平和への道―イエスの歴史観―
平和への道―イエスの歴史観―
(録音は4節まで) 日曜聖書講義 2023年1月15日
聖書
「娘シオンよ、大いに踊れ。歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(ゼカリア書9:9-10)。
「弟子たちはろばの子をイエスのところに連れて来た。彼らは自らの上着を子ろばのうえに敷きやってきたイエスを強いて乗せた。彼が進むと、人々は自分たちの上着を道に敷き広げた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかったとき、弟子たちの群はこぞって、自分の見たあらゆる力ある業を喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名において来ておられる王が褒めたたえられますように、天には平和が、いと高きものたちには栄光がありますように」。すると、パリサイ派のある人々が、群衆のなかからイエスに向かって、「先生、弟子たちを叱ってください」と言った。イエスは答えた言った。「汝らに言う、もしこの者たちが黙れば、[破壊される都の]石が叫びだすであろう」。エルサレムに近づき、都を見たとき、イエスはその都にたいし涙を流した。そして言う、「もし今日この日に、お前も平和の道をわきまえてさえいたなら。しかし今は、それがお前の目からは隠されてしまった。やがて時がきて、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻み四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前のなかの石を残らず崩してしまう、そんな日々が来るだろう。それらの代わりに、お前は自らへの訪問の好機をわきまえなかった」(ルカ福音書19:37-44、参照「われらの憐みの神の憐み故に、そこにおいていと高きところからの光輝きがわれらを訪ねるであろう。「暗黒と死の陰に座すものを照らし」われらの足を「平和の道」に向かわせるであろう」Luk.1:78(Ps.107:10, Is.59:8))。
1イエスの悔し涙
イエスは人間が平和の道をわきまえていないことを叱責したことがここで報告されている。イエスは人間の罪が人生の窮境をもたらすと主張する。これは紀元七十年のティトス将軍ひきいるローマ軍によるエルサレム陥落を預言したものであろう。ユダヤ人たちがイエスにおいて既に神が訪れていることをわきまえないことによる、国家の崩壊である。いつであれ、どこであれ人類における平和のなさは罪の故にであることの明確な認識が求められる。罪がはびこる限り人類には平和は訪れない。イエスはそれに涙する。
彼は幼少時からエルサレム神殿を訪れ、ユダヤ人としてこの都に畏敬の念をもちこの都を愛していた。神殿が商売に利用されていることを知って、商人たちを乱暴に追い出しさえしている(Luk.19:45-48)。神に選ばれた都そして礼拝の場としての神の宮に対する愛情が強いからこその、その都が崩落してしまうことへの屈辱が涙になったのだと思われる。ひとが悔し涙を流すのは、生起した現実を受け止め、承認することのできない状況においてである。イエスはろばの子に乗り、一行がオリブ山の下り坂にさしかかったそのとき、エルサレムの神殿が目にはいってきた。そのときイエスは、自らの心に城壁がくずれていくその近い将来の光景を心の目で見たのであろう。彼は言う、「もし今日この日に、お前も平和の道をわきまえてさえいたなら。しかし今は、それがお前の目からは隠されてしまった。やがて時がきて、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻み四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前のなかの石を残らず崩してしまう、そんな日々が来るだろう。それらの代わりに、お前は自らへの訪問の好機をわきまえなかった」。イエスの心の目にはこの悲惨な光景が浮かび、その衝撃にたいする憤りと憐みと悔しさにとらわれ、イエスは涙を流した。ひとびとは天の父がイエスを送り、ご自身の民への愛を示しているにもかかわらず、この神ご自身の「訪問の好機」を逃してしまっている。なぜイスラエルの民は預言の成就を悟らないのだ。ユダヤ民族の罪、心の鈍さへの怒りとイエス自ら愛するものを護ることのできない悔しさが、都を見たときに、涙となって表れたのであろう。ひとは自らの罪のゆえに、神に指し示された光の道を歩もうとせず、闇の道を選ぶ。他方、この都への入場の機会に、イエスご自身は十字架の道が与えられた使命であることを改めて覚悟する。
2 残りの者の歴史
神の歴史につらなる者たちは旧約以来少数であり、「残りの者」と呼ばれる。イザヤは言う、「汝の民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが返ってくる。滅びは定められ、正義がみなぎる」(Is.10:22)。「その日には、万軍の主が民の残りの者にとって麗しい冠、輝く花輪となる」(Is.28:5)。「主はこう言われる。「ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え・・そして言え。「主よ、汝の民をお救いください、イスラエルの残りの者を」」」(Jer.31:7)。
新約聖書においても、この認識はかわらない。パウロはイザヤを引用して言う、「「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも、すみやかに、言われたことを行われる」。それはイザヤがあらかじめこう告げていたとおりである。「万軍の主がわれらに子孫を残されなかったなら、われらはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう」」(Rom.9:27-29)。ソドムやゴモラのように滅びてしまうことへの恐れから、ひとは悔い改めに導かれる。「ひとよ、汝は神の裁きを逃れると思うのか。それとも汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか。汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しい裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」」(Rom.2:3-6)。「神に即した苦悩は後悔なき悔い改めを働く」(2Cor.7:10)。
自らの罪を悔い改めた者たちが残りの者とされる。残りの者たちは、主人が突然帰ってきたとき、忠実に自らの義務、仕事を行っている者たちである。善かつ忠なる僕、僕女(しもめ)たちは残りの者として主の狭く真っすぐな道を歩みぬく。「主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」(Mat.12:47)。残りの者たちはもはや徴や証拠を求める者ではなく、証を立てる者となる。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として(eis marturion)全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」(Mat.24:12-14)。
3 イエスの歴史観
イエスの歴史観が報告されている。イエスは歴史に対して楽観していない。イエスは終わりの日に耐え忍んで神を求める者たちに正しい審判を約束しつつ、選ばれた残りの者たちの状況についてこう語る。「イエスは、自分たちが常に祈りそしていい加減に振る舞うべきではないことに向けて彼ら(弟子たち)に譬え話を語った。「ある町に神を畏れず人に耳を傾けることをしない裁判官がいた。その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、「私の敵対者から裁きによって私を護ってください」と言っていた。裁判官は、しばらくの間とりあおうとしなかった。しかし、その後考えた。『自分は神など恐れないし、人に耳を傾けることをもしない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、私を困らすに違いない』」。それから主は言われた、「この不正な裁判官が何を語っているか聞きなさい。神は、しかし、昼も夜も助けを叫び求めている選ばれた者たちのために正しい裁きを行わずにいることがあろうか、彼らに対し悠長にしていることがあろうか。私は汝らに言う、神はすみやかに彼らに正しい裁きを行ってくださる。しかし、人の子が来るとき、はたして地上に信仰を見出すであろうか」(Luk.18:1-8)。
「選ばれた者たち」は歴史の不条理に苦しみ理不尽な死をも経験しよう。しかし、彼らの悲しみと喜びとともに情状酌量の余地をも一切を正確に知り、しかも憐み深い神がおり、正確な裁きが行われる(cf.Rev.211-4)。イエスは羊飼いのいない羊のようにうちひしがれて彼についてくる群衆を見て、「深く憐れんだ、そして[天国について]多くのことを教え始めた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。イエスはひとの肉の弱さに衷心からの憐みを示し、柔和であり謙遜であった。人々は自らが選ばれた者であるという自覚のもとに終わりの日までどれだけ耐え忍んでいるであろうか。イエスはその信の貫徹に楽観的ではない、それは罪があり苦難があるからである。
イエスはこうも言う。「わたしが地に平和を投じるために来たと思うな、平和ではなく、かえって剣を投じるために来た」(Mat.10:34)。厳しい言葉が次々に投げかけられる。ひとはそのつど悔い改めにより、新たに生きなおす。歴史の個々の具体的な状況のなかで悔い改めるのは個々人である。
ナザレのイエスは山上の説教においてモーセ律法を内面化、純化し究極の道徳を説いた。良心(sun-eidēsis=con-science)は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」という仕方で突然働く一つの知識である(Mat.5:23)。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。イエスは旧約律法の枠内に留まりつつ、聴衆が旧約の内側から自らの力で正義を実現しようとする道徳的行為に巣食う各人の魂の偽りを指摘していた。イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて、聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り抜けていた。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなく、イエスはこれらが神自身の認識であることを伝える。イエスは言う、「かくして汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全でありなさい」(Mat.5:48)。パウロは人のあるべき姿として神の前で明らかなこれらのことがらが「汝らの良心にも明らかになっていることを望む」と語り、神自身の認識を人が自らの良心において受け止め認識するよう、その共知を目指している(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。
イエスは良心に訴え一旦道徳を内側から破り、信仰に招く。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが汝らの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。・・まず神の国とご自身の義を求めよ」(Mat.5:44-6:33)。恵み深い神との正しい関係を信仰により築くことにより根源的な正義が開かれる。「わたしは汝らの神となり、汝らはわが民となる」(Lev.26:12)。この神の約束に信頼すること、それが信仰である。神の信の先行性のもとにひとの応答としての信により形成される等しさが関係の正義を生む。国家が法により秩序を維持するさいに関わる正義を当事者の行為にふさわしい等しさの「配分の正義」或いは「秩序維持の正義」と呼び、信仰による神の信とひとの信の或る等しさの成立を「関係の正義」或いは「根源的正義」と呼ぶ。この信に基づく「義の果実」が「愛」である(Phil.1:11)。「愛は隣人に悪を行わない。愛は[業の]律法の充足である」(Rom.13:10)。愛されていること、憐みをかけられていることの信なしに愛に到達しない。ただ、信から愛の道を歩む。
4残りの者も国家(肉)において生きている
このイエスの危惧或いは厳しい預言は各人が少数者の自覚のもとに信の根源性にその都度立ち帰ることが歴史に対する正しい取り組みであることを教えている。人類の歴史に対する楽観が一切ないこと、それが歴史の最先端にいる者に自覚を促す。各人はどこまでも自らの責任ある自由においてこの歴史を生きる。かくしてイエスの弟子たる者は無抵抗、無審判の山上の説教に即してイエスの軛を共に担い彼の「柔和と謙遜」を身にまとい、共に歩む抜くことが人生の目標となる。イエスに従う者は「残りの者」としてその証を立てることに専心する。その生を導くものは信に基づく正義である。
われらに不和があり争いがあるのはわれらの罪の故にである。「すべて信に基づかないものごとは罪である」(Rom.14:23)。戦争がその最も先鋭化した姿である。イエスは言う、「ひとが全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひとは自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。不正により全世界をわがものにしても、信に基づく義により与えられる神的な生命を失うとき、それを償うものはこの世界になにもない。この発言はカントが中世の言葉として引用する「正義をして支配せしめよ、たとえ世界が滅ぶとも」と同じ内実を持つものである。この格言は、イエスの不正による世界支配の視点を転換し、正義の実現のほうが世界の存続より重要であることを伝えている。たとえ世界が不当な仕方で不正義のもとに所持され存続したとしても、正義が蔑ろにされるとき、世界にとって生存の意味はない。換言すれば、正義により魂が神の前で保全されなければ、世界の存在に意味はない。正義がなければ、個々人の存在に意味がないのと同様に、生命原理である魂以上に人間にとっては重要なものはなく、その魂は正義なしに維持されない。詩人は言う、魂は褒めたたえるために生きる、と。「塵は汝を褒めたたえんや、汝の真理を宣べ伝えんや」(Ps.30:16)。われらの罪を悔い改め信に立ち帰ること、それが選ばれた少数者のその都度の道である。
残りの者は国家において生きていることを正面から引き受け、司法制度等の国法に従い懲罰の配分的な正義のもと、法に従い秩序を保ち義務を果たすことであろう。「われらはわれらに賜った恩恵に即して異なる賜物を持っている」(Rom.12:6)。そこでは為政者のタレントを持つカエサルは自らの心奥に立ち帰り、そのつど罪を悔い改めて、譲歩された人間中心的な世界で統治者として自らの責任において、国家の安寧と秩序を維持すべく国を法のもとに正義にかなって統治するであろう、神の国をめざしつつ。そこに矛盾がないとしたなら、二種類の正義があり、信の律法により業の律法が秩序づけられており、配分的正義は愛により基礎づけられているからである。そして愛は信により基礎づけられていた。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣をあげず、もはや戦うことを学ばない」(Is.2:4)。
5「狭い門から入りなさい、滅びに通じる門は広い」(Mat.7:13)
山上の説教は良心による道徳の内破とともにこの世界に何ら頼るもののない最も低い人々に向けて語られている。神に嘉みされる心魂の態勢が八つ挙げられ、イエスはその心魂を祝福する。それは、ひとは神に向けて造られているからであり、後の日に慰められ、神に出会うと励まされる。この世のいかなるものによっても満たされないその霊によって貧しい者、悲しんでいる者、柔和な者、義に飢えそして渇いている、憐れむ者、その心によって清らかな者、平和を造る者、義のために迫害されている者を神は祝福するが、十字架上のイエスはまさにその一人であった(Mat.5:1-10)。御子の派遣とは死に打ち勝ち天国で神にまみえるその力を人類に知らしめることであった。イエスは言う、「これらのことを話したのは汝らがわたしによって平安を得るためである。汝らには世で苦難がある。しかし、雄々しかれわれ既に世に勝てり」(John.16:33)。
聖書は明確に神の意志に即する残りの者たちに関係の正義を教え、いかなる立派な行為よりも手前に神との関係を正すことを教える。ここに人間としての本来性があるからである。これら八福は実は本来的人間のこの世界にある現実を示している。闘いなしにはない、しかしそれは信仰の正義の闘いであり、この信仰を持ち続けるための闘いである。この世界のどん底に落とされても、信仰を持つことはできる。信仰とは、知識や立派な人格などとは異なり、「欲すること」と「行うこと」が同時でありうるわずかなことがら、根源的なことがらである。それ故に、二心さえなければ、幼子のごとくでありさえすれば、誰もが持ちうる心の態勢である。
結論
イエスはガリラヤの野辺に招きたまう。「疲れたる者、重荷を負う者、われにきたれ。汝らを休ませてあげよう」(Mat. 11:29-30)。「わたしは汝らを残して孤児(みなしご)とはせず」、「わたしが去るならば、わたしは助け主を汝らのもとに送るであろう」、そう言われる方である(John.14:18,16:7)。イエスはその言葉に偽りがなく、彼は山上の説教を生き抜き、また山上の説教の故に死んだ。「神はご自身の独子を賜るほどにこの世界を愛したまうた」(John. 3:16)。イエスを介して派遣された聖霊は山上の説教における道徳的存在者としてのひとの究極的な在り方を実現させるそのような聖性に相応しい。かの聖なる方がひととしてガリラヤの野辺を逍遥されたのである。
ひとはガリラヤの野辺をただまっさらな目と心をもって歩かれたキリストのところになら行くことはできる。彼はどこまでも信実であり、憐みたまう。彼は共にわれらの軛を共に担ってくださる。「わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしがその心によって柔和でそして低いことを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」。イエスの軛に繋がれ歩調に合わせて歩むとき、栄光を捨てひととなった低さとそれに基づく弱小さへの憐みと柔和さが次第に伝わってくる。キリストと共に担う軛とは自らが神の子であるとの信仰であり、その荷とは彼から伝わる柔和と謙遜であるが、キリストの低さと共にあることによりこの世から解放された者に伝わる生の喜びと軽やかさである。復活の主がいますところ、父なる神が聖霊において共にいましたまう。
良い木は良い実をむすぶ 最終回―クリスマスに想う―
良い木は良い実をむすぶ 最終回―クリスマスに想う―
2022年12月18日
[本年最終です。今年度31回目になります。今週は先週の続きで「良い木は良い実を結ぶ」のその5最終回です。録音は結論までです。よいクリスマスと新年をお迎えください]。
聖書
「狭い門から入りなさい、滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。
羊の衣のうちに汝らのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である。汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアカンサス(ハアザミ)から葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良い木が良い果実を生み出すように、腐った木は悪い果実を生み出す。良い木は悪い果実を生み出すことはできず、また腐った木は良い果実を生み出すことができない。良い果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう。
「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入ることになるのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入ることになるであろう。かの日には多くの者たちがわたしに尋ねるであろう、「「主よ、主よ」われらは汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げたではありませんか」。そしてそのときわたしは彼らに応じるであろう、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。
かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである。これらのわが言葉を聞きそして行わない限りの者は皆、自分の家を砂地のうえに建てた愚かな者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけた、そうするとかの家は倒れたそしてその傾きは大きかった。
イエスがこれらの言葉を終えられたとき、群衆は彼の教えにとても驚いてしまった。というのも、彼は権威ある者のように、彼らの律法学者たちのようにではなく、彼らに教えたからである」(Mat.7:13-29)。
1 クリスマス
クリスマスです。感謝です。闇は光に打ち勝ちませんでした。救いの光が燦然と輝き、われら人類の歩むべき真っすぐな道を照らしています。この道を歩む限り天の父の子となることができる、その幼子の信が不思議な平安とともに沸き起こります。信じることができるだけで嬉しい、そのような思いに満たされます。わたしのなかに自らを救い出す力のないことを確かなこととして認めることができます。無力です。死に勝ち給うた主イエスのあの復活の永遠の生命のなかにわれらが憩うとき、彼の柔和と平安がわれらを包みます。「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことです。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙りが伝わります。栄光を捨ててのご自身の自己卑下が弱小者への祝福を裏付ける。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂くことにより、ひとは謙遜を学び自らより弱小者への憐みを頂き、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者になることができます(Gal.6:1,Mat.5:9)。彼は「われ既に世に勝てり」と言われた方です。
不思議な平安、不思議な力これはすべてわれらの魂はこの人生で終わりではないという信から来ます。信仰が生活になっているひとには基本的にその平安のうちに日々を過ごします。たとい何が起きても、立ち帰る場所が、光の場所があります。
山上の説教はこの世界に何ら頼るもののない最も低い人々に向けて語られています。「祝福されている、その霊によって貧しい者たち」(Mat.5:3)。実はひとはこの世のいかなるものによっても満たされないそのような霊の貧しさを抱えているのです。神に向けて造られているから、神を仰がざるをえないのです。そして御子の派遣とはこの死に打ち勝ったその力を人類に知らしめることでした。主イエスと共に生きる限り、死の恐れは取り除かれます。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名(みな)にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(Ps.23:1-4)。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適うひとにあれ」(Luk.2:14)。
宇宙一切を統べ治めたまう神がひととなったこと、これがクリスマスの使信(メッセージ)です。80億の人類は大丈夫なのです。ひとりも取り残されないのです。11世紀の神学者アンセルムスは聖書を引用せずに、理性のみにて神は単に思考においてあるだけではなく、ものごとにおいてもあり、生きて働いていたまうことを証明しました。弟子のボゾは無神論の立場をひきうけ、アンセルムスに次から次に懐疑をぶつけます。すべて解決したときに、ボゾはこれらの長い対話の終り近くで、信じうることそれ自身が喜びであることを表白します。それは信が明確なロゴス(理ことわり)をもっていたことの認識からくる喜びです。「何もこれ以上理に適うものはなく(nihil rationabilius)、何もこれ以上甘美なるものもなく、何もこれ以上、世が聞くことのできる望ましいものはありません。私はこのことから、わが心がどれほど喜びにあふれているかを語ることができないほどの信を抱きます。といいますのは、神はこの御名のもとにご自身に向かういかなる人をも受け入れたまわないことはないと私には思われるからです」 (Cur Deus Homo 「何故神はひとととなったか」II19)。
2 山上の説教の三種類の解釈
山上の説教を中心に今年度30回学んできました。ほとんど休まずに参加してくれた君たちにお礼を言いたいとともにこの喜びをあらためて分かち合いたい。信じることができるというだけで嬉しいのです。福音は理にかなったものなのです。そして永遠の生命の力溢れるものなのです。
山上の説教をめぐる幾つかの解釈をみてきました。道徳的な次元で自らの力で良い実を結ばないものは火で焼かれてしまう。立派な行為をうみだす者だけが「天の父の子」となるという理解。ウルリヒ・ルツは神についてこう語っていた、「必要な場合には業なくしても救う者なのではない。そうではなくて、キリストは[業の律法の]義を行う者に生命に至る道を開くのである」(U(ウルリヒ)・ルツEKK新約聖書註解I/1p.594小川陽訳)。これを律法主義的解釈と呼ぶ。
或いは、良き木と良き実を一なる全体として捉えることが正しいとする理解。ユリウス・シュニーヴィントは「比喩的にではなく―全体的人間とその業とは一つのものであり、一つの認識である」と言うJ. シュニーヴィントNTD 新約聖書註解別巻『マタイ福音書』p.211量義治訳)。。これは原因と結果を媒介する聖霊の介在のもとに個々人を全体として捉え、山上の説教はキリストの憐みにより満たしうるとする理解である。これを聖霊論的解釈と呼ぶ。
或いは、やはり誰も山上の説教を生き抜くことはできず、その律法成就の不可能性への審判を通じて信仰に招くという理解。これをルター主義的であり律法の審判から福音に追いやる断絶的解釈或いは神頼みの信に導く解釈と呼ぶ。エドワルド・シュワイツァーは道徳的次元に留まり、常に聖霊の媒介の働きを前提にする者に対してこう問う。「良い人間が必然的に、自動的に良い実をもたらすということを、或いは悪い人間がそもそも良い人間になることができないということを意味していないのだろうか」というものであるE.シュワイツァー、NTD 新約聖書註解『マタイ福音書』p.257佐竹明訳)。これは神頼みのであり、信仰も責任ある自由のもとでの決断ではなく、律法を守りえない者の苦肉の策という敗北主義的な理解に留まる。「それではわれわれには、ルター派の正統主義と共に、山上の説教は、―それを満たすことができないのであるから―審きであって、聴衆にその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすように仕向けている、と理解する道しかのこっていない、ということなのであろうか」とシュワイツァーは問う。イエスは山上の説教において急進化させ内面化させてはいるがモーセ律法の枠のなかに留まり、山上の説教は福音に追いやる機能を担っていると主張される。モーセ律法と福音のあいだの緊張関係、断絶が強調されるが、山上の説教を語られるイエスご自身は野の百合空の鳥を愛で、天の父の子となることに業と信のあいだに分断を見出すことは出来ない。
また聖霊論的解釈、断絶解釈においては人間の責任ある自由が全く問われないことになる危惧が生じる。ルツは言う。「このテーゼに対しては繰り返し繰り返し、パウロの回心やダビデの姦淫が異議に持ち出された。そして最終的には、その解決は人間はbona voluntas(良い意志)を持っている限り、良い木なのである、というものであった。ルターは良い木を信仰であるとした」(ルツ p.587)。ルター的な解決は心魂の根底に信仰があるか否か、その良い意志だけが問われており、その信仰はそれ自身として良い木として自動的に即ち聖霊の助けのもとに良い果実を生み出すと理解されよう。それゆえに「全体的人間」が語られうる。しかし、はたして人間を常に聖霊の援けのもとに理解し、人間の身体を聖霊が「自動的に」また機械的に注がれる管のように理解することは人間論として正しいのかと問われることになるであろう。
3山上の説教の文脈に留まる解釈の提案―三つの解釈に抗して―
われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことをも信じている。カルヴァンは「神の前とひとの前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う(Rom.8:9への注解)。その意味で信じることの内容からして、今・ここで信じるさい、聖霊が共に呻きをもって執成してい給うという信は正しい。シュニーヴィントは信じることは信じせしめられることだというルター主義的な信仰理解を展開しており、働き(エルゴン)上正しい。
それに対して、山上の説教をそれ自身として理解しようとするとき、イエスは道徳的次元にとどまっていることが指摘されよう。彼はそこでは「聖霊」への言及もなさず、また所謂奇跡をも遂行することはない。「まず神の国とその義を求めよ」や「信わずかな者たちよ」(6:30)という叱責に見られるように信仰への招きは当然なされてはいるが、「信仰」や「罪」という語句もイエスにより語られることはない。道徳的次元に踏みとどまり、屹立しているように思われる。このような聖霊の媒介を要求することはできないのではないかが問われよう。全体論や分断論のような過剰解釈を避けるとき、残されるのは律法主義的解釈かということになるが、それは信仰への招きがある限り、やはり木の良さの議論から展開されねばならない。
3:1カトリックとプロテスタントの和解
これらの主張にどのように応答できるであろうか。まず、カトリックとプロテスタントの立場の和解について簡単に振り返り、そのうえで山上の説教そのものから応答を試みたい。パウロはカトリックもプロテスタント双方とも言わば半分づつ正しいことを「言葉と働きを通じて」(Rom.15:18)既に明らかにしていた。パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)として、神の前とひとの前を理論(ロゴス)上分けて人間中心的に語ることを許容していた。そこでは人間の魂の態勢・実力として有徳性を語ることができる。立派な人間とそうでない人間のいることが当然のこととして認められる。ルター主義的には人間は「蛆虫の詰まった頭陀袋」であるからには、右手で為す善行を左手に知らせないとしたなら、それは神がキリストにあって為し給う奇跡ということになる。他方、働き(エルゴン)上、パウロは「愛を媒介にして働いている信仰が力強い」(Gal.5:6)と語るように、信の根源性故に信じることから愛が生まれるという一本道については明確な主張をなしていた。もちろんイエスご自身「まず神の国とご自身の義を求めよ」と信に招く。そして信仰内容として、今・ここでキリストの十字架にある神の憐み故に神に罪赦され、愛されていることをキリストにあって信じる。理論(ロゴス)と実践(エルゴン)、言葉と行いをこのように分け綜合する限りにおいてカトリックもプロテスタントも力点の相違はあれ正しかったのである。このような事情であるとき、山上の説教の律法主義的解釈は拒絶されねばならない。
3:2山上の説教が語られた文脈
ナザレのイエスは言葉と行いにおいて山上の説教を成就すべく信の従順を十字架まで貫かれた。イエスご自身は旧約の伝統のなかに留まったが、新しい葡萄酒であったために、古い革袋を期せずして破ってしまった。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けてそして酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。イエスは自ら神の子であることの信のもとに山上の説教を身をもって成就した。新約においては仲保者、和解の執り成し手がいますがゆえに、旧約におけるように直接的な人間の側からの罪と償いの犠牲の交換の提供は、愛のもとでの仲保者を介した間接的な和解となる。しかもそれは神の右の座にいます仲保者故に永続的な和解であり、もはやいかなる犠牲や献げものの要はなくなった。
イエスご自身はこの信の従順を成し遂げる途上において山上の説教を語られた。この現場性、途上性を忘れてはならない。もし十字架から降りてきてしまったなら、神はナザレのイエスにおいて信の従順を完遂したとは看做さず、信の律法の媒介者とはされなかったかもしれない。そのような緊張のなかでイエスは一挙手一投足を歴史に刻んでいた。
聖書は信(信仰)と義(正義・公正なさばき)と愛(憐み)を最も大切な魂の在り様として捉えている。イエスは旧約聖書に基づき父なる神の意志、律法を一つの体系のなかで捉え、軽重を明確に判別している。彼は言う、「ああ、なんということだ、汝ら、律法学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばき(正義)そして憐みそして信を蔑(ないがし)ろにしている」(Mat.23:23)。彼はここで正義と憐みそして信を律法のなかで重要な戒めとして位置づけた。神ご自身が信であり、正義であり愛でありたまうことに基づき、これらの三つが神の意志として最も重要であると語られている。
イエスは義と愛と信これら三つのなかで、この途上の生においては直接まみえることのできない神に向かう根源的な心魂の態勢である信を基礎にして義と愛の両立に向かった。「まず神の国とご自身の義とを求めよ」(Mat.6:33)。山上の説教の純化された道徳を遂行する手前で、まず神を仰ぎ御国と神との正しい関係を求めることが「まず」第一になすべきこととして語られている。自らの道徳的状態の自省ではなく、神を仰ぎ見ること、即ち信じることが最も大切なことであるとされる。これによりパリサイ人の義に優る義をえることができ、敵をも愛することができるようになると、山上の説教は展開されている。
パウロも愛が「義の果実」(Phil.1:11)、つまり信に基づく正義が生み出す肯定的な産物であるとする。そこで正義はもはや「目には目を償い」(Exod.21:24)のモーセ律法の比量的な正義ではなく「信に基づく義」(Rom.10:6)、「神の義は・・信に基づき啓示されている」(Rom.1:17,cf.Gal.3:16)、「キリストの信を介した義」(Phil.3:9)と特徴づけられる神が信に基づき義であることからひとも同様にキリストの信に基づき義とされる神の前の正義を意味し、その義と愛、正義と憐みの両立が打ち立てられる。イエスは信の従順を貫いた、そしてそこにおいて公正なさばき・正義と憐み・愛が和解した。これが福音である。
4 究極の道徳と究極の救いの確かさ
われらはここで生身のイエスは十字架と復活への狭くまっすぐな道への歩みの途上であることに思いをいたさねばならない。彼は洗礼者ヨハネの預言のもとで自らメシアであるという自覚のなかで(旧約)聖書にもとづき神のみ旨をその一挙手一投足において実現しつつあるそののただなかで、この説教を遂行している。福音書記者マタイは、イエスの死後、たとえその生涯を回顧する仕方で、またパウロの神学を前提にした仕方であるにしても、その途上の彼の説教を報告している。マタイはイエスがそのようなリアルタイムの状況において旧約の伝統を極性化しつつ、メシアとして内側から破っているその現場を報告している。
山上の説教は厳しい教えの連続であった。これまでわれらは、山上の説教がユダヤ人の通常の道徳や宗教観を前提にして、その土俵のなかで語られたことを、即ちイエスの議論が対人論法であることを前提に分析を試みてきた。イエスは自らがユダヤ人であることそしてその伝統を正面から誠実に引き受けた。彼はモーセ律法を良心に訴えつつ急進化しまた内面化していった。ユダヤ人は自分たちが神に律法を付与された選びの民であり、律法を遵守する限りにおいて義人であり、異邦人や罪人たちと異なるという理解をもっていた。さらにこの世界とは別に天国と地獄があるという二世界的理解を持っていた。敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。重要なことは彼らの偽りが、道徳的次元だけに訴えることにより、誰にも同意されうる仕方で暴き出されたことである。
イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り抜けていた。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなくこれらは神ご自身の認識としてあり、神に明らかなことがらとして「汝らの良心・共知(sun-eidēsis, con-science)にも明らかになっていることを望む」とパウロにより共知が目指されていることがらである(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。
良心は「共知」であるが、次第に共知の相手方は深まりうる。万引き家族の一員であるとき、窃盗は良心の呵責をもたらさない。家族とのあいだで共知があるからである。「天の父」との共知が成立するとき、われらはキリストの贖いにおいて良心の宥めをうる。神がゴルゴタの十字架においてわれらの古きひとの死を理解していたまうからである。共知はこのように展開していく。
イエスはあの神の国の宣教のただなかでユダヤ人であることに内在し、その内側からその限界を突き破り、広やかな福音を展開するその歩みの途上でこの説教を行っている。「生命であり道」であり給うイエスご自身が山上の説教を言葉の力だけで遂行されたのであった。そしてその生涯はその言葉を生き抜いた、そのことが福音書において報告されている。その限りにおいて言葉は生命を伴いそしてそれ故に堅固であり「権威あるもの」であったに相違ない。「権威ある」とは単に「彼らの律法学者のように」言葉だけ立派なことを語るという印象を与えず、行為を伴っているという印象を与えるものであったに相違ない。ただしイエスご自身はたとえ生命に溢れてこの言葉を発したとしても、道徳的次元のみにおいて言葉だけで理解されるそのような議論を展開しており、道徳的良心において理解されうるそのような議論を展開している。
自ら胸に手を当てて顧みるとき、山上の説教は、それは単にユダヤ人だけに適用されるものではなく、人類の誰かにより語られねばならなかったその究極の語りであることにひとは納得するであろう。それは人類すべてに妥当する究極の道徳であり、言葉の力によってのみ展開される。このことの故に、或る人々にはこの山上の説教がある限り、人類に絶望することはないと思われることであろう。ましてや語った方は自らの言葉を死に至るまで生き抜いた永遠の生命に満ち溢れた方であった。少なくとも人類には一つの実例が与えられている。偽り、フェイクで満ちており、何も確かなものがないそのような時代において、このように人間の究極が道徳的次元のみにおいて語られそして一つの事例があるということ、ただその歴史的事実に感謝し賛美する。
これを山上の説教の「十字架の道の途上の解釈」と呼ぶ。これは何らか他の三つ、律法主義的解釈、聖霊論的解釈そして審判から福音への断絶的解釈を乗り越える言葉と行いの包括的な理解であると思われる。
7結論
クリスマス。神の愛のあらわれであり唯一の人類の希望の光であるキリストの誕生を感謝し賛美する。キリストがここでは言葉の力だけに訴えひとの本来のあるべき姿を明確に示し、そしてそれを実現させるべく自ら十字架の道を歩まれた。それ以上にひとは求めるものをこの世界にもたないであろう。
良い木は良い実をむすぶ その四
良い木は良い実をむすぶ その四
2022年12月11日
[アドヴェント(待降節)の日々です。今週は先週の続きで「良い木は良い実を結ぶ」のその4です。録音は5節までです]。
聖書
「狭い門から入りなさい、滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。
羊の衣のうちに汝らのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である。汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアカンサス(ハアザミ)から葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良い木が良い果実を生み出すように、腐った木は悪い果実を生み出す。良い木は悪い果実を生み出すことはできず、また腐った木は良い果実を生み出すことができない。良い果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう。
「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入ることになるのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入ることになるであろう。かの日には多くの者たちがわたしに尋ねるであろう、「「主よ、主よ」われらは汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げたではありませんか」。そしてそのときわたしは彼らに応じるであろう、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。
かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである。これらのわが言葉を聞きそして行わない限りの者は皆、自分の家を砂地のうえに建てた愚かな者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけた、そうするとかの家は倒れたそしてその傾きは大きかった。
イエスがこれらの言葉を終えられたとき、群衆は彼の教えにとても驚いてしまった。というのも、彼は権威ある者のように、彼らの律法学者たちのようにではなく、彼らに教えたからである」(Mat.7:13-29)。
1心に常に鳴り響く山上の説教
あらためてこの山上の説教をしめくくるこの箇所の厳しさを思う。山上の説教に立ち帰るたびに、自らの心の奥に宿る良心が喚(よ)び覚まされる。到底天国に入ることはできないと思う。子供のころ材木屋であった我が家では建築資材に囲まれて育った。母親から「土台はしっかり建てましょう」と語られたことを思い出す。自分が建築する人生という家は嵐にあっても倒れない固い岩盤の上に建てられるものであろうかと自問したことを思い出す。まがりなりにも70年近く生きてきたが、戦々恐々薄氷踏むがごとき日々はかわらない。人間的には何らかの態勢を培ったとは言えるかもしれないが、自分の心魂のなかには救いはないという感じはかわらない。キリストを仰ぐ。
ナザレのイエスは生前に公生涯3年の始めのころにこの説教を丘の上で多くの群衆に向かって風に乗せてシャウトしたのであろう。少人数に静かに語ったこともあろう。この究極の道徳を人類の誰かが語ったということ、そしてそのひとはその言葉を偽りなく生き抜いたということ、そのことのゆえに人類にまた自らに絶望しない。ひとを傷つけ、争いあいながらも、あらためて立ち上がり、彼についていこうと思う。山上の説教のメッセージは、明確に誰であれ、愛しているなら、敵をも愛しているなら、そのひとは正しい信仰のもとにいるということであった。正しい信なしに愛を実現することはできない。良い木は良い実を結ぶ。良い信仰は良い愛を結ぶ。これがイエスの生涯において遂行されたことであった。
山上の説教を割り引かずに聞くこと、そのとき、われらの心には何が生じるのか。偽りの感覚だ。良心は共知である限り、イエスと共に人間の道徳的であるその本性を知ろうとするとき、胸に手をあてると彼のようにありえない自らの偽りを知る。人類の、学寮の未来を明確に知ることができず偽預言者と同じように自己中心的にバイアスのかかった視点からものごとを見ていることに気付かされる。それでもそのつど判断しながら生きていかねばならない。自らに厳しいひとたちは魂の深いところから考え語り憐みをもってひとびとを導いていることであろう。学寮の若者たちをあずかる者として各自の魂の在り処を正確に知り、しかも憐みをもって、最も必要なときに正しい判断を伝え年長者としての務めをなすことができたなら、どんなに双方にとって楽しく、幸せなことであろうかと思う。いたらない者であることを詫びねばならない。
それでも彼は招いてくださる。「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙りが伝わる。栄光を捨ててのご自身の自己卑下が弱小者への祝福を裏付ける。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂くことにより、ひとは謙遜を学び自らより弱小者への憐みを頂き、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者になることができるであろう(Gal.6:1,Mat.5:9)。
もう一度立ち上がる。木は実によって知られる。果実は結果であり、木はその原因、元である。日曜の話においては常に心魂(こころ)における信の根源性に注目してきた。あらゆる良き行い、果実の基礎に何らかの良きものに対する信が不可欠であることを毎回の聖書講義で確認してきた。種蒔きの譬えにおいて、イエスは茨や荒れ地に蒔かれた種との比較において、良き地に落ちた種は五十倍、百倍の実りをもたらすと語った。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」(Mac.4:20)。主観的にはどんなに自らの成育環境が殺伐とし、不毛に思えても、自らが良き土地、環境、バックグラウンド、背景のもとに蒔かれたことを信じることなしに、成長し豊かな人生をもたらすことはできない。
