登戸学寮HCDプログラム
2023年ホームカミングデー
日時:2023年11月25日(土)16時~18時
場所:登戸学寮・ オンライン配信
司会 結城史音
〇16:00挨拶 岸本 尚毅 (OB、理事 寮友会)
〇16:05寮生活動支援報告:
・ 川嶋すず菜 ネパールヒマラヤ、アニデッシュチュリ登山隊参加
・ 中村真子 京都、大阪日本美術研修
・ 牧真人 教会音楽講習会受講(聖歌隊指導法)(羽村市)
マティアス・マイヤーフォーファー・パイプオルガンマスターク ラス受講(長野
市)
ピアノ演奏
・ 結城史音 「きんじょの本棚」の活動
・ 吉野泉 オーストラリア アデレード大学語学研修、アルメニア イェレ
ヴァン周辺 ロシア語研修
〇17:20 卒寮生、お客様スピーチ
坂内宗男 (OB、元寮長)、大谷恵(理事)、副島茂(OB、前評議員)、
土屋真穂(評議員)
〇朗読劇:
ハンカチ―皇帝ティベリウスの乳母、友ファウスティナ物語―
(ラーゲルレーヴ原作)
結城史音(ティベリウス)、中村真子(ファウスティナ)、原島寛之、浜崎航希
(ナレーター)他
〇讃美歌 537番 わが主のみまえに
〇閉会の祈り 小西 孝蔵 (OB、常務理事)
〇茶話会
「方舟」63号が刊行されました
『方舟』63号送付のご挨拶
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(イザヤ書2:4-5)。
厳寒の候、皆々様におかれましてはつつがなくおすごしのことと存じます。日頃、登戸学寮にお心をお留下さりありがとうございます。ここに一年の学寮の活動を報告すべく、『方舟』63号をお届いたします。若者たちの現在地点のご報告、黒崎賞講演など先輩方の諸活動のご報告、寄付者ご芳名、創立以来の役員情報(抜)および氏名一覧、聖書講義等を掲載しております。厚くなってしまいましたが、「新しい戦前」と呼ばれる時代の緊迫に免じておゆるしくださいますように。
若者たちはこの時代にあって社会のなかで自らの歩みを模索しています。情報社会の嵐の中、自らを内省する機会の少ない現代にあって、コスパ(cost performance)、タイパ(time performance)と呼ばれる自らの投資への短期的な見返りを求める風潮は黒崎先生の「日本の将来に憂うべき影響」を、南原繁先生の「精神の貧困」を表しているでもありましょう。
わたしどもは次の世代を若者に託すしかなく、やはり、ここでの喫緊の課題は魂の耕作(cultus animi)が問われているのだと思います。学寮創立の福音に立ち帰り、悔い改めによる魂の刷新を頂き真っすぐな道を歩みたいと存じます。罪赦されたことの証は、自らの涙でイエスの足を洗う女性に見いだされます。イエスは言います、「彼女の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(ルカ福音書7:47)。信に基づく正義とその信義の「果実」(ピリピ書1:11)は愛しうることですので、自らの罪が「赦されてしまっている」ことの証は愛することに確認されます。「木はその果実によって知られる」。罪の赦しは神の前のことがら、神の専決行為ですが、この歴史におけるその証は愛しうることでありますなら、わたしどもは歯を食いしばって敵をも愛することでありましょう。
旧約の古い革袋を破るイエスの山上の説教は、その厳しい言葉を自らの信の従順による完遂故に、福音の革袋である信の律法のもとで愛の戒めに収斂、変換されています。わたしどもは「[業の]律法を離れて」(ローマ書3:21)、即ちモーセの古い革袋から解放されて、新約の革袋のなかで生命の泉に与ることでありましょう。時代が厳しくなるほど、この端的な生命の泉を渇き求めます。信義に基づき愛しうること、そこに生命の泉が湧いています。
2023年はいかなる日々となるか不透明です。戦争下、コロナ禍の国際、国内情勢は政治や経済の予測を困難なものにしております。そのなかにあっても、常に目覚め、前進してまいりたいと存じます。天来のきよらかな生命の息吹につつまれ、新しい日々お健やかに実り豊かにお過ごしになられますようお祈り申し上げます。
2023年1月31日
登戸学寮 寮長 千葉 惠
方舟63号刊行されました。以下のリンクよりダウンロード出来ます。(サイズが大きいので少々時間かかります)
『方舟』63号送付のご挨拶
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(イザヤ書2:4-5)。
厳寒の候、皆々様におかれましてはつつがなくおすごしのことと存じます。日頃、登戸学寮にお心をお留下さりありがとうございます。ここに一年の学寮の活動を報告すべく、『方舟』63号をお届いたします。若者たちの現在地点のご報告、黒崎賞講演など先輩方の諸活動のご報告、寄付者ご芳名、創立以来の役員情報(抜)および氏名一覧、聖書講義等を掲載しております。厚くなってしまいましたが、「新しい戦前」と呼ばれる時代の緊迫に免じておゆるしくださいますように。
若者たちはこの時代にあって社会のなかで自らの歩みを模索しています。情報社会の嵐の中、自らを内省する機会の少ない現代にあって、コスパ(cost performance)、タイパ(time performance)と呼ばれる自らの投資への短期的な見返りを求める風潮は黒崎先生の「日本の将来に憂うべき影響」を、南原繁先生の「精神の貧困」を表しているでもありましょう。
わたしどもは次の世代を若者に託すしかなく、やはり、ここでの喫緊の課題は魂の耕作(cultus animi)が問われているのだと思います。学寮創立の福音に立ち帰り、悔い改めによる魂の刷新を頂き真っすぐな道を歩みたいと存じます。罪赦されたことの証は、自らの涙でイエスの足を洗う女性に見いだされます。イエスは言います、「彼女の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(ルカ福音書7:47)。信に基づく正義とその信義の「果実」(ピリピ書1:11)は愛しうることですので、自らの罪が「赦されてしまっている」ことの証は愛することに確認されます。「木はその果実によって知られる」。罪の赦しは神の前のことがら、神の専決行為ですが、この歴史におけるその証は愛しうることでありますなら、わたしどもは歯を食いしばって敵をも愛することでありましょう。
旧約の古い革袋を破るイエスの山上の説教は、その厳しい言葉を自らの信の従順による完遂故に、福音の革袋である信の律法のもとで愛の戒めに収斂、変換されています。わたしどもは「[業の]律法を離れて」(ローマ書3:21)、即ちモーセの古い革袋から解放されて、新約の革袋のなかで生命の泉に与ることでありましょう。時代が厳しくなるほど、この端的な生命の泉を渇き求めます。信義に基づき愛しうること、そこに生命の泉が湧いています。
