福音―ロゴス(言葉)とエルゴン(働き)―
福音―ロゴス(言葉)とエルゴン(働き)―2021年5月30日
1聖書箇所 パウロにおけるロゴスとエルゴンによる宣教
〇「わたしは、神に向かうことがらに関して、キリス ト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、神の霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:18)。
〇「この方[ナザレのイエス]はエルゴン(働き)とロゴス(言葉・議論)において神の前でそしてすべての民の前で力ある預言者となられた」(Luk.24:19)。
〇「われらの福音は言葉において(en logōi)だけではなく、力能においてまた聖霊においてもそして確証の十全性(plērophoriai:full conviction<to bring full confirmation)においても汝らに生起した(egenēthē)」(1Thesa.1:5)。
〇「われらは[キリストと]共に働いているので、われらは汝らも神の恩恵を空しく受け止めることのないように勧める。というのも、ご自身が言いたまう。「受け取るべき好機に、わたしは汝に聴いたそして救いの日に汝を援けた」。見よ、今や歓迎すべき好機、見よ、今や救いの日。われらは誰にもいかなる躓きを与えることなしに(それはわれらの宣教の奉仕が咎められることのないためであるが)、あらゆる場合において神の奉仕者として自分たちを表現している(sunistantes, exhibiting)、大いなる忍耐において、艱難において、窮乏において、行き詰まりにおいて、鞭打ちにおいて、監禁において、暴動において、労苦において、徹夜において、断食において、貞潔において、知識において、寛容において、親切において、聖霊において、偽りなき愛において、真理のロゴスにおいて、神の力能において(en logōi alētheias, en dunamei theū)、右手と左手の義の武器を介して、栄光と恥を介して、悪評と好評を介して[われらは自己を表現している]。われらは迷わせる者また真実である者として、知られていない者そして知られている者として、死につつある者としてそして見よわれらは生きている、懲らしめを受けつつそして殺されていない者として、悲しむ者しかし常に喜んでいる者として、貧しい者としてしかし多くを富ましている、何も持たない者そして一切を持つ者として[自己を表現している]」(2Cor.6:1-10)。
1はじめに ロゴスとエルゴン
福音は一つのロゴスであり、そして各人のその証、自己表現・プロデュースは一つのエルゴンである。彼らの宣教活動はこの種の理論(ロゴス)とそれに伴う実践(エルゴン)により構成されていた。信じる者は自らの信仰生活を介して神の言葉を実践において証していくこと、証拠を提示することが、目標となる。それにより神に栄光を帰する。先週M君が信じることは知識に至るものではないが、信じることはひとの幸いにとって有益なものであるという話をしてくれた。聖書は信仰がどれほど知識をもたらすものであるかを、ロゴスとエルゴンの相補性という視点から論じたい。
イエスご自身はひとの根源的な道徳性を山上の説教で明晰に語り、その道徳性は天の父への信仰によってのみ実現されるものとして、今・ここの一挙手一投足において自らの言葉を生き抜いた。彼の言葉と働きの合致にこそ、おのずと「権威」(Mat.7:29)が湧き上がり、ひとびとは彼についていった。今日は最近公表した「御言葉の受肉―不可視なものの可視化―」(季刊「無教会」第65号、2021.5)によってロゴスとエルゴンの相補性について学びたい。
2 御言葉の受肉―不可視なものの可視化
この二一世紀のパンデミックCovid-19は人類全体で協力して対処すべき人類史的な状況を出来させている。人々は感染者の棒グラフの上下に一喜一憂している。全人類のワクチンの接種以外に(あの豪華な?)日常生活への回復は望めない。今回の相手は肉眼で不可視なため、生存を脅かすものに湧く恐怖は全方位に及ぶものとなる。学生寮の生活において日常交わる人々が恐怖の対象となりえ、相互に疑心暗鬼にさらされる。孫氏の兵法に「敵を知りおのれを知れば百戦危うからず」とあり、正しく恐れるにはウィルスの特徴、振る舞いを熟知するに若くはない。赤外線は熱放射を介してまた物質を突き抜けるニュートリノは地下水槽を介して可視化されるように、将来対話者が陽性か否か可視化されるようになるであろう。人類はこうして課題を克服してきた。とは言え、ウィルスは生物的存在者以上ではなく、人類の壊滅は身体のそれでしかない。「身体を破壊しても魂[生命の源]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:26)。
今回のパンデミックは、聖書的にはこの惑星に住む人類共通の問題というものが実際にあり、われらはひとりの不注意や身勝手が隣人を苦しみや死に追いやる運命共同体であることを伝える。われらは罪を犯し犯されつつ一つの宇宙船に乗り合わせている。「被造物全体が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにある・・われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ呻いている」(Rom.8:22)。今回この運命共同体は全体として救いを求めているという創造と救済の聖書的な人間認識を共有した。時代は(ようやく?)疫病、飢饉、貧困等聖書の伝える苦難に追い付いてきている。イエスは「不法があまねくはびこるので、多くの者の愛が冷える」その状況とともに預言する、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、様々な場所で大きな地震と飢饉と疫病が起こるであろう。恐るべきことと天からの大きな予兆が起こるであろう」(Mat.24:12,Luk.21:10)。この終末預言の警告のなかでイエスは人類を贖い、救い出すべく十字架に至るまで信の従順を貫いた。
人類は不可視なものの秩序ある可視化をロゴス(理、言葉)とエルゴン(その働き)の相補性において捉えてきた(例、一オクターブの調和音(合成体)=1:2の弦の比(ロゴス・形相)+空気(質料)[ロゴス上比と空気の分離、今・ここで奏でるエルゴン上の不分離])。生命の設計図としての遺伝子も四つの螺旋的塩基配列を秩序づけ、その情報それ自身は物質ではなくタンパク質合成の理である。先哲によれば、ロゴスとしての形相は生成消滅過程を経ることなく、質料を一なる合成体として働かしめる。今・ここの秩序ある働きは不可視のロゴスの証である。聖書にもこの相補性の事例は豊かであり、エマオ途上の弟子たちは「神とすべての民の前にエルゴン(働き・実践)とロゴス(言葉・理論)において力ある預言者となったナザレのイエス」について語りあった(Luk.24:19、eg.Rom.15:17.2Cor.6:7,1Thes.1:5)。
不可視なものの最たる方である神は「光あれ」の言葉により宇宙を創造された。そのロゴスが受肉した。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿を取りご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられた」(Phil.2:6)。
イエスは山上でモーセ律法の純化により人々の二心の偽りを摘出し、道徳的次元を内側から破ることにより信仰に招いた。そこで彼は言葉の力のみにより道徳、社会、自然、天国と地獄一切を天の父の完全性に秩序づけ、彼はその教えに生きまた死んだ。彼の生涯はその言葉と働きの合致故に偽りなき権威を伴った。科学技術や衣食住であれ、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう」(Mat.6:33)。イエスはこう語り信仰に招く。人類の第一の課題は「天の父の子」となる信仰により不可視な神との正しい関係を作ることである。「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを去った、というのも見えない方を見ている者として忍耐したからである」(Heb.11:27)。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。神の意志として「信の律法」(神が信であるとき、信じるか裏切るか)はモーセの「業の律法」(貪ぼるか貪ぼらないか)より根源的である(Rom.3:19,27)。
救いそのものがイエスにおいて可視化された。不可視なものの信仰が可視的なものにより確認される。「信仰は望んでいることがらの確証であり、見られていないものごとの[不可視に留まることへの]反駁である。というのも信仰によって古への[アブラハム等]先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りにより[先人たちの]諸時代が統一させられていることを、信仰により観て取っており(pistei noūmen)、見られるものが現れないものども[神の語り]に基づくことを知るに至る」(Heb.11:1-2)。
人間のあらゆる肯定的、創造的営みの根源にこの信が位置づけられる。どれほど認知的に人格的に愚かで悪くても、そうであるからこそ「幼子」のように信じることはできる。最も困難な探求対象が最も容易な幼子の信のみを要求しているということは全知全能の神にふさわしい。われらは幼子のように信じる「神はおのれの独り子を賜うほどに世界を愛した」、と(John.3:17)。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。復活は「告白」(Rom.10:9)を伴う信によってのみ突破されうる掌握困難な神の力能の顕われであり、甦りを信じることができるということ、それが喜びである。甦りは再臨による宇宙の完成に向かう。そのエヴィデンスは信に伴い豊かなものとなっていく。
かつて憐みを受けたサマリア人の憐み
かつて憐みを受けたサマリア人の憐み
日曜聖書講義2021年5月23日
聖書箇所 「ルカ」10章21―37節
「そのときイエスは聖霊によって喜びに溢れて[天に向かって]言った。「天地の主である父よ、褒めたたえます。汝はこれらのことを知恵者や学識ある者には隠して、幼子たちに顕されました。その通りです、父よ、というのも汝の御前に[汝の]嘉みしたまうものごとがこうして生起したからです。あらゆるものごとはわが父によりわたしに委ねられました。また父でなければ子が誰であるかを誰も知ることなく、そして子と子が顕そうとするその者においてでなければ父がいかなる方であるかを誰も知りません」。そして彼は弟子たちに対し向きをかえ、自らのこととして、言った。「汝らが見ているものごとを見ているその数々の目は祝福されている。というのも、わたしは汝らに言う、多くの預言者たちそして王たちは汝らが見ているものごとを見ることを欲したが見ることはなかった、そして汝らが聞いているものごとを聞くことを欲したが聞くことはなかったからである」。
するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、わたしは何をしたら永遠の生命が受け継ぐでしょうか」。彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか、汝はどう読むか」。彼は答えて言った、「「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心から]そして汝の魂を尽し[生命の限りに]そして汝の思考を尽して愛するであろう」。また、「汝は汝の隣人を、汝自身をの如くに、愛するであろう」」。彼に言われた、「汝の答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、汝は生きるであろう」。すると彼は自らが正当化することを欲してë、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とは誰のことですか」。イエスは[その挑戦を]受け止めて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリア人(びと)が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て憐みを抱いた(esplagchnisthē)、そして近寄ってその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」。彼が言った、「その人に憐みをかけた者です」。そこでイエスは言われた、「汝も行って同じように行え」」(Luk.10:21-37)。
1愛の文法―永遠と喜び―
このところ、愛すること、憐れむことを学んでいる。「愛」は何らか永遠、永続するものとの関わりで語られるものであった。この善きサマリア人の譬えもやはり永遠の生命を得ることとの関わりのなかで与えられる。とはいえ自ら知者であることを誇る律法学者はイエスの権威を失墜させようとして、試みているのであるが、イエスにより自己矛盾に陥らせられ逆にやりこめられている。自分は知者だと思っている人間の盲点がつかれ、少なくとも実践的に常に憐みをかける態勢にないことがはしなくも明らかにされた。人類は永遠或いは永続的なものとの関係においてしか「愛」を理解してこなかったことは特筆に値する。それだけ、愛というものごとは軽々しく扱われないものである。先週、「愛」のなかで情熱恋愛は一つの強い感情であり、イメージへの集中により形成されるが、聖書が伝えるまたイエスが伝える愛は命じられうるものであることを学んだ。双方とも永遠にかかわる。情熱を持続するには常に障害を必要とし、二人の情熱を妨げる最大の障害は死であり、情熱恋愛は心中によって永遠を獲得しようとするものであった。[或る新婦とおばさんの話、ある女優さんの話]。
感情の文法を学んだ。感情はそれがそこにおいて生起する文脈、そしてその実質、さらに表出・振る舞いを伴う。この感情の文法は階層的であり、感情が生起するその直接の文脈の背後に心魂の態勢、実力としてのさらなる文脈が想定される。例えば、「嫉妬」が生起する文脈は「正当だと看做す処遇を受けない」であり、ひとは正当な処遇を受けていないと思うときに嫉妬にかられる。その感情実質は憤りや羨望そして失望など感情実質は複雑であるが、振る舞いとして自らが正当だと看做す処遇を受けるあらゆる行為が想定される。
この「正当だと看做す」という認識の背後に、さらなる心魂の態勢が関わっており、自らが相手に対し信実であるからこそ、嫉妬を感じるのか(その場合失望の濃度が強まる)、それとも自らの征服欲のような欲望が心魂の態勢として強いため、嫉妬を感じるのか(その場合羨望や憤りの濃度が強くなる)、感情実質に差異がある。つまり、哲学者が「パトス(身体の受動的な反応としての感情や欲求)はヘクシス(それまで培った心魂の態勢(かまえ、実力))のセーメイオン(徴)である」と言う状況をあらわしている。これは感情も実は最終的には信によって秩序づけられるものとなるという主張を含意している。心魂の一番根底にあるあらゆる秩序ある肯定的、創造的営みの態勢は信だからである。
聖書においては今読んだように、父への愛と隣人への愛の二つの戒めが六百以上見いだされる律法の「冠」として提示される。愛が満たされるとき、人類に対する一切の神の意志が満たされる。愛というものについて、もちろん聖書においても愛は感情の次元においても捉えられる。イエスが教育を受けることのなかった弟子たちを伝道に派遣し、大きな成果が挙げられたとき、こう報告されている。「イエスは聖霊によって喜びに溢れて[天に向かって]言った。「天地の主である父よ、褒めたたえます。汝はこれらのことを知恵者や学識ある者には隠して、幼子たちに顕されました」。イエスは愛する神がこの世界で軽く見られ、顧慮されないような者を憐れんで用いてくださったことに喜び、賛美と栄光を帰している。そこには無学な弟子たちに対する慈しみの感情も見られる。この競争世界で勝ち残った者ではなく、とるにたらないと思われていた者たちが聖霊の人類への賦与という大事業に関わることができる、そのことにイエスは喜び賛美している。知者、学者たちはイエスを軽蔑し、遠ざけまた嫉妬したのであり、無学な者たちがイエスを愛したのである。そこには師と弟子のあいだに、われと汝の等しさとしての愛が生起していた。神が弟子たちを用いてくださったことに神への愛を見出し、イエスは喜びにあふれて叫んだのであった。
「愛」の感情実質は情熱恋愛においてもそうであるように、端的な喜びである。それではその感情が生起する文脈は何であろうか。端的に言って、「永遠と思われるものになんらか関わるとき」である。何であれ喜んでいるとき、ひとは時と和解している。つまり今を生きている。喜びは最も現在的な感情である。永遠を放物線とするなら、喜びがあるところ、放物線が接線に触れるように今t1において永遠が降りてきている。「しまったあんなことをしなければよかった」という後悔や「あいつはこんなことをした」という憎しみなど否定的な感情は過去に捕らわれており、過去が現在t1を支配している。他方、明日感染するのではないか、無一物になるのではないかという不安や恐れのような否定的な感情は未来が現在を支配する。われらは過去からと未来からしか生きていくことはできないのか。過去と未来によってのみ支配されているのか。今はどこにいったのか。今を生きることはあるのか。愛のあるところ、そこには永遠が宿り、時との和解が生起し、後悔や怒り、また焦りや恐れそして不安から自由にされている。ひとはそのような感情を「愛」と呼んできた。
それ故に、親の子供への愛においてであれ、情熱恋愛においてであれ、子供がどんな悪さをしても喜びであり、赦すことができ、恋人が常軌を逸することをしたとしても、許容して喜んでいる。今度読書会をすることになった宇佐美りんの『推し、燃ゆ』においても主人公のあかりはアイドルが誰かを殴ったとしても、そこに何か深いわけがあるのだと思い、受入れている。人類は愛との関連にしてしか、「永遠」を語ることはなかったのである。愛の感情の表出・振る舞いは何らかの仕方で共にいることを可能にするあらゆる振る舞いが考えられる。愛する者とずっと共にいること、そこには喜びがある。神は愛である。
3誰が隣人となったのか
翻って、サマリア人の譬えである。彼には喜びがあったのである。その行為には何ら報いも見いだされない。エルサレムからヨルダン川の谷にあるエリコまで約27キロ降っていく途中のことである。盗賊に襲われ半死半生に陥っているそのひとは見ず知らずの他人である。この暴行はユダヤの独立を祈願する熱心党に属する者たちの仕業であると言われるが、この可哀そうなひとが殺されなかったのは同じユダヤ人であったからであると指摘されている。エリコは祭司の町であり、通りかかった祭司はつとめのあとの帰り道であったと想定される。祭司もレビ人もユダヤ社会にとって聖職者として学派の規律によって縛られていたと思われる。それ故に援けなかったかもしれないが、イエスはなぜ聖職者たちが援けなかったかという理由を挙げてはいない。ただ、読者は異邦人であるサマリア人との対比に注意は向けられている。福音はすべてのひとに向けられている。サマリア人は通常自分たちを軽蔑するユダヤ人と思われる襲われたひとの生傷の手当てをして、宿屋までつれていき、宿賃も支払った。
ここでの問題は「隣人とは誰か」という一般的な問ではなく、三人のうち「誰が隣人となったか」という実践的な問である。理論・ロゴスではなく実践・エルゴンが問われている。イエスによって、その都度愛が出来事になるよう挑戦を受けている。律法学者のみならず、理論化は一般論を好む、というのもそこで世界が明らかになる明晰性を好むからである。同時に自分を安全地帯においておくことができるからである。理論ばかりで指一本動かさないパリサイ人がイエスにより叱咤されている。ひとはどこまでも理論的な武装で自らを守ることに関心が向き、困窮した隣人に向かわない。かつて、或る哲学者が「学問よりも、人の方が大切ですから」と困窮していたひとを援けたことを思い出す。ロゴスとエルゴン相互の支えあいは必要であるが、エルゴン回避へのアリバイ造りとしてのロゴスへの逃避はイエスの憎むことであることを自らの肝に銘じたい。
サマリア人はあの状況において困窮に陥っているひとを援けることができることを内心喜んでいた。自分が神の意志のこの地上における実現の一つのサンプルを提供できることを喜び、光栄に感じていた。永遠と交換されるものはこの地上には何一つないからである。「ひとが全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひとは自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。心が全世界を自分のものにすることより大切なのは自らがそこに属する自らの魂である、というのもその魂において心が神と関わるからである。そして心が神からそれるとき、自らの魂を失うであろう。サマリア人はこのことを腹の底から知っていたのである。だからこの実践・エルゴンは理論・ロゴスの裏付けのもとに遂行されていたのである、ただしそのサマリア人がその現場にあってただ憐みだけがあふれ出したのであったに相違ない。彼は「憐みを抱いた」と報告されている。彼自身もかつて盗賊に襲われ、誰かに援けてもらったのかもしれない。憐みとは、学んできたように、憐れまれる経験をしてのみ、抱くことのできる感情であった。競争心のあるところ、嫉妬心のあるところ、そこには決して憐みの感情は湧かないのであった。
憐みを受けるとは、自ら困窮したものであることの認識が前提にされていた。善きサマリア人は何らか自らの困窮を経験したに相違ない。襲われた人を宿まで連れて行って介抱したが、彼自身そういう憐みを受けたひとであるに相違ない。人生はこんなものだと見切ってしまっているひと、或いは自分に救いがくるはずがないと絶望しているひとには憐みを受けることはできないであろう。何らか救いを求めているひとに憐みを憐みと受け止めることができる。その憐みをかけるひとは「お前の状況は「相応しくなく・不当に(anaxios)」そのような困窮に陥っているのだ、人間は神の子なのだと」と伝え認識の転換を迫っている。その人間の本来的な状況を伝えることがなければ、困窮と救いのコントラストを見出すことはない。
自らの人生が置かれた与件、現状に疑いをもたず、どっぷり浸っているひと、そのようなものでしかないと冷笑に陥っているひと、また絶望しているひと、そのひとびとは憐みを受け取る余地が心に備えられてはいない。現状が何等か変革されていることに気づくことが最低限困窮の脱出に不可欠である。たとえば、生来の病気や疾患のため10メートルを一分かけて通過していたひとが、59秒になったとき、何らかの希望が湧いてくる。一秒でも変化があったことに気づくその力が必要であり、そこに希望が湧いてくる。夢は勝手に未来に自分の願望を投影することであるが、希望は現実に何らかの根拠が与えられ喜びを伴う現在的な感情なのである。
イエスは彼の力ある業を見てついてくる群衆が、「飼い主のいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て深く憐れんだ」と報告されていた(Mat.9.35f )。彼に憐れみという感受態が発動したのは、それを感受するその力能が涵養されており、憐み深さとしての力能が彼の心魂に宿っていたからである。それは彼の態勢が神と隣人への愛という状態にあったからこそ生じた。その愛のもとにはひとは神の子となるべきものであるにもかかわらず、闇の中を彷徨っているという認識が憐みの発動を助けている。そこに常に聖霊の注ぎがあったとしても、少なくとも人間的にそのように語ること、分析することは許容されよう。イエスは敵をも愛する態勢にあったからこそ、迫害する者を祝福して呪わず、 「喜びそして喜べ、天における汝らの報いが大きいからである」と言うことができたのであろう(Mat.5:12)。右の頬をうたれ左の頬を向けるとき、そこでは敵がいつの日にか友と友となるわれと汝の等しさの希望が湧いてくる。
4結論
迷える一匹の羊の譬えを思い返す。イエスは言われた。「汝らのうち百匹の羊を持っているひとがいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に遺して、見失った一匹を見つけだすまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう」(Luk.15:4-5)。イエスの身代わりの死は信の従順を貫いた帰結であり、それが神に嘉みされ「イエス・キリストの信を介して」神の義の啓示の媒介に用いられた。この信義の分離のなさが信仰義認を基礎づけ、恩恵を無償の贈りものとする。この福音はモーセの業の律法の比量的な計算と異なる比較を絶する善である。99匹の健全な羊をおいて、迷える一匹の羊をさがし求める神である。それは9999匹であっても、9億9999万匹であっても同様であり、宇宙の創造者にして救済者である方のこれまでとの比較しようもない善が歴史のなかで生起したのである。この比較を絶する善によってしか、ひとは良心の宥めを得ることはできない。人類は御子の受肉においてそして伝道と十字架と復活において憐みを受けたのである。それ故にどんなに困窮していても、再び立ち上がるのである。
憐みと愛
憐みと愛
日曜聖書集会5月16日
聖書箇所
「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心から]そして汝の魂を尽し[生命の限りに]そして汝の思考を尽して愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身をの如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat.22:36-40)。
1憐みと感情
憐みという感情を先週学んだ。身体の受動的な反応である感情(パトス)に対して良い態勢にあることが伝統的に「徳」と呼ばれる。恐れに対する勇気、欲望に対する節制、怒りに対する正義などが人格的態勢としてパトスに対して良い態勢にある。正義な者、義人は怒らないのではなく怒るべき時に怒るべき仕方で怒るべき程度の怒りが自然に湧いてくる者であり、そのうえで当事者に等しさを分配する人格的卓越性のことである。柔和は矜持、優劣感や競争心に対し良い態勢にあり、侮辱や誹謗中傷をスルーし赦すことができる態勢である。
嫉妬と競争心は裏表であった。勝者はますます競争的となり、敗者は卑屈となり強者への嫉妬や恨みに駆られる。この世界にはどこかに支配することからも支配されることからも自由な心魂の場所はないのか。勝者と敗者しかこの世にはないのか。地政学では「永遠の敵や永遠の味方は存在しない。ただ永遠の利益のみが存在する」と言われる。利益や不利益でしか世界は見ることができないのか。このような国家間および人間間の力関係以外の何ものかはこの地球上には存在しないのか。今回は前回学んだ憐みに基づき、憐みと愛の関係について学びたい。One Team或いはWin-Winの関係これこそ愛が生起しているところで造られるものである。
2 聖書の愛と情熱恋愛
パウロは言う、「汝らのなかで嫉妬と競争心があるところでは、汝らは肉的でありまた人間に即して歩んでいるのではないか」(1Cor.3:3)。心魂の一番底である自然的な肉に即してではなく、霊に即して或いは「内なる人間」という聖霊の注ぎに反応する部位、二番底に即して生きるときのみ、神から聖霊を介して憐れみを受けたことの喜びに基づき、競争相手や敵とのあいだに敵が友となるOne Teamをめざす。先週学んだ憐みの文法は悲しみに似ており、憐みが生起する文脈はそのひとに「相応しくない仕方で(anaxios, unworthy)」或いは不当な仕方で不運や不幸、悲惨な目にあった場合にそのひとに対して抱く可哀そうだという感情であった。また相応しくない仕方で幸運を手にする者に対しては「妬み(phthnos,jealousy)」が生起する。競争や嫉妬のあるところ、そこには比較級の世界しか存在しない。憐みは心魂のそのような態勢においては生起しないことは確実である。他者よりも一層優った状態にあることを望んでいることが、競争心や嫉妬心に、はしなくも開示される。そこでは支配からも被支配からも唯一自由な心魂の部位において生起するわれと汝の等しさとしての愛が出来事になることはないからである。
愛と憐みの関係は、愛は命じられうるものであるのに対し、憐みは本来的でない状況にあるひとに対する可哀そうだという身体的な反応を伴う感情である。レビ記の記者が「汝の隣人を、汝自身を[愛する]の如くに、愛せよ」と命じる時、愛は等しさ、例えば父と子、教師と生徒等のあいだに、父は子によって父であり、子は父によって子であるその等しさがその都度生起するものであることを知っていた(Lev.19:18,cf.Deut.6:5,10:12)。神はイスラエルの民に言う、「われは汝の神となり、汝はわが民となる」(Lev.26:12)。ここでは神は民によって神であり、民は神によって民である。夫は妻によって夫であり、妻は夫によって妻である。そしてこの種の人格的な等しさの実現は司法的な正義と異なり、決して強制によっては実現されない。
聖書が伝える愛が命じられうるものであることは、所謂自らの濃密な感情を味わっていたいという情熱恋愛と異なる。情熱恋愛は、アウグスティヌスが「わたしは愛することを愛していた(amare amabam)」と言ったように、自らにわきあがる陶酔感、濃密な感情に没入する。或る女優さんが「恋をしているときの胸のときめきが好き」と言ったように、相手を等しいものとして愛しているのではなく、自らの相手に対するイメージや願望をさらには心拍数を愛しており、それらを相手に投影しているからこそ、恋愛曲線の急上昇と急降下、陶酔と幻滅を繰り返すことになる。情熱恋愛は一種の自己陶酔であることを知る必要がある。情熱恋愛も聖書で語られる命じられうる愛双方ともに感情実質として喜びを伴うが、一方は夢想的かつ陶酔的に湧き上がる喜びへの没入であるが、他方は歴史のなかでのわれと汝の人格同士の等しさの生起に伴う喜びである。
人類は永遠との関連においてしか、「愛」を語ることはなかった。情熱曲線を高止まりに維持させるには障壁、障害を必要とする。ロミオとジュリエットのように家の反対などの障壁、障害が高ければ高いほど、情熱は持続する。ひとは嫉妬などの苦悩の薪をくべることにより情熱を維持している。しかし、それは「トリスタントとイゾルデ」などの他の文学作品にも見られるように、情熱恋愛の完成は障壁の最大のものとしての「死」を分かちあうことによって完成する。つまり心中によって永遠を共に分かち合おうとする。しかし、実際にはなかなかそこまで陶酔は維持できずに、何かの瞬間に愛情が覚めてしまい幻滅へと急降下する。そこにはわれと汝ではなく、わたしとわたしが描いたあなたがいただけであることが分かる。パスカルは言う、「何ものも欲望(cupidité)ほど愛に似たものはないが、また欲望ほど愛に反するものはない」(「パンセ」668)。(参考文献:ドニドルージュモン『愛について』(平凡社ライブラリー)で古今東西の文学作品などを介して明らかにされている。千葉惠「エロースとアガペー―ヘレニズムとヘブライズムの絆―」(北海道大学文学部紀要44号、1995 https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/33658 )。
3人格的実力と憐みを掛けられること
心が清くなく、様々な怒りや憎しみなど負の感情に襲われていたり、欲望に捕らわれているとき、ひとは憐みを持つことはない。感情は身体的反応であり人格的に認知的に習慣づけられるものであった。心の実力である培われた「態勢」はラテン語でhabitus (英語のhabit(習慣づけ)に関連)と訳される。人格的にとは、たとえどんなコストがかかろうとも、正しいひとが正しい仕方で正しいものごとを選択するそのような仕方で、自分もそうする習慣づけることにより、怒りや相応しくない対応への怒りや憐みを身に着けていくことであろう。そこではどうしても正しいことや正しい仕方への認識も必要とされる。自分で自分をコントロールできずに、常に感情的になっているひとがいるとすれば、それは人間的な分析によればそのひとの心魂の実力がパトスに対して良い態勢にまで育っていないことを含意している。
しかし、人類には助け主が送られており、実力以上の力を発揮することがある。ひとは憐みをかけられてのみ、憐れむ者となる。憐れまれたことの経験あるひとは「わが足すべりぬと言いしとき、主よ、汝の憐みわれを支えたまえり」(Ps.94:18)に同意するであろう。あのとき、あの援けがなかったら、自分は破滅していた、と。或いは軽く罰せられ、あれさえなければというオセロの黒石と思えたものが、憐みのゆえにあれがあったからと一気に白石に変えられる。この窮境にあって助けられたとか軽く罰せられたという感覚は自分に相応しいものが何であるかを何らかの仕方で自覚しているのでなければならない。自らの行状にはもっと激しい罰が与えられて当然であったのに、「相応しくない仕方」で憐みを受けたと思う。ここには聖霊による内的な促しが働いている。「神に即した苦しみは変えられることのない救いにいたる悔い改めを働き、世の苦しみは死を成し遂げる」(2Cor.7:10)。
聖霊は認知的、人格的実力を超えたところで働く。おのれのことしか関心がなくひとを憐れむそのような感情のわくことのない者が何等か憐みを持つとしたなら、心魂の有徳性としての実力とは関係なく天来の援けが送られている。イエスはご自身の死に直面しこの世から去っていく覚悟のなかで、聖霊の派遣を約束して語る。「わたしは汝らを遺して孤児(みなしご)とはせず」(John.14:18)。イエスは「わたしは父に願う。父は別の助け主を遣わして、汝らと共にいるようにしてくださる」、「わたしが行けば、助け主を汝らのもとに送るであろう」、そう言われる方である(John.14:15,16:7)。聖霊とは神の前とひとの前を媒介し、ひとを助けるものである。
4キリストの憐みと柔和
支配からも被支配からも唯一自由な場所で我と汝の等しさが生起すること、その今・ここでの出来事が愛であり、そこに向かう過程も「愛」と呼ばれる。迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜べ、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において友と友となる希望がWin-Winの関係が生じるからである。その希望に伴う喜びは愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清めるものだからである。情熱恋愛も聖書の愛も永遠を語りその感情実質として喜びを語るが、ひとは永遠により「心中」を理解するのか、「天国」を理解するのか、二者択一を迫られている。
権威ある者として山上の説教を語ったその方に偽りがなく、イエスは山上の説教そのものに即して生き抜き、また山上の説教の故に死んだその方であった。個人的には、山上の説教はイエスにより生命をかけて遂行されたということに立ち返るとき、厳しすぎてあたかも拒絶し告発するように見えるその人に、「わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」という言葉を信じてそのふところに入っていくしかないと感じる。「わたしの後についてこい」(Mat.4:19)というイエスをどれだけ信じるか、そして彼とどれだけ信頼関係にあふれる関係を築けるかが問われている。「わたしは汝らを遺して孤児とはせず」(John.14:18)。この方は嘘を付く方ではない、そしてわれらを欺く方でもわれらを見捨てる方でもない、という信がその信頼関係を醸成しまた築く。イエスの懐に入っていくには彼をよりよく知るしかなく、とりわけ彼が生ける神の子であることを内側から納得するそのような相互の親しい関係を築くしかないのである。日曜の聖書講義をするこの身が彼と共に生き喜んでいるのでなければ、この永遠の生命は伝わらないであろう。少なくとも講義する者の必要要件であろう。聖書に描かれるイエスをできる限りテクストに即して理解すること、それがこの聖書講義の務めであり喜びである。
「神は愛である」(1John.4:16)。神は二千年前に既にキリストにあって人類の罪を赦しており、水に流していたまう。パウロは既にキリストにおいて神の意志は明確に知らされており罪は十字架上で贖われており、「汝ら和解せよ」(2Cor.6:20)と神からのキリストにある申し出を受け止めるように命じている。聖霊は神とキリストから今・ここで派遣される「援け主」であり、われらをその人格的、認知的実力のいかんにかかわらず支えていたます。「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。
憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。憐みをかけられていることを知るには、自分が「ふさわしくない仕方」で困難な状況にある者であることを知ることが求められる。キリストは群衆が羊飼いのいない羊のようにうちひしがれ、彷徨っている姿を見て「深く憐れんだ」のであった。イエスのそのはらわたからの憐みが生起したそのもとにある認識は同胞は神に似せて造られた神の子たちであるというものであった。神の子に相応しくなく、自らを知らず右往左往している群衆に憐みを感じた。自分はどうしようもない罪人であり、「罪悪深重、極悪熾盛、地獄ぞ一定住処ぞかし」(親鸞)という叫びと苦悩を挙げざるを得ない人間であるとき、「それは君に相応しい状態ではない」と語られているのである。
ひとは何らか救い出されたときには、自らに相応しくない仕方で憐みを受けたと感じるが、実はその困窮こそがわれらの本来性にとってふさわしくないのである。しかし、そこでは何らかの聖霊の援けのなかで、低くされているのであろう。先に引用した「神に即した苦悩」なのであろう(2Cor.7:10)。当のキリストはその罪に沈むその状況こそ人間に相応しくないと認識しており、悔い改めに導く。憐みをかける側と憐みを受ける側双方の現状認識が異なることもあろうが、次第に憐みをかけられて、キリストとの交わりを重ねるうちに神の子であることこそ本来性なのだと認識するに至る。ただし、そのギャップが大きければ大きいほど憐みが大きいものと受け止められる。人間は本来エヴェレストのような高い山であるにもかかわらず、自ら谷底に沈んでいるとき、それが自分の住処であると思う。或いは人生がこんなに苦しいものであるはずがないという認識を持つ。絶望してしまっているなら、救いを求めることもない。救いを求めるとは、こんなに惨めであるはずがないという思いからくるが、しかし、自己の本来性を知っているわけではない。また知らされているわけではない。ひとは天国が相応しい神の子なのか、地獄が相応しい地獄の子なのか、知らない限り、何が憐みであったのかも知ることができない。しかし、自らで自らをコントロールできないそのような状況から救い出されたとき、ひとは憐みを受けたと感じる。憐れまれたことの経験あるひとはは「わが足すべりぬと言いしとき、主よ、汝の憐みわれを支えたまえり」(Ps.94:18)に同意するであろう。
これは祝福されたことである。詩人は言う、「涸れた谷に鹿が水をもとめるように神よ、わが魂は汝を求める。神に、生命の神に、わが魂は渇く。いつ、み前に出て神のみ顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わが糧は涙ばかり。ひとは絶え間なく言う、「汝の神はどこにいるのか」と」(Ps.43:2-4)。このような者がその霊によって貧しい者であり、神から憐みを受け、祝福される者である。
イエスご自身は憐み深い柔和な方であった。彼は山上の説教の第三福をこう語っていた。「祝福されている、柔和な者たち(hoi praeis)。彼らは地を受け継ぐことになるからである」。この第三福は人格的な徳に関わる。柔和の対義語には激情や直情径行、自己主張などが挙げられる。黒崎幸吉先生はこう対立を説明する。「現世のいわゆる成功者たらんとする者は柔和であってはならない。彼は他人を排除、抑圧、誹謗するの勇気と大胆さを持っていなければならない。・・されど真の幸福者は柔和な者である。人に排斥され、圧迫され、誹謗され、「侮られて人に捨てられ悲哀の人にして病を知れる」[Isaiah.53:3]人である」。(Web版新約聖書註解マタイ当該箇所)。聖書的には柔和な者は天国への希望の故にこの世の権力欲求や悪意からの攻撃、蔑みなどに耐えることのできる態勢であり、振舞いとしては寛容に接しまた赦し敵をも愛する態勢である。柔和な者は他者との比較や競争心から自由にされている者である。
この春の入寮式から、人生には所謂勝ち組と負け組の二分しかないのではなく、双方にWin-Winの関係を造る道を模索してきた。言ってみれば、双方が勝ち組に属するそのような関係が生起するかを模索してきた。コロナ禍ではOne Healthがそれであり、スポーツではOne Teamがそれである。地球の裏側のコロナが収束しなければ、新たな変異株が生じる確率があがり、世界はまた新たな苦しみに苛まれる。国家間のそして家庭内の争いでも同様である。One Peace、One familyとしての和解を模索するのでなければ国も家庭もたちゆかない。競争相手と憎しみ相手と争い相手と和解し、One Teamとなることがあるとすれば、それは平和が実現されたことになる。
柔和な者は争いから自由であり、困難な状況にあるひとに深い憐みを持つ。イエスは言う、「疲れている者たち、重荷を負っている者たちは皆、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛を汝らのうえにかつぎあげなさい。そしてわたし[の足どり]から、わたしがその心柔和であり(praus)また謙った者であることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に休息を見出すことであろう。というのも、わたしの軛は良いものでありそしてわたしの荷物は軽いものだからである」(Mat.11:28-30)。イエスの軛、荷とは何か?天の父が憐み深く、信じる者を救い出す方であることへの幼子の信仰である。有徳な者も悪人も魂の根底に生起する悔いた砕けた魂における「信じます」と幼子のように縋ること、それがイエスと共に軛を背負って歩くことである。何の立派さも要求されず、ただ自らに偽りのない信が生起する場所・二番底即ちパウロの言う聖霊に反応する部位である「内なる人間」(Rom.7:22)から主に身をゆだねることである。荷物を運ぶとはイエスの御跡に従って歩むこと、イエスの使命を自らのものとすることである。イエスに似た者になること以上に喜ばしいことはない。イエスを長子とした神の国の相続人となるからである。
5結論
心の清い者は自らの利益を求めることはないので、争う者たちのあいだを執り成すことができる。柔和で謙ったイエスは神とひととのあいだを執り成すひとであった。彼は自ら争う者になることはなく、剣のもとに倒れ自ら死を選んだ。平和を造る者は執り成す者である。
柔和な方であるイエスご自身の御跡に従う者、その者は祝福されている。既にその祝福は旧約聖書において先駆的に知らされている。「その咎を赦され、その罪覆われし者は祝福されている。主がその罪を数えざる者は祝福されている。その心に偽りなき者は祝福されている」(Ps.32.1-2,Rom.4:7-8)。十字架に至るまで従順の信を貫いたイエスは言いたまう。「わたしに躓かない者は祝福されている」(Mat.11:6)。柔和な者は幼子のように恵み深いイエスと共に軛に繋がれ歩む者である。
終末預言と憐み
終末預言と憐み
2021年5月9日
聖書箇所
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:1-12)。
「イエスは街や村を残らず回って、会堂で教え、天国の福音を宣べ伝えひとびとのあいだでありとあらゆる病気や疾患を癒した。また群衆が飼い主のいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ」(Mat.9:35-36)。
「イエスは船からあがり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のようなものであることに深く憐れんだ。そして多くのことを教え始めた」(Mak.6:34)。
1はらわたからの深い憐み
イエスは羊飼いのいない羊のようにうちひしがれて彼についてくる群衆を見て、「深く憐れんだ、そして多くのことを教え始めた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。第五福の「憐れむ(splagchnizomai)」という動詞は「はらわた、ひとの内奥(splagchnon)」という名詞の派生である。はらわたから憐みが溢れ出す。ひとは通常憐みの感情が湧くのは相応しくない仕方で或いは不当な仕方で不幸に見舞われたひとや状況に対してである。
現代の情報のあふれる時代においては、誰もがどんなフェイクニュース、誹謗中傷をも公的に発信できる時代になった。近年のネット上のバッシングは自業自得だという仕方で同様の不幸に見舞われても憐みがわくことがない状況を示している。ひとは疑心暗鬼にさらされている。信頼できると思った人々に裏切られるあるいは裏切るということが公的なダメージの強い仕方で遂行される。愛が冷えた時代である。
イエスが今の時代を生きていたら、何ら確かなものなしに右往左往している現代人に深い憐みをもたれたことであろう。イエスは神に似せて創造された人類が神の子に相応しくない仕方で争い、妬み、憎しみ合うそのような状況にあることに深い憐みをもった。その憐みが彼をして福音の宣教に駆り立てている。それはこの憐みをいだいたあとに、天国について「多くのことを教え始めた」に報告されている。羊飼いのいない羊のように彷徨っている者たちにイエスは、彼の憐みが溢れだし、最初に為したことはひとびとの認知的な混乱を解消することであった。世界は野の百合、空の鳥に代表される自然をも含め、天の父により養われているのであり、「天の父の子となるべく」(Mat.5:45)秩序づけられていることを教えた。ひとびとは不可視な者は存在しないと思い、この地上の生だけが一切であると考える傾向にある。これをパウロは「肉の弱さ」(Rom.6:19)と呼んだ。
イエスは端的である、「汝らは[旧約]聖書と神の力能を知らないから、彷徨っている」(Mat.22:29)。今の時代においても、最も真実で確かなもののうえに生が築かれることが求められている。自分で真偽を考え判断する力、さらには善悪を判断する力そして実践する力が求められている。
2感情の文法―悲しみと憐み―
感情には文法がある。感情を構成しているものは三つある。それは文脈と実質そして表出である。これら三つの要素、視点からそれぞれの感情は分析される。悲しみについて言えば、感情の文法の分析によれば、この身体の受動的なパトスが生起する文脈は愛しいものを喪失したときに生じる感情、というものである。その感情実質には胸が張り裂ける感じや身体が崩れ落ち自己を保てない感じ、何ものによっても慰めを得ない感じが挙げられる。その表出には涙ながらの嘆きや叫び、或いはその感情実質を隠す可能な振舞いが挙げられる。
喜びと悲しみは双方とも混り気がなく、端的なものである。嫉妬は羨望や怒りなどを含む複雑な感情であるが、そのような複雑な心持のときに生じる感情とは異なり、明確になぜ悲しいかが自覚されるそのようなものである。この世のものに富み、満足し喜んでいる者たちには実質的に天上のものを必要とせず、眼差しを天に向け神を仰ぎ見ることはない。地上の関心で埋め尽くされているからである。イエスは端的に言われる「汝の宝のあるところそこに心もある」(6:21)。悲しむとき、自ら失ったもの、自らに欠乏しているものを明確に自覚する。そしてそれは天国を求めることでしか慰められないそのようなものであることを自覚する。
憐みの文法は愛や悲しみに似ている。憐みが生起する文脈はそのひとに何ら落ち度もないのに相応しくない仕方で或いは不当な仕方で不運や不幸、悲惨な目にあった場合にそのひとに対して抱く感情である。「憐れみ」とはアリストテレスによれば、ある人がそのひとに「相応しくない仕方で(anaxios, unworthy)」不幸や悲惨な目にあうことに対して生起する苦しみの感情である(Ar.Rhet.II8)。オイディプス王のように自分にあずかり知らないところで父である王を殺害し、母と結婚してしまうそのような悲劇にひとびとの感情は揺さぶられる。「相応しくない仕方」で不幸や悲惨に見舞われるひとびとに憐み(エレオス)が生起する。また相応しくない仕方で幸運を手にする者に対しては「妬み(phthnos,jealousy)」が生起する。パウロは「汝らのなかで嫉妬と競争心があるところでは、汝らは肉的でありまた人間に即して歩んでいるのではないか」と詰問する(1Cor.3:3)。嫉妬と競争心は表裏の関係にある。所謂勝者はますます競争的となりより多くを得ようとし、敗者は卑屈となり強者への嫉妬に駆られる。そこには比較級の世界しか存在しない。憐みは嫉妬や競争心のあるところには生起しないことは確実である。その心が清くなく、様々な怒りや憎しみなど負の感情に襲われていたり、欲望に捕らわれているとき、ひとは憐みを持つことはない。
