいった。カラヴァッジョはその状況を描いている。

 そのときのイエスの眼差しを想像してみよう。鶏が鳴いたため、反射的にイエスは大祭司の館の外を見やったのであろう。そしてペテロと目があった。画家であったならそのときの情景として、かがり火に浮き彫りになる振り向きざまの悲しげなイエスの表情を描くことであろう。それと同時に憐れみの眼差しが向けられていたことであろう。そもそも最後の晩餐とはイエスにとって弟子たちとの今生の別れの宴であった。惜別の思いのなかで、二人の弟子の裏切りを予見し、二人の立ち返りを求めつつそして今後の弟子たちの苦難を予見しつつ、天上における栄光のなかでの再会と会食を予言し励ましていた。後の日に裏切りから立ち返ってから、ペテロたちが救いを求める者たちに「眼差しを向けて」支えるようイエスは励ました。このように惜別と裏切りのただなかで、イエスはペテロを「じっと(eneneblephsen)」すなわち射抜くように見入った。今日的な言い方では「やっぱり、やらかしたな」とでも言うのであろうか。これはあまりに軽い口語的な言い方であり、深い悲しみのうちに「やってしまったな」という思いで見つめたのであろう。勿論、無言である。二人のあいだに距離がなかったとしても、無言に相違ない。ペテロはいたたまれず走ってその場を去り、激しく泣いた(wept bitterly)。

 これは裏切り、言葉による裏切りである。それでも、獄舎でも死でもどこまでもついていくと言ったそのペテロが舌も乾かぬうちに裏切ったのである。イエスは裏切りを回避すべく天国におけるより偉大なものとなる励ましを与えそして鶏鳴の警告をも与えていた。恐れや戸惑いそして生存への欲求これらがペテロをして良心を麻痺させ、裏切りに向かわせた。

 イエスは、ひとは神に良きものとして造られたにもかかわらず、羊飼いのいない羊のように彷徨っているのを見て、神の子としてのひとの本来性についての彼の認識と現状のあまりの落差にはらわたから「深い憐みを抱いた」と報告されている(Mat.9:36)。この憐れみ深さは心の純一さのひとつの顕れである。 

4肉の弱さへの譲歩

 他方、イエスは人間の肉の弱さを熟知しており、まっすぐ歩けない弱い者たちに忍耐と寛容のもとに譲歩を示しつつ、励ましている。ゲッセマネにおける信の従順を貫く苦闘の祈りのただなかにおいて、弟子たちは待ちきれず眠ってしまった。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていよ。霊は燃えるが、肉は弱いからである」(Mat.26:41)。「肉」とは土から造られた身体を持った自然的存在者の生命原理のことである。パウロは、信徒は「肉において」生きているが、「肉に即して」ではなく、「霊に即して」生きていると言う(Rom.8:1-14)。言ってみれば、「わが国籍は天である」(Phil.3:20)ため、たとえば信じる者は天国に即して日本において生きている、というそのような関係に霊と肉はある。この肉の制約はこの地上にある限り引力から逃れられないように担うべき重荷であり続ける。

イエスはまたモーセ律法における離婚の規定についてこう言う。「汝らは読まなかったか、「創造主ははじめからかれらを男と女とにお造りになった」(Gen.2:24)。そして、彼は言った。「それ故、ひとは父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一つの肉となるであろう。だから、二人はもはや別々ではなく、一つの肉である。かくして、神が軛を繋いだものをひとは離してはならない」。すると彼らはイエスに言った、「ではなぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか」。イエスは言った、「汝らの心の頑なさに対して、モーセは妻を離縁することを譲歩した(epitrepo, give way)のであって、初めからそうだったわけではない」(Mat.19:4-8)。パウロも言う、「汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)そこでは肉とは「罪の奴隷」でも「義の奴隷」でもありうる可能存在者として人間中心的に描かれる。  

