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罪の誘惑(7)―業の律法からの解放をもたらす福音

日曜聖書講義6月19日

罪の誘惑(7)―業の律法からの解放をもたらす福音

「ローマ書」七章

律法の新たな位置づけ (1-6節)

 それとも、兄弟たち、われは律法を知る者たちに語りかけているのであるが、汝らは知らぬか、律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時であると。二なぜなら、既婚の婦人は生存している夫に律法により縛られているのだから。しかし、もし夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放されている。三だからそれ故、夫が生きているあいだに、他の男のものになるなら「姦通者」と呼ばれるであろう。しかし、夫が死ねば彼女は律法から自由であり、彼女が他の男のものになっても姦通者ではない。四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている。

 

第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」

 七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。

 

第二議論「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」

 一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法違反を介した死]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。

 

1.生きる指針の転換

 人は生きる指針を求めている。それは毎日の生活に関わるものである限り単純なものであり、そこに立ち帰るとき、力を得るそのような基本的なものであり、困難なものであるはずはない。ひとは日々それを遂行せずには生活が困難となる生業(なりわい)として生活の基本を抱える。これは生活を続けるために、不可欠の与件である。年を取り、年金生活者となるとき、この生活の基本が失われると、ひとは生の安定を失い、様々な不安や懐疑に襲われてしまう。とはいえ、生活の指針は何か生業にうちこんでいても、老齢となり、そのようなものを持たず国家により支えられている者にも妥当する単純で力強いものであるに相違ない。もちろん年金生活者も現役時代に積み立てをしてきたのであり、当然の報酬を受け取っているという面もあるが、長く生きる時代、高齢者たちはその積立を超える支えを頂くことになり、若者や国家に肩身の狭い思いをすることにもなる。今後は、この国の人口比からしても老体を鞭打って仕事を続けることがこの国の成員に求められることであろう。長寿の時代、弱くなってしまってもその人生を支える生の指針を得ることはとても重要なこととなる。「若いときに汝の造り主を覚えよ」(Ecl.12:1)という伝道の書の言葉がやはり力をもってわれらに語り掛けてくる。ともあれ、当学寮の生活指針は「聖書を正しく理解するところ、そこに聖霊が宿る」でいく。聖書を正しく理解することに集中したい。

 

2 業の律法の乗り越え―旧約を貫く信の律法―

 パウロは旧約人においては業のモーセ律法がそのような指針であったと言う。「律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時である」(Rom.7:3)。旧約人を支配した一つの生活指針、業の律法はもともと良き生活を導く力として問題を抱えており、人を導く指針としては機能しないことが判明している。パウロはそれを明らかにしたのがナザレのイエスによる信の生涯とその力であったと主張する。

 これは人生の基本的な理解にかかわることであり、魂の根幹を揺さぶる。パウロは、この律法は罪であるとか、誤っていたという類のものなのではなく、また死を生み出しているわけではない。しかし、罪の誘惑に対して文字としての律法は無力であり、魂に巣食う罪により文字の律法が利用され、われらを生物的死ひいては魂の死にもたらすと警告する。業のモーセ律法はひとに本来的な生を生かしめる力のないものであることを論証する。自らの責任ある自由を前提にして、貪るー貪らない等の二者択一の一方を遂行することにより、神の前に義とされるとされるが、誰もそこでは義とされない現実が明らかにされる。これは福音つまり「信じる者に救いをもたらす神の力能」(Rom.1:4)が知らされて、その対比において認識することができるものである。

 

3人間の魂の理性的な分析に基づく倫理学は律法主義である。

 ルターは「理性は律法主義である」と語り、アリストテレスの倫理学はひとを救いに導かないと主張する。律法主義においては基本的に命令形でで提示され、その成就により直接法「汝救われた」がが語られる。先週、苦しみの数種類を分析した。ひとは様々な苦しみを経験する。必要以上の苦しみの背後に、魂の態勢として貪欲が潜んでいることが摘出された。アリストテレスは常に目先の快楽を追求しそのことに「後悔」をもたない人間を「放埓」と呼ぶ。放埓な人間を示す指標は欲望の大きさというよりも、欠乏充足モデルのなかで欲望を充足できないときに生じる苦痛の大きさが、その者の心魂の態勢、実力として欲望が理(ことわり・ロゴス・理性)に服していない放埓さを明らかにするとされる。

 欲望はそれ自身パトス(身体の受動的な反応、情動)なので、非難の対象にはならない。欲望を野放しにしているとき、たとえ強い欲望がわかずにも、好色であり快を追求するばあいがある。それは精神が肉になっている状態であり、放埓さを一層示すと言われる。アリストテレスは言う、「なんら欲望を感じていないか、あるいはかすかにしか感じていない場合でさえ快楽を過剰に追及し、まあまあの苦痛を避ける人は、強烈な欲望を感じるがゆえに快楽に走る人よりも、いっそう放埓な人であるとわれらは言うことができる」(7.4.1148a17ff)。この人は人生が与える他の多くの喜びを諦め、肉となってしまった精神が欲望を感ぜずにも快楽を追及せざるをえない隷属状態であると言える。そしてそれは苦悩、苦痛をもたらすはずである。パウロのローマ書七章によれば、その隷属はそのとき今・ここで肉に巣食っている罪への隷属であり、律法は葛藤を引き起こす新しい役割を与えられる。われらは文字としての律法を利用する罪に誘われ、自ら望んでいないことがらを為すとき、例えば節制すべきときに快楽を追求するなど、死を作りだしていると捉えられる。人類は本来的には神の子として永遠に生きるべき者であるが、楽園追放の罰として生物的死を引き受けている。この生物的死を介して罪は神の前の滅びを画策している。律法の新たな機能はこの罪との格闘を引き起こすことにある。この葛藤については改めて論じる。

 ここではアリストテレスの理性的な魂の放埓さの分析がわれらを救いに導くかを問う。アリストテレスは言う、「以上から快楽にかんする超過が放埓さであり、それが非難に値するものであることは明らかである。しかし、苦痛に関しては、病気の場合のようにはいかず、苦痛に耐えることで節制の人と呼ばれたり、耐えないことで放埓な人と呼ばれたりするわけではない。放埓な人はむしろ、快いものが手に入らないことに必要以上に苦しむがゆえに放埓だと言われ(そして、放埓な人のこの苦痛を生みだしているのも当人の快楽なのである)、節制の人は、快いものがなかったり控えたりしても苦しまないがゆえに、節制があると言われるのである。こうして、放埓な人はあらゆる快楽、あるいはもっとも快いものを欲しており、またその欲望ゆえに、ほかの様々な快いものをなげうってその快楽を選ばずにはいられないのである。それゆえ、こうした人は、欲しい快楽が手に入らないばあいでも、快楽を欲している場合でも苦しむ。なぜなら、欲望には苦痛が伴うからである」(『ニコマコス倫理学』第3巻11章1118b26ff)。

 ここで明らかにされる苦悩や苦痛は自らが貪欲で強欲な人間であることからくる苦悩である。節制ある人間になろうとしない限り、欲望に伴う苦悩から解放されない。おのれの欲深さを知ることが求められている。アリストテレスの倫理学は魂の卓越性としての有徳をめぐり、人間の魂の類型、分類が有徳性という成功した視点から網羅的に展開される。確かに、そこでは感情と魂の実力としての態勢ならびに行為を包括的に理解することができる。正しい人になるには、正しい人が為すように、正しいことを正しいことそれ自身のゆえに為すことが求められる。これは、これこれを為せば神に正義と看做されると主張するモーセ律法に通じる。自らの責任ある自由のもとに、立派な人間になることがめざされている。

 ルターは「理性は律法主義である」と語るが、アリストテレスが分析する快楽により、ひとは快楽から逃れることができるであろうか。それから救われうるであろうか。ルターはその力はないと言う。律法主義は命令を立てるが、パウロ的にはそこに罪が巣食い、その文字としての律法を介して誘惑し、生物的死をもたらし、さらに魂の死に誘うと分析される。「その心によって清い者は祝福されている」(Mat.5:8)のは、欲望が満たされないこと、また欲求さえ起きないのに快楽に向かわざるを得ないこのような魂の苦痛から癒されていることがその一つの理由である。なによりも、その人は神にまみえるであろう。人生の他の喜びを享受することができる。また「その霊によって貧しい者は祝福されている」(5;3)。神との正しい関係を求めることによってしか自ら満たす者をもたないひとは、眼差しを神に向けざるを得ない。イエスはなによりも「まず神の国と神の義とを求めよ」(5:33)と信仰に招く。その信があいの律法を満たす力を持つ。

 

4信の根源性

 ありがたいことに、旧約人においても、その信の律法はきちんと機能しており、ひとびとを救いに導いていたことが確認されている。業の律法の適用のもとでは「律法を行う者たちが義とされるであろう」(Rom.2:6)。それ故にダビデのような姦淫者は救われない。パウロはダビデの詩を引用しつつ信の律法のもとにある者をこう特徴づける。「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものと看做される。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される。ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(4:4-8)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みした。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。

 「ヘブライ人への手紙」の著者は信仰によって「諸時代が統一される」神の計画について叡知が発動し、知ることができると主張している。信仰は見えない神の意志についての何らかの可視化の基礎であると主張されている。この手紙の著者は信の律法が旧約人を導いていたことを多くの事例を挙げて説明している。旧約の義人たちは生の指針がぶれていなかったことが確認される。「信仰は望んでいるものごとの基礎に立つものであり、見られていないものごとの[見られないままに留まることへの]反駁である。というのも信仰によって古への先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより諸時代が統一させられていることを、信仰により叡知において観取しており、見られるものが現れないものども[神の言葉]に基づくことを知るに至る。

 信仰によってアベルはカインに比し一層多くの捧げものをしたが、神ご自身がその贈りものを承認することによって、その信仰を介して正しい者であることが証された。アベルはその信仰を介して死んだが、彼は今なお語っている。(省略・・)

 信仰によってノアはまだ見ていないものごとについて、神に警告されたとき、心に留めそして彼の家族を救うべく箱舟を建造したが、その信仰を介して彼は世界を審判した、そしてその信仰に即した義を介して受け継ぐ者となった。信仰によって、アブラハムは呼び出されると彼が受け継ぐことになる場所に出ていくべく従ったが、彼はどこに行くか知ることなしに出立した。信仰によって彼は、同じ契約の受け継ぎ手であるイサクとヤコブと共にあたかも他国に宿るように天幕(テント)で生活し、約束の地に滞在した。・・・この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束[イエス・キリスト]を受けとならかった。神はわれらのために、さらに優ったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結される(teleiōthōsin)ことがないためである」(Heb.11:1-40)。

 旧約から新約を貫く一つの道とは信仰であった。神へのこの信の正しさがイスラエルに一本道を歩ませ、「統一される」歴史を刻むことを可能にした。千年近く書き溜められた文書の集まりである所謂「聖書」はこの一貫した歴史を基礎にして、選びの民を介した神とひととの交わりを報告し、そして神とひととの分け隔てを取り去り救いをもたらすイエス・キリストを救世主として告げ知らしめている。

5律法からの解放

 神は認知的、人格的に十全、「完全」であり、「神の信」に基づき正義にして憐れみ深い(Mat.5:48,Rom.3:3)。神が正義にして憐れみ深いことが御子の受肉と信の従順の生を介して、歴史のなかでしかもわれらの心魂の外に、神の信義および愛として啓示された。それにより、人類に救いが到来した。このわれらの外に救いが固く立っている、それだけで、或るひとにはもう満足であり、おのれにかかずりあう肉の重さ、おのれの救いや有徳性へのこだわりましてや律法が明らかにする過去の罪とそのトラウマからも解放され、ただ外にある救いを喜ぶことであろう。ダビデのような「不敬虔な者を義とする方」はご自身の業の律法のもとでは「働きがなく」罪人と看做される者を福音のもとで「彼らの背きを彼ら自身において考慮することなく」信に基づき義とする(Rom.4:5, 2Cor.5:19)。

 「ヘブライ人への手紙」の著者はエレミヤを引きつつこう語る。「この方[キリスト]は罪人たちの代りに永続的に一つの献げものを捧げたまうたことによって、神の右の座に座したまうた。・・主は言われる「かの日々の後に、わたしが彼らに対し結ぶ契約はこれである、わが律法を彼らの心に与えそして彼らの思考のうえにそれらを銘記するであろう。そして彼らの罪と彼らの不法とについてもはやわたしは記憶に留めることはないであろう」。これらの赦しがあるところ、そこにはもはや罪についての献げものはない」Heb.10:12-18,Jer.31:31)。ここで「新しい契約」における「わが律法」とは信の律法に相違ない。さらに罪は記憶に留められず水に流される。そのとき「罪」は少なくとも罰せられる罪ではない

 神はこの福音即ち古きひとの罪を赦すその出来事をわれらの外で十字架と復活のうえで実現された。モーセの業の律法がイエス・キリストの信の律法により凌駕された。そのわれらの外にある(extra nos)救いの喜びはわれらのうちにおける(in nobis)パトスの発動である。聖霊受領のひとつの証はおのれを離れて隣人を愛しうることにあるとされる。確かに肉の重さから解放され、右手で為す良き業を左手に知らせない仕方で遂行されるとき、ひとはそこに神の力能の働きに思いあたるであろう、心のふと軽くなるのを感じ喜びを見出すことであろう。

6信仰義認

 パウロは福音の啓示の報告に基づき、「われら」のことがらとしてその啓示からの帰結、所謂「信仰義認論」を理論的一般化において展開する。そこでは「われらは、人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する」(Rom.3:27)という仕方で自らの判断を展開する。

 「神はひとり」である以上、福音は普遍的であり割礼のユダヤ人も無割礼者も信によって義と看做される。信仰による義は業の律法に基づく義を排除するが、業の律法が神の意志である限り、廃棄されることはなく、義認の否定という間接的な仕方で義認を実現させる福音を指し示す役割を持つ。「キリストは信じるすべての者にとって義に至る[業の]律法の目指すものである」(10:4)。パウロは信仰義認論を展開し業の律法の役割を「確認する」(3:31)。

 「それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。かくして、われらは、人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして無割礼者をも義とするであろうなら。それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」。

 ここで異邦人である業の律法を満たさない無割礼者は「その[イエス・キリストの]信を媒介にして」義と看做される。異邦人は神の義の啓示が「イエス・キリストの信」を媒介にして遂行されたことを信じその信仰が神に嘉みされることによって義と看做される。割礼者であるユダヤ人も、アブラハムやダビデの先駆的信仰に基づく義認に見られるように、各人の「信に基づき」義と看做される。すべての者が信に基づき義とされるのは「神はひとりであり」、神は「ユダヤ人だけの神」ではなく「異邦人たちの神でもある」からである。

 パウロは命じる、「汝らは主イエス・キリストを着よ、そして欲望どもへの肉の計らいを為すな」(13:14)。「着る」とは神の前に立つとき、われらがわれらをわれら自身において考慮することなしに、彼の義を着ている限り、つまりその信が嘉みされている限り、たとえ自らの内面が清められていなくとも、自らの業(わざ)の実力にかかわらず、神は罪と死に勝利したキリストの信義に基づく愛においてわれらを見たまうということである。

 信仰義認をめぐる「ガラテア書」の並行箇所では「わたし」が霊感づけられた魂において直裁に語る、キリストの信が到来した故にキリストは自らの中で彼我を分離することのない仕方で実働している、と。それゆえに、並行箇所ではパウロの主張は「神の子の信」をパウロ自らの信仰との同化のなかで生きていると告白している今・ここの働き(エルゴン)言語として解釈しなければならない。

 パウロは言う。「われらは自然本性においてユダヤ人であり、[業の律法を何らかの仕方で遵守しており]異邦人に基づく罪人ではない。しかし、ひとはイエス・キリストの信を媒介にしてでなければ、業の律法に基づいては義とされないことをわれらは知っているので、われらもまたキリスト・イエスを信じた、それはわれらがキリストの信に基づきそして業の律法に基づかず義とされるためである。というのも、すべての肉は業の律法に基づいては義と看做されないであろうからである。しかし、もしわれらがキリストにおいて義とされることを求めつつ、われら自身もまた[業の律法に基づく者と同様に]罪人であると見出されたなら、それではキリストは罪に仕える者なのか。断じて然らず。というのも、もしわたしが廃棄したものども、それらをわたしが再び建てるなら、わたしは自らが違反者であることを証明するからである。というのも、わたしは神によって生きるために、[信の]律法を介して[業の]律法に死んだからである。わたしはキリストと共に十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている。しかし、わたしは、今わたしが肉において生きているところのものを、わたしを愛しわがためにご自身を引き渡した神の子の信によって、信において生きている。わたしは神の恩恵を無駄にしない。というのも、もし義が[業の]律法を介するものであるなら、キリストは空しく死んだことになるからである」(Gal.2:15-21)。

 パウロの「ガラテア書」におけるこの今・ここのエルゴン言語の使用は、「ローマ書」における神学の体系的展開における信仰による義認の提示とは、文脈が異なる。「ガラテア書」では、パウロは、彼自身が建てた教会に対して教えていたことの確認を遂行している。それ故に、彼はその言葉と行為においてより一層直截である。他方、「ローマ書」においてキリストの信の媒介が強調され、「わたしにおいてキリストが生きている」という同化は見られない。しかし、聖霊がそこにおいて執り成していると理解することを妨げるものは何もなく、「キリストがわたしを介してロゴス(言葉)によってそしてエルゴン(働き)によって成し遂げたこと」(Rom.15:18)を報告するというパウロの方法論のもとにおいて、彼は自覚として聖霊の執り成しのなかで信仰義認論を展開している。とはいえ肉の弱さに譲歩するなら、「ローマ書」3:27-31はパウロによるあらゆる人間の「神はひとりである」という普遍的な認識のもとに、誰もが信に基づき罪赦され「義を受け取る者たちである」という主張の展開であると捉えることができる。