憐みの感情実質は、何故あのひとにという運命の過酷さの驚きと恐れを伴う可哀そうという思い、不憫さである。本来そんなことがそのひとに起こってはならないと思われるとき、哀れにまた同情を伴う悲しみに襲われる。たまたま自分ではなかったが、自分にも起こりえたという恐れも伴うことであろう。人生というものの不可計測さのなかで自らを破壊するものに遭遇するときに生じる恐れを伴うことにより、憐みは深くなる。憐みの振る舞い、憐みの表出はそのひとのために嘆くことであり、慰めることのできるあらゆる振る舞いが考えられる。
憐みの背後には人生というものは運命のなかにほうりだされ翻弄されてしまうものだという人間というものの儚さ、寄る辺ないという感情や認識がさらなる文脈として通奏低音のように響いていることであろう。時折そのような人間認識がはからずも感情の発露において明らかになるであろう。しかし、ペシミズムに終わるなら、ひとには憐みはわかない。ひとはひとに対して愛情をいだかないとき、不幸な目にあっても自業自得だという仕方で憐みは生起しない。ひとびとのあいだから愛が冷えるとき、憐みも薄れていく。人間の世界は所詮こんなものだ、ひとびとはおのが道を彷徨い、何も確かなものがなく、死と共に滅びる。
イエスは違った。彼はひとは本来神の子であると認識していた。それ故にこそ、人間の真実を知る者が憐み深い者となる。だからこそイエスは羊飼いのいない羊のようにうちひしがれている人々を見て憐みを感じ、最初になしたことが人間について天国について「教える」ということであった。ものごとが、即ち人間の本来性がよく見えないときひとは憐みを抱くことはない。おのれと世界をよく知ることが肝要であること、憐みのわかないひとは自己中の世界にひたっており、隣人や世界がよく見えていない人々のことであることがわかる。イエスにとってはすべてが「神の国とご自身の義」により秩序づけられる。彼は天国の消息を伝えて人間の本来性を教えようとした。
3八福
山上の説教の冒頭は所謂八福である。八つの祝福される心の態勢が描かれている。神に祝福されるひとびとは三人称で呼びかけられており、個々人を特定せず一般的な仕方で妥当すると言える。神との関係においてその霊によって貧しく、この世の何ものにも満たされない者、悲しんでいる者、柔和な者、義に飢え渇いている者、憐れみ深い者、その心によって清らかな者、平和を造る者そして正義のために迫害される者、このような人々は祝福されている。彼らはイエスに似た者となっていくからである。八福は相互に関連しあっているが、すべてを満たさねばしかもあらゆる時にそのような心の状況にならなければ祝福されないということではない。イエスご自身、七十二人の伝道の派遣の成果により喜びの声をあげ、神を賛美した。
イエスは十二人の伝道派遣に引き続き七十二人の弟子たちを伝道に派遣し、彼らが福音を宣教しそして癒しなどに大きな成果をあげてもどってきたのを見て、大きな喜びにとらわれている。「わたしは悪魔が稲妻のように天から落ちるのを観想した。視よ、わたしは汝らに蛇や蠍をそして敵のあらゆる力を踏みしだく権威を授けた、しかもいかなるものも汝らに不正を働くことはない。ただし、霊どもが汝らに服従するからといって喜んではならない。むしろ汝らの名が天に書き記されていることを喜べ。・・そのときイエスは聖霊によって喜びに溢れて[天に向かって]言った。「天地の主である父よ、褒めたたえます。汝はこれらのことを知恵者や学識ある者には隠して、幼子たちに顕されました。その通りです、父よ、というのも汝の御前に[汝の]嘉みしたまうものごとがこうして生起したからです」」(Luk.10:18-22)。
イエスはこの出来事がこの世界で軽んじられている幼子のような者たちを介して実現されていること、すなわちこの世の権力を介せずに実現されていることを賛美した。それ故に、これらの栄光が権力者たちに憎まれ妬まれ彼に苦難の道を強いている。権力者たちに媚び諂い、彼らに奇跡をなす権能を与えることはなかったからである。彼はユダヤの王ヘロデアンティパス等に憐みを抱いたことは報告されていない。イスラエルの失われた羊に遣わされたという自覚を持つ彼はユダヤの虐げられた人々に深い憐みをいだいた。その心によって清くない者は権力者であれ、誰であれ、ものごとがよく見えない者たちである。八つのうち一つでも祝福されているひとびとはすべて神の国に入れていただく人々のことである。
先週は「その心によって清い」そのような人々のことを少し学んだ。この現実世界のただなかで困窮しているひとびとが救われないとしたなら、人類にセーフティネットがどこにもないとするなら、ひとはただこの世界で翻弄され、人生の終わりとともに絶望のなかで消えてゆくだけとなる。イエスは深く憐み、彼らにこそ天国の鍵を与えた。知者は高ぶるからである。ひとは誰もがキリストによって二千年前に憐みをかけられている。神へのアクセスはイエスの愛を介するものとなるとき、超越と内在、彼岸と此岸は媒介され、信仰の抽象性、観念性、思弁性が乗り越えられる。憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、「良心・共知」の発動が、「道徳的運」と呼ばれる、ひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛情を注がれ、愛されることを経験し自覚することなしには、また相手方の状況についての知識なしには、発動しないそのような受動の経験と自覚を伴うものである。誰であれひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証は、そのひとがどれだけ愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。
パウロも言う、「知識は高ぶり、愛は[徳を]建てる。誰かもし何かを知っていると思うなら、その者はまだ知るべきその仕方で知ってはいない。誰かもし神を愛するなら、その者はご自身により知られてしまっている」(1Cor.8:3)。高ぶりのなかで何かを知っていると主張するとき、愛されていることを知ることはできず、知るその仕方は少なくとも神の愛を前提にした愛の相互性に基づかない。「われらは知っている、神を愛する者たちには、彼らは計画に即して召された者たちであって、あらゆるものごとが善きことへと協働することを」(Rom.8:28)。ひとは神の計画のもとに神により知られ、愛されることによって愛するのであって、その愛を自覚せず、求めない者には善へと協働する愛は生起しない。まず神に今・ここで愛されていることの信が不可欠であることは神の愛の先行性が隣人愛の相互性を保証することを含意している(cf.1John.4:7-8)。
ひとはとりわけ自らの偏った認識により高ぶり、自らの与件を忘れ、恩義や憐みへの感謝をすぐ忘れてしまうからこそ、「七度の七十倍赦すこと」(Mat.18:22)がイエスにより求められる。彼はその理由を譬え話で伝える。或る王が家来を憐れに思って、その負債を赦したが、その家来が自らに負債ある者を赦さず、牢に入れた。王はこの態度に怒って言う。「悪い僕だ、・・わたしが君を憐れんだように、君も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(18:32)。われらは皆キリストにあって既に七度の七十倍は赦されている。
それほどまでに、ひとは自らへの他者からの恩義を負担に感じ、一人で成し遂げたかの如くに思いこむ。「誰が汝をより優れた者としたのか、汝は受け取らなかったものを何か持っているのか。もし汝が受け取ったなら、何故受け取らなかったかのごとく誇るのか」(1Cor.4:7)。パウロはただ十字架を誇る。「われらの主キリスト・イエス、その彼を介して世界はわたしに磔られ、わたしもまた世界に磔られた、その十字架以外にわたしに誇ることが生じることは断じてあってはならない」(Gal.6:14)。このキリストの受苦(パテーマ)がわれらのパトス(受動)を造り変えていく。受動の強さが能動の高さを生み出していく。「愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず・・誇らず、高ぶらず、礼を失せず、自らの利益を求めず、いらだたず、恨まない」(1Cor.13:4-5)。愛のうちにあるものは否定的なパトスに引きずられることはない。愛は「誰に対しても悪に対して悪をかえさず」(Rom.12:17)、「互いに兄弟愛において慈しみ、相互に尊敬において導き手とする」(Rom.12:10)。愛は支配からも被支配からも操作や差別からも唯一自由な所で心に生起する神の子同士のわれと汝の等しさであった。右の頬を打たれたら左の頬を向けつつ、いつの日にか敵が友となる希望によりシーソーのアンバランスは現に平行を得ている。
4コロナ禍と終末
今世界中がコロナで苦しんでいる。感染者が増えるたびに変異の確率はあがっていく。地球の裏側のことがひとごとではなく人類は運命共同体であることをコロナは教えている。われらはこの苦難から人間の本質を学ぶことができる。憐みをもつことができるかもしれない。この21世紀のパンデミックは、聖書的にはこの惑星に住む人類共通の問題というものが実際にあり、ひとりの不注意や身勝手が隣人を苦しみや死に追いやるそのような運命共同体にわれらがあること、人類全体で協力して対処すべき問題が人類史的な状況のなかで生起していることを教えている。パウロは「被造物全体が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにある・・われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ呻いている」と言う(Rom.8:22-23)。このグローバルな出来事は運命共同体としての人類が全体として救いを求めているという創造と救済の聖書的な人間認識を含意している。
もちろん、人類は聖書に限らず、同じ人間として救いを模索してきた。古代ギリシャ以来人類はドラマになにを託すかというと、悲劇であれ喜劇であれ、ありそうでない或いはなさそうである、そのようなストーリーを構築し、生活に追われる人々そして何か現実逃避に陥る人々の日常とは異なる通常ではないしかし本来ひとの心魂(こころ)の真実そして深みを開示することをめざした。創作芸術は心の浄化(カタルシス)、心の刷新をめざしてきた。現代では漫画であれアニメであれ、ストーリー構築において、テクノロジーのもとに形成される現代のわれらの生活の中で、2000年前とは異なるセッティングではあっても、苦難や悲惨の克服や戦いそして愛を描くことによりやはりかわらない心魂の真実を探索している。現代の著しい特徴はリアルとヴァーチャル(仮想)の判別が難しくなったことである。とはいえ、ひとは死すべき存在であることにはかわらない。この死を克服することなしにひとは憐みを持つに至らないとさえ言えるであろう。イエスは十字架の信を貫き、罪とその値である死を克服した。イエスは透徹した心の目で人間の終末にいたる現実を見抜いていた、そこに深い憐みをいだき、信の従順を最後まで貫いた。そこにひとは救いを見出した。
疫病、飢饉、貧困は世界を不安定なものとし自国第一主義の風潮のなかで国際関係の緊張や戦争にいたることであろう。イエスは「不法があまねくはびこるので、多くの者の愛が冷える」(Mat.24:12)その状況とともに預言する、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、様々な場所で大きな地震と飢饉と疫病が起こるであろう。恐るべきことと天からの大きな予兆が起こるであろう」(Luk.21:10-11)。「そのとき大きな苦難が起きるであろう、それは世界の始まりから今まで起きなかったそしてもう起きないであろうそのようなものだ」(Mat.24:21)。終末時の迫害の預言ののち、弟子たちを励ましている。「しかし、最後まで耐え忍ぶその者は救われるであろう。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として、全世界に伝えられる。それから終わりが来るであろう」(Mat.24:14)。
この終末預言の警告のなかでイエスは人類を贖い、救い出すべく十字架に至るまで「神の子の信」(Gal.2:20)の従順を貫いた。彼には終末にまでいたる人類に生じるものごとがよく見えており、この神の子にふさわしくない罪に沈む人間に深い憐みをもたれた。いつの時代もひとびとはこの緊張に耐えられず、繭の居心地の良さに逃げ込む。われらは救いを必要としている。比較を超える比超級の世界を神の愛がもたらした。「神は独子を賜うほどにこの世界を愛された」(John.3:18)。この比超級の基盤における毎日の心魂の刷新のもとに、比較の世界であらざるをえないこの世にあって勉学、芸術、スポーツそして経済活動に従事するとき、良き実りがもたらされることであろう。
5憐みを受けた者が憐れむ
心の清い者、或いはより正確には清くされた者は神を見るのであった。ものがよく見えるひとは、人間の本来性についてもよく見えるようになるであろう。ひとは神の子なのであり、それは信に基づいて知ることができるようになるそのようなものであった。
ひとは憐みをかけられてのみ、憐れむ者となる。憐れまれたことの経験あるひとはは「わが足すべりぬと言いしとき、主よ、汝の憐みわれを支えたまえり」(Ps.94:18)に同意するであろう。あのとき、不意にあのことがおきなかったら、自分は破滅していた、と。或いは軽く罰せられ、あれさえなければというオセロの黒石と思えたものが、あれがあったからと一気に白石に変えられたことに憐みを経験する。これは祝福されたことである。詩人は言う、「涸れた谷に鹿が水をもとめるように神よ、わが魂は汝を求める。神に、生命の神に、わが魂は渇く。いつ、み前に出て神のみ顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わが糧は涙ばかり。ひとは絶え間なく言う、「汝の神はどこにいるのか」と」(Ps.43:2-4)。このような者がその霊によって貧しい者であり、神から憐みを受け、祝福される者である。
そしてその者のこの渇き、請い求めは喜びと賛美に代わる。詩人は自らの回心をこう語る。文語訳ではこうである。「その咎を赦され、その罪覆われし者はさいわいなり。主がその罪を数えざる者はさいわいなり。その心に偽りなき者はさいわいなり。われいひあらはさざりしときは終日(ひねもす)かなしみ叫びたるが故にわが骨ふるびおとろへたり、汝のみ手は夜も昼もわがうへにありて重し、わが身の潤沢(うるおい)はかはりて夏の旱(ひでり)のととくなれり。かくてわれ汝のみ前にわが罪をあらはしわが不義を覆わざりき。われいへらくわが咎を主にいひあらわさんと。かかるときしも汝わがつみの邪曲(よこしま)をゆるしたまへり」(Ps.32.1-5)。
個人的なことではあるが、自らの回心の経験のあと、この詩篇32篇に出会って以来これは私の詩(うた)となった。この詩篇32篇を読むたびに心魂が刷新される。詩人は賛美する。「主をほめたたへよ、もろもろの天より主をほめたたへよ、もろもろの高所(たかどころ)にて主をほめたたへよ、その天使(みつかい)よみな主をほめたたへよ、その万軍よみな主をほめたたへよ、日よ月よみな主をほめたたへよ・・」(Ps.148:1-3)。喜びと平安と賛美、これらが記録されている旧約聖書も新約聖書も同じ霊に導かれて書かれていることの一つの証となるであろう。
6結論
ひとは憐みを受けてのみ憐みを持つことができる。そこでは憐みを受けた時の喜びがあるからである。刷新されるたびに、ひとは嫉妬や競争から自由にされ、ものがよく見えるようになり、非本来性に沈んでいる隣人に憐みをいだく。キリストの弟子であることを無上の光栄となし、喜びいさみ賛美のうえに神に栄光を帰する。
その心によって清い者は穢れと偽りを克服する
日曜聖書講義 2021年5月2日
その心によって清い者は穢れと偽りを克服する
聖書
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:1-12)。
第六福 「祝福されている、その心によって清らかな者たち(hoi katharoi)。彼らは神を見ることになるからである」(Mat.5:8)。
1心とその清さ
心の清い者が平和を造る。「その心によって」即ち心魂の根底から全身にいきわたる仕方で混じりけがなく、純一であり、統一されているということ。「清さ」は心の一つの根底的な態勢、構えであり、そこから良きパトスや行為が湧き出てくるないし遂行される。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置くものはいない。入ってくるひとに光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い」(Luk.11:33-34)。
心の清い者、清くされた者は神を見る。ヨブ「どうかわたしの言葉が書き留められるように・・。私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27)。
「心(kardia)」は聖霊が注がれる心魂の最も深い座をも含む思考や感情など心的働きの座である(Rom.5:5)。「魂 (phsuchē)」は基本的に生命を司る生命原理であるのに対し、「心」は意識などの心的働きの主体である。例「汝の宝のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.6:21)。「汝らのおのおのがその心から兄弟を赦さないなら、天の父も汝らに同様に赦さないであろう」(Mat.18:35)vs.「身体を破壊しても魂[生命原理]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:26-28)。
清さは身体全体に行きわたる「良心」と密接な関係にある態勢である。この一貫性こそ神に嘉みされる、神が喜ばれる心魂の態勢である。清い者は神を見るであろう。「良心」は「共知(con-science)」である。何と共に知るかが問題。最終的には神と共に知ることが良心の究極の働きとなる。「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11)。良心とは神に明らかなことがらが自らにも明らかになるその心の認知的座である。ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことがらが自らや隣人にも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。
イエスは山上の説教において敬虔なパリサイ人の偽りを指摘している。彼らは道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人前での善行により人々からの称賛と有徳を誇り、律法の形式的遵守の故に正義を主張し、その結果天国を正当な権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:5,6:17)。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。背後に過剰を欲する貪欲が支配している。
2穢れ
眼がくらむとはまさに貪欲によりわれらの生が引きずり回されることに他ならない。清さの対義語は穢れである。イエスは「汚れた霊(akatharton pneuma)」の譬えを語る(Mat.12:43)。先週学んだ譬えの分類からすれば、これは宗教的な観念についての事例による説明であり、「例話(Beispielerzählung)」と呼ばれるであろう。霊はウィルス同様宿主を必要とする。「穢れた霊は、そのひとから出ていくと、砂漠をうろつき休む場所を探すが、見つからない。そのとき言う、「そこから出てきたわが家に戻ろう」。戻ってみるとそれは空き家になっておりまた掃除が為されており整頓されているのを見出す。そこで出かけてゆき、自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込み、住みつく。かのひとの最後は最初よりも一層悪くなる。この悪い時代によってもまたこのようになるであろう」(Mat.12:43-45)。
「空き家」とは心の隙間、空虚のことである。空虚な油断した心に霊は自分よりも悪質な七つの悪霊を引き入れると、そのひとの内面は一層悪くなる。ひとは何か自分とは異なるものにより引き回され、自らをコントロールできないそのような感覚を持つことがある。この七つの悪霊の話はそのような状況を思い出せば理解できる。もしそのような経験はないと言うなら、自らの心の内奥の動きを観察することが求められる。パトスと呼ばれる、自分でコントロールできずに湧いてくる感情や欲求なども、単に生理的なものというわけではなく、その背後に自らの心魂を破壊しようとする否定的、破壊的な勢力を見出すこともあろう。この発見は聖霊の発見と同様に重要なことである。
心の清さと空き家、即ち心の空虚さは別である。その心によって清いものは心魂の根底から純なる一なるものに思いを寄せており、二心や三つ心から自由である。心から信仰のもとにあるとき、心は満たされているため空虚になることはない。幼子の信仰がそこにはある。イエスが単純な子供を好きであるのは、あれこれ自分に有利なように策略をねったりしないからである。ああ、幸いだ、心の清い者たち。
しかしながら、清さ、純粋な混じりけのなさを人生において追求することへの反論が提示されよう。「清濁併せ呑む」ことこそ大人の条件である。免疫系に見られるように異質なもの、複雑なものが自己を構成していたほうが強いのではないか。良心の発動などくそくらえだ。どこまでも良心は麻痺しうるものであり、強者は思うがままに振る舞う。良心を持ち出す人間は弱者であり、強者への怨念があるからこそ、平等を語り、社会的弱者の救済を語るのではないのか。「強者の利益こそ正義である」(プラトン『国家』第一巻)とは古来語られてきた陳腐なことであると言える。そのような弱肉強食の社会をひとは求めているのであろうか。単にそれ以外の人生の選択肢を知らないから、そのイワシの大群の流れに身を任せて泳いでいるのではないのか。
しかし、身体においても痛みに気ずかず麻痺してしまったなら、どこまで身体が破壊されているかわからないように、良心が麻痺してしまったなら、どこまで心が悪くなってしまうかわからない。われらの心が清くないから、そういう者たちが祝福されていると思われるのである。「聖性の霊」(Rom.1:4)に即して神の光に照らされるとき、穢れに気付き、良心が疼く。清いイエスをより知ることにより清さへの憧れを持つに至る。
イエスは群衆が押し寄せてきたため、ペテロに船をだすよう依頼し、船の上から説教した。そのあとペテロに漁にでるように勧めた。「二艘の舟を魚で一杯にしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモンペテロはイエスの足許にひれ伏して、「主よ私から離れてください。私は罪人です」」(Luk.5:8)。大漁であることと自らの罪、穢れの告白といかなる関係にあるのか。ここで実はペテロに漁に出るよう勧めたとき、ペテロは疑ったのであった。昼間だったからである。ガリラヤ湖では夜が漁に適しておりそして昨夜も不漁であった。この伏線のもとでの大漁であった。自ら疑ったペテロの告白は聖なる清らかな方を前にして咄嗟にでた言葉である。「主よ私から離れてください。私は罪人です」。聖なるものにふれたとき、われらは畏れに捕らわれる。同様に、子の癒しを懇願する父は言った。「おできになるなら、憐れんで助けてください」。そうするとイエスは言われた。「「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる」。その子の父はすぐに叫んだ。「信じます。信なきわれを憐み給え」(Mak.9:23-24)。
イザヤは畏れ慄きつつ神を賛美する。「聖なる、聖なる、聖なるかな万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う」(Isaiah.6:3)。「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。汝が畏るべき方は主、御前に慄(おのの)くべき方は主」(Isaiah.8:13)。そのイザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは穢れた唇の者。穢れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は主なる万軍の主を仰ぎ見た」(6:5)と言う。
ときどき、このような穢れた者がこのように聖なる方について何か語ることが許されるのかと思わされる。ひとは疑い、多くの惑わしに捕らわれているとき、清い者ではない。ひとは信じることができない自らに罪を見出す。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。イエスを介して神の意志を知り、イエスを介して或いは彼の後ろに隠れて神にまみえる。
3不正な番頭の譬え
イエスはこの世の成功者は先述の良心の発動の鈍いタイプであることを認めている。そしてそのような者たちも何らか新たな良きものを認識すれば、そちらに自らの心魂をそして知性をも向けることができることが「不正な番頭」の譬えで語られている(Luk16:1-13)。番頭が店の金を横領していた。内部告発があり、主人が調査した。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告をだしなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」。そうすると不正な番頭は店に借金のある者たちをひそかに呼び出し、油百バトスの者には証文をわたし五十バトスと書かせた。そのようにして不正を隠蔽した。「主人はこの不正な番頭の抜け目のないやり方を褒めた。この世の子らは、自分の仲間にたいして光の子らよりも賢く振舞っている。そこで、私は言っておくが、不正の富で(ek tū mamōna tēs adikias)友達をつくりなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。だから、不正の富について忠実でなければ、誰があなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。・・どんな召使も二人の主人に兼ね仕えることはない」(Luk.16:1-13)。
この譬えは、われらはこの世にある限り完全に正義であることはできないことを教えている。日常の豊かな生活は誰か例えば途上国のひとの労働の搾取のうえに成り立っていることであろう。この社会のシステムが完全に公平であることはなく、多くの者たちはその与件のなかでより条件のよい待遇を受けようと競争している。それを前提にしたうえで、主人は番頭が店の資金をごまかした額について悪知恵を働かせて何らかの経済原則に基づいて帳尻をあわせようとしたことを褒めたのである。一応帳簿上収支があえば、不正が発覚することはないからである。イエスは不正の富というこの世のことがら、即ち小さな事柄について忠実であったうえで、その富を使ってでも天国という大事を獲得せよと教えている。
われらはこの世の成功者でありたいのか、それとも天国を求める心の清い者でありたいのか。可能存在であるわれらには双方が開かれている。そしてこの譬えはそれは二者択一ではなく、天国のもとにこの地上の営みは秩序づけられうると主張している。問題は天国をまず求めるかである。歌謡曲にあるように「アナタナーラドオスルー」。
イエスは山上の説教において正義と憐みを天国との関連において位置付けた。終わりの日に一切が明らかとなり、正義と憐みが実現されるこのスケールの大きい考察範囲の広い主張は、日々個人的に争い、そして何らか調停を試みている自らの現実を認める者たちにとっては、唯一の希望として受入れられることであろう。一つの可能性であることには相違ない、しかもそれは救いか滅びかの二者択一のなかで提示されている。人々が日常生活で苦労しているのは、自らの欲求をもちながらも、それを野放図に開放するとき、社会からの制裁にあうことは経験しており、他方そのような者たちから被害を受けることも経験しており、課題はそのような循環を抜け出す救いを求めるかということに収斂されるからである。山上の説教では、もし神の国を求めることなく、右目や右手が罪を犯させるなら抉りとり切り取ってしまえ、全身が地獄に投げ込まれるよりましである、と警告される(5:27-30)。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。
4良心の発動と信による偽りの克服
良心の発動は自らの偽りや穢れに関わる。ニーチェは良心の直覚性について鋭く指摘している。良心はわれらの意識を超えて発動する。ニーチェはこの良心の発動は「何故?」への問いのブロックとして機能すると言う。或いは「何故?」と問うているときには良心は発動しないと言う。「良心からあの「ねばならない」という感情が引き起こされたのだが・・・しかしこの感情は「何故私は為さねばならぬか?」とは問わない。従って、或ることが「~故に」とか「何故~」という問いをもってなされる場合にはすべて、人間は良心なしに行為することになる」。ひとは神の前にでないでよいというアリバイを作るために、「何故?」を問う。「何故悪人が栄えるのか?」、「何故何の悪いことをしていない者が悲惨を経験するのか?」など。少なくともこのような問いのもとにある者には良心は発動していない。良心は瞬時の共知である。
イエスには天の父がいますことはなんら疑いの余地もないほど明らかなこととして山上の説教をそして主の祈りを教えている。山上の説教においては「天の父の子となること」がめざされている(Mat.5:45)。ただし、イエスはユダヤ教の伝統的な道徳観のもとに群衆と共に立ち、その視点から心魂の道徳的次元で発動する良心に訴え、パリサイ人に代表される各人に潜む偽りを摘出し乗り越えるよう群衆を励ましている。その良心の発動は宮に捧げものを供えるさいに途中で急に自分に反感を持つ人を「思い出したなら」(Mat.5:23)という仕方で、突然気づくそのようなことがらである。自分に「何か反感を持っているひとに気づいたなら」、引き返して仲直りせよ、そしてそれからあらためて捧げものとともに礼拝せよと言われていた。気になることがあるとき、心が純一に清められてはおらず、二心の偽りがあるからである。
主の祈りで学んだが、「われらに負い目ある者を赦しましたように、われらの負い目をも赦してください」と祈るよう教えられていた(Mat.6:12)。赦してしまっていないとき、実は主の祈りを祈れないのであった。心に偽りがあるからである。心に潜む偽りの乗り越えは天の父に委ねられる。「われらを試みに遭わせず、われらを悪から救いだしてください」と(6:13)。その意味において主の祈りでは道徳的次元を内側から破り、その眼差しを向けるべき方向が教えられていると言ってよい。そこでは「まず神の国と神の義とを求めよ」と直截に命じられ、そこから道徳はじめ人生の一切を秩序づけるよう信仰に招かれる。もしこれが揺らいだら、すべてが偽りとなる。その意味でイエスは明確な信のもとに説教している。
イエスは人生の一切を神の国と神の義への信仰により秩序づける。イエスは誰にも担いえない重荷を課す方ではなく、その重荷から解放する信仰に招いていたまう。業の律法のもとに生きるパリサイ人への彼らの自己矛盾を指摘する厳しい言葉の数々も、ご自身がそのもとにある信の律法への立ち返りを促すものであった。イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。
神の比較を絶する圧倒的な善に触れ、罪赦された者は良心の咎めも取去られる。良き羊飼いは99匹を野において1匹の迷える羊を探し求めるが、それが1億匹であったとしても同様に探し求めるであろう。これが比較を絶する善であった。神は御子の身代わりの死を嘉みし復活させることにより、「世界」に対し神の前のことがらとして既に二千年前に「和解させた」(2Cor.5:14-21)。ご自身としてはキリストにあって個々人の罪をもはや咎めることも思い出すこともなく、水に流している。エレミヤは神が新しい契約を結ぶ日のことを預言する。「わたしは彼らの不正を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない(tōn hamartiōn autōn ū mē mnēsthō eti)」(Jer.34:31)。イザヤも預言する、「わたしは汝の背きを雲のように、罪を霧のように散らした(apēleiphsa>apaleiphō,( aor.))。わたしに立ち帰れ、わたしは汝を解き放つであろう(lutrosomai>lutroo, (fut.))」(Isaiah,44:22)。和解とはイエス・キリストにおける出来事であり、そこに立ち帰る限りにおいてわれらの罪は神の前で水に流されており、神の心にわれらの背きはもはや留まり、思いだされることはいない。
パウロも言う。「ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:6)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、彼の信仰を嘉みした。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。
5結論
この愛に触れてひとの心は正気を取り戻し、清められていく。ひとは「罪の奴隷」でも「義の奴隷」でもありうるまた悪霊も聖霊もいただけるそのような中立的な可能存在である。ひとは罪の誘惑にまけ、罪の奴隷となる。「そのとき、汝らはいかなる果実を得た(実を結んだ)のか。それは今や、汝らが恥としているものである。しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さにいたる果実を持している、その終局は永遠の生命である」(Rom.6:21)。ひとの心は清められ次第に聖なる者とされていく。天国は支配からも被支配からも自由な愛に満ちた聖なる場所である。「神の国は食することと飲むことではなく、聖霊における義と平和そして喜びである」(Rom.15:17)。天国の清らかさに触れてひとは清さにあこがれるようになる。穢れから解放され、罪赦されたことの「証」「徴」は隣人を愛しうることである(Luk.7:36-49)。清い者は心がまっすぐなひとであり、良心の咎めがない。拗け曲がり複雑ではない。勝手に発動する良心が平安を得ているのは憐みによる。
「平和の神ご自身が汝らをあますところなく聖なるものとし、汝らの霊と魂と身体とがわれらの主イエス・キリストの来臨の時に備え非の打ちどころのないよう完全なまでに護られるように」(1Thesa.5:23)。
イエスの譬え
日曜聖書講義「譬え」による天国の理解
2021年4月25日
聖書朗読
「弟子たちは歩み寄って「なぜあなたは彼らに譬えで語るのか」とイエスに言った。彼は答えて言った。「汝らは天国の奥義を知ることが与えられている。彼らには、しかし、それは与えられていない。誰であれ持っている者は彼に与えられることであろうそしてあり余るほどになるであろう。しかし、誰であれ持たない者は、持っているものも自分から取り去られることであろう。それゆえわたしは彼らに譬えで語る。というのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かずまた理解もしないからである。彼らに対しイザヤのこう語っている預言は成就されている。「汝らは耳によって聞くが理解せず、見てはいるが見ることはないであろう。というのもこの民の心は頑なになっており、彼らはその耳によって重く聞いた、彼らはその目を閉じたからである。彼らはいまだ目によって見ず、耳によって聞かず、心によって理解して悔い改めることをせず、わたしが彼らを癒すことがないであろう」。しかし、汝らの目は見ており、汝らの耳は聞いており、幸いだ。まことに、わたしは汝らに言う。多くの預言者、義人たちは汝らが見ているものを見ることを渇望したが、それを見なかった。また、汝らが聞いているものを聞くことを渇望したが、聞かなかった」」(Mat.13:10-17,cf.Mak.4:10-13,Luk.8:9-10,Jer.5:21,Isaiah.6:9-10)。
1聖書と譬え話
今日は福音書のなかから譬えについて学ぶ。「福音書(良き報せ、Gospels)」と言うのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと呼ばれるイエスの伝記作者たちによる四つの伝記のことである。それはイエスの言葉と行いの記録をもとにそれぞれの視点から執筆編集されたイエスが神の子であることを証ししている。福音書記者たちは直弟子たちがイエスの言葉を書き留めておいたものを元の記録(イエスの語録集)として用いそれは「資料Q」(「源泉(Quelle)を意味するドイツ語の頭文字)」と呼ばれる。マタイとルカは一番古いと思われる「マルコ福音書」(CE70年頃)を参照にしながら、自分の特ダネを加えつつイエスがイスラエルにおいて長く待ち望まれていたメシヤ(油注がれた者、救世主)であることを論証している。マタイ、マルコそしてルカは、彼らの伝記は「共観福音書」と呼ばれるが、相互に参照することができる共通のストーリーを分かち合っている。そこでは例えばイエスの教え、彼の人々との対話、目に見えない天国をこの地上のことを用いて伝える譬え話、物語、そして奇跡などからなり、イエスの生涯がとりわけ伝道に従事した訳3年間の歩みが記録されている。ヨハネ福音書はとりわけそうであるが、記者が置かれた時代や社会、思想の状況のなかでそれぞれの独自の視点からイエスが神の子であることを証している。
聖書の言語ヘブライ語やギリシャ語を学ぶことが聖書研究の基礎となる。そのもとに聖書研究の大きな役割はこれら四福音書を相互に参照しながら旧約聖書との関連さらには記者たちの独自性を研究する。聖書研究は百花繚乱というか多くの立場があり、聖書は神の言葉であり一字一句聖霊によって書かれているという逐語霊感説からそれぞれの聖書記者の作り話、妄想の産物にすぎないというフィクション説まで幅広い理解が提示されてきた。
そのなかでイエスの史実に迫ろうとする19世紀以降の歴史的批判的聖書研究が唯一の正しい方法であるものではないことは十分に留意する必要がある。とりわけパウロの神学理論を展開する「ローマ書」の理解には、言語哲学的分析が有効であると思われる。「意味論的分析」と呼ぶものはいかなる歴史学的、神学的研究もその枠のなかで遂行されねばならない、聖書文書そのものの最も基礎となる言語的理解に関わるものである。
イエスは譬え話により天国のことを教える。彼はなぜ譬えで語るかを冒頭のマタイ13章で説明している。イエスは人々の心を頑なにするためではなく、心が既に頑なであるために譬えで語る。ここで注目すべき言葉は、イエスは天国について一義的に理解する理論を展開することができると想定していることである。彼の叡知が発動し天の父の御国について知ることができると主張している。「汝らは[旧約]聖書と神の力能を知らないから彷徨っている」(Mat.22:29)。彼はわれらと同じ肉の弱さを抱えていたために、十字架上での断末魔の苦しみのなかではその叡知が一時的に発動せず、「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てられましたか」(Mat.27:46)と叫んだことが報告されている。その少し前には自らを十字架に磔る者たちについて「彼らは何をしているか知らないのですから赦してやってください」(Luk.24:34)と執り成しの祈りをしていた。この叡知の発動との関連で、譬え話は聞く者によって理解できたり理解できなかったりするという特徴がある。理論は掴んでしまえば、どんなに微妙な差異も明確な差異として理解される、そのような一義的なものである。それに対して天上のことを理解できないひとたちに、なんとか理解させようとしてこの地上の事例を用いて説明する。
イエスご自身が聴衆の分かりやすさのために天国のことを譬えにより語られるとき、彼は人間中心的に語っていると言うことができる。人間的なことがらから神の国を類推することがなされる。そこでは当然、人間的な心の働きが前提にされており、たとえ聖霊の媒介があったとしても自然的な次元で理解される。人間の責任ある自由の根拠としての心魂の独立性を前提にして議論している。譬えには三種類即ち本来の譬え(Gleichnis)と狭義の譬え話(Parabel)と例話(Beispielerzahlung) があるとされる。(塚本虎二先生のまとめによるユーリッヘルの説『塚本虎二著作集』第三巻p.464-5)。「本来の譬え」は「日常生活の領域において一般的に承認される経験」と規定される。「狭義の譬え話」と「例話」は双方とも「自由に案出された物語」であるが、狭義の譬え話は「宗教的観念の用に利用された譬え」であり、例えば「放蕩息子」(Luk.15:11-32)の譬えがそうである。「例話」はそれ自身が既に宗教的、道徳的である物語であり、例えば「善きサマリヤ人」(Luk.10:30-35)の物語があげられる。すべて天国のこと、人間の本来性について教えるものであるから宗教的、道徳的な教えを含んでいるが、アクセスの仕方として人間の様々な事象、行いを手掛かりにしていることは共通している。
2 宝を見つけた農夫の譬え
例えば、天国は農夫が借地の畑で宝をみつけたら、持ち物をすべて売って地主から畑を買うそのようなものに譬えられる。「天の国は畑に隠された宝物に似ている(homoia)。ひとはその宝を見つけると隠した、そして喜びながら戻って自分が持っている限りの持ち物すべてを売り、その畑を買う」(Mat.13:44)。これは天国の特徴に類似した日常生活の事例であるが、他方、ありそうもないことであるため願望も含まれている仕方で挙げられる。確かに、地上の一切を売り払ってでも手に入れたいものがあるとすれば、それはそのひとに最も善きものであることを含意している。他方、そのようなことは生じないのではないかという思いをもひとに湧き起こさせる。それほど、似ている事象はあるにしても稀なることとして天国は惹きつけもし、懐疑をも生じさせる。
もし聴衆のなかに農夫がいれば、自分の鍬が何かにあたったときの感触を思い出すであろうし、それが宝物であればよいなと思ったことであろう。譬えにはイメージ喚起力がある。天国というものは宝物のようなものなのだというイメージは人々の思いを惹きつけ、天国のことをよりよく理解したいと思いに導かれることであろう。またそんなことはありえないとして躓きにもなるであろう。「聞く耳ある者は聞け」とはまさにこのことである。
3天国のことを学んだ者の心魂の倉―良き木と良き実―
イエスは天国のことを理解した者とはどのような者であるかを類似性の指摘により教える。これも一般的、日常的なものであり本来的な譬えに分類されるであろう。「天国のことを学んだ律法学者は自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:52)。古いものとは旧約のことであり、新しいものはその延長線上に打ち立てられた新約のことであるという理解がなされることもあるが、きちんと心魂という自分の蔵・倉庫即ち心魂の脳の部位を管理しており、知性においても人格においても一切を天国との関連において秩序正しく考慮することができまた行為を形成することのできるひとのことである。
人間に最も重要なことを学んだ者は生の全体のなかで個々のものをそれは古いものであれ新しいものであれ自由に適切に位置づけ、行為することができる一家の主人に似ている。この発言を単にパトスに対して良い態勢にある人格的な有徳性に対してだけではなく、その認知的な卓越性に対する賞賛と読むことができる。アリストテレスの実践知者は生全体の目的構造との関連において、個々の文脈において或る有徳な行為を最善と認識し選択する心魂の力能ある態勢にある者のことである。そのひとには個々の選択の現場でそれ自身としてどんなに犠牲を払うことがあったとしても善き行為を選択できるそのこと自体に喜びが伴う。
聖書はなにか人格に関わるものと捉えられがちであるが、認知的な卓越性は聖書においても重要な位置を占める。パウロは「わたしはわが主キリスト・イエスの認識の優越の故に、あらゆるものを損失と考える、彼の故にわたしは一切を失ったが、それらをわたしは塵芥と看做す」(Phil.3:8)と言う。人類は人間としての認知的卓越性・徳を備えた者を「賢者(sage)」と呼び、人格的に有徳な者を「聖者(saint)」と呼んできたが、ひとは知性と人格を総合するものを求めてきた。天国を学ぶことによりひとの心魂は秩序づけられ、ものをよく見ることができるようになり、あやまることなくその都度の行為を選択することができる。
その行為の選択を導くものが「律法」という神の意志である。律法はそこに正義が成立する神の意志であるが、モーセを介して啓示された「業の律法」とイエスを介して啓示された「信の律法」の二種類がある。イエスは神の言葉「われは憐れみを欲し(eleos thelō) 、犠牲を欲さぬ」(Mat.9:13, 12:7, Hosea6:6, 1Sam.15:22, Prv.16:7)に立脚し、ユダヤ教の改革者として業の律法をラディカルに解釈し、律法遵守を神への愛と隣人への愛という二つの戒めの遵守に収斂させる(Mat.22:36 )。そして、それは、外面的な行為、例えば施しをしたか否かとは異なり、愛したか愛さないかに関しては、直ちにはひとの目には明らかではないそのようなものである。それを動機づける心魂の実質こそ、つまり神と隣人への愛があるか、その態勢においてあるかということが問題にされている。
外見上同様の有徳な行為に見えても、その動機が帰属する心魂の態勢が有徳でない限り、それは有徳な行為ではない。心魂に満ちてくるものが、口をつき、行動を引き起こす。内側が清くなければ、外側も或る刺激に対しては抗しえず、穢れたものとなる。「口からでてくるものは、心からでてくるので、かのものどもこそ人を汚す。というのも言い争い、悪意、殺意、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒涜は心から出てくるからである」(Mat.15:18-19)。
そしてイエスはその心には「倉」と呼ばれる習慣づけられた態勢があると指摘する。「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとせよ。木の良し悪しは結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、汝らは悪しき人間であるのに、どうして善いことが言えようか。ひとの口からは、心にあふれていることが出てくる善いひとは、善いものを入れた倉から善いものを取り出し、悪いひとは、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」(Mat.12:33-35)。
ここで「倉」とはここでは培われた心魂にしまわれている態勢以外のことではない。その行為の美しさ、立派さ、適切さそれ自体に基づき、正しく、勇気のある、そして節度をわきまえ思慮深く行為することが求められている(アリストテレスNic.Eth .III11.1116a10 15, b30 )。外見上有徳に見える行為もその内側の心魂が清くなければ、善き行為とは認識されない。イエスは人々がどのような状況にあるかを正確に識別する。彼は「鳩の如く素直に、しかも蛇の如く聡くになれ」(Mat.10:16)と促す。パウロも「自ら識別することがらにおいて自らを審判しない者は祝福されている」(Rom.14:23)と言う。例えば、このひとは次にこのような行動を取るだろう、どう対処すべきであろうかという思案のもとに、ひとは識別して生きていかざるをえない。しかし、その識別はひとを裁くことと同じではない。そのひとを愛するために識別するからである。地の塩、世の光たるべく、そのつど最善の行為が選択されることが求められている。
4塔と戦争の譬え―識別することをめぐって
イエスはこの識別を譬え話で伝える。