5肉の弱さの克服

 イエスは肉の弱さを知り、寛容であったが、それは清濁併せ飲んでいることであろうか。彼はこれらを乗り越える術を知っていた。勝利の故の寛容さである、大丈夫だ、信によってこの問題も解決できると励ましていたのである。さもなければ、肉の弱さへの譲歩は滅びへの罠を仕掛けたものとなる。その勝利とは福音であり、彼はその福音を宣教しつつ、福音をその一挙手一投足において実現している。比較を絶する信に基づく義の知らしめである。新約聖書はその福音の報告である。彼は自らの働きは神の子のそれであり、そう信じるように生命をかけて宣教した。

 ひとはどこまでイエスやパウロの譲歩に基づき、神の働きを括弧にいれて、人間中心的なまた自然中心主義的な思考を展開するのであろうか。「肉」は自然的な生の一原理であるにせよ、また神学者たちが主張するように罪性を帯びたものであるにせよ、生物的生死に関わるだけのものであり、死とともに消えゆくものである。他方、霊は生物的な死を乗り越えるものとして導入されている。これらの領域は最も共約的にはつまり肉の罪性の議論を括弧に入れた場合に可滅的なことがらと永遠の事柄に分類されよう。

 「ローマ書」八章における「キリスト・イエスにおける生命の霊の律法」による「罪と死の律法」からの解放は、七章の肉とヌース(「内なる人間」の神にかかわる認知的部位)の葛藤を前提にしている。「ローマ書」三章から六章まで福音が打ち立てられ、業の律法を新たに福音との関係において位置づけている。もちろん律法は神の意志である限り、「善」であり「霊的なもの」である。「それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然からず。むしろ、罪が善きものを介してわれに死を成し遂げることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」(Rom.7:13)。この罪の醜悪さは良心が宿る「内なる人間」との葛藤をもたらす。生物的な死は人間の与件であり当たり前の事実であると看做してしまうことが罪に欺かれていることに他ならないとヌース(叡知)が暴きだす(7:15)。律法をつきつけられた者は叫ぶ、「惨めだ、われ、人間」(7:24)。生物的な死は「罪の賃金」(6:23)であり、「われをこの死の身体から救う者は誰か」(7:24)とは原理的に「死の身体」を抱えている人類誰もが叫ぶべきことがらであると言える。イエスは「身体を殺すが、魂を殺すことのできない者たちを恐れるな」と生物的死の乗り越えを励ます(Mat.10:28)。

かくして肉と霊は人間の生の根源的形姿に関わる。いずれかを根源的要素(stoicheia)とするかに応じて、生物的死か永遠の生命という果実を得ると想定されている。霊の思慮はこの生物的死を乗り越えるが故にこの生のただなかで生命と平和に至る。パウロは言う、「われらもまた未熟であったとき、宇宙の根源的諸要素のもとに(hupo ta stoicheia kosmū)隷属されたままであった。・・しかし、神を知らなかった時、汝らは神々ではない自然本性上のもの(tois phusei)に隷属していた。しかし今や神を知っており、いやむしろ神に知られているのに、いかに汝らは再び弱くかつ貧弱な根源的諸要素に(epi ta asthenē kai ptōcha stoicheia)逆戻りし、それらに再び新たに隷属することを欲するのか」(Gal.4:3-9,cf.Col.2:8(「宇宙(世)の根源的諸要素に即してであり、キリストに即してではない」))。

 ここで重要なことは「宇宙の根源的諸要素」が「自然本性上のもの」として提示されていることである。当然宇宙は創造の秩序のもとにあるが、彼はそれを相対的に独立した「自然本性上のもの」と理解している。さらにそれは「キリストに即した」生と対比されている。パウロはひとが「自然本性」に即して「宇宙の根源的要素」を最も心魂の基礎的なものであるとすることは、弱くかつ貧弱なものに隷属することであり、未熟者のすることであるとする。心魂の内奥はそのような時間と空間の限界のなかに成立する自然上のものではなく、彼は霊を根源的要素とするよう励ましている。これは時空のなかで観察可能なもののみに実在性を認める自然主義(naturalism)に対する挑戦的な企てである。