2023年はいかなる日々となるか不透明です。戦争下、コロナ禍の国際、国内情勢は政治や経済の予測を困難なものにしております。そのなかにあっても、常に目覚め、前進してまいりたいと存じます。天来のきよらかな生命の息吹につつまれ、新しい日々お健やかに実り豊かにお過ごしになられますようお祈り申し上げます。
2023年1月31日
登戸学寮 寮長 千葉 惠
「今井館ニュース」54号寄稿しました
登戸学寮
枡形山は空、風、色に秋を感じます。内外厳しい日々学寮は護られています。朝礼拝は「使徒言行録」です。不思議な業を伴い信仰が燎原の火のように地中海世界に伝っていきます。今日なぜ奇跡が起きないのかの問いには、ペテロの力を買おうとした魔術師シモンの態度がそれをよく説明しています。「神の賜物を金で手に入れられると思っている。お前の心は神の前に正しくない」(8:20)。イエスはただ憐みにより癒しの力を揮いました。「愛を介して働いている信が力強い」(Gal.5:6)。信に基づく義そして「義の果実」である愛への道だけが神に嘉みされます。一方で医療の進展等により当時以上の不思議な善き働きがなされる現代、他方で権力者による武力の行使等、力を愛以外の用途に行使する事例は枚挙に暇ありません。
この秋、黒崎賞講演会において途上国在住で経済政策による支援に従事する先輩と教育、伝道に従事する先輩に講演頂きます。来寮の先輩に南原繁『国家と宗教』を指南頂くべく読書会中です。歴史は「神の国」と「地の国」の緊張のなか「必然的に」展開されると南原史観にあります。国家は、モーセ律法が福音を準備したように、自律の範囲内で生命を生みやすい自由と秩序の基盤を立法します。「生命は制度を生むが、制度は生命を生まない」(内村鑑三)。パウロは言います、「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、汝らを信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。この喜びが神の国の待望のもと、愛の働きを介して証を立てる力となります。先輩方の地の塩世の光の証に学び、乗り合わせた一つの体としての学寮がノアの方舟よろしく真っすぐに航海する励まし合いの場となりますよう祈る日々です。
第二回黒崎賞授賞式・講演会、HCD録画配信につきまして
11月26日にもたれました第二回黒崎賞授賞式・講演会、HCDの録画視聴いただけます。閲覧希望の方は学寮までメールにてご連絡ください。noborito@gakuryo.or.jp
第二回黒崎幸吉賞授賞式・講演会(講師紹介)、HCDプログラム
2022年11月26日(土曜日)午後2時45分~4時15分、4時半~6時
参加希望の方は学寮に連絡ください(044-933-0819 noborito@gakuryo.or.jp)。
登戸学寮 第二回「黒崎幸吉賞」授賞式・講演会
日時:2022年11月26日(土)14:45~16:15 オンライン配信
プログラム
司会:千葉 惠
讃美歌 7番(主のみいつとさかえ)
聖書朗読 詩篇 100篇
開会の祈り 寮長 千葉 惠
挨拶 理事長 小島拓人
選考について 選考委員 理事 福嶋美佐子
感謝・支援状授与 理事長 小島拓人
岡崎新太郎氏(1968入寮)、吉野 裕氏(1990 入寮)
推薦の言葉 岡崎新太郎氏 監事 副島 浩
講演:岡崎新太郎氏 「近き隣人と遠き隣人」
推薦の言葉 吉野 裕氏 評議員 安達寿彦
講演:吉野 裕氏 「途上国の貧困と経済成長―支援の現場から―」
閉会の祈り 理事長 小島 拓人
受賞者・講演者 紹介
岡崎新太郎氏
山口県豊北町出身 1945年12月28日生
地域(下関市)に根ざした教育、伝道、奉仕諸活動
学生生活
1965年4月 東京大学理I入学
1968年1月 登戸学寮入寮
「方舟」10号「言葉」昭和43年9月、11号「思う事」昭和44年9月、12号「詩」昭和45年10月寄稿
1971年3月まで在寮
1975年3月同大学工学部建築学科卒
社会人生活
1975-1981年建設会社・建築設計事務所勤務
1981―2011年キリスト教梅光学院勤務
設計事務所在籍中、当時の梅光学院中高校長に請われ学園に教師として赴任(数学、理科、キリス
ト教倫理)中学校長、高校校長、学院長、幼稚園長歴任
2011年―現在 宣教活動
BIC(日本キリスト兄弟団)信徒牧師
過疎化の中、アジア在留者との交流
地域奉仕活動
下関北高地域探求授業サポート
有機農業
ホームスクーリング
地域アート演劇
その他
東日本大震災ボランティア活動
曽田タキ(韓国ソウルで韓国孤児に仕えた)研究
吉野 裕氏
静岡県静岡市出身 1969年9月26日生
世界銀行を拠点にしたグローバルな経済支援の緒活動
学生生活
1988年4月上智大学法学部入学
1990年4月登戸学寮入寮
1992年3月同大学卒業、同学寮卒寮
1992-2007 アメリカ合衆国 1995年コロンビア大学国際関係修士(MIA),
2000年ヴァージニア大学経済学修士(MA),2007年同経済学博士号(Ph.D)取
得。学寮時代からの一貫した国際機関での活動の志を有しそれを貫徹
模擬国連活動(日本模擬国連委員会委員長)への参加を通じて将来の国際支
援活動のビジョンを持った大学生活を送る。
社会人生活
外務省専門調査員(国連日本代表部勤務)
1995-1998年外務省専門調査員として国連日本代表部勤務、日本政府常駐代表
団員として開発、環境関連の国連会議担当国連業務を土台に国際開発金融機関(国際機関)での途上国支援へと展開
世界銀行勤務
2003年世界銀行入行、今日まで20年間エコノミストとして活動。
入行当初は調査研究事業が中心、計量経済学的分析等を担当し、その後カント
リー・エコノミストとしての職務に移行、過去15年ほどは現地政府との経済政策
対話、政策改革融資プログラムを担当。発展途上国への具体的な貢献。当初よりアジア、アフリカの発展途上国を担当し、2016年にタンザニア駐在、
2019年9月よりバングラデシュに移り現地での具体的な支援を担当。その間、東部アフリカ担当としてタンザニアを中心にスーダン、南スーダン、
ウガンダ、ケニア、ルワンダ、ブルンジ、ソマリア、マラウィの業務に参加、3
年前よりバングラデシュ、ブータン担当として経済プログラムの総括、ウクライ
ナ危機等のマクロ経済不安定化の回避を主導、バングラデシュに対する新たな世
銀グループの中期支援枠組みの作成等、文字通りアジア、アフリカの発展途上国
の経済支援に従事。
*なお二氏につき11月26日午後1時からの臨時理事会で最終確認予定
2022年ホームカミングデー
日時:11月26日(土)午後4時30分~6時頃
場所:登戸学寮 多目的ホール 同時オンライン配信