 「ガラテア書」における「わたし」におけるパウロ個人の今・ここの語りも義認は業の律法を介するものではなく、キリストを介するものであると普遍化されている。そこでは「ローマ書」における知恵の説得的議論と実質的には同じ一つの結論が導出されている、ただし、「わたしは神の恩恵を無駄にしない。というのも、もし義が[業の]律法を介するものであるなら、キリストは空しく死んだことになるからである」とキリストの死を無駄にしないというパウロの個人的な自覚のなかで業の律法からの解放を確認している。「五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:5-6)。

 

結論

 信の律法は業の律法からの解放を告げており、解放された魂の場所には「キリストイエスにおける生命の霊」が宿る。永遠の生命の喜びがそこにある。心を理性主導の律法により占めるとき、この生命に与ることはできない。解放されよう。

 

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罪の誘惑(6)苦悩から葛藤へ(1)

日曜聖書講義6月12日

罪の誘惑(6)苦悩から葛藤へ(1)

「ローマ書」七章

[この春は罪の誘惑について7章7章を取り上げ取り上げ、繰り返ししかし、視点を変えながらとりくとりくんでいるいる。翻訳はいずれの週もどういつせ同一である]。]

律法の新たな位置づけ (1-6節)

 それとも、兄弟たち、われは律法を知る者たちに語りかけているのであるが、汝らは知らぬか、律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時であると。二なぜなら、既婚の婦人は生存している夫に律法により縛られているのだから。しかし、もし夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放されている。三だからそれ故、夫が生きているあいだに、他の男のものになるなら「姦通者」と呼ばれるであろう。しかし、夫が死ねば彼女は律法から自由であり、彼女が他の男のものになっても姦通者ではない。四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている。

 

第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」

   七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。

 

第二議論「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」

 一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法背反]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。

 

1.葛藤と苦悩の種類

 

 ひとは苦しむとき、それは望ましいものとしては一般に受け取られることはない。「ローマ書」七章は、「惨めだ、われ、人間」という叫びをあげる苦しみの正体を分析し、今・ここで「わたし」の肉のうちに巣食っている罪をあぶりだしている。苦悩はひとつの心理状態であり、自ら明確に何により苦しめられているか明らかでないことがある。実際にはそれは何かと何か対立するもののあいだに生じる意識であり、対立項が二項であれ三項であれ明確なものである限り「葛藤」と呼ぶことができる。葛藤はやはり苦悩と同様の意識状態であるが、対立項がはっきりしているとき、語られる。

 一般に数種類の苦悩そして葛藤を挙げることができる。(1)生存上の苦悩。今、ウクライナで行われている非道なロシアの侵攻は国民に生存するか死ぬかの苦悩を与えている。これは動物たちが捕食者に襲われているときの必死の逃亡と苦悶の表情に確認できる。人間も自らの生存を脅かす者にであうと、パニックに陥いる。生物にとって、「生きることは死ぬことよりより善いことである」(アリストテレス)が大前提となる。生命の維持成長をめざすことが生物にはプログラムとして組み込まれている。例えば、外的損傷にともない生じる痛みは身体が生存のため、外傷と戦っていることに伴う苦痛である。病気やけがなど、生存をかけた心身の苦悩は生物上のそれとして一つの種類を形成している。

 アリストテレスは幸福な人間には死が苦痛となると言う。「勇気ある人がこの徳(苦痛に耐える力)をいっそう十全にそなえ、いっそう幸福であればあるほど、その人は死を心苦しく感じるであろう。なぜなら、そのような人にとって生きることはもっとも価値あることであり、しかもその人には、さまざまなもっとも善いものが奪われるとわかりながらそうした善いものが自分から奪われるがゆえに、自分の死は、苦しいことだからである。しかし、このことでその人がわずかでも勇気をくじかれるということはなく、おそらく、かえっていっそう勇気ある人となるのである。なぜならあのようなもろもろの善いものを代償代償として、戦争における美しさを選ぶからである」(『ニコマコス倫理学』第3巻9章1117b10ff)。生存上の苦悩はこれらからの回復或いは死により、この種の苦悩は消失する。

 (2)経済上の苦悩。生活に支障をきたし、生存を脅かす貧困は苦悩をもたらす。これは(1)の生存上の苦悩に繋がるものであり、この窮境からの脱出は労働により試みられる。経済的な余裕ができた時点で、この苦悩は消失する。さもなければ生存ギリギリの生物的な苦悩へと移行する。

 (3)さらに、道徳上の苦悩が挙げられる。これは広いくくりであり、幾つかに分けられる。遠藤周作の『海と毒薬』のなかに、医師戸田は自らの良心の苦悩の発動のなさに、実存(心魂の根底)に何も確かなものがないのではないかという不安を覚える。自らの行為がいかに醜悪であるかは認識できるが、隠蔽し世間に明るみにでない限り、いつの間にか安堵を覚える。これは世間との共知(con-science)として良心(conscience, sun-eidesis)が捉えられている。これは世間から暴露され糾弾され、信用を喪失することへの恐れで葛藤である。ここでは対立項が明確であり、本来そうあるように演じたい自己やそう思われたい自己と世間にさらされる実力なき自己のあいだの葛藤として表現されよう。実際の糾弾や喪失に伴う苦悩が生じるとき、そこには葛藤はもはやなく、白日のもとにさらされる自己に対する羞恥とそれに伴う苦痛が生じる。

 (4)アリストテレスは常に目先の快楽を追求する人間を「放埓」と呼ぶ。放埓な人間を示す指標は欲望の大きさというよりも、欠乏充足モデルのなかで欲望を充足できないときに生じる苦痛の大きさが、その者の心魂の態勢、実力として欲望が理(ことわり・ロゴス)に服していない放埓さを明らかにするとされる。彼は言う、「以上から快楽にかんする超過が放埓さであり、それが非難に値するものであることは明らかである。しかし、苦痛に関しては、病気の場合のようにはいかず、苦痛に耐えることで節制の人と呼ばれたり、耐えないことで放埓な人と呼ばれたりするわけではない。放埓な人はむしろ、快いものが手に入らないことに必要以上に苦しむがゆえに放埓だと言われ(そして、放埓な人のこの苦痛を生みだしているのも当人の快楽なのである)、節制の人は、快いものがなかったり控えたりしても苦しまないがゆえに、節制があると言われるのである。こうして、放埓な人はあらゆる快楽、あるいはもっとも快いものを欲しており、またその欲望ゆえに、ほかの様々な快いものをなげうってその快楽を選ばずにはいられないのである。それゆえ、こうした人は、欲しい快楽が手に入らないばあいでも、快楽を欲している場合でも苦しむ。なぜなら、欲望には苦痛が伴うからである」(『ニコマコス倫理学』第3巻11章1118b26ff)。

 ここで明らかにされる苦悩は自らが貪欲で強欲な人間であることからくる苦悩である。節制ある人間になろうとしない限り、欲望に伴う苦悩から解放されない。おのれの欲深さを知ることが求められている。

 (5)アリストテレスは意志の弱さがもたらす苦悩を分析している。ひとは現在為すべき最善の判断をもちながら、快楽への欲望に負けて、他の行為を選択することがある。そこに葛藤が生じる。そしてそれを後悔するなら、その者は「意志の弱い者」と呼ばれる。放埓者との異なりは放埓者は快楽への追求こそ至上善であると確信しているため、そこに葛藤は生ぜず後悔が生じない。ただ、何故かを知らず、欲望を充足できないこと、欲望が生じることに苦痛を感じてはいる。何であれ欠乏は苦しいものだからである。

 意志の弱い人間は欲望の強さにまた欲望が満たされない欠乏とのあいだに葛藤があり、後悔もある。それは何らかの仕方で為すべき最善の判断を知っていると思うからである。ソクラテスは主知主義を標榜し、「ひとは自ら進んで悪を為すことはない」と語るとき、悪とは誰もが避けたいものだという理解がある。最善のものは追及すべきものであり、善である。それ故に、或る行為を善と知りつつそれを行わないということは想定できず、意志の弱さは存在しない。ただことがら、状況への無知のみがあるとされる。かくして意志の弱さの克服の一つの道は節制ある人がそう振る舞うように振る舞い、節制ある人間になるか、ものごとをよく知り、無知から解放されるかの道が残される。いずれも必要とされるであろう。

 (6)パウロが「ローマ書」7章で展開する葛藤は道徳上の苦悩のひとつと言える。この葛藤を解明するが、これまでの葛藤や苦悩とは異なり、パウロは、葛藤を肯定的なものと受け止めていることである。われと律法と罪の三つ巴の葛藤が福音に追いやる機能を担っていると主張している。

 

2.パウロにおける葛藤の普遍性

 福音により業の律法から解放されたことを受けて、パウロは「ローマ書」7章で律法の新たな機能・役割を提示している。それは誰であれ(「汝貪るな」と律法により語り掛けられる)「われ」と「罪」と「律法」の三つ巴の葛藤を引き起こすものとしての新たな役割であった。「わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す」(Rom.7;18-20)。律法は善であるが、それを為そうとしても為すことができない自己を見出す。罪が私をかどわかして悪を為さしめるという。もはや自分の力の及ばない超自然的な罪の力によるものであり、自らにもはや責任はないと言っているように見える。ちょうどある種の遺伝子が自らを支配しており、あたかも自分が犯罪に身を染めるのは自分ではなく、自分を支配している遺伝子だと言うかのごとくである。

 パウロは罪の責任、帰責は当然各自にあると主張している。信の根源性を否定するユダヤ主義者たちはパウロの信仰義認論を非難して善を来たらすために不義を為そうと罪を礼賛する。「七しかし、もし神の真実がわが偽りにおいてご自身の栄光へと彌や優ったのなら、何故われなお罪人として裁かれるのか。八そしてわれらはこう中傷されているのではないのか、すなわち「善きことどもが来るために、われらは悪しきことどもをなそう」とわれらが語っていると或る者たちが主張しているように。審判がそのものたちにあることは正当なことである」(Rom.3:7-8)。帰責は審判というかたちで正確に一切を知る神によりとらされる。罪の誘惑に同意している限り、帰責は免れない。

 他方、律法の新しい機能は葛藤させることであった。罪の手下になることはわれらの責任である一方、葛藤の表現としては、望んでいない死を成就している自分は自分の力以外のものに支配され屈従していることになり、この事実を確認しなければならない。「もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる」(Rom.7:16-17)。この罪の支配への隷属の認識なしには救いを求める葛藤はおきない。一時的にそのような自らの力の及ばないものを引き寄せることはあっても、その罪から解放されうる者である限りにおいて、この葛藤が信仰をもっても常に続くということを含意しない。律法を差し向けられた場合に、罪は文字としての律法に寄生するため、このような葛藤が引き起こされるのである。

 あくまでも人類の歴史に悪は偶然的に入ったものであり、偶然的である以上、悪から解放されうるものである。それが福音の勝利である。そしてパウロはキリストにあってつまりあの十字架と復活の出来事は神の人間認識を伝えるものであったのであり、キリストにある限り罪は処分されており、罪から解放されてしまっている。他方、肉において途上の生を生きているものである限りにおいて、業の律法のもとに生きることは起きるのであり、そのとき罪の誘惑にあう。信の律法のもとにあり、「キリスト・イエスにある生命の霊」(Rom.8:2)とともにあるとき、罪は決して寄生できない。キリストは罪とその値である死に勝利したからである。「わが兄弟たち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:4-6)。

 「汝貪るな」と律法をつきつけられ、「われ」は応答する。パウロは律法の新しい機能として罪は文字としての律法には寄生することができ、その文字としての律法を介して誘惑し生物的な死そして最終的に神の前での死を画策するとが、そこに罪と文字としての律法とわれのあいだに葛藤を引き起こさせることが挙げられる。神の意志である霊としての律法が葛藤を引き起こす。この律法の新しい機能を証明すべく登場するのが「われ」であり、それはパウロであれ、誰であれ律法のもとに生きる者が指示されている。

 この「われ」の虚構説はキュンメルによっても主張されている。Werner Georg Kummelは自らの先駆としてAmbrosiasterやPelagiusを引用してこう主張する。「この章句全体の意図は、パウロの単なるひとつの純粋な個人的な体験としてより以上のものである場合に、なるほど律法の弁明に関わる、そしてただそのとき記述されているものを証明にもたらすことができる。この見解の主唱者たちはそれ故に常にはっきりと強調して表明したのは、パウロは彼の固有の体験のこの記述を型として(als typishe)採用しているということ、そして一つの体験を、すなわち律法のもとにあるすべてのユダヤ人にとって或いはすべての人間一般に等しい仕方で適用していることである」(Das Subjekt des 7.Kapitels des Romerbriefs, Inaugural-Dissertation zur Erlangung der Doktorwurde der Theiologischen Fakultat der Universitat Heidelberg S.84, 1929)。この「われ」はパウロであっても、誰であっても、律法のもとに生きる者は罪の誘惑とこのように葛藤すべしということが教えられている。

 

3.アリストテレスの放埓者と罪の葛藤者そして神への反抗者

 アリストテレスは放埓な人間の葛藤には律法の善性が参与することはないように見える。他方、放埓者は放埓をそれ自身として求め、欲求することはなく、快を求めていることが分析される。「放埓な者は快いものが手にはいらないことに必要以上に苦しむがゆえに「放埓」と言われる。そして放埓な者のこの苦痛を生みだしているのも当人の快楽なのである。節制の人は、快いものがなかったり控えたりしても苦しまないがゆえに、「節制がある」と言われるのである」(Nic.Eth.3:11,1118b30)。アリストテレスは魂の有徳と悪徳は各人の力の及ぶものであり、責任ある自由のもとにあると主張する。過剰に快を求めるとき、その欠乏における苦も過剰となる。そこでの葛藤は欠乏充足モデルのなかでいかに欲望を満たすかをめぐる。そこでは悪徳のただなかでの、葛藤となる。善と悪のつまり律法の善と罪の誘惑とそのあいだにはさまれるわれの三つ巴ではない。

 パウロによればこのアリストテレスにおける放埓者は確かに自らの責任が問われるものであるが、今・ここで暗躍している罪の誘惑への顧慮がなされていなことになる。アリストテレスは人間類型として放埓者や意志の弱い者を分類したが、パウロはフィクションのなかで、今・ここの三つ巴の葛藤を描き出している。罪は今・ここで「わがうちに巣食っている」。従って、罪が寄生しないことも想定されている。福音が明確にキリストのうちにわれらの救いを確立した以上、罪の誘惑にさらされているときは、ひとは誰であれこのように葛藤すべしと、律法の新たな機能を提示していると語ることができる。

 そのとき、神との共知としての良心がめざめることもあろう。律法が突き付けられることにより、われらの「内なる人間」が発動し、こういう仕方で「ああ、惨めだ、われ、人間。誰がこの死の体から救い出すのか」と叫ぶにいたる。この章がパウロの個人的経験に帰すとき、様々な矛盾が生じる。そのためこの章はフィクションであるが、すべてのひとに今・ここに起こりうる現実として、しかも業の律法のもとにある者にはそこから解放されるべく、こう苦悩すべき肯定的な現実として描かれている。

 なお、パウロはアリストテレスの放埓者に対応する、後悔もしなければ、7章の意味での葛藤もない人間をも描いている。「二八彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した。二九彼らはあらゆる不義で邪悪な悪しき欲望に満たされ、妬み、殺人、喧嘩、裏切り、卑しさに満ちた者である。三〇悪口する者、神を憎む者、高ぶる者、自惚れる者、見せかけの偽り者、悪をたくらむ者、親に不従順な者、三一悟りなき者、不忠実な者、愛情なき者、無慈悲な者である。三二彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけでなく、行う者たちを是認さえしている」(Rom.1:28-32)。ここでは放埓な者は「彼らはあらゆる不義で邪悪な悪しき欲望に満たされている」と描かれている。その者たちにおける欲望がもたらす苦悩については記されてはいない。或る意味ではもっと罪と同化し心魂が破壊された者たちを描いている。放埓な者の欲望を満たしえないことへの苦悩は自らの基本的な心魂の在り方への反省につながるかもしれない。その意味で「ローマ書」7章との親近性はある。他方、ここで描かれている自覚的に神に反抗する者たちは神の義の要求を知りつつそれに挑みつつ人々を誑かし神への反抗を助長しようとしている。

 とはいえ、当然神への反抗者たちも良心をポテンシャルとして備えており、終わりの日の審判に立たされ、何らか自己弁明を企てるとされる。「彼らは誰であれ自らの心のなかに律法の業が書かれてあることを証明するが、それは自らの良心が[律法と]共同の証人となり、そして算段に基づき自らのあいだで互いに告発しまた弁明することによってであるが、それは、或る日、神がキリスト・イエスを介したわが福音に即してひとびとの隠れたことがらを審判するときである」(2:15-16)。

アリストテレスの放埓者もパウロの神への反抗者もいつの日にか苦悩を経験する。そしてそれが救いへの糸口なのである。

 

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罪の誘惑(5)「われ」とは誰か?(2)

日曜聖書講義6月5日

罪の誘惑(5)「われ」とは誰か?(2) 

「ローマ書」七章

律法の新たな位置づけ (1-6節)