 パウロは「ガラテア書」において「今や神を知っており」もはや貧弱な宇宙ないし世界の根源要素に立ち帰る愚かなことはせず、霊が究極的な生命活動の構成原理であるべきとして言う、「霊の果実は愛、喜び、平和・・である。これらに対立する律法は存在しない。だが、キリスト・イエスに属する者たちは情念と欲望とともにその肉を十字架に磔(はりつけ)てしまった。もしわれらが霊によって生きようとするなら、われらは霊に適合し続けもしよう (pneumati kai stoichōmen)。互いに挑みあい、互いに妬みあって、われらは空しきものに栄光を帰すことのないものとなろう」(Gal.5:25)。ここでひとは自らの生の原理として「霊によって生きる」可能性が提示されている。それは心魂の内奥からの何らかの促しに対応する部位であり、その促しに適合し続けることが勧められている。

 さらに「ガラテア書」においてキリストの磔の死を自らのことがらとし、復活のキリストと共に新しい創造を根源的要素とする者たちとその果実に言及して言う、「われらの主イエス・キリストの十字架において以外に、われに誇ることがあってはならない、彼によって宇宙はわれにそしてわれも宇宙にたいし十字架に磔られたのである。というのも、割礼でも無割礼でもなく、新しい創造こそ何ものかだからである。そしてこの規範に適合し続けるであろう(stoichēsūsin)限りの者たち、彼らのうえにそして神のイスラエルのうえにも平和と憐れみがあるであろう」 (6:14-16)。宇宙とわれのあいだで相互に磔られた関係にあるとは宇宙の自然的原理を生の原理として適合することを「やめた」ということに他ならない。古い宇宙の法則のもとにではなく、新しい創造のもとにその法則に適合することが勧められる。

 なおわたしども生物は当然自然的な存在者であり続けることにかわりはないため、宇宙の自然的な法則は根源的な原理として位置づけられることをやめるが、新しい創造の秩序のもとに位置づけられて機能すると理解される。生の一原理としての「肉」は磔られたが、霊に従属するものとして肉は新たな位置づけを得る。キリストの軛に繋がれて生きるとき、ひとは憐み深い者となり、心の清い者となり、そして平和を造る者となる。キリストと共なる生の喜ばしさゆえに、それ以外の生をもはや望ことはないであろう。

 パウロは命じる、「恐れと慄きをもって汝の救いをまっとうせよ。なぜなら、「嘉(よみ)」の名において汝らにおける欲することそして実働することを働きたまう方は神だからである。あらゆることを呟くことまた言い争うことなしに遂行せよ。それは、曲がったそして歪んだ世代の者たちのあいだで、汝らは生命の言葉を保持しつつ、わが誇りであるキリストの日に向けて、この世界の光として輝いているが、汝らが完全でそして純一な(akeraioi)者となり、咎めなき神の子となるためである」(Phil.2:12-16)。

 

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心の清さ

日曜聖書講義2020年5月17日マタイ福音書5章8節

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柔和な者

日曜聖書講義4月26日 山上の説教(4) マタイ5:5 要旨

「祝福されている、柔和な者たち(hoi praeis)。彼らは地を受け継ぐことになるからである」。

                                      千葉惠

 この第三福は人格的な徳に関わる。柔和の対義語には激情や直情径行、競争心、自己顕示などが挙げられる。黒崎幸吉先生はこう対立を説明する。「現世のいわゆる成功者たらんとする者は柔和であってはならない。彼は他人を排除、抑圧、誹謗するの勇気と大胆さを持っていなければならない。・・されど真の幸福者は柔和な者である。人に排斥され、圧迫され、誹謗され、「侮られて人に捨てられ悲哀の人にして病を知れる」[Isaiah.53:3]人である」。(Web版新約聖書註解マタイ当該箇所。なおこのWeb版はこの12年間で約34万回のアクセスがあり、1日約100件今日まで読まれ続けている)。