プログラム (予定)
総合司会 中村真子
ご挨拶 岸本 尚毅 理事 寮友会
寮生活動支援報告:
松井 共生 「IHC2022国際園芸学会に参加して」
音楽会:
井村咲月 独唱 (柴田真之介 伴奏)
大城あい トランペット
コーラス Amazing Grace 伊藤直道指揮
卒寮生等参加者ご挨拶
朗読劇:
神の宮―愛は不可能を可能にする― (ラーゲルレーヴ『キリスト伝説集』から)
結城史音、吉野泉、伊藤直道、柴田真之介、米村那穂、三浦千尋、濃野開、道下朱理、松井共生
終了後 懇親会
今井館ニュース53号2022.7.31
登戸学寮
枡形山の春は鳥たちの賑やかな囀りで朝を迎えます。4月初め霧雨のなか皆で山の満開の桜を愛で、6月初めに谷の水辺に舞う蛍を愛でました。桜花舞うなか新寮生9人を迎えて、64年の歳月を積んだ一つの方舟が帆を一杯に張り内外の荒海のただなかに滑り出しました。若者たちは新鮮な風を吹き込み、バスケや読書会が盛んになりました。学寮は週日毎朝7時から共に讃美歌を歌い聖書を開き、担当者が該当聖書箇所にコメントを加えつつ自由にスピーチします。パイプオルガン専攻の新寮生が前奏、讃美歌そして後奏を担当し、一同聴き惚れています。寮長は新寮生「依存症」になるほど、彼らは皆律儀に出席し、先輩たちによい模範を示しています。朝起きを「ドロップアウトし損ねた」新寮生たちはこの規律のなか夏休みになだれこむことでしょう。2年間通学の経験のなかった先輩たちは対面授業となり、適応への苦労が垣間見られます。4年生、大学院生はそのなかで内定を頂いています。
朝礼拝では一昨年創世記からレビ記まで読み、昨年は詩篇150篇を完読しました。今年はマタイを終えヨハネにはいったところです。やはり新約聖書は若い魂によりインパクトを遺す様子が伝わってきます。
緑濃い梅雨の日々、学寮は山頂までまた蛍谷までいずれも徒歩数分の中腹に構えよい眺望を与えています。この土地は「ゼロ戦パイロットの至宝」と呼ばれ2500時間の空戦を生き抜いた小町定氏とその妻で「パウロの時代に生まれていたならひたすら彼の伝道のお手伝いをしていたことでしょう」と言う黒崎先生愛弟子勝美氏夫妻の寄贈によるものです。昨年秋HCDで寮生たちは朗読劇「登戸学寮誕生物語」を演じました。志ある人々の一本の細い光の道としてほとんど奇跡的に学寮が創設に至ったことを知りました。この緑と鳥たちに囲まれる生活のただなか、その真っすぐな光跡をいつも思い返し、その最先端にいる自覚と感謝と賛美を新たにしています。
参考:黒崎幸吉賞(趣意書、かがみ文2021年)
このたび、第二回黒崎幸吉賞のご推薦をいただくべく広く推薦書募集要項と推薦フォームを掲載いたしました。この章の主旨について昨年以下の二つの文章が公にされました。参考までに掲載いたします。奮ってご推薦お願い申し上げます。
趣意書
黒崎幸吉賞 公益財団法人登戸学寮(以下当寮)は創立 60 周年を記念し、「黒崎幸吉賞」を創設し ました。本賞は、当寮の設立者である聖書学者黒崎幸吉(注)のキリスト教に基づく全人 格的教育理念とパイオニア精神にちなみ、その精神に合致する国連の SDGs(持続可 能な開発目標)と歩調を合わせ、未来を拓く活動・研究を奨励することを目的とし、該 当する個人または団体の「地の塩、世の光」の活動を紹介し、感謝と支援の意を表明す るものです。先ずは小さくスタートし、登戸学寮に資する事業に育てていきたいと祈念 しております。 対象:公益財団としての当寮の設立の趣旨に照らし、以下のようなかたを対象とします。 例1 当寮在籍経験者であり、社会活動・学術文化等の分野で活躍しているかた、 または活躍が期待されるかた 例2 当寮の設立の理念を理解し、当寮を支援してこられたかた 授賞式:当寮で行う授賞式のさい、授賞されたかたには記念講演を行っていただきま す。(講演記録は、当寮の機関誌に掲載予定)。 選考方法:他薦による候補の中から、当寮の理事会が選定する選考委員会の推薦に基づき、 当寮の理事会が授賞者を決定します。候補の推薦者は、当寮出身者、寮長・役員経 験者および当寮の設立の趣旨を理解するかたとします。 推薦方法:推薦者は、所定の推薦書(同封・添付または URL https://bit.ly/3sEyJG8 から取得)により、下記宛てに一部郵送、またはメール添付にて推薦してください。 なお、参考資料などは説明を付け、推薦書に同封してください。(書類一式は返却 いたしません。) 推薦書の提出締切:2021 年 9 月 30 日(消印有効) 郵送先: 〒214-0032 川崎市多摩区枡形 6-6-1 登戸学寮寮長 千葉 惠 宛 メールアドレス noborito@gakuryo.or.jp 2021年8月28日 登戸学寮理事長 小島 拓人 (注)黒崎幸吉(1886~1970) 内村鑑三門下の聖書研究者・伝道者。山形県出身。東京帝大卒。 住友本社に 10 年間勤務の後、退職して聖書の研究、執筆、伝道に従事。聖書研究の月刊誌「永遠 の生命」全 423 号(1925-1966 年)を刊行(1937 年思想統制の下で発禁処分を受ける)。 その活動の一環として、1958 年、青年への全人格的教育の目的で公益財団法人登戸学寮を創設。 以上
かがみ文
登戸学寮関係者各位
コロナ禍の二年目の夏を迎え、皆様におかれましてはお護りのうちにお過ごしのことと 存じます。学寮はおかげさまにて感染を免れており、創設以来のヴィジョンのもと天に登る 扉としての使命を抱きつつ、新天新地をめざし航海を続けております。 このたび、学寮創立 60 周年を契機に、キリストにある一つの体を形成すべく、地の塩、 世の光として活躍している方々に光をあて、「表彰」の名を借りた交わりの機会を設けるこ ととなりました。黒崎先生は『一つの教会』の序において、「最近与えられた啓示は、神学 や教理や組織や礼典等は信仰の中心ではなく、信仰の中心否信仰そのものは『神との交わり』 でなければならないという事であった」と記しています。 神との交わりは、キリストを首とする人々がそれぞれキリストの肢となる交わりに向か います。もし老いが表彰されたなら、若きの寮生活を可能にすべく手を差し伸べ、もし若き が表彰されたなら、老いにその働きを伝え援けることでしょう。こうして一つの体たるべく、 皆さまとの新しい交わりのときが用いられますよう切に願っております。 皆さまにぜひ、良き働きを続けておられる方をご紹介くださいますよう、ここにお願い申 し上げます。趣旨および推薦方法等につきましては、同封/添付の趣意書をご覧ください。 末筆ながら皆様のご健勝とご平安をお祈り申し上げます。 2021 年 8 月 28 日 選考委員会委員長:小島拓人(理事長) 選考委員:鷲見八重子(常務理事)、大谷恵(理事)、岸本尚毅(同)、福嶋美佐子(同)、 織田千尋(顧問)、千葉惠(寮長)、千葉美佐子(職員)、 委員会顧問:黒崎稔(監事) (2021 年 8 月 21 日時点)