神に愛されていると信じる者はナザレのイエスと同じホモサピエンスであるその力能に感謝しつつ、自らの力能を発揮させる。われらに与えられたすべての力能は愛に収斂する。われらは親を選べず、この人生を始める。愛するためにわれらは生まれてきた。愛に至る途上にあって、様々な苦難も人生の与件も自らには必要であったと信じることなしに、肯定的、創造的な生は生まれてこない。何かを要求するのではなく、自ら信じていることがら、信の内容が真実であることを証すなわち証明しようとする。そしてその証明の過程で果実を吟味して、そこに何か問題があれば、フィードバックによりその根である信の内容、理解に修正が加えられることになるであろう。木は実によって知られる。人生は木と実の間の往復、吟味により、よりよいものになっていく。
このように語ってきた。神の愛を信じる者はイエスの軛につながれ歩む。彼の歩調にあわせて共に歩むこと。いつも彼の柔和と謙遜を確認しつつ歩むこと。そのとき良い果実が生み出されていくと信じる。その信に立ち帰ることが人生となる。
2心魂の実力としての態勢と恩恵―立派な業か信仰のみか―
山上の説教においては、イエスはモーセ律法が与えられたことを誇る伝統的なユダヤ人の立場に身を置き、基本的に道徳的次元に留まっている。端的に木は実によって知られると言われる。他方、端的に「まず」と、良い木となることを求めるよう教え、道徳はその果実であると、不可逆的な、変えることのできない順序を確認している。「まず神の国とご自身の義を求めよ」(Mat.6:33)と信仰に招く、「信仰」という言葉は用いられないが。この順序を確認しつつ、イエスはユダヤ人の伝統的立場に身をおき、モーセ律法、道徳の極限を示しつつ、道徳の究極は愛によって満たされることを告げ知らせている。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝にどんな報いがあろうか」(Mat.5:43-45)。
厳しい戒めである。殺され、インフラが破壊され、電気も水もないウクライナ人にプーチンを愛せよと言われる。あまりに厳しい教えのように思われる。山上の説教は「これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう」と結ばれていた。良い行いを結ばない者は火で焼かれてしまうと語られる。
信仰こそが良い働きを生むことは「求めよ、そうすれば与えられる」(Mat.7:7)から導かれるはずである。神を求めること、神を信じたいと思うことと信じることは同時であるそのような心魂の根源的な行為であった。他方愛したいと思うことと実際愛すること、良い働きのあいだには様々な葛藤や障害が待ち受けており同時であることは難しい。この時間の流れの不可逆性のなかで、信じることから次第に愛がうまれてくる。先週ウルリヒ・ルツによる良い働きを生む者を「キリストは助ける」という解釈を吟味した。ルツが「「イエスは[神による]自分の派遣使命において律法と預言者[であること]を成就し、教会に義の道を歩む可能性を贈る方である」と語るとき、この可能性はわれらの信に基づく義と義の果実である愛に至る可能性のことであると理解した。ルツは「必要な場合には業なくしても救う者なのではない。そうではなくて、キリストは[業の律法の]義を行う者に生命に至る道を開くのである。キリストはそのようなものを、そしてそのような者のみを、助けるのである」と語るとき、この可能性を正しく理解していない。「可能性」とは神の前の可能性なのかが問われる。神の前では一切が明らかであるのではないのか。人間的な可能性と神の前の可能性の明確な判別が求められよう。聖霊が神の前とひとの前の相互を媒介する働きである限り、山上の説教においては確かに聖霊は直接語られないが、イエスご自身は実質的には聖霊の助けのもとに神の国を一挙手一投足において運び伝達していた。神の前では良い木と悪い木は、さには「義の道」を誰が歩むかは明確に知られていることであろう。ここでルツが言う「可能性」とはわれらの可能性、良い実を結ぶ善に至る力能のことでなければならない。イエスは山上の説教のみならず、あらゆる局面でひとの悔い改めの可能性、義に至る力能を認めている。これは疑いえない(e.g.Luk.13:3,Mac.6:12,John.8:11)。悔い改め幼子の信に立ち帰ることがまず求められている。ルツは信の可能性、力能と信から愛への不可逆性を捉え損ねた(U(ウルリヒ).ルツEKK新約聖書註解I/1p.594小川陽訳)。
かくして、ひとの前のことがらとしては「自分たちの実によって測られる備えのないどんな心情倫理[心の内側の良心に陰りがないことが重要と考える立場]も、この山上の説教の結びの前ではぶち壊される」という強い主張はなされえないはずである。イエスは、ご自身の信の生涯において、心魂の根底における「心情倫理」の「備え」そのものが「可能性」そのものが恩恵により備えられてきたことを否定することはないであろう。彼は野の百合空の鳥を見るよう招く。「空の鳥をよく見よ、種も蒔かず、借り入れもせず、藏に収めもしない。だが、汝らの天の父は鳥を養ってくださる」(Mat.6:26)。まず神の愛を信じるよう、イエスは招きたまう。そのように、イエスはわれらが良い木であると信じるよう招きたまう。神の愛のなかで、信仰が成立するからである。信じるとは今・ここで神に愛されていることを信じることである。
3 ユリウス・シュニーヴィントによる「全体的人間」の解釈
立派な行為ではなく所謂「信仰のみ」にすがるルター主義者たちにとっては、ルツのような主張はなされない。シュニーヴィントは言う、「19節[切り倒され火に投げ捨てられる]の威嚇は文字通り3:10の洗礼者の説教からでている。木が良くて、実も良いか、あるいは反対か[悪―悪]である。比喩的にではなく―全体的人間とその業とは一つのものであり、一つの認識である。この認識は宗教改革において再びよみがえり、パウロにおいて(たとえばRom.6:21-22[どんな実を結んだか]、Gal.5:22-23[霊の実])同じ比喩の適用において与えられている。心と行為の連関はわれわれにとって山上の説教のあらゆる文言において、一番最後には6:21[汝の宝のあるところ、そこに汝の心がある]において、明瞭になっている。ただ新しい心が新しい行為を生むとこれまで言われていたのに対して今は逆に行為から心が推論されている」(J. シュニーヴィントNTD 新約聖書註解別巻『マタイ福音書』p.211量義治訳)。
すなわちシュニーヴィントは「全体的人間」にまなざしを注ぎ、「新しい心」をもったひとをトータルに一なる者として考察しなければならないと主張する。歴史のなかにあり時間の過去から現在そして未来に流れていくその経過を考慮するとき、信なしには愛は生まれないが、木とその果実、信と愛を全体に言わば無時間的に、神の前のことがらとして考察するよう促す。全体的人間においては心が清ければそこから生まれる身体の行為も清く、身体の行為が清い場合にはその心も清い。山上の説教は統一された全体としての人間という視点から語られており、それを離れた場合には心情倫理と責任倫理[行為にあらわれる結果が重要という説]ないし、心と身体の振る舞いのあいだになんらかの籬(まがき)をもうけてしまうことになると主張する。この一なる全体性の故にこの説教においては善い行為の側から善い心が語られる。パウロの「聖霊の実」(Gal.5:22)がシュニーヴィントにより言及されているように、「新しい心が新しい行為を生む」この全体的な人間は聖霊により統一されていることを要求している。信仰という根源的な態勢からの聖霊の援けの中での身体との分裂なき行為の産出がめざされる。
これはルター主義的解釈である。信じることは信じせしめられることであり、常に聖霊の媒介があると言う立場である。パウロはエルゴン(働き)上同意するであろうが、ロゴス上神の前とひとの前を分けることもあり、ロゴス上聖霊の媒介への言及なしに「神の知恵」(1Cor.2:7)を語り、「汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)人間中心的に語ることもある。
4 ルター的解決に対するエドワルド・シュワイツァーにおける道徳的次元に留まる解釈
常に聖霊の媒介の働きを前提にする者に対するここでの一つの問いは「良い人間が必然的に、自動的に良い実をもたらすということを、或いは悪い人間がそもそも良い人間になることができないということを意味していないのだろうか」というものである。ルツは言う。「このテーゼに対しては繰り返し繰り返し、パウロの回心やダビデの姦淫が異議に持ち出された。そして最終的には、その解決は人間はbona voluntas(良い意志)を持っている限り、良い木なのである、というものであった。ルターは良い木を信仰であるとした」(ルツ p.587)。
ルター的な解決は心魂の根底に信仰があるか否か、その良い意志だけが問われており、その信仰はそれ自身として良い木として自動的に即ち聖霊の助けのもとに良い果実を生み出すと理解されよう。それゆえに「全体的人間」が語られうる。しかし、はたして人間を常に聖霊の援けのもとに理解し、人間の身体を聖霊が「自動的に」また機械的に注がれる管のように理解することは人間論として正しいのかと問われることになるであろう。
ルターにとって信仰は神の恩恵であり、信じることは聖霊の媒介により信じせしめられていることである。そこでは愛の業が生み出されると主張された。これは道理ある主張である。われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことをも信じている。カルヴァンは「神の前とひとの前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う(Rom.8:9への注解)。
それに対して、山上の説教をそれ自身として理解しようとするとき、イエスは道徳的次元にとどまっていることが指摘されよう。彼はそこでは「聖霊」への言及もなさず、また所謂奇跡をも遂行することはない。「まず神の国とその義を求めよ」や「信わずかな者たちよ」(6:30)という叱責に見られるように信仰への招きは当然なされてはいるが、「信仰」や「罪」という語句もイエスにより語られることはない。道徳的次元に踏みとどまり、屹立しているように思われる。このような聖霊の媒介を要求することはできないのではないかが問われよう。
E.シュワイツァーは山上の説教のルターの解釈をそのような道徳的次元に限定したうえで問う、「それではわれわれには、ルター派の正統主義と共に、山上の説教は、―それを満たすことができないのであるから―審きであって、聴衆にその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすように仕向けている、と理解する道しかのこっていない、ということなのであろうか」(E.シュワイツァー、NTD 新約聖書註解『マタイ福音書』p.257佐竹明訳)。この理解のもとではイエスは山上の説教において急進化させ内面化させてはいるがモーセ律法の枠のなかに留まり、山上の説教は福音に追いやる機能を担っていると主張される。これらの主張にどのように応答できるであろうか。まず、カトリックとプロテスタントの立場の和解について簡単に振り返り、そのうえで山上の説教そのものから応答を試みたい。
5 カトリックとプロテスタントの和解
その後の歴史において、カトリックが、ひとは責任ある行為主体であり、相対的自律性を持つものとして、神の前とひとの前を少なくとも理論上判別することを許容し、有徳な人間、聖人を語る余地を残している。このアリストテレス哲学に対応する人間中心的にひとの心魂の有徳性を語ることができるとするカトリックの立場に対し、プロテスタントは働きのうえで神の前とひとの前を分けずに常に聖霊の媒介を要求する。そのカトリック的理解はパウロが、神の前の出来事を自らの出来事とすることが困難な人間の「肉の弱さ」(Rom.6:19)への譲歩として、人間中心的に語ることを許容している以上、道理ある立場であるように思われる。他方、ルターが主張するように、われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことも信じる内容に含意される以上、神の前とひとの前を働き上分けない彼らの主張も道理ある。
カトリックとプロテスタント双方ともそれぞれ道理があり、私はロゴスとエルゴン、理論と実践の相補的展開として常に今・ここの働き(エルゴン)において聖霊の働きを見るプロテスタントに対し、人間の心の態勢をそれ自身として語る有徳性の理論(ロゴス)を人間中心的に展開するカトリックの立場は補いあうものとして両立すると理解する。ひとの前と神の前を分けずに今・ここのエルゴンに留まるプロテスタントと肉の弱さへの譲歩から理論的に分節するロゴスを展開するカトリックは少なくとも矛盾することはない。
6山上の説教が語られたリアルタイムの状況
われらはここで生身のイエスは十字架と復活への狭くまっすぐな道への歩みの途上であることに思いをいたさねばならない。彼は洗礼者ヨハネの預言のもとで自らメシアであるという自覚のなかで(旧約)聖書にもとづき神のみ旨をその一挙手一投足において実現しつつあるそののただなかで、この説教を遂行している。福音書記者マタイは、イエスの死後、たとえその生涯を回顧する仕方で、またパウロの神学を前提にした仕方であるにしても、その途上の彼の説教を報告している。マタイはイエスがそのようなリアルタイムの状況において旧約の伝統を極性化しつつ、メシアとして内側から破っているその現場を報告している。
山上の説教は厳しい教えの連続であった。これまでわれらは、山上の説教がユダヤ人の通常の道徳や宗教観を前提にして、その土俵のなかで語られたことを、即ちイエスの議論が対人論法であることを前提に分析を試みてきた。イエスは自らがユダヤ人であることそしてその伝統を正面から誠実に引き受けた。彼はモーセ律法を良心に訴えつつ急進化しまた内面化していった。ユダヤ人は自分たちが神に律法を付与された選びの民であり、律法を遵守する限りにおいて義人であり、異邦人や罪人たちと異なるという理解をもっていた。さらにこの世界とは別に天国と地獄があるという二世界的理解を持っていた。敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。重要なことは彼らの偽りが、道徳的次元だけに訴えることにより、誰にも同意されうる仕方で暴き出されたことである。
イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り抜けていた。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなくこれらは神ご自身の認識としてあり、神に明らかなことがらとして「汝らの良心・共知(sun-eidēsis, con-science)にも明らかになっていることを望む」とパウロにより共知が目指されていることがらである(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。
良心は「共知」であるが、次第に共知の相手方は深まりうる。万引き家族の一員であるとき、窃盗は良心の呵責をもたらさない。家族とのあいだで共知があるからである。「天の父」との共知が成立するとき、われらはキリストの贖いにおいて良心の宥めをうる。神がゴルゴタの十字架においてわれらの古きひとの死を理解していたまうからである。共知はこのように展開していく。
イエスはあの神の国の宣教のただなかでユダヤ人であることに内在し、その内側からその限界を突き破り、広やかな福音を展開するその歩みの途上でこの説教を行っている。「生命であり道」であり給うイエスご自身が山上の説教を言葉の力だけで遂行されたのであった。そしてその生涯はその言葉を生き抜いた、そのことが福音書において報告されている。その限りにおいて言葉は生命を伴いそしてそれ故に堅固であり「権威あるもの」であったに相違ない。「権威ある」とは単に「彼らの律法学者のように」言葉だけ立派なことを語るという印象を与えず、行為を伴っているという印象を与えるものであったに相違ない。ただしイエスご自身はたとえ生命に溢れてこの言葉を発したとしても、道徳的次元のみにおいて言葉だけで理解されるそのような議論を展開しており、道徳的良心において理解されうるそのような議論を展開している。
自ら胸に手を当てて顧みるとき、山上の説教は、それは単にユダヤ人だけに適用されるものではなく、人類の誰かにより語られねばならなかったその究極の語りであることにひとは納得するであろう。それは人類すべてに妥当する究極の道徳であり、言葉の力によってのみ展開される。このことの故に、或る人々にはこの山上の説教がある限り、人類に絶望することはないと思われることであろう。ましてや語った方は自らの言葉を死に至るまで生き抜いた永遠の生命に満ち溢れた方であった。少なくとも人類には一つの実例が与えられている。偽り、フェイクで満ちており、何も確かなものがないそのような時代において、このように人間の究極が道徳的次元のみにおいて語られそして一つの事例があるということ、ただその歴史的事実に感謝し賛美する。
イエスは山上の説教を遂行し、われらはその途上の歴史にある彼からこの説教を受けている、その状況に身を置くことが求められている。確かに、その時点で純化された律法を守りえない者であっても、この厳しい道徳的内容を語る方自身についてくるよう招かれている。彼の言葉に偽りはなく「権威ある者」として彼はわれらに迫ってくることであろう。彼が旧約以来預言されていたメシア(救い主)であるか聴衆は決断を迫られている。イエスは言葉と行いをもってひとびとを救いだそうとされた。「行ってヨハネに伝えよ。盲目の者が見えるようになり、歩けない者が歩けるようになり、皮膚病の者が清められ、聞こえない者が聞けるようになり、死者は生き返り、貧しい者は福音を告げ知らされる。わたしに躓かない者は幸いである」(Mat.11:4-6)。
そしてわれらも同じ状況にある。ひとは人類に、道徳上、この山上の説教以上の何を要求することがあるであろうか。そしてそれを語る方が不思議なる力をもち聖霊を注がれる救い主であられた場合に彼以外に誰を、また何を待ち望むであろうか。
7結論
待降節(アドヴェント)を迎えている。キリストの誕生は神のわれらに対する愛に他ならない。感謝し賛美したい。キリストがここでは言葉の力だけに訴えひとの本来のあるべき姿を明確に示し、そしてそれを実現させるべく自ら十字架の道を歩まれた。それ以上にひとは求めるものをこの世界にもたないであろう。
良い木は良い実をむすぶ その三
良い木は良い実をむすぶ その三
2022年12月4日
[本日の録音は3.1まで]。
先週は岡崎新太郎先生をお迎えし、お話いただいた。先々週「良い木は良い実を結ぶ」のその2で一旦中断し、わたしは目覚めている僕の話を前講として行った。今週はあらためて木は実によって知られるの続きを考察したい。
聖書
「狭い門から入りなさい、滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。
羊の衣のうちに汝らのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である。汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアカンサス(ハアザミ)から葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良い木が良い果実を生み出すように、腐った木は悪い果実を生み出す。良い木は悪い果実を生み出すことはできず、また腐った木は良い果実を生み出すことができない。良い果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう。
「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入ることになるのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入ることになるであろう。かの日には多くの者たちがわたしに尋ねるであろう、「「主よ、主よ」われらは汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げたではありませんか」。そしてそのときわたしは彼らに応じるであろう、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。
かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである。これらのわが言葉を聞きそして行わない限りの者は皆、自分の家を砂地のうえに建てた愚かな者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけた、そうするとかの家は倒れたそしてその傾きは大きかった。
イエスがこれらの言葉を終えられたとき、群衆は彼の教えにとても驚いてしまった。というのも、彼は権威ある者のように、彼らの律法学者たちのようにではなく、彼らに教えたからである」(Mat.7:13-29)。
木は実によって知られる。果実は結果であり、木はその原因、元である。心魂(こころ)における信の根源性に注目してきた。あらゆる良き行い、果実の基礎に何らかの良きものに対する信が不可欠であることを毎回の聖書講義で確認してきた。種蒔きの譬えにおいて、イエスは茨や荒れ地に蒔かれた種との比較において、良き地に落ちた種は五十倍、百倍の実りをもたらすと語った。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」(Mac.4:20)。主観的にはどんなに自らの成育環境が殺伐とし、不毛に思えても、自らが良き土地、環境、バックグラウンド、背景のもとに蒔かれたことを信じることなしに、成長し豊かな人生をもたらすことはできない。
否定的に思われる環境も、今、この人生の救いの喜びに至っていることに或いは将来良き実を結ぶために必要であった、必要であるであろうという信が不可欠となる。信じる者の究極のオプティミズム(楽観主義)と言える。信は神の愛をどこまでも疑わないことである以上、そのように形容されるであろう。「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものと看做される。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される。ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」 (Rom.4:4-8)。さらにパウロは言う、「われらは知っている、神を愛する者たちには、計画に即して召された者たちにはあらゆることが善きことへと協働することを。なぜなら、ご自身は予め知っていた者たちを、御子自身が多くの兄弟のなかの長子となるべく、ご自身の子の形姿に合致した形姿として予め定められたからである」(Rom.8:28-29)。永遠の現在に生きたまう神の前では一切が明らかである。われらはその神により予め選ばれ、招かれていることを信じて、われらが愛と知識においてまたあらゆる感覚において満ち溢れ、人生における重要度の諸差異を識別するに至る。神に愛されていると信じる者はナザレのイエスと同じホモサピエンスであるその力能に感謝しつつ、自らの力能を発揮させる。われらに与えられたすべての力能は愛に収斂する。われらは親を選べず、この人生を始める。愛するためにわれらは生まれてきた。愛に至る途上にあって、様々な苦難も人生の与件も自らには必要であったと信じることなしに、肯定的、創造的な生は生まれてこない。何かを要求するのではなく、自ら信じていることがら、信の内容が真実であることを証すなわち証明しようとする。そしてその証明の過程で果実を吟味して、そこに何か問題があれば、フィードバックによりその根である信の内容、理解に修正が加えられることになるであろう。木は実によって知られる。人生は木と実の間の往復、吟味により、よりよいものになっていく。
2愛は信によってしか生まれないである。
聖書の使信(メッセージ)ははっきりしている。愛は信に立ち帰ることからしか生まれないと。信じるとは今・ここで神にイエス・キリストにおいて愛されていると信じることである。神の愛はわれら各人にイエス・キリストのあの生涯において明確に知らされている、このことを幼子のように受け止めることが信仰である。神は旧約聖書に報告されているアブラハムなどに対する約束に信実であった。その信実が正しいものであったことは、御子の派遣という愛により証されている。信に基づく正義、そしてその「正義の果実」(Phil.1:11)として愛が生まれる。パウロは言う、「汝らの中で善き業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると確信している。・・わたしが、キリスト・イエスの憐みの中で汝らすべてにどれほど心を燃やしているかは神が証人でありたまう。わたしは祈る、汝らの愛、知識においてまたあらゆる感覚においてますます満ち溢れ、汝らが[重要度の]諸差異を識別するに至ることを、それはキリストの日までに、神の栄光と賛美にいたるイエス・キリストを介した義の果実(karpon dikaiosunēs)を満たしてしまっていることによって、汝らが染みなく、咎めなき者となるためである」(Phil.1:6-11)。神が歴史を導いてくださると幼子のように信じる。残りの者たちはキリストが新しい天と地をはじめるべく再びこられる再臨のときまでに、キリストを介した神の義の果実を満たしてしまっていること、それが人生の目標となる。
パウロはキリストと共なる生が人間にとって本来的であることを理論的に伝え、そしてそれを今・ここで生きる。神に嘉みされる心魂の根源に生起する「信にもとづかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:22)。そして「愛を媒介にして実働している信が力強い」(Gal.5:6)からには、新しい生においては信に基づき具体的に愛の道を歩むことだけが残されている。愛が「霊の果実」(Gal.5:22)、「義の果実」(phil.1:11,Heb.12:11)であるからには、「愛は決して失敗しない」(1Cor.13:8)。「愛には恐れがない。まったき愛は恐れを取り除く」(1John.4:18)。信に基づき愛への道を歩む限りにおいて「イエス・キリストにある生命の霊」(Rom.8:2)が共にいますことであろう。
3心魂の実力としての態勢と恩恵―立派な業か信仰のみか―
山上の説教においては、イエスはモーセ律法が与えられたことを誇る伝統的なユダヤ人の立場に身を置き、基本的に道徳的次元に留まっている。端的に木は実によって知られると言われる。他方、端的に「まず」と、良い木となることを求めるよう教え、道徳はその果実であると、不可逆的な、変えることのできない順序を確認している。「まず神の国とご自身の義を求めよ」(Mat.6:33)と信仰に招く、「信仰」という言葉は用いられないが。この順序を確認しつつ、イエスはユダヤ人の伝統的立場に身をおき、モーセ律法、道徳の極限を示しつつ、道徳の究極は愛によって満たされることを告げ知らせている。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝にどんな報いがあろうか」(Mat.5:43-45)。
厳しい戒めである。殺され、インフラが破壊され、電気も水もないウクライナ人にプーチンを愛せよと言われる。あまりに厳しい教えのように思われる。ここでのこの教えに対するチャレンジは救いとは悪い者が悪い者でありながら、罪深い者が罪深い者であるままに、恩恵のみにて罪赦されキリストの義を着て神に義人と看做されることなのではないかというものである。もし、道徳的次元を離れた宗教的主張が偽りであり、溺れる者藁をもつかむたぐいのものであるとするなら、もはや道徳的破産者には絶望に沈むことだけが残されている。古来、信仰義認論であれ悪人正機説であれ、慈悲や恩恵に藁をもつかむ思いですがってきたのではなかったのか。「義人というのはおのれの罪があまりに深く、どれだけ深いか知りえないことを知っている人間である」(ルター)や「罪悪深重、煩悩熾盛、地獄ぞ一定住処ぞかし・・法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」(親鸞)が語られ、人々を導いてきた。良い木が良い実をならすよう方向づけられているように、良い信仰が愛を生み出すよう方向づけられていることは道理あるが、信に基づいて神は罪赦し、義とすると伝えられているなかで、そこにいたらない信仰はどのようなものとして理解されるのかが問われる。
3.1 ウルリヒ・ルツによる良い働きを生む者を「キリストは助ける」という解釈
或る注解者は、恩恵は山上の説教において展開される「彼の言葉を行う者」に注がれるのであり、イエスは「必要な場合には業なくしても救う者なのではない」と明言する。U.ルツは言う。「イエスは[神による]自分の派遣使命において律法と預言者[であること]を成就し、教会に義の道を歩む可能性を贈る方である。[「これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう」]。「わが言葉」というのは、このキリスト論的基礎をはっきりと堅持している。しかし、キリストは決して退却の可能性ではなく、「火の中を潜り抜けて来た者のように」(1Cor.3:15)ではあれ、必要な場合には業なくしても救う者なのではない。そうではなくて、キリストは[業の律法の]義を行う者に生命に至る道を開くのである。キリストはそのようなものを、そしてそのような者のみを、助けるのである。キリストは彼の恵を彼の言葉を行う者に与える。自分たちの実によって測られる備えのないどんな心情倫理も、この山上の説教の結びの前ではぶち壊される」(U(ウルリヒ).ルツEKK新約聖書註解I/1p.594小川陽訳)。
この強い主張に対しては、「義の道を歩む可能性を贈る方」としてのイエスご自身に対する理解が問われよう。確かに、どんな厳しい状況にあってもキリストは「退却の可能性」を示すことはない。信から愛の一本道が示されており、イエス自身まっすぐ十字架の道を歩みぬいた。イエスは「義の道を歩む可能性を贈る方」と語られているが、ここで「可能性」とは神の前の可能性なのかが問われる。神の前では一切が明らかであるのではないのか。人間的な可能性と神の前の可能性の明確な判別が求められよう。聖霊が神の前とひとの前の相互を媒介する働きである限り、山上の説教においては確かに聖霊は直接語られないが、イエスご自身は実質的には聖霊の助けのもとに神の国を一挙手一投足において運び伝達していた。神の前では良い木と悪い木は、さには「義の道」を誰が歩むかは明確に知られていることであろう。ここでルツが言う「可能性」とはわれらの可能性、良い実を結ぶ善に至る力能のことでなければならない。イエスは山上の説教のみならず、あらゆる局面でひとの悔い改めの可能性、義に至る力能を認めている。これは疑いえない(e.g.Luk.13:3,Mac.6:12,John.8:11)。悔い改め幼子の信に立ち帰ることがまず求められている。
かくして、ひとの前のことがらとしては「自分たちの実によって測られる備えのないどんな心情倫理[心の内側の良心に陰りがないことが重要と考える立場]も、この山上の説教の結びの前ではぶち壊される」という強い主張はなされえないはずである。イエスは、ご自身の信の生涯において、心魂の根底における「心情倫理」の「備え」そのものが「可能性」そのものが恩恵により備えられてきたことを否定することはないであろう。彼は野の百合空の鳥を見るよう招く。「空の鳥をよく見よ、種も蒔かず、借り入れもせず、藏に収めもしない。だが、汝らの天の父は鳥を養ってくださる」(Mat.6:26)。まず神の愛を信じるよう、イエスは招きたまう。そのように、イエスはわれらが良い木であると信じるよう招きたまう。神の愛のなかで、信仰が成立するからである。信じるとは今・ここで神に愛されていることを信じることである。
3.2 ユリウス・シュニーヴィントによる「全体的人間」の解釈
立派な行為ではなく所謂「信仰のみ」にすがるルター主義者たちにとっては、ルツのような主張はなされない。シュニーヴィントは言う、「19節[切り倒され火に投げ捨てられる]の威嚇は文字通り3:10の洗礼者の説教からでている。木が良くて、実もよいか、あるいは反対か[悪―悪]である。比喩的にではなく―全体的人間とその業とは一つのものであり、一つの認識である。この認識は宗教改革において再びよみがえり、パウロにおいて(たとえばRom.6:21-22[どんな実を結んだか]、Gal.5:22-23[霊の実])同じ比喩の適用において与えられている。心と行為の連関はわれわれにとって山上の説教のあらゆる文言において、一番最後には6:21[汝の宝のあるところ、そこに汝の心がある]において、明瞭になっている。ただ新しい心が新しい行為を生むとこれまで言われていたのに対して今は逆に行為から心が推論されている」(J. シュニーヴィントNTD 新約聖書註解別巻『マタイ福音書』p.211量義治訳)。
すなわちシュニーヴィントは「全体的人間」にまなざしを注ぎ、「新しい心」をもったひとをトータルに一なる者として考察しなければならないと主張する。歴史のなかにあり時間の過去から現在そして未来に流れていくその経過を考慮するとき、信なしには愛は生まれないが、木とその果実、信と愛を全体に言わば無時間的に、神の前のことがらとして考察するよう促す。全体的人間においては心が清ければそこから生まれる身体の行為も清く、身体の行為が清い場合にはその心も清い。山上の説教は統一された全体としての人間という視点から語られており、それを離れた場合には心情倫理と責任倫理[行為にあらわれる結果が重要という説]ないし、心と身体の振る舞いのあいだになんらかの籬(まがき)をもうけてしまうことになると主張する。この一なる全体性の故にこの説教においては善い行為の側から善い心が語られる。パウロの「聖霊の実」(Gal.5:22)がシュニーヴィントにより言及されているように、「新しい心が新しい行為を生む」この全体的な人間は聖霊により統一されていることを要求している。信仰という根源的な態勢からの聖霊の援けの中での身体との分裂なき行為の産出がめざされる。
これはルター主義的解釈である。信じることは信じせしめられることであり、常に聖霊の媒介があると言う立場である。パウロはエルゴン(働き)上同意するであろうが、ロゴス上神の前とひとの前を分けることもあり、ロゴス上聖霊の媒介への言及なしに「神の知恵」(1Cor.2:7)を語り、「汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)人間中心的に語ることもある。
3.3 ルター的解決に対するエドワルド・シュワイツァーにおける道徳的次元に留まる解釈
常に聖霊の媒介の働きを前提にする者に対するここでの一つの問いは「良い人間が必然的に、自動的に良い実をもたらすということを、或いは悪い人間がそもそも良い人間になることができないということを意味していないのだろうか」というものである。ルツは言う。「このテーゼに対しては繰り返し繰り返し、パウロの回心やダビデの姦淫が異議に持ち出された。そして最終的には、その解決は人間はbona voluntas(良い意志)を持っている限り、良い木なのである、というものであった。ルターは良い木を信仰であるとした」(ルツ p.587)。
ルター的な解決は心魂の根底に信仰があるか否か、その良い意志だけが問われており、その信仰はそれ自身として良い木として自動的に即ち聖霊の助けのもとに良い果実を生み出すと理解されよう。それゆえに「全体的人間」が語られうる。しかし、はたして人間を常に聖霊の援けのもとに理解し、人間の身体を聖霊が「自動的に」また機械的に注がれる管のように理解することは人間論として正しいのかと問われることになるであろう。
ルターにとって信仰は神の恩恵であり、信じることは聖霊の媒介により信じせしめられていることである。そこでは愛の業が生み出されると主張された。これは道理ある主張である。われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことをも信じている。カルヴァンは「神の前とひとの前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う。
それに対して、山上の説教をそれ自身として理解しようとするとき、イエスは道徳的次元にとどまっていることが指摘されよう。彼はそこでは「聖霊」への言及もなさず、また所謂奇跡をも遂行することはない。「まず神の国とその義を求めよ」や「信わずかな者たちよ」(6:30)という叱責に見られるように信仰への招きは当然なされてはいるが、「信仰」や「罪」という語句もイエスにより語られることはない。道徳的次元に踏みとどまり、屹立しているように思われる。このような聖霊の媒介を要求することはできないのでないかが問われよう。
E.シュワイツァーは山上の説教のルターの解釈をそのような道徳的次元に限定したうえで問う、「それではわれわれには、ルター派の正統主義と共に、山上の説教は、―それを満たすことができないのであるから―審きであって、聴衆にその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすように仕向けている、と理解する道しかのこっていない、ということなのであろうか」(E.シュワイツァー、NTD 新約聖書註解『マタイ福音書』p.257佐竹明訳)。この理解のもとではイエスは山上の説教において急進化させ内面化させてはいるがモーセ律法の枠のなかに留まり、山上の説教は福音に追いやる機能を担っていると主張される。これらの主張にどのように応答できるであろうか。まず、カトリックとプロテスタントの立場の和解について簡単に振り返り、そのうえで山上の説教そのものから応答を試みたい。
4 カトリックとプロテスタントの和解
その後の歴史において、カトリックが、ひとは責任ある行為主体として相対的自律性を持つものとして、神の前とひとの前を少なくとも理論上判別することを許容し、有徳な人間、聖人を語る余地を残している。このアリストテレス哲学に対応する人間中心的にひとの心魂の有徳性を語ることができるとするカトリックの立場に対し、プロテスタントは働きのうえで神の前とひとの前を分けずに常に聖霊の媒介を要求する。そのカトリック的理解はパウロが、神の前の出来事を自らの出来事とすることが困難な人間の「肉の弱さ」(Rom.6:19)への譲歩として、人間中心的に語ることを許容している以上、道理ある立場であるように思われる。他方、先述したルターが主張するように、われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことも信じる内容に含意される以上、神の前とひとの前を働き上分けない彼らの主張も道理ある。
カトリックとプロテスタント双方ともそれぞれ道理があり、私はロゴスとエルゴン、理論と実践の相補的展開として常に今・ここの働き(エルゴン)において聖霊の働きを見るプロテスタントに対し、人間の心の態勢をそれ自身として語る有徳性の理論(ロゴス)を人間中心的に展開するカトリックの立場は補いあうものとして両立すると理解する。ひとの前と神の前を分けずに今・ここのエルゴンに留まるプロテスタントと肉の弱さへの譲歩から理論的に分節するロゴスを展開するカトリックは少なくとも矛盾することはない。
5山上の説教が語られたリアルタイムの状況
われらはここで生身のイエスは十字架と復活への狭くまっすぐな道への歩みの途上であることに思いをいたさねばならない。彼は洗礼者ヨハネの預言のもとで自らメシアであるという自覚のなかで(旧約)聖書にもとづき神のみ旨をその一挙手一投足において実現しつつあるそののただなかで、この説教を遂行している。福音書記者マタイは、イエスの死後、たとえその生涯を回顧する仕方で、またパウロの神学を前提にした仕方であるにしても、その途上の彼の説教を報告している。マタイはイエスがそのようなリアルタイムの状況において旧約の伝統を極性化しつつ、メシアとして内側から破っているその現場を報告している。
山上の説教は厳しい教えの連続であった。これまでわれらは、山上の説教がユダヤ人の通常の道徳や宗教観を前提にして、その土俵のなかで語られたことを、即ちイエスの議論が対人論法であることを前提に分析を試みてきた。イエスは自らがユダヤ人であることそしてその伝統を正面から誠実に引き受けた。彼はモーセ律法を良心に訴えつつ急進化しまた内面化していった。ユダヤ人は自分たちが神に律法を付与された選びの民であり、律法を遵守する限りにおいて義人であり、異邦人や罪人たちと異なるという理解をもっていた。さらにこの世界とは別に天国と地獄があるという二世界的理解を持っていた。敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。重要なことは彼らの偽りが、道徳的次元だけに訴えることにより、誰にも同意されうる仕方で暴き出されたことである。
イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り抜けていた。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなくこれらは神ご自身の認識としてあり、神に明らかなことがらとして「汝らの良心・共知(sun-eidēsis, con-science)にも明らかになっていることを望む」とパウロにより共知が目指されていることがらである(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。
良心は「共知」であるが、次第に共知の相手方は深まりうる。万引き家族の一員であるとき、窃盗は良心の呵責をもたらさない。家族とのあいだで共知があるからである。「天の父」との共知が成立するとき、われらはキリストの贖いにおいて良心の宥めをうる。神がゴルゴタの十字架においてわれらの古きひとの死を理解していたまうからである。共知はこのように展開していく。
イエスはあの神の国の宣教のただなかでユダヤ人であることに内在し、その内側からその限界を突き破り、広やかな福音を展開するその歩みの途上でこの説教を行っている。「生命であり道」であり給うイエスご自身が山上の説教を言葉の力だけで遂行されたのであった。そしてその生涯はその言葉を生き抜いた、そのことが福音書において報告されている。その限りにおいて言葉は生命を伴いそしてそれ故に堅固であり「権威あるもの」であったに相違ない。「権威ある」とは単に「彼らの律法学者のように」言葉だけ立派なことを語るという印象を与えず、行為を伴っているという印象を与えるものであったに相違ない。ただしイエスご自身はたとえ生命に溢れてこの言葉を発したとしても、道徳的次元のみにおいて言葉だけで理解されるそのような議論を展開しており、道徳的良心において理解されうるそのような議論を展開している。
自ら胸に手を当てて顧みるとき、山上の説教は、それは単にユダヤ人だけに適用されるものではなく、人類の誰かにより語られねばならなかったその究極の語りであることにひとは納得するであろう。それは人類すべてに妥当する究極の道徳であり、言葉の力によってのみ展開される。このことの故に、或る人々にはこの山上の説教がある限り、人類に絶望することはないと思われることであろう。ましてや語った方は自らの言葉を死に至るまで生き抜いた永遠の生命に満ち溢れた方であった。少なくとも人類には一つの実例が与えられている。偽り、フェイクで満ちており、何も確かなものがないそのような時代において、このように人間の究極が道徳的次元のみにおいて語られそして一つの事例があるということ、ただその歴史的事実に感謝し賛美する。
イエスは山上の説教を遂行し、われらはその途上の歴史にある彼からこの説教を受けている、その状況に身を置くことが求められている。確かに、その時点で純化された律法を守りえない者であっても、この厳しい道徳的内容を語る方自身についてくるよう招かれている。彼の言葉に偽りはなく「権威ある者」として彼はわれらに迫ってくることであろう。彼が旧約以来預言されていたメシア(救い主)であるか聴衆は決断を迫られている。イエスは言葉と行いをもってひとびとを救いだそうとされた。「行ってヨハネに伝えよ。盲目の者が見えるようになり、歩けない者が歩けるようになり、皮膚病の者が清められ、聞こえない者が聞けるようになり、死者は生き返り、貧しい者は福音を告げ知らされる。わたしに躓かない者は幸いである」(Mat.11:4-6)。
そしてわれらも同じ状況にある。ひとは人類に、道徳上、この山上の説教以上の何を要求することがあるであろうか。そしてそれを語る方が不思議なる力をもち聖霊を注がれる救い主であられた場合に彼以外に誰を、また何を待ち望むであろうか。
6結論
待降節(アドヴェント)を迎えている。キリストの誕生は神のわれらに対する愛に他ならない。感謝し賛美したい。キリストがここでは言葉の力だけに訴えひとの本来のあるべき姿を明確に示し、そしてそれを実現させるべく自ら十字架の道を歩まれた。それ以上にひとは求めるものをこの世界にもたないであろう。
「残りの者」の証―目を覚ましている僕―
「残りの者」の証―目を覚ましている僕―
日曜聖書講義前講 2022年11月27日
(第二回黒崎賞授賞式・講演会にて講演された岡崎新太郎氏と二人で本日の聖書講義を行った。千葉は前講を担当した。録音は岡崎氏のものも含まれている)。
聖書
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。
そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(Luk.12:35-48)。
「家を建てる者が退けた石が隅の親石となった」(Ps.118:22,Luk.20:17)
1
キリスト者の生涯は人生のある状況のなかで父なる神の憐みを受けたと信じて、応答としてその証をたてていくものとなる。神にとらえられた者と呼ぶことができ、人類の歴史のなかでは少数派であり続けよう。聖書はそれを「残りの者」と呼ぶ。