「汝らのうち誰か塔を建てようとするとき、資金が完成にもたらすかどうか、まず腰をすえて支出を計算しない者がいるだろうか。それは土台を築いただけで完成するだけの力がなく、見ている皆が彼を嘲り始めて「この男は建築を始めたが完成できなかった」と言うことがないようにするためである。
或いは、誰か王が他の王に戦争を始めるべく進軍しているとき、まず座って、彼に二万の兵とともに向かってくる王に、一万の兵で応戦できるかどうか熟慮しないであろうか。できないなら、まだ敵の王が遠くにいるとき、使者を送り休戦に向かうことがらを尋ねることであろう。このように、汝らのうち自らに属しているあらゆるものごとに別れを告げない[apotassetai(renounce)棄却する、断念する]者は誰でもわたしの弟子であることはできない」(Luk.14:28-33)。
ここでイエスは彼についてくる者たちに識別の正しさを求めるなかで、ご自分の弟子となる覚悟ないし自己認識がいかなるものであるかをも識別するよう伝えている。ちょうど塔を建てる者が自ら持つ資産について計算するように、福音に従う道は全身全霊をイエスにかける者であることの識別が求められている。ここに福音の権威があり、福音の躓きがある。識別が審判に変わらないことを願うばかりである。個々人においては自らを顧み、内側からの納得が得られた場合に、イエスの弟子となることが求められる。
機が熟していないとき、双方に言い分はあるであろうが、争いや裏切りとなり、それは宗教の歴史において分派や異端などとしてしばしば目撃されることである。一方は自分が最も大切にしているものが、踏みにじられ、侮辱されているという感覚を持つ。他方はその熱さに、押し付けを感じ、身を引くか、偽りを嗅ぎだし嫌悪する。そのようなことは起きてきた。趣味や気質の齟齬や反発であれば、やり過ごすこともできようが、心魂の根底に関わる、永遠に関わる宗教をめぐって争うとき、ひとは深く傷つく。共同生活をめぐってもこれは或る程度避けえないことであろう。そのなかでひとは一歩一歩前進していく。しかし、この神の国への信仰なしにはひとは前に進むことができないとされる。
5種蒔きの譬え―信仰による前進―
種蒔きの譬えはイエスの宣教を介して神のみ言葉、み心が聴衆の心に蒔かれそれを受け止めた信仰の実りについてのものである。「イエスは彼らを多くの譬えで教えた、そしてご自身の教えのなかでこう言われた。「聞け、そして見よ。種を蒔く者が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞け」と言われた」(Mac.4:2-10)。
この譬えにおいてみ言葉の蒔き手はイエスご自身であり、受け止める心、拒否する心等われらの様々な心の環境のもとにみ言葉が蒔かれる。これは人生にも適用される。誰も自らの親を選べない、そこに自らの生が奪われ、焼け枯れる運命の過酷さを見るひともいよう。同時にそこに「誰も~ない」という人生の或る意味での平等さと醍醐味がある。自らに生が与えられたことを厳しい与件に思えても、肉の親の背後にいたまう蒔き手を信じ、自らを「良い土地」であると受け止めることなしには三十倍、五十倍に実らすことはできず、蒔き手に対する信頼が不可欠となる。荒地に蒔かれ悲惨にしか思えない与件であるにしても、聞く耳を持ち神に与えられた良い土地であると信じるとき、開墾が始まり、自らの与件から推定されるものの百倍の実りをもたらすこともあろう。豊かな実りとはイエスご自身にとって「天の父の子となる」こと以外ではないであろう。
結論
正しい信仰は幼子のような信頼である。一切を知り統べ治めておられる神に対する人間の態度はイエス・キリストの信の媒介故に、彼の信に基づく義とその義の果実としての愛に対する幼子の信仰が相応しい。パウロはとりわけ「ローマ書」においてまた「ガラテア書」において正しい信仰とはいかなるものかの議論を展開する。永遠の生命の保証として主の復活はわれらの信仰を引き起こしそして信に基づく義を保証するものである。パウロは主の復活という神の歴史への介入から十字架とその生涯を捉えなおしたのである。神が愛である限り、この人生は良き土地となる、復活の主が共にいたまうからである。「主はわたしの運命を支える方。測り縄はわたしに向けて良き地に落ちた、わたしは良き嗣業(ゆずり)を得た」(Ps.16:5-6)。
なお、当のイエスご自身も苦闘のただなかにあったことを忘れてはならない。山上の説教が生命を懸けて生き抜かれたことによって、ひととして想定しうる最も偽りのない在り方が歴史のなかで打ち立てられた。新しい生命が福音という新しい革袋に入れられた。主イエスの甦らしを遂行したまう神の力能によって古い業の律法も新しい信の律法の光のもとに照らし直され新しくなり、業のモーセ律法は何等か新しい酒に変換させられる。それは少なくとも人類にひとりは福音の光のもとに山上の律法を成就した方がいるからであり、それゆえに神はナザレのイエスをご自身の御心に適う者として嘉みし、ご自身の信に基づく義の啓示の媒介として用いられたからである。かくして、業に基づく義とは異なる信に基づく義が、業の律法の冠である愛を実現させるその力能が人類に付与されるに至った。モーセ律法は信の律法に秩序づけられた。信の力能こそ彼の十字架と復活において明らかにされたのである。「「できるものなら」と言うのか、信じる者にはあらゆることができる」(Mac.9:23)。「できる」というその力能があらゆるものの力能であるとして、そのあらゆることは当然愛の業に収斂される。それ故にこそ、われらは山上の説教をそれにより満たしうるのではないかとの希望を抱く。
聖書と宗教3―祈りによる神との交わり―
日曜聖書講義 2021年4月18日
[初めて聖書に触れるひとに入門的、一般的、歴史的な聖書理解の枠組みを与えつつ、主題ごとに神とひととの交わりについて学ぶ。アブラハムからモーセに至る経過を最近のルクソール近辺のアメンホテプ3世のころの都市が発掘された(前14世紀)。ヨセフや出エジプトの年代確定になんらか有益な情報を得られることが期待される。ここでは祈りについて学ぶ。録音では本稿の最後まで到達しなかった。]
聖書と宗教3―祈りによる神との交わり―
聖書朗読
「汝らは祈るとき、偽善者たちのようになってはならない。彼らは礼拝堂や広場の角で立ち続けて祈ることを好む、彼らが人々に見てもらうためである。わたしは汝らに言う、彼らは彼らの報いを現に受け取ってしまっている。しかし、汝が祈るとき、汝の部屋に入りなさい、そしてその戸を閉めて、隠れたところにいます汝の父に祈りなさい。隠れのうちに見ています汝の父は汝に報いるであろう。
祈る者たちは異邦人たちのようにくどくどと喋るな、というのも彼らは自分たちの祈りは多くの言葉において聞き入れられると思っているからである。だから、彼らに倣うな。なぜなら汝らの父は、汝らがご自身に求める前に、汝らが必要としているものごとをご存知だからである。だから汝らはこのように祈りなさい。
「天にましますわれらの父よ、汝の御名が聖なるものとされますように、汝の御国が来ますように、汝の御心が成りますように、天におけるように地の上でも。われらの日用の糧を今日もわれらにお与えください、そしてわれらの負債をわれらに赦してください、われらも自分の負債ある者たちに赦しを与えてしまっておりますように。われらを試みにあわせず、われらを悪から救いだしてください」。
もし汝らがひとびとに彼らのあやまちを赦すなら、汝らの天の父は汝らにも赦すであろう。もし汝らがそのひとびとに赦さないなら、汝らの父も汝らのあやまちを赦さないであろう」(Mat.6:5-15)。
1祈りとは
山上の説教のなかでイエスはひとびとにどのように祈るかを教えている。それは伝統的に「主の祈り」と呼ばれる。目に見えない神との交わりは「祈り(プロスエウケー)」と呼ばれる。ひとから神に向けての働きかけである。イエスは隠れた部屋での神との一対一の交わりを勧めている。ひとは神との親密な交わりの場を必要としていることを示している。黙々と働きながら神に思いを向ける黙想も親密な交わりが成り立つのであれば、祈りと呼ばれるであろう。長々と言葉にすることは勧められない、神はわれらに必要なものを祈り求める前からご存知だからである。神様は時空の創造者として永遠の現在のうちにおられ、運動のうちにある従って時間の流れのうちにある宇宙を統べ治めていたまう。
一切をご存知な方には何を求めなくとも、何を言わなくともいいのではないかという考えに対しては、自分のことに関心をもちいつも心にかけており愛してくれるひとのことを思い出すよう促そう。その人と共にいること、共に過ごすことは喜びであり慰めであり励ましであることを思い起こそう。平安と喜びに満たされるであろう。われらはしかしそのような時間ばかりを過ごすわけにはいかず、社会のなかで学寮のなかで様々な人々と関わって生きている。だからこそ親密な神との祈りの時間は貴重なものとなる。
そのような愛してくれるひとがおらずそのような温かい、心の休まる交わりを経験したことがないというのであれば、福音を伝える者、即ち良き報せを伝える者はますます神様が心にかけケアしてくださることを伝えることが大切なことになる。聖なる、全知全能の神があなたを支え励ましておられることを知ることが、ちょうど愛するひとと共にいたいと思うように、神との親密な交わりである祈りに向かわせる。
聖なる神と交わるにはわれらに二心、三つ心があるときには、神にまみえる相応しい態度ではない。祈りは端的に言ってわれらの心を清めるために必要である。心が清められて神との親密な関係にあるときのみ、われらは愛するひとと共にいるときのように力を得て、あらたに歩み始める。カルカッタの路上にころがる人々を助け続けたマザーテレサは朝の二時間を一人で過ごしたという。聖書に記されている父なる神との対話のなかで、心を調整するべく一日の働きの心の準備をしていたのであった。
今、毎朝読んでいる詩篇においては神に対する直截な呼びかけが多く集められている。神に感謝し、賛美しまた敵に苦しめられていることを嘆き、訴え援けを求めている。このような祈りを赤の他人になすことは考えられない。神との親密な関係にある者だけがこのような祈りをなすことができる。詩人は賛美する「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はその御手の業を示す」(Ps.19:1)。万軍の主がそばにいてくださることを感じ取ること、そのことが祈りを通じてなされる。マザーが二時間を聖書の黙読や瞑想についやしたとしても、最後は主の祈りに帰ったことであろう。くどくどと繰り返し冗長になるな、六つの祈りで十分であるとイエスは教える。
2主の祈り―天と地のことがらをめぐる二つの祈りの秩序づけ―
イエスは「主の祈り」において明確な祈りの対象に対し明確な祈りがあることを群衆に教える。山上でイエスは群衆に天の父に何をどのように祈るべきかを教えている。
イエスはその信の従順の生涯をリアルタイムのうちに貫いた。途中で神の御心を実現しなかったならば「キリスト(油注がれた者→救世主)」と呼ばれることなかったであろう。その一挙手一投足のなかでイエスは主の祈りを教える。最初の三つは眼差しを天に向け神ご自身に栄光と賛美を帰し、聖性を賛美し、御国の到来を願い、御心のこの地に成ることを祈る。「天にましますわれらの父よ、汝の御名が聖なるものとされますように、汝の御国が来ますように、汝の御心が成りますように、天におけるように地の上でも」。これらは簡潔であるがゆえにこそ、神ご自身の聖性と御国と御心の地における成就、神ご自身についてこれらは包括的な一般的な祈りであり、これら以外の何も神について祈ることはないであろう。
祈りの相手はどこまでも「天にましますわれらの父」であり、「天の父が完全であるように」(5:48)と言われたその天の父に祈るということは、もともと祈りというものの対象としてふさわしい。偶像、アイドルに祈っても裏切られるだけであろう。イエスはパリサイ主義を嫌ったが、偽りが、二心、三つ心が忍び込むとき、ひとはパリサイ主義に陥る。偽りは本来、神の子として造られた自己に対し、あたかも自らの力で生きているかの如くに看做すこと、或いは偶像という自らの願望の投映に自らを見出すことに他ならない。詩人は罪を擬人化して、自らの心にしのび込む「不法」と呼ぶことにより、罪の欺きを暴き立てる。「自らのなかで罪を犯させるべく不法が語りかける、「自分の目の前に神の畏れはない」と。というのも、それは自分に対し欺いたからである、自分の不法を見出しそしてそれを憎むに至るまで。彼の口から語られたことは不法と欺きである。彼は善を為すべくわきまえ知ることを欲しなかった」(Ps.36.1-4)。偽りから解放されている存在者に対して祈るのでなければ、祈りそのものが自他の欺きとなるであろう。
しかし、一切を知りそして公平にして憐れみ深い正義にして同時に愛でありたまう天にいます父なる神に祈ることは、誰もが「祈る」ということがらにおいて望むことであろう。恣意的な神々に祈ったとして、それはあたかも運命という名のもとに翻弄されるだけの人間存在と変わることがないであろう。祈るに値する信実な対象でなければ、われらの祈りは空を切るような手ごたえなきもの、或いは唆され欺かれるだけであろう。言葉の力として、ここまでは誰にも同意を得られることであろう。
イエスには天の父がいますことはなんら疑いの余地もないほど明らかなこととして山上の説教をそして主の祈りを教えている。もしこれが揺らいだら、すべてが偽りとなる。その意味でイエスは明確な信のもとに説教している。ただし、山上の説教においてイエスはユダヤ教の伝統的な道徳観のもとに群衆と共に立ち、その視点から心魂の道徳的次元で発動する良心に訴え、パリサイ人に代表される各人に潜む偽りを摘出し乗り越えるよう群衆を励ましている。その良心の発動は宮に捧げものをもっていく途中で急に自分に反感を持つ人を「思い出したなら」(5:23)という仕方で、突然気づくそのようなことがらである。心に潜む偽りの乗り越えは天の父に委ねられる。「われらを試みに遭わせず、われらを悪から救いだしてください」と。その意味において主の祈りでは道徳的次元を内側から破り、その眼差しを向けるべき方向が教えられていると言ってよい。実際、そこでは聖霊の注ぎも奇跡さらには、「信(pistis)」や「罪(hamartia)」という語句を見出すことはできない。当時の道徳観の言語で心に潜む偽りを乗り越えるべく言葉のみによりチャレンジしている。主の祈りもそのチャレンジの一つである。
天にましますわれらの神に栄光を帰し、そして地に住むわれらのケアをもとめる。続く三つの祈りは地上に住むわれらの願いである。「われらの日用の糧を今日もわれらにお与えください、そしてわれらの負債をわれらに赦しください、われらも自分の負債ある者たちに赦しを与えてしまっておりますように。われらを試みにあわせず、われらを悪から救いだしてください」。これは山上の説教の骨格、基本構想に合致する。彼はこの説教をひとつの基本構想のもとにこう秩序づけている。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、汝らにはなおさらのことではないか、信少なき者たちよ(oligopistoi)。だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」思い煩うな。それはみな異邦人が切に求めているものだ。汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国とご自身の義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう。だから、明日のことまで思い煩うな。明日のことは明日が自ら煩う。その日の悪しきものごとはその日だけで十分である」(6:30-34)。
「何よりもまず、神の国とご自身の義とを求めよ」。「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である」。この帰一的な構造が主の祈りの構成でもある。天から地であって、地から天ではない。もし主の祈りがなかったなら、われらはどのように祈ったらよいか、とりわけこの帰一的な構造のもとでの秩序付けをこれほど簡潔にして要を得た仕方で理解することはなかったであろう。まず眼差しを天に向け仰ぎ見ることが祈りのさいに為すべき最初のことがらである。それほどわれらの眼差しは地を這いつくばっている。この祈りは仰ぎ見ることを教える。「主よ、わが魂は汝を仰ぎ望む。わが神よ、汝により頼む」(Ps.25:1)。山上の説教がわれらの心魂とそこから生まれる行為の一切を秩序づけるように、主の祈りはそれを求める祈りであると言ってよい。この説教の内部で、主の祈りはこの説教全体を神とひととを結びつける祈りという仕方で秩序づけている。
4罪の赦し
天のことがらに続き、地上の生活のことがらとして、生存に必須な食物を求める祈りが勧められている。またわれらを試みに遭わせず、悪から救い出してくださいとは、自然災害や戦争や争いそして疫病や飢餓そして事故などに囲まれているわれらにとって、常に喫緊のことがらである。
そして何よりもわれらの最も難しいことをクリアさせることによって天と地を秩序づけようとしている。それは赦すということである。「そしてわれらの負債をわれらに赦しください、われらも自分の負債ある者たちに赦しを与えてしまっておりますように」。ここで「赦しを与えてしまっておりますように」と現在完了形で語られている。その都度負い目ある者また「われらにあやまちを犯した者」を赦してしまっていなければ、この祈りを日常に祈ることができないというハードルが置かれている。これこそわれらを日々新たにする。われらの心魂は刷新を必要とする。「明日のことを煩うな」における「煩う(merimna)」は「部分、分割(meris)」を構成要素にしている。心が煩うとは様々なことに思いが分断されていることを言う。
主の祈りが山上の説教に基づく生を導く主導原理である。まず神の国と神の義である。ここでも「罪の赦し」ということばは見られず、元来「借金」も意味する「負債」「負い目」さらには、「失敗」や「失態」を意味する「あやまち」が用いられる。イエスは群衆たちに道徳的次元に留まりつつ、それを内側から突破するよう言葉の力により教え導いている。主の祈りを教えたことに続いて直ちにこの祈りに帰る。「もし汝らが人々に彼らのあやまちを赦すなら、汝らの天の父は汝らにも赦すであろう。もし汝らがその人々に赦さないなら、汝らの父も汝らのあやまちを赦さないであろう」。それだけこの第五の祈りが主の祈りの隠れた中心であることが分かる。
主の祈りはキビキビとしており、最も困難なことが日々の日常の祈りに織り込まれている。必要にして十分なことがらが簡潔に枚挙されている。それはただの六つである。隣人を愛するとか、自らが平安であるようにとか祈らずとも、「御心が成るように」の一言に包摂されている。思い悩むという仕方での自我中心から解放されることの祈りである。その自己への執着から解放させるものが赦しの祈りであり、それがなされない限り、実はこれを祈れないそのような厳しいものである。イエスは招く、「疲れたる者、重荷を負うものわれに来たれ、汝らを休ませてあげよう」(11:28)。そう言われる方である。われらを苦しめる方ではないはずである。
祈りは神の国と義を求めるべく心を整えるものである。「天の父は求める者に聖霊をくださる」(Luk.11:13)と言われるように、神に聖霊を求め、清められるために祈りがある。主の祈りも心を神に向け、神からの憐れみとして聖霊をいただく、そのような父と子の交わりである。主の祈りを教えるイエスご自身はリアルタイムにこの福音を新しい契約を実現すべくこの地上の生を歩んでおられた。
聖書と宗教2―不可視なものへの信による突破
日曜聖書講義 2021年4月11日
第一回の要旨 人類の歴史のなかで古典として最も読み続けられた聖書に親しむことにより人間であることを共に探求したい。宗教は人間がどこからきてどこに行くのかという不可視なものをめぐり生起した。不可視なものを真理であると判断するのは信仰である。そこで大事なことは理性に反した狂信に陥らないこと、また恐怖など感情(身体的な受動的反応・パトス)に引きずられて迷信に陥らないことである。理性の足らなさ、情緒のバランスのとれなさなど人の弱みに付け込んで洗脳と言う仕方での信仰の強要は最も唾棄すべきことがらとして拒否される。心魂の探求を通じて、心魂の内側からの納得が不可欠となる。
聖書と宗教2―不可視なものへの信による突破―
ヘブライ人への手紙11章
「信仰は望んでいることがらの確証であり、見られていないものごとの[不可視に留まることへの]反駁である。というのも信仰によって古への先人たちは[見える]証し人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより諸時代が[以下の先人たちのように]統一させられていることを、信仰により観て取っており(pistei noūmen)、見られるものが現れないものども[神の語りかけ]に基づくことを知るに至る。信仰によってアベルはカインに比し一層多くの捧げものをしたが、神ご自身がその贈りものを認証することによって、その信仰を介して正しい者であることが証しされ、アベルはその信仰を介して死んだが、彼は今なお語っている。・・信仰によってノアはまだ見ていないものごとについて、神に警告されたとき、心に留めそして彼の家族を救うべく箱舟を建造したが、その信仰を介して彼は世界を審判した、そしてその信仰に即した義を介して受け継ぐ者となった。信仰によって、アブラハムは呼び出されると彼が受け継ぐことになる場所に出ていくべく従ったが、彼はどこに行くか知ることなしに出立した。信仰によって彼は、同じ契約の受け継ぎ手であるイサクとヤコブと共にあたかも他国に宿るようにテントで生活し、約束の地に滞在した。というのも彼は神がその設計者であり建設者でありたまう基礎を持つ都を待ち望んだからである。・・信仰によってヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの各人を祝福し、杖の頭越しに神に礼拝した。信仰によって、ヨセフは自らの人生の終わりに、イスラエルの子らの脱出について語り、自らの埋葬について指示を与えた。・・信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待されることを選び、キリストのために受ける嘲りをエジプトの財宝よりまさる富と考えた。[正当な]報いに目を向けていたからである。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを去った、というのも見えない方を見ている者として忍耐したからである」(Heb.11:1-27)。
1初めての聖書
神がどのような方であるかについて述べているのが聖書だと言うことができる。聖書は人間とは一体何者であるのかについて探求し、その理解を求める者にたいし、神という究極の存在者、全知にして全能であり宇宙を創造し導いている存在者に訴え応答している書物であると言うことができる。聖書は神に選ばれた一つの弱小民族イスラエルを導くその歴史を通じて神がどのような方であるかを伝えている。聖書はパレスチナ地方の人々の生活、歴史の記録であるが、神との関わりのなかでの記録である。
先週は宗教上の暦ではイースターと言って、キリストの復活を祝う日であった。人類にとって二度あってはならない、神の御子の「一度限り」の十字架と三日後の甦りの事件はその後の人類の歴史を大きく変え、方向付けを与えた。これは科学のように再現性のない出来事であるので、信仰により突破するしかないことがらである。この最も掌握しがたい尋常ならざる出来事についてはおいおいお話しするとして、これから三十数回にわたり日曜日ごとにThe Bookと定冠詞付きで呼ばれる聖書を学んでいきたいと思う。この書物は人類の歴史において最も多く読まれてきた書物であり、現在3000以上の言語に翻訳されていると言われる。
紀元前(BCE Before Common Era )9世紀ごろから紀元(CE)1世紀まで1000年かけてパレスチナを中心にする地中海東海岸地域(現在のイスラエル、ヨルダン、シリアやトルコ等)に住む多くの著者によりヘブライ語とギリシャ語で執筆された。旧約聖書は39書あり、モーセ五書、預言書、知恵の書と大きく分類されている。新約聖書は27書あり、福音書や手紙そして黙示録と呼ばれる終末についての預言からなっている。それぞれの構成文書は3x9=27と覚えるとわかりやすい。とはいえ正典(Canon)と呼ばれる、正統と異端を判別する規準となるものは、宗派により少しずつ異なっており、おおよその権威のよりどころとして理解していただきたい。旧約聖書39書はエステル記のようにギリシャ語で書かれたものもあるが、ヘブライ語で記されている。ただし、写本として残っている一番古いものはエジプトプトレマイオス朝時代に紀元前3世紀から1世紀までかけてアレクサンドリアでヘブライ語からギリシャ語に翻訳された70人訳(Septuaginta)と呼ばれるギリシャ語聖書である。ヘブライ語の写本でユダヤ教において「伝承」されてきた「マソラ」と呼ばれる一番古い文書は10世紀のレニングラード写本と言われる。しかしながら「死海文書」と呼ばれる1世紀のヘブライ語聖書が1947年にベドウィンの羊飼いに発見されており、10世紀の写本の信頼性が確認されていると言うことができる。旧約聖書は紀元70年ローマによるエルサレムの陥落後近郊のヤムニアでユダヤ教の正典として伝承する文書を確定するため開かれた会議(ヤムニア会議)以後連綿と伝承されてきた。それはユダヤ教、キリスト教そしてイスラム教に共有されている正典ないし啓示の書とされている。
なぜ聖書は人類の書物となったのであろうか。BCE1600年頃アブラハムが今のバクダッド付近のカルデヤのウルに住んでいたが、夜空の星のごとく海辺の砂の如くに栄えるという神の約束を信じて出立した。アブラハムとその子孫であるイスラエル(神の民)(時代が下って「ユダヤ人」と呼ばれる。ギリシャ語では「へブライ人」と呼ばれる)は他の強大な諸国に囲まれながら、民族としての一性を保ってきた。エジプト、ヒッタイト、アッシリヤ、バビロニアそしてペルシャさらにギリシャ、ローマなど諸時代の大国に翻弄されながらもヤハウェ神を信じる一神教としてのこの宗教はユダヤ教、キリスト教そしてイスラム教と少なくとも三つに分かれながらも今日たえることなく続いている。一神教であることは、万物の秩序を理解しやすい。そのためギリシャ哲学とキリスト教を受容した西欧諸国は科学など学問の進展を担うことができたと考えられる。
パウロはモーセにおいて神から十戒が与えられたときはアブラハムから430年経っていたと報告している。「神によって批准された契約を430年後に生じた律法が約束を反故にすべく無効にすることはない」(Gal.3:17)。旧約聖書の歴史の年代確定は困難な問いであるが、この期間を規準にして計測すると、最近の研究によればアブラハムは紀元前17世紀後半(1620年頃)そしても出エジプトのリーダーモーセは紀元前12世紀前半(1190年頃)が想定されている。聖書に登場するアブラハムからモーセにいたる人物の世代数(十世代)から言って、アブラハムがハムラビ法典が発布された1800年頃出立したという想定は理にあわないと言われている。ともあれ、イスラエルの歴史はこの二人を中心に展開されるが、アブラハムに対し神による民族への約束が与えられ、そしてモーセに対して神の意志としての律法が与えられている。パウロによれば、モーセ律法は責任ある行為主体が偶像崇拝の禁止や貪りの禁止などの戒めを遵守するか遵守しないかにより正義と看做されるか否かが審判されるのに対し、アブラハムへの約束は神が約束に対し信実であったとき、神の信実を信じるかそれとも裏切るかにより正義と看做されるか否かが審判されると展開しています。パウロは信仰による義のほうがモーセ律法を業や行為により満たす義よりも根源的であると議論を展開しています。アブラハムの信仰はモーセ律法の啓示により無効にされなかったからです。
ともあれ、イスラエルは紀元前1000年頃のダビデとソロモンの栄華の時期を除いて列強に囲まれ苦難の連続であり、紀元前6世紀には支配階級はバビロンの王ネブカドネザルによりエルサレムからバビロンに移送され、ペルシャ王キュロスにより解放されるまで捕囚を経験している。
2ヘブライズムとヘレニズム
続いてギリシャの支配を受けることになる。古典期アテネの隆盛はペルシャとの紀元前5世紀前半の戦い(ペルシャ戦争)それから5世紀後半のスパルタとの戦い(ペロポネソス戦争)を経験するなかで、民主主義が台頭した。ペリクレスはその象徴的な指導者です。民主政治においては弁論による説得が政策決定に不可欠となり、「弁論術」という説得の技術それから「弁証術」という議論の妥当性を吟味するべくプロ(賛成)とコントラ(反対)の見解を提示する言論の諸技術が躍進的に発展した。これらと数学や自然科学の発展のもと、アテネを中心に知的革命とでも言うべきひとを文字通り「知を愛する」「哲学(philosophia)」が一つの形をとるようになり、この地が地中海世界の文化の中心となった。前4世紀後半のアレクサンダーによる統一以後このギリシャ文化は「ヘレニズム時代」と呼ばれる。
B.W.Robinsonは『パウロの生涯』においてキリスト教の揺籃としてのギリシャの知的文化をこう述べている。「アレクサンダーは成功裏に東西文明を混淆させることにおけるパイオニアであった。もし彼によるギリシャ人とセム人の織り交ぜこみがなかったならば、パレスチナからのいかなる企てといえども第一世紀におけるキリスト教徒による伝道の成就と特徴づけられるそのような迅速性を伴って西方に伝播することは不可能であったことであろう」。B. W. Robinson, The Life of Paul, p.6 (The Univ. of Chicago Press Chicago 1918).
ミルトンは『楽園回復』のなかで知的な文化が一斉に開花したアテネを賛美している。「いま一度、西の方、いやそれよりも少し南西寄り、エーゲ海の岸辺に一つの都市がある所を御覧なさい。この町は、その建築は壮麗、空気は清らか、土は軽やか、他ならぬ、芸術と雄弁の母、ギリシャの目、アテネであり、その町中あるいは外れの心地好い所、勉学に絶好の散歩道と木陰に、その名も高い賢者たちを生み出し、あるいは迎え入れたのです。あそこには、プラトンが隠れ住んだアカデメイアのオリーブ園が見えますが、そこではアッティカの鳥が夏の間中こもった震え声で歌い、あそこでは、花咲き乱れるヒュメトゥスの丘が蜜蜂の忙しく働く羽音でしばしば人を思索に誘い、あそこでは、イリスゥスがさらさらと音を立てて流れている。次に壁の内には、古の賢者たちの学びの園が見えます。あそこには、大いなるアレクサンドロスを育て世界を征服させた師の学び舎、リュケイオンが」ジョン・ミルトン『楽園回復』(IV.235-255) 小貫山信夫訳 (キリスト新聞社 1980)。
マルチン・ヘンゲルは歴史の波に翻弄されながらもユダヤ人が自己同一性を堅固に維持したという見解に疑問を投げかけこう言う。「新約聖書に関係する歴史研究のためには、「ユダヤ教」と「ヘレニズム」との伝承史的な区別が自明の大前提の一つとなっている。「ユダヤ黙示思想」と「ヘレニズム神秘主義」、「ユダヤ的―ラビ的伝承」と「ヘレニズム的―オリエント的グノーシス」、「パレスチナ・ユダヤ教」と「ヘレニズム・ユダヤ教」・・の間の区別がなされる。ことに特定概念の研究は、通例、しばしば旧約聖書もしくはギリシャ古典にまで遡源されるこれらの二つの「伝統の系譜」のいずれかへの区分に終わっている。この不可避的な区分は、明らかに、イエス時代のパレスチナがすでにおよそ360年間も「ヘレニズム的」宗主権のもとにおかれ、またそれに結果する文化的影響のもとにあったという事実を余りにも容易に看過している」。(M・ヘンゲル『ユダヤ教とヘレニズム』長窪専三訳 16頁(日本基督教団出版局 1983)。下村寅太郎『ブルクハルトの世界』 406頁(岩波書店 1983)参照。
アレクサンドロス以降「360年」のあいだギリシャの政治的、文化的、知的影響化にあったという事実は忘れてはならない歴史的経緯である。エルサレムの神殿にはゼウス像が安置されていたと言う。そのなかでも旧約聖書に即して、ユダヤ人たちはメシア(油注がれた者=救い主)を求め続けていた、たとえ彼らはこの地上での隷属からの政治的解放者を待ち望んでいたとしても。
重要な問題はユダヤ教とキリスト教の関係である。これは歴史上の連続と断絶の関係においてある。連続と断絶双方ともイエス・キリストという特異な存在者の出現により特徴づけられる。旧約と新約、古い神の約束と新しい神の約束、その関係こそ解明されねばならない。パウロによれば、旧約において神の意志即ち「律法」が明確に知らされたのはモーセの十戒を介してである。パウロはこれを「業の律法」と呼び、新約において「イエス・キリストの信を介して」知らされた「信の律法」と判別される。もちろん、旧約においてもアブラハムのようにその信仰が神に嘉みされたつまり喜ばれた信の律法を満たす先駆的事例はあった。これら二つの神の意志、即ち二つの律法の関係についておいおい話していく。イエス・キリストが鍵となることを覚えておいてほしい。
3モーセの十戒
簡単にモーセの十戒について学ぶ。神はモーセに神の山(ホレブ)で十戒を示している40日のあいだに、麓で待つ民は待ちきれずに金の子牛を鋳た。モーセは下山するとこれを見て怒り、神の指で書かれた十戒を叩き壊し、神の怒りを知らせた。「ローマ書」における「神の怒り」やこれらの表現と同じ語彙をパウロが用いた七十人訳の出エジプトの一連の当該個所において見出すことができる。これらはすべてアロンのもとで金の子牛を鋳て偶像を拝んだ出エジプトの民の記事に符合し、神は偶像崇拝についての律法に即し怒りを示して、レビ人を介し一日に三千人を倒したことが報告されている。なお、業の律法の啓示以前においてまた異邦人においては良心(con-science共知)が業の律法のもとにあることを示す。
偶像崇拝において明らかにされているのは罪とは自己神化であることに他ならない。モーセの十戒即ち業の律法の第一戒において神はモーセに命じている。
「主はこれらのことばすべてを語り[モーセに]呼びかけた、わたしは汝をエジプトから奴隷の家から導き出した汝の神である。わたし以外に汝に他の神々があることはないであろう。汝は自らに偶像をまた天上にあるまた地上にあるそして水のうちにいる限りのいかなるものの似像をも造ることはないであろう、彼らに礼拝することも彼らに仕えることもないであろう。なぜならわたしは汝の神、嫉妬する神だからである、父祖たちの諸々の罪に対しわたしを憎む子孫たちに三、四代報いつつ、わたしを愛しわが戒めを守る者たちに対しその子孫たち千代に憐みを施しつつ」(Exod.20:1-7)。
罪とは、ヤハウェ神以外の神々を拝むこと、偶像を造ることである。偶像・アイドルの制作は人間はそれを拝することによって依存しつつ、実は偶像を自らの欲望なり心の平安に奉仕させている。それはまことの神を神としないことであるがゆえに、偶像を造るその自己が創造者としての神となる。そのような自己神化こそ第一戒は禁じている。神はモーセに信実であるがゆえにこそ、自ら以外に関心がむけられるとき、それを許容することはなく、それを記述すべく「嫉妬」という人間的な特徴づけが許容される。ここに業の律法の背後に信の律法が働いており神ご自身においては二つの律法の関係は揺るぎないことが分かる。ただユダヤ人に対する啓示の順序として業の律法が人々の心と歴史の進展にとって不可欠なものとして知らしめられている。
神に罪と看做される者はこの第一戒に見られるような自己神化を行う者のことであり、自己神化こそが罪である。「業の律法に基づくすべての肉は神の前で義とされないであろう[未来形]。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:19-20)。業の律法はそのもとにおいて例えば偶像を拝むか、拝まないか、盗むか、盗まないか、偽証を言うか、偽証しないか、姦淫するか、姦淫しないか、貪るか貪らないかが問われているが、その二者択一の行為において、一方の正しい戒めを遵守るならば正しい人間と神に看做され、他方護らなければ罪人と看做される。歴史が示すところによれば、誰も十全にモーセ律法を遵守することができず、神に嘉みされないことを明らかにしている。つまり、ひとは業の律法のもとに生きるときは偶像を拝むことになると神に認識されている。
罪が神の前の概念であるということは、神との関係が開かれない限り、「肉」と呼ばれる自然的組成こそ自己の座であり自己を拝み自己に仕えることが自覚なしに遂行されることになる。神との関係が開かれない限り罪とは何であるかが各自において理解されないそのような概念である。このようなことを三十数回かけて学んでいきたい。
4不可視なものと信仰
人類は今ここで見ることのできない将来のこと、さらには神のように不可視な存在者に対しては信仰によって突破してきた。不可視なものの最たる方である神は「光あれ」の言葉により宇宙を創造された。そのみ言葉・ロゴスが受肉した。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿を取りご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられた」(Phil.2:6)。
イエスは山上でモーセ律法の純化により人々の二心の偽りを摘出し、道徳的次元を内側から破ることにより信仰に招いた。そこで彼は言葉の力のみにより道徳、社会、自然、天国と地獄一切を天の父の完全性に秩序づけ、彼はその教えに生きまた死んだ。彼の生涯はその言葉と働きの合致故に偽りなき権威を伴った。科学技術や衣食住であれ、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう」(Mat.6:33)。イエスはこう語り信仰に招く。人類の第一の課題は「天の父の子」となる信仰により不可視な神との正しい関係を作ることである。「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを去った、というのも見えない方を見ている者として忍耐したからである」(Heb.11:27)。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。神の意志として「信の律法」(神が信であるとき、信じるか裏切るか)はモーセの「業の律法」(貪ぼるか貪ぼらないか)より根源的である(Rom.3:19,27)。
救いそのものがイエスにおいて可視化された。不可視なものの信仰が可視的なものにより確認される。「信仰は望んでいることがらの確証であり、見られていないものごとの[不可視に留まることへの]反駁である。というのも信仰によって古への先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより[アブラハムら先人たちの]諸時代が統一させられていることを、信仰により観て取っており(pistei noūmen)、見られるものが現れないものども[神の語り]に基づくことを知るに至る」(Heb.11:1-2)。
人間のあらゆる肯定的、創造的営みの根源にこの信が位置づけられる。どれほど認知的に人格的に愚かで悪くても、そうであるからこそ「幼子」のように信じることはできる。最も困難な探求対象が最も容易な幼子の信のみを要求しているということは全知全能の神にふさわしい。われらは幼子のように信じる「神はおのれの独り子を賜うほどに世界を愛した」、と(John.3:17)。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。復活は「告白」(Rom.10:9)を伴う信によってのみ突破されうる掌握困難な神の力能の顕われであり、甦りを信じることができるということ、それが喜びである。甦りは再臨による宇宙の完成に向かう。そのエヴィデンスは信に伴い豊かなものとなっていく。
聖書と宗教1―人間の探求―
2021年度第一回日曜聖書講義 4月4日
実際の学寮での日曜聖書講義では2節の「宗教」まででタイムアップとなりました。今年度から対話をすすめつつ講義をすることにしたため、録音は原稿ほど進まないことになることをご了承ください。来週は3節「初めての聖書」からのリアルタイムの講義となります。
聖書と宗教1―人間の探求―
詩篇139編
主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計(はか)らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない。どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府(よみ)に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる(Ps.139:1-10)。
① ヘラクレイトス「魂(phsuchē)の限界を、たとえひとが魂の全行程を歩むとしても、見出すことはできない。それほど魂は奥深い理(ことわり)を持っている」(『断片』71(45))。
② パウロ「人間たちの誰が人間の深さを知ったであろうか」(1Cor.2:11)。
③ パスカル「人間とは何という怪物、何という珍奇、妖怪、混沌、矛盾の主、何という驚異。・・真理の受託者にして、曖昧と誤謬のドブ、宇宙の栄光にして、宇宙の廃物。この縺れを誰が解くのか」(『パンセ』434)。
④ 宮沢賢治「われやがて死なん、今日または明日。あたらしくまたわれとは何かを考える。われとは畢竟法則の外の何でもない。からだは骨や血や肉や、それらは結局さまざまの分子で幾十種かの原子の結合。原子は結局真空の一体。外界もまたしかり。われわが身と外界とをしかく感じ、これらの物質諸種に働くその法則をわれと云う。われ死して真空に帰するや、ふたたび、われと感じるや」(『疾中』)。
⑤ 正岡子規「悟りとは死を恐れなくなることではなく、いかなる状況においても平気で生きうることだ」
⑥ 禅仏教「悟りとは人生にはマジックがないことを知ること」。座ることにより悟りをえることを期待して山門をくぐる者に 禅師は「ごはんは食べたか」、「掃除はしたか」と聞く。マジックを期待せず当たり前の生活ができるようになることが悟り。「一大事と申すは只今この時なり」。「向かはんと擬すれば、即ち背く」。
1人間の探求
魂は人間にとってずっと謎であったことは最初に確認されるべきことがらである。ヘラクレイトスは「魂(phsuchē)の限界を、たとえひとが魂の全行程を歩むとしても、見出すことはできない。それほど魂は奥深い理(ことわり)(bathun logon)を持っている」と言う(『断片』71(45))。パウロも「人間たちの誰が人間の深さ(bathē[2:10])を知ったであろうか」を問う(1Cor.2:11)。この「魂」、「心」と呼ばれるものが人類にとって最も重要なものであるなら、ひとは誰もがそれぞれの仕方で人類にとってこの最も重要なことがらに関わっている。「魂(phsuchē)」はギリシャ語では生命原理であり、「心(kardia)」は意識の座であり、新約聖書においては基本的に区別されてはいるが、日本語では判別せずに用いられることもあり、今後「心魂」と書き「こころ」と読ませ生命の支えのもとになされる行為主体・意識主体を指示するものとして理解する。
パスカルは言う、「人間とは何という怪物、何という珍奇、妖怪、混沌、矛盾の主、何という驚異。・・真理の受託者にして、曖昧と誤謬のドブ、宇宙の栄光にして、宇宙の廃物。この縺れを誰が解くのか」(『パンセ』434)。ひとは何をしていても自己理解に関わり、またその制約のもと責任ある自由のなかで何かを為し、自らと世界の理解を行為に反映させている。そしてその行為は縺れのなかで解きつつまた縺れつつ進むことであろう。望むらくはその深い理が少しずつ明るみにおいて捉えられることである。
ひとは何をしていても善悪を判断しつつ道徳的存在者として生きており、ひとは何をしていても地域社会のなかで政治、経済、法律等の制度のもとに生きており、ひとは何をしていても地球環境のなかで栄養摂取、吸収等の代謝、生殖そして死という生物的存在者として生きており、ひとは何をしていて重力や光、エネルギーの法則のもとに物理的存在者として生きている。そしてひとは何をしていてもどこから来て、どこへ行くのか生と死の前と後を、私とは一体何者なのかを問う宗教的、形而上学的(Meta-physics物理学を超えた(~の後))存在者として生きている。
ひとはこれらの問いのもとに投げ出された存在者であり、それぞれの地平において学問即ち知識を求める探求が成立している。それぞれの次元・層から人間は成り立っており、それぞれの次元・層の自己理解のあいだで緊張や矛盾を感じることがあり、それを「認知的不協和」と呼ぶ。例えば、道徳的にこれはよくないと思いつつ、社会的存在者として会社の命令で法に反することをする。生物的には十分に子孫を遺すことができるのに、社会的に一人前ではなく所謂「モラトリアム」期間においてあり、結婚することができない。ひとは親を選ぶことができず、何故かこの国においてこの地域において生きてしまっている。ひとはどこで分裂が癒され自己が自己自身との一致において満ち満ちて生きるかが問われている存在者である。あらゆる営みにその理解が反映されるところの自己理解を哲学では「実存」と呼ぶ。聖書的には「信仰」と呼ばれる心魂の根源的態勢のことである。
2宗教
宗教は「神」や「仏」そして「無」等と呼ばれるこの宇宙全体を司るものについて成り立つものであり、そのような包括的存在者、存在との関わりを主張するものである。これらの呼称のもとにあるものは不可視な存在者であるため、どこまでも人間の心魂は深く正しくまた浅く誤って関わることができる。宗教がおうおうにして狂信に陥るのは人間に与えられた理性に背くことによってである。また迷信に陥るのは人間に与えられた身体の受動的反応である「パトス(pathos, passive)」と呼ばれる感情や欲求の一形態である恐れなどに捉われることによってである。従って、宗教に関わるときは、自らの「心魂の耕作(cultus animi)」を通じて正しく理性と感受性を用いて関わることが肝要となる。
宗教は、不可視なそれとして完全に把握できない存在者について成立するというその本性上、人間の心魂の実力が問われることなく、つまり認知的にどれほど愚かであっても、人格的にどれほど悪くとも持つことのできる信仰によってアクセスされうるものである。それ故に「信仰」について正しい理解を持つことが求められると同時に、自己について、また社会、生物そして宇宙の法則について探求し続けることが求められる。洗脳という仕方での堕落した宗教の在り方は唾棄すべきものであり、懐疑が喜ばしい探求に変わり心魂の内側からの納得こそ宗教に関わる者にとって最も重要なこととなる。
他方、「信仰」という心魂の根源的態勢をめぐる理解として、十全に知ることができないからこそ信仰によって突破するということがおこる。確かに、或る意味では神についてはあらゆる学問を究めた者によってだけ正しく理解されうるものであると言うことができる。しかしそれと同時に、信仰によって幼子のようでありさえすれば関わることのできるものであるとも言わねばならない。前者は人間的な言い方であり、後者は聖書的な言い方である。全知全能の創造者にして救済者という究極の存在者に関わる様式はどんなに愚かでもどんなに悪くとも幼子のようでさえありさえすればよいという考えは彼我のあまりの距離をまともに受け取るとき相応しい態度であると言うことができる。それ故にこそ常に自己の現在地点についての偽りのない認識、理解とともに、宇宙の存在者、万軍の主、救いの神を仰ぎ見る心魂の刷新が求められる。
預言者イザヤは言う。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。
春の講義最終回宗教改革(7)―提題16条「出来事」―18条「無償の贈りもの」
提題目次 77 theses: Table of contents
第I部 「ローマ書」3章21―31節の新提案が導く神の前と人の前の総合的開示―イエス・キリストの言葉と働きによる神の意志(福音と律法)と自然(肉)の媒介と秩序づけ Comprehensive manifestation of both ‘before God’ and ‘before Man’ led by the correct understanding of Romans 3:21-31 – Intercession and Ordering between God’s wills (Gospel and Law) and Nature (Flesh) by words and works of Jesus Christ—
1 神の栄光、創造と救済を介して Glory of God via creation and salvation.