第二回「黒崎幸吉賞」推薦お願い
第二回「黒崎幸吉賞」の候補者推薦をお願いいたします。
推薦者は、当寮出身者、寮長・役員経験者および当寮の設立の趣旨を理解する方とします。 候補者の対象は、当寮の設立の趣旨に照らし次のような方を対象とします。
例1: 当寮在籍経験者であり、社会活動・芸術文化等の分野で活躍している方、または活 躍が期待される方
例2: 当寮の設立の理念を理解し、当寮を支援してこられた方
推薦方法については、所定の推薦書(下記ボタンからダウンロードできます)により、メール添付または登戸学寮 千葉惠寮長宛てに一部送付願います。
参考資料などは説明を付け推薦書に同封してください。(書類一式は返却いたしません。)
締め切り:2022 年 8 月 31 日(消印有効)
問い合せ:
✉ noborito@gakuryo.or.jp
☏ 044-933-0819
2022年度入寮式が行われました(4月10日)式次第、式辞
2022年度登戸学寮入寮式
式次第
入寮式
2022年4月10日(日)14:00~
登戸学寮
司会 佐々木さら
前奏
讃美歌 533番
聖書朗読 詩編100篇
開会の祈り
挨拶 理事長 小島拓人
来賓祝辞 監事 黒崎稔
歓迎の言葉 Robert Seth Quant
新入寮生スピーチ
井村咲月、温ハンビッ、川嶋すず菜
小林侑真、曽我大輔、原島寛之、牧真人
道下朱理、吉野泉
式辞 寮長 千葉惠
讃美歌 531番
閉会の祈り
後奏
記念写真撮影
式辞
千葉 惠 2022.4.10
歓迎
このたびは大学入学、再入学ならびに登戸学寮入寮まことにおめでとうございます。これまでの努力が報われ新しいステージに立つことができなによりです。新たな展開を願っています。本日のこのおだやかな春の光が皆さんを祝福していますように、わたしども学寮関係者一同も皆さんを祝福しまた心から歓迎します。よかったです。
この春入寮された若者たちは今何を胸に抱いているのでしょうか。日本の中心である首都圏での新しい生活に対するまたひととの出会いへの期待、そして人生設計における新たな自己の位置づけを見出し、今後の歩みの模索、そのようなことがらに思いを馳せていることでしょう。若者らしくワクワクドキドキする新しい生活の始まりです。将来の日本と世界の行く末、帰趨は若者に託するしかありません。私どもの乗り越えるべき課題を確認し、解決に向かうわたしどもの心の一番基本的な在り方について共に考え歓迎の言葉としたいと思います。
時代の変遷と変らない一人称の責任ある自由(心魂の人格形成)
学寮は1958年の設立ですので、65年目を迎えています。この間、日本も世界も著しい変化を遂げました。とりわけ科学技術ならびに医学の進展には著しいものがあります。当時は、子供たちはトランシーバーという無線通信用具でせいぜい20メートル離れた友達と半分隠れ顔をだしてボタンを押しては話しかけるそのような遊びをしていたのです。今ではスマホが普及して相手が地球の裏側にいても会話ができ、GPSによりどこにいるかわかります。ヒトゲノムが完全に読まれ、生命の設計図が解読されました。iPS細胞により原理的にはあらゆる細胞を作成することができるようになりました。かつては、情報発信者はテレビ局や新聞社など限られた媒体・メディアでしたが、今では誰もが情報を動画でアップすることができます。株式の売買も大量に瞬時に電子的におこなわれ、商取引も店に買いに行かずともできるようになりました。昔平安時代には「平家にあらずば人にあらず」と言われましたが、今では「IT専門家にあらずば人にあらず」と言うことができそうです。またこれは監視社会の息苦しさとともに「隠されているもので顕わにされないものは何もない」という聖書的な人間観がより現実的なものになってきたと言えます。
このように一方では1と0の情報処理技術は原理的には個人の身体に依拠するところありませんので、個人に依存しない三人称の言語により再現可能かつ検証可能で普遍的な知識が蓄積されていきます。自然科学、医学そして技術の領域における学習内容は著しく進展増大し微視的なナノ空間から宇宙空間に至るまで探求されています。誰もが共有できる定量的で客観的な解明が日々蓄積されていきます。いつの日にか、手足を必要とせず、水溶液のなかに脳がいれられ電極が差し込まれて生存する新たな種が出現するかもしれません。
他方、わたしどもは国籍も親も選べず親ガチャの偶然性のなか、或る与件のもと身体をかかえた生を授かります。それ故、同じひとは誰もいません。生得的な与件において各人異なりますが、もの心ついたときから一人称の言語を用いる責任主体として誰もが唯一無二の生を引き受けているということ、そこに人生の醍醐味があると言えます。三人称の膨大な情報にかこまれつつ、ひとは心をかかえて宇宙の底が抜けるような悲しみと不安そして天にも昇る喜びを持ちうる不思議なる存在者として、一人称の世界を生きています。皆さんひとりひとりの心がそしてそれ故に人生がなんと君の責任ある自由に委ねられているのです。それも気の狂った為政者がひとりいるだけで、それまで営んできた人生が破壊されてしまうそのような不安定な世界に投げ出されて一人で生きています。わたしどもはこのようなものである人間と自己を一人称と三人称の送り返しのなかで探求せざるをえません。
誰もが産まれた時には死に対して十分に年をとっていますが、わが国における平均寿命としては80年以上生きるそのような状況が出来しています。これは人類の叡智を結集してその都度の課題を克服してきたからです。例えば、ルイ14世のように「朕は国家なり」と司法(裁判)と行政(政策執行)と律法(法制定)を欲しい儘にした封建時代においては、人の生命や人権、即ち生殺与奪の権は君主に帰属していました。今回のウクライナ侵略に見られますように、正義に基づいた法治国家を築くことの重要さをわたしども今リアルタイムに経験しています。人類は生命をかけて秩序ある自由な社会、基本的人権を求めて苦闘してきたのです。
2000年前ナザレのイエスが生まれたころ全地球の人口は2億5千万人でした。紀元1600年頃に5億人、1800年に10億人となりそして1920年には20億人であり、現在約80億人が同じ空のもと同じ時の流れのなかで生活しています。20世紀から今世紀における60億人を超える著しい増加は人類の生存上の普遍的課題である飢餓、感染症、病気、紛争等寿命を縮めるあらゆる課題を克服しての勝利を遂げたことを示しています。紛争による殺戮、暴力も20世紀後半以降減っていると言われています。これは歴史に学び、同じ悲惨な眼に次の世代をあわせはならない、また同じ過ちを二度と繰り返すまいという悔い改めと叡智の結集によると言うことができます。