少なくとも、人類のなかでひとり、この世のいかなるものによっても満たされないひとがいた。その霊によって貧しい者、悲しんでいる者、柔和な者、義に飢えそして渇いている、憐れむ者、その心によって清らかな者、平和を造る者、義のために迫害されている者が人類のなかで少なくとも一人はいた (Mat.5:1-10)。
その言葉において「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全な者になりなさい」(5:48)と人類にとっての究極の道徳を語り、そしてそれを「天の父」への幼子の信仰のもとに生き抜いてしまったひと、言葉と行いのあいだに何ら乖離のなかった恐らく唯一の人間が歴史のなかに出来事になった。ナザレのイエスは彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙りが伝わる。栄光を捨ててのご自身の自己卑下が弱小者への祝福を裏付ける。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂く以外に、ひとは謙遜を学び自らより弱小者への憐みを頂き、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者にはなりえない(Gal.6:1,Mat.5:9)。
2残りの者の歴史
ナザレのイエスは人類にとって善きものの認識を最も明確な仕方で逆転させたと言ってよいであろう。或いはそれまでの歴史において自らの良心に照らしてうすうす気づいていたが、隠蔽していたひととしての本来的な在り方がナザレのイエスにおいて言葉と行いにおいて明白にされたと言うことができよう。この神の歴史につらなる者たちは旧約以来「残りの者」と呼ばれる。これは或る出来事の帰結であり神の肯定の対象、否定の対象双方に用いられる表現であるが、肯定的な歴史を刻む者たちは常に残りの者であると言える。イザヤは言う、「汝の民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが返ってくる。滅びは定められ、正義がみなぎる」(Is.10:22)。「その日には、万軍の主が民の残りの者にとって麗しい冠、輝く花輪となる」(Is.28:5)。「主はこう言われる。「ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え・・そして言え。「主よ、汝の民をお救いください、イスラエルの残りの者を」」」(Jer.31:7)。
新約聖書において、イエスは終わりの日に耐え忍んで神を求める者たちに正しい審判を約束しつつ、選ばれた残りの者たちの状況について楽観的ではない。「それから主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神はすみやかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」(Luk.18:8)。
主人が帰ってきたとき、忠実に自らの義務、仕事を行っている者は幸いだ。「主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」。この善かつ忠なる僕、僕女(しもめ)たちは残りの者として主のまっすぐな道をついていく。彼らは狭く真っすぐな道を正しい者たちは歩むことになる。残りの者たちはもはや徴や証拠を求める者ではなく、証を立てる者となる。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として(eis marturion)全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」(Mat.24:12-14)。
パウロはイザヤを引用して言う、「「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも、すみやかに、言われたことを行われる」。それはイザヤがあらかじめこう告げていたとおりである。「万軍の主がわれらに子孫を残されなかったなら、われらはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう」」(Rom.9:27-29)。
結論
2022年現在キリストがそのひとのために死に甦り、それより罪との決別を促し、新たな生命に生きるよう促した人々は現在約80億人生きています。人類すべてに福音は差し向けられました。「神はひとり子をたまうほどにこの世界を愛された。ひとり子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである」(John.3:18)。そのなかで、神の前では、即ち永遠の現在にいます神における永遠の相のもとでは誰が残りの者であるかは明らかである。ただし、神の愛がキリストにおいて知らされた以上の明晰性をもってしては、例えば個々人の運命に関しては個々人には知らされてはいない。キリストにあって選ばれている、残された者であるということを信じるほかはない。パウロは言う、「わたしは他者にいかにも福音を宣教しながら自ら失格者となることがないように、わたしはわが身体を打ち、身体を拘束する」と(1Cor.9:27)。キリストにある神の前の出来事を自らのものとすべく、その都度信に立ち返る。そこに「汝らが聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れる」(Rom.15:13)聖霊の執り成しが生起することを願いつつ。パウロは言う、「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13,cf.Gal.5:22-23)。
われらは知らされているものと知らされていないもののはざまで、この歴史を生きる。この歴史の最前線を生きている。光のなかを歩もう。まっすぐ歩もう。
良い木は良い実を結ぶ(その二)―信から愛へ―
良い木は良い実を結ぶ (その二)―信から愛へ― 日曜聖書講義2022.11.20
(録音:実際の講義は4節まで)
聖書
「狭い門から入りなさい、滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。
羊の衣のうちに汝らのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である。汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアカンサスから葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良い木が良い果実を生み出すように、腐った木は悪い果実を生み出す。良い木は悪い果実を生み出すことはできず、また腐った木は良い果実を生み出すことができない。良い果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう。
「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入ることになるのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入ることになるであろう。かの日には多くの者たちがわたしに尋ねるであろう、「「主よ、主よ」われらは汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げたではありませんか」。そしてそのときわたしは彼らに応じるであろう、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。
かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである。これらのわが言葉を聞きそして行わない限りの者は皆、自分の家を砂地のうえに建てた愚かな者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけた、そうするとかの家は倒れたそしてその傾きは大きかった。
イエスがこれらの言葉を終えられたとき、群衆は彼の教えにとても驚いてしまった。というのも、彼は権威ある者のように、彼らの律法学者たちのようにではなく、彼らに教えたからである」(Mat.7:13-29)。
1 神の前で自らが良い木であると信じること。
山上の説教の良い木は良い実を実らすという最後の教えの第二回目である。良い木は良い実を実らせ、悪い木は悪い実をうみだすと言われる。良い実はその木が良いものであることを知らせ、悪い実は悪い木であることを知らせる。悪い実をうみだすなら、それは良い木ではない。このようないずれかの一方が他方と交錯すること、良い木が悪い実をならせ、悪い木が良い実をならせることはないと語られている。「良い木は悪い果実を生み出すことはできず(ū dunatai)、また腐った木は良い果実を生み出すことができない」と自然事象について不可能という強い言葉が語られている。天候不順など個々の生育条件を括弧にいれるなら、理論上のことがらとして木と果実の関係は必要十分関係として展開される。
心とその働き一般のことがこの比喩、たとえ話により語られている。もし木が良ければその果実は良いものであり、もしその果実が良いものであればその木は良いものである。悪についても同様である。かくして、善と悪はその根から果実に至るまでつまり根底からその帰結にいたるまで、始めから終わりまで、双方善と悪は交わることのないもの、混じる余地のないものとして峻別されている。
ここでの問いはこの比喩は人間の実際の生活にどこまで適用されるのかというものである。ひとの努力の余地は残されていないのであろうか。生まれながらに良いものは最後まで良く、そうでない者はそうでないとはいかにも不条理に見える。一つの可能な応答は経験ある優れた果樹医師は木を見てその果実の良しあしを予見できるように、ここでの善悪、「良い」と「悪い」という語句の意味は神ご自身の認識を伝えているというものである。「良い」「悪い」の認識は良心の成長とともに、どこまでも深まっていき、最終的には神の理解を自らのものとするとき、この見解に同意できるようになるであろう。
ひとには見えないが時空をはじめ宇宙を一切統べ治めておられる神はそのように認識しておられること、それをイエスは教えている。神の前で、神に良い木と看做されているものは良い実を生む。われらには自らがいずれの木であるかは御子の受肉と信の生涯を通じた神の意志の啓示ほどには、個々人の誰にも明白には知らされていない。それをわれらは信により突破する。われらは選ばれていること、良い地に蒔かれた種であることを信じて、そのつど自らの個々の行為の選択を通じてその導きを確認しつつ、証を立てることがその人生となる。
福音は喜びである。神の意志はイエス・キリストにおいて最も明確に知らされていた。闇の中に光が輝いている。闇は光にうち勝たなかった。われらはこの闇と光の輝きのなかで責任ある自由のもとに自らの人生を構築している。自らが光の子であることを信じ証を立てるよう促されている。
2良い木になるか悪い木になるか
良い木であるのか悪い木であるのかに関して、われらは親や環境のせいにはできず、自らの責任のもとにある。そう考えなければ、たとえば生まれながらに悪い果実しか生み出すことのできないものであるなら、当人に責任が問われることはないであろうからである。集められ焼き払い、地獄になげいれる審判者は不当なことをしていることになる。種蒔くひとのたとえ話にはこうあった。そのひとは種を握りしめさっと蒔くと、或るものは石地にあるものは茨のなかに、或るものは良い地に蒔かれ、種のなかで根付くものがあれば、干からびるもの、遮られ成育不良となるものもある。「ほかの種は良い土地に落ち、生え出で、百倍の実を結んだ。聞く耳ある者は聞きなさい」(Luk.8:4-8)。
ひとは親を選べず、所謂「親ガチャ」のもとに相対的に良い環境や良くない環境に育つ。われらはこの与件を受入れ、良い地に蒔かれたと信じ良い果実を生み出そうとする以外に肯定的、創造的な生を遂行することはできない。全知全能の創造主はわれらを何らかの計画のもとにこのように、今あるように造られたに違いないと信じること、この与件を受入れることからしか、改善や展開は見込めない。どこに逃げても影のようについてくる自分自身から逃れることはできないからである。
このような事情であるなら、自らがどんなに悲惨な与件であるように思われても、良い木であると信じて、良い実をうみだすように努力せざるをえない。人間的には双方の可能性のもとにおかれており、神の前では良い木と悪い木双方は果実において交差することがないという前提のもとでは、自らが良い木であると信じ、良い果実を生み出そうとする以外に為すすべは残されていない。
ここで明らかなことは、ちょうど樹木医師が木の健康状態を正しく見分けることができるように、良い預言者と偽預言者を正しく見分けることは神がなさることである。従って、良い木の比喩で説明される良い魂が良い働きを生み出すように、悪い木の比喩で説明される悪い魂が悪い働きを生み出すことを正確に識別、審判するのは天の父である。自分では良い実を生み出したと思い、「汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げた」と語ったとしても、神はそのように看做していないこともあろう。そこでは「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」と語られることもあろう。
かくして、「畏れと慄きをもって汝の救いをまっとうせよ」(Phil.2:12)とパウロは励ます。個々人には神の意志はイエス・キリストにおいてほど明確には知らされてはいない。自らが選ばれ恩恵をいただいていることを信じることはどこまでも実質的なこととなる。信は常に世界の側で既に成立していることがらを信じることに他ならない。世界の側からの何らかの促しなしに、正しい信は成立せず、単に願望の投影となる。
3信仰を意味する「良い木」と愛を意味する「良い実」
信から愛の道は一直線である。正しい信はその道からそれることはない。神の愛により信が方向づけられているがゆえに、信は神と隣人への愛に向かう。
信じることにはこの人格的な側面と知らないから信じる認知的な側面がある。信じることは心魂(こころ)の根底に即ち「内なる人間」(Rom.7:22)と呼ばれる部位において生起するとき、それは何らかの知識を伴う。そこからあらゆる肯定的、創造的なものが生まれてくる。パウロは神の前の事柄として、「信に基づかないあるゆるものごとは罪である」(Rom.14:22)と言う。信に基づき神との正しい関係にはいる。そこから「正義の果実」(Phil.1:8)としての愛が生まれてくる。
「内なる人間」において聖霊の注ぎに促されて信が生起することがある。内なる人間は促しに対し「霊」において反応しまた叡智対象に触れるという仕方で発動する「叡知」によりその都度反応する。そこでは半信半疑ということはない。神に喜ばれる信仰をいだいた場合、そのとき同時に神の意志、神の愛に触れているということが起こる。心魂の様々な機能である、見ようとして見る感覚や考えようとして考える思考、さらには動かそうとして動かす身体運動は能動的な働きかけであるが、正しい信は世界の不可視的な肯定的な事態がそのようにあることに触れるという仕方で生起する。この触知はコンピューターと同様に、真理であるか無知であるかのいずれかであり、偽るということはないそのような認知機能である。信じることは能動的行為であるが、正しい信においては知覚の届かない対象である何ものかが世界の側でそうあること、或いはその世界の事態を伝達する命題が真であることを信じる。
これが信、信じるということの認知的側面である。人間的には知らないから信じるのであるけれども、神の意志は知られうるものとして、つまり信は知識に向かうものとして位置付けられている。心魂(こころ)の奥底正しい信が宿るとき、愛の肯定的、創造的な良い働きが生み出されていく。「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Rom.14:22)。これは信、信仰というものの人格的側面である。ここでは信は愛に方向づけられている。正しい力強い信仰をいだいているか否かは愛のうちにあるか否かにより判別されると言う。神に愛されていることを信じることにより、信仰は愛に向かう。そのさい、信仰はこの神の愛に自らの生全体を委ねること、任せることとなる。その神の愛のなかに生きること、それが愛に方向づけられた信仰となる。良い信仰は良い愛の働きを生み出す。これを否定することは難しい。しかし、信仰と愛は少なくとも定義上異なり、また働き上もそのまま同じではなく、それぞれの認知的要素と人格的要素において異なる段階のものである。信仰のダイナミズムはたとえ愛を生み出さなくとも信じるだけで罪赦され神と正しい関係にはいるというものであったはずである。
4心魂の実力としての態勢と恩恵―立派な業か信仰のみか―
ここでのただちのチャレンジは救いとは悪い者が悪い者でありながら、罪深い者が罪深い者であるままに、恩恵のみにて罪赦されキリストの義を着て神に義人と看做されることなのではないかというものである。もし、この道徳的次元を離れた宗教的主張が偽りであり、溺れる者藁をもつかむたぐいのものであるとするなら、もはや道徳的破産者には絶望に沈むことだけが残されている。古来、信仰義認論であれ悪人正機説であれ、慈悲や恩恵に藁をもつかむ思いですがってきたのではなかったのか。「義人というのはおのれの罪があまりに深く、どれだけ深いか知りえないことを知っている人間である」(ルター)や「罪悪深重、煩悩熾盛、地獄ぞ一定住処ぞかし・・法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」(親鸞)が語られ、人々を導いてきた。良い木が良い実をならすよう方向づけられているように、良い信仰が愛を生み出すよう方向づけられていることは道理あるが、信に基づいて神は罪赦し、義とすると伝えられているなかで、そこにいたらない信仰はどのようなものとして理解されるのかが問われる。
4.1 ウルリヒ・ルツによる良い働きを生む者を「キリストは助ける」という解釈
或る注解者は、恩恵は山上の説教において展開される「彼の言葉を行う者」に注がれるのであり、イエスは「必要な場合には業なくしても救う者なのではない」と明言する。U.ルツは言う。「イエスは[神による]自分の派遣使命において律法と預言者[であること]を成就し、教会に義の道を歩む可能性を贈る方である。[「これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう」]。「わが言葉」というのは、このキリスト論的基礎をはっきりと堅持している。しかし、キリストは決して退却の可能性ではなく、「火の中を潜り抜けて来た者のように」(1Cor.3:15)ではあれ、必要な場合には業なくしても救う者なのではない。そうではなくて、キリストは[業の律法の]義を行う者に生命に至る道を開くのである。キリストはそのようなものを、そしてそのような者のみを、助けるのである。キリストは彼の恵を彼の言葉を行う者に与える。自分たちの実によって測られる備えのないどんな心情倫理も、この山上の説教の結びの前ではぶち壊される」(U(ウルリヒ).ルツEKK新約聖書註解I/1p.594小川陽訳)。
この強い主張に対しては、「義の道を歩む可能性を贈る方」としてのイエスご自身に対する理解が問われよう。「可能性」とは神の前の可能性なのか。神の前では一切が明らかであるのではないのか。人間的な可能性と神の前の可能性の明確な判別が求められよう。聖霊が神の前とひとの前の相互を媒介する働きである限り、山上の説教においては確かに聖霊は直接語られないが、イエスご自身は実質的には聖霊の助けのもとに神の国を一挙手一投足において伝えていたのではないのか。神の前では良い木と悪い木は、さには「義の道」を誰が歩むかは明確に知られていることであろう。ここでルツが言う「可能性」とはわれらの可能性、良い実を結ぶ善に至る力能のことでなければならない。イエスは山上の説教のみならず、あらゆる局面でひとの悔い改めの可能性、義に至る力能を認めている。これは疑いえない(e.g.Luk.13:3,Mac.6:12,John.8:11)。
かくして、ひとの前のことがらとしては「自分たちの実によって測られる備えのないどんな心情倫理[心の内側の良心に陰りがないことが重要と考える立場]も、この山上の説教の結びの前ではぶち壊される」という強い主張はなされえないはずである。イエスは、ご自身の信の生涯において、心魂の根底における「心情倫理」の「備え」そのものが「可能性」そのものが恩恵により備えられてきたことを否定することはないであろう。彼は野の百合空の鳥を見るよう招く。「空の鳥をよく見よ、種も蒔かず、借り入れもせず、藏に収めもしない。だが、汝らの天の父は鳥を養ってくださる」(Mat.6:26)。まず神の愛を信じるよう、イエスは招きたまう。そのように、イエスはわれらが良い木であると信じるよう招きたまう。神の愛のなかで、信仰が成立するからである。
4.2 ユリウス・シュニーヴィントによる「全体的人間」の解釈
立派な行為ではなく所謂「信仰のみ」にすがるルター主義者たちにとっては、ルツのような主張はなされない。シュニーヴィントは言う、「19節[切り倒され火に投げ捨てられる]の威嚇は文字通り3:10の洗礼者の説教からでている。木が良くて、実もよいか、あるいは反対か[悪―悪]である。比喩的にではなく―全体的人間とその業とは一つのものであり、一つの認識である。この認識は宗教改革において再びよみがえり、パウロにおいて(たとえばRom.6:21-22[どんな実を結んだか]、Gal.5:22-23[霊の実])同じ比喩の適用において与えられている。心と行為の連関はわれわれにとって山上の説教のあらゆる文言において、一番最後には6:21[汝の宝のあるところ、そこに汝の心がある]において、明瞭になっている。ただ新しい心が新しい行為を生むとこれまで言われていたのに対して今は逆に行為から心が推論されている」(J. シュニーヴィントNTD 新約聖書註解別巻『マタイ福音書』p.211量義治訳)。
すなわちシュニーヴィントは「全体的人間」にまなざしを注ぎ、「新しい心」をもったひとをトータルに一なる者として考察しなければならないと主張する。心が清ければそこから生まれる身体の行為も清く、身体の行為が清い場合にはその心も清い。山上の説教は統一された全体としての人間という視点から語られており、それを離れた場合には心情倫理と責任倫理[行為にあらわれる結果が重要という説]ないし、心と身体の振る舞いのあいだになんらかの籬(まがき)をもうけてしまうことになると主張する。この一なる全体性の故にこの説教においては善い行為の側から善い心が語られる。パウロの「聖霊の実」(Gal.5:22)がシュニーヴィントにより言及されているように、「新しい心が新しい行為を生む」この全体的な人間は聖霊により統一されていることを要求している。信仰という根源的な態勢からの聖霊の援けの中での身体との分裂なき行為の産出がめざされる。
4.3 ルター的解決に対するエドワルド・シュワイツァーにおける道徳的次元に留まる解釈
ここでの一つの問いは「良い人間が必然的に、自動的に良い実をもたらすということを、或いは悪い人間がそもそも良い人間になることができないということを意味していないのだろうか」というものである。ルツは言う。「このテーゼに対しては繰り返し繰り返し、パウロの回心やダビデの姦淫が異議に持ち出された。そして最終的には、その解決は人間はbona voluntas(良い意志)を持っている限り、良い木なのである、というものであった。ルターは良い木を信仰であるとした」(ルツ p.587)。
ルター的な解決は心魂の根底に信仰があるか否か、その良い意志だけが問われており、その信仰はそれ自身として良い木として自動的に即ち聖霊の助けのもとに良い果実を生み出すと理解されよう。それゆえに「全体的人間」が語られうる。しかし、はたして人間を常に聖霊の援けのもとに理解し、人間の身体を聖霊が「自動的に」また機械的に注がれる管のように理解することは人間論として正しいのかと問われることになるであろう。
ルターにとって信仰は神の恩恵であり、信じることは聖霊の媒介により信じせしめられていることである。そこでは愛の業が生み出されると主張された。これは道理ある主張である。われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことをも信じている。カルヴァンは「神の前とひとの前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う。
それに対して、山上の説教をそれ自身として理解しようとするとき、イエスは道徳的次元にとどまっていることが指摘されよう。彼はそこでは「聖霊」への言及もなさず、また所謂奇跡をも遂行することはない。「まず神の国とその義を求めよ」や「信わずかな者たちよ」(6:30)という叱責に見られるように信仰への招きは当然なされてはいるが、「信仰」や「罪」という語句もイエスにより語られることはない。道徳的次元に踏みとどまり、屹立しているように思われる。このような聖霊の媒介を要求することはできないのでないかが問われよう。
E.シュワイツァーは山上の説教のルターの解釈をそのような道徳的次元に限定したうえで問う、「それではわれわれには、ルター派の正統主義と共に、山上の説教は、―それを満たすことができないのであるから―審きであって、聴衆にその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすように仕向けている、と理解する道しかのこっていない、ということなのであろうか」(E.シュワイツァー、NTD 新約聖書註解『マタイ福音書』p.257佐竹明訳)。この理解のもとではイエスは山上の説教において急進化させ内面化させてはいるがモーセ律法の枠のなかに留まり、山上の説教は福音に追いやる機能を担っていると主張される。これらの主張にどのように応答できるであろうか。まず、カトリックとプロテスタントの立場の和解について簡単に振り返り、そのうえで山上の説教そのものから応答を試みたい。
5 カトリックとプロテスタントの和解
その後の歴史において、カトリックが、ひとは責任ある行為主体として相対的自律性を持つものとして、神の前とひとの前を少なくとも理論上判別することを許容し、有徳な人間、聖人を語る余地を残している。このアリストテレス哲学に対応する人間中心的にひとの心魂の有徳性を語ることができるとするカトリックの立場に対し、プロテスタントは働きのうえで神の前とひとの前を分けずに常に聖霊の媒介を要求する。そのカトリック的理解はパウロが、神の前の出来事を自らの出来事とすることが困難な人間の「肉の弱さ」(Rom.6:19)への譲歩として、人間中心的に語ることを許容している以上、道理ある立場であるように思われる。他方、先述したルターが主張するように、われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことも信じる内容に含意される以上、神の前とひとの前を働き上分けない彼らの主張も道理ある。
カトリックとプロテスタント双方ともそれぞれ道理があり、私はロゴスとエルゴン、理論と実践の相補的展開として常に今・ここの働き(エルゴン)において聖霊の働きを見るプロテスタントに対し、人間の心の態勢をそれ自身として語る有徳性の理論(ロゴス)を人間中心的に展開するカトリックの立場は補いあうものとして両立すると理解する。ひとの前と神の前を分けずに今・ここのエルゴンに留まるプロテスタントと肉の弱さへの譲歩から理論的に分節するロゴスを展開するカトリックは少なくとも矛盾することはない。
6山上の説教が語られたリアルタイムの状況
われらはここで生身のイエスは十字架と復活への狭くまっすぐな道への歩みの途上であることに思いをいたさねばならない。彼は洗礼者ヨハネの預言のもとで自らメシアであるという自覚のなかで(旧約)聖書にもとづき神のみ旨をその一挙手一投足において実現しつつあるそののただなかで、この説教を遂行している。福音書記者マタイは、イエスの死後、たとえその生涯を回顧する仕方で、またパウロの神学を前提にした仕方であるにしても、その途上の彼の説教を報告している。マタイはイエスがそのようなリアルタイムの状況において旧約の伝統を極性化しつつ、メシアとして内側から破っているその現場を報告している。
(聖書研究の一方法として「歴史的批判的研究」と呼ばれるものがある。これは「歴史学」の枠のなかで福音書相互の分析を介して歴史的実像に迫ろうとするものであるが、方法的前提からして当然聖霊の働きをその行論に要求することはできない。われらはイエスが道徳的次元を内側から破るその力能をそれ自身として捉えたい)。
山上の説教は厳しい教えの連続であった。これまでわれらは、山上の説教がユダヤ人の通常の道徳や宗教観を前提にして、その土俵のなかで語られたことを、即ちイエスの議論が対人論法であることを前提に分析を試みてきた。イエスは自らがユダヤ人であることそしてその伝統を正面から誠実に引き受けた。彼はモーセ律法を良心に訴えつつ急進化しまた内面化していった。ユダヤ人は自分たちが神に律法を付与された選びの民であり、律法を遵守する限りにおいて義人であり、異邦人や罪人たちと異なるという理解をもっていた。さらにこの世界とは別に天国と地獄があるという二世界的理解を持っていた。敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。重要なことは彼らの偽りが、道徳的次元だけに訴えることにより、誰にも同意されうる仕方で暴き出されたことである。
イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り抜けていた。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなくこれらは神ご自身の認識としてあり、神に明らかなことがらとして「汝らの良心・共知(sun-eidēsis, con-science)にも明らかになっていることを望む」とパウロにより共知が目指されていることがらである(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。
良心は「共知」であるが、次第に共知の相手方は深まりうる。万引き家族の一員であるとき、窃盗は良心の呵責をもたらさない。家族とのあいだで共知があるからである。「天の父」との共知が成立するとき、われらはキリストの贖いにおいて良心の宥めをうる。神がゴルゴタの十字架においてわれらの古きひとの死を理解していたまうからである。共知はこのように展開していく。
イエスはあの神の国の宣教のただなかでユダヤ人であることに内在し、その内側からその限界を突き破り、広やかな福音を展開するその歩みの途上でこの説教を行っている。「生命であり道」であり給うイエスご自身が山上の説教を言葉の力だけで遂行されたのであった。そしてその生涯はその言葉を生き抜いた、そのことが福音書において報告されている。その限りにおいて言葉は生命を伴いそしてそれ故に堅固であり「権威あるもの」であったに相違ない。「権威ある」とは単に「彼らの律法学者のように」言葉だけ立派なことを語るという印象を与えず、行為を伴っているという印象を与えるものであったに相違ない。ただしイエスご自身はたとえ生命に溢れてこの言葉を発したとしても、道徳的次元のみにおいて言葉だけで理解されるそのような議論を展開しており、道徳的良心において理解されうるそのような議論を展開している。
自ら胸に手を当てて顧みるとき、山上の説教は、それは単にユダヤ人だけに適用されるものではなく、人類の誰かにより語られねばならなかったその究極の語りであることにひとは納得するであろう。それは人類すべてに妥当する究極の道徳であり、言葉の力によってのみ展開される。このことの故に、或る人々にはこの山上の説教がある限り、人類に絶望することはないと思われることであろう。ましてや語った方は自らの言葉を死に至るまで生き抜いた永遠の生命に満ち溢れた方であった。少なくとも人類には一つの実例が与えられている。偽り、フェイクで満ちており、何も確かなものがないそのような時代において、このように人間の究極が道徳的次元のみにおいて語られそして一つの事例があるということ、ただその歴史的事実に感謝し賛美する。
イエスは山上の説教を遂行し、われらはその途上の歴史にある彼からこの説教を受けている、その状況に身を置くことが求められている。確かに、その時点で純化された律法を守りえない者であっても、この厳しい道徳的内容を語る方自身についてくるよう招かれている。彼の言葉に偽りはなく「権威ある者」として彼はわれらに迫ってくることであろう。彼が旧約以来預言されていたメシア(救い主)であるか聴衆は決断を迫られている。イエスは言葉と行いをもってひとびとを救いだそうとされた。「行ってヨハネに伝えよ。盲目の者が見えるようになり、歩けない者が歩けるようになり、皮膚病の者が清められ、聞こえない者が聞けるようになり、死者は生き返り、貧しい者は福音を告げ知らされる。わたしに躓かない者は幸いである」(Mat.11:4-6)。
そしてわれらも同じ状況にある。ひとは人類に、道徳上、この山上の説教以上の何を要求することがあるであろうか。そしてそれを語る方が不思議なる力をもち聖霊を注がれる救い主であられた場合に彼以外に誰を、また何を待ち望むであろうか。
7結論
以上のことは山上の説教の理解において強調しすぎることのない視点のように私には思われる。メシアがここでは言葉の力だけに訴えひとの本来のあるべき姿を明確に示し、そしてそれを実現させるべく自ら十字架の道を歩んだのである。それ以上にひとは求めるものをこの世界にもたないであろう。
良い木は良い実を結ぶ(その一)―「良心」即「共知」の含意―
良い木は良い実を結ぶ(その一)―「良心」即「共知」の含意―
日曜聖書講義2022.11.13
聖書
「狭い門から入りなさい、滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。
羊の衣のうちに汝らのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である。汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアカンサスから葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良き木が良き果実を生み出すように、腐った木は悪しき果実を生み出す。良い木は悪しき果実を生み出すことはできず、また腐った木は良き果実を生み出すことができない。良き果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう。
「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入ることになるのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入ることになるであろう。かの日には多くの者たちがわたしに尋ねるであろう、「「主よ、主よ」われらは汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げたではありませんか」。そしてそのときわたしは彼らに応じるであろう、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。
かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである。これらのわが言葉を聞きそして行わない限りの者は皆、自分の家を砂地のうえに建てた愚かな者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけた、そうするとかの家は倒れたそしてその傾きは大きかった。
イエスがこれらの言葉を終えられたとき、群衆は彼の教えにとても驚いてしまった。というのも、彼は権威ある者のように、彼らの律法学者たちのようにではなく、彼らに教えたからである」(Mat.7:13-29)。
1 山上の説教が展開する人間理解
この箇所における良い木と良い実の話が山上の説教のなかで実質的には最後の教えである。それに続く「これらのわが言葉を聞きそして行う限りの者は皆」においては、これまでの教えのまとめがなされている。説教を聞いても行いを伴わない者たちは地獄の火に投げ込まれるという警告を聞いてきた。「生命に至る門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない」(7:14)。永遠の生命にあずかる者の数は「少ない」とは厳しい言葉である。さらに、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」と断絶の言葉を聞かされる。そこでは生命に至る狭い道と狭い門と滅びに至る広い道と広い門の識別が真の預言者と偽預言者との対比において展開されていた。「汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう」と語られ、真の預言者と偽の預言者はその人生が生み出すものにより峻別される。良い行いと悪い行いを判別する心の在り方は、本年強調してきたことによれば、信のもとに証を立てようとするつまり、この「よこしまで神に背いた時代」にあって自らの日々の生活を通じて神が存在すること、さらに神は愛であることを証明しようとするのか、それとも神に徴(しるし)、証明を求めるのかにより判別される(Mat.12:38-42)。信が自らの積極的な生の根源として働いているのか、「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)と言われる、信から愛に向かう生を通じて、神に栄光を帰すかが問われている。
2心の在り方とその働きは神の前で必要十分の関係においてある
この議論を支えるものとして木と実の譬えが用いられる。「良い木は悪しき果実を生み出すことはできず(ū dunatai)、また腐った木は良き果実を生み出すことができない」と自然事象について不可能という強い言葉が語られている。偽預言者が良き結果を生むことができないということは理解できるように思われるが、天候不順で良き木が悪しき実りをもたらすことなどは考慮にいれられていない。だが、良き実を結ぶ必要条件の一つとしては、これは理にかなった当然の主張であると言える。さらに、個々の生育条件を括弧にいれるなら、理論上のことがらとして木と果実の関係は必要十分関係として展開される。心とその働き一般のことがこの比喩により語られている。もし木が良ければその果実は良いものであり、もしその果実が良いものであればその木は良いものである。悪についても同様である。かくして、善と悪はその根から果実に至るまでつまり根底からその帰結にいたるまで、始めから終わりまで、双方善と悪は交わることのないもの、混じる余地のないものとして峻別されており、そう主張されているように見える。
ここでの問いはこの比喩は人間の実際の生活にどこまで適用されるのかというものである。ひとの努力の余地は残されていないのであろうか。生まれから善きものは最後まで善く、そうでない者はそうでないとはいかにも不条理に見える。一つの可能な応答は経験ある優れた果樹医師は木を見てその果実の良しあしを予見できるであろうように、ここでの善悪、「良い」と「悪い」という語句の意味は神ご自身の認識を伝えているというものである。ひとには見えないが時空をはじめ宇宙を一切統べ治めておられる神はそのように認識しておられること、それをイエスは教えている。神の前で、神に良い木と看做されているものは良い実を生む。われらにはいずれの木であるかは御子の受肉と信の生涯を通じた神の意志の啓示ほどには、個々人の誰にも明白には知らされていないが、それをわれらは信により突破する。われらは選ばれていること、良き地に蒔かれた種であることを信じて、そのつど自らの個々の行為の選択を通じてその導きを確認しつつ、証を立てることがその人生となる。
福音は喜びであったはずである。神の意志はイエス・キリストにおいて最も明確に知らされていた。闇の中に光が輝いたのである。闇は光にうち勝たなかったのである。われらはこの闇と光の輝きのなかで責任ある自由のもとに自らの人生を構築している。
3預言から福音へ
今ここではその福音の前に旧約の厳しい試練のときを必要としていたことを思いおこそう。やはりここでもナザレのイエスは旧約の伝統に則りつつそれを急進化、純化そして内面化しつつ、厳しさを際立たせたうえで、しかも、信によって旧約の限界を内側から破る闘いのなかでこれが語られたことに思いおこそう。広い道は「偽預言者」に重ねられており、イザヤやエレミヤら真の預言者たちが神からの言葉として預かり、証言していたメシア(救世主)こそ狭いまっすぐな道を歩みぬいたナザレのイエスであり給うた。山上の説教のまとめとして、道徳的次元と宗教的次元即ち信仰の次元についてどのように理解すべきかを複数回この一文をめぐる諸説を検討しながら考察したい。包括的全体的人間像が心情倫理と責任倫理の統一を求めることをめぐって、山上の説教に限定したさいにどれだけのことが語れるかを見究めたい。
狭き門と広き門は偽預言者と真の預言者を判別する文脈で提示されていた。エレミヤは偽預言者をこう記述している。「主はわたし[エレミヤ]に言われた。「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によって汝らに預言している。・・彼らは剣も飢饉もこの国に臨むことはないと言っているが、これらの預言者自身が剣と飢饉によって滅びる」」(Jer.14:14-16)。
偽預言者たちは、自己欺瞞の中で楽観的な預言をする。エレミヤは主の言葉として報告する。「預言者から祭司にいたるまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して平和がないのに、「平和」「平和」と言う」(Jer.6:13-14)。現代も欺きと偽りの先導者たちを巷に見出すことは容易である。
4出会いが良心を育てる
自らが自らを欺くということがおこる。自らが自らを正しく認識しないということがおこる。今様の表現では様々な認知的バイアスに支配されているとき、自らの認識や判断が誤った前提のもとに遂行されていることに気づかないことがある。自己認識はどこまでも深まりうるそのようなものである。時に自らが、穢れと悪しき思いに満たされた偽り者であることに気づくことがある。この気づきは良心の発動であり、それが眠らされているとき、自己満足のうちに或いは自己卑下のうちに沈む。
良心の発動と宥めはその語義からして、誰かとの共知(sun-eidēsis,con-science)のことであり、人生のなかでの人々との交わりが良心の現場を形成する。「万引き家族」の一員として育った者は家族との共知があるため、良心の咎めなしに窃盗することができる。誰かが誰かに「あなたには良心がないのか」と難詰することがある。しかし、その非難に反応しない者はそれまでの人生において難詰者のような人々との交わりを持たなかったことが想定される。
ひとは出会いの重要さを語ることがある。その出会いにより、新たな豊かな人生が開かれた経験をすることもあれば、悪しき実を結ぶことにもなる。パウロは言う、「惑わされるな、「悪しき交わりは良い態勢をだいなしにする」。汝ら正しく目覚めおれ、罪を犯すな。というのも、或る者たちは神について知らない態勢にあるからであり、わたしは畏怖に向けて汝らに語るからである」(1Cor.15:33-34)。人生において人々はそして思想は交錯していく、あのような出会いさえなければと思う事があり、生涯共に生きていこうと決断することもある。そして交わりの究極のものは神との共知である。
詩人は言う、「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道に留まらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむひと。そのひとは流れのほとりに植えられた木、ときが巡りくれば実を結び 葉もしおれることがない。そのひとのすることはすべて、繁栄をもたらす。神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻 神に逆らう者は裁きに堪えず罪ある者は神に従うひとの集いに堪えない。 神に従うひとの道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る」(Ps.1:1-6)。
5「良心」は神の認識に与る神との共知にまで至る
かくして、ひとは神と共なる共知としての「良心(sun-eidēsis)」の発動に習熟する必要がある。その共知は育てられた家族との共なる知識等から始まり神との共知に至る。良心とは神に明らかなことがひとにも明らかなものとなる神との共同の知識が成立する心の認知的座ないし力能である。「われらは皆キリストの審判の座の前で明らかにされねばならない。それは各人が身体を介して為したことがらに応じて、各人が善きものであれ、悪しきものであれ受け取るためである。かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11)。
神により個々人の一切は正確に知られている。定義上神はそのような方である。先日詩篇139篇に学んだ、「主よ、汝はわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる」(139:1)。自己が自己と共に知るその個々人の良心において、神による認識が明らかになることをパウロは望む。パウロは神についてひとは知りうると主張する。