 それとも、兄弟たち、われは律法を知る者たちに語りかけているのであるが、汝らは知らぬか、律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時であると。二なぜなら、既婚の婦人は生存している夫に律法により縛られているのだから。しかし、もし夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放されている。三だからそれ故、夫が生きているあいだに、他の男のものになるなら「姦通者」と呼ばれるであろう。しかし、夫が死ねば彼女は律法から自由であり、彼女が他の男のものになっても姦通者ではない。四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている。

 

第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」

  七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。

 

第二議論「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」

 一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法背反]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。

 

(先週、5月29日には「われとは誰か」の議論が途中に終わったため、本日も続きを読む。ただし、葛藤についても新たに議論を展開する)。

 

0.自らの力の及ぶものと「わがうちに巣食う罪」

  パウロは、福音により業の律法から解放されたことを受けて、7章で律法の新たな機能・役割を提示している。それは誰であれ(「汝貪るな」と律法により語り掛けられる)「われ」と「罪」と「律法」の三つ巴の葛藤を引き起こすものとしての新たな役割であった。「わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す」(Rom.7;18-20)。律法は善であるが、それを為そうとしても為すことができない自己を見出す。

 罪が私をかどわかして悪を為さしめるという。もはや自分の力の及ばない超自然的な罪の力によるものであり、自らにもはや責任はないと言っているように見える。ちょうどある種の遺伝子が自らを支配しており、あたかも自分が犯罪に身を染めるのは自分ではなく、自分を支配している遺伝子だと言うかのごとくである。パウロは罪の責任、帰責は当然各自にあると主張している。信の根源性を否定するユダヤ主義者たちはパウロの信仰義認論を非難して善を来たらすために不義を為そうと罪を礼賛する。「七しかし、もし神の真実がわが偽りにおいてご自身の栄光へと彌や優ったのなら、何故われなお罪人として裁かれるのか。八そしてわれらはこう中傷されているのではないのか、すなわち「善きことどもが来るために、われらは悪しきことどもをなそう」とわれらが語っていると或る者たちが主張しているように。審判がそのものたちにあることは正当なことである」(Rom.3:7-8)。帰責は審判というかたちで正確に一切を知る神によりとらされる。罪の誘惑に同意している限り、帰責は免れない。

 他方、律法の新しい機能は葛藤させることであった。罪の手下になることはわれらの責任である一方、葛藤の表現としては、望んでいない死を成就している自分は自分の力以外のものに支配され屈従していることになり、この事実を確認しなければならない。「もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる」(Rom.7:16-17)。この罪の支配への隷属の認識なしには救いを求める葛藤はおきない。一時的にそのような自らの力の及ばないものを引き寄せることはあっても、その罪から解放されうる者である限りにおいて、この葛藤が信仰をもっても常に続くということを含意しない。律法を差し向けられた場合に、罪は文字としての律法に寄生するため、このような葛藤が引き起こされるのである。

 あくまでも人類の歴史に悪は偶然的に入ったものであり、偶然的である以上、悪から解放されうるものである。それが福音の勝利である。そしてパウロはキリストにあってつまりあの十字架と復活の出来事は神の人間認識を伝えるものであったのであり、キリストにある限り罪は処分されており、罪から解放されてしまっている。他方、肉において途上の生を生きているものである限りにおいて、業の律法のもとに生きることは起きるのであり、そのとき罪の誘惑にあう。信の律法のもとにあり、「キリスト・イエスにある生命の霊」(Rom.8:2)とともにあるとき、罪は決して寄生できない。キリストは罪とその値である死に勝利したからである。「わが兄弟たち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:4-6)。

 この「われ」の虚構説はキュンメルによっても主張されている。この「われ」はパウロであっても、誰であっても、律法のもとに生きる者は罪の誘惑とこのように葛藤すべしということが教えられている。

 アリストテレスは放埓な人間は目先の快を追求する者であり、欲望の超過している者である。彼らは欲望が満たされないことに著しい苦痛を感じる者であることが分析されている。ここにも葛藤は見いだされる。この葛藤には律法の善性が参与することはないように見える。他方、放埓をそれ自身として欲求することはなく、快を求めていることが分析される。「放埓な者は快いものが手にはいらないことに必要以上に苦しむがゆえに「放埓」と言われる。そして放埓な者のこの苦痛を生みだしているのも当人の快楽なのである。節制の人は、快いものがなかったり控えたりしても苦しまないがゆえに、「節制がある」と言われるのである」(Nic.Eth.3:11,1118b30)。アリストテレスは魂の有徳と悪徳は各人の力の及ぶものであり、責任ある自由のもとにあると主張する。過剰に快を求めるとき、その欠乏における苦も過剰となる。そこでの葛藤は欠乏充足モデルのなかでいかに欲望を満たすかをめぐる。そこでは悪徳のただなかでの、葛藤となる。善と悪のつまり律法の善と罪の誘惑とそのあいだにはさまれるわれの三つ巴ではない。

 しかし、誰にも良心がある限り、そこから放埓な者は自らの苦しみの源にある自己の醜悪さに気づくこともあろう。「良心」については来週以降論じる予定である。

 

(5月29日に予定していた講義内容)。

1 七章の問題の所在

 パウロの信仰義認論つまり信の根源性に立ち帰るだけで罪赦され、信仰+行い(+アルファ)ではないというパウロの主張はユダヤ主義者、律法主義者、律法遵守者と当時論争を引き起こしこた。彼らはパウロの信仰義認論からの帰結として、どんなに不義であっても信じるだけで罪赦されるなら、われらの不義は神の義に貢献している、善をもたらすために悪を為そうと反論していた。「もしわれらの不義が神の義を確立するなら、われらは何と語ろうか。怒りをもたらす神は不義ではないのか。人間的にわれ言うのだが。六断じて然からず。なぜなら、その場合には、神はいかに世界を審判するのか。七しかし、もし神の真実がわが偽りにおいてご自身の栄光へと彌や優ったのなら、何故われなお罪人として裁かれるのか。八そしてわれらはこう中傷されているのではないのか、すなわち「善きことどもが来るために、われらは悪しきことどもをなそう」とわれらが語っていると或る者たちが主張しているように。審判がそのものたちにあることは正当なことである」(Rom.3:5-8)。

 このような律法違反への勧めに対し、パウロは律法の新たな役割を明らかにしなければならなかった。そのために「ローマ書」七章で律法は善なるものであること、そして善である律法が死をもたらしたわけではなく、罪が文字としての律法に寄生しひとを欺き生物的な死をもたらしたこと、さらに神に反抗させ魂の滅びを画策していることを明らかにしている。律法は罪の醜悪さを暴き出す役割を持つに至る。

 七章における罪の誘惑とその葛藤についてさらに詳細に取り組む。ひとは自らの生の第一段階としてつまり最初のひとアダムと同様に肉において魂体として生きる。「最初の人アダムは生きる魂となった」。魂という生命原理の基礎のうえに生存欲求の主体である肉と永遠なものを欲求する霊が身体を用いる。パウロは「われらは肉に対し肉に即して生きる義務ある者にあらず」(8:12)と肉の自己救済の不可能性を警告している。自然的には、免疫反応に見られるように、自己と非自己を識別しつつ、非自己である外界をたくみに自己に取り組みながら、また排除しながら、生物は生きている。人間は、自己の身体の限界が自己の限界であると時間と空間の制約を当然のこととして受け入れがちであるその事実、そしてそのもとに「生きる義務ある者」(8:12)と見做しがちであるその事実、それが「肉の弱さ」(6:19)である。肉は被造物であり生きる限りその場に駐在せざるをえない制約のもとにあるところのものである。

 七章は罪の誘惑のもとにある肉と叡知の葛藤の分析を介して、パウロの心身論を理解する好個の場所である。パウロはこの章で戒めや業の律法が差し向けられる者の反応はいかなるものであるべきかを明らかにしている。まず七章における「われ」との関連で「肉」を考察する。

 七章はユダヤ主義者との二つのディアトリベー(談論風発)を持つ。第一議論において、パウロは彼の信仰義認論への批判のひとつとして「律法は罪か」というユダヤ主義者の問いに、「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」(7-12)と呼ぶべき議論を展開する。続いて、彼は第二議論において「善なるものが死となったのか」という問いには、彼は罪の罪性を著しいものにする霊的な神の律法の提示を介して「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」 (13-25)と呼ぶべき議論を展開する。第一議論では過去時制が、第二議論では現在時制が用いられており、異なる議論として扱わねばならない。第一議論においては霊に対する言及がなく創世記のアダムの記事に基づき、知恵の説得が行われる。そこでは蛇を想起させることにより罪の擬人化の正当化を遂行し、罪の働きとして、罪は戒めに機会を捕らえひとを欺き生物的な死に追いやる。「われ」はそこでは葛藤が描かれず罪に同意し「罪の賃金」(6:23)としての死を受け取る。第二議論では、「われ」は罪に同化しきることなく、霊的な律法に対する今・ここの知識を持ちつつ、神の律法と罪の律法のあいだで葛藤する。前者では罪の誘惑に負けてしまった「われ」が描かれるが、後者では罪のもとに売られ葛藤のうちにある「われ」が描かれる。

 パウロは福音の提示に続き、業の律法の新たな役割をこの章において明らかにする。パウロは言う、「キリストは信じるすべての者にとって義に至る律法のゴール(telos=目指すもの)である」(10:4,cf.「汝ら神に仕えており・・そのゴール(telos)は永遠の生命である」(6:22))。福音の提示により、律法はそこにおいて義が成立するキリストを目指すものとして、業の義から信の義にひとを追いやる新たな機能を明確な仕方で与えられたと言える。業の律法は神の意志である限りにおいて善であり、文字から霊に何らかの仕方で転化される限りにおいて、それは罪の苦悩をもたらし、福音に導く。「われ」とは意味論的分析によれば「汝貪るな」と命令形により語りかけられる者のことであり、背くこともできる責任ある自由のもとに生きる人間中心的な次元にいる自律的な一人の人間のことである。

 

2「われ」とは誰か

 パウロは短く、凝縮された「ローマ書」七章において、罪を暴きだしている。この章で登場する「われ」とは誰かが争われてきた。印象深く述べられる「われ」とは何者であろう。原人アダムのようにも、モーセ律法のもとにあるユダヤ人のようにも、また福音に与ったパウロのようにも見える。なお、福音の恩恵に与った人間がこのような苦悩の叫びを挙げることができるのか、回心以前のパウロの自己認識の述懐なのではないか等が問われてきた。研究史上、現在形において苦悩するこの「われ」が実際パウロを指示しているのかが問われてきた。

 Cranfieldは「われ」が指示する七つの可能性を提示して、パウロの(一)「自伝的なもの」であるないし(七)「キリスト者の経験一般」という立場に対する伝統的な困惑をこう説明する、「この困難さは、初期の時代からとても多くの人々に感じられてきたものであるが、キリスト者の人生についてのまったく暗い見解を含んでいる、とりわけ信徒の罪からの解放(6:6,14,17f,22,8:2)について言われていることと不整合であると思われてきた」。Cranfield, Romans I,p.345.しかし、Cranfieldはアウグスティヌスやトマス・アクィナスそして一六世紀の宗教改革者その他近年の註解者四人の名を挙げて、こう言う。「これらの解釈者たちがパウロの心を正しく理解してきたことをわれらは疑わない。というのも、(一)「自伝的」或いは(七)「キリスト者の経験一般」のいずれかの線にそってのみ、われらはテクストに対して正しく対処しうるからである。・・善を意志しそして悪を憎む「われego」において、nūs(叡知)(7:23,25)において、「内なる人間」(7:22)において、われらは、未だ回心していない人間の自己でも或いはその自己の或る部分をでもなく、神の霊によって新たにされうる人間的自己を確かに認めなければならない。実際、ここで記述されているほどの真剣な葛藤はただ神の霊が現在しかつ実働している場所においてのみ生じうるものである。・・一層キリスト者が神の律法について律法主義的な思考から解放されればされるほど、そして彼がそこへと召されている完全性の十全な輝きをより一層明晰に見れば見るほど、彼はより一層自らの継続的な罪深さ、彼の頑固な滲み通る自我意識・・について自覚的になるということは本当なことではないのか」。Cranfield, op.cit.,p.346f.

 心的状態としてCranfieldが敬虔に苦悩の深まりを語るそのようなことは真実でもあろうが、心理主義的な所謂寝技に持ち込む前に為し得る分析は存在する。福音の啓示に基づき律法の機能を新たに考察したパウロは第二議論で律法はもはや文字としてではなくキリストを目指すものとして霊的なものとなり罪を暴きたて、罪の罪性を著しいものとして知らしめるものだという理解に到達している。第二議論ではパウロの自覚としては「われ」が誰であれ現在形により臨場感を保ちつつ、どんな「われ」にも妥当する仕方で今・ここの働き(エルゴン)として叡知(ヌース)の発動のなかで葛藤している、その現場の提示により「霊と力能の論証」(1Cor.2:4)を遂行していることを示したい。

 この一連の二つの議論のなかで最低限確かなこととして語りうるのは律法が罪ではなく、死をもたらすものではないことを明らかにするために「われ」が登場することである。その目的が達し得るのであれば、パウロであっても、パウロでなくとも構わないと言うことができる。パウロはここで、誰を「われ」が指示するのであれ、最も基礎的に了解できることとして、「われ」とは彼の論敵たちが彼の信仰義認論の含意として律法が罪であり、善きものが死をもたらしたという反論を反駁する証明のなかで登場する人物のことである。戒めが「汝」と呼びかけたさいに、「われ」として応答する者のことである。ここではパウロの二つの論証の過程を誰にも理解しうるものとして共約的な次元で追跡する。そのため罪や霊が行為主体として言及される場合においても、相対的な自律した視点から譲歩された人間の視点で語りなおすことを厭わない。

3「われ」がもたらす臨場感―罪の奴隷から福音へ―

 「われ」は「汝」と呼びかけられた「われ」が一つの虚構空間を形成しており、パウロでも誰でもないあるいは誰であってもよい「われ」がここに展開されている。「われ」は複層的な視点を持ちその都度の現在において推論を展開している者として描かれていることは確実である。今・ここの思考の展開により罪の欺きと律法の善性に基づく葛藤としての働き(エルゴン)が戒めの差し向けられたすべての「われ」に適用されるべく現在形で劇的に描かれている。「われ」は善なる律法と罪の三つ巴の一つの極として提示されている。この戦いは一人の個人の今・ここの具体的な認識そして行為であり、そのエルゴン言語を展開しているが、フィクションとしてのわれであって、歴史のなかにある特定の個人の経過を時系列において記述しているわけではないと理解する。第二議論の現在時制は誰であれ戒めが差し向けられ応答している「われ」であり、善きものが死となったわけではないことを論証していると理解すべきである。

 他方、これらの複合的な出来事の個々の描写はそれぞれ各個人のそれぞれの現在において実際に程度の差こそあれ妥当する時点が存在するとパウロは主張していると言うべきである。彼は今・ここの働き(エルゴン)言語を普遍化しうるものとして常に展開している。さもなければ、議論は迫真性をもたないであろう。罪が欺いてわれが死を成し遂げているということを自覚しないことはある。ひとが死を生物的な与件と受け止めることは共約的であるが、これは罪からの支払・報酬であることを知らないだけでもあろう。そして誰も死を欲していない以上、それをする者はもはやわれではなくわが肉に巣食っている罪が為していることに同意することもできよう。

 「内なる人間」と「肉的」これら双方から構成される者を「われ」は指示している。われは霊を受けているか、それとも良心の葛藤のうちにあるかであり、それ故に「肉に在る限り(inquantum carnalis)」(ルター)常に罪に欺かれているということは帰結しない。すべての者は罪を犯したので罪からの支払い、労賃として外なる人間は死を成し遂げている。それを生物の与件として受け止めているときは欺かれていようが、パウロのように「外なる人間」と「内なる人間」の双方の自覚のもとに受け止めている場合もあり、常に欺かれているわけではない。虚構のなかでの今・ここの働き(エルゴン)言語を、文脈を無視して一般化するとき聖霊の注ぎの神の自由を束縛することになる。「われ」は内なる人間に即して喜んで生きるという働きも十分に想定される。

 罪が肉を常に支配しているか否かはこの論証の中心点ではない。従って、回心後の葛藤であるかも中心点ではない。この論証の成否を握っているのはどれだけ読者が罪の巧妙さに気付き、肉にはどうしても手に負えない威力を持っていることに同意できるかが問われていることである。これが共約されそしてそれにもかかわらず福音が罪に勝利したことを確認できるとき、論証は説得的なものになる。

 「われ」は次の二つの記述(7:5,6と8:1,2)にはさまれている。パウロは「われらが肉にあった時(hote ēmen en tē sarki)、律法を通じての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。しかし、今や、われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えるべく、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された」(7:5,6)と述べ、福音の啓示により根源的な変革が起こり、肉、律法、罪、死そして霊を新たな枠のなかで理解すべきことを告げている。人間の側から語るとすれば、「今や、われらは・・」と語るパウロを含む「われら」は神の前とひとの前双方を生き抜いたキリストの媒介の働きの故に、神の前に霊の新しさにおいて義人として生きることができると主張している。これを一般的に言えば神とひとの肯定的な媒介であるが、聖霊の媒介のもとにある者はもはや単なる人間中心的次元にある者ではないため、「肉にあった」と過去形で語ることができる。ただし、これは(パウロの自覚として)聖霊の働きのもとにある今・ここのエルゴン言語であり、これを一般化することは聖霊の注ぎを私物化することである。

 この文に続き「それでは律法は罪か」の問いとともに、「われ」が主語として立てられ章の終わりまで続き、八章冒頭の「かくして、今や、肉に即してではなく霊に即してキリスト・イエスにおいて歩む者たちにはいかなる罪の定めもない。なぜなら、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放したからである」(8:1-2)という記述によって神の律法による罪の律法に対する勝利が語られ、「われ」は終息、消滅している。

 霊に即しキリスト・イエスにおいて歩む者は聖霊の働きにおいてある。それを説明するものが生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放したことに求められている。これは神の働きである。八章冒頭で「汝を」とあるのはもはや「われ」の苦悩は終息し、キリストの福音の出来事が業の律法からの解放をもたらした以上、「われ」に対し客観的な視点から「汝」と呼びかけ、神が解放したことを報告できるからである。「われ」の役割は終わった。だが、律法のもとに生きようとする者がいる限りこの「われ」の葛藤は有効である。かくして、律法から解放された二つの叙述のあいだに「われ」は登場し、二つの反論、ディアトリベーを乗り越え、やはり確立された福音に連れ戻す役割を担っていると言うことができる。

 パウロがこの二つの論駁を通じて福音は罪に勝利したことを確認しているこの事実は、この箇所では福音以外にはこの罪の力能に打ち勝つものはないということを示すべく、いかに罪が巧妙でありひとを死にもたらすものであるかを説得的に示すことが一つの目標となる。パウロは自らの深刻な経験であったとしても何ら問題はないが、ここで罪の巧妙な力能がすべての人間に適用されるものであることを示している。「われ」はそのための登場人物であり、現在時制により具体的なエルゴンを表現することを通じて、回心前の者にも後の者にも信に関わらない者にも普遍的に妥当することが求められている

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罪の誘惑(4)「われ」とは誰か?