他方、人口爆発や技術の進展による自然環境の破壊がもたらす新たな問題が発生し、地球と人類の持続可能性が問われています。飢餓や紛争による殺戮、難民の発生さらには地球を何度も破壊してしまうほどの核兵器の開発など、今人類は生存のまったなしの課題を抱えています。
またわたしども先進国の日本に住む者の内面においても、情報の渦、大嵐に翻弄され、落ち着いてひとつのことに取り組むことが難しくなっています。技術文明のリズムが身体を持つわたしどもの生のリズムを支配し、わたしどもは自ら生み出したものにいつのまにか隷属しています。身体の感覚器官を介する直観や身体のアナログ的な或いは定性的な反応はわりきれない不明瞭なものとされがちです。反応の速さが競われ、身体との関連においてある心の成長が抑圧され、偏りへの圧力がかかっています。例えば、レーチェルカーソンはこう警告しています。「子供たちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、私たちの多くは大人になるまえに澄み切った洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直観力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしも私が、すべての子供の成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子供に、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見張る感性」を授けて欲しいと頼むでしょう」(三浦永光『人間存在に内在する宗教性について』p.59(新教出版社 2021))。
大人や社会そして現代の風潮は本来ひとの心に備わっているはずのこの種の驚きの感覚を鈍らせてしまいます。鈍くなり、出来上がったシステムや組織さらには知識の体系に自らを適応させることが大人になることだと考えられています。そのとき、わたしどもは何かを失っていくことについてさえ気づかずに、社会や組織の理(ことわり)、システムに飲み込まれていきます。
わたしどもはただ自然の猛威や世界史の荒波にもまれて海の藻屑と消えていくだけの存在なのでしょうか。人類は自ら制御できない欲望を吟味、反省することなく何らか正当化し科学技術を利用し自然資本を食いつぶし、格差を助長したうえで争により自滅に向かうのでしょうか。10人殺せば極悪人であるが、100万人殺せば英雄になるという何も確かなものがない心を抱えているのでしょうか、それが問われています。パスカルは問ます。「人間とは何という珍奇、妖怪、矛盾の主。宇宙の栄光にして宇宙の廃物、真理の受託者にして曖昧と誤謬のドブ、愚鈍なるみみず、この縺れを誰が解くのか」。君たちは新たにこの問いの前に立たされており、各人はその解答を求められています。俺が私が解いてやる、この気概こそわたしどもに求められています。
学寮の存在理由―心の根源的在り方―
この時代にあって、学寮は皆さんに何を提供できるのでしょうか。まず、生活の基本として寮内のトイレや風呂などを清潔に保ち、バランスのとれた食事を提供することによりみなさんの健康維持に貢献することです。この二年間調理スタッフのご努力により、健康を大きく損なったケースがなかったことは感謝です。また、共同生活において重要なことは、秩序を保つことであり、約束ごとをお互いに守ることにより楽しい快適な生活を共に送ることができます。札幌農学校の校長として赴任したクラーク先生はこの規則遵守についてはただ一言、Be gentlemanと言いました。学寮にあてはめるなら、Be gentleman and be ladyということになるでありましょう。なお、老婆心ながら、皆さんが入寮するとき、誓約書にサインしてもらっています。内容覚えていますか。もう一度確認ください。
第三に、学寮創立の精神の具現化にこそ学寮の存在理由があります。学寮の伝統である心魂(こころ)の探求として、豊かで深い精神性の涵養に貢献することです。自己尊大化、自己の拡張として所謂色、金、名誉と呼ばれる定量的に計測され大きさや量を誇るこの世が求めるところとは異なるものに価値を見出しうるかに挑戦します。これらは成功の分かりやすい規準かもしれませんが、そこには心とその心が宿る生命原理である魂が欠落しています。イエスは言います、「ひと[心]が全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひと[心]は自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。「身体を破壊しても魂[生命の源]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:28)。「その心によって清らかな者は祝福されている」(Mat.5:8)。
わが国においてキリスト教徒は1パーセントと言われます。この道は神との関係においては「罪」と呼ばれる自分の中にある残念なところを克服しつつ、神と隣人に自分の人生を捧げようとする、狭く細いしかも真っすぐな道なのです。なぜこんな道が2000年も歩まれ続けているかと言えば、心の奥底にこの道を確かだと承認する部位があり、人間の本来性にかなったものだからです。光が差し込み明確に歩むべき道を示し続けるからです。
イエスは言います。「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。軛とは牛を二頭平行につなげるものですが、イエスと軛により繋げられ歩むとき、彼の呼吸そして柔和と謙りが体温と共に伝わってきます。この軛という信、信仰という心の根源的な在り方によりイエスと共に歩み始めるとき、心の底に平安と人生の確かさを見出します。信が二番底とでも言うべき心の部位に生起するとき、ひとはその心と身体に秩序を持ちます。
パウロはこの部位を「内なる人間」と呼んでいます。ポテンシャルとして誰もが心の奥底にこの部位を持っていますが、人間的にはなかなか発現されないかそれに気づかないのです。この部位を発見する方法が一つあるとすれば、幼子のように信じることです。そのうえで聖書を読むと力と平安をいただきます。幼子のように神の子であると信じることが難しいということであるなら、そこに至るべく、自らの心が底なしである、確かなものが何もないという空虚さ、苦悩の経験を必要としています。読書会でとりあげた、宇佐美りんの『推し燃ゆ』と遠藤周作の『海と毒薬』において、文学者たちは底なしの心を描き、その克服に苦闘しています。遠藤の『海と毒薬』は良心の発動というものの確かさについて考えたいひとには必読書です。時間の都合でここでは最年少芥川賞作家宇佐美りんの作品を紹介します。