パウロは福音における神の義の啓示のゆえに、道理あることとして人生を明確な知識のもとに神に捧げることを勧めることができる。「かくして、きょうだいたち、神の憐れみによりわたしは汝らに勧める、汝らの身体を神に喜ばれる生ける聖なる献げものとして捧げよ、それは理性に適う礼拝である。汝らこの世界に同調するな、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを汝らが識別すべく、叡知の刷新により変身させられよ」(Rom.12:1-2)。「神の意志が何であるか」は「善」、「喜ばれること」そして「まったきこと」と共に知ることができると主張される。ここで変身とはキリストに似た者になることに他ならない。「わたしは汝らのうちにキリストが形づくられるに至るまで再び産みの苦しみをなす」(Gal.4:19)。キリストに似れば似るほど神の意志をより知るに至るであろう。その叡知の刷新により「ご自身の子の形姿に合致した形姿」(Rom.8:29)に次第に変身させられることもあろう。換言すれば、罪とは山上の説教を生き抜いたナザレのイエスのようでありえないことに他ならない。そこでは神についての正しい認識は得られない。「信にもとづかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。かくして、神についての知識は「(信に基づく)義の果実である」と言うことができる(Phil.1:11)。
パウロは神をめぐる知識について一方でそれがいかに困難であるかということ、他方でそのアクセスの方法について語る。一方で、「ああ、神の知恵と認識の富の深さよ。ご自身の裁きはいかに窮めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。すなわち、「誰か主の叡知を知っていたのか」」と言われる(Rom.11:33-34)。確かに主の叡知、主の全知は窮めがたいが、他方で、われらは「誰か主の叡知を知っていたのか、誰かご自身に教えるのか、しかし、われらはキリストの叡知を持っている」(1Cor.2:16)、即ちキリストが知っていることがらについてそして彼の知識を介して神に対し明確なアクセスを得ていると言われる。
パウロは言う、「われらは成熟した者たちのあいだでは神の知恵を語る、だがそれはこの世界の知恵ではなく、またこの世界の空しきものとなる支配者たちの知恵でもなく、神が諸々の世界の前にわれらの栄光へと定めたまうた奥義のうちに隠されてきている神の知恵を語る」(1Cor.2:6)。もちろんここで「神の知恵」とは「キリストが神の知恵となった」と言われるところのそのキリストのことである(1Cor.1:30)。ナザレのイエスは「聖書と神の力能を知って」(Mat.22:29)おられたからこそ、神に嘉みされる信の従順を貫くことができた。このようにわれらの心魂の認知的そして人格的態勢を整えるのは受難と復活のキリストである。ナザレのイエスご自身肉の弱さを担っていたために断末魔の苦しみのなかで一時的に叡知が実働しないことがあったとしても、人間としてそれは自然的なことであり、神は「わが神」の叫びのなかでの信の従順の貫きを嘉みしたまうた。
復活の主とあいまみえる十全な認識は終末に得られる。「われらは、今は、鏡を通じて不鮮明に見ているが、かのときには、顔と顔をあわせてみる。わたしは、今は、部分的に知っているが、かのときには、わたしが知られているその仕方で知るに至るであろう」。(1Cor.13:12)。
天の父の完全性と悔い改めの力
天の父の完全性と悔い改めの力
日曜聖書講義 2022年11月6日
聖書
「「隣人を愛し、敵を憎め」と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか。徴税人でも同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことにあろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全な者となりなさい」(Mat.5:43-48)。
1はじめに
今日は山上の説教で展開される神の完全性について考えてみたい。イエスは彼に追随してくる群衆たちにたいし彼らに馴染みのモーセ律法を手掛かりにして道徳的次元で聴衆の良心に訴えた。イエスは山上の説教においては対人論法を展開し信仰にも奇跡にも訴えることなしに、道徳的次元において議論を良心の発動の限界点にまで導いている。彼は彼らの指導者たちの気づかない二心、三つ心の癒着を指摘し心の清さのありかを教える。「汝の宝のあるところ、汝の心もまたそこにあるであろう」(Mat.6:21)。
最も大切な宝とは何なのであろうか。道徳的にも、社会的にも宗教的にも成功することであろうか。この世もあの世もという欲張りはその心の清い者さらに憐れみ深い者と呼ばれることもないであろう。その霊によって貧しい者たちこそ神に祝福される者たちであった。この世のものによって満たされている者たち、その肉によって満足している者たちは自らの霊の渇きに気付かないであろう。言い換えれば、この世の何ものによっても満たされない者たち、この人間社会のただなかで善と悪に、真理と偽り等のあいだに何も確かなものを見出すことのできない者たちが天の父を求める。また人間と社会への失望や絶望から人間の可能性に対し諦め、この闇の世の力に圧倒され、疲れてしまった者たちが憐れみ深い羊飼いをもとめる、或いは正義に飢え渇いている者たちが正しい審判者を求める。一切を知り正義にして同時に憐れみ深い神と出会うとき、地の塩、世の光となる新たな力を得る。偽りなくつまり二心なく神を求める者、「神の信」(Rom.3:3)に対し信によって応答しようとする者たちが心の清い者たちであり、後の日に神を見る者たちであった。
この情報のうずに巻き込まれている現代、さして関心のない或いは心を乱す情報さえスマホの構造的な特徴故に目にはいってくる。いつのまにか、魂が新鮮さと力を失いこの世に隷属してしまう。知らず知らずのうちに、現代の情報社会の罠にはまり込み、眼差しは小さなディスプレイに注がれる。天を仰ぎ見よう。「まず神の国とご自身の義を求めよ」(Mat.6:33)というあのイエスの集中の勧めを思い返そう。ときに断食が必要なように、この世界への関心の遮断が必要である。悔い改めよう、しかし、悔い改めてどこに向かうのか。真の神に立ち帰る。
2神の聖性と悔い改め
神ご自身は聖なる方である。この聖性は栄光に輝く光に喩えられる。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は地をすべて覆う」(Isaiah.6:3)。誰がこの聖性に耐えられるであろうか。イザヤは言う、「ああ、何ということだ、わたしは破滅だ、というのもわたしは穢れた唇の者、穢れた唇の民のなかに住む者だからだ。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見たからだ」(6:5)。しかし、この聖性が人となり、救いの光となった。「暗闇を歩める民は大いなる光を見、死の陰の地に座したる者に光が照らした、主は民を増し加え、歓喜を大ならしめた。・・ひとりの男子(おのこ)がわれらのために生まれ、一人の子がわれらに与えられた。支配はその肩におかれ、その名を呼んで霊妙なる議士、大能の神、永遠(とこしへ)の父、平和の君と称えられん。その政事(まつりごと)と平和は増し加わり、限りなし。かつダビデの位に座してその国を治め、今よりのち永遠(とこしへ)に公平と正義とをもてこれを立てこれを保ちたまわん。万軍の主の熱心これを為し給うべし」(Isaiah.9:1-6)。柔和なイエスの正義にして憐れみ深い聖性に照らされて、ひとは新たに歩みだす。「汝の道を主にまかせよ。汝の正しさを光のように、汝のための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる」(Ps.37:6)。
モーセは賛美する、「主よ、神々のなかに、汝のような方が誰かあるでしょうか。誰か、汝のように聖において輝き、ほむべき御業によって畏れられ、くすしき御業を行う方があるでしょうか」(Ex.15:11)。主のほむべき御業、くすしき御業とは御子を介してのわれらの新しい人間の創造である。「もし誰かキリストにあるなら、そのひとは新しい被造物である」(2Cor.5:17)。これは旧約聖書以来の罪の贖いをもたらすものとしての神の人類への贈りものである。パウロはキリストの復活のゆえに、新創造を語ることができた。復活は聖なる神の力能ある人類への憐みの顕われであった。このところ強調しているように、パウロは聖霊の執り成しを過去形で表現していた。「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えることがないためである」(Rom.6:6)。「キリストの者たちはその肉をもろもろの情と欲とともに磔てしまた」(Gal.5:24)。
聖霊は過去の出来事を今・ここで現在のことがらとして確証し、伝達する。「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている」というパウロの知識主張は、ゴルゴタの丘の過去の出来事と現在を媒介する聖霊の働きなしには有意味なものとはならない。聖霊は永遠の現在にいます神のゴルゴタ上の身代わりの死が今生きている「われらの古きひと」の死であると認識していたまうことを、心の奥底で呻きをもって伝達、執り成ししていたまう。他の過去表現も同様である。例えば、こう言われている。「今や、われらは彼の血において義とされたのであるから、さらにいっそう彼を介して怒りから救われるであろう」(Rom.5:9)。「われらはその方を介して今や和解を得たそのわれらの主イエス・キリスト」(5:11)。「われらがそこに閉じ込められてあるもののうちに死にその律法から解放された」(7:6)そして「われらは希望により救われた」(8:24)。これらはキリストの出来事と同化させる聖霊の「エルゴン(今・ここの働き)言語」と呼ぶことができる。パウロはこれを「霊と[神の]力能の論証」と呼ぶ(1Cor.2:4)。
風のように自由に時空を行き来する聖霊は今・ここで2000年前のキリストの出来事がわれらの古き人間の死であったという神の認識を「神に即して」(8:27)執成していたまう。「われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ、自らのうちで呻いている。なぜなら、われらは希望により救われたからである。しかし、見られる希望は希望ではない。というのも、誰が見ているものを望むであろうか。しかし、われらが見ないものを望むなら、忍耐をもって待ち望む。しかし、御霊もまた同じようにわれらの弱さにおいて共に支えてくださる。なぜなら、われらは為されるべき仕方で何を祈るべきか知らないが、しかし御霊自ら言葉にならない呻きをもって執り成したまうからである。だが、これらの心を吟味する方[神]は御霊の思慮内容が何であるかを知っていたまう、というのも御霊が聖徒たちのために神に即して(kata theon )執り成していたまうからである」(8:23-28)。
悔い改めとは常に十字架に帰ることであり、そこに聖霊の働きのもとにあることを信じることである。山上の説教においてはこの十字架の道を歩みたまうその途上が描かれている。この究極の言葉をイエスは身をもって生き抜かれた。
3「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全なものとなれ」
イエスは怒り即殺人、情欲視即姦淫、愛敵即無抵抗というモーセ律法の急進的理解を良心に訴えて説き勧める。最終的には彼は神が完全であるように、完全であれと命じる。人類に課される要求でこれ以上の強度の、大きな要求を想定することはできない。完全性によっていかなるものごとを理解すべきであろうか。その命令が導入される文脈は偽り、二心の拒否である。古への先人たちから「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられてきたが、その命令に心の中にざわめきを感じ取るひとは少なくないであろう。そこではこう言われている。「汝らは「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎め」と語られたのを聞いた。しかし、わたしは汝らに言う、「汝らの敵たちを愛せよ、そして汝らを迫害する者たちのために祈れ、それは汝らが天における汝らの父の子となるためである。天の父は悪しき者たちにも善き者たちのうえにも太陽を昇らせまた正しき者たちにも不正な者たちのうえに雨を降らせる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにどんな報いがあろうか。[ローマ帝国の]取税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんなに優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全なものとなれ」(Mat.5:43-48)。
敵は隣人となることもあろう。さらには敵が友となることもあろう。善人も悪人にも神は憐みを示している、そのことがひとの二心を摘出させ、偽りとの決別へ、完全性への命令に結実する。われらは自らのうちにひとを分け隔てする二心があることに気付くのは、例えば、敵がひどい目にあうとそこにひそやかな喜びを感じてしまう時である、たとえそのような自己をすぐに恥じるとしても。友にさえ同じような感情をいだくこともあろう。どこまでもおのれを中心にしてしか世界を受けとめることができないその自己に落胆する。完全性からほど遠い、救いから漏れている自己を見出す。それが良心の咎めである。ひとはどこで分裂が癒され、自己が自己自身との一致において良心の咎めなく生きることができるのであろうか。
イエスは最後の審判の座において、端的に、右手で為す善行を左手に知らせることのなかった清く、憐み深く、良心の咎めなき祝福された者と良心の発動が促される呪われた者たちを判別する。イエスは言う、「[イエス]「わが父に祝福された者たち(hoi eulogēmenoi)、天地創造のときから汝らのために用意されている国を受け継げ。汝らはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・正しい者たちは応えるであろう、「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したのは、わたしに為したことである」。・・[イエス]「呪われた者たち(hoi katēramenoi)、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。汝らはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらは汝が飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」(Mat.25:34-45)。
自らの胸に手を当て、吟味反省する時、おのれの高ぶりに気付く。山上の説教はブーメランのようであり、何か否定的な思いがわきあがるところ、そこに戻ってくる。貪りの思いが起こると、「その心によって清い者は祝福されている」が響き、怒り「愚か者」と言うなら、「火の地獄に投げ込まれるであろう」と言われ、誰かの人格を否定するなら、「裁くな」と言われ、良心の痛みが発動する(5:8,23,7:1)。イエスは畳みかけるように、人間が想定しうる究極と言える、神の完全性に倣うように命じる。神は宇宙の外側で永遠の現在のうちにいたまい、言わばタイムマシンに乗っており、宇宙の法則から歴史に至るまで一切を知っていたまう認知的に十全な方であり、人格的に恣意的な依怙贔屓することのない公正で正しい方でありしかも同時に憐み深い人格的に十全な方であった。神の意志はイエス・キリストを介してほど、個々人の誰にも知らされていないため、たとえ永遠の昔から救いに選ばれ予定されていたとしても、各人にとっては自らが神に選ばれキリストにより愛されていることを信じることは常に実質的である。
イエスは呼びかけて言う。「疲れている者たち、重荷を負っている者たちは皆、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛を汝らのうえにかつぎ[繋ぎとめ]なさい。そしてわたし[の足どり]から、わたしがその心柔和であり(praus)また謙った者であることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に休息を見出すことであろう。というのも、わたしの軛は良いものでありそしてわたしの荷物は軽いものだからである」(Mat.11:28-30)。イエスの軛、荷とは何か?天の父が憐み深く、信じる者を救い出す方であることへの幼子の信仰である。有徳な者も悪人も魂の根底に生起する悔いた砕けた魂における「信じます」と幼子のように縋ること、それがイエスと共に軛を背負って歩くことである。そこでは何の立派さも要求されず、ただ自らに偽りのない信が生起する場所・二番底即ちパウロの言う聖霊に反応する心の内奥の「内なる人間」(Rom.7:22)から生きるとき、同じ軛に繋がれた主が肉の生全体を一なるものとして秩序づけてくださる。荷物を運ぶとはイエスの御跡に従って歩むことであり、そこではイエスの弟子でありうることが無常の光栄となる。イエスに似た者になること以上に喜ばしいことはないからである。このように神の完全性にはナザレのイエスを介して近づくことができる。
4神の認知的十全性
詩人は神の全知をこう語り賛美する。「主よ、汝はわたしを究め、わたしを知っておられます。座るをまた立つをも知り、汝は遠くからわが思いを悟っておられます。歩くのもまた伏すのも見分け、またわたしの道にことごとく通じておられます。わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに、しかし、見よ、主よ、汝はすべてをご存知にいます。汝は前からも後ろからもわたしを囲み、わたしのうえにその御手を置いてくださる。その驚くべき知識はわたしにはあまりに素晴らしいものであり、それは高くて、わたしはそれに到達できません。どこへ行けばわたしは汝の霊から離れることができましょうか、またはどこに逃れれば、汝の御顔を避けることができましょうか。天に登ろうとも、汝はそこにいます。陰府(よみ)に床を設けても、視よ、汝はそこにいます。曙の翼を駆って海のはてに住むとも、そこにおいてさえ、汝の御手はわたしを導き、そして汝の右の手はわたしを捉えてくださる」(Ps.139.1-10)。
宇宙万物の創造主にして救済主である神の如くに完全になる、認知的に十全な者となるということは、ひと各人を構成している諸層、諸次元に通暁して、正しく認識し判断できるようになることである。ひとは誰であれ何をしていても道徳的存在者として善悪を判断して生きており、ひとは何をしていても社会的存在者として経済、政治、法律などのもとで判断しつつ生活しており、ひとは何をしていても生物的存在者として栄養摂取、代謝、生殖のもとにあり生物としての自己を自己に宿るウィルスの本性にいたるまで知ることが求められ、ひとは何をしていても物理的存在者として光や重力の法則等のもとに運動しており、また形而上学的存在者として、「ある」と「あらぬ」と「成り去りゆく」世界において存在と消滅にかかわっている。宮沢賢治はこの形而上学的存在者についてこう問う。「われやがて死なん、今日または明日、あらためてわれとは何ぞやと考える。われは幾十かの原子と分子の結合なりせば、畢竟するところ真空と異なるところあらず、われは死して後、真空に帰するや、それともあらためてわれと感じるや」(「疾中」)。
パウロは死後の世界について、もし死者の復活がなければ、「飲めや歌えや、明日は死ぬ身だ」と主張する者たちの認識を伝える。パウロはそのような見解に「汝ら欺かれるな」と励ます(1Cor.15:32-33)。彼はイエス同様、ひとは死して真空に帰すのではなく、神の前に立たされると主張する。この尋常ならざる主張はひとつには人文、社会諸科学から生物学そして宇宙にいたるまであらゆる学問の通暁を介して、正しく吟味されることであるのかもしれない。しかし、これらすべての層が神の前に「在る」ものとして秩序づけられるとき、様々な分裂は癒され、一なる者として希望の生を生きる。ひとびとはその十全な全体の知識を持たずにも信により秩序を得、乗り越えてきたのである。信のもとにキリストの弟子でありうることを最も光栄なこととして、「艱難をも喜ぶ」(Rom.5:4)そのような秩序ある生が生み出されてきた。
その秩序は「内なる人間」を構成する「叡知」と「霊」によって基礎づけられ、ひとびとは不思議な平安を経験してきたのである。「叡知」については「汝らこの世界に同調するな、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを汝らが識別すべく、叡知(ヌース)の刷新により変身させられよ」(Rom.12:1-2)と励まされる。神の意志に叡知がヒットすることもあろう。パウロはまた言う、「わたしは汝らについて確信している、汝ら自ら善きもので満ち、あらゆる知識を十全に備えており、互いに忠告しあう力ある者たちであると」(Rom.15:14)。彼は自ら書く生死をめぐる形而上学的なことがらを読者が「読んで理解できる」はずだと主張する(cf.2Cor.1:13)。
われらは神の如き全知に向かう。ただし、自ら知恵ある者と誇る者がいたなら、こう警告される。「知識はひとを高ぶらせる、しかし愛は築く。もし誰かが何かを知ってしまっていると思うなら、未だ知るべき仕方で(kathōs dei gnōnai)知らなかったのである」 (1Cor.8:1 2 )。知るべき仕方とは何か。人間は神に造られた者として自然というテクストをまた人間というテクストを探求するその仕方である。この信のもとにひとは正しく知識を持つにいたる。われらはこの己の認知的不十全性のなかで、自己が自己自身との一致において良心の咎めなく喜んで、平和を造る者となることを望んでいる。その希望はナザレのイエスの信の従順の生涯に基礎づけられている。
5「いっさい誓うな」の基礎づけ
イエスが群衆に「誓うな」とモーセ律法を急進化させるとき、その根拠はひとびとの誓いや約束など言葉の具現化力能、実行力の不十全性を指摘することによってである。ひとは己を正しい仕方で知らないからこそ、誓いを行うとイエスによって看做されている。彼は言う、「また汝らは古へのひとびとにより、「汝は偽って誓うな、汝の誓いを主に果たせ」と語られたことを聞いている(cf.Lev.19:12,Num.30:2-3,Deut.23:21)。しかし、わたしは汝らに言う、いっさい誓うな、天にかけても、というのも神の座であるから、また地にかけても、ご自身の足台であるから、さらにはエルサレムに向けても、大きな国の街であるから、汝の頭にかけても、というのも一本の髪の毛を白く或いは黒くすることもできないからである。汝らの言葉は「然り、然り、否、否」であれ、それ以上は悪しきものからでてくる」(Mat.5:31-37)。
この誓いの禁止は十戒の第二戒「汝は汝の神ヤハヴェの御名をみだりに唱えてはならない」(Ex.20:7)と関連づけられる。「主よ、主よと言う者が皆天の国に入れていただけるわけではない、天にいますわが父の御意(みこころ)を為す者が入れていただけるであろう」(Mat.7:21)。前文の偽りの誓いで引用した当該箇所(cf.Lev.19:12,Num.30:2-3,Deut.23:21)においても、神への誓い、訴えのおざなりな言葉への警戒が語られていたが、一旦誓ったならそれを守るようにという実践の戒めに移行させられてきた。主の御名を唱えることによって免責されるわけではない。イエスはそれを急進化させ、一切誓うことのないように命じる。というのも、一方で天から地まで一切が神の支配のもとにあり神の御意が実現されるが、他方、人間が自らに頼るには神の力能との関連においてあまりに微力であることの認識が働いているからである。ひとは自分の身長を伸ばすことも髪の毛を自然に即して白くも黒くもできない。
ひとは神との関係においておのれを知るとき、「然り、然り、否、否」しか誠実さをもって応答することができないところまで追いつめられる。それが自然に思えるとき、神とひとの関係が生きたものとして形成されているときである。自然が語り出すこと、テクストが語り出すことに耳を澄ますだけで、「その通りだ、然り(本当)だ(ita est verum est)」と心の内側からの同意が偽りなくなされることであろう。内側からの納得は双方が等しいものとなり、支配のもとでのいかなる種類の洗脳とはまったく異なる。
6結論 神とひとを媒介するイエス
永遠の神と不十全な人間、この彼我の差は媒介者によってだけ橋掛けられ、近づくことが許容されるであろう。主の軛を主と共に担ぐとき、主の歩みからその柔和と謙りを受け取り、ひとは造り変えられていくことであろう。誓うなと語られるイエスご自身が共に軛を担う者に御意をなす力をそのつど与えてくださることであろう。神は善人にも悪人にも等しく雨を降らせ、太陽を昇らせたまう。敵もイエスがそのひとのために受肉し、死んだまさにそのひとのことである。「キリストがその者のために死んだそのかの者を汝の食物によって滅ぼしてはならない」(Rom.15:15)。われらが神に敵対していたときに、神は愛を示したとパウロは言う。「かくして、今や、われらは彼の血において義とされたのであるから、さらにいっそう彼を介して怒りから救われるであろう。なぜなら、もし、われらは、われらが敵であったときに、神と、ご自身の御子の死を介して、和解させられたのであるなら、さらにいっそう、われらは、和解させられた者として、彼の生命において救われるであろう」(Rom.5:9-10)。キリストに倣い迫害する者を祝福して呪わないとき、ひとは神に一歩近づくことになるであろう。
神の民「残りの者」の歴史―魂の渇きは柔和と謙りにより満たされる―
2022年10月30日聖書講義
神の民「残りの者」の歴史―魂の渇きは柔和と謙りにより満たされる―
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:1-12)。
1はじめに
皆さんにはそれぞれ憧れのヒーローやヒロインがいることでしょう。そのひとを思い出すと、喜びがわき力が湧いてくる。私のヒーローはイエス・キリストです。何か良いことが起きた時、また悪いことが起きた時、喜んでいるときにまたどんなに落ち込んでも、たとえ意識の表層に浮かんでこないことがあったとしても、彼が一番魂の低い所で支えてくださっている、導いてくださっているという思いに戻っていきます。この世のものを追求しながらも、この世のなにものによっても満たされない魂をかかえていることに気づくとき、山上の説教を思い出します。
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである」(Mat.5:1-10)。
その言葉において「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全な者になりなさい」(5:48)と人類にとっての究極の道徳を語り、そしてそれを「天の父」への幼子の信仰のもとに生き抜いてしまったひと、言葉と行いのあいだに何ら乖離のなかった恐らく唯一の人間が歴史のなかに出来事になった。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙りが伝わる。栄光を捨ててのご自身の自己卑下が弱小者への祝福を裏付ける。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂く以外に、ひとは謙遜を学び自らより弱小者への憐みを頂き、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者にはなりえない(Gal.6:1,Mat.5:9)。
2価値の逆転
この彼は人類にとって善きものの認識を最も明確な仕方で逆転させたと言ってよいであろう。或いはそれまでの歴史において自らの良心に照らしてうすうす気づいていたが、隠蔽していたひととしての本来的な在り方がナザレのイエスにおいて言葉と行いにおいて明白にされたと言うことができよう。この神の歴史につらなる者たちは旧約以来「残りの者」と呼ばれる。これは或る出来事の帰結であり神の肯定の対象、否定の対象双方に用いられる表現であるが、肯定的な歴史を刻む者たちは常に残りの者であると言える。イザヤは言う、「汝の民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが返ってくる。滅びは定められ、正義がみなぎる」(Is.10:22)。「その日には、万軍の主が民の残りの者にとって麗しい冠、輝く花輪となる」(Is.28:5)。「主はこう言われる。「ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え・・そして言え。「主よ、汝の民をお救いください、イスラエルの残りの者を」」」(Jer.31:7)。
新約聖書において、イエスは終わりの日に耐え忍んで神を求める者たちに正しい審判を約束しつつ、選ばれた残りの者たちの状況について楽観的ではない。「それから主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神はすみやかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」(Luk.18:8)。それだけ狭く真っすぐな道を正しい者たちは歩むことになる。残りの者たちはもはや徴や証拠を求める者ではなく、証を立てる者となる。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として(eis marturion)全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」(Mat.24:12-14)。
パウロはイザヤを引用して言う、「「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも、すみやかに、言われたことを行われる」。それはイザヤがあらかじめこう告げていたとおりである。「万軍の主がわれらに子孫を残されなかったなら、われらはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう」」(Rom.9:27-29)。
パウロによれば、「福音」とは「信じる[と神が看做す]すべての者に救いをもたらす神の力能」であった(Rom.1:16)。福音は「聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかからの甦りに基づき神の子と判別された」その方についてのものである(1:4)。神の力能はひとを救いだす御子の甦りに至るまでの力溢れる働きにおいて確認される。パウロはひとを救い出すその福音に神の力能を見出し、これまでの一切の価値が逆転したと報告している。キリストの信に基づき罪赦されたことから、この人生全体が、新たに、復活の主の生命に与(あずか)るためのものという位置づけを得る。彼は「ピリピ書」で言う。
「[3:7]わたしは何であれわたしに利得であったものごとをキリストの故に損失と看做している。しかし少なくともわたしは彼の故に一切を失ったが、[8]わが主キリスト・イエスの認識の優越していることの故にわたしはあらゆることを塵芥(ちりあくた)と看做す。それ[損得認識の逆転]はキリストを手に入れ[9]そしてご自身のうちにわたしが見いだされるためである、だが、それ[獲得・内在]は律法に基づくわたしの義ではなく、キリストの信を介した、即ちその[彼の]信のうえで神からの義を持つことによってであり(having righteousness from God through the faithfulness belonging to Christ i.e. on the ground of Christ`s faithfulness)、 [10]その結果、 [キリスト]ご自身をそしてご自身の甦らしの[神の]力能を、そしてご自身の死と同じ形姿になることによって、ご自身の諸々の受難への共同の与りを知ることに至る、[11]もしいかにかしてわたしが死者たちからの復活に到達するのなら。[12]わたしが既に得た或いは既に完全になったということではなく、わたしもまたキリストによって掴まえられたところのもののうえで(ep`hō(i))、わたしもまたはたして掴まえるかどうか追い求めている。[13]きょうだいたち、わたしは自らを現に掴まえてしまっているとは看做してはいない。だが一つのことを、かたや後方のものどもを忘れ去り、前方のものどもに身を伸ばしつつ、[14]キリスト・イエスにおける神の上方への招きの褒章へと眼差しを向け追い求めている」(Phil.3:8-14)。
この価値の逆転は神がイエスの信の生涯を介して罪と死に勝利する甦らしを彼に与えたことに基礎づけられる。福音とはこの御子の甦りを介して罪と死から義と生命へそして栄光へと信じる者を救い出す神の力である。この神の力がイエス・キリストの信を介してその十字架と復活において一回限り決定的な仕方で歴史に刻まれた。この世に頼るものを何も持たない者にはただ復活のキリストがわれらと共に聖霊として働いていたまうことを信じて生きていく。そしてそれは人類の歴史において待望はされてはいたが、明確には知らされなかった人間の最も根源的な力能、ポテンシャルの開示であった。キリストの柔和が心に宿るとき、「何であれわたしに利得であったものごとをキリストの故に損失と」なる。パウロは言う、「わが主キリスト・イエスの認識の優越していることの故にわたしはあらゆることを塵芥(ちりあくた)と看做す」。自分がこだわっているこの世の幸い、自らの平安これらさえ塵芥となる。それはイエス・キリストを知ったことの故に、価値が逆転してしまったことによる。
われわれはこれほどの方向転換を人生において持つであろうか。社会の慣習、マスコミが垂れ流す浮ついた価値、教育上の序列何かそのような価値基準がいつのまにか真実なものとして刷り込まれ、洗脳されてしまっているのではないだろうか。あまりにも圧倒的なこの世の情報の故に、渇いた魂が心の奥底で求めている真実なものが見失われてしまう。世情に流されて、魂の表層を生の原理としてこの世に垂れ流されている所謂「よきものども」を追い求めていく。
3ソフトパワーにおいて確認される歴史の正しさ
これを克服させるのは最終的に信による突破であるが、求道においてこの世界の人生の真理を探究することが不可欠な前提となる。とりわけ歴史がどのような方向に進んでいるのかを見極める必要がある。剥き出しの暴力、パワーだけが歴史を動かすものなのか、柔和と謙りのソフトパワーはどこにいってしまったのか。ひとは誰もが心の奥底でそれを求めているのではないのか。聖書は神の義が歴史を導いていると言う。神の義は二種類あり、そのひとつはモーセの「業の律法」であり、もうひとつはナザレのイエスを介して知らされた信に基づく義が切り開く「信の律法」である(Rom.3:27)。信はどんなに愚かでもどんなに悪くとも幼子のようでさえあれば持つことのできる魂の根源的態勢である。価値の逆転は御子の信の従順の生によって歴史に刻まれたが、われらは誰もがその「神の信」(Rim.3:3)への応答として信じることができる限りにおいて、その歴史に刻まれた出来事に対応する力能を持っている。信じることができる。ひとは倒れても、あらたに立ち上がる。それは魂における信の根源性の故にそうすることができる。ヨハネ福音書は復活の主をこう報告している。弟子のひとりトマスは復活の主イエスが来られたとき、他の弟子たちと一緒にいなかった。弟子たちが「われらは主を見た」と言う。するとトマスは「あの方の手にくぎの跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。その八日後に戸が閉まっていたのにイエスが来て真ん中に立ち、「汝らに平安があるように」と言われ、トマスに言われた。「汝の指をここにあてて、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスは「わが主、わが神」と言い、ひれ伏した(John.20:24-29)。
この現代、二千年前のまさにあの歴史のただなかのトマスのような状況においてはないと言うかもしれない。しかし、歴史は偶然的なものとしてなんら方向もなく進行しているのではなく、二つの力のもとにそのやりとりのなかで進行しているように思われる。ひとつは剥き出しの暴力に代表される闇の力とそれに抗しようとする光の力。主イエスはその光の道、残りの者たちが歩むべき道を示された。トマスの信は愛に向かったはずである。信の正しさは愛への道を歩む限りにおいて確認される。「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)。この愛の道はソフトパワーに身を包むときだけ、歩みうるものである。
4神義論―「引き渡し」としての神の怒り
ひとは問うであろう。神は本当に歴史を導いているのか。その懐疑は理不尽と思える苦難のうちに呻吟するヨブに代表される。この歴史は本当に神の意志に即して展開されているのか、神は本当に正義なのかを疑う伝統は神義論と呼ばれる。神が正しいのなら、どうしてこれほどの不正義が世界に満ちているのか、と人は問う。歴史の帰趨を明確に知ることはできるのか。これも信により魂の根源性から生きるとき、旧約の預言者たちのようによく見えるようになるものと思われる。
罪の現実が神の歴史を捉えることを困難にする。「[業の]律法は怒りを成し遂げる」とあるように、「神の怒り」の規準は「業の律法」、モーセの十戒を介して明確に啓示されたとパウロにより報告されている(Rom. 4:15,1:18,3:27)。「ローマ書」一章の議論の展開としてまず「神の義」は福音において啓示されていることが提示され、その神が義であることの第一の理由が神の怒りにあると報告されている。「なぜなら神の怒りは天から不義のうちに真理をはばむ人間たちのすべての不敬虔と不義のうえに啓示されているからである[現在形]」(Rom. 1:18)。神の怒りは今・ここで真理をはばむと神に看做されている人間たちの裁量のもとにある不敬虔と不義という心魂の態勢のうえに、即ち心魂の或る在り方のうえに「引き渡し」、勝手にしろという仕方で啓示されている(「引き渡した」:Rom.1:24, 26,28)。怒りの啓示内容は人間化された心的状態ではなく、神の行為において顕されている。そして彼の議論のなかではその怒りは福音に立ち帰らしめるものとして位置づけられる。
現在啓示されている神の怒りの理由をパウロは神ご自身の知らしめとして「なぜなら、神が彼らのただなかで明らかにしたからである」と過去時制により報告している(Rom.1:19)。この時制は暗くされた悟りなき心が偶像崇拝に陥ったことそして三度現れる「引き渡した」の過去用法とともに一つの出来事を念頭においている。神の怒りの歴史のなかでの一つの啓示行為が現在の怒りの啓示の保証ないしモデルになっていると考えられる。パウロはこの過去形表現により、神がモーセに石板を介して十戒を提示した時、出エジプトの民がそのモーセの不在のあいだに偶像崇拝等に陥った具体的な事実を表し、ひとが神の意志を知りまた知りうることの一つの証拠として提示している。実際、この引用箇所における過去時制表現、例えば「神は引き渡した」、「彼らは損得勘定において空しきものとなった」、「彼らは……愚かな者となった」は「神の怒り」とともに、聖書中、出エジプトの民の偶像崇拝事件の論述にそのまま見出される。「ローマ書」における「(神の)怒り」やこれらの表現と同じ語彙をパウロが用いた七十人訳の出エジプトの一連の当該個所において見出すことができる。これらはすべてアロンのもとで金の子牛を鋳て偶像を拝んだ出エジプトの民の記事に符合し、神は偶像崇拝についての律法に即し怒りを示して、レビ人を介し一日に三千人を倒したことが報告されている。なお、業の律法の啓示以前においてまた異邦人においては良心が業の律法のもとにあることを示す(「引き渡した」:Rom.1:24, 26,28=Ex. 1:13: 「怒り」:Rom.1:18=Ex. 32:10-13, 「空しき者となった」Rom. 1:21=Jer.2:5, 「愚かな者となった」Rom. 1:22=Jer.10:14,Exod.20:1-7,Rom.3:19-20,15:23)。
偶像崇拝において明らかにされているのは罪とは自己神化であることに他ならない。モーセの十戒即ち業の律法の第一戒において神はモーセに命じている。「主はこれらのことばすべてを語り[モーセに]呼びかけた、わたしは汝をエジプトから奴隷の家から導き出した汝の神である。わたし以外に汝に他の神々があることはないであろう。汝は自らに偶像をまた天上にあるまた地上にあるそして水のうちにいる限りのいかなるものの似像をも造ることはないであろう、彼らに礼拝することも彼らに仕えることもないであろう。なぜならわたしは汝の神、嫉妬する神だからである、父祖たちの諸々の罪に対しわたしを憎む子孫たちに三、四代報いつつ、わたしを愛しわが戒めを守る者たちに対しその子孫たち千代に憐みを施しつつ」(Exod.20:1-7)。
罪とは、ヤハウェ神以外の神々を拝むこと、偶像を造ることである。偶像・アイドルの制作は人間がそれを拝することによって依存しつつ、実は偶像を自らの欲望なり心の平安に奉仕させている。それはまことの神を神としないことであるがゆえに、偶像を造るその自己が創造者としての神となる。そのような自己神化こそ第一戒は禁じている。神はモーセに信実であるがゆえにこそ、自ら以外に関心がむけられるとき、それを許容することはなく、それを記述すべく「嫉妬」という人間的な特徴づけが許容される。ここに業の律法の背後に信の律法が働いており神ご自身においては二つの律法の関係は揺るぎないことが分かる。ただユダヤ人に対する啓示の順序として業の律法が人々の心と歴史の進展にとって不可欠なものとして知らしめられている。
神に罪と看做される者はこの第一戒に見られるような自己神化を行う者のことであり、自己神化こそが罪である。「われら知る、律法が律法のうちにある者たちに語る限りのものごとは、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服するものとなるためである。業の律法に基づくすべての肉は神の前で義とされないであろう[未来形]。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:19-20)。業の律法がモーセを介して啓示されたのは、ひとが自ら申し開きできない者であることを知らしめ、世界が神に服従するようになるためである。業の律法はそのもとにおいて例えば偶像を拝むかそれとも拝まないか、貪るか貪らないかが問われているが、その二者択一の行為において神に嘉みされないことを明らかにしている。つまり、ひとは業の律法のもとに生きるときは二者択一の一方例えば偶像を拝むことになると神に認識されている。罪が神の前の概念であるということは、神との関係が開かれない限り、肉こそ自己の座であり自己を拝み自己に仕えることが自覚なしに遂行されることになる。これが神に対する背きであり、そこでは神は自己の座の尻に敷かれており、周りを見回しても神を見出すことはないであろうそしてそれ故に罪とは何であるかが理解されないであろう。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.15:23)。
5「残りの者」の歴史
この引き渡しの歴史が一方では進行している。他方、「残りの者」と呼ばれる光の道をまっすぐに歩む者たちの歴史も同時に進行している。
パウロは「ローマ書」でイスラエルの救済の可能性の論証を展開している(Rom.ch.9-11)。彼はイスラエルの躓きの歴史を振り返り異邦人の救いの開けそしてそれを介してのイスラエルの救済を確認している。パウロによる同胞への思いと誇りが見られる。「神はご自身の民を見捨てたのか・・断じて然らず。われもイスラエルである」(11:1)。旧約を引用しつつ彼は恩恵を確認にしている。「「われバアルに膝をかがめなかった七千人を」わがために「残した」。かくして、今という好機においても、このように恩恵の選びに即して残りの者が生じた」(11:4-5)。「恩恵の選び」には人間の出自や資質は考慮されない。「イスラエルは追い求めているそのものを獲得しなかったが、選ばれた者は獲得した」(11:7)。選びの者たちであるバアルに膝をかがめなかった七千人は神への畏れのなかで、実際の歴史において偶像崇拝に陥らなかったことが報告されている(1King.19:18)。
「恩恵の選び」において神が或る者たちには自らの約束に信であることを示しており、信の律法が機能していることが理解される。他方、或いはそれと同時に、「神には偏り見ることがない」(Rom.2:6)ことも歴史においてヤコブとエサウの生涯、バアルに膝をかがめなかった七千人の生涯において確認される。イスラエルの或る者たちにも信の律法が適用されることにより救いにもたらされる。「彼ら[イスラエル]は倒れるために躓いたのではないかとわれ語っているのか。断じて然らず。むしろ、彼らの罪過によって、救いが異邦人のものとなり、彼ら自身を嫉妬させるためである。・・わが血肉を嫉妬せしめそして彼らのうち幾人かを救う」(11:11-14)。
歴史上、神はご自身をイエス・キリストにおいて最も明白な仕方で二千年前に知らしめている。そして「わたしは汝らを遺して孤児とはせず」(John.14:18)と言われるように、御子の昇天後は聖霊が派遣され、心の内奥において呻きをもって執り成しています。神の恩恵に浴している人々つまりイエス・キリストや聖霊を介しての神の働きかけに応答している人々には、それは単に導かれているという一般的な解釈を遂行するというのではなく、その感謝そして賛美さらにはただ栄光を帰することの一つ一つの働きが、神の前とひとの前を分けることのない仕方で歴史を造る働き(エルゴン、being at work)においてある。この歴史を人間は神の前に在るという信のもとに、神のエルゴンとひとのエルゴンの交流において造る。神の前とひとの前をロゴス(理論)上分ける一般的な言葉と今・ここのエルゴン双方からの神の前とひとの前の相補的な展開が求められている。そのとき、信仰は理性(ロゴス)の逸脱である狂信からも、またパトス(感情などの今・ここの身体的受動)の働き(エルゴン)が過剰(例えば恐怖)となることにより生じる迷信からも自由にされ、正しい信のもとに良き果実が生みだされていく。
6結論
登戸学寮の歴史においても、黒崎先生の弟子でこの土地を寄贈くださった小町夫妻の一つ一つの今・ここの働きなしに、黒崎先生の構想は少なくとも登戸において実現されなかった。「零戦パイロットの至宝」と呼ばれた小町定氏の戦記を読むとき、驚嘆すべきほどの細い道が学寮建設にまでつながっていたことがわかる。登戸学寮の歴史もこれまで同様、一つ一つの働きがこの神の愛への信そして神の子であることの信のもとに遂行されている限りにおいて、先行者たちの献身は何らか生きて働いていく。その一つの歴史に連なっている。そしてこの歴史は繋がっていき、黒崎先生が学寮建設に向かったその道に、多くの方々の細いしかし確かな道が合流した。そしてこれからも。