2 福音 Gospel.
3 神の信 Faithfulness of God.
4 神の二種類の意志のもとに啓示されている神の義即ち「信の律法」と「業の律法」
God’s righteousness i.e. ‘the law of faithfulness’ and ‘the law of works’ being revealed under God’s two kinds of will.
5 「神の怒り」の啓示とそのモデル(出エジプト記)―罪とは何か― The revelation of ‘God’s wrath’ and its model (in Exodus):What sin is.
6 神の義の二つの啓示((A)神の信義と(B)神の怒り)の非対称性 Asymmetry between two revelations of God’s righteousness ((A)God’s faithful righteousness and (B) God’s wrath).
7 悔い改めによる「業の律法」から「信の律法」のもとへの移行 Transition by repentance from the law of works to the law of faithfulness.
8 神には二種類の律法の適用において偏りがない There is no respect of person in applying God’s two kinds of law to human beings.
9 啓示の差し向け相手の三人称による提示 Employing the third person pronoun on behalf of the person whom God’s revelation is addressed to.
10 神の怒りの啓示と神の前の責任 The revelation of God’s wrath and man’s responsibility before God.
11 良心と最後の審判 Conscience and the last judgment.
12 イエス・キリストを介した福音の啓示 The revelation of Gospel through Jesus Christ.
13 律法と預言の成就としての福音 Gospel as the fulfilment of Law and Prophecy.
14 三つの名称「イエス・キリスト」、「イエス」、「キリスト」Three names ‘Jesus Christ’, ‘Jesus’ and ‘Christ’.
15 「イエス・キリストの信」における帰属の属格 Genitive of belonging in ‘the faithfulness of Jesus Christ’.
16 「イエス・キリストの信」は一つの出来事である ‘The faithfulness of Jesus Christ’ as an event.
17 神の義とイエス・キリストの信に「分離はない」 ‘There is no separation (diastolē)’ between God’s righteousness and the faithfulness of Jesus Christ.
18 無償の「贈りもの」としての罪から義への贖い Atonement of sin transferring to righteousness as a free ‘gift’.
16 「イエス・キリストの信」は一つの出来事である
イエス・キリストは彼において神の信とひとの信が対応した、即ち神がご自身の信の媒介として用いるべく嘉したその信が帰属した方である。換言すればひとりの神・人において神の義の啓示の媒介となる信が生起した。「イエス・キリストの信」における属格「の」は双方の信が対応したところの一つの出来事の範疇のもとに理解される。出来事は行為と異なり行為者の意図は問われず括弧に入れられ、背後に行為主体が想定されるにしても歴史のなかで生起したこととして記述される。例えば、行為文「シーザーはルビコン川を渡った」と歴史的な出来事の記述「ルビコン川の渡渉はシーザーにおいて生じた」、これら二つの文は真理値において等値である。行為文においてはその行為主体シーザーの意図が主題となる。他方、出来事文においてはシーザーによるローマ奪還の契機となった歴史的事実に焦点が当てられている。同様に、歴史的事件、出来事を表現すべくこの属格は理解される。「神は一人の信を嘉みし信に基づくご自身の義の啓示の媒介に用いた」と「神に嘉された一人の信において神の信に基づく義が生起した」も等値である。
ナザレのイエスにおいて神に嘉みされる信が生起した。啓示行為は父なる神の専決行為であるが、その意図即ち福音ないし信の律法の知らしめはひとつの歴史的事件を介して遂行される。「神の怒り」は彼が創造された「天から」下されているように、「神の義」は「イエス・キリストの信を媒介して」信じると神が看做す者に知らされている。そこで「神の義」とこの「信」のあいだには「分離はない」と神ご自身により看做されている。「信」の出来事の用法は他にも「その信が到来する以前には、われらは将に来たりつつある信が啓示されるべく閉じ込められながらも、律法のもとに保護されていた」と語られている。(Rom.3:22,1:18,3:22,(cf.3:25-26),Gal.3:23).
17 神の義とイエス・キリストの信のあいだに「分離はない」
ここで神の義はその啓示の媒介である(f1)「イエス・キリストの信」と「分離はない」ものとして啓示されている。この(f1)「ピスティス(信)」は個々人の心的態勢として持つ「成長」や「増大」、「弱い」「強い」という変動ある(f2)「ピスティス(信・信仰)」と異なり、神の義の啓示の媒介として十全なものである。神はこの義の啓示の差し向け相手が、信義の分離のなさ故に、業の律法に基づく者ではなく「信じる者すべて」であると認識しておられる。神による知らしめとしての啓示の差し向け相手は「信じる者すべて」でなければならない。「泳ぎ」という概念は「水」の理解なしには理解されないように、言明の真理を「信じること」なしに、その真理を「知ること」はない。信の認知的対義語である懐疑のうちにある者は言明の真理を知ることはないことは明らかである。このように言語的な制約からして、啓示の差し向け相手はその真理を信じる者でなければならない。福音は人類すべてに差し向けられているが、「イエス・キリストの信」を介して神の義は知らしめられておりそれを信じることなしには神の義を知ることはない。
神の義は「業の律法を離れて」即ち分離されて、しかしイエス・キリストの信とは分離なきものとして啓示されている故に、神ご自身にとって、信の律法は業の律法より、より根源的である。これがみなもとの神の信である。業の律法とは離されて、信義の分離なき福音が啓示されている。それ故に、神はその否定的な前提の含意として業の律法のもとでは「すべての者が罪を犯した」そして自らの栄光を授けるに足らないと認識しておられる。
従来ヒエロニムスのnon enim est distinctio(「というのも区別はないからである」)以来この箇所は信じる者のあいだに何ら区別や差異がないと翻訳されてきた。しかし、続く「なぜなら」という理由文が明らかにしているように、その長い一文(23-26節)は「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに「分離はない」ことを説明している。「ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機」さらには「ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」とあるように、信義の分離のなさが報告されている。
かくして、明らかにこれまでの翻訳は誤りだったと言わねばならない。ここではひとの信仰という心的状態に区別や差異がないかが問われてはいない。もし神が例えば聖フランシスとヒトラーの信仰に差異を見ないとしたらそのような神は不義であろう。実際、罪に程度と差異のあることが報告されている。「死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配した」。ここでは神ご自身の認識として神はナザレのイエスの信の生涯を嘉みし、イエス・キリストの信として神・人において生起した信を介してご自身の義を知らしめたが、その信義に分離がないと理解しておられることが報告されている。(Rom.3:22, Phil.1:25, 2Cor.10:15, Rom.14:1,15:1,3:22,3:21,3:23,3:25-26, 5:14).
18 無償の「贈りもの」としての罪から義への贖い
神は誰であれすべての人間をその罪に対する「キリスト・イエスにおける贖いを媒介にして」、「ご自身の恩恵により贈りものとして」「義を受け取る者たち」であると認識しておられる。全人類が業の律法のもとでは罪を犯したと看做され、全人類が御子の贖いによる義認の対象であると看做されている。
「その彼[イエス・キリスト]を神は、・・その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」。この差し出しが御子の贖いを介した「贈りもの」である。「[業の]律法は怒りを成し遂げる」ものであるが故に、神は信の律法のもとに御子を義認への「贈りもの」として差し出すことにより、ご自身に関して業の律法のもとに罪人を審判することから自らを解放できる、業の律法の行使を差し控えることができると認識しておられる。
「贖い」はその語句の意味をめぐって、常に問われてきた。アンセルムスは「信無き者」による反論を紹介する。彼らには「私たちがこの解放(liberationem)を「贖い・買い戻し(redemptionem)」と呼ぶことを不思議に」思えている。彼らはキリストが「罪と神の怒りと地獄と悪魔の力からわれらを贖った(redemit(to buy back, redeem))」ことに反論し、神が苦しむことを望み、「最後にはその血で贖うほか」救いえなかったと信じることを「狂気の沙汰(quasi fatuam)」とする。神学的負荷のない或いはそれ以前の意味論的分析によれば、神による啓示の神の前の言語網が二種類分節されるため、その一つである業の律法からもう一つである信の律法のもとに移行させることが神による贖いの行為である。神が業の律法の行使を控えることにより業の律法のもとにある者をそこから解放し、キリスト・イエスにおいて新に打ち立てられた信の律法のもとに移行させることである。移行させられた者は同時に神に嘉みされる信を自らの責任において持ったことであろう。これは歴史のなかに啓示された贈りものであり、この語は業の律法を前提にするがそれとは分離され、信の律法の言語網のなかに位置づけられる。
贖いの無償性、贈りもの性とは、エルゴン(働き)上「キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした」ということに他ならない。ただしこの「ガラテア書」における「われら」は「ローマ書」では三人称「信じる者すべて」に一般化されている。それは聖霊の媒介の働き(エルゴン)を括弧にいれ「知恵の説得的議論」としてロゴス(理論)上一般的に論じるためである。個々人の誰が神にそう看做されているかは知らされていない。パウロによる「ローマ書」における神の義の第二論証としてのこの啓示の報告は聖霊の媒介を前提にせずにも理解できるように展開されている。ナザレのイエスは信に基づく義を成就したと神に看做されることにより、ひとを罪から義に贖いだす、ないし移行させるものとして、神はもはやひとに業に基づく義を求めることなく、信に基づく義だけを求めることができると看做しておられる。その信の律法においては神が御子において信であったときに、それに対して裏切るのかそれとも信により対応するのかが問われ、ただ信だけが求められている。
「イエスの信に基づく者を義とする」義認は神の専決行為である。神は「イエスの信に基づく者」に贈りものとして義を付与するが、人類「すべての者」にその贈りものは既に差し出されている。歴史のなかで神は御子の信を介して彼の血におけるご自身の「現臨の座」として御子を差し出したからである。神は既に御子を差し出しておりそして御子の信に基づく者を義とすることを知らしめている。神の義の知らしめは「信じる者すべて」即ち神がその信仰を嘉みする者に対して遂行されている。これは信じなければ知ることはできないという認識論的な制約、さらには概念の理解として「水」の理解が「泳ぎ」の理解に先行するように、「信」は「知識」の概念理解に先行するそのような言語的制約からくるものである。
人類すべてに贖罪を提示していることと、それを人類すべてが知り受け入れ和解するということは同じことではない。神はご自身がその信仰を嘉みする者に知らしめている。神の側から言えば、誰が義人であるかは予め定められており、知られており、その者たちに知らしめている。啓示の報告の含意として、信じる者すべてはイエス・キリストの信を媒介にして神が義であることを知っている。今・ここに肉の弱さにおいてある生身の人間はこの神の前の事実に習熟する必要がある。
神は福音の啓示の否定的前提である過去時制(「罪を犯した」)と全称量化(「すべての者」) において、今や罪を犯した者たちはすべてが「義を受け取る者たち」へと過去から現在に変換すべく表現されていると認識しておられる。神は過去表現により罪人が福音との関連にある限り過ぎ去ってしまったと認識しておられる。この変換表現により、業の律法が福音との関連で新たに理解されると認識しておられる。業の律法にはひとをして罪を知らしめ、福音に追いやる働きが与えられる。
パウロは信仰義認を業の律法とは異なる次元或いは神ご自身にとりより根源的な意志であるとして神の憐れみに帰属させる。「働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、その者の信仰が義と認定される」。福音の啓示の故に業の律法のもとに生きてきたすべての罪人に信に立ち返るように呼びかけることができる。ひとが神の権能ある選びに対してなしうる準備は福音の信に固着することだけである。自らがその選びにあることを信じることはどこまでも実質的である。なぜなら三人称で表現されている「信じる者すべて」に個々人の誰が含まれ、義とされているかをめぐって、自らが含まれているかどうかは神の意志がイエス・キリストにおいて明白には啓示されたほどには個々人の誰にも知らされていないからである。この移行が福音において啓示されており、個々人の誰がそのように移行されたかは個々人の信にゆだねられており、この仲介者の信を媒介することはひとの企てとして必須となる。
贖罪をめぐるこの意味論的分析から導かれることがらのうえにその神学的理解は展開されねばならない。イエスは十字架に至るまで信の従順を貫き人間の偽りにより死刑に処せられたが、イエスはその処刑を自らを磔る罪人たちの代わりにそして彼らのために受忍した。神はイエスが何ら罪なき者でありながら人類の身代わりの死を遂行したことを嘉みした。身代わりにおいてパウロによればもはや神は各人の背きを「彼ら自身において考慮することなしに」、キリストにおいて考慮することによって、「神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為したまうた」。ここで神は無罪の御子に身代わりの罪を担わせたないし、御子が担うことを認可した。御子が人類の罪を身代わりの罪として被ったのである。神はそこでは当然御子は罪なきことを知っており、背負う罪は身代わりの罪であることを知っていたまう。パウロは命じる、「汝らは主イエス・キリストを着よ、そして欲望どもへの肉の計らいを為すな」。「着る」とは神の前に立つとき、われらがわれらをわれら自身において考慮することなしに、彼の義を着ている限り、つまりその信が嘉みされている限り、たとえ自らの内面が清められていなくとも、自らの業(わざ)の実力にかかわらず、神は罪と死に勝利したキリストの愛においてわれらを見給うということである。
業の律法の適用のもとでは「律法を行う者たちが義とされるであろう」。それ故にダビデのような姦淫者は救われない。パウロはダビデの詩を引用しつつ信の律法のもとにある者をこう特徴づける。「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものとみなされる。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される。ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みした。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。
キリストの身代わりによる贖罪を神学的に理解するべく用いられるパウロのテクストはこの「ローマ書」当該箇所のほかには「第二コリント書」5章、「ガラテア書」3章などがある。身代わりが「自らの背きを自らにおいて考慮しない」ことを可能にするその様式をめぐる詳しい神学的議論はこれまで「ローマ書」の意味論的分析において遂行された業の律法から信の律法への移行に基づきその枠のなかで第II部で展開する。 (Rom.3:23-24, 4:15,Anselmus, Cur Deus Homo, I6, I1, I6,Gal.3:13,1Cor.2:4, Rom.3:25-26,3:22,4,2,Cor.5:19,5:21,Rom.13:14,2:13, 4:4-8,2Cor.5:19,Anselmus, ibid. Praefatio).
春の講義宗教改革(6)―提題第9条「三人称」~15条「帰属の属格」
提題目次 77 theses: Table of contents
第I部 「ローマ書」3章21―31節の新提案が導く神の前と人の前の総合的開示―イエス・キリストの言葉と働きによる神の意志(福音と律法)と自然(肉)の媒介と秩序づけ Comprehensive manifestation of both ‘before God’ and ‘before Man’ led by the correct understanding of Romans 3:21-31 – Intercession and Ordering between God’s wills (Gospel and Law) and Nature (Flesh) by words and works of Jesus Christ—
1 神の栄光、創造と救済を介して Glory of God via creation and salvation.
2 福音 Gospel.
3 神の信 Faithfulness of God.
4 神の二種類の意志のもとに啓示されている神の義即ち「信の律法」と「業の律法」God’s righteousness i.e. ‘the law of faithfulness’ and ‘the law of works’ being revealed under God’s two kinds of will.
5 「神の怒り」の啓示とそのモデル The revelation of ‘God’s wrath’ and its model (in Exodus).
6 神の義の二つの啓示((A)神の信義と(B)神の怒り)の非対称性 Asymmetry between two revelations of God’s righteousness ((A)God’s faithful righteousness and (B) God’s wrath).
7 悔い改めによる「業の律法」から「信の律法」のもとへの移行 Transition by repentance from the law of works to the law of faithfulness.
8 神には二種類の律法の適用において偏りがない There is no respect of person in applying God’s two kinds of law to human beings.
9 啓示の差し向け相手の三人称による提示 Employing the third person pronoun on behalf of the person whom God’s revelation is addressed to.
10 神の怒りの啓示と神の前の責任 The revelation of God’s wrath and man’s responsibility before God.
11 良心と最後の審判 Conscience and the last judgment.
12 イエス・キリストを介した福音の啓示 The revelation of Gospel through Jesus Christ.
13 律法と預言の成就としての福音 Gospel as the fulfilment of Law and Prophecy.
14 三つの名称「イエス・キリスト」、「イエス」、「キリスト」Three names ‘Jesus Christ’, ‘Jesus’ and ‘Christ’.
15 「イエス・キリストの信」における帰属の属格 Genitive of belonging in ‘the faithfulness of Jesus Christ’.
9 啓示の差し向け相手の三人称による提示
永遠の相のもとにいます神の前では誰が義人であり罪人であるかは既に明白であるが、具体的に個々人の誰が義人か罪人(或いはより慎重には怒りを差し向ける人間の「不敬虔と不義」という魂の態勢に誰があるかということ)かに関しては、イエス・キリストとモーセの石板を介したほどには誰にも明確には知らされていないため括弧に入れられ、報告者パウロにより三人称により表現されている。そこでは「彼らは誰であれこのようなこと[17種類の悪行]を行う者たち」(前条)、「イエスの信に基づく者」(第6条)と三人称で指定される者たちである。この一般化により、われらにとっては不定なものとして提示される。これにより悪行への引き渡しとして啓示される神の怒りの相手は神の前の現実即ち神自身により罪人の人間認識のもとにある誰か、或いは悔い改めにより義と認められるに至る誰かを表現することができる。
そのことはパウロが神の怒りの啓示の差し向け相手としている、三人称による「男」や「女」にも適用される。「それ故に、神は彼らを恥ずべき情欲へと引き渡した。すなわち、彼らの女たちは自然の用を不自然なものに取り換えた。同様に、男たちも女との自然の用を捨てて互いに自らの欲のままに情欲に身を焦がした。男は男と恥ずべきことを行いそして自ら自分たちの逸脱に値する報いを受け取っている」。ここで三人称表現「男」と「女」により神が具体的に誰それを理解しているかは知らされてはいない。自ら自分が男であるとさらには自らの結婚が同性婚であると思っていても、生物学を究めていたまう神はそう看做していないかもしれない。神の人間認識はイエス・キリストを介した啓示、知らしめほどには、個々人の誰にも明確には知らされてはいない。ただし、男であれ女であれパウロによりこう警告されている。「しかも、汝らは、この好機を、すなわち汝らが現に眠りから目覚める時であると知っている。それ、今やわれらの救いは、われらが信じた時よりもより近くにあるのだから。夜は更けた、日の出は近づいた。だから、われらは闇の業を脱ぎ捨て、光の武具を身に付けよう。われらは、日中にあるように慎み深く歩もう、酒盛りと酩酊によってでも、乱交と放蕩によってでも、争いと嫉みによってでもない。むしろ、汝らは主イエス・キリストを着よ、そして欲望どもへの肉の計らいを為すな」。ひとはただ神の前の福音の啓示を自らのものとするよう招かれている(Rom.1:18,1:32,3:26,1:26-27,13:11-14).
10 神の怒りの啓示と神の前の責任
(B)「神の怒り」は「引き渡し」という仕方で啓示され知らしめられており、各人の責任が問われる。「神は、彼らにおいて彼ら自身の身体が辱められるべく、彼らの心の諸々の欲望における不潔へと引き渡した」。この啓示のもとでの神の前の人間においては、「神の知られるべきものごとは彼らに明らかである」として「弁解の余地がない」と報告されているが、今・ここに生きているという自覚のもとにある生身の人間は神については明確には知り得ないのだから弁解の余地があると考えることもあろう。しかし、神はそのようには考えていないということが報告されており、神が理解するその神の前で神の怒りにあてられている人間たちの振る舞いに生身の人間は習熟することが求められる。神は人間が考えるようには考えていないことが、ここで知らされている。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」。もちろん、神の前の二種類の人間たちとは人の前で今・ここに生きているわれわれの誰か以外の誰でもない。
神の前と人の前の構成員の総数は同じであり神の前と人の前の二段からなる円筒形で図解されよう。円筒形の上部は神の前を示し、中間時においては(A)義人と(B)神の怒りが向けられている行為の担い手にあらゆる人間が分節される。終わりの日には(A)義人と(B)罪人に最後の審判を介して二分される。円筒形の下部は中間時における人の前を示し、上部と同数の生身のあらゆる人間は「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる中立的な可能存在者である。(Rom.1:18,1:26,1:19-20, Isaiah,55:8-11,Rom.6:19,20).
11 良心と最後の審判
かくして、ひとは神と共なる共知としての「良心(sun-eidēsis)」の発動に習熟する必要がある。良心とは神に明らかなことがひとにも明らかなものとなる神との共同の知識が成立する心の座である。「われらは皆キリストの審判の座の前で明らかにされねばならない。それは各人が身体を介して為したことがらに応じて、各人が善きものであれ、悪しきものであれ受け取るためである。かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」。異邦人ならびに「アダムからモーセに至るまで」のユダヤ人をも含め、ひとの「良心」は「律法を持たずにも自らに対し律法」である。神の義の一つの顕れである神の怒りは律法に違反する者に対し勝手にせよという仕方で啓示されている、完全に引き渡されている限り良心は反応しないであろうが。というのも、罪との共知のもとでは、神の意志について盲目にされており、何ら良心の痛みを感じることなしに、罪の手下として悪を繁殖させるだけであろう。
律法が良心を目覚めさせる。律法という善が与えられたのは、「罪が善きものを介してわたしに死を成し遂げていることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」。ひとが悪行に身をそめているその瞬間には、自らが「死を成し遂げている」その自覚をもたないであろう。律法は罪の奴隷となり悪行に身を任せ死に向かっていることを知らしめる。律法による罪の暴きたてに呼応して、「内なる人間」が「叡知の律法」に即すことによって霊を伴う良心が発動し、葛藤が引き起こされる、そのような役割を業の律法と叡知の律法は担う。この葛藤を介して信の律法に移行するべく「福音」が宣教される。
葛藤の認知的側面は「良心の咎め([apo] suneidēseōs poneras=bad conscience)」と呼ばれ、キリストの身代わりの聖なる愛によって取去られる。「この方[キリスト]は罪人たちの代りに永続的に一つの献げものを捧げたまうたことによって、神の右の座に座したまうた。・・これらの赦しがあるところでは、もはや罪についての献げものはない。かくして、きょうだいたち、われらはイエスの血において聖所に入る認可を得ているので、その認可を彼はわれらに新しいそして生きた道として、ご自身の肉であるところの幕を介して、聖なるものとされた、そしてわれらは神の家の大祭司を得ているので、われらは良心の咎めから心を清められてしまっており、清浄な水によって身体を洗い清めつつ、信仰の確かさの十全性において、真実な心とともに近づきを得ていこう」。
最後の審判はこの「へブル書」に記されたそのような「わが福音」への神ご自身による考慮のもとに良心の発動とともに良心に訴えて遂行される。「彼らは誰であれ自らの心のなかに律法の業が書かれてあることを証明するが、それは自らの良心が共同の証人となり、そしてその間相互に自らの考量が告発しまた弁明しあうことによってであるが、それは、或る日、神がキリスト・イエスを介したわが福音に即してひとびとの隠れたことがらを審判するときである」。(Rom.2:15,5:13, 2Cor.5:10-11, Rom.2:14,7:13,7:22-23,1:2,Heb.10:12,18-22,Rom.2:15-16).
12 イエス・キリストを介した福音の啓示
福音における神の義はイエス・キリストを介して啓示されている。神の信義と義認の啓示の報告はこうである。(A)「しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、神の義は(f1)イエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである」。(Rom.3:21-26)
13 律法と預言の成就としての福音
この箇所は神ご自身による人間認識に基づくご自身の行為についてのパウロによる報告である。神はイエス・キリストの信を介したご自身の義の啓示が「律法と預言者たちにより証言」されているものであると認識しておられる。神はイエスの信の生涯が、アブラハムやモーセに約束したことがらの成就、さらにイザヤの神われらとともに(インマヌーエール)預言や苦難の僕の預言の成就であると認識しておられる。「神の言葉が失墜したというごときものではない。・・彼らはアブラハムの子孫であるが故に、彼ら皆がその子供であるのではない。むしろ「イサク[から生まれる者]において汝[アブラハム]の子孫と呼ばれるであろう」。すなわち、肉の子供たちが神の子供たちではなく、約束の子供たちが子孫と看做される」。「彼[モーセ]は何と言っているか、「言葉は汝の近くにある、汝の口のなかにそして汝の心のなかにある」、これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である」。
イザヤは預言する。「それ故、主ご自身が汝らに徴を与えられるであろう。見よ、処女が身ごもりそして息子を産むであろうそして汝は彼の名を「インマヌーエール」と呼ぶであろう」。
イザヤは苦難の僕を預言する。「主よ、誰がわれらの伝聞を信じましたか。また主の御腕は誰に啓示されましたか。われらはご自身の御前にその方を子供のごとき者、乾きたる土における根のごとき者として報告しました。彼には[見るべき]姿なく、また栄光もない。そして彼は[見るべき]姿をまた美しさをもたず、彼の姿は尊ばれずまたすべての者たちに見捨てられたことをわれらは見て知っている。彼は打たれ、傷あるひとであり、病を担っていることを[ご自身]知っている。というのも、彼の顔は背けられそして敬われることがなく、認められることがなかったからである。この方はわれらの罪を担い(pherei)そしてわれらのことで苦しめられており、われらもまた彼が苦しみ、神によって病のうちにありそして圧迫のうちにあると看做した。しかし、彼はわれらの罪の故に傷つけられたのでありそしてわれらの不法の故に病いを負わされたのであった。われらの平安の訓育(paideia eirēnēs hēmōn, cf. musar(ヘブライ語), discipline)が彼のうえにあり、われらはその傷によって癒された。
われらはみな羊の如くさ迷い、ひとはおのが道に迷い込んだ。そして主はわれらのそれらの罪に彼を引き渡された。そして彼は苦しめられていることの故に口を開くことはない。彼は屠り場に引かれた羊のごとくに、毛を切る者の前に黙す子羊のごとくに、彼は口を開かない。その辱めにおいて彼の咎めはもくろまれた。誰が彼の世代を述べ伝えることになろうか、彼の生命はこの地から取り去られ、わが民の不法の数々から死へとはこび去られたことを。「わたしは彼の埋葬の代わりに悪者たちを、そして彼の死の代わりに富者たちを与える。なぜなら彼は不法を為さなかったからである、彼の口に偽りは見いだされなかったからである」、そして主もまた彼を疫病から浄めることを望みたまう。もし汝らが罪に関して[自らを]捧げるなら、汝らの魂は長生きの子孫を見ることになるであろう。そして主はご自身の御手のなかで彼の魂のその苦しみを取り除くことを望みたまう、それは彼に光を示し、そして理解を形成し、多くの者に良く仕えた正しき方を義とするためである。そして彼が彼らの罪を担うであろう(anoisei)。このことの故に、彼は多くの者たちを獲得するであろう、そして強者たちの戦利品を分配するであろう。彼の魂は彼らに抗して死に引き渡されたそして不法の者のうちに数えられた、そして彼自身多くの者たちの罪を担った(anēnegke)そして彼は彼らの不法の故に引き渡されたのであった」 (Rom.3:21,9:6-9,10:8, Isaiah.7:14,53:1-12)。
14 三つの名称「イエス・キリスト」、「イエス」、「キリスト」
パウロにおいては「イエス・キリスト」という執り成す媒介者への表現は「イエス」や「キリスト」と異なり媒介の前置詞「介して」、「における」、「基づいて」を伴い、行為主体として動詞を伴う主文の主語に立てられない。というのも、パウロは同時に神の子でもひとの子でもある存在者に一つの行為を帰属させることができないと判断したからである。「われらの主イエス・キリスト」は「肉に即して」ダビデの末裔であり全く人間であるが、他方、「聖性の霊に即して」死人の復活により「神の御子と判別された」神の子でもある(第2条)。
ただし「イエス・キリストは主である」と同一性言明の主語となることがある。「主」はわれらがその所有物であるところの主人を意味する。「生きるにしても死ぬるにしても、われらは主のものである」。この職名ないし尊称を伴った固有名には無時間的な同一性言明「ある」および時間的な出来事の主体として「なる」が語られるが、行為「する」が決して語られることのない存在者神・人を指示する。神でもひとでもある存在者には一つの行為は帰属させられない。さらに神はイエス・キリストに帰属した知恵、義、聖そして贖いにおいてご自身が嘉みする者の知恵、義、聖そして贖いであると看做しておられる。「汝らは[神]ご自身に基づき、キリスト・イエスにおいてある、その方は神からのわれらにおける知恵、義、聖そして贖いとなられた」(なお、「キリスト・イエス」という語順の変更は母音の連続を避けるなど発声上の便宜による)。
他方、「イエス」は行為主体として用いられる。「イエスの信」において、イエスは神の言葉に信実であったという、彼の根源的な心的行為ないし態勢を語っている。「イエスの信に基づく者」は「アブラハムの信に基づく者」と同じ語句の構成であるが、アブラハムへの信仰が想定されないように、ナザレのイエスはひととして「神の言葉が信任された」民族の一員として神の約束の言葉に自らの信により応答した。イエスは自ら神からの職務としてメシア(受膏者)・キリストであるという自覚のもとに十字架の死に至るまで従順を貫き罪なき者であったために、父なる神が専決行為として復活を与えたことを介して、神の子であることが判別された。
「キリスト」においては、「キリストは神の右にある方であり、またわれらのために執り成したまう」と媒介行為の主体である。かくして「イエス・キリスト」はそのような神・人を指示している。神・人を表現するこの固有名において神とひとの肯定的媒介となったことが表現されている。(Rom.3:21,8:34,10:9, 1:2,1Cor.1:30,Rom.3:26,4:16,3:2,8:34).
15 「イエス・キリストの信」における帰属の属格
「イエス・キリストの信」における「の」は神の子でもひとの子でもある媒介者に帰属した神の信とそれに対応するひとの信を表現する帰属の属格である。この信は神の信とひとりのひとナザレのイエスの信により構成されている。業の律法より根源的な神の義が歴史のなかで啓示されたさい、その啓示はイエス・キリストに生起した「信」を媒介にして遂行されている。これがあらゆる信にとってのみなもとの信である。(f1)「イエス・キリストの信」における「の」は出来事の範疇における帰属の属格として理解される。啓示行為は父なる神の専決行為であり、二人の啓示行為主体は想定されないため、また「イエス・キリスト」は行為主体として用いられないため(前条)、主格的属格(イ・キの=~が持つ)の読みは否定される。またひと各人が自らの心的状態として持つ(f2)信仰は神の義の啓示の媒介となることはありえないため、目的的属格(イ・キの=~への)の読みは否定される。
(ただし「ガラテア書」の一文「われらの父なる神とわれらの罪のためにご自身をお与えになられた主イエス・キリストから、汝らに恩恵と平安があるように」において、分詞構文「与えた」が「主イエス・キリスト」の行為として用いられるが、祈願文のなかの従属的な位置にあることさらに「父なる神」とセットの表現であることが考慮されねばならない。この議論の流れを考慮した節約的な短縮文のなかで、主文は祈願文であり、双方「から」の平安が祈られており、単独の主文の主語として「イエス・キリスト」が行為主体としては用いられているわけではない)。(Rom.3:22,Gal.1:3-4).
春の講義宗教改革(5)―提題第1条「神の栄光」~第8条「神に偏りがない」
新しい宗教改革
第I部 神の前と人の前の総合的開示―イエス・キリストの言葉と働きによる神の意志(福音と律法)と心魂(「肉」と「内なる人間」)の媒介と秩序づけ
パウロの神学の中心的主張「ローマ書」3章21節から31節がこれまでの誤訳を乗り越え、正しく理解されるとき、二つの神の意志である福音と律法そしてそれを受け止める心魂の関係は神の前の無矛盾性とひとの前の相対的自律性が整合的な仕方で展開されていることが理解できる。そこでは、ナザレのイエスの十字架にいたる信の従順と復活に基づく聖霊の派遣により神の前とひとの前は総合的に媒介され秩序づけられる。
提題1 神の栄光、創造と救済を介して
永遠の現在にいます神は、一方、この時空における運動を伴う「宇宙」、「万物」を「神の知恵」、「主の叡知」に即して創造された。神ご自身は神の前にいる者たちによりそれは知られていると看做していたまう。「永遠の力能そして神性は宇宙の創造から、被造物において叡知において知られ、見て取られている」。他方、ご自身の被造物への愛ならびに正しさはご自身の選びの民に対する約束への(f1)「神の信」に基づき、御子の受肉と受難および復活の歴史において最も明らかな仕方で人類に啓示された。「福音の真理」と呼ばれるこの御子の歴史への到来としての栄光ある神の啓示行為はどこまでもその理解が深まりうるそのようなものである。
この神の信は、ご自身が万物の主である限り、当然異邦人に対しても貫かれる。「第一に福音はすべての国々に宣ベ伝えられねばならない」。神の信に基づく福音は「真理の言葉」だからである。パウロは預言者たちを引いて確認する。「いや、むしろ、「その者たちの声は全地に響きわたった。そして彼らの言葉は世界の果てにまで[及んだ]」。しかし、イスラエルは知らなかったのではないかと、わたしは語っているのか。誰よりもまずモーセが語っている、「わたしは[わが]民でない者のことで汝らに嫉みを起こさせるであろう、悟りなき民のことで汝らに怒りを抱かせるであろう」。他方、イザヤは大胆でありそして語る、「わたしはわたしを探し求めない者たちに見いだされた、わたしを尋ね求めない者たちに顕れる者となった」」。
神ご自身の深遠なるご計画は人類の具体的な歴史のなかでひとの目には一見理解しがたい仕方でしかも揺ぎ無い仕方で遂行される。「ああ、神の知恵と認識の富の深さよ。ご自身の裁きはいかに究めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。すなわち、「誰か主の叡知を知っていたのか、それとも誰かご自身の顧問官になったのか、それとも誰かご自身に予め与えてそしてご自身から報いを受けるのであろうか」。なぜなら、あらゆるものはご自身からそしてご自身を介してそしてご自身に至るからである。栄光は永遠に[神]ご自身にあれ、アーメン」。
人類は全知にして全能な神の叡知を十全に知ることはできない。人類は終わりの日には、もし神に嘉みされるならば、罪とその支配である死の毀損からも解放され、神ご自身の生命のなかにあって神に賛美と栄光を帰するであろう。この地上のあらゆる血縁に基づく民族、血統、性、皮膚の色などの個々人の責任においてない与件は神の国に引き継がれることはない。「肉と血は神の国を継ぐことができない」。身体的な情としての自然な愛国心さえ山上の説教に即して乗り越えなければならない局面がでてこよう。「すべてのものがご自身に従ったときには、御子自身もまた、すべてのものを彼に従わせた方に従うであろう。それは、神ご自身がすべてにおいてすべてとなりたまうためである」。(Rom.1:20,Gal.2:5,Col.1:5,Rom. 11:36,11:33,11:34, 1:19,3:3,Mak.13:10, Rom.10:18-20,Ps.19:4[LXX 18:5],Dt.32:21,Is.65:1,Rom.11:33-36,Is.40:13,1Cor.15:50,28).
2 福音
この啓示は「福音(良き報せ/good news)」と呼ばれる。この良き報せは「真理の言葉」であり「福音の真理」を指示する。福音とは神がその信・信仰を嘉みするすべての者に「救いをもたらす神の力能」である(第24条)。「その福音は聖なる書にご自身の預言者たちを介してはるか以前に約束されたものであり、肉に即してダビデの種子に基づき生まれた、聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかからの甦りに基づき神の御子と判別された御子ご自身、われらの主イエス・キリストについてのものである」。
イエス・キリストの福音において神が義でありご自身がその信・信仰を嘉みする者を義とすることが啓示されている。「神の義は彼[イエス・キリスト]において[神の]信に基づき信に対して啓示されている」。この神の義の啓示、隠されていたものの覆いを取る知らしめにおける神の信とひとの信の対応は、一般的にも、誰かを疑っている者はその疑われている当人が信実であることを知りえないことと類比的であり、信に対しては信による応答がふさわしい。(2Cor.6:7,Col.1:5,Gal.2:5,Rom.1:2, 1:16, 1:2-4,1:17).
3 神の信
福音において啓示された神ご自身の知性の認知的十全性ならびに憐みや正義という人格的な十全性は選びの民を介して人類への「神の信」に基づいており、この神の信に対応するひとの信が神の信義そして神の愛に対する認識に至らせる。神の信はひとの信・信仰のみなもとにあるみなもとの信であり、この信に基づき他の正しい信・信仰は位置づけられ特徴づけられる。神の信が「イエス・キリストの信」を構成しまたひとの正しい信・信仰を特徴づけそして支える。福音への帰還とはこの神の信に立ち返ることである。福音とは神の信義がイエス・キリストにおいて分離なき仕方で明確に啓示されたものごとのことである。たとえひとが不信により背き偽りであったとしても、神の信は揺るがず、神の言葉は真実である。「それではユダヤ人の優っているところは何かあるのか、あるいは割礼者の利益は何かあるのか。あらゆる点で大いにある。第一に、神の言葉が彼らに信任されたことである。ではどうか、もし誰かが不信仰であったなら、その者たちの不信仰が神の信を無効にするのではないだろうか。断じて然らず。神は真実であるとせよ、すべての人間は偽りであるとせよ。まさにこう書いてある、「汝が汝の言葉において義とされるように、そして汝が審判されることにおいて勝利するように」」。 (Rom.3:3,3:22,3:1-4).
4 神の二種類の意志のもとに啓示されている神の義即ち「信の律法」と「業の律法」
神ご自身による人間認識に基づく二種類の意志はユダヤ人の歴史の展開のなかで神の義として(B)「業の律法」(「モ-セ律法」)および(A)「信の律法」(「キリストの律法」)の名のもとにそれぞれモーセの「石板」を介しておよび「イエス・キリストの信」を介して啓示されている。そして業の律法は福音の啓示に方向づけられている。「キリストが信じるすべての者にとって義に至る律法の目指すもの[ゴール]である」。福音が啓示された限りにおいて神の意志として、業の律法はより少なく根源的であることが知られる。神の信義に分離なき恩恵の啓示のほうが「~するべからず」「~するべし」というひとの為すべき業の律法の啓示より、より根源的だからである。そこでのみ、各人の信仰は律法主義に絡め取られることはない。そこでは誇りが排除されているからである。「どこに誇りはあるか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である」。この信の律法に基づく正義を「人格的正義」と呼び、業の律法に基づく正義を「司法的正義」と呼ぶ。(Rom.3:27,3:20,1Cor.9:9,Gal.6:2,2Cor.3:7, Rom.10:4,3:27).