『推し燃ゆ』―偶像(idol)崇拝と底なしの心―
『推し燃ゆ』の主人公あかりは5歳のときから、ピーターパンを演じた12歳の真幸(まさき)がアイドルとして成長するその過程を追っかけてきました。その推しのまさきがファンの女性を殴ったことが報道され、SNSが炎上する、物語はそのように始まります。作家はあかりの推しとしての在り方をこう表現しています。(引用です)「アイドルとの関わり方は十人十色で、推しのすべての行動を信奉する人もいれば、善し悪しがわからないとファンとは言えないと批評する人もいる。推しを恋愛的に好きで作品に興味がない人、そういった感情はないが推しにリプライを送るなど積極的に触れ合う人、逆に作品だけが好きでスキャンダルなどに一切興味を示さない人・・。あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった」(p.18)。かくしてあかりにおいては「ラジオ、テレビ、あらゆる推しの発言を聴き取り書きつけたものは、二十冊を超えるファイルに閉じられて部屋に堆積している」(p.17)。
この解釈し続けるあかりは推しの身体に自らがはいりこみ、推しが見、感じるものを自ら共有したいという欲求につき動かされています。このアイドル、偶像崇拝の背後に、アカリが常にかかえている自らの肉の重さの感覚があります。あかりは自らの肉の重さに慄いています。見学にまわった水泳の授業の描写でこうあります。(引用です)「あたしが重ねて持っているビート板を「ありがとね」と言いながら次々に持っていく女の子たちの頬や二の腕から水が滴り落ち、かわいた淡い色合いのビート板に濃い染みをつくる。肉体は重い。水を跳ね上げる脚も、月ごとに膜が剥がれ落ちる子宮も重い。先生のなかでもずば抜けて若い京子ちゃんは、両腕を脚に見立ててこすり合わせながら、太腿から動かすのだと教えた。たまに足先だけばたつかせる子もいるけどさ、無駄に疲れるだけだからねあんなの」。あかりは身体と離れない自我の重さをいつも感じている。推しに自己を埋没させることにより、この重さから解放され、生の意味を見出している。
その推しが殴打事件を機にアイドルを卒業することになる。追いすがるリポーターの「反省しているんですか」という問いかけへの彼の応答にアカリは意図的なものを感じ取る。作家は描写する(引用です)「振り向いた眼が、一瞬、強烈な感情を見せたように思った。しかしすぐに「まあ」と言った。機材や人を黒い車体に移り込ませて車が走る」。SNSのコメント欄があふれる。(引用です)「反省して戻ってきてほしい。マサキクンいつまでも待ってるよ」「自分が悪いのにああいうところで不機嫌になるあたりね」「不器用だなあ。ちゃんと説明すればいいのに」・・」あかりはこれらに一切同意せず、(引用です)「推しは「まあ」「一応」「とりあえず」という言葉は好きじゃないとファンクラブの会報で答えていたから、あの返答は意図的なものだろう」と言う。そこからアカリは推しの殴ったファンへの愛をかぎつける。
アカリは推しの最後のコンサートに行く。(引用です)「第一部が始まり推しの煽りが聞こえた瞬間から、あたしはひたすら推しの名前を叫び、追うだけの存在になった。一秒一秒、推しと同じように拳を振り上げコールを叫び飛び跳ねていると、推しのおぼれるような息の音があたしののどへ響いて苦しくなる。モニターでだらだら汗を流す推しを見るだけでわき腹から汗が噴き出す。推しを取り込むことは自分を呼び覚ますことだ。諦めて手放した何か、普段は生活のためにやりすごしている何か、押しつぶした何かを推しが引きずりだす。だからこそ、推しを解釈して、推しをわかろうとした。その存在をたしかに感じることで、あたしはあたし自身の存在を感じようとした。推しの魂の躍動が愛おしかった。必死になって追い付こうとして躍っている。あたしの魂が愛おしかった。叫べ、叫べ、と推しが全身で語り掛ける。あたしは叫ぶ、渦を巻いていたものが急に解放されてあたりのものをなぎ倒していくように、あたし自身の厄介な命の重さをまるごとぶつけるようにして叫ぶ」(109)。
もちろん、その陶酔の時間は過ぎ去る。(引用です)「推しの歌を永遠にあたしのなかに響かせていたかった。最後の瞬間を見届けて手許に何もなくなってしまったら、この先どうやって過ごしていけばいいのかわからない。推しを推さないあたしはあたしじゃなかった。推しのいない人生は余生だった」(112)。このように作家はアカリの陶酔と空虚を描いていく。
一足の靴下がベランダに干してあるその光景が最後に描かれます。スクショに移った背景から引退した推しの新居がわれてしまい、アカリはそこにいく。(引用です)「会いたいわけではなかった。突然、右上の部屋のカーテンが寄せられ、ぎゅぎゅ、と音を立てながらベランダの窓が開いた。・・目が合いそうになり、そらした。たまたまとおりかかったふりをして歩き、徐々に速足になって、最後は走った。どの部屋かはわからないし、あの女の人が誰であってもよかった。・・あたしを明確に傷つけたのは、彼女が抱えていた洗濯物だった。あたしの部屋にある大量のファイルや、写真や、CDや、必死になって集めてきた大量のものよりも、たった一枚のシャツが、一足の靴下が一人の人間の現在を感じさせる。引退した推しの現在をこれからも近くで見続ける人がいるという現実があった」(121)。
この作品は古典的なテーマを現代的なセッティングのもとで描写したものです。その表現の斬新さにおいて古典的な情熱恋愛を若者の日常の装いのもとに描いています。恋愛感情はamare amabam「わたしは愛することを愛していた」(アウグスティヌス)と古来言われるように、自らの濃密な感情を味わっていたい、その感情の高揚を維持すべく、イメージに集中します。或る女優さんが「恋をしているときの胸のトキメキが好き」と言うように、相手をありのままに受け止め愛しているわけではなく、自らの心臓の鼓動、心拍数を愛しています。そこでは恋愛対象は濃密な感情を生み出す装置として機能しています。だからこそ、何かの幻滅により一気に情熱曲線が下がり覚めてしまいます。
ありのままのマサキを知るべく解釈し続けているあかりはそのようなイメージへの集中とは異なると主張していように見えます。とはいえ、このような解釈を介してマサキの見ているものを見、感じるものを感じたいという思いは恋愛の特徴である一種の自我崩壊と呼ぶことができます。自我が溶けてしまっているところでは抵抗がありませんから何でも赦せてしまう。自らを放棄し、没入そのものにより自ら生息していると言うことができます。この古典的なテーマをとりあげつつ、若い作家の感受性と表現力は読者をひきこむことに成功しています。