 身体の受動的な反応である感情(パトス)に対して良い態勢にあることが伝統的に「徳」と呼ばれる。恐れに対する勇気、欲望に対する節制、怒りに対する正義などが人格的態勢としてパトスに対して良い態勢にある。正義な者、義人は怒らないのではなく怒るべき時に怒るべき仕方で怒るべき程度の怒りが自然に湧いてくる者であり、そのうえで当事者に等しさを分配する人格的卓越性のことである。柔和な者は矜持、優劣感や競争心に対し良い態勢にあり、侮辱や誹謗中傷をスルーし寛容であり、赦すことができる態勢である。

 聖書的には柔和な者は天国への希望の故にこの世の権力欲求や悪意からの攻撃、蔑みなどに耐えることのできる態勢であり、振舞いとしては寛容に接しまた赦し敵をも愛する態勢である。イエスご自身が柔和なひとであった。彼は言う、「疲れている者たち、重荷を負っている者たちは皆、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を汝らのうえにかつぎ[繋ぎとめ]なさい。そしてわたし[の足どり]から、わたしがその心柔和であり(praus)また謙った者であることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に休息を見出すことであろう。というのも、わたしの軛は良いものでありそしてわたしの荷物は軽いものだからである」(Mat.11:28-30)。イエスの軛、荷とは何か?天の父が憐み深く、信じる者を救い出す方であることへの「アッバ父よ」と呼びかけすがる素直な幼子の信仰である。有徳な者も悪人も魂の根底に生起する悔いた砕けた魂における「信じます」と幼子のようにすがること、それがイエスと共に軛を背負って歩くことである。何の立派さも要求されず、ただ自らに偽りのない信が生起する場所・二番底即ちパウロの言う聖霊に反応する部位である「内なる人間」(Rom.7:22)から主に身をゆだねることである。荷物を運ぶとはイエスの御跡に従って歩むこと、イエスの使命を自らのものとすることである。イエスに似た者になること以上に喜ばしいことはない。イエスを長子とした神の国の相続人となるからである。

 
CC 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3894456

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「地を継ぐ」はまずアブラハムに対する神の約束に基づき地を継ぐことに見られる。「見よ、わたし[主]はこの地[カナン]を汝ら[モーセの後継者ヨシュアら]に与える。行ってこの地をとれ、わたしは汝らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに、彼らとその後の子孫にこれを与えようと誓ったのである」(Deut.申命記1:8)。アブラハムへの約束から始まり神の意志は異邦人の救いに向かう。

「信じる者に救いをもたらす神の力能」(Rom.1:15)である福音はイエスご自身が「神の子の信」のもとにご自身の使命を遂行されたことのなかに啓示されている。福音はユダヤ人にも異邦人にもただ神の子の信に生きたイエスをキリスト(神に油注がれた救い主)であるという信に生きる者に開かれている。神の子が信実であったとき、ひとはその信に対し信によって応答する。「しかしもはやわれは生きてはいない、われにおいてキリストが生きている。しかし、今われが肉において生きているところのものを、われは、われを愛し、わがためにご自身を引き渡した神の子の信によって、信において生きている。われは神の恩恵を無駄にしない。というのも、もし義が[業の]律法を介するものであるなら、キリストは空しく死んだことになるからである」(Gal.2:20-21)。相続者はもはや「業の律法」即ちモーセ律法のもとに生きたユダヤ人に限られず、誰であれ「イエスの信に基づく者」(Rom.3:25)と神が看做す者のことである。「それ故、かくして、兄弟たち、われらは肉に対し肉に即して生きる義務ある者にあらず、というのも、もし汝らが肉に即して生きるなら、汝らは死ぬばかりだからである。しかし、もし汝らが霊により身体の諸行為を死なすなら、汝らは生きるであろう。というのも、神の霊に導かれる者である限り、その者たちは神の子だからである。なぜなら、汝らは再び恐れに至る奴隷の霊を受けたのではなく、われらがそのなかで「アッバ父よ」と呼ぶ、子としての定めの霊を受けたからである。御霊自らわれらが神の子たちであることをわれらの霊と共に確証したまう。もし、われらが子であるなら、われらは相続人でもある。かたや神の相続人であり、他方キリストと共同の相続人である、いやしくもわれらが共に栄光に与るべく、共に苦難に与っているのなら」(Rom.8:12-17)。