5 「神の怒り」の啓示とそのモデル
「[業の]律法は怒りを成し遂げる」とあるように、「神の怒り」の規準は「業の律法」、モーセの十戒を介して明確に啓示されたとパウロにより報告されている。「ローマ書」1章の議論の展開としてまず「神の義」は福音において啓示されていることが提示され(第2条)、その神が義であることの第一の理由が神の怒りにあると報告されている。(B)「なぜなら神の怒りは天から不義のうちに真理をはばむ人間たちのすべての不敬虔と不義のうえに啓示されているからである[現在形]」。神の怒りは今・ここで真理をはばむと神に看做されている人間たちの裁量のもとにある不敬虔と不義という心魂の態勢のうえに、即ち心魂の或る在り方のうえに、「引き渡し」、勝手にしろという仕方で啓示されている。そして彼の議論のなかではその怒りは福音に立ち帰らしめるものとして位置づけられる。
現在啓示されている神の怒りの理由をパウロは神ご自身が「なぜなら、神が彼らのただなかで明らかにしたからである」と過去時制により報告している。この時制は暗くされた悟りなき心が偶像崇拝に陥ったことそして三度現れる「引き渡した」の過去用法とともに一つの出来事を念頭においている。神の怒りの歴史のなかでの一つの啓示行為が現在の怒りの啓示の保証ないしモデルになっていると考えられる。パウロはこの過去形表現により、神がモーセに十戒を提示された時、出エジプトの民がそのモーセの不在のあいだに偶像崇拝等に陥った具体的な事実を表し、ひとが神の意志を知りまた知りうることの一つの証拠として提示している。実際、この引用箇所における過去時制表現、例えば「神は引き渡した」、「彼らは損得勘定において空しきものとなった」、「彼らは……愚かな者となった」は「神の怒り」とともに、聖書中、出エジプトの民の偶像崇拝事件の論述にそのまま見出される。パウロが用いた七十人訳には「(神の)怒り」というギリシャ語語句と共に出エジプトの一連の当該個所において見出すことができる。これらはすべてアロンのもとで金の子牛を鋳て偶像を拝んだ出エジプトの民の記事に符合し、神は偶像崇拝についての律法に即し怒りを示して、レビ人を介し一日に三千人を倒したことが報告されている。なお、業の律法の啓示以前においてまた異邦人においては良心が業の律法のもとにあることを示す(第11条)。(Rom. 4:15,1:18,1:26, 1:19, (「引き渡した」:Rom.1:24, 26,28=Ex. 1:13: 「怒り」:Rom.1:18=Ex. 32:10-13, 「空しき者となった」Rom. 1:21=Jer.2:5, 「愚かな者となった」Rom. 1:22=Jer.10:14).
6 神の義の二つの啓示((A)神の信義と(B)神の怒り)の非対称性
(B)「神の怒り」の啓示の報告の結論として「業の律法に基づくすべての肉はご自身の前で義とされることはないであろう[未来形]」と終わりの日に罪人として審判されるに至ることがこの啓示の含意として導出されている。ただし、この未来形表現により、当人が悔い改めた場合には事情が異なることもあろうことが含意されている。悔い改めとは業の律法のもとから信の律法のもとに移行することである。そこでは義とされないことが知らされている神の意志に背くことからそこでは義とされる神の意志に服することである。
神の義の第一論証であるこの怒りと業の律法のもとにある者の不義の結論に続き、第二論証が展開される。(A)神の信義の啓示が報告される。(A)「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている[現在完了形]。・・神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義である」。(A)義人はいかなる者であるかに関して、「神はイエスの信に基づく者を義とする[現在分詞形]」により啓示内容として一般的に知らされている。さらに、信の律法のもとにあり(A)「イエスの信に基づく者」と看做される者についてはアブラハムによる先駆的事例がある。「アブラハムにその信仰が義と認定された」。「アブラハムの信に基づく者」に関しても同様である。なおイエスご自身は正しい信仰を「幼子」の如き信仰と表現することがある。「まことに汝らに告げる、幼子のように神の国を受け入れない者はそこに入ることはないであろう」。
かくして、今・ここで二種類の神の義が啓示されているが、一方は神の怒りであり他方は神ご自身の信義ならびにイエスの信に基づく者の義認である。神の怒りは直接には罪人の最終的審判ではなく、ここに啓示行為内容の非対称性が見られる。怒りから逃れるべく悔い改めの余地が残されているからである。他方、義認が今ここで生起している者については神の認識の変更(人間的に言えば)は想定されていない。(Rom. 3:20,3:22-26,3:27, 4:3,4:16,Mac.10:15).
7 悔い改めによる業の律法から信の律法のもとへの移行
この二種類の神の義の啓示を介して、信の律法のもとに生きる以外に義とされる道のないことが知らされている。「信に基づかないものごとはすべて罪である」。業の律法に基づくと神に看做される者は終わりの日にその業に応じて報いを受けるが、そこでは誰も義と看做されることはないであろうからである(前条)。
かくして、ひとは悔い改めにより怒りを逃れて信の律法のもとで罪の赦しの義認に向かうことができるだけである。「ひとよ、汝は神の裁きを逃れると思うのか。それとも汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか。汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しい裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」」。
パウロは「ガラテア書」において自らの自覚としてこの業の律法から信の律法への移行を罪の値である死からキリストにおける生への移行として語る。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」。(Rom.15:23,2:3-6,Gal.2:19-20,Rom.8:2).
8 神には二つの律法の適用において偏りがない
「神には偏り見ることはない」。なぜなら、一方、神は業の律法のもとに生きる者には業の律法を適用し、そこでは「すべての律法を為す義務がある」こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」からである。他方、信の律法のもとに生きようとする者、「神の善性」に留まろうとする者には「イエスの信に基づいている」かにより審判を遂行するからである。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とあるのは、前者が信の律法のもとに、後者が業の律法のもとに生きたことが想定されているからである、ただしエサウがその後悔い改める可能性は否定されていない。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」。神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は「叡知の機能不全」の故に神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできない。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した」。「彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではなく、行う者たちを是認さえしている」。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるであろう。まさに「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」。(Rom.2:11,Gal.5:3,Rom.2:13,2:6, 11:22,3:26,9:13,11;22, 1:28,1:32,11:22,2:4, Ps.18:26).
春の講義宗教改革(4)―「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
宗教改革「みなもとの信&信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―
モットー「みなもとの信と信のみなもと:イエス・キリスト或いは神の知恵と信」
目次
序文
1. 福音への帰還―イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生―
1.1山上の説教における道徳、自然そして天の父
1.2 古い革袋を破る新しい生命の福音
2.山上の説教の神学的展開―信に基づく正義と憐みの成就―
2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―
2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性
2:3人類をその罪と苦難から救済に導く福音
3.21世紀の宗教改革の核心―「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学―
3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
3:2.新しい宗教改革に至る唯一の道―ロゴスとエルゴンの総合―
77箇条
3「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学:21世紀の宗教改革「みなもとの信」の核心
3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
使徒パウロはナザレのイエスの生涯が打ち立てた信に基づく義とその義に基づく業の律法の成就を「ローマ書」において、能う限りの明晰性をもって、言語と心魂そしてものごと(その理およびその働き)という三者の関わりとして哲学的に分析することを許容する仕方で神学的に論じた。神の前と人の前の理論上の分離に基づき、パウロは「わたしは汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)とし、神の前を括弧に入れたひとの相対的自律性を譲歩として認め、単に心情倫理と責任倫理の区別、さらには制度化の許容ということではなく、神の前と人の前の創造から救済にいたる総合的秩序づけを企てている。神の子にしてひとの子の啓示に基づき、先に見た肉の弱さの考慮のもとでの責任倫理をもカヴァーしながらも、「一つのこと[イエス・キリストの出来事]を思慮する」(Phil.2:1-2)集中のもとに人間と世界を包摂する。山上の説教は相対的自律性の許容により希釈されたのではなく、道徳次元を内側から突破するヴィジョンのもとに他の一切を秩序づけつつ語るイエスそのひとにより生き抜かれたのである。彼ご自身は肉の弱さをその都度克服されたのである。信の律法に基づく業の律法の秩序づけはパウロにより神の二つの意志の啓示として報告され、人の前の相対的自律性を「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の啓示の出来事に秩序づけている。
このたび、人類による二千年の探究の蓄積のもとに信の哲学の研究を通じて、パウロによるキリストの受肉と受難と復活および来るべき再臨による人類救済の議論が神の選びの教説とともに無矛盾であることが明らかとなった。今日までのパウロの神学をめぐる論争は、彼の神学理論の中心的な主張を形成する「ローマ書」3章21節から31節のとりわけ22節(ū gar estin diastolē)のヒエロニムスによるVulgata版(二世紀以降の古ラテン語訳の四世紀後半における彼自身の言葉では「編集」)の訳に起因するものであることが明らかとなった(第12、17条)。そこでパウロは神の前のことがらを報告しており、その報告の内容は神ご自身がご自身の義の啓示の媒介としてイエス・キリストに帰属した信を用いられたこと、そしてその信とご自身の義の知らしめにおいて分離がないこと、即ちその信義の分離のなさにおいてご自身にとって根源的な義が信に基づくものであることを明らかにしておられることである。パウロは明確に神ご自身の認識をそれ自身として報告するとともに、そのわれらの外の啓示と人の前すなわちわれらのうちの信との関係の総合的な理解を展開したのであった。従来神の前と人の前の分節と総合が不明瞭であったために多くの混乱が生じたと思われる。
カトリック教会とプロテスタント教会相互のまたそれぞれ内部における二千年にわたる論争に思いをはせるとき、真剣で誠実なひとびとがそのテクストをめぐって長く争わざるをえなかった事実は、そのもとのテクストの最初の基礎的な翻訳に何らか誤解を生じさせるものが含まれていたと理解するよう促す。原語diastolē(最大希英辞書LSJではdrawing asunder (「双方に引いて分ける」)やseparationがdistinctionより前に挙げられる)の当該箇所のVulgata訳は non enim est distinctio「なぜなら区別がないからである」である。しかし、それ以降調査の限りすべての翻訳において、これがその理由文であるところの前文「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている」における「信じる者すべて」のあいだに「区別」や「差異」はないと理解されてきた。神の義が啓示されたことの理由が信じる者たちの心的態勢に例えば聖フランシスとヒトラーの信仰に区別や差異がないということはいかにも不可思議である(第17条)。人類への愛の故に啓示されるというのであれば、より分かるが5章まで愛の議論は封印されており、信ひとすじで突破が図られている。実はひとの心的状態としての信仰に区別や差異がないということではなく、「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに神の前のことがらとして「分離(separatio)はない」と訳されねばならなかったのである。神ご自身にとって信義はモーセの業の律法に基づく義より一層根源的であることを示している。業の律法に即して「すべての者が罪を犯した」と否定的に認識されているのであり、神の信義の啓示という肯定的なものごとは「イエス・キリストの信」を介してなされ、神の義とその信のあいだに分離がないからこそ、「業の律法を離れて」しかもより根底的な神の義として啓示されたのである。これが明示されていれば、今日までのこれほどの混乱はなかったことであろう。3章21節から31節の正しい翻訳は以下のもののようになると思われる。
「[21]しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、神の義は(f1)イエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。
[27]それでは、どこに誇りはあるのか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31)。
この福音は「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)つまり神の義はモーセ律法とは分離されうるものであり、しかも「信の律法」(3:27)とは分離なきものとして啓示されたために、神ご自身にとって福音即ち信の律法のほうが業の律法よりご自身の義との関連においてより根源的である。神においてそうであるなら、ひとにとっても神ご自身が信義であることが啓示されたとき、信によって応答することのほうが、「汝~すべからず」、「汝~すべし」の命令のもとでの業の遂行よりも心魂の態勢、行為として根源的であることが含意される。
この誤訳が正されるとき、神の前と人の前の分節と媒介が明確となりまた神の二つの意志「業の律法」と「信の律法」の分節と媒介がさらには「信にもとづく義」と「その義の果実」の分節と媒介が明確になる。もちろんその媒介者はイエス・キリストである。その分節と媒介そして関係づけの故に、これまでの多くの論争に解決が与えられると思われる。そこでは無償の憐みと正義の両立が解明され、例えば福音と律法、信仰と愛、恩恵と自由、選びの教説と各自の責任ある自由の関係をめぐる論争について決着がつけられ提題で明らかにしていく。また贖罪論をめぐり父と御子の協働説か業の律法の枠のなかでの父と御子は審判者と被審判者の関係にある代罰説かの論争についても終止符を打つことができる。新しい葡萄酒を新しい革袋にいれる、そのような旧約から新約への展開を確認することができる。この解明はカトリック教会とプロテスタント教会双方がそれぞれ真理契機を担っているものとして、双方にそれぞれの特徴に応じて固有の場を提示し相互の和解をもたらし、ひとの心魂の再生と人類の平和の基盤になると信じる。
この修正を介して人類の混乱の歴史が改善されるべくここに一つの宗教改革運動「信のみなもと&みなもとの信」を起こす。そのモットーはfons fidei (pēgē pisteōs) et fides fontis (pistis pēgēs)-Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei(信のみなもととみなもとの信―イエス・キリストまたは神の知恵と信―)である。これは二千年にわたり神の前の出来事を純化、析出しきれなかった所謂「福音」それ自身が遂にかつて啓示されたその源(みなもと)の様式に帰還することであり、またわれら自身がその福音に帰還することである。福音それ自身が帰れや!と呼びかけており、それに呼応しこの運動に参加する者たちがこの情報化時代かつてより遥かに狭くなった世界中の隣人に、福音に帰れや!と呼びかける。この新たな宗教改革は聖書の中心的使信が正しく理解されたとき、その古くて新しい言葉がどれだけ歴史を変革する力能を持つものなのか、インクの染みの誤った形姿が人類の血の染みに変わってしまったが、それが (distinctioからseparatioへ)正されるとき、歴史はどう変革されうるのかをめぐる挑戦である。かくして、ここに、御子ご自身が栄光を棄て死に至るまで低くされて打ち立てられた福音に基づき、パウロによる福音の理論が無矛盾であることを世界に知悉せしめるべく基本的な提題を77箇条挙示する。
これらの提題はもちろんあらゆる神学的、聖書学的問いに応答するものではない。「ローマ書」の当該箇所が修正された場合に核心から波及される理解の限定された展開以上のものではない。しかし、パウロ神学の中心的な箇所の修正であるだけに、波及は重要かつ深遠であるに相違ない。それは信のみなもと即ちみなもとの信に帰るとき、ひとの心魂はどれほどの変革を蒙り心魂の刷新に導かれるかの挑戦であり、人類誰もが種として同じ心魂を持つ限り、心魂の新創造の根拠の解明は新しい宗教改革を起こすに値すると信じる。
3:2.21世紀の宗教改革に至る唯一の道―ロゴスとエルゴンの総合―
この改革運動は単に認知的な混乱の除去に留まるものではない。神ご自身の福音の啓示行為とその関係項(その信が神に嘉みされる「信じる者すべて」をも含む)を「神の前の自己完結性」(A)(B)として理論(ロゴス)上析出することができたとしても、ひとは「肉の弱さ」(Rom.6:19)の故に神の前にあることを自覚困難な者として譲歩され「相対的自律性」(C)のもとに今・ここの生を実践(エルゴン)上紡いでいる。ロゴスとエルゴンが相互に証しあうことが求められる。パウロは「ローマ書」における福音宣教を明確な方法的自覚のもとに遂行している。「わたしは、神に向かうことがらに関して、キリス ト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、神の霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:18)。パウロは、彼自身の一般的な道理ある議論とその理に基づく働きはキリスト御自身のロゴスとエルゴンである、という自覚のもとにある。パウロによるキリストが自らのうちで働いていたまうという自覚は、パウロ自らひとの肉の弱さへの譲歩の故に信じる者にも信じない者にも理解できる共約的な地平で議論することと矛盾しない。福音の啓示の故に、われらの生は秩序のもとにある。
ロゴスとエルゴンは伝統的に対で用いられ、福音書にも多く見られる。「この方[ナザレのイエス]はロゴスとエルゴンにおいて神の前でそしてすべての民の前で力ある預言者となられた」(Luk.24:19)。そのなかで相補性の最も明確な理解は、ロゴスは普遍的な命題ないしそれにより表現される非感覚的な一なる理(ことわり)のことであり、それがエルゴンに何らか内在する限り、今・ここの働きは秩序を持つということ、そしてその働きは何らかそれ自身可視的ではないロゴスを可視化するというものである。ロゴスとエルゴンの一般的な解明は哲学の中心的な課題であるので、その解明は哲学に託される。
ロゴスとエルゴン双方の相互の補いあいが必要なことは、人間の知的な営みに普遍的な事象であり、例えば算数の学習で時速4キロだとして二時間で何キロ歩くか(4x2=8)の問いに戸惑い、「だって疲れちゃうもん」という小学生の適切な応答に正しく見いだされる。普遍化、普遍的な説明言表・ロゴスの解明においては個体の個別事情が考慮されないという宿命を抱える。国民生活等の統計的理解は数字の背後にある生身の個々の生を往々にして見逃してしまう。そうであるからこそ適切な理論が展開されるなら、それは何であれそのロゴスとエルゴンは相互に支えあうことが求められる。大陸合理論と経験論は総合されねばならない。理想的には非感覚的な形相(ロゴス)が質料に内在し、それが秩序ある働きをうみだすそのような理論が展開されるように、ロゴスがそのつどエルゴンに内在し、秩序を与えることであり、エルゴンはロゴスを可視化し、ロゴスの正しさを確認させ、保証することである。
「哲学は澄明さとその堅固さによって驚くべき喜びを持つ」(アリストテレスNic.Eth.X5)。思考の明晰性と確かさは存在と思考をめぐる最も確実な原理である矛盾律により支えられ、そのもとに壊れないセンテンスが積み重ねられていく。理性の真理の源は、経験にその確かさを依拠しない矛盾律であると言うことができる。他方、ひとは理性の真理を十全に保持する賢者(sage)に至る認知的な態勢だけではなく、身体に発するパトス(感情、欲求等)を持ち今・ここで隣人を愛するそのような聖者(saint)に至る人格的態勢のもとにある。認知的卓越性とともに人格的卓越性が問われ、「パトスに対し良い態勢」(Nic.Eth.II5)にある者が人格的有徳者である。それらの統一理論は認知的な次元により成功した視点から「いかに生きるべきか」という人生の基本的な問いのもとに個々の行為の選択において最善のものを認識しまたいかに犠牲を支払おうとも、その最善な行為を喜んで欲求し遂行するそのような高邁な人間を捉えるであろう。「ロゴスの真理はエルゴンにより信用される」(Nic.Eth.X1)。
神は認知的、人格的に十全であり、「神の信」に基づき正義にして憐れみ深い(Rom.3:3)。神が正義にして憐れみ深いことが御子の受肉と信の従順の生を介して、歴史のなかでしかもわれらの心魂の外に、神の信義および愛として啓示された。それにより、人類に救いが到来した。このわれらの外に救いが固く立っている、それだけで、或るひとにはもう満足であり、おのれにかかずりあう肉の重さ、おのれの救いや有徳性へのこだわりましてや過去の罪からも解放され、ただ外にある救いを喜ぶことであろう。ダビデのような「不敬虔な者を義とする方」(Rom.4:5)はご自身の業の律法のもとでは「働きがなく」罪人と看做される者を福音のもとで信に基づき義とする、つまり古きひとの罪を赦すその出来事をわれらの外で十字架と復活のうえで実現したまうた。モーセの業の律法がイエス・キリストの信の律法により凌駕された。そのわれらの外にある(extra nos)救いの喜びはわれらのうちにおける(in nobis)パトスの発動である。聖霊受領のひとつの証はおのれを離れて隣人を愛しえることにあるとされる(第?条)。確かに肉の重さから解放され、右手で為す良き業を左手に知らせない仕方で遂行されるとき、ひとはそこに神の力能の働きに思いあたるであろう、心のふと軽くなるのを感じ喜びを見出すことであろう。
パウロが「キリスト・イエスにおいて顕された神の愛からわれらを引き離すものはなにもないとわたしは確信する」(Rom.8:36)と福音の勝利を宣言したその直後に、彼は同胞に対し「わたしに大きな憂いそしてわが心に絶えざる痛みがある」と自らの止み難いパトスに言及する。それは彼がかつて共に迫害者であった同胞ユダヤ人に対し、今なおキリストを受け入れない同胞たちに抱くパトスの発動であった。救いなき同胞への憐れみが自然に溢れ、彼は「自らキリストから離され、呪われてあることを祈った」(Rom.9:3)。「わたしに生きることはキリスト、死ぬことも益なり」(Phil.1:21)。自らの外に確立された福音の高貴さ、高価さ代えがたさに彼は自己の救いの追求さえも塵芥と看做す。それほどおのれから解放されていたのであった。彼の良心と信仰は彼のこれらのパトスの底においてわれらの外(extra nos)にある救いの確かさに平安を見出していた。
パウロにおいても「良心」とは神において明らかなことが自分たちにも明らかになるその心の座であった (2Cor.5:10-11、序文冒頭)。「コリント後書」のこの箇所は、良心は神による認識を何らかの仕方で理解することができることを含意する。それは「叡知(ヌース)」に課せられた認知機能である。共知としての良心は親や部族との肉に属する共知から始まって、「内なる人間」(Rom.7:22)に属する神との共知としての叡知の発動にまで至る、肉と内なる人間を媒介する機能を持っている。良心は身体を持つ自然的な存在者の生の原理である肉と内なる人間を媒介する力能のもとにあり、それはどこまでも山上の説教を語り生きたナザレのイエスに方向づけられる。彼こそ神と共にあり、神の意志を最もよく知っておられたからである。
良心がこのようなものであるとき、自らの知的誠実さ、学的良心と信仰のあいだの不一致、ギャップに苦しむ哲学者にパウロから一つの問いが投げかけられ、乗り越えを求められるであろう。「君は神よりも人格なき矛盾律をより一層信じ愛するのか。神こそ一切の創造者として知識の源であり、人格の座である身体の主である」。ひとは知性から成り立つように、身体を備えたものとしてパトスからも成り立っている。認知的な次元での信は「死者の甦りを信じる」という類の目的語を伴うが、信実な神の圧倒的な現臨の前においては目的語や信念内容の表白ではなく、ただ「信じます、信なきわれを憐れみ給へ」(Mac9:24)という端的なひれ伏しが遂行されるであろう(cf.Rom.15:18)。身体を介したパトスが秩序づけられないとき、ひとは理性そのものを身体から切断し崇拝することになる。迫害のさなかにあって、「汝ら主にあって喜べ」(Phil.3:1)と命じるパウロは内なる人間の叡知の発動に基づきパトスも秩序を得るに至ると主張する。神の御心を知るに至るわれらの叡知は、「われらはキリストの叡知を持っている」ことによって、媒介される(1Cor.2:16)。われらの心魂の認知的そして人格的態勢を整えるのは受苦と復活のキリストである。
なぜイエスご自身は文書(書かれたロゴス)を遺されなかったかと言えば、ご自身の今・ここの働き(エルゴン)において隣人との信に基づく義と愛の関係が生起し続けたからであり、言ってみればそこに永遠が宿っていたからである。イエスはご自身の一言一句(ロゴス)、一挙手一投足(エルゴン)に神の国を宿していたため、罪を赦す権威、権能ある方として振舞い、その恩恵に浴した同時代の幸いなひとびとが福音書に報告されている。彼の今・ここの言葉と働きのなかに堅固でいかなる吟味にも耐えうる、壊れないそして聖なるロゴス(理)が宿っていた。そして人類にはそのことが歴史において生起しただけで十分だとして、その憐れみと正義を讃美するそのような生を遂行するひとびとがいる。
パウロはイエスの一挙手一投足にそのロゴス(理)を見出し、「ローマ書」において理論化し「ロゴスによってそしてエルゴンによって」福音を伝達した(Rom.15:18)。パウロは自らの理論を生きたひとである。即ち、「神の形姿」(2Cor.4:4)であるキリストが自らの一挙手一投足に内在し、キリストに似た者とされることに生を捧げた。彼は自ら神により「ご自身の子の形姿に合致した形姿として予め定められた」(Rom.8:29)者であると信じ、福音を宣教しながら自ら失格者とならないために「わたしはわが身体を打ち、身体を拘束する」(1Cor.9:27)ことによって自らの責任ある生においてキリストの御跡に従った。これが彼のロゴスとエルゴンである。
イエスご自身と同時代人ではないわれらは当時の手紙や福音書によりまず言葉(ロゴス)としてその報告を受け取り理解する。「聞くことのなかったその方をいかに彼らは信じるであろうか。しかし、宣教する者なしにいかに彼らは聞くのであろうか。・・かくして、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの語りを介してである」(Rom.10:14-17)。パウロはギリシャ哲学者にとって宇宙の原理的なものごとについての知識を意味する「知恵(sophia)」に対する言及による「知恵の説得的議論」(ロゴス)と聖霊の働きに対する言及による「霊と[神の]力能の論証」(エルゴン)(1Cor.2:4)を判別していた。また彼は「われらは成熟した者たちのあいだでは知恵を語る、・・神の知恵を語る」(1Cor.2:6-7)と言う。「ローマ書」においても、パウロは読者の知性を信じる、「わたしは自ら汝らについて確信している、汝ら自ら善きもので満ち、あらゆる知識を十全に備えており、互いに忠告しあう力ある者たちであると」(Rom.15:14)。そのもとに「ギリシャ語圏の者にも異言語圏の者にも、知恵ある者たちにも愚かな者たちにもわたしは負うべき責めを持つ」(Rom.1:15)として、彼は哲学における知恵による析出を可能にする神学理論(ロゴス)とそれに相補的なものとして聖霊の媒介行為(エルゴン)への言及により福音の宣教を遂行した。
今の時代にあって宗教改革に従事するとはパウロや先人達にならい福音に生命を賭けるということ以外ではない。「われらの宣教は迷いや不純に基づくものでも、また欺きにおけるものでもなく、むしろわれらはまさに神ご自身により認可され福音を信任されている(pisteuthēnai)ほどに、われらは、人々に喜ばれる者としてではなく、われらの心を認可したまう(dokimazonti)神に喜ばれる者として、このように語っている」(1Thes.2:4)。弟子は師に優らず。この運動に従事する者は、もはやわれ生くるにあらず、キリストわがうちにありて生くるなり、生くるはキリスト、死ぬるは益なりのパウロに追随し、われらもひとの顔を恐れず、今・ここに永遠の宿ることを求めてパウロに可能な限り伴走しつつロゴスとエルゴンによって主イエスご自身の御跡に従う。「わたしは道であり、そして真理であり、そして生命である」(John.14:6)。
われらもイエスご自身との同時代人のように恩恵に浴することもあろう。「わたしが汝らに語る言葉(ta rhēmata)はわたしが自ら話すにあらず、父がわがうちに留まりご自身の働き(ta erga)を為したまう。汝らわれを信ぜよ、わたしは父のうちにあり、父はわがうちにあると。そう[言葉の故に]でなければ、働きそのものの故に(dia ta erga auta)信ぜよ。・・わたしは父に請うそして父は汝らにもうひとりの執り成し手を賜わるであろう、それは彼がこの時代に汝らとともにいたまうためである。それは真理の霊である。・・わたしは汝らを残して孤児(みなしご)とはせず、わたしは汝らのもとに来る」(John.14:10-18)。
イエスご自身とは同時代にないこの世代にあっては、聖霊が派遣されわれらのうちに働きたまう。われらこの運動に従事する者は神の前(A)(B)と人の前(C)をその都度媒介しつつ(D)「われらの弱さにおいて共に支えてくださる」ところの「聖霊」(Rom.8:26)、「キリストの霊」(Rom.8:9)の働き(エルゴン)を請い求める((D)は(A)福音と(C)生身の人間を(L)ロゴス上そして(Er)エルゴン上媒介する(Log(D)=(A)+(C), Er(D)=(A)via(C))、ただし媒介記号+はロゴスを、viaはエルゴンを示す)。その聖霊の助けによる宣教のエルゴンとはパウロによれば「わたしは汝らのうちにキリストが形づくられるに至るまで再び産みの苦しみをなす」(Gal.4:19)ことに他ならない。しばしば「霊に燃える」(Rom.12;11)ことがあることであろうが、主の言葉と働きが山上の説教において明示されており相互に支えあうものである限り、それは「柔和の霊」(Gal.6:1,5:22)として働きいかなる種類の熱狂主義とも異なるものとなろう。「わたしは霊によって賛美する、そして叡知によっても賛美する。・・集まりにおいて他の人々をも教えるために、わたしは異言における一万の言葉よりもわが叡知によって五つの言葉を語ることを欲する」(1Cor.14:15,19)。
この改革に従事する者、われらも隣人との今・ここの交わりにおいて神により宇宙の開闢以前に「ご自身の子の形姿に合致した形姿として予め定められた」(Rom.8:29)者として、キリストと共なる生が人間にとって本来的であることを理論的に伝え、そしてそれを今・ここで生きる。神に嘉みされる心魂の根源に生起する「信にもとづかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:22)そして「愛を媒介にして実働している信が力強い」(Gal.5:6)からには、新しい宗教改革者の実践にとっては信に基づき具体的に愛の道を歩むことだけが残されている。愛が「霊の果実」(Gal.5:22)、「義の果実」(phil.1:11)であるからには、「愛は決して失敗しない」(1Cor.13:8)。「愛には恐れがない。まったき愛は恐れを取り除く」(1John.4:18)。信に基づき愛への道を歩む限りにおいて「イエス・キリストにある生命の霊」(Rom.8:2)が共にいたまうことであろう。
その都度の隣人が敵であったとしてもキリストを介して我と汝の等しさが即ち友と友が希望のことがらとして生起するとき、共にあることの喜びがあるからである。敵とは「キリストがその者のために死んだそのかの者」のひとりである(Rom.14:15)。「新しい被造物」となった「われらは今やもはや誰をも肉に即して知るまい」(2Cor.5:16-17)。肉に即して自ら行為を選択するところ、そこに聖霊は支えたまわない。「霊は熱するが、肉は弱い」(Mat.26:41)と言われるように、たとえ肉の弱さの故に聖霊による心魂の刷新に程度があるにしても、その生が信に基づき神と隣人への愛に方向づけられている限り、そのトラック上にある限りこの運動は成功であると言える。柔和な者、憐み深い者そしてその霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされず神の正義を渇き求めそして平和を造らずにはいられない心の清らかな者たちが生み出されるならこの運動は成功である。たとえ自らのそして隣人の罪の故に傷つき倒れても、再び十字架を仰いでキリストのもとに立ち返る。みなもとの信即ち信のみなもとは揺るがない。この実践を支えるものとして基本的な提題を77箇条提示する。
(主題ごとに各条項の提題を記し、その基礎になる当該の主な聖書テクストを示す。「・・」はテクストからの引用である。旧約聖書の引用はパウロが非ユダヤ人への福音宣教に用いた七十人訳に基づく。煩瑣や誤解を避けるべく事実の主張は端的な表現とし尊敬語は最小限に留める。各条項の最後に引用箇所を引用順に提示する)。
春の講義宗教改革(3)―福音による一切の秩序付け―
宗教改革「みなもとの信&信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―
A Religious Reformation ‘The Faithfulness of Source & the Source of Faithfulness’―Back to the Gospel, departing Far East via Wittenberg & Rome―.
モットー「みなもとの信と信のみなもと:イエス・キリスト或いは神の知恵と信」
Motto. ‘fides fontis et fons fidei : Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei’
77か条の提題
目次
序言
1. 福音への帰還―イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生―
1.1山上の説教における道徳、自然そして天の父
1.2 古い革袋を破る新しい生命の福音
2.山上の説教の神学的展開―信に基づく正義と憐みの成就―
2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―
2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性
2:3 人類をその罪と苦難から救済に導く福音
3.21世紀の宗教改革の核心―「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学―
3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
3:2.新しい宗教改革に至る唯一の道―ロゴスとエルゴンの総合―
77か条の提題
2:3人類をその罪と苦難から救済に導く福音
パウロの神学はナザレのイエスによりその生命と今・ここの躍動感を得ている。イエスはひとの肉の弱さに衷心からの「憐み(splangchnon=はらわた)」を示し、柔和であり謙遜であった。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」(Mat.9:36,cf.Mac.1:41)。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙遜が伝わる。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂く以外に、ひとは不公正や侮辱そして迫害に耐え、呪う者を祝福し「平和を造る者」にはなりえない(Gal.6:1,Mat.5:9)。
イエスはパリサイ人が眼差しを神の国に向けない偽りを見出し言う。「ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、内側は強奪と情欲で満ちているが、杯や皿の外側を清めている。盲目のパリサイ人たち、まず杯の内側を清めよ、それはその外側も清まるためである」(Mat.23.23-25)。所謂色金名誉をつまり「肉の欲」を心魂の根底に置くとき、もはや眼差しは曇り肉に閉ざされてしまう。これらのパリサイ人攻撃は裁きではない。イエスは言う、「裁くな、裁かれないためである。汝がそこにおいて裁くその裁きにより汝らは裁かれるだろうからである」(7:1-2)。パウロも言う、「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を罪に定めているからである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」。隣人にまた自己に対し自らの心魂の根底を問うことなく、これXをするかXしないかにより烙印をおすことは業の律法に即したものである。「同じこと」とは双方とも業の律法のもとに生きているということである。業の律法のもとにある肉は誰も義とされないのであり、自ら罪に定めている(第6?、27?条)。イエスは信の律法のもとに神の国を持ち運ぶ、即ち愛をその都度成就しているそのなかで、自ら気づいていないパリサイ人の「目にはいったおが屑」(Mat.7:5)を取ろうとしたのであり、業の律法のもとでの裁きではない。自らの偽りに気づいていないパリサイ人を救おうとするその愛の成就は十字架に極まる。パウロは言う、「キリストはわれらがまだ罪びとであるときわれらの代わりに死んだ、そのことにより神はご自身の愛をわれらに結び付けたのである。かくして、今や、われらは彼の血において義とされたのであるから、さらにいっそう彼を介して怒りから救われるであろう。なぜなら、もし、われらは、われらが敵であったときに、神と、ご自身の御子の死を介して、和解させられたのであるなら、さらにいっそう、われらは、和解させられた者として、彼の生命において救われるであろう」(Rom.5:8-10)。
人間社会が自律したものとして自らを司法や行政、経済等制度化、律法化のもとに位置付け、さらに科学技術を促進させることは人間の知性の証であることであろう。医療や技術の進展にこそ例えば疫病の克服の光明が見られ、また教育を受ける機会が得られる。しかし、これらが神に頼らずにすむシステムの構築として肉を厚くするとき、二心、三つ心の偽りに陥る危険にさらされている。これらの営みは、最も良きものによる秩序づけなしには、自らの正当化の動機付けのなかで自ら理解する公平さ、技術革新、効率性の名のもとにある隠れた欲望、有利性を拡大するシステムの作成に向かう傾向性にあり、その結果心魂を罪に引き渡し、神への眼差しをそして隣人への愛を忘れてしまう。
パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)と肉の弱さへの譲歩のもとに「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもある中立的な存在者として人間を位置づけることがある。ひとは相対的自律性を認められているが、いつのまにか、神からの働きかけ、愛を忘れてしまい、神に帰属する端的な自律性を主張するに至る。それが罪である。蛇は誘った、「汝らは神の如くなるであろう」(Gen.2:5)。ひとはナザレのイエスを知れば知るほど、自らが天の父への信頼に生き抜いた彼のようでありえないことを知り、それを「罪」と理解し、そこからの解放を求める。換言すれば、受肉したイエスに繋がらない限り、神は単なる超越者となり抽象者となり、ひとは糸の切れた凧のようになるであろう。
さらに、黙々とわれらに資源を与え続けるmother earthの自然の恵みについても人類は彼女と、今、正しい関係にあるかが問われている。母なる地球が言葉を話さないことをいいことに、ひとは紙に或いは電子的に数字を書き労働の対価として自らのあいだでは正義であると看做し、彼女から資源を受け取ることだけに固執している。人間の間で正義であればそれが許され、何万年も自らのサイズ相当の消費以上にでないカエルにはそれが許されないのは双方の知性の差異によるのか。何からもの許可など要せず、ただ欲望が欲しい侭に自然環境を汲み尽くしているのか。金銭はひとの生がそこにおいて遂行されるこの惑星にたいするあらゆる行動を正当化するかの問いが自然災害という形で投げ返されている。気候変動や風土病の拡大にその兆候が見られるのではないだろうか。環境税等により挽回を試みているが、神に対してはもとより、自然に対しても畏敬の念のもとに仰ぎ見ることは稀である。「もろもろの天は神の栄光を顕し、大空はその御手のわざを示す」(Ps.19:1)。創造主に栄光を帰すこの信によって創造の秩序のもとにある人間と他の生物と地球の正しい関係が築かれることであろう。
この21世紀のパンデミックCovid-19は、聖書的にはこの惑星に住む人類共通の問題というものが実際にあり、ひとりの不注意や身勝手が隣人を苦しみや死に追いやるそのような運命共同体にわれらがあること、人類全体で協力して対処すべき問題が人類史的な状況のなかで生起していることを教えている。パウロは「被造物全体が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにある・・われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ呻いている」と言う(Rom.8:22-23)。このグローバルな出来事は運命共同体としての人類が全体として救いを求めているという創造と救済の聖書的な人間認識を含意している。疫病、飢饉、貧困は世界を不安定なものとし自国第一主義の風潮のなかで国際関係の緊張や戦争にいたることであろう。イエスは「不法があまねくはびこるので、多くの者の愛が冷える」(Mat.24:12)その状況とともに預言する、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、様々な場所で大きな地震と飢饉と疫病が起こるであろう。恐るべきことと天からの大きな予兆が起こるであろう」(Luk.21:10-11)。「そのとき大きな苦難が起きるであろう、それは世界の始まりから今まで起きなかったそしてもう起きないであろうそのようなものだ」(Mat.24:21)。この終末預言の警告のなかでイエスは人類を贖い、救い出すべく十字架に至るまで信の従順を貫いた。
銀河のさらには宇宙全体のいつの日かの崩壊は人類の知性により或る程度予想されているものであるが、イエスのこれらの預言により単に人類の帰趨だけではなく、自然事象さえも、神による宇宙の創造から救済そして新天新地の創造にいたる神の歴史の中に位置付けるかが問われている。そのスケールを人類は考慮にいれることができるのか。肉の欲につけこみ誘い、ひととひととの関係を裂くものは擬人化される「罪」と呼ばれるが、その罪に同意する仕方で「自らの腹に仕え」、自らの腹を神とし「地上のものごとを思慮」する者には「罪が巣食う」(Rom. 7:7-25,16:18,Phil.3:19)。そしてものがよく見えないものとされ、ヴィジョンを失ってしまい目先のことに捉われてしまう。それ故にこそ、心魂の刷新により常に目覚めていることが求められる(cf.Mat.7:5,23:13-26,24:25-44,)。
イエスは宇宙を支配する数式による物理法則をもご存知であったでもあろうが、各人の心魂の内奥に位置する神との共知の宿る良心からわれと汝の人格的な関係の正しさと豊かさを知らしめ、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」により一切の秩序づけを人格的に遂行された。一旦偽りとして破られた道徳的次元の再生において、愛に収斂し純化されるモーセ律法は神の国の信と希望のもとに、秩序づけられる。制度化や科学技術が許容されるのは神の国に秩序づけられる限りにおいてのことである。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。神とひとの媒介者となったナザレのイエスそのひとのもとに常に立ち返ることにより、神の国はアクセス可能なものとなり秩序を見出すことができる。
パウロも「一つのこと」即ち福音の出来事との関連においてすべてのものごとが秩序づけられ、それにより同じ愛のもと「同じことを思慮する」に至るとして喜びを語る。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。喜びを満たせとは共に喜ぶことによって、喜びを溢れさせようという促しである。肯定的なもの創造的なものへの根源的な信なしにはひとは個人において、社会や世界において秩序を見出すことはできないであろう。デヴィッド・ヒュームが『人間知性の探求』において「賢者は彼の信念を証拠に対して比例させる」(p.87)と言うとき、矛盾律に基づくロゴスの力能への顧慮による経験的な働き(エルゴン)との関係づけを欠き、感覚を基本的な認識の源泉にする経験主義はその限界故に経験的エヴィデンスの蓄積以上の信を語りえず、不可視なものへの信に基づく突破力をもたないであろう。世界はもっと確かであり豊かなのである。
宇宙の創造者にして時空の外で一切を統帥する神、その御子はご自身の栄光を捨てひととなり肉の弱さをご自身担われた。ご自身は神の子であることの信のもとに天父の御意に沿うべく、歯を食いしばって「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていよ」と弟子に訴えながら、十字架の死に至るまで従順の信を貫いた(Mat.26:38)。この生身の苦悩が超越性と此岸性のあいだの観念の極性化、断絶を論駁する。信仰の観念化、思弁を乗り越えさせる。彼は自らの肉において神の国を担った。「神の国は汝らのただなかにあり」、「二人または三人、わが名において集まっているところに、わたしは彼らのまんなかにいる」(Luk.17:21,Mat.18:20)。イエスを介して人格的な神に出会う。イエスと共に担ぎ歩く良き軽い軛とは彼が人類のために切り開いた信である。彼はひとの子として信に基づき義とされる神の意志を完遂し、続く者に信の道を伝えた。この比量不能な恩恵即ち御子における信に基づく神の義の啓示において、ひとはこの世の煩いから解放され、良心の宥め、平安、柔和を得る。端的な比較を超える善が人類に与えられたからである。
相対的、比量的なモーセ律法を乗り越える、より根源的な信に基づく神の正義・義はそこでのみ憐れみと両立した御子の従順の生を介して知らされた。滅びに至る門は広く、「狭い門」から入るべく、大地を固める「地の塩」として人間社会を黙々と堅固に下支えし、また自らの全身を輝かせ、「世の光」として「善き働き(ta kala erga)」のもとに先導する。「山の上に立つ街は隠れることはできない」(5:13-16,7:13)。そのなかで「右手で為す善行を左手に知らせない」歩みは一切を正確に知り、正義かつ憐れみ深い神の前での正しい判断を仰ぐことになる(6:3)。ひとは十字架の義を着て神の前に立つことができるだけである。受肉と信の従順の生により実現した恩恵の無償性に基づく福音のみが「わたしが律法を廃棄するべく来たと汝ら看做すな・・成就するべく来た」(5:17)を実現させる。福音において人類の罪と苦難の歴史のなかで救済に与る唯一の道が示された。
3「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学:21世紀の宗教改革「みなもとの信」の核心
3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
使徒パウロはナザレのイエスの生涯が打ち立てた信に基づく義とその義に基づく業の律法の成就を「ローマ書」において、能う限りの明晰性をもって、言語と心魂そしてものごと(その理およびその働き)という三者の関わりとして哲学的に分析することを許容する仕方で神学的に論じた。神の前と人の前の理論上の分離に基づき、パウロは「わたしは汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)とし、神の前を括弧に入れたひとの相対的自律性を譲歩として認め、単に心情倫理と責任倫理の区別、さらには制度化の許容ということではなく、神の前と人の前の創造から救済にいたる総合的秩序づけを企てている。神の子にしてひとの子の啓示に基づき、先に見た肉の弱さの考慮のもとでの責任倫理をもカヴァーしながらも、「一つのこと[イエス・キリストの出来事]を思慮する」(Phil.2:1-2)集中のもとに人間と世界を包摂する。山上の説教は相対的自律性の許容により希釈されたのではなく、道徳次元を内側から突破するヴィジョンのもとに他の一切を秩序づけつつ語るイエスそのひとにより生き抜かれたのである。彼ご自身は肉の弱さをその都度克服されたのである。信の律法に基づく業の律法の秩序づけはパウロにより神の二つの意志の啓示として報告され、人の前の相対的自律性を「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の啓示の出来事に秩序づけている。
このたび、人類による二千年の探究の蓄積のもとに信の哲学の研究を通じて、パウロによるキリストの受肉と受難と復活および来るべき再臨による人類救済の議論が神の選びの教説とともに無矛盾であることが明らかとなった。今日までのパウロの神学をめぐる論争は、彼の神学理論の中心的な主張を形成する「ローマ書」3章21節から31節のとりわけ22節(ū gar estin diastolē)のヒエロニムスによるVulgata版(二世紀以降の古ラテン語訳の四世紀後半における彼自身の言葉では「編集」)の訳に起因するものであることが明らかとなった(第12、17条)。そこでパウロは神の前のことがらを報告しており、その報告の内容は神ご自身がご自身の義の啓示の媒介としてイエス・キリストに帰属した信を用いられたこと、そしてその信とご自身の義の知らしめにおいて分離がないこと、即ちその信義の分離のなさにおいてご自身にとって根源的な義が信に基づくものであることを明らかにしておられることである。パウロは明確に神ご自身の認識をそれ自身として報告するとともに、そのわれらの外の啓示と人の前すなわちわれらのうちの信との関係の総合的な理解を展開したのであった。従来神の前と人の前の分節と総合が不明瞭であったために多くの混乱が生じたと思われる。
カトリック教会とプロテスタント教会相互のまたそれぞれ内部における二千年にわたる論争に思いをはせるとき、真剣で誠実なひとびとがそのテクストをめぐって長く争わざるをえなかった事実は、そのもとのテクストの最初の基礎的な翻訳に何らか誤解を生じさせるものが含まれていたと理解するよう促す。原語diastolē(最大希英辞書LSJではdrawing asunder (「双方に引いて分ける」)やseparationがdistinctionより前に挙げられる)の当該箇所のVulgata訳は non enim est distinctio「なぜなら区別がないからである」である。しかし、それ以降調査の限りすべての翻訳において、これがその理由文であるところの前文「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている」における「信じる者すべて」のあいだに「区別」や「差異」はないと理解されてきた。神の義が啓示されたことの理由が信じる者たちの心的態勢に例えば聖フランシスとヒトラーの信仰に区別や差異がないということはいかにも不可思議である。人類への愛の故に啓示されるというのであれば、より分かるが5章まで愛の議論は封印されており、信ひとすじで突破が図られている。実はひとの心的状態としての信仰に区別や差異がないということではなく、「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに神の前のことがらとして「分離(separatio)はない」と訳されねばならなかったのである。神ご自身にとって信義はモーセの業の律法に基づく義より一層根源的であることを示している。業の律法に即して「すべての者が罪を犯した」と否定的に認識されているのであり、神の信義の啓示という肯定的なものごとは「イエス・キリストの信」を介してなされ、神の義とその信のあいだに分離がないからこそ、「業の律法を離れて」しかもより根底的な神の義として啓示されたのである。これが明示されていれば、今日までのこれほどの混乱はなかったことであろう。3章21節から31節の正しい翻訳は以下のもののようになると思われる。
「[21]しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、神の義は(f1)イエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。
[27]それでは、どこに誇りはあるか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31、第12、27条)。
この福音は「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)つまり神の義はモーセ律法とは分離されうるものであり、しかも「信の律法」(3:27)とは分離なきものとして啓示されたために、神ご自身にとって福音即ち信の律法のほうが業の律法よりご自身の義との関連においてより根源的である。神においてそうであるなら、ひとにとっても神ご自身が信義であることが啓示されたとき、信によって応答することのほうが、「汝~すべからず」、「汝~すべし」の命令のもとでの業の遂行よりも心魂の態勢、行為として根源的であることが含意される。
この誤訳が正されるとき、神の前と人の前の分節と媒介が明確となりまた神の二つの意志「業の律法」と「信の律法」の分節と媒介がさらには「信にもとづく義」と「その義の果実」の分節と媒介が明確になる。もちろんその媒介者はイエス・キリストである。その分節と媒介そして関係づけの故に、これまでの多くの論争に解決が与えられると思われる。そこでは無償の憐みと正義の両立が解明され、例えば福音と律法、信仰と愛、恩恵と自由、選びの教説と各自の責任ある自由の関係をめぐる論争について決着がつけられ提題で明らかにしていく。また贖罪論をめぐり父と御子の協働説か業の律法の枠のなかでの父と御子は審判者と被審判者の関係にある代罰説かの論争についても終止符を打つことができる。新しい葡萄酒を新しい革袋にいれる、そのような旧約から新約への展開を確認することができる。この解明はカトリック教会とプロテスタント教会双方がそれぞれ真理契機を担っているものとして、双方にそれぞれの特徴に応じて固有の場を提示し相互の和解をもたらし、ひとの心魂の再生と人類の平和の基盤になると信じる。(この節は次回に続く)。
枡形山春の聖書講義―宗教改革(2)山上の説教の神学的展開――
宗教改革「みなもとの信&信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―
A Religious Reformation‘The Faithfulness of Source & the Source of Faithfulness’―Back to the Gospel, departing Far East via Wittenberg & Rome―.