ひとはこのように自らを捧げられるものを誰もが求めています。しかし、それは偶像崇拝(idolatory)であってはならないはずです。ルターは「汝が汝自身を寄りかからせているもの、それが汝の神だ」と言いますが、まことの神以外は偶像となります。それは偽りであり空しい信の対象であり、偽りである限り裏切られます。そしてそれは過ぎ去りゆくものです。信の対象、人生を捧げるにたるものは堅固で永続する真理でなければならないはずです。この短い学寮生活において共にこれを探求したいと思います。
真理の探究の手がかりとしての古典そしてイエス・キリスト
真理の探求の手法は歴史の審判を経た聖書テクストへのひたすらなる尊敬のもと、ルターが「聖書を正しく理解するところ、そこに聖霊が宿る」と言うように、正しい理解に集中します。これは内村鑑三や黒崎先生、塚本先生以来の無教会の伝統と言えます。
黒崎先生と学生時代以来の親友で内村の弟子であった塚本虎二は自らのイエス伝研究を通じてこう語りかけます。「後代教会の誤った宗教心がゆがめたり、隠したりしているものを学問の力で取去って、直接ガリラヤの大工の子、イエスの姿を見えるようにしようと努力してきた。―その結果イエスが私達と同じく、完全に人間であることが解った。―ところが一方このようにすっかり人間になったイエスが、他方では今までよりもはっきり神の子の姿をもって私達の前に浮かび出たのである。―どうかただ機械的に、漫然とイエスを神の子と信ずるのでなく、疑わしい所は遠慮なく疑ってもらいたい。そうすると多分、我々と同じにこの地球の上を歩き、空気を吸い、食事をして生きた、あくまでも一人の人間であるイエスに、人類創造以来の凡ての人と違った、この人だけは人間でない、神の子であると言わざるを得ないものが出て来ると思う」(『聖書知識』三一〇号)。
古典classicsとは歴史の審判に耐え、逆に歴史を審判しています。古典がまだ自らに訴えかけないとしたなら、わたしどもはまだその一つの歴史を営んでいる人間になっていないとも言えそうです。当方70年近く生きてきましたが、この数十年間、聖書やアリストテレス等の古典テクストの正しい理解に埋もれてきました。文字通り悪戦苦闘でした。古典の研究を通じて得た人間理解、理論のもとに自らと周囲の人々を実験台として、ひとの心魂の動きを吟味、検証してきました。そして今、人間とは何かという問いに対して、一つの信念を持っています。二千年ものあいだ歴史の審判を経て、しかも今、歴史を審判している、力強く働いて人生を導いてくださる方はイエス・キリストであると信じております。彼は真の人間であり、神の子であると受け止めています。文学者たちも虚無や不安の背後に何か人生に確かのものがあるのかを探求し、登場人物のディーテールを描いていきます。わたしどもは、人間探求の様々な事例に学びながら、とりわけ神と人間を媒介する存在者であると聖書に伝えられたナザレのイエスを共に学んでいきたいと思います。心の奥底にどんなに吟味しても壊れない確かなものを見出しうるなら、これは幸いなことだと思います。以上皆さんの新しい人生への贐の言葉とします。
2021年度卒寮式式次第
二〇二一年度卒寮式
二〇二二年二月十一日土曜日
午後二時より
登戸学寮
式次第
司会 結城史音
前奏
讃美歌 五三四番
聖書朗読 詩篇四六篇
開会祈禱 結城史音
理事長挨拶 小島拓人
来賓祝辞 黒崎稔
送る言葉 橋本結衣
柴田真之介
卒寮生感話 青野道
岩田光法
金道殷
杉谷魁
山田聖義
寮長式辞 千葉惠
讃美歌 四四〇番
閉会祈禱 千葉惠
後奏
『方舟』62号刊行されました(閲覧できます)
このたび、『方舟』62号が刊行されました。第一回黒崎幸吉賞授賞式、講演会やホームカミングデーの記録、恒例の寮生による寄稿さらには、学寮ゆかりの方々の寄稿等を掲載しています。力作ぞろいで230頁の冊子となりました。
なお、冊子体にいくつかの誤りがあり訂正させていただきます。
〇 「目次」4行目 誤り 黒崎幸吉先生語録・・ 正 二文字下げる、〇 「目次」5行目 誤り 第一回黒崎幸吉賞・・ 正 二文字あげ、〇 「目次」12行目 誤り 「ヨーロッパ・・ 正 一文字下げ、〇 7頁 12行目 誤り 如何にして此の危機を避け得るでしょうか。それが為には 正 コノ一文削除、 〇 42頁 1行目 誤り 桝形山 正 枡形山、 〇 200頁8行目 誤り どうし 正 どうして、〇 201頁5行目 誤り 産みへ 正 海へ
第一回黒崎幸吉賞授賞式・講演会ならびにホームカミングデー録画の配信について
2021年11月20日開催の第一回黒崎幸吉賞授賞式・講演会ならびにホームカミングデーの録画を配信いたします。
ご視聴いただければ幸甚です。視聴希望の方は学寮まで連絡ください。URL及びパスワードをお知らせいたします。
連絡先は
noborito@gakuryo.or.jp
です。
第一回黒崎幸吉賞受賞者、授賞式・講演会について
第一回黒崎幸吉賞受賞者につきましては、明日11月20日土曜日午後一時からの臨時理事会・評議員懇談会において最終的な承認のあと、プログラムと共に発表いたします。
今井館ニュース50号
登戸学寮
祝50号!末永く励まし希望の泉であれかし!学寮は新人9人を迎え4月6日にリモート参加のご家族らと入寮式を祝いました。抱負を述べあい皆で新たな旅立ちを分かち合いました。皆すぐに仲良くなりピンポン等に興じ、青春の輝きまっしぐらに其々元気一杯夢に挑戦しています。盛況の黒崎資料室は、朝早く微動だにせず数時間も精密な図面を描き続ける建築学科のラガーマン、音楽理論の学びの後4階自室に戻り燃える緑の山を前に作曲に勤しむ京都ルーツ、カナダ育ちのアーティスト、年四度の試験に立ち向かう医学生等々熱気を帯びています。
5月末超満月の夜、月蝕を愛でるべく枡形山で小一時間夜風に包まれ仰瞻しました。雲に隠れかなわず、帰りは蛍谷を降って線路沿いのセブンでアイスしました。ひとりが雲の裂け目から赤銅色の月面に気づき、おぼろな輝きのなか、地球の影を10人皆確認できました。共に一事を行うとき、感動を分かち合う、そのような共同生活の喜びの一齣でした。
毎日オルガン前奏で始まる朝礼拝は「詩篇」ですが、当番は詩篇のメッセージを自らの現実に照らして独創的に話ます。聖書講義や読書会ではSNS等の際限なき比較ではなく、福音が持つ比超級の世界を、競争ではなく敵が友と友となるOne Team、Win-Winの世界を目指しています。地球の裏側の健康が当方の健康につながる運命共同体のこの惑星において、One Health、One Teamの祈りの日々です。
「かくして、キリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、魂を共にかよわせることによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮するに至るためである」(ピリピ2:1)。