日曜聖書講義5月29日

罪の誘惑(4)「われ」とは誰か?

「ローマ書」七章

律法の新たな位置づけ (1-6節)

 それとも、兄弟たち、われは律法を知る者たちに語りかけているのであるが、汝らは知らぬか、律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時であると。二なぜなら、既婚の婦人は生存している夫に律法により縛られているのだから。しかし、もし夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放されている。三だからそれ故、夫が生きているあいだに、他の男のものになるなら「姦通者」と呼ばれるであろう。しかし、夫が死ねば彼女は律法から自由であり、彼女が他の男のものになっても姦通者ではない。四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている。

 

第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」

  七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。

 

第二議論「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」

 一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法背反]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。

 

1 七章の問題の所在

 パウロの信仰義認論つまり信の根源性に立ち帰るだけで罪赦され、信仰+行い(+アルファ)ではないというパウロの主張はユダヤ主義者、律法主義者、律法遵守者と当時論争を引き起こしこた。彼らはパウロの信仰義認論からの帰結として、どんなに不義であっても信じるだけで罪赦されるなら、われらの不義は神の義に貢献している、善をもたらすために悪を為そうと反論していた。「もしわれらの不義が神の義を確立するなら、われらは何と語ろうか。怒りをもたらす神は不義ではないのか。人間的にわれ言うのだが。六断じて然からず。なぜなら、その場合には、神はいかに世界を審判するのか。七しかし、もし神の真実がわが偽りにおいてご自身の栄光へと彌や優ったのなら、何故われなお罪人として裁かれるのか。八そしてわれらはこう中傷されているのではないのか、すなわち「善きことどもが来るために、われらは悪しきことどもをなそう」とわれらが語っていると或る者たちが主張しているように。審判がそのものたちにあることは正当なことである」(Rom.3:5-8)。

 このような律法違反への勧めに対し、パウロは律法の新たな役割を明らかにしなければならなかった。そのために「ローマ書」七章で律法は善なるものであること、そして善である律法が死をもたらしたわけではなく、罪が文字としての律法に寄生しひとを欺き生物的な死をもたらしたこと、さらに神に反抗させ魂の滅びを画策していることを明らかにしている。律法は罪の醜悪さを暴き出す役割を持つに至る。

 七章における罪の誘惑とその葛藤についてさらに詳細に取り組む。ひとは自らの生の第一段階としてつまり最初のひとアダムと同様に肉において魂体として生きる。「最初の人アダムは生きる魂となった」。魂という生命原理の基礎のうえに生存欲求の主体である肉と永遠なものを欲求する霊が身体を用いる。パウロは「われらは肉に対し肉に即して生きる義務ある者にあらず」(8:12)と肉の自己救済の不可能性を警告している。自然的には、免疫反応に見られるように、自己と非自己を識別しつつ、非自己である外界をたくみに自己に取り組みながら、また排除しながら、生物は生きている。人間は、自己の身体の限界が自己の限界であると時間と空間の制約を当然のこととして受け入れがちであるその事実、そしてそのもとに「生きる義務ある者」(8:12)と見做しがちであるその事実、それが「肉の弱さ」(6:19)である。肉は被造物であり生きる限りその場に駐在せざるをえない制約のもとにあるところのものである。

 七章は罪の誘惑のもとにある肉と叡知の葛藤の分析を介して、パウロの心身論を理解する好個の場所である。パウロはこの章で戒めや業の律法が差し向けられる者の反応はいかなるものであるべきかを明らかにしている。まず七章における「われ」との関連で「肉」を考察する。

 七章はユダヤ主義者との二つのディアトリベー(談論風発)を持つ。第一議論において、パウロは彼の信仰義認論への批判のひとつとして「律法は罪か」というユダヤ主義者の問いに、「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」(7-12)と呼ぶべき議論を展開する。続いて、彼は第二議論において「善なるものが死となったのか」という問いには、彼は罪の罪性を著しいものにする霊的な神の律法の提示を介して「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」 (13-25)と呼ぶべき議論を展開する。第一議論では過去時制が、第二議論では現在時制が用いられており、異なる議論として扱わねばならない。第一議論においては霊に対する言及がなく創世記のアダムの記事に基づき、知恵の説得が行われる。そこでは蛇を想起させることにより罪の擬人化の正当化を遂行し、罪の働きとして、罪は戒めに機会を捕らえひとを欺き生物的な死に追いやる。「われ」はそこでは葛藤が描かれず罪に同意し「罪の賃金」(6:23)としての死を受け取る。第二議論では、「われ」は罪に同化しきることなく、霊的な律法に対する今・ここの知識を持ちつつ、神の律法と罪の律法のあいだで葛藤する。前者では罪の誘惑に負けてしまった「われ」が描かれるが、後者では罪のもとに売られ葛藤のうちにある「われ」が描かれる。

 パウロは福音の提示に続き、業の律法の新たな役割をこの章において明らかにする。パウロは言う、「キリストは信じるすべての者にとって義に至る律法のゴール(telos=目指すもの)である」(10:4,cf.「汝ら神に仕えており・・そのゴール(telos)は永遠の生命である」(6:22))。福音の提示により、律法はそこにおいて義が成立するキリストを目指すものとして、業の義から信の義にひとを追いやる新たな機能を明確な仕方で与えられたと言える。業の律法は神の意志である限りにおいて善であり、文字から霊に何らかの仕方で転化される限りにおいて、それは罪の苦悩をもたらし、福音に導く。「われ」とは意味論的分析によれば「汝貪るな」と命令形により語りかけられる者のことであり、背くこともできる責任ある自由のもとに生きる人間中心的な次元にいる自律的な一人の人間のことである。

 

2「われ」とは誰か

 パウロは短く、凝縮された「ローマ書」七章において、罪を暴きだしている。この章で登場する「われ」とは誰かが争われてきた。印象深く述べられる「われ」とは何者であろう。原人アダムのようにも、モーセ律法のもとにあるユダヤ人のようにも、また福音に与ったパウロのようにも見える。なお、福音の恩恵に与った人間がこのような苦悩の叫びを挙げることができるのか、回心以前のパウロの自己認識の述懐なのではないか等が問われてきた。研究史上、現在形において苦悩するこの「われ」が実際パウロを指示しているのかが問われてきた。

 Cranfieldは「われ」が指示する七つの可能性を提示して、パウロの(一)「自伝的なもの」であるないし(七)「キリスト者の経験一般」という立場に対する伝統的な困惑をこう説明する、「この困難さは、初期の時代からとても多くの人々に感じられてきたものであるが、キリスト者の人生についてのまったく暗い見解を含んでいる、とりわけ信徒の罪からの解放(6:6,14,17f,22,8:2)について言われていることと不整合であると思われてきた」[i]。しかし、Cranfieldはアウグスティヌスやトマス・アクィナスそして一六世紀の宗教改革者その他近年の註解者四人の名を挙げて、こう言う。「これらの解釈者たちがパウロの心を正しく理解してきたことをわれらは疑わない。というのも、(一)「自伝的」或いは(七)「キリスト者の経験一般」のいずれかの線にそってのみ、われらはテクストに対して正しく対処しうるからである。・・善を意志しそして悪を憎む「われego」において、nūs(叡知)(7:23,25)において、「内なる人間」(7:22)において、われらは、未だ回心していない人間の自己でも或いはその自己の或る部分をでもなく、神の霊によって新たにされうる人間的自己を確かに認めなければならない。実際、ここで記述されているほどの真剣な葛藤はただ神の霊が現在しかつ実働している場所においてのみ生じうるものである。・・一層キリスト者が神の律法について律法主義的な思考から解放されればされるほど、そして彼がそこへと召されている完全性の十全な輝きをより一層明晰に見れば見るほど、彼はより一層自らの継続的な罪深さ、彼の頑固な滲み通る自我意識・・について自覚的になるということは本当なことではないのか」[ii]

 心的状態としてCranfieldが敬虔に苦悩の深まりを語るそのようなことは真実でもあろうが、心理主義的な所謂寝技に持ち込む前に為し得る分析は存在する。福音の啓示に基づき律法の機能を新たに考察したパウロは第二議論で律法はもはや文字としてではなくキリストを目指すものとして霊的なものとなり罪を暴きたて、罪の罪性を著しいものとして知らしめるものだという理解に到達している。第二議論ではパウロの自覚としては「われ」が誰であれ現在形により臨場感を保ちつつ、どんな「われ」にも妥当する仕方で今・ここの働き(エルゴン)として叡知(ヌース)の発動のなかで葛藤している、その現場の提示により「霊と力能の論証」(1Cor.2:4)を遂行していることを示したい。

 この一連の二つの議論のなかで最低限確かなこととして語りうるのは律法が罪ではなく、死をもたらすものではないことを明らかにするために「われ」が登場することである。その目的が達し得るのであれば、パウロであっても、パウロでなくとも構わないと言うことができる。パウロはここで、誰を「われ」が指示するのであれ、最も基礎的に了解できることとして、「われ」とは彼の論敵たちが彼の信仰義認論の含意として律法が罪であり、善きものが死をもたらしたという反論を反駁する証明のなかで登場する人物のことである。戒めが「汝」と呼びかけたさいに、「われ」として応答する者のことである。ここではパウロの二つの論証の過程を誰にも理解しうるものとして共約的な次元で追跡する。そのため罪や霊が行為主体として言及される場合においても、相対的な自律した視点から譲歩された人間の視点で語りなおすことを厭わない。

3「われ」がもたらす臨場感―罪の奴隷から福音へ―

 「われ」は「汝」と呼びかけられた「われ」が一つの虚構空間を形成しており、パウロでも誰でもないあるいは誰であってもよい「われ」がここに展開されている。「われ」は複層的な視点を持ちその都度の現在において推論を展開している者として描かれていることは確実である。今・ここの思考の展開により罪の欺きと律法の善性に基づく葛藤としての働き(エルゴン)が戒めの差し向けられたすべての「われ」に適用されるべく現在形で劇的に描かれている。「われ」は善なる律法と罪の三つ巴の一つの極として提示されている。この戦いは一人の個人の今・ここの具体的な認識そして行為であり、そのエルゴン言語を展開しているが、フィクションとしてのわれであって、歴史のなかにある特定の個人の経過を時系列において記述しているわけではないと理解する。第二議論の現在時制は誰であれ戒めが差し向けられ応答している「われ」であり、善きものが死となったわけではないことを論証していると理解すべきである。

他方、これらの複合的な出来事の個々の描写はそれぞれ各個人のそれぞれの現在において実際に程度の差こそあれ妥当する時点が存在するとパウロは主張していると言うべきである。彼は今・ここの働き(エルゴン)言語を普遍化しうるものとして常に展開している。さもなければ、議論は迫真性をもたないであろう。罪が欺いてわれが死を成し遂げているということを自覚しないことはある。ひとが死を生物的な与件と受け止めることは共約的であるが、これは罪からの支払・報酬であることを知らないだけでもあろう。そして誰も死を欲していない以上、それをする者はもはやわれではなくわが肉に巣食っている罪が為していることに同意することもできよう。

 「内なる人間」と「肉的」これら双方から構成される者を「われ」は指示している。われは霊を受けているか、それとも良心の葛藤のうちにあるかであり、それ故に「肉に在る限り(inquantum carnalis)」(ルター)常に罪に欺かれているということは帰結しない。すべての者は罪を犯したので罪からの支払い、労賃として外なる人間は死を成し遂げている。それを生物の与件として受け止めているときは欺かれていようが、パウロのように「外なる人間」と「内なる人間」の双方の自覚のもとに受け止めている場合もあり、常に欺かれているわけではない。虚構のなかでの今・ここの働き(エルゴン)言語を、文脈を無視して一般化するとき聖霊の注ぎの神の自由を束縛することになる。「われ」は内なる人間に即して喜んで生きるという働きも十分に想定される。

 罪が肉を常に支配しているか否かはこの論証の中心点ではない。従って、回心後の葛藤であるかも中心点ではない。この論証の成否を握っているのはどれだけ読者が罪の巧妙さに気付き、肉にはどうしても手に負えない威力を持っていることに同意できるかが問われていることである。これが共約されそしてそれにもかかわらず福音が罪に勝利したことを確認できるとき、論証は説得的なものになる。

 「われ」は次の二つの記述(7:5,6と8:1,2)にはさまれている。パウロは「われらが肉にあった時(hote ēmen en tē sarki)、律法を通じての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。しかし、今や、われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えるべく、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された」(7:5,6)と述べ、福音の啓示により根源的な変革が起こり、肉、律法、罪、死そして霊を新たな枠のなかで理解すべきことを告げている。人間の側から語るとすれば、「今や、われらは・・」と語るパウロを含む「われら」は神の前とひとの前双方を生き抜いたキリストの媒介の働きの故に、神の前に霊の新しさにおいて義人として生きることができると主張している。これを一般的に言えば神とひとの肯定的な媒介であるが、聖霊の媒介のもとにある者はもはや単なる人間中心的次元にある者ではないため、「肉にあった」と過去形で語ることができる。ただし、これは(パウロの自覚として)聖霊の働きのもとにある今・ここのエルゴン言語であり、これを一般化することは聖霊の注ぎを私物化することである。

 この文に続き「それでは律法は罪か」の問いとともに、「われ」が主語として立てられ章の終わりまで続き、八章冒頭の「かくして、今や、肉に即してではなく霊に即してキリスト・イエスにおいて歩む者たちにはいかなる罪の定めもない。なぜなら、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放したからである」(8:1-2)という記述によって神の律法による罪の律法に対する勝利が語られ、「われ」は終息、消滅している。

 霊に即しキリスト・イエスにおいて歩む者は聖霊の働きにおいてある。それを説明するものが生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放したことに求められている。これは神の働きである。八章冒頭で「汝を」とあるのはもはや「われ」の苦悩は終息し、キリストの福音の出来事が業の律法からの解放をもたらした以上、「われ」に対し客観的な視点から「汝」と呼びかけ、神が解放したことを報告できるからである。「われ」の役割は終わった。だが、律法のもとに生きようとする者がいる限りこの「われ」の葛藤は有効である。かくして、律法から解放された二つの叙述のあいだに「われ」は登場し、二つの反論、ディアトリベーを乗り越え、やはり確立された福音に連れ戻す役割を担っていると言うことができる。

 パウロがこの二つの論駁を通じて福音は罪に勝利したことを確認しているこの事実は、この箇所では福音以外にはこの罪の力能に打ち勝つものはないということを示すべく、いかに罪が巧妙でありひとを死にもたらすものであるかを説得的に示すことが一つの目標となる。パウロは自らの深刻な経験であったとしても何ら問題はないが、ここで罪の巧妙な力能がすべての人間に適用されるものであることを示している。「われ」はそのための登場人物であり、現在時制により具体的なエルゴンを表現することを通じて、回心前の者にも後の者にも信に関わらない者にも普遍的に妥当することが求められている


[i] Cranfield, Romans I,p.345.

[ii] Cranfield, op.cit.,p.346f.