モットー「みなもとの信と信のみなもと:イエス・キリスト或いは神の知恵と信」
Motto. ‘fides fontis et fons fidei : Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei’
千葉 惠
77か条の提題
77Theses (With English preface and table of contents)
目次
序言
1. 福音への帰還―イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生―
1.1山上の説教における道徳、自然そして天の父
1.2 古い革袋を破る新しい生命の福音
2.山上の説教の神学的展開―信に基づく正義と憐みの成就―
2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―
2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性
2:3人類をその罪と苦難から救済に導く福音
3.21世紀の宗教改革の核心―「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学―
3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
3:2.新しい宗教改革に至る唯一の道―ロゴスとエルゴンの総合―
「宗教改革「信のみなもと&みなもとの信」―極東発Wittenberg & Rome経由、福音への帰還」第二回目です。77箇条の提題を示しますが、今は序言を何回かにわけて朗読しています。その第二節途中までです。
2 山上の説教の神学的展開―信に基づく正義と憐みの成就―
2021年2月21日
2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―
ここではナザレのイエスの生涯がパウロによりいかに神学的に理解されているかを確認したい。福音書とパウロの書簡の対話を遂行する。最初に二人の置かれた状況の相違を確認する。イエスの信仰の招きが業のモーセ律法の遵守の要求のただなかで遂行されたのに対し、パウロは神の力能の働きである他に例を見ないイエスの十字架の処刑死とその三日後の甦りの出来事から彼の一切の神学的思考を展開している。彼はイエスの甦りが人類に何をもたらしたのかを受け止め、そこから信に基づく義とその義の果実としての愛が生まれるその神学理論を展開した。
パウロは、神によるアブラハムへの約束に対する信実が歴史上御子の受肉と受難と復活において証された、その「神の信」(Rom.3:3)を基礎に彼の神学を展開する。信は人間にとっては賢者に至る知識をめぐる認知的要素と聖者に至る有徳をめぐる人格的要素の成長への基盤となるが、神は認知的、人格的に十全である。パウロは、神によるご自身の約束への信実がナザレのイエスにおいて成就されたと主張する。その約束に対し神は信実であり、神が正しい方であったこと、即ち「神の義」は「イエス・キリストの信」を媒介にして人類に明らかなものとされた。パウロはこれをひとつの神の意志として受け止め「信の律法」と呼んだ。それはモーセを介して知らしめられたもう一つの神の意志をパウロは「業の律法」と呼んだが、彼はこれら二つの神の意志を信に基づく義と義の果実としての愛として秩序づけた。
常に心に留めるべきことは、山上の説教はナザレのイエスそのひとが今・ここにおいて純化された究極の律法を語りつつ、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」と信仰に招くことにより、その内面化された愛に収斂される律法成就の道を示したことである。イエスご自身は神の愛の先行性を自ら生き抜きご自身がその道となったがゆえに、パウロは神の愛の先行性に基づき愛の相互性を秩序づけることができた。まず、神との正しい関係が確立されることなしには、人間の一切の営みは秩序を得ることはないという明確なメッセージをナザレのイエスは発信した。しかも、彼はユダヤ人の伝統に留まりつつ、旧約の律法を内側から破ることによって、新しい生命に満ち溢れる信仰に招く福音を展開した。福音と律法を静的な関係において捉えてはならない。イエスはガリラヤの野辺を歩きながらリアルタイムに神の意志を実現しつつあったのである。もし彼が公生涯の終わりに十字架から下りてきたしまったなら、神のみ旨は実現されてはいないと看做され、福音の啓示の媒介者として用いられることはなかった、そのような緊張のなかで、肉の弱さを抱えたイエスご自身により一言一句、一挙手一投足が遂行されていたのである。われらはそこに同じ人間として山上の説教を成就しうる可能性と力能を見出す。そして人類の誰かにより山上の説教が語られた事実に、われらは人類に絶望することはない。ましてや彼はそれを信の従順により完遂した方である。
パウロそして福音書記者たちも十字架と復活と昇天ののちにナザレのイエスが何者であったかをめぐり信に基づく義と選びの神学さらにはその伝記を書き残したのであった。パウロは歴史の展開のなかで信の従順を死に至るまで貫き、父なる神の専決行為による甦らしが生起したことのゆえに、福音の成就した視点から「この方はわれらの背きの故に引き渡されたそしてわれらの義化故に甦らされた」(Rom.4:25)と語ることができた。御子の十字架と復活は神の前で即ち神ご自身の理解として、歴史のなかで身代わりの死によるわれらの罪から信仰による義化への移行の成就として知らしめられた。「イエス・キリストの信」を介した「神の義」の啓示は「信の律法」としてわれらに業のモーセ律法からの解放と、信に基づく義による業の律法の新たな秩序づけとして位置づけることができた。
十字架と復活は人類の歴史において「一度限り」(Rom.6:10,cf.1Cor.15:6)のことであり、他の誰かによって再現されるものではない。さもなければ、父なる神は御子の信の従順を贖いに不十分なるものと看做し、御子を裏切ることになる。再現性のないものについては科学的知識の対象とはなりえず、ひとは御子の復活については信仰により突破するしかない。「キリストが信じるすべての者にとって義に至る律法の目指すものである。というのも、モーセは律法に基づく義をこう記しているからである、「それらを為した者はそれらによって生きるであろう」、だが、信に基づく義はこう言うからである、「汝は汝の心のなかで、「誰が[義を求めて遥か]天に昇るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを引き降ろすことである、あるいは「誰が[義を求めて遥か]黄泉に降るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを死者たちのなかから引き上げることである。しかし、彼[モーセ]は何と言っているか、「言葉は汝の近くにある、汝の口のなかにそして汝の心のなかにある」、これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である。すなわち、もし汝が汝の口において主イエスを告白し、そして汝の心のうちに神が彼を死者たちから甦らせたと信じるなら、汝は救われるであろう。というのも、主イエスが心によって信じられるのは義のためであり、口で告白されるのは救いのためだからである」(Rom.10:5-10)。
心の中での信仰を固く保持するためには公にそれを告白し社会の認知の中での自覚を必要としている。それほど復活は信仰による乗り越えと公的な表明を必要とするそのような理解に困難を伴うものであり、しかもその告白は信じることできるというそのことの喜びを与えるものだからである。種蒔きの譬えはイエスの宣教を介して神のみ言葉、み心が聴衆の心に蒔かれそれを受け止めた信仰の実りについてのものである。「イエスは彼らを多くの譬えで教えた、そしてご自身の教えのなかでこう言われた。「聞け、そして見よ。種を蒔く者が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞け」と言われた」(Mac.4:2-10)。
この譬えにおいてみ言葉の蒔き手はイエスご自身であり、受け止める心、拒否する心等われらの様々な心の環境のもとにみ言葉が蒔かれる。これは人生にも適用される。誰も自らの親を選べない、そこに自らの生が奪われ、焼け枯れる運命の過酷さを見るひともいよう。同時にそこに「誰も~ない」という人生の或る意味での平等さと醍醐味がある。自らに生が与えられたことを厳しい与件に思えても、肉の親の背後にいたまう蒔き手を信じ、自らを「良い土地」であると受け止めることなしには三十倍、五十倍に実らすことはできず、蒔き手に対する信頼が不可欠となる。荒地に蒔かれ悲惨にしか思えない与件であるにしても、聞く耳を持ち神に与えられた良い土地であると信じるとき、開墾が始まり、自らの与件から推定されるものの百倍の実りをもたらすこともあろう。豊かな実りとは八福を語られるイエスご自身にとって「天の父の子となる」こと以外ではないであろう。
パウロはとりわけ「ローマ書」においてまた「ガラテア書」において正しい信仰とはいかなるものかの議論を展開する。永遠の生命の保証として主の復活はわれらの信仰を引き起こしそして信に基づく義を保証するものである。パウロは主の復活という神の歴史への介入から十字架とその生涯を捉えなおしたのである。神が愛である限り、この人生は良き土地となる、復活の主が共にいたまうからである。「主はわたしの運命を支える方。測り縄はわたしに向けて佳き地に落ちた、わたしは良き嗣業(ゆずり)を得た」(Ps.16:5-6)。
なお、当のイエスご自身も苦闘のただなかにあったことを忘れてはならない。山上の説教が生命を懸けて生き抜かれたことによって、われらはひととして想定しうる最も偽りのない在り方が福音に包摂される。新しい生命が福音という新しい革袋に入れられた。その喜びの福音はパウロにおいて聖霊によりもたらされる「信じること」が喜びとなり信に基づき救いだす「神の力能」(Rom.1:16)の働きであると特徴づけられる。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、汝らが信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。「ユダヤ人にもギリシャ人にも呼び出された者たち自身にとっては、キリストは神の力能でありまた知恵である」(1Cor.1:22)。信じうることの喜びと公的な信仰告白は自らが神に呼び出された者であることを証する光栄ある心の働きである。
主イエスの甦らしを遂行したまう神の力能によって古い業の律法も新しい信の律法の光のもとに照らし直され新しくなり、業のモーセ律法は何等か新しい酒に変換させられる。それは少なくとも人類にひとりは福音の光のもとに山上の律法を成就した方がいるからであり、それゆえに神はナザレのイエスをご自身の御心に適う者として嘉みし、ご自身の信に基づく義の啓示の媒介として用いられたからである。かくして、業に基づく義とは異なる信に基づく義が、業の律法の冠である愛を実現させるその力能が人類に付与されるに至った。モーセ律法は信の律法に秩序づけられた。信の力能こそ彼の十字架と復活において明らかにされたのである。「「できるものなら」と言うのか、信じる者にはあらゆることができる」(Mac.9:23)。あらゆることは当然愛の業に収斂される。それ故にこそ、われらは山上の説教をそれにより満たしうるのではないかとの希望を抱く。パウロはそれを理論化した。
2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性
モーセ律法とは十戒に基づくものであり、パウロにより「業の律法」(Rom.3:20,27)ないし「モーセ律法」(1Cor.9:9)と呼ばれる。業の律法のもとでは偶像を拝むか・拝まないか、盗むか・盗まないか、貪るか・貪らないか等の二つの対立選択肢のうち一方により義か罪が定まる。パウロにおいては福音が啓示された今、業の律法の役割は「罪が明らかになるためである」(Rom.7:13)と位置付けることができた。信を業の律法のもとで遂行するとは自らを行為の選択の規準として立て、信じるかそれとも「信じないか」によって神に義とされるか否かが定まるという考えである。これは信じるかそれとも「裏切るか」とは同じことではない。「信じない」ことと「裏切る」ことは同じではない。それだけではなくそのように信を業の律法のもとに捉えることは自らの罪が明らかになるだけである。「裏切る」は信仰が一つの業の律法のもとで理解されるさいの対義語「信じない」の二者択一とは異なる(Mat.26:21)。新約における「信の律法」(Rom.3:27)と呼ばれるものは、神がイエス・キリストにおいて約束に信実であり、「神の信」(3:3)を明らかにしたとき、信じるか裏切るかの二者択一を提示している。ひとに対する神の信義がそこでは前提されている。
神の意志としての信の律法と業の律法が判別され、自らがいずれの律法のもとに生きるか明確に自覚しないとき、自らの救いを求め信じることは自己追求、エゴイズムではないか等の懐疑が生起する。信に対するこの種の懐疑や反論は「貪るな」という業の律法のもとに信を従属させることから生じる。信がそのような自己吟味、自己批判のもとにさらされるとき、ひとは知的、人格的誠実の装いのもとに神の前にでないでよいというアリバイを作り、神を避ける自己防衛に走る。「汝ら惑わされるな。神は侮られるような方ではない。ひとは[種を]蒔く場合に、その蒔くところのものを刈り取ることになろう」(Gal.6:7)。「生きています神の御手に落ちることは恐ろしいことである」(Heb.10:31)。信の律法においては神が御子において自らの愛を差し出している。神が提示する戒めに自らの業により応答するかそれとも応答しないか、それとも神が自らの約束に信実であったときその神の信に対し信により応答するかそれとも裏切るのかのいずれかが問われ、旧約と新約いずれの律法を根源として生きるかが問われている、もちろん旧約聖書においてもアブラハムやダビデにおける信義の先駆的事例は見られる。
新しい契約の歩みの中で、ひとはイエスにより業の執行においてパリサイ人に優ることが求められていた。「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)。山上の律法はイエスの福音に秩序づけられるが、それは正義と愛・憐みが彼の一挙手一投足において実現されている限りにおいてである。信に基づく正義と信に基づく愛を実働している死に至るまでのその信の従順こそが福音の成就であった。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。ナザレのイエスの信に基づく言葉と働きが成し遂げた復活において証される正義と愛に基づき、神とひとの和解を理論的に解明することがパウロの課題であった。
「汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう」(Mat.5:18)。天地が過ぎ去るまで律法の一点一画とも過ぎ去らない、廃らないとは、イエスは「愛」が一切の律法のなかで「偉大な戒め」であると理解しており、そのもとに他の一切の戒めを秩序づけられる限り、理解可能となる(Mat.22:36,cf.「律法の冠」、「律法の充足」Rom.13:9,10)。愛が満たされる限り、業の律法としての正義は満たされており、あらゆる律法がめざす愛を実現する限りにおいて一点一画とも過ぎ去らないと言うことができる。人類のなかで少なくともイエスは信に基づき愛と正義を貫いた。この意味において山上の説教は希釈されることはない。イエスは誰にも担いえない心の規範を与え、道徳的苦悩を課す方ではない。そして彼は復活の主として共に重荷を担い歩みたまう。
ひとは誰もがキリストによって二千年前に憐みをかけられている。神へのアクセスはイエスの愛を介するものとなるとき、超越と内在、彼岸と此岸は媒介され、信仰の抽象性、観念性、思弁性が乗り越えられる。憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、「良心・共知」の発動が、「道徳的運」と呼ばれる、ひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛情を注がれ、愛されることを経験し自覚することなしには、また相手方の状況についての知識なしには、発動しないそのような受動の経験と自覚を伴うものである。或るひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証はどれだけ愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。
パウロも言う、「知識は高ぶり、愛は[徳を]建てる。誰かもし何かを知っていると思うなら、その者はまだ知るべきその仕方で知ってはいない。誰かもし神を愛するなら、その者はご自身により知られてしまっている」(1Cor.8:3)。高ぶりのなかで何かを知っていると主張するとき、愛されていることを知ることはできず、知るその仕方は少なくとも神の愛を前提にした愛の相互性に基づかない。「われらは知っている、神を愛する者たちには、彼らは計画に即して召された者たちであって、あらゆるものごとが善きことへと協働することを」(Rom.8:28)。ひとは神の計画のもとに神により知られ、愛されることによって愛するのであって、その愛を自覚せず、求めない者には善へと協働する愛は生起しない。まず神に今・ここで愛されていることの信が不可欠であることは神の愛の先行性が隣人愛の相互性を保証することを含意している(cf.1John.4:7-8)。
ひとはとりわけ自らの偏った認識により高ぶり、自らの与件を忘れ、恩義や憐みへの感謝をすぐ忘れてしまうからこそ、「七度の七十倍赦すこと」(Mat.18:22)がイエスにより求められる。彼はその理由をたとえ話で伝える。或る王が家来を憐れに思って、その負債を赦したが、その家来が自らに負債ある者を赦さず、牢に入れた。王はこの態度に怒って言う。「悪い僕だ、・・わたしが君を憐れんだように、君も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(18:32)。われらは皆キリストにあって既に七度の七十倍は赦されている。
それほどまでに、ひとは自らへの他者からの恩義を負担に感じ、一人で成し遂げたかの如くに思いこむ。「誰が汝をより優れた者としたのか、汝は受け取らなかったものを何か持っているのか。もし汝が受け取ったなら、何故受け取らなかったかのごとく誇るのか」(1Cor.4:7)。パウロはただ十字架を誇る。「われらの主キリスト・イエス、その彼を介して世界はわたしに磔られ、わたしもまた世界に磔られた、その十字架以外にわたしに誇ることが生じることは断じてあってはならない」(Gal.6:14)。このキリストの受苦(パテーマ)がわれらのパトス(受動)を造り変えていく。受動の強さが能動の高さを生み出していく。「愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず・・誇らず、高ぶらず、礼を失せず、自らの利益を求めず、いらだたず、恨まない」(1Cor.13:4-5)。愛のうちにあるものは否定的なパトスに引きずられることはない。愛は「誰に対しても悪に対して悪をかえさず」(Rom.12:17)、「互いに兄弟愛において慈しみ、相互に尊敬において導き手とする」(Rom.12:10)。愛は支配からも被支配からも操作や差別からも唯一自由な所で心に生起する神の子同士のわれと汝の等しさであった。右の頬を打たれたら左の頬を向けつつ、いつの日にか敵が友となる希望によりシーソーのアンバランスは現に平行を得ている。
枡形山春の聖書講義―21世紀の宗教改革(1)―
登戸学寮は春休みにはいりました。この間友人たちと準備してきました「21世紀の宗教改革「みなもとの信&信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―A Religious Reformation in the 21st Century ‘The Faithfulness of Source
& the Source of Faithfulness’―Back to the Gospel, departing Far East via Wittenberg & Rome―.」の序文と77箇条の提題を聖書講義として録音と平行して提示します。パウロ神学の中心的箇所(Rom.3:22)をめぐる4世紀における2世紀からのvetus latinus(古ラテン訳)の「編集」(ヒエロニムス)であるVulgata訳以来の誤解を招く翻訳が正されるとき、誠実で真剣な人々がなぜかくもテクストの理解をめぐり争ってきたかを説明することができ、カトリックとプロテスタントは神学上和解できると主張しその調停案を提示しこの時代に挑戦します。この宗教改革運動は理論上拙著『信の哲学―使徒パウロはどこまで共約可能か―』(北大出版会2018)を基礎にしてその後の展開により遂行されます。聖書の理解になんらかお役に立てれば幸甚です。なお、春休みの日曜日だけでは最後まで到達しませんので、可能な限り平日も録音ならびに提題の提示を試みたいと思いますが確約できません。
2月18日追補:14日にアップした原稿には章節などがありませんでした。内容を若干手直ししてあらためて掲載します。録音とは少し異なるものになっています。なお録音では冒頭でこの運動の経緯を説明しています。
千葉惠
21世紀の宗教改革「みなもとの信&信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―
A Religious Reformation in the 21st Century ‘The Faithfulness of Source & the Source of Faithfulness’―Back to the Gospel, departing Far East via Wittenberg & Rome―.
モットー「みなもとの信と信のみなもと:イエス・キリスト或いは神の知恵と信」
Motto. ‘fides fontis et fons fidei : Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei’
77か条の提題
77Theses
宗教改革「みなもとの信&信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―
A Religious Reformation‘The Faithfulness of Source & the Source of Faithfulness’―Back to the Gospel, departing Far East via Wittenberg & Rome―.
モットー「みなもとの信と信のみなもと:イエス・キリスト或いは神の知恵と信」
Motto. ‘fides fontis et fons fidei : Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei’
千葉 惠
77か条の提題
77Theses (With English preface and table of contents)
目次
序言
1. 福音への帰還―イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生―
1.1山上の説教における道徳、自然そして天の父
1.2 古い革袋を破る新しい生命の福音
2.山上の説教の神学的展開―信に基づく正義と憐みの成就―
2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―
2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性
2:3人類をその罪と苦難から救済に導く福音
3.21世紀の宗教改革の核心―「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学―
3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
3:2.新しい宗教改革に至る唯一の道―ロゴスとエルゴンの総合―
序言
1. 福音への帰還―イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生―
1.1山上の説教における道徳、自然そして天の父
今日までの人類の歴史に鑑みてまた自らの良心に照らして、ひとの心魂(こころ)*の根底からの偽りなき生の在り方をめぐって、あらゆる懐疑の末に残される確かなものは聖書に記されているナザレのイエスの言葉(ロゴス)と働き(エルゴン)である。彼の言葉と働き、その一言一句および一挙手一投足に侵しがたい権威があり、その人格と認識に抗しがたい魅力、引力がある。その「権威」(7:29)は言葉に偽りがなく言葉と働きに乖離がないところからおのずと生じるものである。彼に信従する限り肯定的、創造的なるもの、聖なるものが歴史に生起する、そして人類の悪に終わりがくる、そのような希望が心魂の内奥に湧きあがる。イエスの言葉と働きには人間であることの真理のそして宇宙万物の真理の根源の理(ことわり・ロゴス)が内在していた。パウロはそれを「福音の真理」(Gal.2:5)と呼んだ。
イエスは山上の説教(Mat.ch.5-7)において彼が「天の父」と呼ぶ神に祝福される八つの心的態勢を天国における慰め、満ち足り、喜びとの関係において語った(Mat.5:1-12)。柔和な者、憐み深い者、そしてこの世の何ものによっても満たされないその霊によって貧しい者(ptōkoi tōi pneumati :行為主体agentの与格)、かくして神の正義を渇き求めそして義のために迫害されながらも平和を造らずにはいられないその心によって清らかな者たちが神のお好のみなのである、愛しい者や大切なものを失い悲しむ者とともに(神の公平性については第8条)。天の父はナザレのイエスを「わが愛する子、その彼をわたしは嘉みした」(17:5)と祝福したが、その八福を語る方は実はリアルタイムにその八つの祝福を生きる方であった。イエスは山上の説教のもとに生きそしてそれの故に死んだ。
山上の説教は人類の誰かが言わねばならなかった、ひととしての道徳上のまさにその究極の在り方を伝える。イエスはご自身の言行一致がもたらす権威のもとに山上で言葉の力だけに頼り空手で群衆の前に立つ。彼は善悪、正邪を誰もが判断して生きている道徳次元に踏みとどまり、その土俵のうえに立ち、言葉の力により各人の良心に訴えて道徳的次元をその内側から破り出て、「まず神の国とご自身の義を求めよ」(6:33)と信仰に招いている。信仰への招きは素朴であり、天の父への信頼のなかで、彼は「悔い改めよ」や「信ぜよ」という類の宗教的な命令を語らず、「信・信仰(pistis)」も「罪(hamartia)」も類似語を除いて直接に語られることもない。さらに、そこでは聖霊の賦与も、奇跡の執行や悪霊の跋扈も報告されてはいない。山上の説教において、彼は野の百合空の鳥に囲まれながらユダヤ人として伝統的な道徳を自ら引き受け、ひとはそれ自身として十全な道徳的存在者たりえず、信仰の次元なしには道徳的に十全足りえないことを、言葉のみの力により論証している。道徳次元の内破による新たな関係づけは自然的な父子との類比により遂行されており、イエスはガリラヤの自然のもとで道徳的伝統を思い出させながら聴衆を新たな教えに導き道徳の再生を試みいている。教えは驚嘆すべきものであるが、そこにいかなる熱狂主義的な要素が見られないのはひとが道徳的存在者であることを一歩も譲らないことに確認される。
ユダヤ人は自らが選ばれた民として律法を誇り、異邦人や罪人とは異なるという差別的な態度を取っていた。イエスは当時の彼らの伝統的な道徳観そして死後天国か地獄に行くという世界像を自らも引き受け、議論の前提を彼らと共有することに基づく対人論法(argumentum ad hominem)によりユダヤ人の不徹底さを、さらにはこの世もあの世もという二心(ふたごころ)に潜む偽りを指摘する。イエスはそこで彼らが依拠するモーセ律法を急進化、内面化そして純化する。その論法はまず定型句で「汝らは聞いている、昔の人々によりこう語られたのを」と切り出して、その言い伝えを引用する。伝統的な教えを提示したのち、「しかし、わたしは汝らに言う」と切り返し、それらの問題点を摘出する。それは殺人、姦淫、離婚、誓い、同害報復、敵への憎しみをめぐって展開され、道徳的次元が内側から突破される。つまり彼らの立場は首尾一貫せず保持できないことが内的に論駁される。
イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18,Ps.139:21-22)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:43-46)。イエスは家族や隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益そして被害や危害との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において差別や支配そして操作が遂行されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵は友となることもある偶然的な関係にすぎず、ひとがひとである限り本来的に友と友の等しさつまり愛が成立しうる者だからである。
とはいえ、いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの新しい教えは尋常ではない。これらの言葉はそれを正面から引き受けるひとには良心・共知(sun-eidēsis, con-science)の痛みの発動を引き起こすに十分である(5:22,5:28,5:39)。認知的な協和と不協和に即した良心の平安、宥めと疼きをめぐっては、部族や国民との共知から神との共知まで多様である。一方、「赤信号みんなで渡れば怖くない」と言われ、自己責任のもと歩行者の共知として疼きもなく、カルニヴァル(人肉食)の部族においては友人に自らの最良の部位を遺品として残すそのような人々がいる。他方、イエスとその山上の説教とを共知の相手方とする者たちには、心の少しの歪曲が痛みになる。右目や右手が罪を犯させるなら抉りとり切り取ってしまえ、全身が地獄に投げ込まれるよりましである、と警告される(5:27-30)。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。
「良心」とは、最終的には、神において明らかなことが聖霊の証を伴い自分たちにも明らかになるその心の働きである。パウロは言う、「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11、Rom.9:1)。ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことが自らにも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。
その説教において乗り越えが企てられている敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人前での善行により人々からの称賛と有徳を誇り、律法の形式的遵守の故に正義を主張し、その結果天国を正当な権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:5,6:17)。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。背後に過剰を欲する貪欲が支配している。
イエスは律法の遂行においてパリサイ人の義に優るのでなければ、天国に入れないとして言う、「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(5:17-20)。
ここでパリサイ人との関連で語られる「汝らの義」はまず業のモーセ律法の遵守による正義のことを意味していよう。イエスはモーセ律法を純化し極性化して言う。「敵をも愛せよ」。人類はこのイエスの戒めに、一方で人類への絶望から解放される教えを受け取り、他方、山上の説教の前に身がすくみ、懐疑と反論を提示してきた。山上の説教は一方では人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、人類の誰かに語られたことただその事実によって人類に絶望せずにすむと思われよう。他方では、「律法は怒りをもたらす」(Rom.4:15)とあるように、これが告発者となり、これを語ったイエスは人間にはとうてい満たしえない心的規範また行動規範を与えており、誰にも負えない重荷を負わせ、道徳的苦悩をもたらすだけなのではないか、彼はそれによって彼の追随者たちをただ神の怒りのもとに怯えさせ苦しめる者なのではないか、それは神の審判に他ならないのではないかとの問いと懐疑が提示されてきた。
それらの懐疑への一つの応答は、聴衆は誰もその教えを守り切ることのできないことを知らしめその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすことを信じるよう促しているというルター主義的な理解である。この理解のもとではイエスは純化させたモーセ律法の枠のなかに留まっており、この説教は聴衆を福音に追いやる機能を担っていると主張される。この解決案は律法と福音を審判と救いという仕方で二元的に峻別しているように受け止められるが、生身のイエスご自身が律法の伝統のただなかで福音を確立しつつあるその動的な生きた関係をこそ把握しなければ、この説教は正しく理解されない。
イエスは山上の説教における天国と地獄という共通理解に基づく対人論法の背後に自らが神の子であるという自覚を明確に保持していた。神に対する「天の父」、「父」という呼称は旧約聖書にあまり多くみられないが(e.g.Deut.32:6,Ps.89:27)、聴衆にその理解を促すように十二回用いている。その説教においては、「神の子」や「天の父」が二人称や三人称複数で語りかけられる根拠、裏付けとして、「わたしが来たのは・・」、「わたしは言う・・」という一人称単数による「わたしの天の父」すなわち自らが神の子であることの自覚がある(5:9,5:17,5:22,7:21)。イエスは父なる神の意志、律法を実現するべく世に遣わされたという「神の子の信」の自覚のもとに、「御子の福音」を自らの言葉と働きにより実現したとパウロにより報告される(Gal.2:20,Rom.1:2)。
イエスは父なる神の意志、律法を一つの体系のなかで捉え、軽重を明確に判別している。「ああ、なんということだ、汝ら、律法学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばきそして憐みそして信を蔑(ないがし)ろにしている」(Mat.23:23)。彼はここで正義と憐みそして信を律法のなかで重要な戒めとして位置づけており、イエスは義と愛と信これら三つのなかで、不可視な神に向かうわれらの途上の生における根源的な心魂の態勢である信を基礎にして愛と義の両立に向かった。パウロは愛が「義の果実」(Phil.1:11)、つまり信に基づく正義が生み出す肯定的な産物であるとする。そこで正義はもはや「目には目を償い」(Exod.21:24)のモーセ律法の比量的な正義ではなく「信に基づく義」(Rom.10:6)、「神の義は・・信に基づき啓示されている」(Rom.1:17,cf.Gal.3:16)、「キリストの信を介した義」(Phil.3:9)と特徴づけられる神が信に基づき義であることからひとも同様にキリストの信に基づき義とされる神の前の正義を意味し、その正義と愛の両立が打ち立てられる。イエスは信の従順を貫いた、そしてそこにおいて公正なさばき・正義と憐み・愛が和解した。これが福音である。
「福音」とはパウロのまとめによれば「信じる[と神が嘉みする]すべての者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:16)。そしてそれは「信の律法」(3:27)と呼ばれ、「業の[モーセ]律法」とは別の正義をめぐる神の意志であり、「神の信」(3:3)に基づく神の義として告げ示されている。ユダヤ人が信奉するモーセ律法は道徳的次元のみにて比量的、応報的、配分的な業に基づく正義を提示している。それに対し十字架の受容に至るまでの従順の信を貫き、イエスは信に基づく正義を打ち立てることにより、「業の律法」を乗り越える。彼は比量、応報を超える新たな正義のもとに純化されたモーセ律法の正義をも信の従順により満たす。山上の聴衆が「天の父の子となるために」そして天国における報いとしての最終的な正義の実現への信仰によって、彼は地に固執する群衆を新たに「地の塩、世の光」となるよう導く(5:13-14,45)。
イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(7:11)。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(6:32-33)。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。誰かに何か良きものを求めることはそのひとに対する信頼を前提にしている。天の父なる神がその信仰を嘉みされたそのひとりのひと、ナザレのイエスが人類のなかから出現し、その方は良心を宥める究極的な律法を語り生きまたそれ故に死んだまさにその方である。
1.2 古い革袋を破る新しい生命の福音
山上のこの厳しい律法はイエスの言葉と働き故に新たな光のもとに理解され、何らかの仕方で実現可能なものとされているに相違ない。さもなければ、誰も天国に入ることができないのに彼は空しく天の父の子となるよう福音を宣教することになるからである。イエスご自身は旧約のなかで新約を打ち立てようとする途上の生を今・ここで遂行している。「この杯は汝らのために流されるわが血における新しい契約である」(Luk.22:20)。無償の恩恵である福音は新しい契約として旧約を適切に秩序付けるべく人類に与えられている。
洗礼者ヨハネは「荒野に呼ばわる声」として、預言者イザヤの言葉「主の道をととのえ、その道筋をまっすぐにせよ」(Mac.1:3)に即し生命をかけて主の到来の道をまっすぐにした。ヨハネは水による悔い改めの洗礼を授けつつ、主の到来を備える最後の預言者として位置付けられる。「すべての預言者たちと律法が預言したが、それは[洗礼者]ヨハネまでである」(Mat.11:12)。ヨハネは言う。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-12)。
預言のときは過ぎ、今や試練を表す火と平安をもたらす聖霊による洗礼が授けられる福音のときが到来したと宣言されている。イエスは言いたまう、「時は満ちた、神の国は近づいた。汝らは悔い改めよそして福音を信ぜよ」(Mac.1:15)。預言者たちと律法、それら「聖書全体」は新しく福音のもとに位置付けられる。イエスはご自身の復活のあと、エマオの途上において復活の主とは気づかなかった二人の弟子と共に歩きながら、真の預言者たちについて言う。「「ああ、預言者たちが語ったすべてのことを信じることに至らない、何という、愚かでその心鈍い者たち。キリスト[メシア]はこれらの苦しみを忍んでそして栄光に至るはずではなかったのか」。そして、イエスはモーセとすべての預言者から初めて聖書全体において(en pasais tais graphais)、ご自分について書かれていることを説明された」(Luk.24:25-27)。
預言者と律法、「聖書全体」はイエス・キリストを即ち彼の福音をめがけ、証言し指差していた。旧約から新約へのバトンをイエスに渡すことが洗礼者ヨハネの務めであった。モーセ律法を純化させた山上の説教は実はナザレのイエスにより満たされることにより、預言と律法は新たに福音に秩序づけられることとなった。生命の迸りは古い革袋を破ってしまう。預言者と律法の古い革袋は生命の輝きと生命の泉の迸りの福音の新しい革袋に受け継がれる。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けてそして酒はほとばしりでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。彼は、今・ここにおいて福音を持ち運んだが、その実現の極において、彼を十字架に磔た敵である罪人を贖うべく、罪なき者として罪ある者の身代わりの死を遂げた。神はそれにより愛を人類に示した。「神はご自身の独子を賜るほどにこの世界を愛したまうた」(John.3:16)。
レビ記の記者は「汝の隣人を、汝自身の如くに、愛せよ」と命じる時、「汝自身の如くに」により表現している汝が自らを愛する愛と同じだけの愛が隣人に向けられねばならないと律法を報告する。そのとき彼は愛が等しさの生起であることを知っていた(Lev.19:18,cf.Deut.6:5,10:12)。例えば父と子、夫と妻、教師と生徒等のあいだに、父は子によって父であり、子は父によって子であるその等しさがその都度生起するもの、すなわち、支配からも被支配からも唯一自由な場所で我と汝の等しさが生起すること、それが愛であった。「われは汝らの神となり、汝らはわが民となる」(Lev.26:12)。そしてその等しさの生起に向かう歩みも希望における「愛」である。その方向にある限り希望が湧いてくるからである。
迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜び祝え、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において、友と友、となる希望が生じるからである。その希望に伴う喜びは、愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清めるものだからである。
争いのやまないわれらの歴史は心情倫理と責任倫理をわけて、後者の視点を多くの場合採用し社会の秩序を守る制度を充実させてきた。「裁くな」、「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済や文化活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は戦争はもとより正当防衛さえ不可能にするため、個々人の心魂の在り方としては賞賛されるが、行政機関、政治は結果責任のもとに到底山上の説教に与することはできないと主張された (Mat.7:1,5:33-37,5:31,5:39)。しかし、このような棲み分けは全体として一つのものであるひとの心とその身体を介した営みを理論上そして実際上分断するものであり、心なき制度化、形式化がはびこり、その前提のもとでの業に基づく比量的正義の追求は人間がそこにおいて最も人間であるその心を苦しめることになる。ひとの良心はそのような棲み分け、二心に満足できないのである。
敵であったわれらの罪を赦す愛を成就したその方との共知においてわれらの良心は宥められ、その心によって清き者となり平和を造る者となる。われらがイエスの言葉と働きによるご自身の使命と愛の知識を得るにいたるとき、そのとき厳しい律法が福音に包摂されたと言うことができる。そこでは山上の説教は単に言葉ではない。イエスにより満たされた言葉である。それは信そして愛についてのどこまでも人格的な今・ここの共同の知識・良心である。たとえ数式により宇宙の法則を解明したとしても、そこでは創造者なる神は超数学者、物理学者ではあっても、天の父と理解されることはない。
或る認知的発動が神との共知であるためには、聖書で報告されている神ご自身の認識、とりわけナザレのイエスの「父」や「天の国」の知見に習熟することが求められる。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわたしに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。何らかの共知を介して自らが自らを告発する良心の咎めに沈むわれらとは異なるところで、異なる想いと異なるはるかに高い道を歩みたまう神の知恵に合わせられるとき、良心の宥めが共知として生起する。その癒された心から業の律法や制度に至るまで秩序づけられるとき、平和への希望と力を得ることであろう。
イエスは自分の娘を癒していただきたく「主よ、わたしを憐みたまえ」と懇願するカナン地方の女性に「わたしはイスラエルの失われた羊にしか遣わされなかった」と応答したとき、イエスはユダヤ人として旧約の伝統のなかに自ら自己規制していたことを明らかにしている(Mat.15:21-28)。しかし新しい葡萄酒は新しい革袋にいれなければ、破れてしまう。旧約の古い革袋のなかで彼は活動したが、あまりの福音、あまりの生命の故に、旧約は内側から破られてしまったのである。イエスが「子供たちのパンを取り上げそして犬に投げ与えることは良くない」と言うと、その女性は「主よ、そのとおりです、というのも子犬たちは主人たちのテーブルから落ちるパン屑を食べるからです」と言った。そのとき、イエスは彼女にお応えになった、「「ああ女の方よ、汝の信仰は大いなるものである。汝が望むようにことが成るように」。そしてそのとき彼女の娘は癒されたのであった。旧約のただなかにそれを極性化、純化するそのただなかで、彼の憐みが迸りでるのである。信に基づく正義と正義の果実の一例がここで生まれた。彼の一言一句、一挙手一投足は旧約の制約のなかで信に基づく正義と信に基づく愛、信義の果実としての憐みの双方の実現に向けられていたのである。
*ここでは「心魂」を「こころ」と読ますが、一方「魂(phsuchē)」は生命原理を意味し、「心(kardia)」は意識の座、聖霊を受容する座を意味し、「魂」の基礎のもとに「心」が働く。固有名「ソクラテス」により身体をもった三次元の獅子鼻の存在者とその内奥の意識の座であり身体の働きを伴う行為を制御する彼の心そして彼の心の働きを支える生命原理である魂にまで同時に指示が届くものと理解する。例えば、「そのことの故にわたしは汝らに言う、汝らの魂[生命の源]のことで、汝ら[心]は何を食べようか、何を飲もうか、また汝らの身体のことで何を着ようか、汝ら[心]は思い煩うな。魂[生命の源]は食物より一層大切なものであり、身体は衣服より一層大切なものであるのではないか」(Mat.6:25,cf.10:28)。ここで「汝ら」により生きて触れうる人々とその心と魂をも理解することができる。汝らの魂は食物より一層大切なものである、つまり汝らの魂は食物がそれのためにあるところのその目的であり、汝らの心はその生命の源である魂をこそケアすると語り直しても何ら問題がない。指示が届いているからである。他の事例として、「ひと[心]が全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひと[心]は自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。「その心によって清らかな者は祝福されている」(Mat.5:8)。「神の愛はわれらに賜わった聖霊を媒介にしてわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。
春の聖書講義3―福音による一切の秩序付け―
宗教改革「みなもとの信&信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―
A Religious Reformation ‘The Faithfulness of Source & the Source of Faithfulness’―Back to the Gospel, departing Far East via Wittenberg & Rome―.