特集「コロナ禍で学んだこと」『季刊無教会』46号寄稿
御言葉の受肉―不可視なものの可視化
千葉 惠
この二一世紀のパンデミックCovid-19は人類全体で協力して対処すべき人類史的な状況を出来させている。人々は感染者の棒グラフの上下に一喜一憂している。全人類のワクチンの接種以外に(あの豪華な?)日常生活への回復は望めない。今回の相手は肉眼で不可視なため、生存を脅かすものに湧く恐怖は全方位に及ぶものとなる。学生寮の生活において日常交わる人々が恐怖の対象となりえ、相互に疑心暗鬼にさらされる。孫氏の兵法に「敵を知りおのれを知れば百戦危うからず」とあり、正しく恐れるにはウィルスの特徴、振る舞いを熟知するに若くはない。赤外線は熱放射を介してまた物質を突き抜けるニュートリノは地下水槽を介して可視化されるように、将来対話者が陽性か否か可視化されるようになるであろう。人類はこうして課題を克服してきた。とは言え、ウィルスは生物的存在者以上ではなく、人類の壊滅は身体のそれでしかない。「身体を破壊しても魂[生命の源]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:26)。
今回のパンデミックは、聖書的にはこの惑星に住む人類共通の問題というものが実際にあり、われらはひとりの不注意や身勝手が隣人を苦しみや死に追いやる運命共同体であることを伝える。われらは罪を犯し犯されつつ一つの宇宙船に乗り合わせている。「被造物全体が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにある・・われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ呻いている」(Rom.8:22)。今回この運命共同体は全体として救いを求めているという創造と救済の聖書的な人間認識を共有した。時代は(ようやく?)疫病、飢饉、貧困等聖書の伝える苦難に追い付いてきている。イエスは「不法があまねくはびこるので、多くの者の愛が冷える」その状況とともに預言する、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、様々な場所で大きな地震と飢饉と疫病が起こるであろう。恐るべきことと天からの大きな予兆が起こるであろう」(Mat.24:12,Luk.21:10)。この終末預言の警告のなかでイエスは人類を贖い、救い出すべく十字架に至るまで信の従順を貫いた。
人類は不可視なものの秩序ある可視化をロゴス(理、言葉)とエルゴン(その働き)の相補性において捉えてきた(例、一オクターブの調和音(合成体)=1:2の弦の比(ロゴス・形相)+空気(質料)[ロゴス上比と空気の分離、今・ここで奏でるエルゴン上の不分離])。生命の設計図としての遺伝子も四つの螺旋的塩基配列を秩序づけ、その情報それ自身は物質ではなくタンパク質合成の理である。先哲によれば、ロゴスとしての形相は生成消滅過程を経ることなく、質料を一なる合成体として働かしめる。今・ここの秩序ある働きは不可視のロゴスの証である。聖書にもこの相補性の事例は豊かであり、エマオ途上の弟子たちは「神とすべての民の前にエルゴン(働き・実践)とロゴス(言葉・理論)において力ある預言者となったナザレのイエス」について語りあった(Luk.24:19、eg.Rom.15:17.2Cor.6:7,1Thes.1:5)。
不可視なものの最たる方である神は「光あれ」の言葉により宇宙を創造された。そのロゴスが受肉した。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿を取りご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられた」(Phil.2:6)。
イエスは山上でモーセ律法の純化により人々の二心の偽りを摘出し、道徳的次元を内側から破ることにより信仰に招いた。そこで彼は言葉の力のみにより道徳、社会、自然、天国と地獄一切を天の父の完全性に秩序づけ、彼はその教えに生きまた死んだ。彼の生涯はその言葉と働きの合致故に偽りなき権威を伴った。科学技術や衣食住であれ、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう」(Mat.6:33)。イエスはこう語り信仰に招く。人類の第一の課題は「天の父の子」となる信仰により不可視な神との正しい関係を作ることである。「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを去った、というのも見えない方を見ている者として忍耐したからである」(Heb.11:27)。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。神の意志として「信の律法」(神が信であるとき、信じるか裏切るか)はモーセの「業の律法」(貪ぼるか貪ぼらないか)より根源的である(Rom.3:19,27)。
救いそのものがイエスにおいて可視化された。不可視なものの信仰が可視的なものにより確認される。「信仰は望んでいることがらの確証であり、見られていないものごとの[不可視に留まることへの]反駁である。というのも信仰によって古への[アブラハム等]先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りにより[先人たちの]諸時代が統一させられていることを、信仰により観て取っており(pistei noūmen)、見られるものが現れないものども[神の語り]に基づくことを知るに至る」(Heb.11:1-2)。
人間のあらゆる肯定的、創造的営みの根源にこの信が位置づけられる。どれほど認知的に人格的に愚かで悪くても、そうであるからこそ「幼子」のように信じることはできる。最も困難な探求対象が最も容易な幼子の信のみを要求しているということは全知全能の神にふさわしい。われらは幼子のように信じる「神はおのれの独り子を賜うほどに世界を愛した」、と(John.3:17)。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。復活は「告白」(Rom.10:9)を伴う信によってのみ突破されうる掌握困難な神の力能の顕われであり、甦りを信じることができるということ、それが喜びである。甦りは再臨による宇宙の完成に向かう。そのエヴィデンスは信に伴い豊かなものとなっていく。
『登戸学寮ニュース』10号お届けします(HP版)
「登戸学寮ニュース」10号が刊行されました。本稿では学寮60周年記念事業の報告や新寮生の紹介などを掲載し、学寮の近況をお知らせしています。以下のボタンをクリックください。バックナンバーも見ることができます。
寮長 千葉惠