この戦争と疫病の2022年、闇は濃くあり、「引き渡し」(パウロ)のもとに勝手にせよと放任された悪の数々の出現のなかで歴史が進んでいるが、「残りの者たち」が地の塩、世の光として狭い確かな道を歩む歴史も続いる。その光の道を歩んでいきたい。
「わたしは葡萄の木、汝らは枝である。わたしのうちに留まる者は、わたしもまたその者のうちに留まる、そうしてこの者は多くの実を結ぶ。というのも、わたしを離れては、汝らは何も為しえないからである」(John.15:5)。
「恐るるなかれ、われ汝と共にあり、驚くなかれ、われ汝の神なり、われ汝を強くせん。・・汝はわが僕なり、われ汝を造れり。イスラエルよわれは汝を忘れじ。われ汝の咎(とが)を雲の如く消し、汝の罪を霧の如くに散らせり、汝われに帰れ、われ汝を贖いたればなり」(Is.41:10,44:21-23)。
新しい生命―敵の罪を担うキリストを仰ぐ―
日曜聖書講義2022年10月23日
新しい生命―敵の罪を担うキリストを仰ぐ―
聖書
「求めよ、さらば与えられん、探せ、探せば見つかる。戸を叩け、開けてもらえる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、戸を叩く者には開かれる。汝らの誰かが、パンを欲しがるおのが子に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、汝らは悪い者でありながらも、自らの子供には良いものを与えることを知っている。まして、汝らの天の父は、求める者に良いものをくださるに違いない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、汝らも人に為せ。これこそ律法と預言者である」(Mat.7:7-12)。
「主の御手が短くして救いえざるにあらず、その耳が鈍くして聞こえざるにあらず。ただ汝らのよこしまなる業、汝らと汝らの神とのあいだをへだてたり、また汝らの罪そのみ顔を覆いて聞こえざらしめたり。そは汝らの手は血にて穢れ、汝らの指はよこしまにて穢れ、汝らのくちびるは偽りをかたり、汝らの舌は悪をささやき、その一人だに正義をもて訴え真実をもって論じるものなし」(Isaiah.59:1-4)。
1はじめに
求めること、これはわれらの側からの天国へのアクセスである。神の側からすれば、既に天国の門は開いている、「戸を叩け」とガリラヤ湖畔で仰るキリストご自身がその後ゴルゴタで戸を開けたが故に。ひとは神との和解にキリストを介して参入する。われらは既に開けられた戸を叩くのである。キリストは罪と死に勝利する福音を歴史のなかに打ち立てられた。
律法ではなく福音を聴いていたい。これは心地の良いものに包まれていたい、たとえ外界がどのようなものであっても、という単に自分にとって心地よければそれでよいという身勝手、自己中に過ぎないのではないのか。過酷な現実、不都合な真実を正面から見据えるそのような心の強度をもたない者が陥る自己欺瞞なのではないか。ひとは信仰の招きにそのような懐疑を提示することであろう。しかし、この懐疑は、信は願望にすぎないという前提のもとに遂行される。この前提こそ疑われてよい。そのように信を捉えるとき、自家中毒となり蛇の自己食尽に陥るであろう。
2われらの外に歴史のなかに打ち立てられた福音
福音は御子においてわれらの心の外に打ち立てられたわれらの救いである。「福音」とはパウロのまとめによれば「信じる[と神が嘉みする]すべての者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:16)。それは信によってのみ接近でき、受入れることのできるものである。パウロはそれを「福音の真理」(Gal.2:5)と呼んだ。信じることによってしか福音には接近できない。その内容はあのまことの人間ナザレのイエスはまことに神の子キリストであるということの信である。神の子が受肉しその言葉に偽りがなくその言葉と働きが完全に合致していた唯一の完全な人間が歴史上出現した。
「ことばは肉となった」(John.1:14)。神の前の真理すなわち言葉で表現されうる神による創造に伴う人間への認識と意志が歴史のなかに実際に働きとして打ち立てられた。「肉」とは身体をもった自然的存在者の生の原理のことを言う。生物学が解明できるそのような心身のことである。この自然性は生命を育(はぐく)む地球の構成物からなっている。素材はこの惑星から得られている。この地上のものがそうであるように誕生と成長があり、衰退と死滅がある。
イエスは彼自身がそうであるように、誰もがこの自然性の与件のもとで「天の父の子となる」ことができると言う。「「隣人を愛し、敵を憎め」と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(5:43-46)。敵をも愛することを介して、天の父の子となることができるという。天の父は太陽を昇らせ雨を降らせすべての人々を育んでいる。山上の説教は野の百合、空の鳥を養う自然の父の比喩により、聴衆にこの自然性のもとにある人間はすべて敵を愛することにより天の父の子となることができるという。イエスはそれを「まず神の国とご自身の義を求めよ」と信仰に招くことにより、敵をも愛することができるようになると教える。
人間にとって最も困難なことであると思われる敵をも愛することをイエスは言葉で教え、ご自身の生涯を通して実現された。イエスは十字架上でその生を完遂された。「既に昼の十二時ころであった。全知は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よわたしの霊を御手に委ねます」。こう言って息をひきとられた」(Luk.23:44-46)。彼はこの死により敵をも愛することを介して人類の救済の道を示された。ヨハネ福音書でこう報告されている「神はその独り子をお与えになったほどに、世界を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである。神が御子を遣わされたのは、世界を裁くためではなく、御子によって世界が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世界に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるためである」(John.3:16-21)。
敵、闇、悪に対してひとが取りうる態度は自らが闇と悪に取り込まれていたことを認め悔い改め、光を求め世界を救うべくひととなったイエスを信じることであるとイエスは言われる。自らが闇のなかにおり、敵を憎むなどの悪しき行いに身を任せている限り、悪から逃れることはできず、御子と共に生きることもできない。神は誰一人闇の中に滅びることのないように世界を救うべく御子をまったき人として自然性の肉において遣わされた。そのナザレのイエスの教えと行いによって、ひとに救いの道が示された。
ひとはイエスを救い主と信じることにより闇と悪から逃れられると教えられる。この信じることが第一に「真理を行うこと」である。神の意志を行うこと、それは信じることである。ヨハネにこのように報告されている。「イエスは答えて言われた、「まことにまことに私は汝らに言う。汝らが私を探しているのは、徴をみたからではなく、パンを食べ満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の生命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子が汝らに与える食べ物である。父である神が、人の子を定められたからである」。そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは彼らに答えて言われた。「神がお遣わしになったそのひとを信じること、まさにこれが神の業である」」(John.6:26-29)。神と関わる唯一の道はイエスを救い主と信じることである。そして信じるとき、その信じることそのことが「神に導かれてなされた」と語られる。信じることは信じせしめられること、即ち神の業・働きでもある。信じるということはそのように神の光のなかでその光のなかにいることを受け取ること以上のことではない。これは循環に見えようけれども、この地球も宇宙の一切も神の創造の業である限り、神の創造と導きから逃れることはできない。そしてその神がわれらを愛されたのである。預言者ヨナが神の御前を逃れてタルシシ即ち世界のはてまで行こうとしたが、くじらに飲み込まれて吐き出されたように、創造者と救済者の働きから逃れることはできないのである。信じることは自らの人生がこの栄光の主神によって導かれていることを信じることから始めるしかないのである。
3新しい生命
そこで冒頭の問いに戻る。信じることは心地よい繭のなかに身を隠して安心していることなのではないか。それは見たいものだけ見ている自己満足、自己欺瞞なのではないか。ひとはアドヴァイスするであろう、「現実を見よ、自ら力をつけ頼らず生きよ」、と。信仰は弱い者たちの隠れ家であっても、人類の歴史は生物の世界がそうであるように弱肉強食の自然の力のもとに服しているのではないのか。力関係により弱い者にとっては自らを滅ぼそうとする強い者が敵なのであり、自ら強くなる以外に滅ぼされてしまうのではないか。
確かに自然法則は相対的自律性をもって歴史を導いている。しかし、自然も神の創造の業である。イエス・キリストにおいて顕された神の福音、信じる者に救いをもたらす神の力能はその自然性よりも根底にある神の霊即ち神との愛の交わりのなかでの新しい生により希望のうちに光のなかを歩みだす。ヨハネは言う、「その光は、まことの光で、世界に来てすべての人を照らすのである。ことばは世界にあった。世界はことばによって成ったが、世界はことばを認めなかった。ことばは、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、ことばは、自分を受入れたひと、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は世界によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」(John.1:9-13)。
ひとは自然性にその都度死に、信じることを介して新たに神によって生まれること、そこに新しい生がある。これは常住坐臥のことであるが、一度自らが闇のなかにいることを認め、そこに死に、闇に打ち勝つ光があることを認めることにより、光のなかを歩みだす。そのとき、すべてが変わって認識される。これまで自らを滅ぼそうとしていた敵が隣人となる。神により愛されているひとであったことを知る。光によって目が見開かされるのである。
われらは自らの信仰が神の促しによるものであることを信じる。しかし、それは導かれていることへの願望のなかでの信仰ではない。循環を断ち切るものが「イエス・キリストの信」(Rom.3:22)である。神はご自身の義をイエス・キリストの信を媒介にして信じると神が看做す者たちに知らしめ、そしてイエスの信に基づく者を義としていたまう(Rom.3:22-26)。信に基づく義が新しい人間のその都度の刷新である。
4聖霊の執り成し
パウロは言う、「キリストに属する者たちは自らの肉を情と欲とともに磔てしまった」(Gal.5:24)。「私にはわれらの主イエス・キリストの十字架の他に、誇るものがあってはならない。この十字架によって世界はわたしに、私は世界に対して磔られてしまった」(Gal.6:14)。これらの過去形は十字架上の出来事において神が今・ここに生きるわれらの古き人間の死を理解していたまうということを、時空を風のように自由に飛び越える聖霊がわれらの心のうちにあって、呻きつつ執り成し、伝達していることを示している。聖霊の媒介なしに、キリストの出来事における神の認識はわれらに適用されていると受け止めることはできない。
パウロは言う、「われらはすべての被造物が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにあることを知っている。しかし、ただそれだけではない。われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ、自らのうちで呻いている。なぜならわれらは希望により救われたからである。しかし、見られる希望は希望ではない。というのも、誰が見ているものを望むであろうか。しかし、われらが見ないものを望むならば、忍耐をもって待ち望む。
しかし、御霊もまた同じようにわれらの弱さにおいて共に支えてくださる。なぜなら、われらは為されるべき仕方で何を祈るべきか知らないが、しかし御霊自ら言葉にならない呻きをもって執り成したまうからである。だが、これらの心を吟味する方[神]は御霊の思慮内容が何であるかを知っていたまう、というのも御霊が聖徒たちのために神に即して(kata theon )執り成していたまうからである」 (Rom.8:22-27)。パウロは結論する、「どんな被造物もわれらの主キリスト・イエスにおける神の愛からわれらを引き離しうるものは何もないと確信する」 (Rom.8:39)。
結論
パウロはこの途上の生を永遠の生命のなかに位置づける。「われらはこのテント[身体]のなかにいるあいだ、われらは重荷を担いつつ呻いているが、彼にあってわれらは脱がされることを欲しているのではなく、[身体の]上に着ることを欲している、それは死すべきものが生命によって飲みこまれるためである」(2Cor.5:4)。ここでも生命から死が位置付けられている。われらは重荷に喘ぐ身体を脱ぐのではなく、キリストが担いたまうたのはその身体の重荷であり、彼はその肉のうえに永遠の生命を担っていたからこそ、身体に帰属する死は生に飲み込まれる。受肉はどこまでもわれらへの憐みである。
新たな生命には死が必要であること、これは罪の贖いにとって不可欠のプロセスである。そして新しい被造物はキリストの生命を着て、死すべき身体が生命に飲み込まれることによって成就される。父なる神はその現場におり罪人との間の籬(まがき)、障壁を取り去るのに十分なものであるとして御子と共にあった。それはちょうど光が強ければ強いほど闇を消し去るように、聖であればあるほど穢れを清めるように、善の極においてある比較を絶した福音は人類すべてを罪悪から贖いだす力能を持つ。
贖われた者は自らがキリストにより愛されたことのこの証を立てる。彼がそうしたように、迫害する敵をも愛する。もうすでにこの世界にあって、信仰と希望においてこの世にない者たちであることを証明する。
われらも右の頬を打たれたら左を向け、隣人の罪を自らの十字架として身代わりに担って歩むが、それはキリストが身代わりにわが罪を担われたからである。われらは喜んでそのキリストに軛を繋がれての新たな被造物として共に歩む。
山上の説教(3)「敵をも愛せよ」―なぜ信なしに愛が生まれないのか?
山上の説教(3)「敵をも愛せよ」―なぜ信なしに愛が生まれないのか?―
日曜聖書講義2022年10月16日
聖書
「「隣人を愛し、敵を憎め」*と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(5:43-46,*cf.Deut.7:2(文字通りの文章は見出せない), cf.Lev.19:17-18)。
1はじめに、
敵を愛するという発想を教えられずに人は持つことができるであろうか。愛するに値するひとを愛するということは自然なことであるが、自分を蔑み、貶(おとし)め、破壊しようとする者を愛するとはどういうことであろうか。敵を愛することは隣人愛の戒めに包摂される限りにおいて理解することができる。「汝の隣人を、汝自身のごとくに、愛せよ」(Mat.22:39)。これは「レビ記」19:18に見られる。隣人と自己の等しさを表現したものであり、旧約聖書の記者は既に愛が相互の等しさであることを知っていた。ひとは支配からも支配されることからも自由になるとき、相手を操ることからも、操られることからも自由になるとき、私はあなたによって私であり、あなたは私によってあなたであるとの相互の等しさが出来事になる。バランスの崩れから等しさに至る過程も「愛」と呼ばれる。そこでは右の頬を打たれて左の頬を向けることが「愛すること」と呼ばれることがある。
人は歴史のなかで偶然敵になってしまうのであり、誰であれすぐ横にいるならその敵は隣人である。イエスはその敵のために自ら磔られたことにより、敵はイエスに愛された者として、自らの横にいる。たとえ私を破壊しようとする者であっても、その人はイエスに生命をかけて愛されたひとである。「敵をも愛せよ」という戒めはイエスが自らの敵に隣人となったことにより基礎づけられる。イエスを主と信じ、愛するなら、イエスが愛する者をも自らの如くに愛することになるであろう、たとえそれがたまたま私を殺そうとする敵であったとしても。
愛の感情実質は喜びである。憎しみや後悔などは過去が現在を支配する仕方で今・ここにおいて生起する。不安や恐れそして焦りなどは未来が現在を支配する仕方で今・ここにおいて生起する。しかし、愛は後悔や焦燥から自由な最も現在的な感情として喜びを伴う。それはちょうど放物線が接線に触れるように、永遠が今・ここに宿るかの如くである。人類は愛を、情熱恋愛においてさえ、永遠との関連においてしか語ってこなかった。人類は本性上永遠を求める者であり、等しさが生起するところ、あらゆる対立から自由にされる。ボンヘッファーは言う、「「貧しさ」や「富」、「名誉」や「恥」、「故郷」や「異郷」、「生」や「死」は何であろうか。愛に生きる人は、これらについて何も知らない。それらの間に区別を設けない。愛に生きる人の知っていることは、むしろ、「しあわせ」は「ふしあわせ」と同じように、「貧しさ」は「富」と同じように、・・ただ「愛する」ということをますます強くし、ますます純粋にし、ますます完全にするために役立つということだけである」(『主のよき力に守られて』p.337)。
2信、義そして愛
聖書は信(信仰)と義(正義)と愛(憐み)を最も大切な魂の在り様として捉えている。イエスは旧約聖書に基づき父なる神の意志、律法を一つの体系のなかで捉え、軽重を明確に判別している。彼は言う、「ああ、なんということだ、汝ら、律法学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばきそして憐みそして信を蔑(ないがし)ろにしている」(Mat.23:23)。彼はここで正義と憐みそして信を律法のなかで重要な戒めとして位置づけた。神ご自身が信であり、正義であり愛でありたまうことに基づき、これらの三つが神の意志として最も重要であると語られている。イエスは義と愛と信これら三つのなかで、この途上の生においては直接まみえることのできない神に向かう根源的な心魂の態勢である信を基礎にして義と愛の両立に向かった。「まず神の国とご自身の義とを求めよ」(Mat.6:33)。山上の説教の純化された道徳を遂行する手前で、まず神を仰ぎ御国と神との正しい関係を求めることが「まず」第一になすべきこととして語られている。自らの道徳的状態の自省ではなく、神を仰ぎ見ること、即ち信じることが最も大切なことであるとされる。これによりパリサイ人の義に優る義をえることができ、敵をも愛することができるようになると、山上の説教は展開されている。
パウロも愛が「義の果実」(Phil.1:11)、つまり信に基づく正義が生み出す肯定的な産物であるとする。そこで正義はもはや「目には目を償い」(Exod.21:24)のモーセ律法の比量的な正義ではなく「信に基づく義」(Rom.10:6)、「神の義は・・信に基づき啓示されている」(Rom.1:17,cf.Gal.3:16)、「キリストの信を介した義」(Phil.3:9)と特徴づけられる神が信に基づき義であることからひとも同様にキリストの信に基づき義とされる神の前の正義を意味し、その義と愛、正義と憐みの両立が打ち立てられる。イエスは信の従順を貫いた、そしてそこにおいて公正なさばき・正義と憐み・愛が和解した。これが福音である。
3 「愛を媒介にして働いている信が力ある」
パウロは「愛を媒介にして働いている信が力ある」(Gal.5:6)と言う。信の力なしにひとはひとを愛することができないとこの箇所を読むことができる。ここでは力ある正しい信仰・信は正しい信仰の対象に向けられている。それはパウロにとっては明らかにナザレのイエスが「天の父」と呼んだ、万物の創造主にして歴史を導く主なる神のことである。人は人を信頼することはあっても、神を信じるように信じることはない。神への正しい信はイエスご自身が模範を示されたように幼子の信仰である。イエスによる或る人々への不信はこう報告されている。「イエスは過ぎ越し祭のあいだエルサレムにおられたが、そのなさった徴(しるし)を見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間について誰からも証してもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(John.2:23-25)。彼らの心の中に信頼に値する偽りなきまっすぐな心の在り様をイエスは見出すことができなかった。ひとは他者の心の動きや行動を正確に識別することが求められる。そのとき、相手に実力以上のものを要求することもなければ、相手からの要求に対する距離ある応答も可能となる。パウロは「識別するそのことがらにおいて自らを裁かない者は祝福されている」(Rom.14:22)と言う。ひとはあらゆるものごとを識別して生きていかざるをえない。ただそのとき、自らの識別が他者への差別になっているのではないかなどと自らを審判しないですむ者は祝福されていると言う。
イエスは彼を苦しめ、殺そうとする敵たちをも愛したが、それは彼らを信用したからではない。天の父の意志が「敵をも愛せよ」というものであることを彼は信じたがゆえに、右の頬を打たれたら左の頬を自ら向けたのである。
4信の律法に基づく信仰を介して業の律法の収斂である愛が「充足」される。
パウロはイエス同様「愛する者は他の律法を満たしている」とし、業の律法を「愛」に収斂させる。十戒とは別に、「何か他の戒めがあるにしても、それはこの言葉「汝の隣人を汝自身のごとくに愛せよ」により包摂されている。愛は隣人に悪を働かぬ。かくして、愛は律法の充足である」(Rom.13:8, 9-10)。ナザレのイエスは死に至るまで従順の信を貫き愛を全うした。パウロは「愛を媒介にして働いている信が力強い」と語り、その愛は信に基づく義が生み出す「義の果実」であり「霊の果実」であると位置づける(Gal.5:6, Phil.1:11,Gal.5:22,1)。信の根源性のもとに、自らの力能を誇示する奇跡のような業ではなく、愛することが遂行される限り、キリストの足跡に従うものとなる。「たとえわたしが山を移すほどの大いなる信仰を持てども、愛を持たねば、わたしは何者でもない」(1Cor.13:2)。信と愛は異なるものであるが、愛を信に基づき媒介したことがキリストの生涯において示されている。それも新しい酒が古い革袋を破るように生命の迸りのゆえに、それを飲む者の上に喜ばしい生命の横溢が愛の力能として方向づけられ、発揮される。かくして、神そして媒介者イエス・キリストへの信・信仰はひとの心的状態としてあらゆる肯定的な働きの根源として位置づけられるが、その完成は愛において恐らく天において確認される。その意味で「愛はこれら信と望より偉大である」(1Cor.13:13)。
このような事情であるとき、ひとであることの課題は人格の完成をめざすことだというという物言いは注意を要する。人格についての何らかの完成のイメージのもとに自らの足らなさや失敗そして気質を責めるときまたそのイメージのもとに隣人を審判するとき、それは業の律法の罠にはまっている可能性がある。ひとはそれを人生の直接のゴールとするとき、それを実現しないばかりか業の律法のもとに生きるものとして義とされるに至らないであろう。人格の完成は愛において成就されるが、それはただ「信の律法」のもとにイエスの軛に繋がれて生きる限りにおいて満たされることもあろうそのようなことがらである(Rom.3:27-31)。ひとは信のみなもと即ちみなもとの信に帰る以外に愛の道はないということが二つの律法において知らされている。信は愛に至るこの世界の途上の生の根源的態勢なのである。
信と愛は、一方、信は信の律法により啓示され、他方、愛は業の律法の充足、冠として位置づけられるそのような関係においてある。「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心に即し]そして汝の魂を尽し[生命ある限り]そして汝の思考を尽して[理性に即し]愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身の如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat. 22:36-40)。イエスは「律法の一切」および「預言者」がこの掟により秩序づけられると主張する。パウロも同様である。
このことの故に愛が満たされるとき、一切の律法は充足されると語ることが許容される。イエスは山上の説教においてその愛についてこう命じる。「「隣人を愛し、敵を憎め」*と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(5:43-46)。ここに敵をも愛する究極の愛の姿が示されている。愛とは支配からも被支配からも唯一自由な場所で、我と汝の等しさが生起することである。敵がその敵意の差し向ける相手である自らがまずその敵の友となることによって友となることである。シーソーのバランスがとれている状況である。
イエスは家族や隣人や友人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益、世間体との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において支配や操作そして独善や欲望が遂行、解放されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。
5 結論
かくしてイエスはこう宣言することができる。「わたしは律法と預言者を破壊するためではなく、成就するべく来た。わたしはまことに汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと教える者は、天国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを護り、そうするように教える者は、天国で大いなる者と呼ばれる。わたしは汝らに言う、汝らの義が律法学者やパリサイ人の義に優るのでなければ、汝らは天国に入ることはないであろう」(Mat.5:17-20)。律法から一点一画たりとも「過ぎ去ることはない」のは、律法は神の生ける意志であり、その一切は愛の道具、徴、表現としてそして総じて愛を実現することに向けて収斂しているからである。なによりも「業の律法の目指すものはキリスト」(Rom.10:4)であり、キリストに収斂しており、彼においてその愛は完成される。
山上の説教(2)「憐む者は祝福されている」
山上の説教(2)「憐む者は祝福されている」
日曜聖書講義 10月9日
聖書箇所 八福
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:1-12)。
1誰かに憐みをかけるひとはその憐みを主イエスにもかけている。
「祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである」。憐れむ者は祝福されている、なぜなら競争心や憎悪、嫉妬からも自由にされ、喜びのうちに友と友の関係を構築しているからである。善きサマリア人は憐みのうちに瀕死の旅人を援けている。そこに至る道は「われは道であり、真理であり、生命である」と言ったイエスの歩みに信じて追随する以外にないであろう。イエスの軛を共に担ぎ上げ、彼と共に歩むこと以外に、イエスの柔和を獲得することはないであろう。この世のものではない神の平安がわれらを守るであろう。他の道が魅力あるものともはや見えない。富や栄華やそして名声など、この世の価値はこの憐みと柔和を持つ、ひととしての本来性から比べて、いかにもこの世への隷属を示している。
「誰も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。汝らは、神と富とに仕えることはできない」(Mat.6:24)。「その心によって清い者」とはその心に二心(ふたごころ)がなく、心の目が光のように明るく澄んでおり、ものごとがよく見え最終的に「神を見る」者のことであった。「汝の宝のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.5:21)。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置く者はいない。ひとが入ってくるとき光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い。それだから、汝のうちにある光が暗くないか吟味せよ。かくして、もし汝の全身が明るく、何か暗い部分をもたないなら、ともし火が明るさによって汝を輝かすときのように、全体を輝かすものとなるであろう」(Luk.11:33-36)。山の上にある街は隠れることがなく、周囲を照らす。そのように「世の光」はこの世界を支え、導く(Mat.5:14,cf.Phil.2:12-15)。
ひとは光を好むか闇を好む。全身の明るい秩序を求める者はイエスのもとに行く。彼と共に歩む。福音書のイエスの言葉に、小さな者への愛が福音のもとに生きているか否かの規準になることの証が見られる。イエスはどのようなひとが憐み深いひとかを、競争や怒りや憎しみなどの争いに明け暮れている者たちとのコントラストにおいてこう語る。「[イエス]「わが父に祝福された者たち、天地創造のときから汝らのために用意されている国を受け継げ。汝らはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したことは、わたしに為してくれたことである」。・・[イエス]「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。汝らはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらは汝が飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」」。(Mat.25:34-45)。
これら二種類の生の規準は何であろうか。人間の本来性の理解のもとにひとをそして隣人をリスペクトし、ひととして困窮している状況に出会ったとき、それは天の父の子としてのわれらに相応しくないという明確な認識である。これは一種の理想主義に捉えられよう。山上の説教においては人間のありうる究極的な道徳が語られているため、理想主義的に捉えられようが、これはユートピア「生起する場所のない幻想的な場」ではない。イエスがあの山上の説教を生命をかけて生き抜いたからである。
言葉と行いを合致させたこの方を忘れて、困窮者一般を問題にするとき、律法主義に陥ってしまい、イエスの生命を失ってしまうことがある。トルストイの「光あるうちに光のなかを歩め」のなかで主人公は友人にこう語る。「キリスト教的結婚は、一人の女に対する絶対的な愛を否定しないどころか、そういう愛があってこそ、結婚は合理的になり、神聖になるのだ。しかし、一人の女に対する絶対的な愛は、その前から存在していた万人に対する愛が犯されない場合に限って、初めて発生することができるのだ。万人に対する愛を規準としていないにもかかわらず、それ自身美しいものとして詩人たちに謳歌されている恋愛は、愛と呼ばれる権利をもっていない」(p.46米川正夫訳岩波文庫)。キリストはその都度隣人となり隣人を愛することを命じたが、万人への愛を命じることはなかった。善きサマリア人の譬えが教えるように、この三人のうち「誰が隣人となったのか」がその都度問われているのであり、一般的に悩める人、苦しむ人、神の子に相応しくない人一般を相手にしようとするとき、いつの間にか生きた主を忘れ、自らの理念に捕らわれてしまうことに気を付けよう。トルストイのこの書物はことごとく福音の中心を捉え損ね、律法主義に陥っている。彼自身本書執筆により喜びと平安を得られなかったために、自らの真正な書物であることを認める署名を拒んだのだと思われる。「人生の幸福は・・神意を履行することに存する」(p.22)のではなく信の従順により神意を完全に履行したナザレのイエスを信じることにある。パウロは言う、「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、汝らを信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。神意が御子において知らされたことではなく、神意の履行を第一に問題にする時、それは信の促しではなく直ちに生の規範となる。律法主義の落とし穴に落ちないよう留意しよう。その都度十字架を仰ごう。「キリストのうちにある者は自らの肉を感情と欲望とともに十字架に磔てしまった」(Gal.5:24)者たちである。聖霊は心の奥底で十字架の出来事において信じる者の過去の罪を情と欲とともに処分してしまったと神が看做していたまうことを、「神に即して」その都度伝達し執成していたまう(Rom.8:27)。われらはただその都度十字架を仰ぎ、信のもとに古き自己を磔ることができるだけである。そのとき魂が刷新され愛の道を歩みだす。常に原点に立ち帰ることによってだけ、隣人となることができる。
イエスの「この小さな一人にしたことはわたしにしたことだ」という発言においてはっきり分かることは、イエスは困窮した人々に自らを重ね合わせていたことである、少なくとも共にいるということである。われらは一度でもこのような視点をもったことがあるであろうか。誰か第三者がシリアの難民に何か食べ物を送ったときに、「ありがとう、わたしにくれてありがとう」と言ったり、受け止めたりしたことはあったであろうか。はっきり言って、わたしはそのような感覚をもったことは一度もない。これは或る意味でキリストの弟子として衝撃的なことである。しかし、そこに自らのパトス(身体的受動、感受性)が今後変わっていくかもしれないという手がかりを得たと言うこともできよう。
キリストについていくということは具体的にキリストが為したように生きることである。これは覚悟がいる。とはいえ、神の意志は既にナザレのイエスによって遂行された。それ故にわれらはイエスがキリストであることを信じることから始める。「まず神の国と神の義とを求めなさい」(Mat.6:33)。何か自らのうちに欠落、欠けているものがあることを認識することなしに、信仰は開けない。「求めなさい、そうすれば汝らに与えられるであろう。探しなさい、そうすれば汝らは見出すであろう。叩きなさい、そうすれば汝らには開けてもらえるであろう」(Mat.7:7)。この世のもので満たされ、求める思いをもたない者は神と関わることはない。「その霊によって貧しい者は祝福されている」。この世の様々な富、つまり自らの人徳、名誉、金銭そして地位など、これらの所有によって自らに満足している者は飢え渇くことはない。肉によってこの世の豊かなもので満たされている者たちは一つ欠けているかもしれない、即ちその霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされないことを知っているその知識を欠いていよう。その霊によって貧しい者たちは「天の国は彼らのものだからである」と、その祝福が語られている者たちであった。この世のいかなる富や才覚によっても満たされず、天国の平和と正義と愛を求めて、入れていただくことにのみ希望を見出す者たちがいる。イエスはこのようなひとたちと共におり祝福していたことが分かる。イエスのこのような言葉にであうとき、われらにはまだ分かっていない人間の消息があるのではないか、われらがこの社会において求めている良きものとは異なる良きものがあるのではないかという思いにいたる。
2良きものどもの秩序づけ
良きものどもが正しく秩序づけられないとき、二心、三つ心が生じるのであった。イエスは山上の説教においてパリサイ人のこの心魂の分裂、欲深さを責めていた。イエスは山上の説教においてモーセ律法(業の律法)を純粋化、先鋭化し、新しい教えを言葉の力のみによって伝えた。そこで乗り越えが企てられている敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」。このように山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろう。「裁くな」「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済や文化活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は戦争はもとより正当防衛をさえ不可能にするように見える。
しかし、イエスは誰にも担いえない重荷を課す方ではなく、その重荷から解放する信仰に招いていたまう。業の律法のもとに生きるパリサイ人への彼らの自己矛盾を指摘する厳しい言葉の数々も、ご自身がそのもとにある信の律法への立ち返りを促すものであった。イエスが人類に対する神の意志を十全に実現したこと、そのことを信じることから始まる。信は肯定的、創造的生の根源である。イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(Mat.7:11)。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。「まず神の国と神の義を求めなさい、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(Mat.6:33-34)。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。
結論
ひとは天国への帰一的集中のもとに行為の選択から宇宙の構成の知識に至るまで一切を秩序づける。「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものだ」。人間に最も重要なことを学んだ者は生の全体のなかで個々のものをそれは古いものであれ新しいものであれ自由に適切に位置づけそしてそれに対応して行為を選択することができる一家の主人に似ている。この発言を単にパトスに対して良い態勢にある人格的な有徳性に対してだけではなく、その認知的な卓越性に対する賞賛と読むことができる。この信なしに、人生は究極のところ秩序づけられないであろう。なぜならひとは神に向けて造られたからである。神を仰ぎ、求めるとき、イエス・キリストにおいて恩恵が与えられていることに眼差しが向けられるであろう。
山上の説教―八福―
山上の説教―八福― 日曜聖書講義2022年10月2日
八福
聖書
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:1-12)。
1はじめに
この山上の説教の冒頭部を飾る八福を現代人は或いは今ここで聞く個々人はどのように受け止めるのであろうか。ひとは弱っているとき、何か中東の髭をはやした、正義のために迫害に耐え信仰を貫いている屈強な男たちの姿を思い出すのであろうか。この八福のなかには悲しんでいる者たちも挙げられている、柔和な者たち、憐み深い者たちも挙げられている。愛する者を失い、或いは自らの弱さに悲しみ、自信なく悲嘆にくれている者は同じような境遇にある者たちに憐みを抱くことであろう。今では同じような苦しみや困難をかかえた人たちがネット上で集まりやすくなり、慰め励ましあうことができるようになった。この年齢になると、やはり身近にいた心優しくしかし意志が弱く、持続的な働きのできない人たちの何人かが亡くなってしまっていることに気づく。逞しく生き延びる生命力というものがあるのであろうか。若くして死んでしまった文学者たちのなかに何か軟体動物のように思える人々がいる。その人柄をどこまで剥(む)いても核と呼べる堅固な部分に到達しないそのような印象を与える人々がいる。そのような文学者たちも、短詩形文学などにより、一瞬の心のはずみや嘆きを捉え、歌や詩などの作品に変換していく。
2022年はひとの心を挫くに十分な事件が次々に生起した。2年を超えるコロナ禍であり、ロシアによる道理なきウクライナ侵攻が続いており、そしてカルトの悲惨を反映した衝撃的な事件があり、物価高を伴う経済的変調そして気候変動による世界的な異常気象が報告されている。この年が後に人類の転換点となると語るひとがいるが、大げさに思えない。何か不安に襲われてしまう。
イエスはこのような現代の状況をも深く理解しておられた。終末預言においては、こう語られている。
3オリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。4 そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。5 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。6 また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。9 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。10 そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。11 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。12 また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
14 そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
イエスの憐み深さはこの人間の悲惨にたいする認識から来ている。栄光と悲惨、光と闇、成功と失敗、善と悪、コントラストによりひとは憐みを知るに至る。「最後まで耐え忍ぶ者」は救われると語られるが、その力が残っていない場合に、もはや救いはないのであろうか。悲惨と闇に押しつぶされていくだけなのであろうか。イエスは憐み深い万軍の主である。この耐え忍ぶ力さえも信じる者に与えてくださることであろう。
2この世に寄る辺なき身であること
イエスは語る、「その霊によって貧しい者は祝福されている、天の国は彼らのものだからである」。魂の根底にこの世のいかなるものによっても満たされない貧しき心だけを見出すとき、幸いだと呼びかけられる。生命力なく、この世に頼るものがないときに、イエスは祝福されていると言われる。天の国に入れて頂けるからだという。そして寄るべきなき身、それでよいのだと言われる。なぜなら、われらはどんない弱くとも神の子だからである。
ルターは「汝が心を寄りかからせているもの、それが汝の神だ」と言った。われらは英雄や偉大な記録を更新するスポーツ選手やアイドルに縋りつく。彼らに自己を投影し、彼らの成功を自らのものとする。自らの生の喜びを彼らによって満たしてもらおうとする。アリストテレスは自己に向き合わずに、次々に人々と交わることに時間を費やし、自己から逃避ばかりしている人間を「劣悪」と呼んだ(Nic.Et.X)。確かにどんなに弱くとも、われらはわれら自身と共に生きていく。そのわれらが自らの霊によって即ち根底において満たされないものを抱えるとき、まなざしは天に向かう。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。どうか、主があなたを助けて足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」(Ps.121:1-8)。ひとはこうして再び立ち上がる。
パウロも励ます。「一方、われらはわれら自身をではなく主イエス・キリストを宣教する、他方、われらはイエスの故に自分たちを汝らの奴隷であるとする。というのも神は、「光が闇から輝きいでるであろう」と語られた方であり、その方はキリストのみ顔のうちにある神の栄光の認識の輝きに向けてわれらの心に照らしたまうたからである。われらはこの宝を土の器に持っている、それはその力能の卓越性がわれらからのものではなく神のものとしてあるためである。あらゆることがらにおいて圧迫されても困窮せず、途方に暮れても絶望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びず、いつもイエスの死を身体において(en tōi sōmati)持ち運ぶ、それはイエスの生命がわれらの身体において顕れるためである。というのも、常に、われら生きている者たちはイエスの故に死へと引き渡されているが、それはイエスの生命がわれらの死すべき肉において(en thnētēi sarki)顕れるためだからである」(2Cor.4:4-11)。
途方にくれても、われらは絶望しない。キリストが共にいたまうからである。
3心とその清さ
その心の清い者が平和を造る、と。「その心によって」即ち心魂の根底から全身にいきわたる仕方で混じりけがなく、純一であり、統一されているということ。「清さ」は心の一つの根底的な態勢、構えであり、そこから良きパトスや行為が湧き出てくるないし遂行される。現代は関心を散逸させるものにことかかない。情報が次々に飛び込んでくる。このような時代に心を一つにすることは難しい。必要な情報とそうでない情報を判別する情報リテラシーが求められる。新渡戸稲造はthe nearest dutyをつまり最も身近な義務にとりかかるとき、ひとつひとつ次の課題が見え生が秩序づけられると言う。大切な教訓と言えよう。われらは十字架を仰ぎ見、そこから生命をいただき、証をたてていく。心を清める力を求めていこう。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置くものはいない。入ってくるひとに光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い」(Luk.11:33-34)。