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罪の誘惑(3)アダムの原罪物語とローマ書七章

第8回日曜聖書講義 2022年5月22日

 罪の誘惑(3)アダムの原罪物語とローマ書七章

聖書箇所 創世記3章1-24節

ローマ書7章7-12節

第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」

 七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。

1はじめに 悪の起源

 ひとは悪がどこから来たのかそして今どこから来るのかを有史以来問うてきた。ひとには死や争い、犯罪や病気、憎しみなど否定的に思えることがらを「悪」と呼んできた。一般的には「ひとが避けるもの」それが「悪」であり、その対義語として、「ひとが求めるもの」それを「善」と呼んできた。そのひとなりの悪を避け、そのひとなりの善を求める心の在り方、それが人生の基本的な動力、導く力であるように思われる。善という価値が生を導くことを「目的論的」な人生観と呼ぶことができる。個々人により求めるものが異なる以上、善や悪について人類一般に妥当する理解は成立しないように思われる。ただ往々にそんなはずではなかったと後悔するという感情をひとは持つ。自らなりの善悪の経験の蓄積に応じて人類が蓄積した善悪の理論のいずれかに同意するということが起こる。聖書はそれについて明確な理解を「創世記」3章のアダムの原罪の神話そしてパウロによる「ローマ書」7章におけるアダム神話をもとにしての悪の起源の理解において展開している。

 

2悪は偶然歴史の中に入った

ひとは肯定的なものと否定的なもの、善と悪から宇宙に光と闇があるように、この二元的な対立からは逃れられないという考え方は道理あるように思える。しかしこの人間の生存以前からの宇宙の原理としての二元論は聖書の伝える理解ではない。神は宇宙を「光あれ」という言葉により創造し、この豊かな生態系を創造し「はなはだ良かった」と喜んだことが報告されている(Gen.1:1-30)。最初の人間アダムと妻エヴァは蛇の誘惑により神に背いた。神は祝福と戒めを与えた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」 (Gen.2:15)。蛇はこの神の言葉を契機にエヴァを誘惑する。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(Gen.3:5)。この決して死ぬことはないという蛇の応答は短期的には当たっているが、罰としての生物的死を与えられている以上、「食べると必ず死ぬ」という神の言葉は真実である。他方、目が開かれることを、ひとは「啓蒙」と呼ぶであろうが、道徳的な知識を持つ前の幼子のように親に信頼して生きるそのような生が失われることになる。神に立ち帰ることは信のもとに善悪の知識を秩序づけることであり、善悪を識別しないということではない。物語は進む。「女が見ると、その気はいかにもおいしそうで、目を惹きつけ、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(Gen.3:6-7)。そのことにより悪が人類に入った、それが悪の起源であるとされる。そこで生じたことは裸であることを恥じたことである。自分の身体に眼差しが向いたこと、すなわち自らに関心が向かったこと、それが神から背いた最初の反応である。神への眼差しを忘れ或いは恐れ、神から逃れ隠れるにいたった。

2 悪の非本来性

 悪の起源が神に背くことにあるという理解は悪というものが神によって創造された人間にとって非本来的なもの、人間の本性に即さない逸脱した状態であるという理解につながる。エヴァは蛇の巧みな言葉に惑わされないこともできた。もしアダムが神に背かなければという問いに対しては、誰もが蛇あるいは「ローマ書」的には罪の誘惑を受けており、誰もが最初の罪人になる可能性のもとにあると応答できる。そのなかで、悪の責任は、確かに蛇や罪の誘惑がなければ神に背かなかったかもしれないが、あくまでも創造主に対して忠実であることができたアダムや個々人の側にあるということが導かれる。悪はどこまでもわれわれ個々人の責任である。生物的な死や労苦はこの神への背きに対する神からの罰であるとされる。人類はエデンの園という楽園を追放され、その後は死や病や争いなどの悪の制約のなかで、神に立ち帰ることが求められることとなった。

 「神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め彼はお前を支配する」。神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(Gen.3:16-19)。

 この罰の制約のなかでひとは生きることとなった。このことは必ずしもアダムの背きのゆえにその後のすべての人間がアダムの罪が生殖を介して遺伝し、神の前に罪人であるということを含意しない。アダムの失敗に対し人類の連帯責任ということになり、個々人の責任が問われなくなる可能性があるからである。アダムの罪の遺伝子を引き継いだというよりも、パウロは「あらゆる者が罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らない」(Rom.3:23)とまた「ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通したのである」(Rom.5:12)とこの事件とその後の人間の責任を明らかなものとしている。誰も罪を犯さなかったとしても、生物的死はあったであろう。しかし、それは次の目覚めへの「眠り」にすぎない。このように誰もが蛇と罪の誘惑を受けて、神に背いたということが神の認識として報告されている。そして、それをアダムの罪の遺伝子の遺伝としてではなくアダムを模倣したと言うべきであろう。その後人類は楽園追放による生存の労苦と産みの苦しみなど神の罰のもとにあるが、それは生物的には当然のことと認識されもしよう。それは堕落して楽園を追放されてしまった人間にとってそう認識されるだけのことであり、楽園を回復したなら、闇を知らず光のもとにいることが認識できないほど光の子として幼子のように神とともなる生活を続けていたことでもあろう。

 5月1日の講義でシモーヌヴェイユによる悪の単調さについて紹介したら、君たちのなかに反応があった。悪の単調さ、悪には新しいものの何もないというその事態は、ひとが自ら経験的に理解できるものであり、また聖書的にはアダムに与えられた神の罰の与件(予め与えられた条件)のもとでのこととなる。楽園にいて神の戒めに忠実である限り、ひとはこの悪の空虚さに陥ることはなかったからである。ヴェイユは言う。「悪の単調さ、そこには新鮮さが何もない。そこではすべてが同じものだ。そこでは実在するものがない、すべてが空想の産物なのだ。質ではなく量が大きな役割をはたすのはこの単調さのせいである。多くの女をものにするドンファンのように、多くの男をものにするセリメーヌのように、われわれは偽りの永遠を求めるよう強いられている。それが地獄だ」。自ら、世界に対し正面から向き合い、自分を勘定にいれずに、「よく見聞きし分かりそして忘れず」と世界に開かれるとき、新しいものにであう。それ以外は自らの欲望のもとに捉われ、支配され、空想により世界を一色で塗りたくり、何ら新しいものには出会わない。その証拠にそこでは質ではなく量がものを言う。悪というのは単調なものである、そこには何ら新しいものがないからであると言われていた。罪の誘惑に負けてあく悪に支配されるとき、そこには何ら肯定的、創造的なものにはであわない。自らを破壊する仕掛けのみが見いだされる。

 この考えは自らの胸に手を当て、反省するとき、頷(うなず)くのは私ひとりであろうか。人類の始祖アダムやエヴァも生物としての自然的な欲求を持っており、神は「園のすべての木から取って食べなさい」。と肯定している。ただし「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という制約のもとにおいて自然的な欲求は肯定されている(Gen.2:15)。最初の人間は「産めよ、増えよ、地に満ちて従わせよ」(Gen.2:28)と祝福されているように、ひとは自然の欲求である生存や生殖への欲求は神の戒めの制約のなかで肯定されていた。

3 ローマ書における罪の誘惑と克服― 律法は罪ではないことの証明―

 ここまで、「創世記」のアダムの神話から聞き取ることができる。パウロはこの出来事と記事をもとに、罪の誘惑について「律法」と結び付けている。前回、福音即ち信の律法の確立のゆえに、業の律法から解放されてしまったことを学んだ。信により神と正しい関係を築くことにより、ひとは業の律法に寄生する罪の誘惑を退けることができる。

第一議論においては「律法は罪であるのか」(7:7)というユダヤ主義者である論敵からの予弁論的反論に「断じて然らず」と本書簡の一特徴であるディアトリベー(談論風発)様式により応答している。ここではパウロの信仰義認論が含意するでもあろう律法軽視さらには罪悪視への反論として、福音の啓示に基づき律法の聖性と善性の論証を提示する。この論証で特徴的なことは、律法と罪が擬人化されることである。律法は戒めを語りかけるが、「罪はその戒めを介して機会を捉えわれを欺いた」(7:11)。この擬人化は対応個所である「創世記」三章の蛇の擬人化により理解を容易にさせている。パウロは蛇について「ちょうど蛇がエヴァをその狡猾さによって欺いたように」(2Cor.11:3)と蛇を行為主体として擬人的に描いている。パウロはここでも慎重であり、旧約聖書の裏付けにより論敵ユダヤ主義者の土俵上で彼らの同意を取り付けようとする。クランフィールドは「パウロはここで「創世記」三章の物語を念頭においている。ひとの保護のために神の善き恵み深い贈りものであるところの神的戒めは蛇がひとを破壊すべく利用しうる好機でもあると見られている」と述べている[i]

 「欺く」をその類義語で理解するとすれば、それは偽りを語り騙し、実践することであり、魂の秩序を乱し、混乱させ破壊に至らしめることである。その欺きの方法は言葉を通じてである。人間社会においては、ひとがひとを欺くのは、言葉だけではなく、非言語的な行為においてもなされるが、見えない罪は魂の中で語りかけるという仕方で欺く、ちょうどヘビがエヴァに語りかけたように。律法が「汝貪るな」(7:7)と言えば、「汝貪れ、それは人間として生を燃焼させることであり、それは当然為されるべきことなのだ」と反対命題をささやき肉に即した生を唆し、心魂のうちに「罪の律法」(7:23)を立てる。

ここで確認しうることは、意味論的分析によれば、命令は従うことも従わないこともできる存在者を前提に遂行される。従って、ここで「われ」は責任ある自由のもとにいる自律的な存在者であると言うことができる。律法が「赦せ」と言えば、罪は「そんなひどいやつは罰を受けるべきだ、それが正義だ」とささやく。さらに罪は「使徒がキリストの過去の死はお前の古い過去の自我の死でもあったと、また自らの罪は自ら担いえないものであり既に荷われたと言ったのか、そんなことはないお前はあのこと、このこと自らの過去を償わねばならない」と律法を立てに、新しい前向きの生はおめでたき健忘症だとし、古き自我に固執させ責め立てる。

 比喩的に言えば、罪は律法を殊の外好み、律法のあるところ寄生し住みつき罪の果実を増殖させる。なぜなら律法は肉の人間には裁きの言葉だからであり、自らを省みることなしに、自らを他から優越させるために振り回す尺度、規準となり、その定規こそ罪の最も好物とするところのものだからである。律法のあるところ、「すべての者は罪を犯した」(3:23)と語られている限りにおいて、そこに事実上一度は罪が寄生し、ひとをして罪に加担させまた同化させている。罪は律法を隠れ蓑にして姿を見せず、モーセの律法そして戒めそれ自身が自己と他者を破壊するように思われる。パウロはその状況を「生命に至らす戒め自らが死にいたらすものとわがうちに見出された」(7:10) と記す。実は、罪がひとを律法により欺き、殺したのである。ここで「殺した」とは生物的生命に死をもたらしたということである。

律法が罪ではないことの第一議論が過去形により展開されているのは具体的にアダムの事例が念頭におかれ、彼を罪が世に侵入したその過程のモデルにしたためであると考えられる。少なくとも一人神の戒めに背いた人間がいた。善悪を知る木の実を「食べるな」という戒めが与えられたところに罪は初めて登場する。罪は行為主体として戒めを利用して最初の人間を欺き自らに同意させ死に追いやっている。重要なことは罪の行為主体としての働きは文字としての律法を前提にしてのみ語りうることである。

 また、一人称単数「われ」はモーセ律法の擬人化のもとでの「汝貪るな」という二人称単数の命令を戒めとして語りかけられたさいに、それに対する応答して出現する。神が罪に利用されることは想定不能であるため、文字化された律法が「汝」と語りかけるものとされている。二人称の呼びかけに対する一人称による応答、これが最も基礎的な誰にも同意される「われ」の文法的理解である。G.Theisenは言う、「私見であるが、ローマ七章七節以下の内容からも純粋に虚構の「われ」という仮定は支持できないと思う。最初の明示的ego(八節)は「貪るな!」という神の掟に挑発される。律法は二人称単数で人間に呼びかける。そこで一人称単数で答えたくなるのは当然である。しかし、パウロが人間に対する神の要求を云々する場合、自分自身を除外した虚構「われ」を使うなど思いもつかないことだ。これでは神の要求の厳しさはどこかに飛んでしまう」[ii]。この文法的解釈には同意するが、虚構解釈は真剣さを失わせるという見解には同意できない。この「われ」に戒めと罪によるその利用を介した誘惑に対する今・ここのエルゴンによる臨場感と誰であれ「われ」と語る者に妥当する普遍性を託したのである。一章では神の前で神の怒りにあてられた者がいかに振舞うかを明らかにした。神が理解する言語網のなかで罪人たちは登場し、神の理解としての彼らの振る舞いが提示されていた(1:18-32)。そこでは「律法は怒りを成し遂げる」(4:15)として、欲望への引渡しが描かれていた。しかし、ここでは、律法の新たな機能の解明に向かう。第一議論においてパウロは罪と律法の擬人化と生物的死をアダムの記事により裏付ける。罪は文字としての律法を利用し「われ」を欺き死に追いやったことを説得している。この第一義論を介した第二議論においては、「われ」は誰であれ、掟をつきつけられた者は律法が霊的なものであることの認識を持ち葛藤を為すべき者であることが描かれる。文字と霊の律法が二つの議論を異なるものとさせ、「われ」は死から再生に向かう。

 「最初の人間アダム」(1Cor.15:45)はモーセ律法以前に位置するが、蛇の誘惑は「善悪を知る」(Gen.2:17)木の実を食べ、目が開かれ「神の如くになる」(Gen.3:5)という貪りへの誘惑であった。この論証の主語が「われ」ではなく複数形(例えば「われら」「彼ら」)であるとするなら、その指示範囲は限定されるが、「われ」は誰であれ戒めが「汝」と語りかけられ、応答する限りのひとに妥当することを示すことができ、アダムの事態がすべてのひとに普遍化可能となる。実際、「ローマ書」五章の対応個所で罪が入ったことが、死が入ったことの原因であるとされている。「それ故、ひとりのひとを介して罪が世に入りそして罪を介して死が入ったように(hōsper)、そのように(hūtōs)すべての者が罪を犯したが故に、死はすべての者を貫いたのである」 (5:12)。「われ」は誰であれ戒めを差し向けられた者として応答する死すべきアダム的な人間のことである。少なくとも、「終局的アダム」(1Cor.15:45)ないし「第二の人間」(1Cor.15:47)とされるキリスト的な「われ」との対照においてある者のことである。

 この文章に見られる同等比較「~ように、そのように~」は注意を要する。これは死の原因が各人の罪の故にであることを同等比較により明確に述べており、アダムの罪の遺伝による伝播を含意してはいない。「すべての者が罪を犯した」とはまず業の律法による神の前の一般的な人間現実としての罪人が理解されねばならない。ただしその罰はエルゴン上生物的な死に留まる。しかし、これも五章で語られているように、パウロによる全人類の罪人の確認も福音の啓示の故になされたことである(5:12)。福音が啓示されていなければ、ひとは業の律法のもとの義を目指していたでもあろう、アブラハムの系統の者たちを除いて。その福音のもとにある救いの可能性のなかにおいて、或いは叡知の機能不全のなかで、神による罪の認識を人間の叡知がヒットすることもあろう。詩人は報告している、「主は天からひとの子らを見下ろして、賢いもの、神をたずね求める者があるかないかを見られた。彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない」(Ps.14:2,cf.3:10-18)。アダムが背きの最初の者であるが、ひとは事実上或いはより正確には業の律法のもとにある者は皆アダム的な者であったと神は認識している、その神の認識が報告されている(1:18-32,3:20)。換言すれば、第一議論において、神の意志である業の律法は人間により文字として受け止められる限り、それは罪に利用され欺かれることをパウロは報告し知らしめている。この議論なしには、ひとは業の律法に対しどのように受け止めたらよいか知ることはできなかったであろう。空しく同じ欺きに陥り、罪と律法と死のループから逃れる道を見出すことがなかったでもあろう。


[i] Cranfield, Romans I,p341.