モットー「みなもとの信と信のみなもと:イエス・キリスト或いは神の知恵と信」
Motto. ‘fides fontis et fons fidei : Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei’
77か条の提題
目次
序言
1. 福音への帰還―イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生―
1.1山上の説教における道徳、自然そして天の父
1.2 古い革袋を破る新しい生命の福音
2.山上の説教の神学的展開―信に基づく正義と憐みの成就―
2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―
2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性
2:3 人類をその罪と苦難から救済に導く福音
3.21世紀の宗教改革の核心―「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学―
3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
3:2.新しい宗教改革に至る唯一の道―ロゴスとエルゴンの総合―
77か条の提題
2:3人類をその罪と苦難から救済に導く福音
パウロの神学はナザレのイエスによりその生命と今・ここの躍動感を得ている。イエスはひとの肉の弱さに衷心からの「憐み(splangchnon=はらわた)」を示し、柔和であり謙遜であった。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」(Mat.9:36,cf.Mac.1:41)。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙遜が伝わる。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂く以外に、ひとは不公正や侮辱そして迫害に耐え、呪う者を祝福し「平和を造る者」にはなりえない(Gal.6:1,Mat.5:9)。
イエスはパリサイ人が眼差しを神の国に向けない偽りを見出し言う。「ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、内側は強奪と情欲で満ちているが、杯や皿の外側を清めている。盲目のパリサイ人たち、まず杯の内側を清めよ、それはその外側も清まるためである」(Mat.23.23-25)。所謂色金名誉をつまり「肉の欲」を心魂の根底に置くとき、もはや眼差しは曇り肉に閉ざされてしまう。これらのパリサイ人攻撃は裁きではない。イエスは言う、「裁くな、裁かれないためである。汝がそこにおいて裁くその裁きにより汝らは裁かれるだろうからである」(7:1-2)。パウロも言う、「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を罪に定めているからである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」。隣人にまた自己に対し自らの心魂の根底を問うことなく、これXをするかXしないかにより烙印をおすことは業の律法に即したものである。「同じこと」とは双方とも業の律法のもとに生きているということである。業の律法のもとにある肉は誰も義とされないのであり、自ら罪に定めている(第6?、27?条)。イエスは信の律法のもとに神の国を持ち運ぶ、即ち愛をその都度成就しているそのなかで、自ら気づいていないパリサイ人の「目にはいったおが屑」(Mat.7:5)を取ろうとしたのであり、業の律法のもとでの裁きではない。自らの偽りに気づいていないパリサイ人を救おうとするその愛の成就は十字架に極まる。パウロは言う、「キリストはわれらがまだ罪びとであるときわれらの代わりに死んだ、そのことにより神はご自身の愛をわれらに結び付けたのである。かくして、今や、われらは彼の血において義とされたのであるから、さらにいっそう彼を介して怒りから救われるであろう。なぜなら、もし、われらは、われらが敵であったときに、神と、ご自身の御子の死を介して、和解させられたのであるなら、さらにいっそう、われらは、和解させられた者として、彼の生命において救われるであろう」(Rom.5:8-10)。
人間社会が自律したものとして自らを司法や行政、経済等制度化、律法化のもとに位置付け、さらに科学技術を促進させることは人間の知性の証であることであろう。医療や技術の進展にこそ例えば疫病の克服の光明が見られ、また教育を受ける機会が得られる。しかし、これらが神に頼らずにすむシステムの構築として肉を厚くするとき、二心、三つ心の偽りに陥る危険にさらされている。これらの営みは、最も良きものによる秩序づけなしには、自らの正当化の動機付けのなかで自ら理解する公平さ、技術革新、効率性の名のもとにある隠れた欲望、有利性を拡大するシステムの作成に向かう傾向性にあり、その結果心魂を罪に引き渡し、神への眼差しをそして隣人への愛を忘れてしまう。
パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)と肉の弱さへの譲歩のもとに「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもある中立的な存在者として人間を位置づけることがある。ひとは相対的自律性を認められているが、いつのまにか、神からの働きかけ、愛を忘れてしまい、神に帰属する端的な自律性を主張するに至る。それが罪である。蛇は誘った、「汝らは神の如くなるであろう」(Gen.2:5)。ひとはナザレのイエスを知れば知るほど、自らが天の父への信頼に生き抜いた彼のようでありえないことを知り、それを「罪」と理解し、そこからの解放を求める。換言すれば、受肉したイエスに繋がらない限り、神は単なる超越者となり抽象者となり、ひとは糸の切れた凧のようになるであろう。
さらに、黙々とわれらに資源を与え続けるmother earthの自然の恵みについても人類は彼女と、今、正しい関係にあるかが問われている。母なる地球が言葉を話さないことをいいことに、ひとは紙に或いは電子的に数字を書き労働の対価として自らのあいだでは正義であると看做し、彼女から資源を受け取ることだけに固執している。人間の間で正義であればそれが許され、何万年も自らのサイズ相当の消費以上にでないカエルにはそれが許されないのは双方の知性の差異によるのか。何からもの許可など要せず、ただ欲望が欲しい侭に自然環境を汲み尽くしているのか。金銭はひとの生がそこにおいて遂行されるこの惑星にたいするあらゆる行動を正当化するかの問いが自然災害という形で投げ返されている。気候変動や風土病の拡大にその兆候が見られるのではないだろうか。環境税等により挽回を試みているが、神に対してはもとより、自然に対しても畏敬の念のもとに仰ぎ見ることは稀である。「もろもろの天は神の栄光を顕し、大空はその御手のわざを示す」(Ps.19:1)。創造主に栄光を帰すこの信によって創造の秩序のもとにある人間と他の生物と地球の正しい関係が築かれることであろう。
この21世紀のパンデミックCovid-19は、聖書的にはこの惑星に住む人類共通の問題というものが実際にあり、ひとりの不注意や身勝手が隣人を苦しみや死に追いやるそのような運命共同体にわれらがあること、人類全体で協力して対処すべき問題が人類史的な状況のなかで生起していることを教えている。パウロは「被造物全体が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにある・・われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ呻いている」と言う(Rom.8:22-23)。このグローバルな出来事は運命共同体としての人類が全体として救いを求めているという創造と救済の聖書的な人間認識を含意している。疫病、飢饉、貧困は世界を不安定なものとし自国第一主義の風潮のなかで国際関係の緊張や戦争にいたることであろう。イエスは「不法があまねくはびこるので、多くの者の愛が冷える」(Mat.24:12)その状況とともに預言する、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、様々な場所で大きな地震と飢饉と疫病が起こるであろう。恐るべきことと天からの大きな予兆が起こるであろう」(Luk.21:10-11)。「そのとき大きな苦難が起きるであろう、それは世界の始まりから今まで起きなかったそしてもう起きないであろうそのようなものだ」(Mat.24:21)。この終末預言の警告のなかでイエスは人類を贖い、救い出すべく十字架に至るまで信の従順を貫いた。
銀河のさらには宇宙全体のいつの日かの崩壊は人類の知性により或る程度予想されているものであるが、イエスのこれらの預言により単に人類の帰趨だけではなく、自然事象さえも、神による宇宙の創造から救済そして新天新地の創造にいたる神の歴史の中に位置付けるかが問われている。そのスケールを人類は考慮にいれることができるのか。肉の欲につけこみ誘い、ひととひととの関係を裂くものは擬人化される「罪」と呼ばれるが、その罪に同意する仕方で「自らの腹に仕え」、自らの腹を神とし「地上のものごとを思慮」する者には「罪が巣食う」(Rom. 7:7-25,16:18,Phil.3:19)。そしてものがよく見えないものとされ、ヴィジョンを失ってしまい目先のことに捉われてしまう。それ故にこそ、心魂の刷新により常に目覚めていることが求められる(cf.Mat.7:5,23:13-26,24:25-44,)。
イエスは宇宙を支配する数式による物理法則をもご存知であったでもあろうが、各人の心魂の内奥に位置する神との共知の宿る良心からわれと汝の人格的な関係の正しさと豊かさを知らしめ、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」により一切の秩序づけを人格的に遂行された。一旦偽りとして破られた道徳的次元の再生において、愛に収斂し純化されるモーセ律法は神の国の信と希望のもとに、秩序づけられる。制度化や科学技術が許容されるのは神の国に秩序づけられる限りにおいてのことである。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。神とひとの媒介者となったナザレのイエスそのひとのもとに常に立ち返ることにより、神の国はアクセス可能なものとなり秩序を見出すことができる。
パウロも「一つのこと」即ち福音の出来事との関連においてすべてのものごとが秩序づけられ、それにより同じ愛のもと「同じことを思慮する」に至るとして喜びを語る。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。喜びを満たせとは共に喜ぶことによって、喜びを溢れさせようという促しである。肯定的なもの創造的なものへの根源的な信なしにはひとは個人において、社会や世界において秩序を見出すことはできないであろう。デヴィッド・ヒュームが『人間知性の探求』において「賢者は彼の信念を証拠に対して比例させる」(p.87)と言うとき、矛盾律に基づくロゴスの力能への顧慮による経験的な働き(エルゴン)との関係づけを欠き、感覚を基本的な認識の源泉にする経験主義はその限界故に経験的エヴィデンスの蓄積以上の信を語りえず、不可視なものへの信に基づく突破力をもたないであろう。世界はもっと確かであり豊かなのである。
宇宙の創造者にして時空の外で一切を統帥する神、その御子はご自身の栄光を捨てひととなり肉の弱さをご自身担われた。ご自身は神の子であることの信のもとに天父の御意に沿うべく、歯を食いしばって「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていよ」と弟子に訴えながら、十字架の死に至るまで従順の信を貫いた(Mat.26:38)。この生身の苦悩が超越性と此岸性のあいだの観念の極性化、断絶を論駁する。信仰の観念化、思弁を乗り越えさせる。彼は自らの肉において神の国を担った。「神の国は汝らのただなかにあり」、「二人または三人、わが名において集まっているところに、わたしは彼らのまんなかにいる」(Luk.17:21,Mat.18:20)。イエスを介して人格的な神に出会う。イエスと共に担ぎ歩く良き軽い軛とは彼が人類のために切り開いた信である。彼はひとの子として信に基づき義とされる神の意志を完遂し、続く者に信の道を伝えた。この比量不能な恩恵即ち御子における信に基づく神の義の啓示において、ひとはこの世の煩いから解放され、良心の宥め、平安、柔和を得る。端的な比較を超える善が人類に与えられたからである。
相対的、比量的なモーセ律法を乗り越える、より根源的な信に基づく神の正義・義はそこでのみ憐れみと両立した御子の従順の生を介して知らされた。滅びに至る門は広く、「狭い門」から入るべく、大地を固める「地の塩」として人間社会を黙々と堅固に下支えし、また自らの全身を輝かせ、「世の光」として「善き働き(ta kala erga)」のもとに先導する。「山の上に立つ街は隠れることはできない」(5:13-16,7:13)。そのなかで「右手で為す善行を左手に知らせない」歩みは一切を正確に知り、正義かつ憐れみ深い神の前での正しい判断を仰ぐことになる(6:3)。ひとは十字架の義を着て神の前に立つことができるだけである。受肉と信の従順の生により実現した恩恵の無償性に基づく福音のみが「わたしが律法を廃棄するべく来たと汝ら看做すな・・成就するべく来た」(5:17)を実現させる。福音において人類の罪と苦難の歴史のなかで救済に与る唯一の道が示された。
3「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学:21世紀の宗教改革「みなもとの信」の核心
3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
使徒パウロはナザレのイエスの生涯が打ち立てた信に基づく義とその義に基づく業の律法の成就を「ローマ書」において、能う限りの明晰性をもって、言語と心魂そしてものごと(その理およびその働き)という三者の関わりとして哲学的に分析することを許容する仕方で神学的に論じた。神の前と人の前の理論上の分離に基づき、パウロは「わたしは汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)とし、神の前を括弧に入れたひとの相対的自律性を譲歩として認め、単に心情倫理と責任倫理の区別、さらには制度化の許容ということではなく、神の前と人の前の創造から救済にいたる総合的秩序づけを企てている。神の子にしてひとの子の啓示に基づき、先に見た肉の弱さの考慮のもとでの責任倫理をもカヴァーしながらも、「一つのこと[イエス・キリストの出来事]を思慮する」(Phil.2:1-2)集中のもとに人間と世界を包摂する。山上の説教は相対的自律性の許容により希釈されたのではなく、道徳次元を内側から突破するヴィジョンのもとに他の一切を秩序づけつつ語るイエスそのひとにより生き抜かれたのである。彼ご自身は肉の弱さをその都度克服されたのである。信の律法に基づく業の律法の秩序づけはパウロにより神の二つの意志の啓示として報告され、人の前の相対的自律性を「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の啓示の出来事に秩序づけている。
このたび、人類による二千年の探究の蓄積のもとに信の哲学の研究を通じて、パウロによるキリストの受肉と受難と復活および来るべき再臨による人類救済の議論が神の選びの教説とともに無矛盾であることが明らかとなった。今日までのパウロの神学をめぐる論争は、彼の神学理論の中心的な主張を形成する「ローマ書」3章21節から31節のとりわけ22節(ū gar estin diastolē)のヒエロニムスによるVulgata版(二世紀以降の古ラテン語訳の四世紀後半における彼自身の言葉では「編集」)の訳に起因するものであることが明らかとなった(第12、17条)。そこでパウロは神の前のことがらを報告しており、その報告の内容は神ご自身がご自身の義の啓示の媒介としてイエス・キリストに帰属した信を用いられたこと、そしてその信とご自身の義の知らしめにおいて分離がないこと、即ちその信義の分離のなさにおいてご自身にとって根源的な義が信に基づくものであることを明らかにしておられることである。パウロは明確に神ご自身の認識をそれ自身として報告するとともに、そのわれらの外の啓示と人の前すなわちわれらのうちの信との関係の総合的な理解を展開したのであった。従来神の前と人の前の分節と総合が不明瞭であったために多くの混乱が生じたと思われる。
カトリック教会とプロテスタント教会相互のまたそれぞれ内部における二千年にわたる論争に思いをはせるとき、真剣で誠実なひとびとがそのテクストをめぐって長く争わざるをえなかった事実は、そのもとのテクストの最初の基礎的な翻訳に何らか誤解を生じさせるものが含まれていたと理解するよう促す。原語diastolē(最大希英辞書LSJではdrawing asunder (「双方に引いて分ける」)やseparationがdistinctionより前に挙げられる)の当該箇所のVulgata訳は non enim est distinctio「なぜなら区別がないからである」である。しかし、それ以降調査の限りすべての翻訳において、これがその理由文であるところの前文「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている」における「信じる者すべて」のあいだに「区別」や「差異」はないと理解されてきた。神の義が啓示されたことの理由が信じる者たちの心的態勢に例えば聖フランシスとヒトラーの信仰に区別や差異がないということはいかにも不可思議である。人類への愛の故に啓示されるというのであれば、より分かるが5章まで愛の議論は封印されており、信ひとすじで突破が図られている。実はひとの心的状態としての信仰に区別や差異がないということではなく、「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに神の前のことがらとして「分離(separatio)はない」と訳されねばならなかったのである。神ご自身にとって信義はモーセの業の律法に基づく義より一層根源的であることを示している。業の律法に即して「すべての者が罪を犯した」と否定的に認識されているのであり、神の信義の啓示という肯定的なものごとは「イエス・キリストの信」を介してなされ、神の義とその信のあいだに分離がないからこそ、「業の律法を離れて」しかもより根底的な神の義として啓示されたのである。これが明示されていれば、今日までのこれほどの混乱はなかったことであろう。3章21節から31節の正しい翻訳は以下のもののようになると思われる。
「[21]しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、神の義は(f1)イエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。
[27]それでは、どこに誇りはあるか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31、第12、27条)。
この福音は「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)つまり神の義はモーセ律法とは分離されうるものであり、しかも「信の律法」(3:27)とは分離なきものとして啓示されたために、神ご自身にとって福音即ち信の律法のほうが業の律法よりご自身の義との関連においてより根源的である。神においてそうであるなら、ひとにとっても神ご自身が信義であることが啓示されたとき、信によって応答することのほうが、「汝~すべからず」、「汝~すべし」の命令のもとでの業の遂行よりも心魂の態勢、行為として根源的であることが含意される。
この誤訳が正されるとき、神の前と人の前の分節と媒介が明確となりまた神の二つの意志「業の律法」と「信の律法」の分節と媒介がさらには「信にもとづく義」と「その義の果実」の分節と媒介が明確になる。もちろんその媒介者はイエス・キリストである。その分節と媒介そして関係づけの故に、これまでの多くの論争に解決が与えられると思われる。そこでは無償の憐みと正義の両立が解明され、例えば福音と律法、信仰と愛、恩恵と自由、選びの教説と各自の責任ある自由の関係をめぐる論争について決着がつけられ提題で明らかにしていく。また贖罪論をめぐり父と御子の協働説か業の律法の枠のなかでの父と御子は審判者と被審判者の関係にある代罰説かの論争についても終止符を打つことができる。新しい葡萄酒を新しい革袋にいれる、そのような旧約から新約への展開を確認することができる。この解明はカトリック教会とプロテスタント教会双方がそれぞれ真理契機を担っているものとして、双方にそれぞれの特徴に応じて固有の場を提示し相互の和解をもたらし、ひとの心魂の再生と人類の平和の基盤になると信じる。(この節は次回に続く)。
枡形山春の聖書講義―21世紀の宗教改革(2)―
「21世紀の宗教改革「信のみなもと&みなもとの信」―極東発Wittenberg & Rome経由、福音への帰還」第二回目です。77箇条の提題を示しますが、今は序言を何回かにわけて朗読しています。その第二節途中までです。
2信に基づく正義と憐みの成就―山上の説教の神学的展開―
2021年2月21日
2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―
ここではナザレのイエスの生涯がパウロによりいかに神学的に理解されているかを確認したい。福音書とパウロの書簡の対話を遂行する。最初に二人の置かれた状況の相違を確認する。イエスの信仰の招きが業のモーセ律法の遵守の要求のただなかで遂行されたのに対し、パウロは神の力能の働きである他に例を見ないイエスの十字架の処刑死とその三日後の甦りの出来事から彼の一切の神学的思考を展開している。彼はイエスの甦りが人類に何をもたらしたのかを受け止め、そこから信に基づく義とその義の果実としての愛が生まれるその神学理論を展開した。
パウロは、神によるアブラハムへの約束に対する信実が歴史上御子の受肉と受難と復活において証された、その「神の信」(Rom.3:3)を基礎に彼の神学を展開する。信は人間にとっては賢者に至る知識をめぐる認知的要素と聖者に至る有徳をめぐる人格的要素の成長への基盤となるが、神は認知的、人格的に十全である。パウロは、神によるご自身の約束への信実がナザレのイエスにおいて成就されたと主張する。その約束に対し神は信実であり、神が正しい方であったこと、即ち「神の義」は「イエス・キリストの信」を媒介にして人類に明らかなものとされた。パウロはこれをひとつの神の意志として受け止め「信の律法」と呼んだ。それはモーセを介して知らしめられたもう一つの神の意志をパウロは「業の律法」と呼んだが、彼はこれら二つの神の意志を信に基づく義と義の果実としての愛として秩序づけた。
常に心に留めるべきことは、山上の説教はナザレのイエスそのひとが今・ここにおいて純化された究極の律法を語りつつ、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」と信仰に招くことにより、その内面化された愛に収斂される律法成就の道を示したことである。イエスご自身は神の愛の先行性を自ら生き抜きご自身がその道となったがゆえに、パウロは神の愛の先行性に基づき愛の相互性を秩序づけることができた。まず、神との正しい関係が確立されることなしには、人間の一切の営みは秩序を得ることはないという明確なメッセージをナザレのイエスは発信した。しかも、彼はユダヤ人の伝統に留まりつつ、旧約の律法を内側から破ることによって、新しい生命に満ち溢れる信仰に招く福音を展開した。福音と律法を静的な関係において捉えてはならない。イエスはガリラヤの野辺を歩きながらリアルタイムに神の意志を実現しつつあったのである。もし彼が公生涯の終わりに十字架から下りてきたしまったなら、神のみ旨は実現されてはいないと看做され、福音の啓示の媒介者として用いられることはなかった、そのような緊張のなかで、肉の弱さを抱えたイエスご自身により一言一句、一挙手一投足が遂行されていたのである。われらはそこに同じ人間として山上の説教を成就しうる可能性と力能を見出す。そして人類の誰かにより山上の説教が語られた事実に、われらは人類に絶望することはない。ましてや彼はそれを信の従順により完遂した方である。
パウロそして福音書記者たちも十字架と復活と昇天ののちにナザレのイエスが何者であったかをめぐり信に基づく義と選びの神学さらにはその伝記を書き残したのであった。パウロは歴史の展開のなかで信の従順を死に至るまで貫き、父なる神の専決行為による甦らしが生起したことのゆえに、福音の成就した視点から「この方はわれらの背きの故に引き渡されたそしてわれらの義化故に甦らされた」(Rom.4:25)と語ることができた。御子の十字架と復活は神の前で即ち神ご自身の理解として、歴史のなかで身代わりの死によるわれらの罪から信仰による義化への移行の成就として知らしめられた。「イエス・キリストの信」を介した「神の義」の啓示は「信の律法」としてわれらに業のモーセ律法からの解放と、信に基づく義による業の律法の新たな秩序づけとして位置づけることができた。
十字架と復活は人類の歴史において「一度限り」(Rom.6:10,cf.1Cor.15:6)のことであり、他の誰かによって再現されるものではない。さもなければ、父なる神は御子の信の従順を贖いに不十分なるものと看做し、御子を裏切ることになる。再現性のないものについては科学的知識の対象とはなりえず、ひとは御子の復活については信仰により突破するしかない。「キリストが信じるすべての者にとって義に至る律法の目指すものである。というのも、モーセは律法に基づく義をこう記しているからである、「それらを為した者はそれらによって生きるであろう」、だが、信に基づく義はこう言うからである、「汝は汝の心のなかで、「誰が[義を求めて遥か]天に昇るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを引き降ろすことである、あるいは「誰が[義を求めて遥か]黄泉に降るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを死者たちのなかから引き上げることである。しかし、彼[モーセ]は何と言っているか、「言葉は汝の近くにある、汝の口のなかにそして汝の心のなかにある」、これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である。すなわち、もし汝が汝の口において主イエスを告白し、そして汝の心のうちに神が彼を死者たちから甦らせたと信じるなら、汝は救われるであろう。というのも、主イエスが心によって信じられるのは義のためであり、口で告白されるのは救いのためだからである」(Rom.10:5-10)。
心の中での信仰を固く保持するためには公にそれを告白し社会の認知の中での自覚を必要としている。それほど復活は信仰による乗り越えと公的な表明を必要とするそのような理解に困難を伴うものであり、しかもその告白は信じることできるというそのことの喜びを与えるものだからである。種蒔きの譬えはイエスの宣教を介して神のみ言葉、み心が聴衆の心に蒔かれそれを受け止めた信仰の実りについてのものである。「イエスは彼らを多くの譬えで教えた、そしてご自身の教えのなかでこう言われた。「聞け、そして見よ。種を蒔く者が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞け」と言われた」(Mac.4:2-10)。
この譬えにおいてみ言葉の蒔き手はイエスご自身であり、受け止める心、拒否する心等われらの様々な心の環境のもとにみ言葉が蒔かれる。これは人生にも適用される。誰も自らの親を選べない、そこに自らの生が奪われ、焼け枯れる運命の過酷さを見るひともいよう。同時にそこに「誰も~ない」という人生の或る意味での平等さと醍醐味がある。自らに生が与えられたことを厳しい与件に思えても、肉の親の背後にいたまう蒔き手を信じ、自らを「良い土地」であると受け止めることなしには三十倍、五十倍に実らすことはできず、蒔き手に対する信頼が不可欠となる。荒地に蒔かれ悲惨にしか思えない与件であるにしても、聞く耳を持ち神に与えられた良い土地であると信じるとき、開墾が始まり、自らの与件から推定されるものの百倍の実りをもたらすこともあろう。豊かな実りとは八福を語られるイエスご自身にとって「天の父の子となる」こと以外ではないであろう。
パウロはとりわけ「ローマ書」においてまた「ガラテア書」において正しい信仰とはいかなるものかの議論を展開する。永遠の生命の保証として主の復活はわれらの信仰を引き起こしそして信に基づく義を保証するものである。パウロは主の復活という神の歴史への介入から十字架とその生涯を捉えなおしたのである。神が愛である限り、この人生は良き土地となる、復活の主が共にいたまうからである。「主はわたしの運命を支える方。測り縄はわたしに向けて佳き地に落ちた、わたしは良き嗣業(ゆずり)を得た」(Ps.16:5-6)。
なお、当のイエスご自身も苦闘のただなかにあったことを忘れてはならない。山上の説教が生命を懸けて生き抜かれたことによって、われらはひととして想定しうる最も偽りのない在り方が福音に包摂される。新しい生命が福音という新しい革袋に入れられた。その喜びの福音はパウロにおいて聖霊によりもたらされる「信じること」が喜びとなり信に基づき救いだす「神の力能」(Rom.1:16)の働きであると特徴づけられる。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、汝らが信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。「ユダヤ人にもギリシャ人にも呼び出された者たち自身にとっては、キリストは神の力能でありまた知恵である」(1Cor.1:22)。信じうることの喜びと公的な信仰告白は自らが神に呼び出された者であることを証する光栄ある心の働きである。
主イエスの甦らしを遂行したまう神の力能によって古い業の律法も新しい信の律法の光のもとに照らし直され新しくなり、業のモーセ律法は何等か新しい酒に変換させられる。それは少なくとも人類にひとりは福音の光のもとに山上の律法を成就した方がいるからであり、それゆえに神はナザレのイエスをご自身の御心に適う者として嘉みし、ご自身の信に基づく義の啓示の媒介として用いられたからである。かくして、業に基づく義とは異なる信に基づく義が、業の律法の冠である愛を実現させるその力能が人類に付与されるに至った。モーセ律法は信の律法に秩序づけられた。信の力能こそ彼の十字架と復活において明らかにされたのである。「「できるものなら」と言うのか、信じる者にはあらゆることができる」(Mac.9:23)。あらゆることは当然愛の業に収斂される。それ故にこそ、われらは山上の説教をそれにより満たしうるのではないかとの希望を抱く。パウロはそれを理論化した。
2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性
モーセ律法とは十戒に基づくものであり、パウロにより「業の律法」(Rom.3:20,27)ないし「モーセ律法」(1Cor.9:9)と呼ばれる。業の律法のもとでは偶像を拝むか・拝まないか、盗むか・盗まないか、貪るか・貪らないか等の二つの対立選択肢のうち一方により義か罪が定まる。パウロにおいては福音が啓示された今、業の律法の役割は「罪が明らかになるためである」(Rom.7:13)と位置付けることができた。信を業の律法のもとで遂行するとは自らを行為の選択の規準として立て、信じるかそれとも「信じないか」によって神に義とされるか否かが定まるという考えである。これは信じるかそれとも「裏切るか」とは同じことではない。「信じない」ことと「裏切る」ことは同じではない。それだけではなくそのように信を業の律法のもとに捉えることは自らの罪が明らかになるだけである。「裏切る」は信仰が一つの業の律法のもとで理解されるさいの対義語「信じない」の二者択一とは異なる(Mat.26:21)。新約における「信の律法」(Rom.3:27)と呼ばれるものは、神がイエス・キリストにおいて約束に信実であり、「神の信」(3:3)を明らかにしたとき、信じるか裏切るかの二者択一を提示している。ひとに対する神の信義がそこでは前提されている。
神の意志としての信の律法と業の律法が判別され、自らがいずれの律法のもとに生きるか明確に自覚しないとき、自らの救いを求め信じることは自己追求、エゴイズムではないか等の懐疑が生起する。信に対するこの種の懐疑や反論は「貪るな」という業の律法のもとに信を従属させることから生じる。信がそのような自己吟味、自己批判のもとにさらされるとき、ひとは知的、人格的誠実の装いのもとに神の前にでないでよいというアリバイを作り、神を避ける自己防衛に走る。「汝ら惑わされるな。神は侮られるような方ではない。ひとは[種を]蒔く場合に、その蒔くところのものを刈り取ることになろう」(Gal.6:7)。「生きています神の御手に落ちることは恐ろしいことである」(Heb.10:31)。信の律法においては神が御子において自らの愛を差し出している。神が提示する戒めに自らの業により応答するかそれとも応答しないか、それとも神が自らの約束に信実であったときその神の信に対し信により応答するかそれとも裏切るのかのいずれかが問われ、旧約と新約いずれの律法を根源として生きるかが問われている、もちろん旧約聖書においてもアブラハムやダビデにおける信義の先駆的事例は見られる。
新しい契約の歩みの中で、ひとはイエスにより業の執行においてパリサイ人に優ることが求められていた。「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)。山上の律法はイエスの福音に秩序づけられるが、それは正義と愛・憐みが彼の一挙手一投足において実現されている限りにおいてである。信に基づく正義と信に基づく愛を実働している死に至るまでのその信の従順こそが福音の成就であった。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。ナザレのイエスの信に基づく言葉と働きが成し遂げた復活において証される正義と愛に基づき、神とひとの和解を理論的に解明することがパウロの課題であった。
「汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう」(Mat.5:18)。天地が過ぎ去るまで律法の一点一画とも過ぎ去らない、廃らないとは、イエスは「愛」が一切の律法のなかで「偉大な戒め」であると理解しており、そのもとに他の一切の戒めを秩序づけられる限り、理解可能となる(Mat.22:36,cf.「律法の冠」、「律法の充足」Rom.13:9,10)。愛が満たされる限り、業の律法としての正義は満たされており、あらゆる律法がめざす愛を実現する限りにおいて一点一画とも過ぎ去らないと言うことができる。人類のなかで少なくともイエスは信に基づき愛と正義を貫いた。この意味において山上の説教は希釈されることはない。イエスは誰にも担いえない心の規範を与え、道徳的苦悩を課す方ではない。そして彼は復活の主として共に重荷を担い歩みたまう。
ひとは誰もがキリストによって二千年前に憐みをかけられている。神へのアクセスはイエスの愛を介するものとなるとき、超越と内在、彼岸と此岸は媒介され、信仰の抽象性、観念性、思弁性が乗り越えられる。憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、「良心・共知」の発動が、「道徳的運」と呼ばれる、ひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛情を注がれ、愛されることを経験し自覚することなしには、また相手方の状況についての知識なしには、発動しないそのような受動の経験と自覚を伴うものである。或るひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証はどれだけ愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。
パウロも言う、「知識は高ぶり、愛は[徳を]建てる。誰かもし何かを知っていると思うなら、その者はまだ知るべきその仕方で知ってはいない。誰かもし神を愛するなら、その者はご自身により知られてしまっている」(1Cor.8:3)。高ぶりのなかで何かを知っていると主張するとき、愛されていることを知ることはできず、知るその仕方は少なくとも神の愛を前提にした愛の相互性に基づかない。「われらは知っている、神を愛する者たちには、彼らは計画に即して召された者たちであって、あらゆるものごとが善きことへと協働することを」(Rom.8:28)。ひとは神の計画のもとに神により知られ、愛されることによって愛するのであって、その愛を自覚せず、求めない者には善へと協働する愛は生起しない。まず神に今・ここで愛されていることの信が不可欠であることは神の愛の先行性が隣人愛の相互性を保証することを含意している(cf.1John.4:7-8)。
ひとはとりわけ自らの偏った認識により高ぶり、自らの与件を忘れ、恩義や憐みへの感謝をすぐ忘れてしまうからこそ、「七度の七十倍赦すこと」(Mat.18:22)がイエスにより求められる。彼はその理由をたとえ話で伝える。或る王が家来を憐れに思って、その負債を赦したが、その家来が自らに負債ある者を赦さず、牢に入れた。王はこの態度に怒って言う。「悪い僕だ、・・わたしが君を憐れんだように、君も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(18:32)。われらは皆キリストにあって既に七度の七十倍は赦されている。
それほどまでに、ひとは自らへの他者からの恩義を負担に感じ、一人で成し遂げたかの如くに思いこむ。「誰が汝をより優れた者としたのか、汝は受け取らなかったものを何か持っているのか。もし汝が受け取ったなら、何故受け取らなかったかのごとく誇るのか」(1Cor.4:7)。パウロはただ十字架を誇る。「われらの主キリスト・イエス、その彼を介して世界はわたしに磔られ、わたしもまた世界に磔られた、その十字架以外にわたしに誇ることが生じることは断じてあってはならない」(Gal.6:14)。このキリストの受苦(パテーマ)がわれらのパトス(受動)を造り変えていく。受動の強さが能動の高さを生み出していく。「愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず・・誇らず、高ぶらず、礼を失せず、自らの利益を求めず、いらだたず、恨まない」(1Cor.13:4-5)。愛のうちにあるものは否定的なパトスに引きずられることはない。愛は「誰に対しても悪に対して悪をかえさず」(Rom.12:17)、「互いに兄弟愛において慈しみ、相互に尊敬において導き手とする」(Rom.12:10)。愛は支配からも被支配からも操作や差別からも唯一自由な所で心に生起する神の子同士のわれと汝の等しさであった。右の頬を打たれたら左の頬を向けつつ、いつの日にか敵が友となる希望によりシーソーのアンバランスは現に平行を得ている。
旧約の革袋から破りでる福音の生命 ―一年を振り返って―
旧約の革袋から破りでる福音の生命 ―一年を振り返って―
2021年2月7日
1一年を振り返って
今日が本年度最後の聖書講義です。第36回目です。職務として日曜の話をするのは初めてでした。札幌では23年間学生さんを中心にした集まりを主催していましたが、いろいろな意味で、今より一層不十分でした。私の拙い話を聞いてもらっているという感覚をもったこともありましたが、当時は暗中模索であったと思います。今から思えば、あの日々が理論的解明の基礎を与え、ようやく自らの懐疑、疑問に対し『信の哲学―使徒パウロはどこまで共約的か―』において自分なりの解決を見出しました。また札幌の日々がこの共同生活の備えをしたと思います。たとえ理論的には様々な問が解けたとしても、それを生きることなしには聖書の真に伝えたいことは理解したことにはならないのです。
「理解」について、認知的理解は人格的な愛を建てることにより確認されるというひとつの伝統があります。アウグスティヌスは言います。「誰であれ自分が神的な聖書をその或る部分でさえ理解したと想定する者は、その者が持つ理解によって、神と隣人への愛を建てることなしには、それらを理解してしまってはいない(nondum intellexit)」(Augustin, De Doctrina Christiana, Oeuvres de Saint Augustin, 11/2, tr. M.Moreau,Liber I,XXXVI,40,p.128 (Institut d’ Études Augustiniennes, Paris 1997)。この伝統の基礎は、死に至るまでの従順の信に基づき愛を実践した贖い主が既に信から愛への道を備えたことに求められます。これはロゴスの一種の証、可視化であると言えます。キリスト教の歴史においては神が受肉してその意志を歴史のなかに表したのは信と愛を心魂の根源とその完成としてでした。理解の複層的な判別のもとに、心魂の認知的かつ人格的態勢の統一理論の構築がめざされてきたのです。
この一年間日曜の聖書講義に関して何が一番たいへんであったかというと、心を刷新させないと聖書の話はできないということです。肉に留まっていては理解できない、そのような仕方で聖書は書かれています。ひとはそれを聖書記者たちが聖霊に促されて神の言葉を伝えているからだと言います。心の刷新は何等か聖霊に触れるという仕方でおきますが、わたしとしましては、夜泣きする幼児のように聖霊をいただくべく十字架の憐みに縋るしかないのです。わたしの先生の旧約学者関根正雄先生は「自分に死なずに日曜の話をしたことはない」と言われました。先生は50年以上聖書集会を主催されました。土曜の夜はその意味で徹夜しつつおのれに死ぬべくテクストと格闘してこられたのだと思います。私の場合はそれをとても不十分に毎週繰り返してきたことになります。
この一年多くの躓きの石を皆さんの前に置いたことであろうと思います。命じられたことをさえ為しえないわたしは、福音書にある給仕の話のなかで「われらは無益な僕です。為すべきことを為しただけです」と言うことはできず、「この無益な僕を憐み給え」と祈るしかないのです(Luk.17:10)。
昨日の卒寮式は皆さんの協力のもとに遂行され感謝でした。前途への希望のうちに5人の皆さんを送り出せて、よかったです。他方、当方のいたらなさのゆえに共同生活における義務そして優先順位をめぐって、さらには無理な注文をすることによって、複数のひとを躓かせてしまったと思います。自分の都合にあわせて、相手を操作していないかどうかをそのつど人間関係を修正、リセットしないとひずみがたまっていきます。胸に手をあてて、寮生各人の善を、幸いを心から願っているかを吟味します。そしてそのひとのために何ができるかを吟味します。躓かせてしまったひとびとには等しさが生起すべく、何ができるかをそのつどの文脈で関係回復をめざします。
自らが常におのれから自由で愛のモードにいないとき、すなわち支配からも支配されることからも唯一自由な場所で生起するわれと汝の等しさのうちにいないとき、失敗がおきてしまう。まさに「愛は失敗しない(=倒れない)」(1Cor.13:8)、「愛には恐れがない。十全な愛は恐れを外に締め出す」(1John.4:18)です。自分はそのひとのことを恐れてはいないかを自らに問い、何らかの恐れがあるときは愛のうちにないことが分かります。哲学者はそれを「パトスはヘクシスのセーメイオンだ」と即ち自ら選ぶことのできない身体的反応である恐れなど感情や欲求は、そのひとの心の態勢・在り方の徴であるということです。聖霊により清められるとき、わたしどもは垣根がなくなり、相互に相互の幸いを願うことができるものとされます。イエスは常にこの態勢にあり、自らを敵対視するパリサイ人とも素手で自らを生命の危険に晒すことになることを厭わず、避けず、彼らの克服すべき点を指摘し、目にあるおが屑を取るよう努めました。自らの胸に手をあてて、自分を避け嫌うひとの幸いを願うかを問うことから始め、何か肯定的な喜びと力に満ちたものを歴史に遺したいと思います。もう二度と罪の奴隷になりたくありません。罪はいつでも人間関係を破壊すべき工作してきます。目覚めていればそれを克服できます。「われらはあいつの企みに無知ではない」とパウロは言います(2Cor.2:11)。以上が生活の中での聖書講義をめぐる反省です。
2ナザレのイエスの言葉と働きが媒介する