心の清い者、清くされた者は神を見る。ヨブ「どうかわたしの言葉が書き留められるように・・。私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27)。
「心(kardia)」は聖霊が注がれる心魂の最も深い座をも含む思考や感情など心的働きの座である(Rom.5:5)。「魂 (phsuchē)」は基本的に生命を司る生命原理であるのに対し、「心」は意識などの心的働きの主体である。例「汝の宝のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.6:21)。「汝らのおのおのがその心から兄弟を赦さないなら、天の父も汝らに同様に赦さないであろう」(Mat.18:35)vs.「身体を破壊しても魂[生命原理]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:26-28)。
清さは身体全体に行きわたる「良心」と密接な関係にある態勢である。この一貫性こそ神に嘉みされる、神が喜ばれる心魂の態勢である。清い者は神を見るであろう。「良心」は「共知(con-science)」である。何と共に知るかが問題。最終的には神と共に知ることが良心の究極の働きとなる。「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11)。良心とは神に明らかなことがらが自らにも明らかになるその心の認知的座である。ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことがらが自らや隣人にも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。
イエスは山上の説教において敬虔なパリサイ人の偽りを指摘している。彼らは道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人前での善行により人々からの称賛と有徳を誇り、律法の形式的遵守の故に正義を主張し、その結果天国を正当な権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:5,6:17)。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。背後に過剰を欲する貪欲が支配している。
4穢れ
眼がくらむとはまさに貪欲によりわれらの生が引きずり回されることに他ならない。清さの対義語は穢れである。イエスは「汚れた霊(akatharton pneuma)」の譬えを語る(Mat.12:43)。譬えの分類からすれば、これは宗教的な観念についての事例による説明であり、「例話(Beispielerzählung)」と呼ばれるであろう。霊はウィルス同様宿主を必要とする。「穢れた霊は、そのひとから出ていくと、砂漠をうろつき休む場所を探すが、見つからない。そのとき言う、「そこから出てきたわが家に戻ろう」。戻ってみるとそれは空き家になっておりまた掃除が為されており整頓されているのを見出す。そこで出かけてゆき、自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込み、住みつく。かのひとの最後は最初よりも一層悪くなる。この悪い時代によってもまたこのようになるであろう」(Mat.12:43-45)。
「空き家」とは心の隙間、空虚のことである。空虚な油断した心に霊は自分よりも悪質な七つの悪霊を引き入れると、そのひとの内面は一層悪くなる。ひとは何か自分とは異なるものにより引き回され、自らをコントロールできないそのような感覚を持つことがある。この七つの悪霊の話はそのような状況を思い出せば理解できる。もしそのような経験はないと言うなら、自らの心の内奥の動きを観察することが求められる。パトスと呼ばれる、自分でコントロールできずに湧いてくる感情や欲求なども、単に生理的なものというわけではなく、その背後に自らの心魂を破壊しようとする否定的、破壊的な勢力を見出すこともあろう。この発見は聖霊の発見と同様に重要なことである。
心の清さと空き家、即ち心の空虚さは別である。その心によって清いものは心魂の根底から純なる一なるものに思いを寄せており、二心や三つ心から自由である。心から信仰のもとにあるとき、心は満たされているため空虚になることはない。幼子の信仰がそこにはある。イエスが単純な子供を好きであるのは、あれこれ自分に有利なように策略をねったりしないからである。ああ、幸いだ、心の清い者たち。
しかし、清さ、混じりけのなさを人生において追求することへの反論が提示されよう。「清濁併せ呑む」ことこそ大人の条件である。免疫系に見られるように異質なもの、複雑なものが自己を構成していたほうが強いのではないか。良心の発動などくそくらえだ。どこまでも良心は麻痺しうるものであり、強者は思うがままに振る舞う。良心を持ち出す人間は弱者であり、強者への怨念があるからこそ、平等を語り、社会的弱者の救済を語るのではないのか。「強者の利益こそ正義である」(プラトン『国家』第一巻)とは古来語られてきた陳腐なことであると言える。そのような弱肉強食の社会をひとは求めているのであろうか。単にそれ以外の人生の選択肢を知らないから、そのイワシの大群の流れに身を任せて泳いでいるのではないのか。
しかし、身体においても痛みに気ずかず麻痺してしまったなら、どこまで身体が破壊されているかわからないように、良心が麻痺してしまったなら、どこまで心が悪くなってしまうかわからない。われらの心が清くないから、そういう者たちが祝福されていると思われるのである。「聖性の霊」(Rom.1:4)に即して神の光に照らされるとき、穢れに気付き、良心が疼く。清いイエスをより知ることにより清さへの憧れを持つに至る。
イエスは群衆が押し寄せてきたため、ペテロに船をだすよう依頼し、船の上から説教した。そのあとペテロに漁にでるように勧めた。「二艘の舟を魚で一杯にしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモンペテロはイエスの足許にひれ伏して、「主よ私から離れてください。私は罪人です」」(Luk.5:8)。大漁であることと自らの罪、穢れの告白といかなる関係にあるのか。ここで実はペテロに漁に出るよう勧めたとき、ペテロは疑ったのであった。昼間だったからである。ガリラヤ湖では夜が漁に適しておりそして昨夜も不漁であった。この伏線のもとでの大漁であった。自ら疑ったペテロの告白は聖なる清らかな方を前にして咄嗟にでた言葉である。「主よ私から離れてください。私は罪人です」。聖なるものにふれたとき、われらは畏れに捕らわれる。同様に、子の癒しを懇願する父は言った。「おできになるなら、憐れんで助けてください」。そうするとイエスは言われた。「「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる」。その子の父はすぐに叫んだ。「信じます。信なきわれを憐み給え」(Mak.9:23-24)。
イザヤは畏れ慄きつつ神を賛美する。「聖なる、聖なる、聖なるかな万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う」(Isaiah.6:3)。「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。汝が畏るべき方は主、御前に慄(おのの)くべき方は主」(Isaiah.8:13)。そのイザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは穢れた唇の者。穢れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は主なる万軍の主を仰ぎ見た」(6:5)と言う。
ときどき、このような穢れた者がこのように聖なる方について何か語ることが許されるのかと思わされる。ひとは疑い、多くの惑わしに捕らわれているとき、清い者ではない。ひとは信じることができない自らに罪を見出す。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。イエスを介して神の意志を知り、イエスを介して或いは彼の後ろに隠れて神にまみえる。
5結論
この愛に触れてひとの心は正気を取り戻し、清められていく。ひとは「罪の奴隷」でも「義の奴隷」でもありうるまた悪霊も聖霊もいただけるそのような中立的な可能存在である。ひとは罪の誘惑にまけ、罪の奴隷となる。「そのとき、汝らはいかなる果実を得た(実を結んだ)のか。それは今や、汝らが恥としているものである。しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さにいたる果実を持している、その終局は永遠の生命である」(Rom.6:21)。ひとの心は清められ次第に聖なる者とされていく。天国は支配からも被支配からも自由な愛に満ちた聖なる場所である。「神の国は食することと飲むことではなく、聖霊における義と平和そして喜びである」(Rom.15:17)。天国の清らかさに触れてひとは清さにあこがれるようになる。穢れから解放され、罪赦されたことの「証」「徴」は隣人を愛しうることである(Luk.7:36-49)。清い者は心がまっすぐなひとであり、良心の咎めがない。拗け曲がり複雑ではない。勝手に発動する良心が平安を得ているのは憐みによる。
「平和の神ご自身が汝らをあますところなく聖なるものとし、汝らの霊と魂と身体とがわれらの主イエス・キリストの来臨の時に備え非の打ちどころのないよう完全なまでに護られるように」(1Thesa.5:23)。
迷信でも狂信でもない正しい信
日曜聖書講義 2022年9月25日
聖書 詩篇139篇1-18
1主よ、あなたはわたしを究めわたしを知っておられる。
2座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
3歩くのも伏すのも見分けわたしの道にことごとく通じておられる。
4わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに主よ、あなたはすべてを知っておられる。
5前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる。
6その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない。
7どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。
どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
8天に登ろうとも、あなたはそこにいまし陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。
9曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
10あなたはそこにもいまし御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
11わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
12闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない。
13あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
14わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。
15秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
16胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから。
17あなたの御計らいはわたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。
18 数えようとしても、砂の粒より多くその果てを極めたと思っても、わたしはない、あなたの中にいる。
迷信でも狂信でもない、正しい信
1 迷信と狂信とは
カルトの非道を背景にした衝撃的事件が起き、今、宗教における信の正しさが問われている。カントは信における理性の逸脱を「狂信」、感情の逸脱を「迷信」と呼んだ。正しい信は理性と共存でき、感情や欲求等に対し善き態勢(例、恐怖に勝つ勇気)を涵養する。「不条理(3+5=10)故に信じる」(一教父)等の偽りや、恐怖に陥れ誘う卑劣さは許容できない。信の正しさが保証されるのは、信仰対象の教えに即す時、聖書的には啓示された神の意志に即す時である。神による人間認識、意志は歴史上御子の受肉と信の従順において最も明白に知らされ記録されている。
しかし、そこに循環が疑われよう。神の啓示に基づく信の秩序づけは人の願望の反映であって、願望に基づく信仰により信仰の正しさを主張する無限ループの自閉が待っている、と。信仰はどこまでも意識のなかに留まる、と。しかし、信仰の自家中毒の主張はブロックできる。聖書の報告が人間本性を開示する限りまた無矛盾である限り、信仰心即願望の投映から逃れうる。
2道徳の基礎となる魂における信の根源性
イエスは人類が本性上道徳的存在であることを人間の真実として一歩も譲らなかった。愛は喜びだからである。山上の説教はモーセ律法を純化し道徳の極限を示したが、イエスは「まず神の国とその義を求めよ」と信仰に招き、自ら「神の子の信」(Gal.2:20)により山上の教えを生き死により律法を成就した。この教えある故に人類に絶望しないその確かさが示され、人々は連綿と信の喜びのもと道徳者を自らの本性と認め、信から愛の道を歩んだ。信の正しさは徴を求めず証を立てる。外に立つ福音故に蛇の自己食尽の無限回転を止めうる。
3知性の基礎となる魂における信の根源性
知性の確かさも循環を止める。パウロの「ローマ書」は明確な方法論「ロゴス(理論)とエルゴン(聖霊等の働き)により」展開されており、「聖霊は体験あるのみ」にならず、その明確な理がある(15:18)。「ローマ書」は言語層が五つに分節されうる無矛盾の議論が展開されており、神の前(神の義を示す「信の律法」と「業の律法」の啓示)と人の前(人間中心の議論)そして双方を媒介する聖霊の働きをめぐり整合的な言語網が形成されている。「信の律法」下にある「不敬虔な者を義とする方を信じる者には、その信仰が義と認められる」が「業の律法」下にある者に神は「その業に応じて報い」「律法を介しての[神による]罪の認識がある」故に「義とされない」(3:27,4:4,2:6,3:20)。二種の神の義に矛盾はない。
彼は「知恵者にも責任がある」とし信仰義認(1:17,3:21-4:25)と予定(9:6-11:32)を聖霊への一切の言及なしに「神の知恵」として説得する(1:14,11:32)。転じて、彼は5―8章で「われらの弱さ」(8:26)に宿り呻きつつ神の意志を執成す聖霊の働きを自らの今・こことして報告する。「真理とは何か?」(ピラト)への一応答は真理の対応説であり、彼の5-8章の議論が実際今・ここで働いている聖霊を捉えた場合に真となる。その言明と世界の対応を一旦括弧に入れた真理論「整合説」によれば、言語網それ自身が無矛盾に構築されている限り真である。
4心底でキリストの出来事は自らのことであるという神の理解を伝達する聖霊
「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている(現在完了)」(5:5)は発話の時点で聖霊の注ぎなしには偽となるが、「神の愛は心に宿る聖霊を介して注がれる」によりその働きを一般的に理解できる。過去形表現「キリストにある者たちは諸々の情と欲とともに肉を磔た」(Gal.5:24)により、「風」の如く時空を自由に往来する聖霊がゴルゴタ上でわれらの過去の罪が処分されたという神の認識を心奥で伝達執成している。聖霊はあの出来事に眼差しを向けさせ、人は十字架を仰ぎ見、その都度情と欲と共に古き自己を磔ける
5言葉と働きに分裂なき信の根源性に生きたイエス
イエスは譬える、「天国のことを学んだ者は新旧のものをその蔵から取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:51)。人生の最重要事の学習者は生全体を見渡し大事小事、新旧を判別し秩序づけ導く。イエスは天父と子の絆の信の満ち溢れにより言葉と働きの分裂なき幼子をその全人格において生き抜いた。魂の根底の信の喜びが良き働きを生み栄光を証しつつ賢者と聖者への道を歩むとき、誰も狂信や迷信の誹りを浴びせることはできない。
心の清い者は祝福されている―業の律法と信の律法―
心の清い者は祝福されている―業の律法と信の律法
日曜聖書講義 2022年7月31日
[録音は3. 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性」は割愛割愛]
聖書
「 21しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、22神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。23なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、25,26その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。
27それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。28かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。29それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、30いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。31それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31)。
序
今学期は、業の律法からの解放について主に学んできた。ひとは誰もが自らに善きものを求めて生きている。これは誰もがなにがしか善悪を判断しつつ生きている道徳的存在者であることを告げている。人間はどんな極悪人でも本性上道徳的存在なのである。今学期も戦争や犯罪等多くの悪に直面し多くの地球人は苦悩に沈んだ。聖書によれば、それは福音によってではなく業のモーセ律法のもとに生きているからだとされる。この消息をめぐって学んできたが、今学期最後の日曜聖書講義にあたって、復習をかねて業の律法と対比される信の律法の福音に学びたい。
1.イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生
今日までの人類の歴史に鑑みてまた自らの良心に照らして、ひとの心魂(こころ)の根底からの偽りなき生の在り方をめぐって、あらゆる懐疑の末に残される確かなものは聖書に記されているナザレのイエスの言葉(ロゴス)と働き(エルゴン)である。彼の言葉と働き、その一言一句および一挙手一投足に侵しがたい権威があり、その人格と認識、教えに抗しがたい魅力、引力がある。その「権威」(Mat.7:29)は言葉に偽りがなく言葉と働きに乖離がないところからおのずと生じるものである。彼の言葉と働きは常に彼の「神の子の信」(Gal.2:20)、「天の父の子」(Mat.5:45)の信の根源性のもと父と子の分かちがたき人格全体から溢れ出ている。彼に信従する限り肯定的、創造的なるもの、聖なるものが歴史に生起する、そして人類の悪に終わりがくる、そのような希望が心魂の内奥に湧きあがる。イエスの言葉と働きには人間であることの真理のそして宇宙万物の真理の根源の理(ことわり・ロゴス)が内在していた。パウロはそれを「福音の真理」(Gal.2:5)と呼んだ。
イエスは山上の説教(Mat.ch.5-7)において彼が「天の父」と呼ぶ神に祝福される八つの心的態勢を天国における慰め、満ち足り、喜びとの関係において語った(Mat.5:1-12)。柔和な者、憐み深い者、そしてこの世の何ものによっても満たされないその霊によって貧しい者(ptōkoi tōi pneumati :行為主体agentの与格)、かくして神の正義を渇き求めそして義のために迫害されながらも平和を造らずにはいられないその心によって清らかな者たちが神のお好のみなのである、愛しい者や大切なものを失い悲しむ者とともに。ナザレのイエスは少数の弟子と高い山に登ったとき、輝きに満たされ変貌を経験したが、そのとき父なる神は「わが愛する子、その彼をわたしは嘉みした」(17:5)と祝福した。その八福を語る方は実はリアルタイムにその八つの祝福を生きる方であった。イエスは山上の説教のもとに生きそしてそれの故に死んだ。
山上の説教は人類の誰かが言わねばならなかった、ひととしての道徳上のまさにその究極の在り方を伝える。イエスはご自身の言行一致がもたらす権威のもとに山上で言葉の力だけに頼り空手で群衆の前に立つ。彼は善悪、正邪を誰もが判断して生きている道徳次元に踏みとどまり、その土俵のうえに立ち、言葉の力により各人の良心に訴えて道徳的次元をその内側から破り出て、「まず神の国とご自身の義を求めよ」(6:33)と信仰に招いている。信仰への招きは素朴であり、天の父への信頼のなかで、彼は「悔い改めよ」や「信ぜよ」という類の宗教的な命令を語らず、「信・信仰(pistis)」も「罪(hamartia)」も類似語を除いて直接に語られることもない。さらに、そこでは聖霊の賦与も、奇跡の執行や悪霊の跋扈も報告されてはいない。
山上の説教において、彼は野の百合空の鳥に囲まれながらユダヤ人として伝統的な道徳を自ら引き受け、ひとはそれ自身として十全な道徳的存在者たりえず、信仰の次元なしには道徳的に十全足りえないことを、言葉のみの力により論証している。道徳次元の内破による新たな関係づけは自然的な父子との類比により遂行されており、イエスはガリラヤの自然のもとで道徳的伝統を思い出させながら聴衆を新たな教えに導き道徳の再生を試みいている。教えは驚嘆すべきものであるが、そこにいかなる熱狂主義的な要素が見られないのはひとが道徳的存在者であることを彼が一歩も譲らないことに確認される。
ユダヤ人は自らが選ばれた民として律法を誇り、異邦人や罪人とは異なるという差別的な態度を取っていた。イエスは当時の彼らの伝統的な道徳観そして死後天国か地獄に行くという世界像を自らも引き受け、議論の前提を彼らと共有することに基づく対人論法(argumentum ad hominem)により、ユダヤ人の道徳的不徹底さを、さらにはこの世もあの世もという二心(ふたごころ)に潜む偽りを指摘する。イエスはそこで彼らが依拠するモーセ律法を急進化、内面化そして純化する。その論法はまず定型句で「汝らは聞いている、昔の人々によりこう語られたのを」と切り出して、その言い伝えを引用する。伝統的な教えを提示したのち、「しかし、わたしは汝らに言う」と切り返し、それらの問題点を摘出する。それは殺人、姦淫、離婚、誓い、同害報復、敵への憎しみをめぐって展開され、道徳的次元が内側から突破される。つまり彼らの立場は首尾一貫せず保持できないことが内的に論駁される。
イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18,Ps.139:21-22)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:43-46)。イエスは家族や隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益そして被害や危害との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において差別や支配そして操作が遂行されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵は友となることもある偶然的な関係にすぎず、ひとがひとである限り本来的に友と友の等しさつまり愛が成立しうる者だからである。
とはいえ、いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの新しい教えは尋常ではない。これらの言葉はそれを正面から引き受けるひとには良心・共知(sun-eidēsis, con-science)の痛みの発動を引き起こすに十分である(5:22,5:28,5:39)。イエスとその山上の説教とを共知の相手方とする者たちには、心の少しの歪曲が痛みになる。右目や右手が罪を犯させるなら抉りとり切り取ってしまえ、全身が地獄に投げ込まれるよりましである、と警告される(5:27-30)。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。良心とは神に明らかなことがらが自らにも明らかになるその心の認知的座である。ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことがらが自らや隣人にも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。
その説教において乗り越えが企てられている敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人前での善行により人々からの称賛と有徳を誇り、律法の形式的遵守の故に正義を主張し、その結果天国を正当な権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:5,6:17)。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。背後に過剰を欲する貪欲が支配している。
イエスは律法の遂行においてパリサイ人の義に優るのでなければ、天国に入れないとして言う、「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。アーメン、汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(5:17-20)。
ここでパリサイ人との関連で語られる「汝らの義」はまず業のモーセ律法の遵守による正義のことを意味していよう。イエスはモーセ律法を純化し極性化して言う、「敵をも愛せよ」。人類はこのイエスの戒めに、一方で人類への絶望から解放される教えを受け取り、他方、山上の説教の前に身がすくみ、懐疑と反論を提示してきた。山上の説教は一方では人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、人類の誰かによって語られたことただその事実によって人類に絶望せずにすむと思われよう。他方では、「律法は怒りをもたらす」(Rom.4:15)とあるように、これが告発者となり、これを語ったイエスは人間にはとうてい満たしえない心的規範また行動規範を与えており、誰にも負えない重荷を負わせ、道徳的苦悩をもたらすだけなのではないか、彼はそれによって彼の追随者たちをただ神の怒りのもとに怯えさせ苦しめる者なのではないか、説教それ自身は神の審判に他ならないのではないかとの問いと懐疑が提示されてきた。
それらの懐疑への一つの応答は、聴衆は誰もその教えを守り切ることのできないことを知らしめその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすことを信じるよう促しているというルター主義的な理解である。この理解のもとではイエスは純化させたモーセ律法の枠のなかに留まっており、この説教は聴衆を福音に追いやる機能を担っていると主張される。この解決案は律法と福音を審判と救いという仕方で二元的に峻別しているように受け止められるが、生身のイエスご自身が律法の伝統のただなかで福音を確立しつつあるその動的な生きた関係をこそ把握しなければ、この説教は正しく理解されない。
イエスは山上の説教における天国と地獄という共通理解に基づく対人論法の背後に自らが神の子であるという自覚を明確に保持していた。神に対する「天の父」、「父」という呼称は旧約聖書にあまり多くみられないが、聴衆にその理解を促すように十三回用いている(e.g.Deut.32:6,Ps.89:27)。その説教においては、「神の子」や「天の父」が二人称や三人称複数で語りかけられる根拠、裏付けとして、「わたしが来たのは・・」、「わたしは言う・・」という一人称単数による「わたしの天の父」すなわち自らが神の子であることの自覚がある(5:9,5:17,5:22,7:21)。パウロによれば、イエスご自身は父なる神の意志、律法を実現するべく世に遣わされたという「神の子の信」の自覚のもとにあり、「御子の福音」をご自身の言葉と働きにより実現した、と報告されている(Gal.2:20,Rom.1:2)。
イエスは父なる神の意志、律法を一つの体系のなかで捉え、軽重を明確に判別している。「ああ、なんということだ、汝ら、律法学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばきそして憐みそして信を蔑(ないがし)ろにしている」(Mat.23:23)。彼はここで正義と憐みそして信を律法のなかで重要な戒めとして位置づけた。イエスは義と愛と信これら三つのなかで、この途上の生においてはまみえることのできない神に向かう根源的な心魂の態勢である信を基礎にして愛と義の両立に向かった。パウロは愛が「義の果実」(Phil.1:11)、つまり信に基づく正義が生み出す肯定的な産物であるとする。そこで正義はもはや「目には目を償い」(Exod.21:24)のモーセ律法の比量的な正義ではなく「信に基づく義」(Rom.10:6)が展開されている。「神の義は・・信に基づき啓示されている」(Rom.1:17,cf.Gal.3:16)。「キリストの信を介した義」(Phil.3:9)と特徴づけられる神が信に基づき義であることからひとも同様にキリストの信に基づき義とされる神の前の正義を意味し、その正義と愛の両立が打ち立てられる。イエスは信の従順を貫いた、そしてそこにおいて公正なさばき・正義と憐み・愛が和解した。これが福音である。
「福音」とはパウロのまとめによれば「信じる[と神が嘉みする]すべての者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:16)。そしてそれは「信の律法」(3:27)と呼ばれ、「業の[モーセ]律法」から概念上より根源的なものとして判別されうる正義をめぐる神の意志であり、「神の信」(3:3)に基づく神の義として告げ示されている。神の信が先行し、それに対応する即ち神に嘉みされる信に基づく義・正義を「人格的義・正義」と呼び、司法的次元における正義と概念上区別することにする、ただし、「司法的正義」も一人である神の意志である限り人格的正義に基礎づけられるはずのものである。ユダヤ人が信奉しその遵守を誇るモーセ律法は比量的、応報的、配分的な業に基づく正義として功績をもたらすものである限り、道徳的行為主体の責任に帰せられるものである。それに対し十字架の受容に至るまでの従順の信を貫き、イエスは信に基づく正義を打ち立てることにより、「業の律法」への尊敬を減じることなしに乗り越え、彼は比量、応報を超える新たな正義のもとに純化されたモーセ律法の正義をも信の従順により満たす。山上の聴衆が「天の父の子となるために」そして天国における報いとしての最終的な正義の実現への信仰によって、彼は地に固執する群衆を新たに「地の塩、世の光」となるよう導く(5:13-14,45)。
イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。「汝らの天の父はご自身を求める者に善いものをくださるであろう」(7:11)。各人にとって求めるべき善きものとは神ご自身であり、その最も善きものに他の一切の善、良きものが秩序づけられる。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(6:32-33)。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。誰かに何か善きものを求めることはそのひとに対する信頼を前提にしている。天の父なる神がその信仰を嘉みされたそのひとりのひと、ナザレのイエスが人類のなかから出現し、その方は良心を宥める究極的な律法を語り生きまたそれ故に死んだまさにその方である。
2. 古い革袋を破る新しい生命の福音
山上のこの厳しい律法はイエスの言葉と働き故に新たな光のもとに理解され、何らかの仕方で実現可能なものとされているに相違ない。さもなければ、誰も天国に入ることができないのに彼は空しく天の父の子となるよう福音を宣教することになるからである。イエスご自身は旧約のなかで新約を打ち立てようとする途上の生を今・ここで遂行している。「この杯は汝らのために流されるわが血における新しい契約である」(Luk.22:20)。無償の恩恵である福音は新しい契約として旧約を適切に秩序づけるべく人類に与えられている。
洗礼者ヨハネは「荒野に呼ばわる声」として、預言者イザヤの言葉「主の道をととのえ、その道筋をまっすぐにせよ」(Mak.1:3)に即し生命をかけて主の到来の道をまっすぐにした。ヨハネは水による悔い改めの洗礼を授けつつ、主の到来を備える最後の預言者として位置づけられる。「すべての預言者たちと律法が預言したが、それは[洗礼者]ヨハネまでである」(Mat.11:12)。ヨハネは言う。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-12)。
預言のときは過ぎ、今や試練を表す火と平安をもたらす聖霊による洗礼が授けられる福音のときが到来したと宣言されている。イエスは言いたまう、「時は満ちた、神の国は近づいた。汝らは悔い改めよそして福音を信ぜよ」(Mak.1:15)。預言者たちと律法、それら「聖書全体」は新しく福音のもとに位置づけられる。イエスはご自身の復活のあと、エマオの途上において復活の主とは気づかなかった二人の弟子と共に歩きながら、真の預言者たちについて言う。「「ああ、預言者たちが語ったすべてのことを信じることに至らない、何という、愚かでその心鈍い者たち。キリスト[メシア]はこれらの苦しみを忍んでそして栄光に至るはずではなかったのか」。そして、イエスはモーセとすべての預言者から初めて聖書全体において(en pasais tais graphais)、ご自分について書かれていることを説明された」(Luk.24:25-27)。
預言者と律法、「聖書全体」はイエス・キリストを即ち彼の福音をめがけ、証言し指差していた。旧約から新約へのバトンをイエスに渡すことが洗礼者ヨハネの務めであった。モーセ律法を純化させた山上の説教は実はナザレのイエスにより満たされることにより、預言と律法は新たに福音に秩序づけられることとなった。生命の迸りは古い革袋を破ってしまう。預言者と律法の古い革袋は生命の輝きと生命の泉の迸りの福音の新しい革袋に受け継がれる。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けてそして酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。彼は、今・ここにおいて福音を持ち運んだが、その実現の極において、彼を十字架に磔た敵である罪人の罪を贖うべく、罪なき者として罪ある者の身代わりの死を遂げた。神はそれにより愛を人類に示した。「神はご自身の独子を賜るほどにこの世界を愛したまうた」(John.3:16)。
レビ記の記者によれば、モーセは「汝の隣人を、汝自身の如くに、愛せよ」と主の律法を取り次ぎ命じる時、「汝自身の如くに」により表現している汝が自らを愛する愛と同じだけの愛が隣人に向けられねばならないとされている。そのときモーセそしてレビ記記者は愛が等しさの生起であることを知っていた(Lev.19:18,cf.Deut.6:5,10:12)。例えば父と子、夫と妻、教師と生徒等のあいだに、父は子によって父であり、子は父によって子であるその等しさがその都度生起するもの、すなわち、支配からも被支配からも唯一自由な場所で我と汝の等しさが生起すること、それが愛であった。「われは汝らの神となり、汝らはわが民となる」(Lev.26:12)。そしてその等しさの生起に向かう歩みも希望における「愛」である。その方向にある限り希望が湧いてくるからである。
迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜び祝え、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において、友と友、となる希望が生じるからである。その希望に伴う喜びは、愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清めるものだからである。
争いのやまないわれらの歴史は心情倫理と責任倫理をわけて、後者の視点を多くの場合採用し社会の秩序を守る制度を充実させてきた。「裁くな」、「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済や文化活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は戦争はもとより正当防衛さえ不可能にするため、個々人の心魂の在り方としては賞賛されるが、行政機関、政治は結果責任のもとに到底山上の説教に与することはできないと主張された (Mat.7:1,5:33-37,5:31,5:39)。しかし、このような棲み分けは全体として一つのものであるひとの心とその身体を介した営みを理論上そして実際上分断するものであり、心なき制度化、形式化がはびこり、その前提のもとでの業に基づく比量的正義の追求は人間がそこにおいて最も人間であるその心を苦しめることになる。ひとの良心はそのような棲み分け、二心に満足できず、一切の秩序づけを求める。
その秩序づけをイエスは山上の説教において呼びかけそしてその説教を生き抜いた。かつて敵であったわれらの罪を赦す愛を成就したその方との共知においてわれらの良心は宥められ、その心によって清き者となり平和を造る者となる。われらがイエスの言葉と働きによるご自身の使命と愛の知識を得るにいたるとき、そのとき厳しい律法が福音に包摂されたと言うことができる。そこでは山上の説教は単に言葉ではない。イエスにより満たされた言葉である。それは信そして愛についてのどこまでも人格的な今・ここの共同の知識・良心である。たとえ数式により宇宙の法則を解明したとしても、そこでは創造者なる神は超数学者、物理学者ではあっても、天の父と理解されることはない。
或る認知的発動が神との共知であるためには、聖書で報告されている神ご自身の認識、とりわけナザレのイエスの「父」や「天の国」の知見に習熟することが求められる。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわたしに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。何らかの共知を介して自らが自らを告発する良心の咎めに沈むわれらとは異なるところで、異なる想いと異なるはるかに高い道を歩みたまう神の知恵に合わせられるとき、良心の宥めが共知として生起する。その癒された心から業の律法や制度に至るまで秩序づけられるとき、平和への希望と力を得ることであろう。
或るとき、カナン地方の女性が自分の娘を癒していただきたく「主よ、わたしを憐みたまえ」と懇願すると、イエスは「わたしはイスラエルの失われた羊にしか遣わされなかった」と応答した。そのときイエスはユダヤ人として旧約の伝統のなかに自ら自己規制していたことを明らかにしている(Mat.15:21-28)。しかし新しい葡萄酒は新しい革袋にいれなければ、破れてしまう。旧約の古い革袋のなかで彼は活動したが、あまりの福音、あまりの生命の故に、旧約は内側から破られてしまったのである。イエスが「子供たちのパンを取り上げそして犬に投げ与えることは良くない」と言うと、その女性は「主よ、そのとおりです、というのも子犬たちは主人たちのテーブルから落ちるパン屑を食べるからです」と言った。そのとき、イエスは彼女に応えた、「ああ女の方よ、汝の信仰は大いなるものである。汝が望むようにことが成るように」。そしてそのとき彼女の娘は癒されたのであった。旧約のただなかにそれを極性化、純化するそのただなかで、彼の憐みが迸りでる。信に基づく正義と正義の果実の一例がここで生まれた。彼の一言一句、一挙手一投足は旧約の制約のなかで信に基づく正義と信義の果実としての憐み、愛の双方の実現に向けられていたのである。
3. 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性
モーセ律法とは十戒に基づくものであり、パウロにより「業(わざ)の律法」(Rom.3:20,27)ないし「モーセ律法」(1Cor.9:9)と呼ばれる。業の律法のもとでは偶像を拝むか・拝まないか、盗むか・盗まないか、貪るか・貪らないか等の二つの対立選択肢のうち一方により義か罪が定められる。福音が啓示された今、業の律法の役割は「罪が明らかになるためである」(Rom.7:13)とパウロは位置づけることができた。信を業の律法のもとで遂行するとは自らを行為の選択の規準として立て、信じるかそれとも「信じないか」によって神に義とされるか否かが定まるという考えである。
これは信じるかそれとも「裏切るか」とは同じことではない。「信じない」ことと「裏切る」ことは同じではない。それだけではなくそのように信を業の律法のもとに捉えることは自らの罪が明らかになるだけである。パウロによればモーセ律法は誰もがそのもとでは神により罪と認識され、自ら神に対して申し開きのできない者であり、世界をして神に服従させるべく啓示されている。「われら知る、律法が律法のうちにある者たちに語る限りのものごとは、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服するものとなるためである。かくして、業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:19-20)。救いを求める信仰は貪りではないか等の懐疑は「信ぜよ」のもとにではなく、立派な業を為せという命令のもとで信仰を理解しているから起きる問である。「裏切る」は信仰が一つの業の律法のもとで理解されるさいの対義語「信じない」の二者択一とは異なる(Mat.26:21)。新約における「信の律法」(Rom.3:27)と呼ばれるものは、神がイエス・キリストにおいて約束に信実であり、「神の信」(3:3)を明らかにしたとき、信じるか裏切るかの二者択一を提示している。ひとに対する神の信義がそこでは既に提示され前提にされている。
神の意志としての信の律法と業の律法が判別され、自らがいずれの律法のもとに生きるか明確に自覚しないとき、自らの救いを求め信じることは自己追求、エゴイズムではないか等の懐疑が生起する。信に対するこの種の懐疑や反論は「貪るな」という業の律法のもとに信を従属させることから生じる。信がそのような自己吟味、自己批判のもとにさらされるとき、ひとは知的、人格的誠実の装いのもとに神の前にでないでよいというアリバイを作り、神を避ける自己防衛に走る。「汝ら惑わされるな。神は侮られるような方ではない。ひとは[種を]蒔く場合に、その蒔くところのものを刈り取ることになろう」(Gal.6:7)。「生きています神の御手に落ちることは恐ろしいことである」(Heb.10:31)。信の律法においては神が御子において自らの愛を差し出している。神が提示する戒めに自らの業により応答するかそれとも応答しないか、それとも神が自らの約束に信実であったときその神の信に対し信により応答するかそれとも裏切るのかのいずれかが問われ、旧約と新約いずれの律法を根源として生きるかが問われている。
もちろん旧約聖書においてもアブラハムやダビデにおける信義の先駆的事例は見られる。さらにそれと共に、アブラハムの子孫たちは神によるアブラハムへの約束の信のもとに業の律法の啓示を受け止めることはできたであろう(Gen.17:1-8)。だがモーセの民はその信の根源性のもとに業の律法を捉えることなしに、形式主義に陥り制度化に向かった。アブラハムは信義の証として割礼を施したが、ナザレのイエスだけが、信義の証として愛に向かうことができたのであろう(Rom.4:11)。
新しい契約の歩みの中で、ひとはイエスにより業の執行においてパリサイ人に優ることが求められていた。「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)。山上の律法はイエスの福音に秩序づけられるが、それは正義と愛・憐みが彼の一挙手一投足において実現されている限りにおいてのことである。信に基づく正義と信に基づく愛を実働している死に至るまでのその信の従順こそが福音の成就であった。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。ナザレのイエスの信に基づく言葉と働きが成し遂げた復活において証される正義と愛に基づき、神とひとの和解を理論的に解明することがパウロの課題であった。
「汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう」(Mat.5:18)。天地が過ぎ去るまで律法の一点一画とも過ぎ去らない、廃らないとは、イエスは「愛」が一切の律法のなかで「偉大な戒め」であると理解しており、そのもとに他の一切の戒めが秩序づけられる限り、理解可能となる(Mat.22:36,cf.「律法の冠」、「律法の充足」Rom.13:9,10)。愛が満たされる限り、業の律法としての正義は満たされており、あらゆる律法がめざす愛を実現する限りにおいて一点一画とも過ぎ去らないと言うことができる。人類のなかで少なくともイエスは信に基づき愛と正義を貫いた。この意味において山上の説教は希釈されることはない。イエスは誰にも担いえない心の規範を与え、道徳的苦悩を課す方ではない。そして彼は復活の主として共に重荷を担い歩みたまう。