[ii] G.Theissen, Psychologische Aspekte paulinischer Theologie (Göttingen 1983)『パウロ神学の心理学的側面』渡辺康麿訳、二八六頁。

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罪の誘惑(2)―業の律法からの解放

2022年5月15日、日聖書講義 

罪の誘惑(2)―業の律法からの解放

 

「ローマ書」七章

律法の新たな位置づけ (1-6節)

それとも、兄弟たち、われは律法を知る者たちに語りかけているのであるが、汝らは知らぬか、律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時であると。二なぜなら、既婚の婦人は生存している夫に律法により縛られているのだから。しかし、もし夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放されている。三だからそれ故、夫が生きているあいだに、他の男のものになるなら「姦通者」と呼ばれるであろう。しかし、夫が死ねば彼女は律法から自由であり、彼女が他の男のものになっても姦通者ではない。四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている。

 

第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」

 七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。

 

第二議論「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」

一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法背反]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。

 

はじめに

 イエス・キリストにおいて福音が打ち立てられた。これは新しい神の契約・約束であり、「信の律法」と呼ばれる。旧約聖書において神はアブラハム、モーセらと契約を結んだ。アブラハムは神の信の律法のもとに、彼は子孫の繁栄の約束を信じた。「神は彼の信仰を義と看做した」(Gen.15:6)。その後、出エジプトを導いたモーセに「十戒」を与えた。これが「業の律法」と呼ばれる。これはイスラエルの民の神聖政治のもとでの法律と言えるものであり、基本的には「十戒」のもとに600を超える戒めとして積み重ねられていく。信の律法は神がイエス・キリストにおいておいて人類に信実であり、それ故に正義であったとき、人類は神の信に対して信によって応答するかが問われている。そこでは心魂の根源的態勢として幼子の信、すなわち疑わずに人生を委ねるときに、神に義と認められる、即ち正しい関係が築かれるというものである。それに対して、業の律法は偶像を崇拝しない、嘘をつかない、貪らないなどの実践によって神に義と認められるものである。パウロはこの業の律法の遵守の道によっては誰も義とされないと主張する。

 彼は「ローマ書」三章で言う。「一九われら知る、律法が語りかけるのは、律法のもとにある者たちに告げることがらは何であれ、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服従するためであることを。二〇それ故に、すべての肉は業の律法に基づいてはご自身の前で義とされることはないであろう。というのも、律法を介しての[神による]罪の認識があるからである」。かくして、イエス・キリストの福音の啓示の故に、モーセの業の律法とは別に神と正しい関係にはいる道が示された。それ故に業の律法は新しい役割を担うことになる。即ち、律法違反(神への背き)を知らしめ、葛藤を引き起こし、悔い改め信の律法のもとに信じる者となることである。

福音の啓示を介して、われらは業の律法から解放されたということ、これを正しく理解することが求められる。信仰、そして信仰による神との正しい関係の成立、さらに信に基づく「義の果実」(Phil.1:8)としての愛。愛は「律法を全うする」律法の「冠で」ある(Rom.13:10)。キリストを介した神の憐みへの信に端を発し、信→義→愛の展開こそ、ひとの本来性である。「愛を媒介にして実働する信が力強い」(Gal.5:6)。今後、文字としての律法に寄生する罪の誘惑の解明を通じて、この力動的な関係を解明していきたい。

 

1 業の律法からの解放

 パウロは婚姻の法律に関して、夫が死んで再婚しても律法違反、違法ではないことを確認する。彼はその比喩により、福音の到来の故に古い夫である業の律法からの解放され新たな神との肯定的な関係の構築の機会を得たとしている。「わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである」。ここに福音のダイナミズムがある。古い革袋を破って、新しい生命がもたらされた。「キリストの身体を介して」とは御子の受肉と死に至る信の従順の生涯を介してまたその故にということであり、それにより律法に死んでしまったと言われる。彼は神の義の啓示の媒介者となった。神が正しい方であり、キリストの信の従順による身体の捧げを「介し」て律法に捉われた古い自己に死に、神と新しい正しい関係に入ることができるとされる。

 彼は福音以前には罪に誘惑され死への果実を結んでいたと言う。「われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた」。「肉にあった」と過去形で言われる。「肉」とは身体をもった自然的な存在者の一つの生の原理のことであり、身体の限界が自己の限界であると看做しがちな弱さを抱えたものである。「肉に即した」生と「霊に即した」生が対比される。「今や、肉に即してではなく霊に即してキリスト・イエスにおいて歩む者たちにはいかなる罪の定めもない。なぜなら、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放したからである。というのも、ひとが肉を介してそこにおいて弱くなっていたところの律法の[遵守し]能わぬことを、神はご自身の子を肉の罪の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その[イエスの]肉において罪を審判したからである、それは律法の義の要求が肉に即して歩まず、霊に即して歩んでいるわれらにおいて満たされるためである」(Rom.8:1-4)。

 霊に即して生きても、生きている限り「肉においてある」ことは続くが、この「肉にあった」という過去表現は神の意志としての業の律法を自らの力で満たそうとするそのような人生原理に即して生きていたという意味である。モーセ律法は各自の責任ある自由が問われる肉において受け止めることのできる神の意志である。他方、イエス・キリストを介して啓示された信の律法は、神が御子を介して人類に信実であったとき、ひとはその信に対して信により応答するのかそれとも裏切るのかが問われている。責任ある自由のもとでの業がではなく、心魂の根源にある信が問われている。ひとが信によってではなく、自らの力で生きようとするとる限り、律法は文字として受け止められる。そこでは神の霊にはとうてい勝てないが文字には寄生できる罪の誘惑を受けることになる。信のもとに生きるとき、神の霊に触れることができるとされる。「六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」。

 

2 律法と裁き

 律法からの解放は日々の課題である。学寮にも寮則があり、これが文字の律法としてわれらを隷属化する。罪がそこに寄生する。罪は律法を殊の外好む。それは人と人との間に審判、裁きを引き起こすからである。

偽りなきイエスはパリサイ人を非難して言う、「彼らの業に即して行うな、彼らは言うだけで行うことがないからである。彼らは人々の肩に負いきれない重荷を結び付けそして担わせる(epititheasin)が、彼らは自ら自分の指によってその重荷を動かそうとすることもない」(Mat.23:3-4)。イエスは自らを死においやるパリサイ人に課せられた重荷を担ったのである。彼は人々に律法の重荷を担わせ、そのたすけに指一本動かそうとしないパリサイ人の罪を担った。

 律法はひとを苦しめるものである。寮則も苦しい。これさえなければ、どんなに楽であろうかと思う。アパートやマンションの管理人であれば楽であろうなと思うことがある。しかし、彼らは別名住人たちからの「苦情受付係」と言われることがある。規則なしにはただカオスとなるということなのであろう。札幌農学校創設時に来日したクラーク先生はBe gentleman!とだけ言った。登戸学寮の寮則もBe gentleman and lady!だけでよいのではないかと思う。寮則のあるところ違反があり、そして違反のあるところ怒りがある。「律法は怒りを成し遂げる。しかし、律法のないところには違反も存在しない」(Rom.7:14-15)。なんでもありであったら、学寮はカオスになるであろうか。日曜聖書講義には誰も出席しないようになるのであろうか。それは当方の話に問題があるからではないか。それなら参加者ゼロのもと空気に向かって話すほうがよいであろう。

 どうして人々は裁きあうのであろうか。争いあうのであろうか。それは律法があるからであり、罪が寄生するからである。ここを何とか乗り越えたい。神に対して良き実を結びたい。

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罪の誘惑(1)―肉と内なる人間の葛藤を引き起こす業の律法の新たな機能

2022年5月8日聖書講義 

罪の誘惑(1)―肉と内なる人間の葛藤を引き起こす業の律法の新たな機能

 

「ローマ書」七章

律法の新たな位置づけ (1-6節)

 それとも、兄弟たち、われは律法を知る者たちに語りかけているのであるが、汝らは知らぬか、律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時であると。二なぜなら、既婚の婦人は生存している夫に律法により縛られているのだから。しかし、もし夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放されている。三だからそれ故、夫が生きているあいだに、他の男のものになるなら「姦通者」と呼ばれるであろう。しかし、夫が死ねば彼女は律法から自由であり、彼女が他の男のものになっても姦通者ではない。四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている(7:1-6)。

 

第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」

 七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。

 

第二議論「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」

一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法背反]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。

 

はじめに

 イエス・キリストにおいて福音が打ち立てられた。これは新しい神の契約・約束であり、「信の律法」と呼ばれる。旧約聖書において神はアブラハム、モーセらと契約を結んだ。アブラハムは神の信の律法のもとに、彼は子孫の繁栄の約束を信じた。「神は彼の信仰を義と看做した」(Gen.15:6)。その後、出エジプトを導いたモーセに「十戒」を与えた。これが「業の律法」と呼ばれる。これはイスラエルの民の神聖政治のもとでの法律と言えるものであり、基本的には「十戒」のもとに600を超える戒めとして積み重ねられていく。信の律法は神がイエス・キリストにおいておいて人類に信実であり、それ故に正義であったとき、人類は神の信に対して信によって応答するかが問われている。そこでは心魂の根源的態勢として幼子の信、すなわち疑わずに人生を委ねるときに、神に義と認められる、即ち正しい関係が築かれるというものである。それに対して、業の律法は偶像を崇拝しない、嘘をつかない、貪らないなどの実践によって神に義と認められるものである。パウロはこの業の律法の遵守の道によっては誰も義とされないと主張する。

 彼は「ローマ書」三章で言う。「一九われら知る、律法が語りかけるのは、律法のもとにある者たちに告げることがらは何であれ、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服従するためであることを。二〇それ故に、すべての肉は業の律法に基づいてはご自身の前で義とされることはないであろう。というのも、律法を介しての[神による]罪の認識があるからである」。かくして、イエス・キリストの福音の啓示の故に、モーセの業の律法とは別に神と正しい関係にはいる道が示された。それ故に業の律法は新しい役割を担うことになる。即ち、律法違反(神への背き)を知らしめ、葛藤を引き起こし、悔い改め信の律法のもとに信じる者となることである。

 福音の啓示を介して、われらは業の律法から解放されたということ、これを正しく理解することが求められる。信仰、そして信仰による神との正しい関係の成立、さらに信に基づく「義の果実」(Phil.1:8)としての愛。愛は「律法を全うする」律法の「冠で」ある(Rom.13:10)。キリストを介した神の憐みへの信に端を発し、信→義→愛の展開こそ、ひとの本来性である。「愛を媒介にして実働する信が力強い」(Gal.5:6)。今後、文字としての律法に寄生する罪の誘惑の解明を通じて、この力動的な関係を解明していきたい。

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荒野の誘惑

2022年5月1日 日曜聖書講義

 

荒野の誘惑 マタイ福音書4章1-11節

 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。

そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。

すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。

 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて

言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。

イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。

 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

 

 1歴史の展開への眼差し

 先週は旧約最後の預言者ヨハネについて学んだ。水で悔い改めの洗礼を授けるヨハネはイエスを聖霊と火で洗礼を授ける方、旧約で伝えられている救世主であると告げ知らしめた。彼はイエスの先触れ、所謂露払いの役目を引き受けた。このヨハネなしにはイエスは旧約の長い歴史のなかでの預言の成就として正しく位置付けられることはなかったかもしれない。少なくとも、イエスは突然自ら神の子であることを叫ぶ者として浮いた存在、孤独な存在となったことであろう。歴史とは、連続的な展開であり、一つの事象には先行する事象があり、そのつど時の徴を見きわめることが求められる。

 イエスの出現を預言した預言者ヨハネは歴史の展開、帰趨をよく見ることができたひとであった。もう自分の時代は去り行くことを認識しつつ、前触れとして良き音信(おとずれ)を告げることができることにヨハネは喜んだに違いない。旧約から新約への引継ぎの象徴的な出来事として、悔い改めを必要としないイエスがヨハネから水の洗礼を受けた。水による洗礼の授けというこの二人の接触は聖霊による洗礼の授けの新しい時代の幕開けを告げるものであり、バトンの引き渡しとして歴史に深く刻まれる大事件であった。そのとき、神からの祝福が鳩のようにくだった。「わが愛する子、わたしの心に適った」という天から声が響いた。イエスの公生涯、伝道の出発として相応しい事件であった。あの出来事に匹敵する出来事は人類の歴史においては主イエスの再臨である。そのとき、この古い地と古い天は巻き去られ、新しい天と新しい地である神の国が成就することであろう。これら二つの大事件のあいだすなわち中間時においてわれわれの歴史は進んでいる。

 人類は滅びに向かっていることをひとは感じているであろう。良き歴史は細い真っすぐな光の道の歴史であり、われらがその歴史につらなるかが問われている。今回のロシアによる侵略についても、現代生きる者はそこに顕わにされているまた隠されている歴史のメッセージを連続性のなかで捉えることが求められる。個々人は自らと人類の神に対する罪を悔い改めることが求められている。しかもこの悔い改めはヨハネ的な悔い改めとして旧約のなかでの良き実を結ぶ良き木となることではない。新しい悔い改めはヨハネが唱えたモーセの業の律法からイエスが信の従順を貫いてうちたてた信の律法に心の根底で移行することである。神が歴史のなかに御子を送られたそれほどまでにこの世界を愛したことを信じるかが問われている。この神の愛への信のもとにその応答として神への愛と隣人への愛の道を歩む。「神は、その独(ひと)り子をお与えになったほどに、世界を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである。神が御子を世界に遣わされたのは、世界を裁くためではなく、御子によって世界が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)。イエスはまことのひととして歴史のただなかで、信の従順を貫いた。その信のもとでの宣教と受難の歴史を福音書は伝えている。

 

2悪魔の誘惑

 今日はこの新しい時代の幕開けの儀式に続いておこった悪魔による誘惑、試練の箇所である。三つの誘惑が記されている。パン問題、すなわち生活上の誘惑、それから神を試す不信仰の問題、すなわち神の援けを疑い、目に見える形で援けを求める誘惑、第三は悪魔と手を結び、手下となり、この世界を支配する問題、すなわち神を裏切るよう誘惑がささやかれている。悪魔はその光の道からイエスをそらせようとした。イエスはそれに対しすべて旧約聖書の引用により誘惑に打ち勝っている。

 翻ると毎日のように誘惑を受けている。あらゆる誘惑はひとと神の関係を破壊し、ひととひとの関係を破壊するそのようなサタンの企みである。福音に立ち帰りそのつど隣人となることにより乗り越えたい。

 イエスはわれらと同じひとであったから40日40夜断食をして空腹を覚えられた。ルカの並行箇所では、こう言われている。「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を霊によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(ルカ4:1-2)。生理的には10日間飲み食いしないと目が見えなくなると言われる。知り合いの僧でアウシュビッツで10日ほど断食し祈っていると、ドイツ人の女性が泣きながら暖かいミルクを差し出したという、それを飲むことにより失明を免れたと言う。ギリギリの状況であったようだ。イエスは一か月以上荒野を彷徨ったこと、そして食べるものもなく40日間過ごしたことが報告されている。彼には通過すべき試練が神の認可のもとに悪魔の誘惑として与えられた。

 

3 生活の誘惑

 最初の誘惑は、この石をパンに変えてみよというものであった。このパンの誘惑は生活一般の誘惑である。衣食住、すべてに欲望を満たすよう誘惑されている。身体をもたなければ、どんなにいいだろうと思うこともあるが、人間はこの制約のなかで、或いはこの祝福のなかで生きている。自然の産物は味覚、嗅覚、聴覚、視覚そして触覚に訴える。神はこのような感覚を備えた人間を創造した以上、その喜びを享受することは許されているはずである。このような感覚をもつことによる人生は祝福されている。

 イエスも洗礼者ヨハネのようにことさら禁欲的ではなかったことが報告されている。旧約の律法主義から自由であったのであろう。イエスはヨハネとの対比において自ら受けた中傷をこう語っている。「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、「あれは悪霊に取りつかれている」と言い、人の子[イエスのこと]が来て、飲み食いすると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言う。しかし、知恵の正しさはその働きによって証明される」(Mat.11:18-19)。神の知恵の正しさは自分の一挙手一投足において証されるという信のもとに彼は父なる神を信頼して虐げられたひとびとと共に生きた。

 山上の説教で、奢侈や貪欲は当然戒められるが、神との正しい関係を打ち立てることが最も喫緊のことであるとされる。野の百合空の鳥を見るようにと自然物が神に養われていることに眼差しを注ぎつつ、自分たちが「天の父の子」であると信じるよう信仰に招く。その信仰により神と正しい関係が成り立つとき、「神はこれらのもの[衣食住]がみなあなたがたに必要なことをご存じ」(Mat.6:32)であるから、野の百合空の鳥のように必要なものは備えられるとしている。イエスはパン問題、生活問題に対して聖書を引用して応える。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」(申命記8:3)。そのつど、聖書に神の言葉を聞きながら、聖書を生活の基礎に据えることの大切さが説かれる。イエスでさえ、書かれた文字としての聖書の言葉の力により誘惑を退けていたのであるなら、肉の弱さをかかえるわれらはなおさら、聖書に神の言葉を聞くことによって乗り越えることができるであろう。

 身体的な衰弱や変調が一つの誘惑のきっかけになることは誰もが経験することである。欲求は欠乏の徴であり、それを満たすものを求める。これを欠乏充足モデルと言う。自らの欠乏を世界に投影し、世界からその欠乏を満たすものを取り入れようとする。欲望の強い人間は欠乏も大きく、権力をもてばもつほど欲望を満たす力も備わることになる。独裁者たちは大きな誘惑にさらされることになる。しかし、ひとは欠乏充足モデルにはまりこんでしまうと、たとえ欲求や欲望を身体にわずかにしか感じることがなくとも、或いは全く感じることがなくとも、習慣化、常態化された行為が遂行されてしまう。わたしなども、手許に食べるものがあるとつい手をだしてしまう。飽食の時代、空腹感がなくとも食べ物に手がでてしまう。これを「魂が肉になる」と言う。欠乏充足モデルのループのなかに自らが捉われていることを示している。そこから逃れるには、他のものにより満たされることが起こることを経験することである。実際、他のことに夢中になっているとき、空腹を忘れることがある。

  ひとは何らかの固定観念のもとに支配されてしまうことがある。ドンファンはおのれの欲望を満たすには世界は一つではたらない、二つなければならないと言ったと伝えられる。生きることは欲望を満たすことであるという基本的な人生観のもとに、欲望をフルに開放する。そこでは生の質ではなく、土地の広さであれ、従属させる人間の数であれ、量がものを言う。大きいことはいいことだ、大量生産、大量消費されること、これが豊かな社会の徴でありよいことだという考えにとらわれてしまうことがある。がさつとなった魂がこの世界の繊細さや美しさを堪能することができずに、自らの欠乏を世界に投影し、一色にする。シモーヌヴェーユ(第二次世界大戦下の哲学者)は言う、「悪の単調さ、そこには新鮮さが何もない。そこではすべてが同じものだ。そこでは実在するものがない、すべてが空想の産物なのだ。質ではなく量が大きな役割をはたすのはこの単調さのせいである。多くの女をものにするドンファンのように、多くの男をものにするセリメーヌのように、われわれは偽りの永遠を求めるよう強いられている。それが地獄だ」。自ら、世界に対し正面から向き合い、自分を勘定にいれずに、「よく見聞きし分かりそして忘れず」と世界に開かれるとき、新しいものにであう。それ以外は自らの欲望のもとに捉われ、支配され、空想により世界を一色で塗りたくり、何ら新しいものには出会わない。その証拠にそこでは質ではなく量がものを言う。

 