 柔和な方であるイエスご自身の御跡に従う者、その者は祝福されている。既にその祝福は旧約聖書において先駆的に知らされている。「その咎を赦され、その罪覆われし者は祝福されている[さいわいである]。主がその罪を数えざる者は祝福されている[さいわいである]。その心に偽りなき者は祝福されている[さいわいなり]」(Ps.詩篇32.1-2,Rom.4:7-8)。十字架に至るまで従順の信を貫いたイエスは言いたまう。「わたしに躓かない者は祝福されている[さいわいである]」(Mat.11:6)。柔和な者は幼子のように恵み深いイエスと共に軛に繋がれ光のもとに歩調をあわせて歩む者である。

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悲しみの文法

山上の説教(3)マタイ5章4節、4月19日

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初めての聖書

山上の垂訓(2)登戸学寮聖書講義2020月4月12日

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礼拝 Noborito Dorm Master 礼拝 Noborito Dorm Master

権威ある祝福

2020年4月5日の礼拝 山上の説教 (1)マタイ5:1-3 千葉 惠

 序 マタイ福音書5章~7章 山上の説教の主眼

 イエスは群衆が山に登ってきたのを見て、お座りになったとき弟子たちが彼のみもとにやってきた。口を開き彼は弟子たちにこう言って、教えた。

「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである(5:1-12)。

 5章から7章は山の上での教えであるため、「山上の説教(垂訓)」と呼ばれている。「祝福されている」と訳される言葉は「幸いだ」と訳すこともできる。とはいえ神とその御座である天国との関連で語られているがゆえに、神に祝福されるのでなければ幸福であることはできないため、より直截に「祝福されている(cf.Blessed are the poor(KJV))」と訳した。これらは神に祝福される八つ(九つ(二人称含む))の心魂の態勢・状態またその働きにある者たちについて三人称で一般的に言われている。とはいえ、福音書のイエスの言葉は常に具体的な対話の状況・文脈のなかで対人論法により語られている。それ故にこの三人称表現も彼を求めて山を登ってきた寄る辺ない群衆に対して彼がもった今・ここの憐みからこれらの祝福が発せられていると考えねばならない。最後に二人称で「汝らは祝福されている」とあるから、直弟子たちだけではなく聴いている群衆も含まれている。イエスご自身はユダヤ教の伝統のなかで「イスラエルの失われた羊」に遣わされているという自覚をもち福音宣教を始められたが、この三人称の表現はユダヤ人であれ、異邦人であれ誰であれこの憐みのもとに含まれていることをも含意している(Mat.15:21-28)。語りの文脈の具体性と射程の一般性双方を捉えねばならない。

 実際、類似の宣教の文脈において「群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れみ」、「彼らに多くのことを教え始められた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。彼は彼についてくる群衆を深く憐れんでいたのである。その憐みのなかでの神の国の宣教すなわち神の国がどのようなものであるかについての「教え」とそれがもたらす知識は弱ったひとびとを救いだす力である。神の国についての明晰な理解がひとを新たにするという言葉の力を山上の説教は示している。彼は彼を求めて山に登ってきたひとびとを見捨てることは考えられず、彼の権威ある祝福はこれらを聞いたひとびとの心に直に響いたことであろう。これらの祝福が発せられた文脈が彼についてきた聴衆を励まそうとされたことそしてそれは今寄る辺ない状況で彼に従う現代人にも語り掛けられている。ひとはみな神の国に入れていただくこととの関係において、しかも神と隣人を愛することとを通じて、一切を捉え直すよう励まされている、それが山上の説教の主眼である。

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