やはり福音(喜びの音信)を語っていたいと思います。奇跡物語序論と題して四回ほど所謂奇跡をどのように理解できるかを考察してきました。力溢れるイエスの山上の説教の言葉とそれに相即する彼の働きはやはり神の憐みの力ある発揮であり、癒しや永遠の生命を保証する復活という本来的な秩序の回復をもたらします。「光あれ」と言葉一つでこの満天に輝く星々を創造された神は一切を知りそして統括しておられます。そのような神なら、言葉一つで罪に沈み、苦しみに沈む人類を救うことができたろうに、わざわざ御子の受肉と十字架の生涯を必要としていたとすれば、神は全知でも全能でもないのではないかと疑われてきました。御子の受肉と死に至るまでの信の従順以外に、わたしどもは信に基づく罪の赦し、信に基づく義を得ることはできなかったであろうことは明らかです。パウロは言います。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。神とひととの媒介者なしにわれらの全知全能の神への信仰は抽象的、観念的に留まり、どこまでも体得的な知識とはならず、懐疑に翻弄されたことでありましょう。イエスはわれらと同じ肉の弱さを担われたのです。だからわれらもこの肉に導かれる身体を脱ぎ捨てるのではなく、キリストの義をこの肉のうえに着るのです。一方でキリストは「罪を知らざる方」であり続け、罪びとの罪を自ら十字架で引き受けました(2Cor.5:21)。神は身代わりの罪を罪なきイエスに罪なきままに担わせました。そのことによって、キリストの死に古き罪人は共に飲み込まれ死んでしまいました。しかし、それはその死が生命に飲み込まれるためです。「われらはこのテント[身体]のなかにいるあいだ、われらは重荷を担いつつ呻いているが、彼にあってわれらは脱がされることを欲しているのではなく、[身体の]上に着ることを欲している、それは死すべきものが生命によって飲みこまれるためである」(2Cor.5:4)。キリストは罪なき者として復活を成し遂げ、永遠の生命の在り処(ありか)をわれらに示しました。心魂の二心なき信によって罪赦され、永遠の救いをいただくのです。「彼はわれらの背きの故に死に引き渡され、われらの義化故に甦らされた」(Rom.4:25)。われらは重荷に喘ぐ身体を脱ぐのではなく、キリストが担い給うたのはその身体の重荷であり、彼はその肉のうえに生命を担ってい給うたからこそ、身体に帰属する死は生に飲み込まれるのです。信に基づき復活の希望に生きるのです。万物の栄光がこの弱き肉を担ってくださった以上は、われらは神の栄光なのです。この身体をいただいたことを感謝しつつ「身体の贖われること」(Rom.8:23)を忍耐をもって待ち望むのです。キリストの復活はこの地球の歴史において一度限りであり、われらは再現性のないこの特異な事象を信仰によって乗り越えるのです。そこにわれらの思いにすぐる神の平安がわれらの心と認識を守ってくださることでしょう。信じることができるというだけで、喜びなのです。信は人の肯定的な生を築きあげる基礎だからです。生命と力に溢れた肯定的なものへの信なしには、ひとの心と身体は萎縮し、分裂し滅びに至るそのようにできているのだと思います。ひとは知らないものごとを、また為しえないものごとを信によってそのつど乗り越えていくのです。
山上の説教はその信仰への招きであったのです。イエスはご自身を旧約の伝統の中に置きました。彼に与えられていたのは旧約聖書だったからです。ご自身について書かれた新約聖書を当然彼は持ち合わせてはおらず、一言一句、一挙手一投足において実現しつつあったのです。彼が一歩でも間違えたら、この書物は永遠に書かれることがなかったのです。イエスは旧約の選びの民の伝統のなかで「わたしはイスラエルの失われた羊にしか遣わされていない」と自己規制しながらも、その生命は古い革袋を内側から破り迸り、生命の喜びが異邦人へと溢れていきました。しかし新しい葡萄酒は新しい革袋にいれなければ、破れてしまう。旧約の古い革袋のなかで彼は活動したが、あまりの福音、あまりの生命の故に、旧約は内側から破られてしまったのです。当時ユダヤ人はカナン人等異邦人と交流をもちませんでした。イエスが「子供たちのパンを取り上げそして犬に投げ与えることは良くない」と言うと、そのカナンの女性は「主よ、そのとおりです、というのも子犬たちは主人たちのテーブルから落ちるパン屑を食べるからです」と言った。そのとき、イエスは彼女お応えになった、「「ああ女の方よ、汝の信仰は大いなるものである。汝が望むようにことが成るように」。そしてそのとき彼女の娘は癒されたのでした。旧約のただなかにそれを極性化、純化するそのただなかで、彼の憐みが迸りでるのです。奇跡とは主の憐みからくる神の力能の溢れ出しなのです。それが病から健康へという秩序の回復であり限り、秩序の座である自然に反するものではないでありましょう、たとえいかなる上位の自然法則により遂行されたかをわれらが未だ知ることができないとしましても。カナンの女性において、信に基づく正義の一例がここで生まれたのです。彼の一言一句、一挙手一投足は信に基づく正義と信に基づく憐みの双方の実現に向けられていたのです。
ひとは知らないこと、そして為しえないことを信によって突破するのです。それを一つ一つ乗り越えていくというしかたで人生を築いていくのです。本年の最後ですので、「探求と発見」(11月1日、8日、15日)の箇所で自らの小さな経験を報告しましたが、自らの小さな生が憐みを受けつつ、変えられてきたことを証することをお許しください。読み残したままで終わるのも落ち着きがわるいので、それにより、本年の締めくくりにすることをお許しください。なお、これは一つの証にすぎません。各人はそれぞれ恩恵や体得的知識を持ちますが、それは決して普遍化してはならないものです。神様がそのひとに必要な恩恵を与えられたものであり、他の或るひとには別の仕方で与えられることでしょう。
3探し求めドアを叩き、見出し開かれた記録―留学記補遺―
二度にわたって過去に書いた留学記をお読みしましたが、残りの部分を読みます。今年度山上の説教の学びでえた、なんとも簡潔でけれんみのない戒め、ただ地の塩、世の光でありたいという思いだけがこの回顧を導きますように。初めてのひとのために、補いながら「オックスフォード便り」を後に編集した文章の続きを読みます。
1985年春から90年早春まで5年間イギリスに留学した。当時、私はギリシャ哲学を研究し、非常勤講師として哲学やギリシャ語を教えていたが、哲学研究に関し閉息感と無力感に悩まされていた。本場に行き、よいものに触れれば何か道が開けるのではないかという淡い期待をもって、アリストテレス研究の伝統あるオックスフォードに、そこには誰一人知る人もいず、ただJ.Barnes先生からの一枚のsemi officialな手紙を手に鞄一つで、武者修業に飛び立った。ドラマはヒースロー空港到着直後にはじまった。入国審査でお前なんかこの国にいれないという類のことを言われ、ロンドンの場末のユースホステルに潜伏した。正確には二か月のみの旅行者滞在許可であったため途方に暮れた。そのときもらった紙に移民局の住所があり、イースター開けを待ってクロイドンにある移民局にカラフルな人々と列をつくり、ようやく或る条件のもと更新の可能性を得た。そのようなゼロからの英国生活の始まりであった。David Charles先生との出会いがその後の五年間を作りかえた。以下、「オックスフォード便り」という日本の家族や友人に送っていた公開書簡等から探求に関わる所を当時の未熟なままの文章の引用により探求の歩みを振り返りたい(当時のものをそのまま引用し、便宜上繋ぎ合わせるが、今回の説明は[・・]により補足)。
4 The Last Wordを求めて
・・私は再びエルスフィールドにおります。今朝、1989年11月27日相当の歳月をかけて自分のエネルギーの大半を捧げてきた博士論文『アリストテレスの説明の理論ー論証科学と科学的探究ー』がようやく完成し、製本すべく外にでると空は初冬の身のひきしまる朝のすがすがしい大気の輝きに満ちていました。コスモスの咲くころには提出したいと春に話しておりましたが、先日まで庭の二隅で群生し秋の風に揺れていたこの花は、かろうじて2、3生き残り弱々しく朝露に濡れているだけでした。ふだんは荘重な尖塔の連なりを眺望できる丘の端に来ると、下界は一面の霧につつまれていましたが、次第に樹木が上の部分から次第に姿を現わしてきました。街に着くころには一切が朝のみずみずしい生命の輝きに息づいていました。この4年半を振り返ると、これだけのものを書くのにどうしてこんなに時間がかかったのかと愚かさに呆れると同時に、よくここまでこれたというのも実感です。最後の2、3日色々理由をつけてあれほど望んでいた完成を遅らせていたのは、何か愛する子と別れる母親の心境に似ていたのだと思います。
日記からこの仕事とこの一年半の格闘の一端を少しだけ振り返ってみましょう。
「88年4月30日(土) David、ヒューレカ、ヒューレカ(見つけた)!ようやくアリストテレス論証科学の原理について2千年のエニグマ(謎)を解いた」。
「5月29日(日) どうも『分析論後書』がコンシシステントに読めてきた。ワクワク、ゾクゾクする。これはきっと画期的な仕事になるぞ。『形而上学』解明の基礎を与えるであろう」。
「6月20日(日) 朝、晴れ、昨日は好天気だった。何年アメソス(無中項)に悩まされねばならないのか」。
「9月22日(木)ドゥブロブニックから帰ったら、すっかり秋になっていた。空はライトブルー、リンゴの木は実をたわわにならせている。空気は乾いてすんでいる。樹木は薄い色合いを醸し出している。ようやく論文に心が戻ってきた。一気に固有原理に関して明確な線がとれた。やはり休むことはよいことらしい」。
「10月5日(水) 論文調子良い。能力そして質の問題は乗り越えた。後は時間の問題だけになってきた」。
「10月17日(月) アメソス(無中項)を呪って自分は死ぬだろうと思ってきた。この語故にどれだけ無駄に時が流れていったことか。しかしようやく最も基本的なことに気付いた。・・僕は愚かだから人が短い時間で身につけることを長い時間かけてようやく修得している」。
「10月20日(木) アメソスに絶望している。こんなに苦しいことがあるか。10年解らずにいる。神の存在の次に解らず悩んでいるのがこのアメソスとは。とはいえ、人生が何のためにあるかも解っていないではないか」。
「10月21日(金) ようやく一つの仮説に到達した。エイス・アメサ[無中項へ]とディア・アメソン[無中項を通じて]が持つ前置詞の違いがふたつの不可論証性につながる。いけいけ」。
「12月22日(木) 昨晩ディヴィッドが[私のペーパーを読んで]興奮して電話をかけてきた。今日ディヴィッドとチュートリアル。彼は100%同意してくれた。これでアメソスにけりがついた」。
「89年1月21日(土) 朝、快晴。確実に僕は論理的思考、哲学的思索において成長している。今振り返ると去年は哲学的に飛躍の年だった。これで哲学を教えることができるであろう。僕の歴史は確かに神様に導かれている。神は僕の願いをかなえてくださるであろう。それよりも一番良い方向に導いてくださるであろう。独身可、失業可なりだ。今にして思えば自分の20代は何だったのだろう。惨憺たるものだった。哲学的には無に等しかった。しかし、信仰がわかったのだから良しとすべきか。30代は哲学の時代で、そして40代で信仰と哲学をつきあわせてみよう。関根正雄先生が留学当初「罪の許しと戒めの下に立つことだけで力一杯哲学をやってきてください」と励ましてくださったことを思い出す。論文が秋には終わる見通しがついて何かうきうきうれしい。昨日セクションEの骨格ができた。公理論はなかなかおもしろい」。
「2月1日(水) エルスフィールドでディヴィッドとチュートリアル。哲学することの中心に触れた感じだ。必然性と説明。世界が開けていく興奮を味わった」。
「2月18日(土) ディヴィッドとまた素晴しいチュートリアル。矮小な人間には哲学はできない。人間を相手にしていては哲学はできない。ディヴィッドの片寄りのなさ。ちょこざいさのなさ。理性を信頼したオーソドックスな思索は片寄った矮小な人間にはできないことだ。僕が少々問題だと感じるところを決して彼は見逃さない。彼には大きな問題として抗うべくもなく映っているのだろう。アグリーメントということはあるものなのだ。ロゴスで互いに世界を堀りあうということはあるものなのだ。彼は堀り損ねた場合何が間違っているのかを明確にしてくれる。僕のアイディアをよく理解してくれる。「セクションA エピステーメーにおける科学的そして認知的側面」或る意味で画期的な発見だった。昨日「ヤッタ」と原稿片手に彼の部屋に飛び込むと「Welldoneウエルダン」と向かえてくれた」。
「4月27日(木) 知性革命とでも言うべきことがこのイギリス滞在中に起こった。それはどんな問題が提出されてもそれを分析する力がついたということだ。情報量ではない、分析力そして議論の構成力だ。この知性の明晰性こそ僕が苦しみながら求めてきたことなのだった。人間が考えていることで全然解りえないものはないように思えてきた。後は慣れの問題だ、その領域で時間を費やしさえすれば何とかなるような気がしてきた。思考力がついたのだろう。楽しくてしようがない。知ることの喜び」。
「5月25日(木)・・アリストテレスと分析哲学と宗教哲学を自分のプロフェッションにしたい。日本と世界の平和に何らか役立ちうるかもしれない。1932-33年のウクライナにおけるスターリンによるマンメード・ファミン(人工飢餓)のドキュメント番組を見た後、「哲学は無力に感じる」とディヴィッドに言ったら、彼は少し不快な表情をしたことを思い出す。彼のようなプロの哲学者はそのような性急な答えをださないのだ。最後的に世界を支える理性の牙城たらんとしているのだ。理性と信仰を前進させることによって、少しでも世界の真実を明らかにしてゆきたい。こちらに来て初めて知性というもののすごさを知った。ロゴスで世界を掘っていく力、それを哲学は与えてくれる。・・今僕は知的好奇心の塊と化した。今まで見えなかったものが見えるようになった、自分自身そして人間というものについて」。
・・・今このように日記を読み返しますと道化のような日々でしたが、とにかく多くの人々の助けにより終えることができました。今学期チューターのJ.バーンズ先生は私が彼を引用するたびに意見を異にしていましたので、激しい攻防を覚悟しておりましたが、先生はシンパテティックで「とても良い」と評してくださりほっとしました。その後先生は手紙を下さいました。「親愛なる千葉君、手紙ありがとう。君の議論は今や一層明瞭になりまたより説得的になっていると真に思う。私は完全に折伏されたとは言わない。しかし、それは恐らく私自身の頑固さの反映にすぎないのであろう。(I won't say that I'm wholly convinced, but that is probably only a reflection on my own stubbornness.)」。
また、カリフォルニアに招かれていたディヴィッドからは各章に対する批評の後に次のようなコメントを頂きました。「君の論文は哲学的に興味深くまたかなりよく論じられている。私には 博士号基準を満たしていると思う。そのことは過去2、3年間における大きな進展を示している。君は君がなした進歩を喜ぶがよろしい。そしてお祝に値する。私は知っている、君が時に道は長くかつ険しいと感じていたことを。しかし、今や、終りが視野に入ったのだ!(I know that sometimes you have felt that the road is long and difficult. But the end is now in sight !)」・・
5 Farewell
私はこうして、1989年11月に博士論文を提出し、1990年2 月14日にスクールズでM.ウッヅ先生とC.カーワン先生により口頭試問(Viva)を受けた。翌日、チャールズ先生が電話で「ハロー、ドクター千葉」と呼びかけてきた。彼等の当局への報告書には、「極めて野心的」であり「明らかにとても徹底したテクストの一つの読みであるものを基礎にして、アリストテレスの科学の理論における多くの重要な論点の興味深い議論を含んでいる」と評されている。私はかの地の生活を何の資格身分もなく、言葉をかわした人もなく、ゼロから始めた。2ヵ月の滞在許可しかもらえず、ロンドンの場末のユースホステルで途方に暮れていたことを思い出す。その後の5年間において筆者はオックスフォードにおける知的訓練の伝統によって変えられた、そして教育の力ひいては人間の愛の力を信じるようになった。2月27日に聖書学のG.グラゾフが主催するダヴィンチ・ソサイエティーの例会とお別れ会をジョイントでポルステッドロードの私の下宿で持った。私は"Fides quaerens intellectum(知解を求める信仰)"という題で発表した。翌朝、「Farewell(さよなら)」という詩をオックスフォードとその地の人々に捧げ、イギリスを去った。
さよなら
さよなら、Oxford、大学街。
スカイライン、牧草地、丘そして人々からなる星雲状の集塊。
地下室のワイン、教会の鐘の音、車の臭い、手の掌に柔らかい中世写本の皮表紙、そして白金の壁がおりなす不可解な調和の街。
早春の晴れた一日あなたは生命にはずむ。
あなたの造りし物たちは、春一番の暖かい南風に呼応して、
深い動きのない眠りから目覚め、生命を吹き返す。
春の息吹がここかしこに感じられる。
あなたは夏の暑い朝あでやか(gorgeous)だ。
あなたのジョージア朝風のカレッジ壁やヴィクトリア朝風の庭園は、
あざやかな色とりどりの薔薇と紫色の藤にあやどられている。
夏の夜明けあなたは静穏(intimate)だ。
紫色に発光する生命のきざしが、サウス・パークのきわに明け初めるころ、ニューカレッジ・レーンのナルニア風ランプが周囲の闇を際立たせている。
あなたの恵み深いセント・メアリーズ、ボードリアン、キャメラそしてシェルドニアンは昼の強度の活動の後、沈黙のうちにたたずんでいる。
あなたは休んでいるのだ、あなたの胸元で眠る息子や娘の寝息を優しくつつみながら。
9月の午後早くあなたは美しい。
観光客の後、学生の前、あなたは一時の落ち着きを楽しんでいる。
空はより青く、より高くなる。
秋の太陽のひざしが、そよ風に揺れる緑の枝葉と戯れに踊る。
広々として穏やかなウッドストックロードで、光りと影のかくれんぼうを繰り広げる
サワサワ揺れる木々のトンネルを、一人自転車乗りがくぐりぬける、
秋の音と輝きに髪なびかせて。
秋深い夕暮れ時にエルスフィールドから見るあなたは厳粛だ。
大きく赤い丸い太陽があなたの描くスカイラインのむこうに沈む。
夕陽は、名残りおしそうな雲の色がだんだんかすんだ白から
あかね色へ、そして深い群青色へとかわり、やがて漆黒の闇にのまれる。
夜と昼が、西の地平線で競う時、あなたは自分のシルエットを
カンヴァスの微妙な色合いに符牒しつつ描きかえている。
あなたの尖塔とピナクルはそのゴシック調の気高さのうちにあなたを引き上げる。
あなたは、夕暮れ時の朧な光りに浮かびつつ、
ただ白靄の上にそびえるセント・メアリーのスパイアーとなる。
それはまるで天界への最後の証し人が残されているようだ。
冬の雪の朝あなたはロマンティックだ。
アディソンの小径は足跡に汚されていない、鹿と栗鼠のそれを除いて。
「学者の庭」にそって流れるあなたの小川は、白い結晶の粉を常ならざる静寂さの中にひきこんでいる。
小川のカモは凍えて動かない。
さよなら、私のアルマ・マター(母校)
あなたは東の国からの羽毛そろわぬ根なしの学生を
優しく柔和な腕で抱きとめ育んでくれた。
それはまるであなた自身がボアーズ・ヒルやカムナーそしてエルスフィールドの丘に守られ、アイシスやチャーウエル川に育まれてきたかのように。
あなたはそのはじまりからエクレシアの体だった。
「ドミヌス・イルミナティオ・メア(主は我が光)」があなたの魂(こころ)であった、そして今そうであり、またそうであり続けるであろう。
何世紀ものあいだにどれほど多くの祈りがあなたの主に捧げられてきたことか、
セント・メアリーの尖塔高く舞い昇り、中世の最後の魔法がチャペルの壁の背後で今だに囁かれている。
伝統は思想より強い。
あなたの気風が密やかに人々の魂の底にしみこんでいく。
だからあなたの子供たちは知的に正直に霊的に深く昇るのだ。
あなたの胸元で鍛えられ豊かにされたあなたの息子や娘は幸いだ。
あなたの開拓心、堅固な議論と気品は彼らのものだから。
あなたが永遠の平和へと眠りにつくその日まで、真理探究の証人として人間の延長された影であり続けんことを。
さよなら、Oxford、「主の葡萄畑」。
結論
これは一人の人間に必要であったものが神の憐みにより備えられたことの一つの証にすぎません。各人は各人なりの仕方で導かれていることを信じます。
一度限りの復活―奇跡物語序論(その四)
一度限りの復活―奇跡物語序論(その四)
2021年1月31日
1テクスト 「第一コリント書」15章
「35ひとは問う、「死者たちはどのように甦らされるのか、どのような身体(sōma)で彼らは来るのか」。愚か者よ、汝が蒔くものは、もしそれが死ななければ生命にもたらされることはないではないか。また汝が蒔くものは、やがて成るべく身体ではなく、麦であれ何か残りのものであっても、裸の種粒である。神は自ら意図したように(kathōs ēthelēsen)そのもの[麦]に身体を、そして[生物]種(しゅ)のそれぞれに固有の身体を与えていたまう。すべての肉(sarx)[身体を持つものの生命原理]は同じ肉ではなく、かたや人間たちの肉があり、他方獣たちの別の肉があり、鳥たちの別の肉があり、魚たちの別の肉がある。40そして天上的な身体もあれば、地上的な身体もある。かたや、天上的なものどもの栄光があり、他方、地上的なものどもの栄光が別にある。太陽の栄光と月の栄光は別であり、また星々の栄光も別である。
死者たちの復活もまた同様である。朽ちるものに蒔かれ、朽ちないものに甦らされる。価値なきものに蒔かれ、栄光に甦らされる。弱さのうちに蒔かれ、力能のうちに甦らされる。魂体(魂的身体)(sōma phsukikon)に蒔かれ、霊体(霊的身体)(sōma pneumatikon)に甦らされる。魂体があるなら、霊的なものもまたある。45こう書かれてもいる、「最初のひとアダムは生きる魂となった」、最後のアダム[キリスト]は生命を造る霊となった。しかし、霊的なものではなく魂的なものが最初であり、続いて霊的なものである。最初のひとは地に基づく土製であり、第二のひとは天に基づく。その土製の者[アダム]がそうあるように、土製の者たちもそのようにあり、そして天上の者[キリスト]がそうあるように、天上の者たちはそのようにある。ちょうどわれらもまた土製のものの形姿(eikona tū choikū)を担ったように、われらはその天上のものの形姿(eikona tū epūraniū)をも担うであろう。50兄弟たち、われ語る、肉と血(sarx kai haima)は神の国を相続することはできない、さらに朽ちるものは朽ちないものを相続しないと。
見よ、われ汝らに奥義を語る。われらすべてが眠りにつくということにはならず、かえってわれらすべてが、不可分の間に、瞬く間に、最後のラッパにおいて、変化させられるであろう。というのも、死者たちもまた、ラッパが鳴ると、不死なる者たちとして甦らせられそしてわれらもまた変化させられるであろうからである。というのも、この朽ちるものが朽ちないものを着させられ、そしてこの死ぬものが不死を着させられねばならないからである。しかし、この朽ちるものが朽ちないものを、死ぬものが不死を着させられるであろうとき、そのとき書き記された言葉が出来事になるであろう。「死は勝利に飲み込まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにある、死よ、汝の棘はいずこにある」[Isaiah.25:8,Hose.13:14]。罪が死の棘であり、罪の力能が[罪の]律法である。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する。かくして、わが愛する兄弟たち、あらゆるときに主の働きにおいて満ち溢れつつ、汝らの労苦が主にあって無駄なものではないことを知りつつ、動かされることなく、堅固たれ」(1Cor.15:35-58)。
2 宇宙のなかのわれら
奇跡物語序論第四回目です。難しくて恐縮です。今日この限られた時間では「第一コリント」のこの箇所を解説することはできません。地上のものから天上のものへの刷新がパウロにより緻密にでしかも大きなスケールのもとに議論されていることを感じ取っていただければ幸いです。今日も奇跡物語の序論として一般的に語ることを許してください。今理解できなくとも、何度も聞いているうちにそしてご自身で聖書にとりくんでいくうちに少しづつ理解がすすむことでしょう。この一年の挑戦は聖書を正しく引用している限り、何らか伝わるはずだという信念のもとに、聖句を引用しながら講義をすすめてきました。
神について語ることは宇宙の果てのその向こうについてお話しすることになります。土的な生成物についてまた天上のものごとについて、本来ならあらゆる学問を究めねば理解できない話でもあるでしょうが、その向こうにおられる一切の創造者がこの惑星にわれらと同じ肉をまとい、われらと同じ種類の身体を生きたということにより、アクセスを得ているのです。聖書はその方についての証言なのです。わたしどもは人間について生物について、そしてこの惑星について宇宙について少しずつ知見を蓄積していますが、全知で全能者の視点からすれば、微々たるものにすぎないのです。わたしどもはあたかも知者のごとく高ぶったときには「哀れな道化」(シェークスピア)と化すのです。喜ばしい探求者なのです、自己について世界について。
トマスが「主よ、汝がどこにいかれるのかわれらは知りません。いかにしてわれらはその道を知ることができますか」と訴えると、イエスは言います。「わたしが道であり、真理でありそして生命である。誰もわたしを介するのでなければ父のみもとに赴くことはない。もし汝らがわたしを知ってしまっているなら、わが父をも知ることになるであろう」(John.14:5-7)。
宇宙の創造者、万軍の主なる神へのアクセスはナザレのイエスを介して為されるのです。宇宙の法則は数式により少しずつ解明されてきていますが、水溶液にいれられた脳に譬えられる知性だけの数学者でも物理学者でもなく、パトス(感情等の身体的反応)を理解する人格的な神に出会うにはナザレのイエスを介してしか為されえないという主張は道理あるものです。もちろん神の痕跡は神の憐みとして至る所に見いだされるでもありましょうが、人類に対する神の意志は最も明白にナザレのイエスを介して知らされています。「わたしは父のうちにおり、父はわたしのうちにいます」(14:10)。
3権威ある言葉にふさわしい出来事
ナザレのイエスが神の子であり神の意志を体現しておられることを知る、その主要な手がかりはイエスの山上の説教が「権威」(Mat.7:29)をもって語られたということです。ここで権威とは言葉に偽りがなく、そしてそれをご自身実践し、自ら言行一致の率先垂範を示し、しかも聞く者にご自身の愛の力により自発的に彼に従いたいという熱望を生みだし、愛を実践せしめるその力能を伴った人格的特徴のことです。彼は神の意志を一言一句、一挙手一投足において持ち運んでいたのです。
始めから脱線ですが、この一年この集会に皆さんの参加を十全に得ることはできませんでした。福音の喜びを伝えるさいに、この共同生活のなかでは自らの生活を偽って見せることはできません。「人生これ演技なり」(シェークスピア)であるとすれば、へぼ役者であったのだと思います。昨年冒頭にお話ししましたように、この福音の喜びをby showing an example(ひとつの例をしめすことによって)伝えたいと思って努めてきましたが、あまり美しい事例ではなかったことを認めざるをえません。わたしの善きものを捧げてきたつもりではありますが、私の語り方に問題があったことを認めます。来年度はもっと福音書の現場を彷彿させるような語り方を試みたいと思います。実は哲学の訓練によりそのような詩人や文学者の心が育たなかったこと、むしろ減衰したことを告白しなければなりません。そのなかで何か真実であり権威がにじみ出て、おのずと話を聞きたいと思ってもらえるような生活を心がけたいと思います。こちらに赴任するとき、なにはなくとも喜んでいようと思いつつ、赴任しました。マザーテレサは福音の喜びに到達するべく、毎朝2時間自分だけの時間をすごすそうです。うなじ堅いわたしは喜びにいたるには相当の時間を費やしていることを告白しなければなりません。それでも「柔和の霊」を頂きつつ、この喜びを伝えていきたいと思っています。始めからの脱線で失礼しました。
さて、われわれが三十回かけて学んできた山上の説教は人類の誰かが言わねばならない究極的に人格的なことがらであり、そしてその道徳訓は人類のなかの少なくともひとりにより実際に満たされたこと、それがナザレのイエスが神の子であったことの大きな証です。或るひとは同じ人類にそのようなひとが一人いたというだけで、人類に対する絶望から救われる思いを持つこともありましょう。御子の清さそして御子の力能が従う者に伝達されなにがしか山上の説教を生きることができるものになることがこの二千年証言されてきました。その事実は或る人々を人類への絶望から解放してくれることでしょう。
イエス以外には到底満たされないひととしての根源的な道徳が十字架に至る信の従順により満たされたのです。イエスはその生涯を通じてそれにより「まず神の国とその義とを求めよ」(Mat.6:33)と信仰に招いたのです。まず神との正しい関係を築くことを通じて人生と世界に秩序が与えられるのです。これは創造者と被造物の正しい関係を伝えています。
ユダヤの文脈ではその道徳は「業の律法」と呼ばれたものであり、モーセを介して十戒として知らされた神の意志です。イエスはそのモーセ律法を純化、内面化し、「律法の一点一画」をも廃れないと言うことによってそれを愛に収斂させています。「律法の冠」(Rom.13:9)である愛が満たされるとき一切の律法が満たされます。自らが宇宙の創造者であり自ら救済者である神の御子であるという「神の子の信」(Gal.2:20)を貫き、人類への愛をこの肉において成就しました。神はそれを嘉みして、パウロによれば「業の律法を離れて」、「信の律法」として、つまり「神の信」と「神の義」のあいだに「分離がない」ものとして知らしめました(Rom.3:21-27)。信に基づく義のほうが業に基づく義よりも、より一層神ご自身にとって根源的であることをイエスの生涯が伝えています。彼はご自身が神の子であるという信のもとに、悲惨と罪に沈む自らの同胞に深い憐みをいだき、同胞が「天の父の子となる」(Mat.5:45)べく罪の赦しを実現し罪から解放したのです。これが福音という救いをもたらす神の力能なのです。
4罪の赦しをもたらすイエスの甦らし
所謂「奇跡」という稀なる不思議な現象は、聖書的には、御子ご自身がこの地上にて神の秩序の回復に向けて為し給う神の力能の働きなのです。そしてその力能の実践は常に宣教の言葉に相即しているものであることが特徴であり、所謂魔術との異なりを示すものです。魔術は自らの力を誇示するにすぎないものです。憐みの言葉に相応しいものが憐みの業です。双方とも人々を窮境から救い出します。所謂奇跡は主の憐みの顕われなのです。
このロゴスとエルゴン、言葉と働きの展開についてイエスとパウロのおかれた状況の違いにはとても興味深いものであることをお話してきました。イエスは十字架への途上の生を信によってリアルタイムに生きていたのです。福音書記者たちはそれを伝記として伝えています。もし彼が十字架から降りてきてしまったなら、父なる神に喜ばれず、ご自身が信に基づき義である方であることの啓示の媒介として用いられなかったそのような今・ここをナザレのイエスは生きていたのです。
パウロにおいては父なる神の専決行為である死者の甦らしはそれを信じる者を義とするためのものであると特徴づけることができました。「彼はわれらの背きの故に死に引き渡され、われらの義化故に甦らされた」(Rom.4:25)。福音とは信じると神が看做す者を救い出す「神の力能」でした(Rom.1:16)。イエスの復活がその信仰を引き起こし、信に基づく義を実現させると特徴づけられました。復活は神ご自身のイエスの生涯が自らの意図を十全に遂行したことそしてそれ故に彼の生涯が罪に対する勝利であることを知らしめるものであると、パウロは受け止めることができたのです。イエスはユダヤ人やローマ人により冤罪を帰せられつつも十字架に至るまで信の従順を貫きました。彼は人間の偽りにより死刑に処せられましたが、イエスはその処刑を自らを磔る罪人たちの代わりにそして彼らのために受忍したのです。神はイエスが何ら罪なき者でありながら人類の身代わりの死を遂行したことを嘉みしました。
イエスの十字架刑において神は信の従順を貫いたイエスに罪人として罰を与えるという類の不正を行っておらず、刑罰代受・代罰(vicarious punishment)ということではありません。パウロは言います。「神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為した、それはわれらが彼において神の義となるためである」(2Cor.5:21)。ここでイエスは罪びとの身代わりとして罪人の位置につくことを自ら為さったが、罪を犯したのではなく、人類の罪を担い、自らの義の上にわれら人類の罪を着たのです。
そこではもはや神は各人の背きを「彼ら自身において考慮することなしに」(2Cor.5:19)、キリストにおいて考慮することによって、「神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為した」のです。業の律法を適用するとダビデのような姦淫者は救われないのですが、パウロはダビデの詩を引用しつつこう言います「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものとみなされる。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される。ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:4-8)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みしたのです。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦します。
神は身代わりの罪を罪なきイエスに罪なきままに担わせました。そのことによって、キリストの死に古き罪人は共に飲み込まれ死んでしまいました。しかし、それはその死が生命に飲み込まれるためです。「われらはこのテント[身体]のなかにいるあいだ、われらは重荷を担いつつ呻いているが、彼にあってわれらは脱がされることを欲しているのではなく、[身体の]上に着ることを欲している、それは死すべきものが生命によって飲みこまれるためである」(2Cor.5:4)。われらは重荷に喘ぐ身体を脱ぐのではなく、キリストが担い給うたのはその身体の重荷であり、彼はその肉のうえに生命を担ってい給うたからこそ、身体に帰属する死は生に飲み込まれるのです。神において、イエスが「罪を知らざる方」であるという認識は揺るぎませんが、この身代わりを認可しました。罪なきままに人類の罪を担うことを「罪と為した」とパウロは報告しています。
復活はこの歴史的前提のもとでの永遠の生命の証、罪に対する勝利の証であり、信じる者の罪を赦し、義とするものなのです。復活はイエスを神の子と信じる者を義とすることへの信仰を引き起こすものです。
5「一度限り」の再現性のない復活は信仰の対象であること
復活は現代のわれらにはもはや見られるものではなく、信じられるものです。唯一の御子以外にこの人類の歴史において復活が生じた場合、もちろんそれは神の自由に属しますが、スキャンダルだと思います。キリストの復活はその死とともに「一度限り」のものでした。それは神ご自身による御子への信実を示すものでありました。彼の一度限りの死と復活では人類の救いに十全でないとすれば、他の誰かの十字架と復活を必要としており、それは御子による信の従順の死が弱弱しきものであったものとして御子への父なる神による不信さらには侮辱を含意します。十字架も復活も人類の歴史で一度限りのものでなければならないのです。
他の誰であれ復活はこの古い天地が巻き去られるまで、起こってはならないことだと思います。それ故にこそ復活は目撃者たちはさておくとして、次世代の者にとっては信仰の対象となるのです。再現性のないものは科学の対象とならないでありましょう。神学的な制約のもとに、あれは一度限りであったのです。人類の罪は「一度限り」御子において贖われたのです。パウロは言います。「もしわれらがキリストと共に死んだなら、キリストは死者たちのなかから甦り、もはや死ぬことはないであろうことを、われらは知っているので、彼と共に生きるであろうことをもわれらは信じる。というのも彼が死んだ死とは罪に対し一度限り死んだところのものであり、彼が生きる生命とは神に対して生きるところのものだからである」(Rom.6:8-10)。
ヤイロの娘やラザロの甦りは蘇生(resuscitation)であり、イエスの復活を指し示す象徴的な先駆ではありましたが、先駆的ではあってもイエスの復活とは異なるものであると思われます(Mac.ch.5,John.ch.11)。イエスの地上での復活体は魚を食べることができ消化器官を備えていたようです。また脇腹に槍の穴があり、指をつっこむことを疑うトマスに促しています。他方、ドアの通過性があり、単なる三次元の身体ではありません。これは人類において一度だけ生じたため、復活の主との聖霊を介しての共なる生は信仰箇条に留まります。
他方、二千年前のユダヤの地方において、復活を目撃することのできた幸いな人々がいます。当時、先週学んだように、エマオの途上の弟子たちが興奮のうちに復活の事件を語り合っていたように、数百人に目撃されています。パウロは証言しています。「キリストは書に即してわれらの罪のために死んだそして葬られたそして書に即して三日目に甦らされた。そして彼はケパに続いて十二人に顕れた。続いて五百人以上の兄弟たちに一度限り顕れた。・・もしキリストが甦らされなかったなら、われらの宣教も結局空しいものであり、汝らの信仰も空しい」(1Cor.15:4-6,14)。このようにパウロによれば、復活はイエスの身代わりの死に続き、ひとびとの罪を赦し、和解をもたらすものとして位置付けられます。「汝ら神と和解せよ」(2Cor.5:20)というパウロの促しは死者の復活を信じることそしてそれ故に「新しい被造物」となることの促しです。「誰であれキリストにあるなら、新しい被造物である」(2Cor.5:17)。これは旧約聖書以来の罪の贖いをもたらすものとしての神の人類への贈りものなのです。パウロはキリストの復活のゆえに、新創造を語ることができたのです。
6 われらの思いにすぐる神の平安
神の力能は各人が自らその存在と働きのあることを信じて、実験してみる以外に体得できないそのようなことがらです。「あらゆるヌース(叡知)を超えている神の平安が汝らの心をそしてキリスト・イエスにある汝らのノエーマタ(叡知内容)を護るであろう」(Phil.4:7)。このいかなる理解をも超える神の平安が現実のものでなければ、キリスト教史においてあれほどの殉教者が平安のうちに死んでいくそのような状況を想定することは難しい。そこでは正義のために迫害されても、喜んでいることができる、言ってみればこの世の生死を突き抜けている心の態勢にあるからです。「われには生きることはキリストである。死ぬことは益である」(Phil.1:21)。
われらの思いにすぐる神の平安がわれらを支配しているとき、神の静かな力能を実感します。山上の説教に即して生きてみようとしない限り、その実現はおろか、イエスご自身がその途上で体験した神の援けを経験することもできないでしょう。二千年間多くの人々がその信仰により励まされ喜びを経験してきたのです。そしてそのような神の力能の経験の基礎には神の信実に対応するひとの信仰が不可欠でした。信仰はひとが神に対して取りうる心魂(こころ)の根源的な態勢、構だからです。認知的、人格的に十全な神が御子において人類に対し信実であったとき、不十全な人間は神の信についての認識にいたらずもそれに信によって応答することだけが偽りのない唯一の態度なのです。心魂の奥底で偽りがあれば、すなわち二心や三心があれば、もうすでに神と正しい関係をむすぶことはできない。これは山上の説教において学んだことです。「信じます、信なきわれを憐み給え」(Mac.9:24)。神がイエス・キリストにあって人類に対し信実であったとき、それへの適切な応答は信実であろうとすることです。神の力能とその働きであるキリストにおいてあらわされた愛を信じ、そのもとに生を構築する以外に神の力能を知ることはないのです。これは懐疑のうちにあるものはその当該のものごとを知ることができないという一般的な知識と信念の関係に基礎づけられるものです。ヒュームは真理に対するこの根源的態勢としての信のもとにいません。彼は、信念の形成は感覚的に得られる証拠と「比例的」でなければならぬと主張していました。それ故に、人間を秩序あるつまりものごとに理・ロゴスが内在している自然の中で正しい位置に置くことができていません。
「信」を心魂の根源語として理解することは道理ある主張です。宇宙万物の創造者、時空の創造者その方が一切を支配しておられ、われらの認知的、人格的力能はとても貧弱であり、限られているとき、それを突破するのは宇宙の創造者がいまし、その御子が栄光を捨て、われらのために受肉しひととなったその愛を信じる以外に適切な態度はとりえないのです。パウロは言います。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。
そしてその信が生起する場所は心魂の根底にある「内なる人間」と呼ばれる部位です。そこは常に「刷新」が必要とされる部位であり、内なるひとは神の霊に反応する「霊(プネウマ)」とその認知的働きである「叡知(ヌース)」により構成されています(Rom.7:22-24,7:6)。ひとは土から造られている即ち自然的な存在者であり、その自然的な身体を持つものであるひとの自然的な原理は「肉」と呼ばれます(Rom.6:19)。肉の底に「内なる人間」が神の力能を運ぶ聖霊に触れるごとに生起し、身体とその生の原理である肉を刷新します。
ヒュームは「人間は必ず死ぬ」と主張していましたが、「人間」を構成する二つの部位「肉」と「内なる人間」のうち「人間」により「肉」を理解する限りヒュームに同意することができます。しかし、「内なる人間」は神の霊に反応する部位として生物的に死ぬことはない。
このように理解するとき、神の力能に反応しうる部位がすでにわれらのうちにあるからこそ、所謂奇跡と呼ばれる病気の快復や不思議なる力ある愛の業がわれらを通して遂行されます。右の頬を打たれて左の頬を向けることはもはや奇跡です。身体をもった存在者としてわれらの肉によっては為しえない出来事です。このエヴィデンスを積み重ねていく以外に、山上の説教の言葉の力とイエスご自身による癒しや所謂奇跡における神の力能の顕現を確かなものとして経験することはできないでありましょう。
7結論
あまりに尋常ならざる事件が歴史のなかで生起しました。単にモーセ律法の遵守による義の追求では到底まかないきれない神の知恵が「信に基づく義」の世界を切り開いたのです。心魂の根底に信があることにより、その信仰が嘉みされるのです。復活は一度限り人類の歴史に生じるものでなければならないという理解はこのように道理あるものです。再現性のないものは信仰するしかないのです。もちろんそれは理性の逸脱からくる狂信ではなく、恐れというパトスの過剰からくる迷信でもありません。正しい信は認知的にものをよく見知ることのできるようになり、人格的に「律法の充足」(Rom.13:10)である愛を満たすようになるのです。
御子の甦らしを介して認知的、人格的に十全な神はアブラハムに対しひいては人類に対する自らの約束に対して信実であったのです。そしてその信実のもとに人類への愛を御子の受肉と十字架そして復活により示されたのです。神の信に心魂の根源でまっすぐに「信じます」と応答すること、それが正しい信仰です。復活はモーセ律法の遵守によってではなく、心魂の根底に立ち返り信仰によって受け止められるものなのです。そこでは、例えば、自ら復活するなどと思い込み狂信により自死したり、幽霊のようにイエスは出没するという迷信から解放されるのです。見えないものである以上、正しく信じるしかないのです。そしてイサクの捧げに見られるアブラハムのような真っすぐな信が正しいものとして嘉みされるのです。パウロはこのようにナザレのイエスの信の従順の生涯から神のメッセージを読み取ったのです。
へブル書の記者は言います。「信仰によって、ノアはまだ見ていないものごとについて神の御告げを受けたとき、栄光を帰しつつ、自らの家族の救いに向けて箱舟を造り、その信仰を介して世界を罪に定め、またその信仰を介して信に即した義を受け継ぐ者となった」(Heb.11:7)。またパウロは言います。「われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ、自らのうちで呻いている。24なぜならわれらは希望により救われたからである。しかし、見られる希望は希望ではない。というのも、誰が見ているものを望むであろうか。25しかし、われらが見ないものを望むならば、忍耐をもって待ち望む」(Rom.8:23-25)。
パウロは各人に「汝が汝自身の側で[自らの責任ある自由において]持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と命じ、自らの責任ある自由のもとで神の信義がイエスにおいて啓示されており、自らはそのもとで信に基づき義であると神に看做されていることを信じるよう促されています。十字架だけで復活がなければ、われらは神が罪なきイエスが冤罪のもとに死に処せられることを放置したないし認可し、ご自身は不義ではないかという嫌疑に十全な応答ができないことになります。復活はイエスの生涯は神に嘉みされたものであり、無罪であることを歴史のなかで知らしめる行為として位置付けられます。復活という所謂奇跡も神による人類への愛という「神の力能」の働きだったのです。「聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかからの甦りに基づき神の子と判別された」その方についてこそ、われらに信仰に基づく義を与える福音(良き音信(おとずれ))が語られるのです(Rom.1:4)。神の御子が人類の歴史に関わった以上、人類の歴史においいて一度だけ生起した、そして二度目を必要としない一度限りの復活を信じるかが問われています。所謂「奇跡」ではなく神の愛の力能を信じるかが問われています。