4 身体の欲求と神の言葉

 ひとは当たり前のことであるが、身体を抱えてこの人生を遂行しなければならない。人格的な有徳性は身体に自然にわいてくるパトス・受動、受苦、感受態、に対して良い態勢にあることだとされる。ひとがどのような対応を取るかによりそのひとの魂の実力が分かると言われる。恐れると青ざめるが、勇気はその恐れに対して良い態勢にある心の状態のことである。正義は怒りに対して、節制は快楽に対して、良い態勢にあると言われる。愛は喜びに対して良い態勢にあることだとされる。有徳な人々はパトスに翻弄されることはない。

 ひとは身体を正しくコントロールすることが求められている。憐み深いひとは、人間の本来性とのコントラストにある人々に対して可哀そうだ、というパトスが湧いてくる。ひととしての立派さの指標はどのようなパトスを得るかに見いだされる。競争心に心が支配されているひとは、ひとの悲惨な状況に憐みをいだくことはなく、そのひとが競争から脱落したと看做すであろう。有徳なひとは適切な量のパトスのもと、正しい行為を選択できる人々である。イエスは節制あるひとであり、サタンが空腹につけこんで誘惑してきたことに対して神の言葉により打ち勝った。神の言葉はわれらの心を刷新する力を持つ。欠乏―充足モデルのループに捉われると、そこから抜け出すことはむずかしい。習慣としておなかがすくと、食べ物に手がでてしまう。ダイエットしているひとは、誘惑を感じたら、「ひとはパンのみにて生きるにあらず、神の言葉により生きる」と言いつつ、聖書を開いてみよう。ひとは生存のために食べることは不可欠であり、毎日生物の循環構造の与件のなかで生きている。生活の基本を受入れつつ、喜ばしい新しいものとの出会いが必要である。ひとは生きるために食べるのであり、食べるために生きるからではないからである。

 

5 神を試す誘惑:疑いから信仰へ

 第二の誘惑は神を試すことの誘惑である。ひとは徴を求める。神を疑っているからこそ、ひとはこの歴史のなかに様々な神の働きの痕跡を求める。聖書時代には多くの奇蹟がおこなわれたのに、現在五千人のパンのような奇跡、病人の癒しの奇蹟は見られないではないか。神がいるならその証拠を示せとひとは迫ってくる。しかし、人類は現在80億人の人々が生活できるよう、食料生産や医療の進歩を経験している。これは一種の奇蹟ではないのか。神から授かった知性により、人類の諸問題を一つ一つ解決してきたのではないかということは一つの応答になるであろう。

 ともあれ、悪魔は第一の誘惑が神の言葉により退けられたことから、神の言葉として詩篇を引用しつつ、寺院の高いところから身を投げても、天使がきて支え助けてくれるとイエスを誘惑する(詩篇91:11-12)。イエスは「あなたの神である主を試してはならない」という申命記の引用により退けている(申命記6:16)。彼はどれだけ旧約聖書を自らの糧としていたか、ここから分かる。とっさにあの分厚い聖書のここかしこが浮かんでくる。幼少期からシナゴーグに行き、ラビの話を聞き自分で読んでいたのであろう。こう報告されている。

 「イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。イエスはこれらの譬を語り終えてから、そこを立ち去られた。そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった」(マタイ13:52-58)。

 イエスの力の秘訣は神の言葉である聖書に自らの行為を選択したことである。この信の従順こそ彼の力の秘訣であった。われらが何か証拠を求めるとき、相手を信用していない。信の根源性にそのつど立ち帰ることにより、誘惑を退けることができる。

 

6 世界支配への誘惑

 第三の誘惑はこうである。悪魔はイエスを高い山に連れていき、一望のもとに世界のすべての国々の繁栄ぶりを見せた。「もしひれ伏して、わたしを拝むなら、これをみな与えよう」。この誘惑は大きいものである。世界の支配者になることができるという誘惑である。権力者、為政者たちはこの誘惑にかられている。力を持てば持つほど、この誘惑にかられる。プーチンも為政者になったとき、神に選ばれたと強く感じたことを告白している。人間のこのような勝手な思いをどのようにして克服できるのであろうか。イエスだけが、神の意志を十全に遂行した神の子であることをその都度信じ、その都度悔い改めて信仰に立ち帰ることによってである。

 イエスの応答は単純明快である。「「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある」(申命記6:13)。この申命記による応答とともに、「下がれサタン」と退けている。ひとは通常多くの上司や指導者をもっている。上下関係が人間社会にはつきものであるが、イエスはただ父なる神にのみ仕えた。それにより人生は単純明快となる。

結論

 聖書はイエスが神の子であることを証する書である。この出来事に立ち帰りつつ神の意志を聴く。たとえ自らが何らかの指導者になったとしても、イエスの忠実な弟子であることにこそ正しい選択の可能性が開かれる。そこでは愛の戒めが説かれているからである。正しい指導者はキリストの憐みに立ち帰り、そのつど隣人となろうとすること、それが心の根底に置く人々である。他方、指導者は単に隣人を相手にするのみではなく、国家の進路等一般的な判断をしなければならない。とはいえ、指導者も一人の人間であり神への信仰が問われており、個々人の根底に正しい信仰があることがまず求められている。この世界の為政者や上司、教師たちは、個人としてその都度主なる神のもとに立ち帰りつつ、悪魔の誘惑を退けつつ、相対的な自律性を持つ者として歴史を導く。指導者も一人の人間であり、神の言葉により誘惑を退けつつ、光の歴史の細い道を歩む。われらはイエスを派遣された天の父なる神を仰ぎ、神に仕える。

 

 

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最後の旧約の預言者ヨハネ―旧約と新約を繋げる者―

2022年4月24日聖書講義

 最後の旧約の預言者ヨハネ―旧約と新約を繋げる者―

聖書箇所 マタイ3:1-17

1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え 2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

 4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て 6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8悔い改めにふさわしい実を結べ。9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる 11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

 13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 

1 神の約束・契約の歴史

 聖書は神による人類への関わりの記録の書物である。今から3700年以上前、紀元前18世紀後半、神はメソポタミア(「二つの川(ポタモス:ユーフラテス川とチグリス川)の中間(メソス)という意味)地、カルデアのウル(シュメール人の古代都市といいう説がある)に生まれ住んでいたアブラハムを呼び出した。彼は七十五歳のときに神の言葉だけをたよりに妻サラと共に流浪の旅にた。「主はアブラム(アブラハムこと)に言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように」(Gen.12:1-2)。アブラハムは地中海とヨルダン川のあいだの土地カナン地方に住んだ(Gen.13:12)。アブラハムはもはや生殖機能を失っていたが子孫が栄えるという神の言葉を信じ、その信仰が義と認められた(Gen.15:6)。彼のこの信頼は神との正しい関係は信仰によって得られることの一つの根拠となり、イエス・キリストの「信の律法」(神の意志として最も根源的な正義)の先駆となった。信が心魂の根源的態勢であることを明らかにた。「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」(Gen.17:19)。

 アブラハム、その子イサクそしてその子ヤコブへと祝福は受け継がれる。ヤコブは「イスラエル (神の勝利)」と呼ばれ、この民族はその後「イスラエル」と呼ばれるが、「ヘブライ人(イビリーム)」や「ユダヤ人」と呼ばれることもある。「ヘブライ(イビリーム)」の語源は分かっていないが、フェニキヤ人等の集団を指すという説がある。またエルサレムがある地方がユダヤと呼ばれたことから、他の民族との関係においてこれらの呼称で呼ばれたり、自らをこれらの呼称で呼んだりしていた。

 アブラハムは175歳で死んだ(Gen.25)。恐らく紀元前17世紀後半であった。ヤコブの時代に飢饉がおこり、多くのイスラエル人がエジプトにわたった。ヤコブの末子ヨセフはエジプトでファラオ(王)に信頼され宰相となった。その後ヨセフを知らない王があらわれ、イスラエル人を差別し苦役に従事させ、ファラオの娘に育てられたモーセが出エジプトの指導者として選ばれる。出エジプトを遂行した民族指導者モーセは神の山(シナイ山)で「十戒」と呼ばれる神の意志が伝えられたため、それをモーセは書き記しエジプトから一緒に逃れてきた民に伝えた。「モーセは契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは[雄牛の]血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」」(出エジプト記 24:4-8)。アブラハムとの約束・契約に始まり、モーセを介して約束・契約が新たに結ばれた。

 モーセはエジプト王(ファラオ)ラムセス二世(BCEcirca1303-1213)の頃或いは次世代のファラオのとき、苦役に苦しむ同胞へブル人を連れて60万人の成人男子とその家族を連れていた(Ex.12:37)。「イスラエルの人々がエジプトに住んでいた期間は430年であった」(Ex.12:40)。パウロはこれにならいアブラハムへの神の約束(契約)からモーセの出エジプト敢行後、シナイ山で交わした契約まで「430年」と記している(Gal.3:17)。

 

2 預言者たちと「新しい契約」の預言

 紀元前10世紀にダビデとその子ソロモンによりイスラエルに王国が建てられ、栄えたが、紀元前9世紀以降四大預言者(イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル)による預言書が残されている。また十二小預言者(ホセア、ヨエル、アモス等)がたてられ、神の言葉が取り継がれている。預言者エレミヤはこれらの歴史の展開のなか、紀元前6世紀バビロン捕囚のころ「新しい契約」(エレミヤ31章)を神の言葉として取り継ぐ。新しい契約の実現であるイエス・キリストの福音(良き報せ)を預言している。「わたしはとこしえの愛をもってあなたを愛し変わることなく慈しみを注ぐ」(Jer.31:3)。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(Jer.31:31-34)。

 パウロはこれらの契約の結び直しの連続のなかで、旧約聖書において預言され待ち望まれた救世主(メシヤ)がナザレのイエスであることを宣教している。これがエレミヤの新しい契約の成就であると理解されている。「神はかつて預言者たちによって多くのかたちで、また多くの仕方で先祖に語られたが、この日々の最後に(ep’eschtou tōn hemerōn touōn)御子によってわたしたちに語られた」(ヘブライ人の手紙1:1-2)。

旧約から新約に至るまで、イスラエルに象徴される神と人間の交わりの歴史は展開しており、歴史の終わりにはこの古き天と古き地は巻き去られ、新しい天と新しい地があらわれると「イザヤ書」や「ヨハネの黙示録」に預言されている。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起す者はない。それは誰の心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する」(イザヤ65:17-18)。「そして、天使はわたし(ヨハネ黙示録著者)にこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、ご自分の僕たちに示されたのである。見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである」(黙示録22:6-7)。

 

 3 最後の旧約の預言者ヨハネ

 聖書はこのように神がその都度人々を選び自らの意志・契約を伝え、イスラエル民族をさらには異邦人をも救いに導いている。パウロはこれらの契約をイエス・キリストにおける契約の成就という視点からまとめ直している。「神によってあらかじめ有効なものと定められた(アブラハムとの)契約を、それから430年後にできた律法が無効にして、その約束を反故(ほご)にすることはないということです。相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし、神は約束によってアブラハムにその恵をお与えになったのです。では、律法とは、いったい何か。律法は約束を与えられたあの子孫(イエス)が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、注解者の手を経て制定されたものです」(ガラテア書3:17-19)。

 モーセ律法はイエス・キリストにおける信の律法により乗り越えられまた包摂される。イエスは言う、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく、すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:17-18)。イエスはモーセ律法を先鋭化、急進化しながら、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」と神との正しい関係を築いてこそ、律法の「冠」である愛が満たされると主張した。そして彼はその言葉と行いのあいだに乖離や分離のない唯一の人として信の律法のもとに自らの信の従順の生を死に至るまで貫いた。

  このように聖書は人類の歴史の展開を報告しまた預言している。最後の旧約の預言者洗礼者ヨハネは契約を介したこのような一直線の神とひとの交わりの連続性のなかで、旧約(モーセ律法)から新約(イエス・キリストにおける信の律法)への橋渡しの役割を担っている。洗礼者ヨハネは旧約時代の最後の預言者であり、ダビンチが描くところの十字架を指さす人である。

最後の預言者はナザレのイエスをメシヤ(油注がれた者=救世主)であると認識し、正しく彼にバトンを渡している。二人とも旧約の伝統のもとに生きた。ヨハネは禁欲的な生活を送りつつ、神から啓示を受け預言者の伝統としてイザヤを引き、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と主の到来の準備をする。その過程において、彼は自らの民を「蝮の子」と罵りつつ審判の預言を民に告げ、ヨルダン川で悔い改めの洗礼(潜浸)をほどこしていた。旧約における悔い改めは悪しき行いを悔い改め、神に立ち帰り生活を一新することであった。洗礼は古い自己の死と新しい自己の再生の儀式である。

ヨハネが出現しなければ、イエスは神の歴史の連続性のなかで正しくイスラエルの民に告げ知らしめられ、位置づけられることはなかったことであろう。少なくとも、イエスが突然現れ、神の子、メシヤであることを単独で主張せざるをえなかった場合に、歴史の展開のなかでの彼の位置づけが不明瞭になることであろう。彼は長い歴史のなかで預言され待望されていた以上、同時代人によって告げ知らされることは不可欠であった。歴史においては重要な事件においては先触れ、ヘラルド・伝令が顕われる。なぜなら、人類の歴史はそのつど偶然にランダムに事象が生起するわけではなく、預言され待望され、歴史が展開していくからである。旧約の時代の終わりを告げ、そして新しい救いの時代を告げるヨハネの出現は歴史の必然であった。

 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる 。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(マタイ3:8-12)。

 ヨハネは水による悔い改めの洗礼を授けたが、聖霊と火で洗礼を授ける方として神の子を預言する。「イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた」(3:13-17)。

 イエスは悔い改めの洗礼を受ける必要はなかった。しかし、旧約から新約への象徴的なバトンの引き渡しとして二人の共同の行為は神の歴史の正しいプロセスとして理解していた。共に一つの出来事を共有すること、それは歴史の新たな展開に象徴的である。国王の戴冠式は荘厳におこなわれるであろうが、野の蜜を食べ、枕するところなき貧しい二人には、豊かな自然の恵みであるヨルダン川の水を分かち合った。教会堂のコアーの響きはなくとも、野の百合空の鳥が祝福していた。その「正しいことをすべて行う」ことにより、聖霊が鳩のようにくだった。そのとき天の声が響いた。神はナザレのイエスの信仰を嘉みし、喜び、神の子として公に伝えられた。歴史は、このように一つ一つの行為に意味があり、それを正しく踏まえる限りにおいて神に神の意志の正しい行使者として用いられる。他方、神に背く闇の歴史も連綿と続いている。その者たちへの「神の怒り」は欲望への「引き渡し」として勝手にせよと放置することに確認される(ローマ書1:24)。「木はその実によって知られる」(マタイ7:17)。良き木は良い実を結び、悪しき木は悪しき実を結ぶ。「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」(7:19-20)。これは歴史の厳粛なる事実である。

 

 4 結論

 人類の歴史は神に導かれている。そう信じる。ロシヤによるウクライナへの侵略の残酷さと長期化に神の怒りを感じる。終わりの日に、正確に一切を知りしかも憐み深い方の正しい審判がなければならないと心から思う。われわれの根元にはすでに審判の斧が置かれている。人類は自らを破滅させる核兵器を既に有している。もう終わりのとき、最後の審判の時が近いのであろうか。われわれにできることは何であろうか。少なくとも周囲に悪の歴史を負の歴史を刻まないことだ。負のスパイラルに陥らないよう、悪の手下にならないことだ。歯を食いしばって迫害に耐え、敵をも愛することだ。それ以外にこの悪循環を断つことはできないであろう。人類の歴史は厳粛である。闇の子ではなく、光の子でありたい。各人が悔い改めて、すこしづつイエスに倣う者となり、神に喜ばれる者でありたい。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また灯(ともしび)をともして枡の下に置くものはいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:13-16)。

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その心によって清い者は秩序と平和を造る

日曜聖書講義 2022年4月17日

その心によって清い者は秩序と平和を造る

聖書

 「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:1-12)。

第六福 「祝福されている、その心によって清らかな者たち(hoi katharoi)。彼らは神を見ることになるからである」(Mat.5:8)。

 

 1 イースター

 今日はイースター(復活祭)です。春分の日の次の満月の次の日曜日が主イエスの復活を祝う日と定められています。毎年満月になる日は変りますので、イースター復活祭の日もかわります。何か今日は月がピンクになるピンクフルムーンだそうですので、今晩晴れていれば枡形山に見に行きたいものです。この二回神と聖書について入門的なお話をしてきました。今後も神と聖書はこの日曜聖書講義の中心ですので、毎回でてきます。理解を深めていきましょう。神と聖書への尊敬がこの日曜の基礎にあります。今日は毎朝朝礼拝で読んでいるマタイ福音書の5章から7章の山上の説教(山上の垂訓)と呼ばれる箇所から心の清さについて学びたいと思います。心の清さは心に二心、三つ心がないことであり、心が一つに秩序づけられます。イエスの復活は心の清さの結果です。永遠の生命を得たのは彼が天の父の子の信仰に生き抜いたその清さによるものです。復活は人類の歴史においては彼にのみ生起したため、再現性はなく信仰によってしか突破できないことがらであることを最初にお伝えします。

 