4.結論
ひとは誰もがキリストによって二千年前に憐みをかけられている。聖霊はあの出来事が「古き人間」(Rom.6:6)の死、「欲と情と共に肉」(Gal.5:24)の死であり「新しい被造物」(2Cor.5:17)の生であると神が看做していることを心の奥底で呻きをもって執成す。神へのアクセスはイエスの愛を介するものとなるとき、超越と内在、彼岸と此岸は媒介され、信仰の抽象性、観念性、思弁性が乗り越えられる。憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、「良心・共知」の発動が、「道徳的運」と呼ばれる、ひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛情を注がれ、愛されることを経験し自覚することなしには、また相手方の状況についての知識なしには、発動しないそのような受動の経験と自覚を伴うものである。或るひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証はどれだけ愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。
狂信でも迷信でもない、正しい信―「人々自身の背きを彼ら自身において考慮することなしに」
日曜聖書講義 2022年7月24日
狂信でも迷信でもない、正しい信―「人々自身の背きを彼ら自身において考慮することなしに」
聖書
5:14キリストの愛われらを抱(いだ)き給う、というのもこうわれらは判断しているからである、ひとりのひとがすべての者の代わりに死んだ、かくしてすべての者たちが死んだのだと。15彼はすべての者たちの代りに死んだ、それは生きている者たちがもはや自らにおいて生きることなく、むしろ自分たちの代りに死にそして甦った方において生きるためである。16かくして、われらは今やもはや誰をも肉に即して知るまい。たとえわれらが肉に即してキリストを知っていたとしても、今やもはやそう知ることはないであろう。17かくして、もし誰かがキリストのうちにあるなら、それは新しい被造物である。古いものごとは過ぎ去った、見よ、あらゆるものごとは新しくなった(kaina ta panta)。
18あらゆるものごとはキリストを介してわれらをご自身と和解させ給うたところの、そしてわれらに和解の勤めを与え給うたところの神に基づく、19というのも神は世界[人類]をご自身と和解させつつ、その仕方は[世界の]人々自身の背きを彼ら自身において考慮することなしに、また和解の言葉をわれらに委ね給うたことによってであるが、キリストのうちにいましたからである。20かくして、われらはキリストの代わりに神がわれらを介して招いておられることの使者となっている、そしてわれらは勧める、汝らは神と和解せよ。21神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為し給うた(huper hēmōn hamartian epoiēsen)、それはわれらが彼において神の義となるためである」(2Cor.5:14-21)。
1問題の所在
新興宗教の非道を背景にした国家的事件が起き、今、あらためて宗教における信・信仰の正しさが問われている。カントは理性を逸脱した信仰を「狂信」と呼び、感情の逸脱した信を「迷信」と呼んだ。一般的には、正しい信仰は理性と共存できるものであり、パトス(身体的受動即ち感情や欲求)に対し良き態勢を生み出すものであることが求められる。例えば、恐れると顔が青ざめ、怒ると赤くなるように、身体的なパトスである恐怖に対しては勇気が、快楽に対しては節制が心魂に実力である態勢として蓄積されているとき、パトスに対する良き態勢そして有徳な行為が秩序のうちに生み出される。人格の安定と未来の趨勢をも含め世界と人間がいかなるものであるかそしていかに行為を選択すべきかに熟知しているひとは決して狂信や迷信に陥ることはないであろう。認知的な態勢そして人格的な態勢が整う方向に向かわずに、「不条理なるがゆえに我信ず」(テルトリアヌス)即ち「3+5=10故に信じる」等の偽りや、恐怖に陥れ信に誘う理不尽な卑劣さは到底許容できない。しかし、信・信仰は心魂の根源的態勢として幼子のようであることこそ求められているのではないのか。疑わず純一で二心なき心にこそ信の力、本来性が宿るのではないのか。信の根源性は人間性の未熟と成熟といかに関連するのか。包括的な人間理解のもとで正しい信を位置づけることが求められる。正しい信はどこに保証されるのか。
2循環ではない信を基礎づける真理論
聖書には萬物の創造者にして全知、全能の神による人間との関わりが記録されている。神の人間認識、意志や判断が歴史のなかで知らしめられており、とりわけ御子の受肉と死と復活にいたる信の従順の生涯において最も明白に知らされている。そこで報告されている神の意志に即すことが正しい信仰の指標となる。ひとはそこに循環を嗅ぎつけるでもあろう。その宇宙の統帥者、神の啓示に基づき信が秩序づけられるという主張は、そもそも神の自己啓示を前提にしており、人間の願望の反映であって、願望に基づく信仰により信仰の正しさを主張する無限ループの自閉ないし絶望が待っている、と。しかし、自らの尻尾を食べ回転し続ける蛇の自己食尽、信仰の自家中毒は神の認識と行為の議論が明白に無矛盾である限りブロックできる。
一般に躓きとなる発話「聖霊は働いている」は真理の対応説によれば実際今・ここで働いている聖霊の実在性を捉えた場合に真となるが、その言明と世界の対応を一旦括弧に入れ、それより弱い真理論である「整合説」によれば、言語網それ自身が無矛盾に構築されている限りその言明は真である。例えば、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学はそれぞれ異なるシステムでありそれぞれの真理性を整合性故に主張できる。聖書で展開される有神論はシステムとして無矛盾である限り、それは真理であると主張することができる。そこでは聖霊は風のように時空をおもうがままに通過するが、他の様々な事象例えば科学により解明される因果的な事象と棲み分けされそれぞれにおいて整合的であることが求められる。もちろん、無神論も聖書がカヴァーする領域に対応する仕方でその否定において広範に無矛盾なシステムを構築する限り、それは真であると主張されよう。有神論も無神論も理論としていずれが優れているかはより広範な領域をカヴァーできるか、さらには何よりもわれらがそこに住む現実世界により検証されうるかにより吟味されよう。双方の整合的なシステムのいずれが現実世界に対応しているかは常に吟味の対象となる。その意味で対応説は整合説において一時的に括弧にいれられたものであることが分かる。
また実用説と呼ばれるさらに緩い真理論がある。これは或る信念のもとに生きるとき、人生がうまくいっている限りにおいてその信念は真であるという主張である。「神は存在する」という信念のもとに生きるとき、或いは「人生はできるだけ多くの快楽を味わうことだ」という信念のもとで生きるとき、社会や家庭における生活に支障なく、さらに充実したものである限りにおいて、その信念は正しいという実際的(pragmatic)な主張である。これらの真理論は相互に矛盾するものではなく、統一理論が求められる。
3「ローマ書」の無矛盾性
パウロの体系的な神学論文「ローマ書」は明確な方法論的自覚「ロゴス(理論)と(聖霊等の今・ここの)エルゴン(働き)により」展開されており、聖霊は復活のキリストにある生命として経験するしかないということではなく、その明確な理論が展開されている(15:18)。なお、福音書においてもロゴスとエルゴンの相補性は明確に確認できる。復活の主がエマオへの道を歩く弟子たちに同行したさいのことである。彼らは傍らを歩く復活の主に「神とすべての民の前にエルゴンとロゴスにおいて力ある預言者となったナザレのイエスに関わるものごと」について語った(Luk. 24:19)。理論と実践、ロゴスとエルゴンの相補性は何かを理性的に説得しようとする限り、従わなければならない基本的な道である。「理論は実践により信用される」(アリストテレス)。
「ローマ書」においては言語層が五つに分節されうるよう無矛盾の議論が展開されており、神の前と人の前そして双方を媒介する聖霊の働き等それぞれ整合的な言語網が張られている。彼は「知恵ある者にも責任がある」(1:14)とし知識人を説得すべく所謂信仰義認論(1:17,3:21-4:25)と予定論(9:6-11:32)をいかなる聖霊への言及もなしに、神の人間認識、行為として展開する。彼は神の知恵に対する畏れの中で「私は一層大胆に書いた」と報告している(15:15)。永遠の現在にいます神が御子の受肉により時間的な存在者となることを引き受けることにより、神の「予め」の計画の位置づけは一つの「神の知恵」の報告である。「ああ、神の富そして知恵と知識の深さよ。ご自身の裁きはいかに究めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。34すなわち、「誰か主の叡知を知っていたのか、それとも誰かご自身の顧問官になったのか、35それとも誰かご自身に予め与えてそしてご自身から報いを受けるのであろうか」。36なぜなら、あらゆるものはご自身からそしてご自身を介してそしてご自身に至るからである。栄光は永遠に[神]ご自身にあれ、アーメン」(11:33-36)。
転じて、「ローマ書」第5-8章において彼は「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる可能存在としての人間の「肉の弱さ」への譲歩により「人間的なことを語る」が、その「われらの弱さ」の内に宿る聖霊が今・ここにおいて神の意志を「呻きをもって執り成している」と神の前と人の前の媒介を報告している(6:19,22,8:26)。聖霊について彼が「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(5:5)と現在完了形で語る時、聖霊の注ぎが今・ここで起きていなければ偽となる文を提示している。パウロは聖霊の今・ここの働きの現場における議論をも展開しており、それを彼は「霊と[神の]力能の論証」と呼んでいる(1Cor.2:4)。他方、このエルゴン言語とは別に、この文章は「もし神の愛がわれらの心に注がれるとすれば、それは心に宿る聖霊を介してである」と条件文により、その役割を一般的に理解することができる。
あの啓示の出来事と終末までの中間時においては、聖霊は風のように自由に時空をゆききし、御心に適う者に神の意志を取次ぐ。神の意志はあの過去のゴルゴタの丘において最も明晰に知らされていることが聖霊の働きの基礎となる。パウロは言う、「われらの古きひとキリストと共に磔られた」(6:6)と、またその平行箇所において「キリストにある者たちは諸々の情と欲とともに肉を磔た」(Gal.5:24)。これらの過去形の言明において、ゴルゴタの出来事をわれらの現在のことがらであるという神の認識と意志の聖霊による執成しが表現されている。神は、2千年前のキリストの死において、現在生きているわれらのこれまでの歩みを古き自己として死んでしまったと理解してい給うことを、聖霊は心のなかで知らしめ執成している。
神はキリストの死をわれらの罪の身代わりの死と理解してい給う。パウロはその啓示に基づき、「コリント後書」においてはこう「判断」している。
「キリストの愛われらを抱(いだ)き給う、というのもこうわれらは判断しているからである、ひとりのひとがすべての者の代わりに死んだ、かくしてすべての者たちが死んだのだと。15彼はすべての者たちの代りに死んだ、それは生きている者たちがもはや自らにおいて生きることなく、むしろ自分たちの代りに死にそして甦った方において生きるためである」。神の意志としてキリストの身代わりの死がすべての者たちの古き自己の死を包摂している。他方、それは今・ここで生きているその都度の現代人たちが、復活の主の生命を生きるためであると。神はあの出来事において十字架の「キリストのうちにいました」が、啓示の出来事は一つの歴史の方向性を定める(1Cor.5:18,Rom.3:25)。復活の主と共に今を生きることである。
神が十字架において知らしめている一つのことは、御子の信の従順の生涯ゆえに御子とご自身の信義の分離のなさである。彼はその理由を展開する。「あらゆる者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24キリスト・イエスにおける贖いを介してご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たち」(Rom.3:23-24)であると神が理解していことがまずその分離なき啓示の基礎にある理解である。すべての者は業のモーセ律法のもとに一度は生きており、罪を犯したという認識を前提に、すべての者が無償で恩恵により義とされる者であるという認識を提示している。その認識と中間時におけるわれらの現実には緊張があるであろう。中間時においてはパウロによれば「神がわれらを介して招いておられる」(Gal.2:20)。それ故に、「神はイエスの信に基づく者を義としている」(Rom.3:26)と三人称で報告されている人間たちの外延・集まりと人類「すべての者」がイエスの信に基づく者と看做されるに至るかは終わりの日に啓示される。「なぜなら、今という好機の苦難は、われらに啓示されるべく来たりつつある栄光に比して、取るに足らないとわれは看做すからである。なぜなら、被造物の切なる憧憬は神の子たちの啓示を待ち望んでいるからである」(Rom.8;18-19)。この中間時においては十字架で提供された無償の恩恵を信仰により受け取るか否かが問われている。終わりの日に万人が救済されたか否かがわかる。明らかなことは神の意志が十字架において提示されていることである。
パウロは言う、「16かくして、われらは今やもはや誰をも肉に即して知るまい。たとえわれらが肉に即してキリストを知っていたとしても、今やもはやそう知ることはないであろう。17かくして、もし誰かがキリストのうちにあるなら、それは新しい被造物である。古いものごとは過ぎ去った、見よ、あらゆるものごとは新しくなった(kaina ta panta)。
18あらゆるものごとはキリストを介してわれらをご自身と和解させ給うたところの、そしてわれらに和解の勤めを与え給うたところの神に基づく、19というのも神は世界[人類]をご自身と和解させつつ、その仕方は[世界の]人々自身の背きを彼ら自身において考慮することなしに、また和解の言葉をわれらに委ね給うたことによってであるが、キリストのうちにいましたからである。20かくして、われらはキリストの代わりに神がわれらを介して招いておられることの使者となっている、そしてわれらは勧める、汝らは神と和解せよ。21神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為し給うた、それはわれらが彼において神の義となるためである」(2Cor.5:16-21)。
われらの自覚としては、その都度情と欲とともに古き自己を十字架に磔る。そこではもはや神は各人の背きを「彼ら自身において考慮することなしに」、キリストにおいてわれらを考慮することによって、「神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為した」(2Cor.5:18-21)。神は身代わりの罪を罪なきイエスに罪なきままに担わせた。彼の身代わりの出来事をわれらのこととして受け止めさせること、それが聖霊の働きである。
結論
過去と現在、時空を自由に行き来する聖霊の働きは十字架の死をわれらの古き人の死と同化させている。神の意志を正しく知ること、それが正しい信仰に導く。聖霊の働き一般を理論的に納得したうえで、その都度聖霊の媒介がそこにあり魂が刷新されることを求める。ただし、正しい信は自らのためにイエスがキリストであることの徴・証明を求めるユダヤ人にその範型がある自らの義を主張する者たちと異なり、あの啓示の出来事に基づき、キリストと共に歩むことにより神の栄光を顕すべく証していく。そのさい正しい信は人間に与えられた認知的、人格的力能を十全に発揮させる。神と世界をよく知り、愛することにより証される。
われらは中間時に生きており知らされていることと知らされていないことの間にある。神の意志は全人類の救済であることが十字架において明確に知らされた。他方、われらが復活の主と共に生きるかはわれらの課題である。自らを自らにおいて考慮せずに、十字架の主において考慮するよう信じることが促されている。パウロは心の根底に二心なき幼子の信仰が宿るとき、罪に定める業の律法から解放されると主張する。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Gal.2:19-20,Rom.8:2)。
魂の根源に二心なき純一な幼子の信が位置づけられるとき、信義が生まれ「義の果実」(Phil.1:11)として愛が生まれる。これら魂の肯定的で創造的な諸活動を生み出すことを証し賢者と聖者への道を歩むとき、誰も狂信や迷信の誹りを投げかけることはできない。
イエスは言いたまう、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものだ」(Mat.13:52)。人間に最も重要なことを学んだ者は生の全体のなかで個々のものをそれは古いものであれ新しいものであれ自由に適切に位置づけそしてそれに対応して行為を選択することができる一家の主人に似ている。この発言を単にパトスに対して良い態勢にある人格的な有徳性に対してだけではなく、その認知的な卓越性に対する賞賛である。
中間時における生―聖霊のロゴスとエルゴン―
中間時における生―聖霊のロゴスとエルゴン― 日曜聖書講義7月17日
聖書 ガラテア書5章
「キリストはわれらを自由へと解放した。それゆえ、汝らはかたく立てそして二度と奴隷の軛に繋がれるな。見よ、わたしパウロが汝らに言う、もし汝らが割礼を受けるなら、キリストは汝らになんら益をもたらさない。だが、わたしはすべての割礼者に、お返しに、一切の律法を為す義務があると証言する。誰であれ、汝ら、律法のうちに義とされようとする者たちはキリストから切り離されている、恩恵から落ちこぼれている。というのも、われらは信に基づく義の希望を霊によって受け取っているからである。というのも、キリスト・イエスにおいては割礼も無割礼も何ら力なく、かえって愛を介して[今・ここで]働いている信が力あるからである。
汝らは立派に走り続けてきた。誰が汝らを真理により説得されることのないよう妨げたのか。この説得は汝らを呼び出している方に基づいていない。わずかのパン種がパン生地全体を膨らませる。わたしは主にあって汝らについて確信している、汝らは別の何ものにも思考を向けないと。汝らを混乱させている者は、その者が誰であれ、審判を受けるであろう。だが、きょうだいち、もしわたしがなお割礼を宣べ伝えているのなら、なぜなおもわたしは迫害されているのか。その場合には、十字架の躓きは取り去られてしまっている。この徴によってもまた汝らを誘惑している者たちは切り捨てられるであろう。
きょうだいたち、なぜなら、汝らは自由へと召されたからである。ただ、汝らは自由を肉に対する機会に隷属させるな、むしろ愛を介して互いに隷属せよ。なぜなら、すべての律法は一つの言葉において、「汝の隣人を汝自身のごとくに愛せよ」において満たされてしまっているからである。もし汝ら互いに噛みあい貪りあうなら、汝ら互いに消耗しあう、そうならないよう気を付けよ。だがわたしは言う、霊によって歩めそして肉の欲を満たすな。というのも、肉は霊に抗して欲求し、霊は肉に抗して欲求するからである、というのもこれらは互いに対置させられているからである、その結果もし汝らが望むならそうするであろうところのものどもを汝らが為すことがないであろう。肉の働きは明らかである、それらは姦淫、不潔、放埓、偶像崇拝、魔術、敵意、戦い、不和、激情、抗争、意見の相違、扇動、異端、嫉妬、泥酔、酒盛り、そしてこれらに類似のことどもであり、それらをわたしは汝らに前もって言っておく、それはまさにわたしがかつて、このような類のものどもを為す者たちは神の国を嗣ぐことはないであろうと語ったことである。他方、霊の果実は愛、喜び、平和、寛容、優しさ、親切、信、柔和、自制である。これらに反する律法はない。だが、キリストにある者たちは諸々の情と欲望と共に十字架に磔てしまった。もしわれらが霊によって生きようとするなら、霊に適合し続けもしよう。互いに挑みあい、互いに嫉みあって、われらは空しきものに栄光を帰すことのないものとなろう」(Gal.5:1-26)。
1ロゴス(理論)とエルゴン(働き)の相補性―過去形がもたらす福音―
前回パウロの「ローマ書」5-8章の「霊と[神の]力能の論証」(1Cor.2:4)において、キリストの出来事が「われら」の出来事であると神が看做していることを執成すのが聖霊の働きであることを学んだ。パウロはこれらの章においてわれらの「肉の弱さ」への考慮と譲歩故に、人間中心的に「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる中立的な存在者を前提にして、聖霊がその弱さにおいて憐み「われらの心」において神の愛、神の意志を今・ここで「執成している」ことを学んだ。聖霊については経験するしかないというわけではなく、この聖霊の働きを今・ここで経験できることは幸いなことではあるが、明確に理論的に理解できるようパウロは論じている。理論(ロゴス)と実践・働き(エルゴン)は相互に補い合うものであることが望ましい。
パウロは例えば「ローマ書」3:21-4:25で明確に信に基づく義を、愛の果実とは別に、理論的に普遍的に妥当するものとして展開している。他方、5章から8章では聖霊による執り成しの行為は今・ここの働きのなかにあるという自覚のもとでの「われら」の証言としてパウロは展開している。信義と愛の関係はエルゴン上つまり聖霊の今・ここの力ある働きとして証されるそのような、今・ここの働きのことがらである。「愛を介して働いている信が力ある」(Gal.5:6)。愛を介して働いている信が力強い。これは一般的、理論的な主張でもあり、また実際にひとが今・ここで経験しているそのような個々の心的事象に適合する主張でもある。
聖霊の執り成しのもとでの発話は、その発話の時点で執り成しがないときには、偽りとなるそのような言明である。パウロが「神の愛はわれらに賜わった聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」と現在完了形「注がれてしまっている」と語るとき、もしこの発話の時点で、神の愛が注がれていなかったなら、この主張は偽りとなる(Rom.5:5)。パウロは信義と愛を理論上根拠と結果という因果性のもとにあることを拒否し、風のように吹く聖霊の自由を受け止めたうえで、その聖霊の自由に基づく今・ここの証として愛を生み出す力ある信仰について証言している。ただし、そのさいにおいても個々の働きを一般化即ちエルゴン言語を普遍化することはでき、「もし神の愛がわれらの心に注がれるとするなら、それはわれらに賜る聖霊を介してである」という仕方で条件文で表現される。条件文は実際の働きにより検証される。これを「信義と愛の因果性の理論(ロゴス)上の拒否と働き(エルゴン)上の証による相補性」と名付ける。
聖霊が媒介する過去の一事件と現代人の死と新生に生きるわれらの古き人の死は過去形で表現される。「キリストに属する者たちは肉を諸々の情と欲とともに十字架に磔てしまった」(Gal.5:24)。「われら知るわれらの古きひとはキリストと共に磔られてしまった」(Rom.6:6)。聖霊の働きはキリスト・イエスを介して啓示された神の前即ち神の認識、行為をとひとの前即ち今・ここで二千年後に生きているわれら個々人の「古き人間」の死であることを伝え、同化させる力ある働きである。古くなることのない過去の一事件と今・生きている現代人を結び付けている。パウロは言う、「キリストに属する者たちは肉を諸々の情と欲とともに十字架に磔てしまった」(Gal.5:24)。また彼は言う、「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えることがないためである」。キリストの身代わりの死の目的は「罪の身体が滅び」、「甦った方において生きるため」である。ここでは「われら」に関わる明確な聖霊論的な議論(第5-8章)のなかであるため聖霊の証のもとでの今・ここにおける知識主張が遂行されている。「ガラテア書」の古き肉の磔においても、心魂の刷新は欲望と情に捉われている古き人間「肉」の死を介して遂行される。古き肉は死んでしまったが、生物として生存している限りにおいて、新しい肉は中立的なものとして生きている。そこでは「キリスト・イエスにおける生命の霊」が新たな生を導く。
パウロは言う、「かくして、今や、キリスト・イエスにある者たちにはいかなる罪の定めもない。二なぜなら、キリスト・イエスにある生命の霊の律法がわれらを罪と死の律法から解放したからである。三というのも、ひとが肉を介してそこにおいて弱くなっていたところの律法の[遵守し]能わぬことを、神はご自身の子を罪の肉の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その肉において罪を審判したからである、四それは律法の義の要求が肉に即して歩まず、霊に即して歩んでいるわれらにおいて満たされるためである。五なぜなら、肉に即してある者たちは肉のことがらを思い、他方、霊に即してある者たちは霊のことがらを思うからである。六というのも、肉の思慮内容は死であり、霊の思慮内容は生命と平安だからである。七それ故に、肉の思慮内容は神に敵する、なぜなら神の律法に従わないからである、というのも従いえないからである。八しかし、肉にある者たちは神を喜ばすことができない。九しかし、汝らは肉においてあるのではなく、霊においてある、いやしくも神の霊が汝らに宿るなら。しかし、もし誰かキリストの霊を持たぬなら、その者は彼のものではない。一〇しかし、キリストが汝らのうちにあるなら、かたや身体は罪の故に死であるが、他方霊は義の故に生である。一一しかし、イエスを死者たちから甦らせた方の霊が汝らのうちに宿るなら、キリストを死者たちから甦らせた方は汝らの死すべき身体にも汝らのうちに宿るご自身の霊を介して生を賜わるであろう」(Rom.8:1-10)。
かくして、われらの人生はその都度古き自己を情と欲とともに十字架に磔て死んでしまい、復活の主の霊を受けて新たに生きなおす、その繰り返しであると言うことができる。現代人はそのつど聖霊の媒介を信じて、二千年前の十字架に今・ここでおのれを支配しようとする諸々の情と欲とともに古き自己を磔る。とはいえ、聖霊は経験するしかないということにはならず、ひとの側としては、聖霊の働きはあの十字架と復活の出来事は自らのものであったそしてあの死と生は自らの情と欲を含んだ古き人間の死でありそして復活の主の生に与ることだと自らに言い聞かすこと、それが聖霊を受け取る準備となる。想念を二千年前の出来事に集中させる。その繰り返しのなかで次第にその聖霊は身体をも清め、愛に収斂される業の律法をその生命のなかで満たしていくことであろう。
2業の律法から信の律法に導く悔い改め
業の律法の働きはわれらに罪それ自身の醜悪さを知らしめ、罪に勝利したキリストに導くことであった。一般的に、もしわれらが「惨めだ、われ、人間」(Rom.7:25)と叫ぶことがあるとするなら、それは業の律法が内なる人間を介して何等か働いており、悔い改めを促していることを示している。苦悩するとき、われらは喜ぼう。「汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか」 (Rom.2:4)。悔い改めは旧約においては業の律法の内側のことであった。洗礼者ヨハネは言う。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-12)。試練を表現する「火」と復活の主の現臨を表現する「聖霊」により洗礼を授けられるとき、ひとは信の律法のもとにイエスをキリストであると信じるに至る。
キリストにおいて業の律法からそれ故に罪から解放された。既に罪とその値である死に対する勝利はわれらの外に、キリストのうちに立てられたのである。律法は悔い改めに導き新約においては律法から解放し、キリスト・イエスの生命に与らせる。われらは罪の奴隷であるとき、死を成し遂げつつある。罪の刺激のもとにあるときは、悪行は義務にさえ見え、悪行のただなかでは一種の興奮のなかで死に向かっていることを認識できない。しかし、悪の単調さを知るべきである。そこには何ら新しいもの、生命を輝かすものを見出すことはないのである。単におのれの古い欲望にこだわり、そこにつけいる罪によって死に誘われているだけである。
ひとはただ業の律法を投げ捨てることはできない。たとえ律法を捨てても、良心が律法として働く。異邦人ならびに「アダムからモーセに至るまで」のユダヤ人をも含め、ひとの「良心」は「律法を持たずにも自らに対し律法」である(Rom.5:14,2:14)。「一四律法を持たない異邦人たちが自然に律法のことがらを行う時、その者たちは律法を持たずにも自らに対し律法なのである。一五 一六彼らは誰であれ自らの心のなかに律法の業が書かれてあることを証明するが、それは自らの良心が[律法と]共同の証人となり、そして算段に基づき自らのあいだで互いに告発し或いはまた弁明することによってであるが、それは、或る日、神がキリスト・イエスを介したわが福音に即してひとびとの隠れたことがらを審判するときである」(Rom.2:14-16)。かくして、「良心(sun-eidesis)・共同の知識(con-science)」が社会通念、共同体との共知であれ、放埓者同士のあいだでの共知であれ、ひとは業の律法から自らを解放することはできない。空き家になった心に常に何かがはいりこみ、自らを隷属させ支配する、それがデヴィルであれ、自らの救いの条件であれ。
パウロは心の根底に二心なき幼子の信仰が宿るとき、業の律法から解放されると主張する。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Gal.2:19-20,Rom.8:2)。ここでも過去形が救いの確かさを表現している。われらの外の出来事がわれらの出来事なのである、聖霊が執り成している限りにおいて。
この生命に触れることは聖霊の今・ここの働き・エルゴンである。これは経験するしかないというわけではなく、一般的に神とひとの媒介としてあの十字架と復活の過去の出来事を自らの出来事とさせるそのようなものであると理論化することができる。神のもう一つの根源的な意志である信の律法により業の律法から解放される。そこでの業の律法から信の律法への移行は悔い改めによるが、生命の霊の律法により導かれる。「神に即した苦悩は後悔なき救いに至る悔い改めを働く」(2.Cor.7:10)。ここに福音のダイナミズムがある。
3中間時
われらはキリストの出来事から終わりの日にいたるこの中間時において、肉の途上の生を生きている。そのわれらにとって、主の十字架と復活を介した福音の勝利が罪に罰を与えており、そしてそれ故に罪から逃れる道を示されている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。さらに中間時における罪の審判はやがて来る終末における最終的な「イエス・キリストを介した勝利」により「最後の敵である死」を克服し「神の国」に与る希望が生じることに確認できるであろう。罪が滅ぼされるとき、罪からの「給金」である「死」も滅ぼされる(Rom.6:23)。そしてそれは最終的に終わりの日に「瞬時に」生起する。「「死は勝利に飲み込まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにかある、死よ、汝の棘はいずこにかある」。しかし、死の棘は罪であり、罪の力能は[罪の]律法である。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する」(1Cor.15:52,15:54-57)。
イエスは自らの信・信仰により罪に勝利したために、「イエスの信」は神の信に対応するひとの信として神の義の啓示の媒介に用いられた。神はイエスの信の従順の生涯を嘉し、彼において罪を罰した。「神はご自身の子を肉の罪の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その[イエスの]肉において罪を審判した」(8:4)。罪に対する罰は罪が寄生する文字としての業の律法とは別に信の律法が啓示された故にわれらの外に生起した。
この中間時にあっては、罪に対する審判の表象は擬人化された罪、サタンを足もとに踏みしだくそのようなものとして描かれる。ひとは今・ここの具体的な状況において「道そして真理そして生命」(John.14:6)でありたまうイエスの御跡に従う限り、つまり信に基づき愛への道行きに従う限り、イエスは共にいたまいサタンを足で踏みつけていたまい、最後の日に神が踏み砕かれる。「平和の神がすみやかに汝らの足下にサタンを砕くであろう」(Rom.16:20)。
もし業の律法のもとに生きるなら、キリストはサタンから足をはずされ、ただちに罪の誘惑にさらされるであろう。この肉の生においては信のもとに復活の主とともにある限りにおいてだけ、罪から解放されている。終わりの日にいずれの律法のもとに審判を受けるかは個々人には明確には知らされてはいない。幼子の信は肯定的、創造的生を生み出す心魂の根源的態勢であり、善き業としての愛はその「義の果実」(Phil.1:11)であり、心魂の根底にある態勢とその帰結、結果としての働きは類比的ないし平行関係においてあり、いずれかから審判されることであろう。いずれの場合においても「愛を媒介にして[今・ここで]働いている信が力ある」(Gal.5:6)、その信の根源性こそ考慮の基点であることには相違ない。
「ローマ書」においてパウロは隣人を裁くことに、業の律法のもとに生きていることの一つの証が見られると主張する。「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を裁いているからである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。隣人の欠陥をあれこれ裁くとき、当人も隣人同様「同じことを行っている」つまり業の律法のもとに比較と競争のなかに生きている。パウロはこの認識の表明に続いて、「汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか」(2:4)と悔い改めに導く。われらはそのつど古い人間を、情と欲と共に古い肉をキリストの十字架に磔る。それが信の律法のもとに遂行される。そこでは業の律法から解放された「日々新たな」「内なる人間」が「霊に即して」この「肉において」生きる(2Cor.4:16,Gal.2:20)。
4結論
われらは中間時に生きている。終末までひとは自らの罪の罰として生物的罰を与件として引き受けている。しかし、永遠の生命の希望において、罪とその値である死に対して勝利している。「なぜなら、今という好機の苦難は、われらに啓示されるべく来たりつつある栄光に比して、取るに足らないとわれは看做すからである。なぜなら、被造物の切なる憧憬は神の子たちの啓示を待ち望んでいるからである。というのも、被造物は空しきに服したが、それは自発によらず、服従させた方の故にであるが、被造物それ自身が滅びへの隷属から神の子たちの栄光の自由へと解放されるであろうという望みのうえでのことだからである。なぜなら、われらはすべての被造物が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにあることを知っているからである。しかし、ただそれだけではない。われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ、自らのうちで呻いている。なぜならわれらは希望により救われたからである。しかし、見られる希望は希望ではない。というのも、誰が見ているものを望むであろうか。しかし、われらが見ないものを望むならば、忍耐をもって待ち望む」(Rom.8:18-25)。主の到来を待ち望んでいる。そこには新し天と新しい地が打ち立てられることであろう。黙示録の記者ヨハネは言う、「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聴いた。「見よ、神の幕屋がひとのあいだにあって、神がひとと共に住み、ひとは神の民となる。神は自らひとと共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」」(Rev.21:3-5)。われらは中間時に生きている、そこでは二千年前の福音の出来事に常に立ち返り、古き自己を磔、新たにされて、いつの日にか罪と悪に支配されることのない世界を希望のうちに待ち望みつつ歩む。
正しい信仰と聖霊の果実 日曜聖書講義
正しい信仰と聖霊の果実 日曜聖書講義 7月10日
聖書 ローマ書第六章
「それでは、われらは何と語ろうか。われらは、恩恵が増すべく、罪に留まろうか。二断じて然らず。誰であれ罪に死んだ者であるわれらは、いかになお罪に生きるであろうか。三それとも汝らは知らぬか、キリスト・イエスのなかへと潜浸された者であるわれらは彼の死のなかへと潜浸されたことを。四かくして、われらは死のなかへの潜浸を介して彼と共に埋葬された、それはまさにキリストが父の栄光を介して死者たちから甦らされたように、そのようにわれらもまた生命の新しさのなかに歩むようになるためである。五なぜなら、もしわれらが彼の死の似様性に一致したものとなったのなら、復活のそれにもなるであろうからである。六われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えることがないためである。七それはすでに死せる者は、罪から[離れ]義とされてしまったからである。八もしわれらがキリストと共に死んだなら、また彼と共に生きるであろうことをわれらは信じる。九キリストは死者のなかから甦らされてもはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことをわれらは知っているからである。一〇なぜなら、彼が死んだ死とは、罪に対して一度限り死んだところのものであり、他方、彼が生きる生命とは、神に対して生きるところのものだからである。一一汝らもまた同様に自らが罪に対しては死んでおり、キリスト・イエスにおいて神に対して生きている者であると認定せよ」(Rom.6:1-10)。
1宗教と理性
ひとは宗教に躓く。とりわけ、理性とは別の生命原理と言える「霊」と呼ばれる「内なる人間」(Rom.7:24)という心魂の部位に躓く。確かに、理性のみにより、ひとは宇宙の起源を知り、月にロケットを飛ばし、人々の病を癒し、生命の設計図を解明してきた。理性の確かさは疑いえないものとして現代社会に屹立している。宗教は理性の逸脱である狂信や感情の逸脱である迷信に陥ることがある。そこから宗教一般が否定される。聖書が理性の吟味に耐えうるものであるかの探求が不可欠であるゆえんである。たとえどんな小さな果実に見えようとも、この伝統のなかでわたしも福音書とパウロが伝えるイエスがキリストであることの主張に矛盾を見出すことがないことが判明し安堵した。ローマ帝国を素手で滅ぼした「ローマ書」が無矛盾であることを証明できたと思う。もしこれが確立できなければ、何が迷信であり、何が狂信であるかの明確な基準をもたなかったであろう。
理性を究極的に支えているものが矛盾律という存在と思考の原理である。誰であれ、世界を観察することなしに、つまり感覚的知覚や経験に訴えることなしに、理性のみにより矛盾律「一つの視点からAはAであると同時にAでないことはない」の正しさは揺るがない。矛盾律を否定し矛盾律は成立しないというひとは、「矛盾律は正しいと同時に正しくないということはない」という矛盾律に則って「矛盾律は正しくない」と主張しており、自己論駁的である。つまり、自らが暗黙の裡に前提している矛盾律のもとに矛盾律を否定していることに気づいていない。理性はこのように矛盾律に基づき、どこまで聖書が語っていることが無矛盾であるかを吟味する。
パウロの聖霊の議論は理論的に無矛盾であることは一般的に保証できる。そのうえで、その聖霊を経験するかどうかは各人の人生の今・ここの経験に依存している。今、迷信でも狂信でもない正しい信仰について語ることができる。その一つの徴、証はこうである。ユダヤ人は信仰熱心であったが、イエスがキリストであることの証明をことあるごとに要求したことが福音書に記録されている。イエスは「よこしまな時代は徴を求める」と言う(Luk.11:29)。正しい信仰のもとにある者はイエスがキリストであることの徴を自らの信仰の増強のために求めるのではなく、神の栄光をあらわすべくイエスがキリストであることを自ら証し、証人となる。方向が逆となる。心の清いひとは正しい信仰のもとにある。聖霊の働きを迷信や狂信から異なるものとさせるのがその果実、結果である。パウロは聖霊を受けていることの証として以下の心的態勢を挙げる。「聖霊の果実は愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、信、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」(Gal.5:22)。これらは有徳者の心魂の態勢であり、それが信の根源性のもとにうみだされる限りにおいて、誰もその信仰を狂信や迷信であると非難することはできない。信仰を持つ者はこのような立派な人間になることを自らのためにではなく、自らの古き自己を葬り新たな生命にいかしめてくださる神を賛美するために求める。生きることは復活の主と共に生きることであり、イエスがキリストであることの証となる。
2「古きひとは共に磔られた」
「ローマ書」6章の古き自己の死と新しい自己の生を理解するには、なぜ二千年前の過去の出来事が今・われらの「ふるき人」の死でもあるのかということを理解することが肝要である。「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えることがないためである」。これを理解するのに40年を費やした。「われら」はパウロにとっては二十年前、現代人には二千年前に十字架に共に磔られ死んでしまったとパウロは語る。「われらの古きひと」の死の知識主張において、古い罪の自己はキリストの死とともに死んでしまった、そして新しい生命は彼の復活とともに始まったと神は理解していることを聖霊の証のなかで「われら」の知識のことがらとして主張する。キリストの身代わりの死の目的は「罪の身体が滅び」、甦った方において生きるためである。この過去の出来事を現在の出来事とすること或いは現在の出来事をあの決定的な過去の出来事と結びつけること、それが聖霊の力である。聖霊について正しく理解することが求められる。
3過去を現在の出来事とする聖霊の働き
ここまで業の律法からの解放について「罪の誘惑」と題し八回ローマ書7章の吟味を通じて語って来た。もはやわれらは業のモーセ律法のもとに生きてはいない。「~すべし、そうすれば、正義と看做され救われる」という類の命令形が先行する世界には生きていない。パウロはイエスの十字架上の死と復活の出来事を中心にして一切を受け止め直す。なぜなら、それは神の信義と愛の最も明白な知らしめ、啓示であったからであり、そこにおいてこそ最も明白に神の人間認識そして意志、行為を知ることができるからである。この啓示内容は「神の知恵」と呼ばれ、何らか理解されうるものである。「私は成熟した者たちの間では[神の]知恵を語る」(1Cor.2:6)。パウロは神の知恵の啓示であるキリストの出来事をこのようにまとめる「四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:4-6)。
この福音のダイナミズムをわれらが理解するとき、知性のうえでも人格の上でもわれらの心魂はその根源から信義に基づき秩序づけられることになるであろう。そこで乗り越えるべき大きな障害が古き自己の死である。自分で業の律法を捨て去っても、別の律法や誘惑にまけるだけである。「わたしは信の律法により業の律法に死んだ。もはやわたしが生きているのではない。キリストがわがうちにあって生きている」(Gal.2:20)。キリスト・イエスにおける生命の霊によってのみ、律法のもとにあった古き自己の死と復活の主とともなる新しい自己の生が生起する。端的に言って、聖霊の今・ここの執り成しなしに古き自己の死と新しき自己の生の出来事は理解できない。
ローマ書は方法論上、「知恵の説得的議論」と「霊と力能の論証」の相違を明確に判別している(1Cor.2:4)。彼は「一四ギリシャ語圏の者にも異言語圏の者にも、知恵ある者たちにもまた愚かな者たちにもわれ負うべき責めを持つ」(Rom.1:14-15)と語り、哲学者、知者に対しては、聖霊の今・ここの働きに決して訴えることなしに、啓示の言語として「神の知恵」を展開している。ローマ書1:17-4:25における神の義の二つの啓示行為即ち罪への神の怒りとイエス・キリストの信を介した神の義と信じる者の義認の報告においては「聖霊」への言及が見られない。さらに、9章から11章において、予定の教説を展開するが、そこでも「聖霊」への言及は見られない。
それに対し、「ローマ書」5-8章は神の前と「肉の弱さ」においてあるひとの前の聖霊による媒介の議論が展開されている。これらの章の特徴は1-4章の啓示の言語においては啓示の差し向け相手は三人称「彼ら」「誰であれ~なひとは」と表現されていたが、それと異なり、一人称複数「われら」ないしパウロが手紙を介して呼びかける「汝ら」という二人称が用いられている。呼びかける対象はパウロの発話の状況のもとにある具体的な者たちことである。
これら四つの章においてはパウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)とし、「われら」、「汝ら」の視点から福音を自らのこととして今・ここで受け止め直す。そのさい、パウロの自覚として聖霊の今・ここの執り成しを受けているという自覚のもとに議論を展開している。パウロは、例えば「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている[現在完了形]」(Rom.5:5)と語りかけるが、その発話のただなかで今・ここにおいて愛が注がれているという自覚のもとにある。もし聖霊の執り成しがないとき、この発話がなされた場合にはこの文章は偽となるそのようなパウロにおける聖霊の働きの証として議論は展開されている。これを「今・ここのエルゴン(働き)言語」と呼ぶ。「六われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている」という知識主張は聖霊の執り成しのなかで、あの十字架の出来事はまさにわれらの古きひとの死であったということが執成されており、聖霊の証故に知識として主張している。それ以外にこの箇所を正しく理解することはできない。
4 理性と聖霊の働きの相補的な論証―ロゴスとエルゴン―
パウロは神の知恵を語るとき、聖霊に対する言及なしに語る。聖霊はその神の前のことがら、即ち神の認識や判断、行為等「神の知恵」を何らか人の前のひとの現実とさせる力である。神の前の人間現実と人の前の人間現実はパウロにより相互に異なる言語網において展開されている。前者は神の啓示行為に基づき、福音の宣教においてパウロが「知恵ある者たちにも愚かな者たちにもわたしは負うべき責めを持つ」、その「知恵ある者」に対応するべき神の知恵の報告である(Rom.1:16)。「わたしは成熟した者たちのあいだでは神の知恵を語る」(1Cor.2:6)。ここで「神の知恵」とは「キリストが神の知恵となった」(1Cor.1:30)と言われるところのそのキリストのことである。所謂信に基づく義(信仰義認論)と選び(予定)の教説は「知恵」に訴えて展開される。「深いかな神の知恵と認識の富とは」(Rom.11:33)。信に基づく義の議論(「ローマ書」1:17-4:25)および選びの教説(9:6-11:36)において、この知恵の説得が聖霊に対する一切の言及なしに遂行されている。パウロはこれを「知恵の説得的議論」と呼ぶ。
知恵の説得的議論においては、ひとの心的状態は直接には問題にされずに、神にそう「認定される(看做される)」場合には義人であり、或いは神の怒りの対象とし、悔い改めを迫られているとする議論が一般的に三人称で展開される。彼はこの神の知恵の報告を「わたしは汝らに或る部分において一層大胆に書いた」と述べている(Rom.15:15)。
この知恵の説得とは別に、神の前と人の前の双方を媒介するものが今・ここにおいて働く(D)復活の主キリストないし聖霊であり、その議論は「霊と[神の]力能の論証」と呼ばれる。(エルゴンD)「神の愛はわれらに賜った聖霊を媒介にしてわれらの心に注がれてしまっている[現在完了形]」。このパウロの発話はその発話の時点で聖霊が注がれていない場合には偽となる、そのような今・ここの働きのなかでの語りである。聖霊を媒介として神の愛の今・ここの働きはそこからロゴス言語として(ロゴスD)「もし神の愛が注がれるとするなら、それは心への聖霊の賦与を媒介にする」と一般的な言明を引き出すことのできるものである。
条件文「もしキリストが汝らのうちにあるなら」(Rom.8:10)においては、キリストや聖霊の執り成しがある場合もない場合もあることを含意している。神が怒りの啓示として各人の裁量に「引き渡して」(Rom.1:24)しまっているときには、聖霊の媒介行為は悔い改めに導く場合にだけ想定される。ただし、人智を超えた神の自由は確保されたままであり、聖霊の執り成しの証は罪との葛藤さらには平安、愛の生起において確認される。
このように一方では聖霊への言及のない知恵、ロゴスによる説得があり、他方、それと平行した仕方で聖霊の力能の働きに訴えたエルゴンによる論証がある。双方が相補的な仕方で展開されている。パウロは「ローマ書」においてこれら二つの視点から分節することを許容する仕方で彼の神学議論を体系的に論じた。福音をロゴス次元において神の前のことがらとして分節することが許容されるとき、ひとはその証としてのエルゴンにより、その正しさを確認し、ロゴスの明晰性はそのエルゴンの純化に貢献するであろう。そこには聖霊の執り成しが働いてもいよう。「わたしは、神に向かうことがらに関して、キリスト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、神の霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:18-19)。パウロは自らの宣教活動が主イエスの自らへの内在によるものであることを誇っている。彼の自覚としてはキリストが彼を介して理論と実践を展開している。また彼のこの自覚とは別に肉にあるものとしてその宣教の言葉と働きそれだけを「語る」として自らの責任において遂行していることをも明確にしている。
福音書においてもイエスご自身の福音宣教が「エルゴンとロゴスにおいて」遂行されたことが報告されている。復活の主がエマオへの道を歩く弟子たちに同行したさいのことである。彼らは傍らを歩く復活の主に「神とすべての民の前にエルゴンとロゴスにおいて力ある預言者となったナザレのイエスに関わるものごと」について語った(Luk. 24:19)。何であれ、論証や証が説得的となるためにはロゴス・理論とエルゴン・実践双方が導きあい、補い合うそのような議論が不可欠となる。複層的な関係を形成するロゴスとエルゴンは、伝統的そして今日的な表現を含めるとき、多岐にわたり枚挙できる。例えば、理論と実践、知識をもたらす推論と発見的探求、論証(証明)と帰納(実験検証)、語彙の意味の説明言表とそれにより指示される(働きにある)ものごと、抽象されたものごとと具体的な今・ここのものごと、ソフトとハードウエア、遺伝情報とその読み取り、楽譜と演奏等として分節され、そしてそれらは相互にそれぞれを必要としている。
聖書においても、具体的には、憐れみの発動というエルゴンにおける主のロゴスによる宣教はこう報告されている。「彼が外にでると多くの群集を見た、彼らが「飼い主のいない羊のごとく」彷徨っていた。イエスは彼らを深く憐れんだが、この今・ここの憐みのエルゴンが「彼らに多くのものごとを教え始めた」とあるよう言葉を生み出している(Mak.6:34)。ここで主イエスは天国について「多くを教えた」のであり、言葉による宣教である。「ローマ書」の信に基づく義と選びは神の知恵の一つの報告であった。
彼らの宣教活動はこの種の理論(ロゴス)とそれに伴う実践(エルゴン)により構成されていた。パウロは言う、「われらの福音は言葉において(en logōi)だけではなく、力能においてまた聖霊においてもそして確証の十全性においても汝らに生起した(egenēthē)」(1Thes.1:5)。パウロはさらに言う、「「受け取るべき好機に、わたし[神]は汝に聴いたそして救いの日に汝を援けた」。見よ、今や歓迎すべき好機、見よ、今や救いの日。われらは誰にもいかなる躓きを与えることなしに(それはわれらの宣教の奉仕が咎められることのないためであるが)、あらゆる場合において神の奉仕者として自分たちを表現している、大いなる忍耐において、艱難において、窮乏において、行き詰まりにおいて、鞭打ちにおいて、監禁において、暴動において、労苦において、徹夜において、断食において、貞潔において、知識において、寛容において、親切において、聖霊において、偽りなき愛において、真理のロゴスにおいて、神の力能において(en logōi alētheias, en dunamei theū)、右手と左手の義の武器を介して、栄光と恥を介して、悪評と好評を介して[われらは自分たち自身を表現している]。われらは迷わせる者また真実である者として、知られていない者そして知られている者として、死につつある者としてそして見よわれらは生きている、懲らしめを受けつつそして殺されていない者として、悲しむ者しかし常に喜んでいる者として、貧しい者としてしかし多くを富ましている、何も持たない者としてそして一切を持っている[そういう者として自分たち自身を表現している]」(2Cor.6:1-10)。福音は一つのロゴスであり、そして各人のその証、自己表現・プロデュースは一つのエルゴンである。
結論
イエスご自身山上の説教をロゴスとして一般化されうる教えとして語り、そしてそれを信の従順により力の限り生き抜いたそのエルゴンにより、彼はご自身の言葉・ロゴスの正しさを今・ここのエルゴンにおいて証していたまう。彼の人格からにじみでる権威は彼の力ある聖なる言葉とそれに対応する力ある聖なる働き、即ちロゴスとエルゴンの合致に基づくものであった。彼の言葉は生きられることにより、偽りはなかった。そのような染みや傷、汚れなき聖なる方には甦りによる永遠の生命こそふさわしい。死は「罪の給金」(Rom.6:23)だからである。この人格は神ご自身により「わが愛する子、わたしは汝を嘉みした」と神の子として祝福されたが、御子の復活は永遠の生命の交わりのうちにいたまう父と子にふさわしいものである(Mak.1:11)。
付録アンセルムス「神はなぜ人になったか」。ボゾはこれらの長い対話の終り近くで、信じうることそれ自身が喜びであることを表白するが、それは信が明確なロゴスをもっていたことの認識からくる喜びである。「何もこれ以上理に適うものはなく(nihil rationabilius)、何もこれ以上甘美なるものもなく、何もこれ以上、世が聞くことのできる望ましいものはありません。私はこのことから、わが心がどれほど喜びにあふれているかを語ることができないほどの信を抱きます。といいますのは、神はこの御名のもとにご自身に向かういかなる人をも受け入れたまわないことはないと私には思われるからです」 (II19)。
福音のダイナミズム―律法からの解放―
福音のダイナミズム―律法からの解放― 日曜聖書講義 7月3日
聖書 ローマ書第八章
「かくして、今や、キリスト・イエスにある者たちにはいかなる罪の定めもない。二なぜなら、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放したからである。三というのも、ひとが肉を介してそこにおいて弱くなっていたところの律法の[遵守(じゅんしゅ)し]能(あた)わざることを、神はご自身の子を罪の肉の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その肉において罪を審判したからである、四それは律法の義の要求が肉に即して歩まず、霊に即して歩んでいるわれらにおいて満たされるためである。五なぜなら、肉に即してある者たちは肉のことがらを思い、他方、霊に即してある者たちは霊のことがらを思うからである。六というのも、肉の思慮内容は死であり、霊の思慮内容は生命と平安だからである。七それ故に、肉の思慮内容は神に敵する、なぜなら神の律法に従わないからである、というのも従いえないからである。八しかし、肉にある者たちは神を喜ばすことができない。九とはいえ、汝らは肉においてあるのではなく、霊においてある、いやしくも神の霊が汝らに宿るなら。だが、もし誰かキリストの霊を持たぬなら、その者は彼のものではない。一〇他方、キリストが汝らのうちにあるなら、かたや身体は罪の故に死であるが、他方霊は義の故に生である。一一しかるに、イエスを死者たちから甦らせた方の霊が汝らのうちに宿るなら、キリストを死者たちから甦らせた方は汝らの死すべき身体にも汝らのうちに宿るご自身の霊を介して生を賜わるであろう。
一二それ故、かくして、兄弟たち、われらは肉に対し肉に即して生きる義務ある者にあらず、一三というのも、もし汝らが肉に即して生きるなら、汝らは死ぬばかりだからである。しかし、もし汝らが霊により身体の諸行為を死なすなら、汝らは生きるであろう。一四というのも、神の霊に導かれる者である限り、その者たちは神の子だからである。一五なぜなら、汝らは再び恐れに至る奴隷の霊を受けたのではなく、われらがそのなかで「アッバ父よ」と呼ぶ、子としての定めの霊を受けたからである。一六御霊自らわれらが神の子たちであることをわれらの霊と共に確証したまう。一七もし、われらが子であるなら、われらは相続人でもある。かたや神の相続人であり、他方キリストと共同の相続人である、いやしくもわれらが共に栄光に与(あずか)るべく、共に苦難に与(あずか)っているのなら」(Rom.8:1-17)。
「ヨハネの第一の手紙」「われらはわれらが死から生に移行したことを知っている、というのもわれらはきょうだいたちを愛しているからである」(1John.3:14)
1生の全体を秩序づけるものは理性か信か
人類の歴史が伝える確かなものの一つに、信の根源性を掴んだ人々は、自らの信仰生活を最後まで持続しえたことがある。喜びがあるからである。ルターはこの信の根源性を「信仰のみ」即ち「信仰」プラス「愛」ではないと語った。彼はパウロの「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)に言及し、信が愛を生み出す力であるとした。親鸞も「罪悪深重、極悪熾盛」、「いずれの業も及びがたき身」として専修念仏の力のもと易行道を歩みぬいた。あらゆる行為の指針となりあらゆる行為に浸透する心の在り方をめぐる基本的理解は簡潔でしかも常にその確かさを確認できるものであるに違いない。それは身体にその座をもつ「感情」(ファウスト)でも、心の普遍的な一機能「理性」(アリストテレス)でもなく、その根底に宿る二心なき幼子の「信」である。そのさいそれが正しい信であれば、適切な理性や感情がそれに伴い、信の正しさは理性の逸脱である例えば自らを神とする狂信や感情の逸脱例えば恐れの過剰である迷信に陥ることなく、認知的、人格的態勢の成長を促す限りにおいて証されている。イエスは言う、「天国のことを学んだ者は皆自らの倉[心に蓄積された態勢]から古いものと新しいものを自由に取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:51)。
信仰の熱心に生きている人々は奇異の目で見られることがある。イエスご自身も天の父なる神と自らのあいだに、神の前とひとの前のことがらに籬(まがき)をもうけることなく、自らを神の子ないし神と共にある者と看做し、そのような言葉と行いを貫いた。彼の権威ある大胆さは人々を一方で信仰に導き、他方で躓きを与えた。信仰熱心なユダヤ人はイエスがキリストであることの「徴・証」を自らのために求めたが、正しい信仰者は自らの心魂の実験を介しつつ証することにその生涯を用い神に賛美を捧げる。一切を統べ治めています神の事柄は個々人の魂の事柄であり、なぜなら魂は神の意志を知りうるとされているからであるが、その魂が実験と検証の場所である限り、常住坐臥のこととなる(Rom.12:1-2)。
イエスは「神の子の信」により信の従順の生涯を貫いた(Gal.2:20)。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。人類のなかに、まことにひとであり同時にまことに神の子である方がおられる、これを信じるかが問われている。聖書をとりわけ福音書を読むことによりひとは次第にナザレのイエスがわれらと同じひとであり、しかもわれらと同じ単なるひとではないことに気づいていく。そのことに内側からの納得が得られるとき、信じることの喜びが生起する。信の根源性は心魂の根源を形成するものであるがゆえに、一切の行為がそこから生まれてくるそのような心魂の全体にかかわるものとなる。
感情や理性を心魂の根源に据えるときにも、それらはあらゆる営みを導くものとなるであろう。アリストテレスにおいては、身体的な情動(パトス)である怒りや恐れや快に対して良い態勢にある正義や勇気そして節制という人格的な態勢は心魂の「徳・卓越性」と呼ばれる。心魂の善悪に関わる人格的態勢と真偽に関わる認知的態勢はその人格的成長と認知的成長を常に補いあいつつ、導きあう。個々の状況において何を為すのが最善の行為かを知るに至る「実践知・思慮深さ(phronēsis)」が正義や勇気等の人格的態勢を秩序づける。彼は実践知について「人間的な善に関わる行為力能上のロゴス(理)を伴う真なる態勢である」と特徴づけ、その心魂が何を為すべきかをめぐり真なる態勢にあるということは「正しい欲求に同意している状態」である(Nic.Eth.6.2,1139a30)。可能な行為の選択肢のなかで最善のものを認識することは、「全般にわたってよく生きること(to eu zēn holōs)に対してどのようなものがよいか熟慮しうること」(1140a28)に基づく。
かくして、実践知は自らの人生全体においてよく生きようと欲求する人格的態勢の成長のもとに、最善の行為を捉える理性の働きである。それ故、今・ここの状況における最善の行為に関わる実践知は指令的なものとなる。「選択を正しいものにするのは徳であるが、選択のために本来なされる限りの[手段的な]ものごとは徳ではなく、それとは異なる力能に属する。・・「才知・頭のよさ」と呼ばれる力能がある。これは設定された目標・目当て(skopos)に向かって進んでいくものごとを実行することができ、当の目標に到達する力能のことである。かくして、当の目標が美しい場合は、この力能は賞賛されるが、その目標が卑劣なものである場合は、それは「狡知・ずる賢さ」にすぎない。それ故、実践知者(phronimos)も才知があるとわれらは言い、狡知にたけた者もまた才知があると言う」(Nic.Eth.6.12,1144a20-28)。
有徳な者は正しい行為を正しい行為それ自身の故に選択するように、正しい選択とその正しい実践は有徳の証であり、実践知はその有徳性に伴う認知的卓越性である。「あらゆる[勇気、正義等の人格的]徳は同時にひとつの実践知に内属するであろう。・・かくして、この正しい選択は実践知なしにはまた[人格的]徳なしには成り立たないであろう。なぜなら、一方徳はゴールを実践せしめる(poiei prattein)が、他方、実践知はゴールに向かうものごとを実践せしめるからである」(6.13,1145a1-6)。立派な人間は正しい人生の目標を持ち、正しい動機付けによりそしてそのゴールに向かう正しい方策、手段により成し遂げることのできる者である。この意味で、理性は指令的、律法主義的なものである。
他方、もし感情や気分を生の根底におくなら、そのつどの身体的な反応に基づき行為が選択されることとなり、その生はカオスとなり、秩序は生まれないであろう。よく生きようとする者にとっては生全体が問われるそのような根源的な生の原理が求められている。ひとの心魂とその在り方により形成される生とは秩序なきものものであり続けることのできない、そのようなものであると言うことができる。ひとは分裂があるとき、その分裂の癒しを求めざるをえないということに他ならない。アリストテレスの理性は心魂の人格的かつ認知的態勢の成長に伴う実践知により秩序づけられうるとし、聖書は信により神との正しい関係を持つことなしには分裂は癒されないと主張する(信と理性の両立性について、ここでは議論できない)。
2業のモーセ律法からの解放における罪の贖い
イエスやパウロは信の根源性を当時のパリサイ派律法主義者等の業のモーセ律法の根源性の主張との対比において捉えている。イエスは山上の説教でモーセ律法を乗り越え、心魂の根源を問う形で極性化する。彼は山上で「裁くな」、「色情を抱くだけで姦淫」、「左頬をも向けよ」とモーセ律法を純化し究極の業の律法を語りつつ、「まず神の国とご自身の義を求めよ」と信仰に招く(Mat.6:33)。彼はこの「天の父の子」、「神の子の信」により信の従順を貫き、「福音」即ち「信じる者に救いをもたらす神の力能」を歴史に確立した(1:16)。
イエスは「律法の一点一画も廃棄されない」その神の意志への尊敬のなかで、「律法全体と預言者が依拠している」愛に業の律法を集中させ、信の従順により愛の律法を成就した(5:45,17,22:40, Gal.2:20)。イエスは野の百合空の鳥に見られる神の愛を自ら生き抜き自らの信義の証の復活を通じて、信義と「義の果実」としての「愛」これら二つの神の義を媒介した(Phil.1:11)。信は神との義を形成し、その義の果実として愛が形成される限りにおいて、正義と愛はナザレのイエスにおいて両立するものとして生きられた。神はこのイエスの信の生涯を嘉みし、「すべての者は罪を犯した」が「キリスト・イエスにおける贖いを介してご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たち」であることを知らしめている(3:23-24)。贖いとは人々の罪をキリストの血によって買い取り義を贈りものとして与えることである。
神の愛を素直に受ける信の根源性に至るためには罪の定めに至る業のモーセ律法からの解放が求められる。「業に基づくすべての肉は神の前で義とされないであろう。というのも、律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(3:20)。その解放とは罪に定める業の律法からの解放である。それは業の律法の指針のもとに生き、目の塵と梁の間で自他の裁きと貪りがもたらす自他の破壊に疲れ、モーセ律法をただ投げ捨てることではない。生の規範を投げ捨てた心は空になり、本願誇りにより何をしても赦される無律法主義や「善を来たらすため悪を為そう」偽悪主義が蔓延り、空の「わが家」に悪霊が入り込む(2:12,3:8, Mat.12:43-45)。福音の故に律法は乗り越えられる。律法を捨てると同時に罪が贖われ義とされたことを受け取る。
業の律法からの解放は罪に死んだことを含意すると共に義の生命を受け取ることである。「わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(7:4-6)。律法に死んでしまった以上、立派な行為やそれへの誇りからも解放されてしまっている。
律法への隷属はどれだけ規範、恐れや裁き、軽蔑、羨望等より縛られているかにより認識される。律法のもとでは偶像を「拝む―拝まない」、「貪る―貪らない」等各人の責任ある行為の二者択一が問われ、その遵守により自らを義とする誇りが残る。律法に死んだ者はこの二者択一のなかで立派な行為を常に気にかけ、それ故に自他を審判することはもはやない。「神ご自身の恩恵による贈り物」である罪の赦しのあるところ、「義を受け取る者たち」に誇りはない(3:24)。「誇りはどこにあるか、閉め出された、それは業の律法を介してか。然らず、信の律法を介してである」(3:27)。信の律法のもとでは「信じる―裏切る」の二者択一となる。神の愛がキリストにおいて既に与えられているからである。信じることは未熟な幼子でもできることである、或いは素直なそして保護者なしには生き得ないことを直覚的に知っている幼子にこそできることである。
3キリスト・イエスにおける生命の霊
裁きと罪の欲情から解放された心は信がもたらす義の新しい生命によって満たされる。「しかし、今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(8:2)。「わたしは神によって生きるために、[信の]律法を介して[業の]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。疑いなき幼子の信は神からの愛の促しのもとに生起する。「希望の神が、汝ら、聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で汝らを満たしたまうように」(Rom.15:13)。信じうること、ただそのことが嬉しい。
信→義→愛、ここに福音のダイナミズム、力動性がある。律法から解放された心魂にこの生命が流れ入る。放物線が接戦に触れるように、天来の愛がもたらす生命が現在、今・ここに注がれ、過去と未来による支配からも解放され、時との和解が生起する。キリストの軛を担い彼と共に信義の道を歩むとき、共軛の牛の体温のように彼の柔和と謙遜が伝わる。キリストと共にある平安と喜び、福音の力に触れている者はそこから一切の思考と行為がうみだされていく。ルターは言う。「わが心のうちに一つの箇条即ち、キリストの信(Fides Christi)が統治している。それはそこから、それを介してそしてそこへとわがあらゆる神学的思考が、昼も夜も、流れいでそして流れ戻るところのものである」。
4 結論
福音と律法の相違は直接法「汝の罪赦された」が先行し、命令法「それ故に汝相応しい実をむすべ」が後行するか、「汝これこれ為すべし、これこれ為すべからず」の命令法が先行し、直接法「汝罪赦された」が後行するかのいずれかにより判別される。クラーク先生は明治初期札幌農学校に赴任するさい、ただBe gentlemanとだけ言った。これが命令法であるとするなら、われらはWe shall be gentlemen and ladies.と勧奨にかえよう。業の律法は生命をもたらさない。理性は律法主義であり、それ自身としてはわれらに救いをもたらさない。信なしに人類は神との正しい関係ひいては人間との正しい関係を生み出すことはできない。信を根源とするか理性を根源とするかそれが問われている。人類の歴史を振り返ろう、自らの歴史を振り返ろう。そのとき、われらに救いをもたらすものが何であるかを知ることになるであろう。
罪の誘惑(8)律法と罪と内なる人間の三つ巴
日曜聖書講義6月26日
罪の誘惑(8)―律法と罪と内なる人間の三つ巴―
(録音は2節まで))
「ローマ書」七章
1 律法からの解放と律法が罪でないことの第一議論
ここまでわれらは「われ・わたし」とは律法により二人称単数で「汝~為すべからず」という呼びかけのもとでの命令に対し、一人称単数「われ」により応答する人間一般を指示していることを学んできた。この議論は「今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された」(Rom.7:6)者たちにとって、パウロが神の意志である限り廃れることのない律法の新たな機能を確認している箇所である。もし、解放されたはずの律法のもとに、あらためて生きるなら、律法を差し出された人間は誰であれ、「惨めだ、われ、人間」と叫ぶそのような葛藤することが求められている。ひとに罪の罪性の著しさを知らしめ、神がイエス・キリストにおいて知らしめた信の律法のもと福音に逃れるよう導く機能が業の律法に与えられている。それはパウロであっても二千年後のわれわれにもあてはまり、その意味で「われ」は誰にも適用される虚構の「われ」である。
第一議論は、律法は罪ではなく、罪を知らせるものであることを明らかにしている。神の意志によれば、キリストの出来事は人類をモーセの業の律法から信の律法に移行させるものである。人類は業の律法から解放されてしまった。第一議論は、人類がそこから解放されたその律法は、文字として捉えられる限り、擬人化される罪が利用するものであることを明らかにしている。パウロは人類の始祖アダムの堕罪を念頭に、蛇に比せられる罪が文字としての律法を利用し機会を捉え人間を欺き、「われ」が生物的死を引き受ける者となったことを過去形により表現している。「われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である」(Rom.7:7-12)。
神の意志である限り、モーセ律法そしてそのもとにある戒めは罪ではなく聖なるものであるが、人類の始祖に見られるように、誰もが罪の虜となり生物的死を罰として引き受けることになった。人類は罰としての生物的死を生きるさいのハンディとして引き受けるが、それを乗り越える永遠の生命に与ることが福音の力である。第一議論において主語は「われ」であるが誰であれアダムであれ、パウロであれアインシュタインであれ、生物的死を罰として引き受けることになったことは人類が罪の誘惑に負けたことの故にであることを明らかにしている。神の前では「あらゆる者は罪を犯した」(Rom.3:23,5:12)のであり、その罰としての生物的死がある。それを乗り越えらた者たちにとっては、生物的死は「眠り」となる。
「キリストはわれらがまだ罪びとであるときわれらのために死んだ、そのことにより神はわれらにご自身の愛を示したのである。九かくして、今や、われらは彼の血において義とされたのであるから、さらにいっそう彼を介して怒りから救われるであろう。一〇なぜなら、もし、われらは、われらが敵であったときに、神と、ご自身の御子の死を介して、和解させられたのであるなら、さらにいっそう、われらは、和解させられた者として、彼の生命において救われるであろう。一一しかし、ただそれだけではない、われらはその方を介して今や和解を得たそのわれらの主イエス・キリストを介して神において大いに喜んでいる者でもある。
一二その[「和解させられた者として、彼の生命において救われる」]ことの故に、ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通したのである。一三というのも、律法[が与えられる]までにも罪は世界にあったのであり、律法が存在しないため罪は告訴されていないが、一四しかし、死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配したからである。彼は来るべき方のひとつの型[モデル]である」(Rom.5:8-14)。
アダムは人間の一つの代表「型」であるが、それはキリストにおける救いに向けての「型」である。アダムとキリストは罪に負けた者における生物的死を与件にする者とキリストにおいて罪に勝利した者の永遠の生命に与る者とのコントラストとなっている。キリストの信の生涯においてもたらされた、永遠の生命がいかにわれら個々人のものとなるかは「ローマ書」8章で展開される。罪は死を介して神の前の永遠の滅びを画策するが、キリストにある限り、「キリスト・イエスにおける生命の霊」(8:2)に与る者とされる。
2.第二議論における律法の新たな機能―罪と律法と内なる人間の葛藤―
第七章の第二の議論は律法は罪ではないとして、善である律法が死に貢献するのかが問われる。それへの応答として、パウロは聖なる霊なる律法と文字としての律法の異なりを明らかにし、罪は文字としての律法に寄生できることを指摘する。ひとの肉即ち生物的生の原理であるそれ自身中立的な心魂の部位は罪が寄生することのできるものであるが、人間の心魂には罪が寄生できない部位がある。パウロはそれを「内なる人間」と呼び、そこにおいて神の霊、聖霊に反応する人間の「霊」が力能として宿っており、それを介して「叡知(ヌース)」が発動して、神の意志を知ることができるとされる。パウロはその部位は常に刷新の必要とされる部位であるとする。彼は12章で言う、「かくして、兄弟たち、神の憐れみによりわれ汝らに勧める、汝らの身体を神に喜ばれる生ける聖なる献げものとして捧げよ、それは理性に適う汝らの礼拝である。二汝らこの世界に同調するな、むしろ神の意志が何であり、善とはそして喜ばれるものそしてまったきことが何であるかを汝らが識別すべく、叡知の刷新により変身させられよ」(Rom.12:1-2)。ここで変身とはキリストと共にあり、キリストに似た者になることに他ならない。
ここに、罪と律法と内なる人間の三者の葛藤が描かれる。
一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法違反を介した死]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという[罪の]律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。
この箇所第二議論は第一議論と異なり、現在形で描かれ今・ここでの葛藤を表現している。新共同訳の21節の翻訳は「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます」とあるが、「いつも」という言葉は見られない。今・ここのことがらとして「われ」は悪が自らのうちに働いている、その悪をもたらす罪の律法を見出している。「しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという[罪の]律法をわれ見いだす」。罪の律法に捉われることがあるが、「いつも」そうであるわけではない。虚構の「われ」は今・ここでの葛藤の主体である。そのわれは「肉」と「内なる」人間により構成されている。パウロは一方「わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知る」(7:18)と語り、この葛藤を引き起こす状況においては自然的な生命原理である「肉」に善が見いだされないことを記録している。もし、この生命原理が悪しきものであるとすれば、人間の産物は一切悪しきものとなろう。ひとはこのような人間観に同意できないであろう。イエスもパウロは肉の中立性を語っており、自然性そのものが悪であると言う議論は見いだされない。
パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)と肉の弱さへの譲歩のもとに「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもある中立的な存在者として人間を位置づけることがある(6:19-20)。ひとは相対的自律性を認められているが、いつのまにか、神からの働きかけ、愛を忘れてしまい、神に帰属するはずの端的な自律性を自ら主張するに至る。それが罪である。蛇は誘った、「汝らは神の如くなるであろう」(Gen.2:5)。ひとはナザレのイエスを知れば知るほど、自らが天の父への信頼に生き抜いた彼のようでありえないことを知り、それを「罪」と理解し、そこからの解放を求める。換言すれば、受肉したイエスに繋がらない限り、神は単なる超越者となり抽象者となり、ひとは糸の切れた凧のようになるであろう。
「肉」は身体を持つ自然的存在者の心魂にその座を持つ生物的な生命活動の基本原理であり、そのつど発動する「叡知」と「霊」という「内なる人間」と呼ばれる根源的部位と何らか関係する心魂の一つの構成部位である。肉は生きている身体においては身体とは分離されないものとして働く。これは通常の身体と心魂の関係と類比的である。見るという心魂のその都度の働きは目を通して今・ここで見ているという身体の働きと分離されない。そして身体におけるキリストの生命への同化過程は、以下引用文斜体の「というのも」(2Cor.4:11)という理由文において肉におけるキリストの生命への同化過程により説明される。心魂の一部位である肉の変身が身体の変身をもたらす。
「一方、われらはわれら自身をではなく主イエス・キリストを宣教する、他方、われらはイエスの故に自分たちを汝らの奴隷であるとする。というのも神は、「光が闇から輝きいでるであろう」と語られた方であり、その方はキリストのみ顔のうちにある神の栄光の認識の輝きに向けてわれらの心に照らしたまうたからである。われらはこの宝を土の器に持っている、それはその力能の卓越性がわれらからのものではなく神のものとしてあるためである。あらゆることがらにおいて圧迫されても困窮せず、途方に暮れても絶望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びず、いつもイエスの死を身体において(en tōi sōmati)持ち運ぶ、それはイエスの生命がわれらの身体において顕れるためである。[4:11]というのも、常に、われら生きている者たちはイエスの故に死へと引き渡されているが、それはイエスの生命がわれらの死すべき肉において(en thnētēi sarki)顕れるためだからである」(2Cor.4:5-11)。
ここで肉は「死すべき」と形容されるが、この死すべき肉こそそこにおいてイエスの生命が顕れる場である。「肉」は弱さを抱えつつも、復活のキリストが内なる人間(叡知と霊)を介してそこにおいて顕現される心魂の一つの座である。そのさい「イエスの生命」は身体的な働き(エルゴン)を伴っている。ここで理由文「というのも~」に見られるように、「肉」は概念上「身体」から分離され、「肉」が「身体」におけるイエスの生の顕現の理由を与えており、ロゴス上「肉」は「身体」に先行する。しかし、働き(エルゴン)上、肉は何らかの身体的働きを伴う。愛の行為は「霊の果実」、「義の果実」であるが身体を介して遂行されることであろう(Gal.5:22,Phil.1:11)。
人間社会が自律したものとして自らを司法や行政、経済等制度化、律法化のもとに位置づけ、さらに科学技術を促進させることは人間の知性の証であることであろう。医療や技術の進展にこそ例えば疫病の克服の光明が見られ、また教育を受ける機会が得られる。しかし、これらが神に頼らずにすむシステムの構築として肉を厚くするとき、二心、三つ心の偽りに陥る危険にさらされている。これらの営みは、最も善きものによる秩序づけなしには、自らの正当化の動機付けのなかで自ら理解する公平さ、技術革新、効率性の名のもとにある隠れた欲望、有利性を拡大するシステムの作成に向かう。この傾きのなかでひとは自らの心魂を罪に引き渡し、神への眼差しをそして隣人への愛を忘れてしまう。
「ローマ書」七章においては肉が罪の律法に仕え、善が宿っていないことを見出している。しかし、完全に罪に欺かれているわけではなく、内なる人間の叡知が霊を介して発動している。「善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという[罪の]律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている」。この葛藤をもたらすことこそ、律法の新たな機能である。
3.業の律法から信の律法に導く悔い改め
一般的に、もしわれらが「惨めだ、われ、人間」と叫ぶことがあるとするなら、それは業の律法が内なる人間を介して何等か働いており、悔い改めを促していることを示している。苦悩するとき、われらは喜ぼう。「汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか」 (Rom.2:4)。悔い改めは旧約においては業の律法のなかでのことであった。洗礼者ヨハネは言う。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-12)。試練を表現する「火」と復活の主の原罪を表現する「聖霊」により洗礼を授けられるとき、ひとは信の律法のもとにイエスをキリストであると信じるに至る。
キリストにおいて業の律法からそれ故に罪から解放された。既に罪とその値である死に対する勝利はわれらの外に、キリストのうちに立てられたのである。律法は悔い改めに導き律法から解放し、キリスト・イエスの生命に与らせる。われらは罪の奴隷であるとき、死を成し遂げつつある。罪の刺激のもとにあるときは、悪行は義務にさえ見え、悪行のただなかでは一種の興奮のなかで死に向かっていることを認識できない。しかし、悪の単調さを知るべきである。そこには何ら新しいもの、生命を輝かすものを見出すことはないのである。単におのれの古い欲望にこだわり、そこにつけいる罪によって死に誘われているだけである。
罪が滅ぼされるとき、罪からの「給金」である「死」も滅ぼされる(Rom.6:23)。そしてそれは最終的に終わりの日に「瞬時に」生起する。「「死は勝利に飲み込まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにかある、死よ、汝の棘はいずこにかある」。しかし、死の棘は罪であり、罪の力能は[罪の]律法である。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する」(1Cor.15:52,15:54-57)。ここに福音のダイナミズムがある。
4.中間時
われらはキリストの出来事から終わりの日にいたるこの中間時において、肉の途上の生を生きている。そのわれらにとって、主の十字架と復活を介した福音の勝利が罪に罰を与えており、そしてそれ故に罪から逃れる道を示されている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。さらに中間時における罪の審判はやがて来る終末における最終的な「イエス・キリストを介した勝利」により「最後の敵である死」を克服し「神の国」に与る希望が生じることに確認できるであろう。「神はご自身の子を肉の罪の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その[イエスの]肉において罪を審判した」(8:4)。イエスは自らの信・信仰により罪に勝利したために、「イエスの信」は神の信に対応するひとの信として神の義の啓示の媒介に用いられたからである。罪に対する罰は罪が寄生する文字としての業の律法とは別に信の律法が啓示されたことにこそある。
この中間時にあっては、罪に対する審判の表象は擬人化された罪、サタンを足もとに踏みしだくそのようなものとして描かれる。ひとは今・ここの具体的な状況において「道そして真理そして生命」(John.14:6)でありたまうイエスの御跡に従う限り、つまり信に基づき愛への道行きに従う限り、イエスは共にいたまいサタンを足で踏みつけていたまい、最後の日に神が踏み砕かれる。「平和の神がすみやかに汝らの足下にサタンを砕くであろう」(Rom.16:20)。
もし業の律法のもとに生きるなら、キリストはサタンから足をはずされ、ただちに罪の誘惑にさらされるであろう。この肉の生においては信のもとに復活の主とともにある限りにおいてだけ、罪から解放されている。終わりの日にいずれの律法のもとに審判を受けるかは個々人には明確には知らされてはいない。幼子の信は肯定的、創造的生を生み出す心魂の根源的態勢であり、善き業としての愛はその「義の果実」(Phil.1:11)であり、心魂の根底にある態勢とその帰結、結果としての働きは類比的ないし平行関係においてあり、いずれかから審判されることであろう。いずれの場合においても「愛を媒介にして実働している信が力強い」(Gal.5:6)、その信の根源性こそ考慮の基点であることには相違ない。
「ローマ書」においてパウロは隣人を裁くことに、業の律法のもとに生きていることの一つの証が見られると主張する。「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を裁いているからである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。隣人の欠陥をあれこれ裁くとき、当人も隣人同様「同じことを行っている」つまり業の律法のもとに比較と競争のなかに生きている。パウロはこの認識の表明に続いて、「汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか」(2:4)と悔い改めに導く。
他方、福音書のイエスの言葉には、小さな者への愛が福音のもとに生きているか否かの規準になることの証が見られる。「[イエス]「わが父に祝福された者たち、天地創造のときから汝らのために用意されている国を受け継げ。汝らはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したことは、わたしに為してくれたことである」。・・[イエス]「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。汝らはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらは汝が飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」」(Mat.25:34-45)。
5.結論 感情、理性そして信―生の指針―
中間時に生きている限り、われらは罪と律法と内なる人間の葛藤はやまないであろう。ただわれらにできることは、そのつどキリストの福音に立ち帰ることである。ゲーテのファウストは「感情こそすべてである、言葉は単なる音のつらなり、煙である」と言う。感情が生の指針たりえないことは先週学んだアリストテレスにより既に明らかにされている。「われらは選択することなしに怒りまた恐れるが、徳は一種の選択であるか、選択なしにはないものである。これらに加え、われらは感受態により「動かされる」と言うが、しかし、徳や悪徳により「動かされる」とは言わず、「何らかの態勢にある」と言う」(1106a2-6)と語る。彼は魂に生起する自然的なものと責任のもとにあるもの二つの状態を判別し、人間の学としての倫理学の主題である徳を魂のなかにまず或る種の態勢として位置づける。
アリストテレスは「徳」を「或る種の無感受態つまり平静である」と定義する者を「彼らは単純に語っており、そうなるべき仕方と、そうなるべきでない仕方について、またそれがいつかということ、さらに他の諸規定が加えられていない」との理由で退け、「従って、徳は快と苦に関し、最善のものどもの行為に導きうるそのような[上記の具体的な限定を伴う]態勢であり、悪徳はその反対であることが基礎におかれる」と基本的な理解を一般的な仕方で提示する(II3.1104b24-28)。適切なときに、適切な仕方で、適切な程度において感受態が発動するそのような態勢にある者が有徳な者である。有徳な者はその感情や情動が適切なロゴス(理)に聴従している者だからである。「しかし、魂の何か他の自然はロゴス(道理)無し(alogos)であるが、しかしロゴスに何らか与っていると思われる。というのも、抑制ある者と抑制なき者について、彼らが所有するロゴスを賞賛し、彼らの魂のなかでこのロゴスを所有する部位を賞賛するからである。というのも、ロゴスは最も適切なことについて正しく勧めるからである。抑制なき者の衝動は[意志とは]反対の方向に向かう。尤も、われらは身体においては逸れゆくものを見るが、魂においては見ないのではあるが。しかし、おそらく、魂においてもロゴスに対立し、抵抗する、別の何ものかがあると少なくとも看做すべきである。それがどのように異なるかは問題ではない。しかし、これは、語ったように、ロゴスに与るように見える。かくして抑制ある者のそれはロゴスに従う。さらにおそらく節度ある者そして勇気ある者のそれはよりいっそう聴従(euēkoōteron)している(1102b13-28)。
感情が理性に聴従しているとき、ひとは分裂なきものとされる。しかし、生の指針をこの理性、ロゴスに委ねることができるであろうか。人間の心魂の葛藤、分裂は信なしに癒されるのであろうか。ルターは言う、「キリストにより愚かにされた者にとってだけ、アリストテレスは無害である」。確かにそうである。解放されよう。信の律法は業の律法からの解放を告げており、解放された魂の場所には「キリスト・イエスにおける生命の霊」が宿る。永遠の生命の喜びがそこにある。心を理性主導の律法により占めるとき、この生命に与ることはできない。このことは確かなことである。