2 その心によって清い

 イエスは言う。「誰も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。汝らは、神と富とに仕えることはできない」(Mat.6:24)。「その心によって清い者」とはその心に二心(ふたごころ)がなく、心の目が光のように明るく澄んでおり、ものごとがよく見え最終的に「神を見る」者とされます。「汝(君)の宝のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.5:21)。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置く者はいない。ひとが入ってくるとき光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い。それだから、汝のうちにある光が暗くないか吟味せよ。かくして、もし汝の全身が明るく、何か暗い部分をもたないなら、ともし火が明るさによって汝を輝かすときのように、全体を輝かすものとなるであろう」(Luk.11:33-36)。山の上にある街は隠れることがなく、周囲を照らす。そのように「世の光」はこの世界を支え、導く(Mat.5:14,cf.Phil.2:12-15)。

 ひとは光を好むか闇を好む。全身の明るい秩序を求める者はイエスのもとに行く。彼と共に歩む。福音書のイエスの言葉に、小さな者への愛が福音のもとに生きているか否かの規準になることの証が見られる。イエスはどのようなひとが憐み深いひとかを、競争や怒りや憎しみなどの争いに明け暮れている者たちとのコントラストにおいてこう語る。「[イエス]「わが父に祝福された者たち、天地創造のときから汝らのために用意されている国を受け継げ。君たちはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したことは、わたしに為してくれたことである」。・・[イエス]「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。君たちはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらはあなたが飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」」。(Mat.25:34-45)。

 これら二種類の生の規準は何であろうか。人間の本来性の理解のもとにひとをそして隣人をリスペクトし、ひととして困窮している状況に出会ったとき、それは天の父の子としてのわれらに相応しくないという明確な認識である。イエスが何故彼についてくる群衆が羊飼いのいない羊のようにうちひしがれているのを見て、「深い憐みをいだいた」(Mat.9:36,cf.Mak.1:41,Mat.14:14)かと言えば、人間は、本来、天の父の子であり、こんなに争いや飢餓に苦しむそのようなものではないという認識とのコントラスト・対比の知識から身体に湧き上がってきているからである。憐みはパトス・身体の受動的反応でありひとは選択できずに湧き上がってくるものである。イエスがあの山上の説教を生命をかけて生き抜いたのは「天の父の子」である同胞になんとか神の国の消息を伝えたかったからである。

 イエスの「この小さな一人にしたことはわたしにしたことだ」という発言においてはっきり分かることは、イエスは困窮した人々に自らを重ね合わせていたことである、少なくとも共にいるということである。われらは一度でもこのような視点をもったことがあるであろうか。誰か知らない人々がウクライナにおいて悲惨な状況にある人々に何か食べ物を送ったときに、「ありがとう、わたしに食べ物をくれてありがとう」と言ったり、受け止めたりしたことはあったであろうか。はっきり言って、わたしはそのような感覚をもったことは一度もない。これは或る意味でキリストの弟子として衝撃的なことである。しかし、そこに自らのパトス(身体的受動、感受性)が今後変わっていくかもしれないという手がかりを得たと言うこともできよう。

 キリストについていくということは具体的にキリストが為したように生きることである。これは覚悟がいる。しかし、「その霊によって貧しい者は祝福されている」。この世の様々な富、つまり自らの人徳、名誉、金銭そして地位など、これらの所有によって自らに満足している者は飢え渇くことはない。肉によってこの世の豊かなもので満たされている者たちは一つのことを欠いている。即ちその霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされない心を欠いている。それ故に天国の知識をも欠いていよう。その霊によって貧しい者たちは「天の国は彼らのものだからである」と、この祝福が語られている者たちであある。この世のいかなる富や才覚によっても満たされず、天国の平和と正義と愛を求めて、入れていただくことにのみ希望を見出す者たちがいる。今回の理不尽な侵略は衝撃的だが、天国は理不尽な死を遂げるひとたちのために存在しなければならない、存在しているに相違ないと思わされる。イエスのこのような言葉にであうとき、われらにはまだ分かっていない人間の消息があるのではないか、われらがこの社会において求めている良きものとは異なる良きものがあるのではないかという思いにいたる。

 

3良きものどもの秩序づけ

 良きものどもが正しく秩序づけられないとき、二心、三つ心が生じる。イエスは山上の説教においてパリサイ人のこの心魂の分裂、欲深さを責めていた。イエスは山上の説教において旧約聖書出エジプト記において報告されている神の意志であるモーセ律法(業の律法)を純粋化、先鋭化し、新しい教えを言葉の力のみによって伝えた。ユダヤ人は自らが選ばれた民として律法を誇り、異邦人や罪人とは異なるという差別的な態度を取っていた。イエスは当時の彼らの伝統的な道徳観そして死後天国か地獄に行くという世界像を自らも引き受け、議論の前提を彼らと共有することに基づく対人論法(argumentum ad hominem)により、ユダヤ人の道徳的不徹底さを、さらにはこの世もあの世もという二心(ふたごころ)に潜む偽りを指摘する。イエスはそこで彼らが依拠するモーセ律法を急進化、内面化そして純化する。その論法はまず定型句で「汝らは聞いている、昔の人々によりこう語られたのを」と切り出して、その言い伝えを引用する。伝統的な教えを提示したのち、「しかし、わたしは汝らに言う」と切り返し、それらの問題点を摘出する。それは殺人、姦淫、離婚、誓い、同害報復、敵への憎しみをめぐって展開され、道徳的次元が内側から突破される。つまり彼らの立場は首尾一貫せず保持できないことが内的に論駁される。

 イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18,Ps.139:21-22)と語られたのを汝ら(君たち)は聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:43-46)。イエスは家族や隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益そして被害や危害との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において差別や支配そして操作が遂行されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵は友となることもある偶然的な関係にすぎず、ひとがひとである限り本来的に友と友の等しさつまり愛が成立しうる者だからである。愛とは支配からも支配されるところからも唯一自由な心の場所において生起する我と汝(私とあなた)の等しさである。

 二千数百年前「レビ記」の記者により、モーセは「汝の隣人を、汝自身の如くに、愛せよ」と主の律法を取り次ぎ命じたことが報告されている。「汝自身の如くに」により表現している「汝」は自らを愛する愛と同じだけの愛が隣人に向けられねばならないとされている。そのときモーセそしてレビ記記者は愛が等しさの生起であることを知っていた(Lev.19:18,cf.Deut.6:5,10:12)。例えば父と子、夫と妻、教師と生徒等のあいだに、父は子によって父であり、子は父によって子であるその等しさがその都度生起するもの、すなわち、支配からも被支配からも唯一自由な心の場所で我と汝の等しさが生起すること、それが愛であった。「われは汝らの神となり、汝らはわが民となる」(Lev.26:12)。そしてその等しさの生起に向かう歩みも希望における「愛」である。その方向にある限り希望が湧いてくるからである。

 山上の説教において乗り越えが企てられている敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。背後に過剰を欲する貪欲が支配している。欲深き者は自らが悪しき者であることを知らない、清さとの対比することができないからである。ひとはコントラストにおいて自らの位置を知る。イエスとのコントラストにおいて自らの穢れを知る。

 このように山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろう。争いのやまないわれらの歴史は心情倫理と責任倫理をわけて、後者の視点を多くの場合採用し社会の秩序を守る制度を充実させてきた。「裁くな」、「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済や文化活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は戦争はもとより正当防衛さえ不可能にするため、個々人の心魂の在り方としては賞賛されるが、行政機関、政治は結果責任のもとに到底山上の説教に与することはできないと主張された (Mat.7:1,5:33-37,5:31,5:39)。しかし、このような棲み分けは全体として一つのものであるひとの心とその身体を介した営みを理論上そして実際上分断するものであり、心なき制度化、形式化がはびこり、その前提のもとでの業に基づく比量的正義の追求は人間がそこにおいて最も人間であるその心を苦しめることになる。ひとの良心はそのような棲み分け、二心に満足できず、一切の秩序づけを求める。

その秩序づけをイエスは山上の説教において呼びかけそしてその説教を生き抜いた。かつて敵であったわれらの罪を赦す愛を成就したその方との共知においてわれらの良心は宥められ、その心によって清き者となり平和を造る者となる。われらがイエスの言葉と働きによるご自身の使命と愛の知識を得るにいたるとき、そのとき厳しい律法が福音に包摂されたと言うことができる。そこでは山上の説教は単に言葉ではない。イエスにより満たされた言葉である。それは信そして愛についてのどこまでも人格的な今・ここの共同の知識・良心である。たとえ数式により宇宙の法則を解明したとしても、そこでは創造者なる神は超数学者、物理学者ではあっても、天の父と理解されることはない。

 イエスは誰にも担いえない重荷を課す方ではなく、その重荷から解放する信仰に招いていたまう。業の律法のもとに生きるパリサイ人への彼らの自己矛盾を指摘する厳しい言葉の数々も、ご自身がそのもとにある信の律法への立ち返りを促すものであった。イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(Mat.7:11)。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(6:33-34)。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。

 

4心の成長

 ひとは天国への帰一的集中のもとに行為の選択から宇宙の構成の知識に至るまで一切を秩序づける。「それだから、天国のことを学んだ知恵者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものだ」(13:51)。人間に最も重要なことを学んだ者は生の全体のなかで個々のものごとをそれは古いものであれ新しいものであれ自由に適切に位置づけそしてそれに対応して行為を選択することができる一家の主人に似ている。この発言を単にパトスに対して良い態勢にある人格的な有徳性に対してだけではなく、その認知的な卓越性に対する賞賛と読むことができる。

 人格的な有徳性・卓越性とは、人間が身体をもった存在者として自ら選択できずに自然にわいてくる喜怒哀楽や憐みそして苦悩などのパトスに対して良い態勢にあることである。哲学者は言う、「パトスはヘクシスのセーメイオンである」つまりひとの心にどんなパトスが生じているかによって、そのひとが培ってきた心の実力、態勢(ヘクシス)がどのようなものであるか分かる、パトスはその実力の徴(サイン・セーメイオン)であると言われる。このパトスに対して良い態勢にある者が人格的に有徳であり、悪い態勢にある者が人格的に悪徳者であるとされる。例えば、正しい人はその怒りのパトスに良い態勢にあるひとである。その人は怒らないのではなく、怒るべき時に怒るべき仕方で適切な量の怒りが湧いてきて、等しさを選択分配する。勇気あるひとは恐れに対して、愛あるひとは喜びに対して良い態勢にある。このようにパトスは身体的反応を伴うことに見られるように、身体を持つことが善悪と関わるものとして人間を特徴づける。

 他方、人間は認知的徳・卓越性は真理と偽りの認識に関わる心の態勢を持つ。学問は心のこの部位を訓練する。真理を探究する者は偽りから自由にされ、心に秩序を得る。人生はこの真理と偽り、善と悪の闘いであると言うことができる。

 

5 結論

心の清い者が平和を造る。

 心の清い者、清くされた者は神を見る。ヨブは言う、「どうかわたしの言葉が書き留められるように・・。私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27)。

 「心(kardia)」は聖霊が注がれる心魂の最も深い座をも含む思考や感情など心的働きの座・主体である(Rom.5:5)。「汝の宝のあるところ、そこに汝のもある」(Mat.6:21)。「汝らのおのおのがその心から兄弟を赦さないなら、天の父も汝らに同様に赦さないであろう」(Mat.18:35)。清さは身体全体に行きわたる「良心」と密接な関係にある態勢である。キリストが共にいることにより心が清くなる。そしてそこではものごとが良く見え、最後のところ天の父に守られ導かれていることをも知ることができ、感謝し栄光を神に帰する。この一貫性こそ神に嘉みされる、神が喜ばれる心魂の態勢である。清い者は神を見るであろう。

 

 

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聖書とは

第二回日曜聖書講義  聖書とは

          2022年4月10日 

聖書箇所 ヘブライ人への手紙第4章12-16節

 神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣より鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。さらに、神の御前では隠された被造物は一つもなく、すべてのものが神の眼には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐みを受け、恵にあずかって、時宜にかなった援けをいただくために、大胆に恵の座に近づこうではありませんか。

 

1 聖書という書物

 聖書は旧約聖書と新約聖書からなる。エルサレムがローマの将軍ティトス(その父皇帝ウェスパシアヌス)の軍により紀元70年に陥落したあと、エルサレムから逃れたユダヤ人学者によりヤムニア会議が開かれ39書がユダヤ教の正典とされた。紀元前10世紀頃から収集された伝承に基づき、紀元前5世紀ごろから旧約聖書が編纂された。

 新約聖書はユダヤ人ナザレのイエスが自ら旧約聖書において記録されている神を「天の父」であると説き、自らは神から派遣された「神の子」であると主張し、ユダヤ教改革運動を引き起こした。そしてローマ総督ピラトとユダヤ王ヘロデ・アンティパスのもと処刑されたが甦り、このイエスこそ旧約聖書で預言されたメシヤ(油注がれた者=神から選ばれ意志を具現する者→救世主(ヘブライ語))(キリスト(ギリシャ語))であると直弟子やパウロにより宣教されて、キリスト教が生まれた。そのイエス・キリストをめぐる伝記や手紙そして終末預言からなる27書が新約聖書として2世紀までに成立し、旧約聖書とともにキリスト教の正典とされた。

 

2 歴史の連続性とそれを支える一神教

 二つの書物は歴史の連続性と展開として位置付けられている。その連続性は新旧聖書の神は唯一であり、歴史を導いているという神観のもとに基礎づけられている。イエスは自らが神の子であるという自覚をもったが、自らそれを旧約聖書に基づき立証した。聖書が伝える神は唯一神である。これは中近東、エジプト、ギリシャにおいてもほとんど見られず(一時エジプトでアメンホテプ4世(紀元前14世紀)が一神教を奉じたとされる)、ユダヤ教、キリスト教の神観の連続性と独一性を物語っている。

 例えば、パウロはナザレのイエスがキリストであることを論証する433節からなる「ローマ書」において60節以上旧約聖書から引用するが、それはすべてキリストの預言として肯定的に用いられている。イエスの伝記を記した福音書においても同様であり、イエスは旧約聖書の伝統のもとで、福音(信徒を救いだす神の力)を宣教し、そのために処刑されたが、父なる神は彼を甦らしめ、自ら派遣した神の子であることを知らしめている。

 

3 一神教であることが理にかなっていること

 現代の宇宙物理学によれば、138億年の歴史を持つ宇宙は、ビッグバンにより始まったことそしてそれは自然法則のもとに生起していることが解明されている。宇宙に始まりがある以上、終わりがあるということが道理をもって推測されている。これは、いくつかの含意を持つ。まず、われらの頭脳の産物である理性は宇宙の法則を解明できるということである。宇宙の理(ことわり)と同じ法則のもとにわれらの理性が形成されているということである。この広大深淵なる宇宙を理解することができる人類は宇宙の栄光であるということである。またたとえ宇宙人がいたとしても、彼らは光より早く飛べないし、彼らが宇宙法則を理解していたとしたなら、われわれと何らか交信可能であり、恐れるにたらないということである。

 神は時空の外におり、時空に支配されない永遠の現在にいまし、宇宙を創造したと聖書で報告されている。これまでの物理学が解明したことがらは、一神教が道理ある主張であることを裏付けている。もちろん、有神論と無神論の問題はこれにより解決されたということではないが、一神論と多神論のあいだの問題は或る道理をもって解決されると思われる。この法則的で秩序ある宇宙が複数の神々により創造されたとした場合、そこに秩序が見いだされる以上他の神々を統一する主神の存在は不可欠となる。争いや分裂は法則性を備えた宇宙に相応しくないからである。一切を統帥する存在者がいるとするなら、人類はそれを「神」と呼んできたのである。人類の歴史は、かくして、初めがあり終わりがあることもそこから推論される。

 問題はその神が宇宙の盲目の必然のメカニスムではなく、われらと同じに心を持つ人格者、神格者であるかという問いが残る。創造者が被造物よりも優れたものであるという主張は道理あるものである。われらは宇宙全体を造りえない。われらが人格的である限り、神は或る経綸、計画のもとに宇宙を造り、われらを創造していると想定することも道理ある。歴史にかかわっていると想定することは道理ある。

聖書はナザレのイエスがその神とひとを媒介するまことの人の子そしてまことの神の子であると報告している。

 

4 聖書の権威 聖書は神の言葉か

 一神教が道理ある主張であるとして、人間の言葉で書かれている聖書は神の働きを正しく伝えているのか、単なる人間の捏造ではないのか。聖書の神との関係については二つの理解とその間に多くの立場が想定される。ひとつは「逐語霊感説(verbal inspiration)」というものである。聖書記者はすべからく神から霊感を受けて、それがインクの染みとして伝達されているという理解である。聖書記者はそこでは神とインクの染みのあいだのペンのような立場にあるとされる。それに基づき聖書は神の言葉であり、無謬つまり聖書の言葉はすべて正しく誤りがないと主張される。ただ記者たちは肉の弱さを担っており、眠くなったりなどして伝達のあいだに誤りを認める立場も想定される。この逐語霊感説の対極にあるのが捏造説(fiction theory)である。イエスには精神疾患があり、狂信のもと自らを神の子であると僭称し、人々を誑かしたというものである。聖書記者たちは騙され、何らか自らの欲望のもと、彼についての文書を遺し、人類を誤り導いたという考えである。これらの両極にはさまざまな立場が想定される。

われわれの立場は、唯一の神が宇宙のかなたにいまし、人類をご自身の愛の交わりの相手として創造されたことを信のもとに前提している。神の交わりの相手として責任ある自由をも与えた人間が背いてしまい、生物的死と生存の労苦を罰として与えられた。そのハンディのなかで人類は神との交わりの歴史を紡いできたが、自ら罪と悪とを克服できずに、御子の受肉による派遣を介して救いの道が示されたと信じている。これらの神との交わりが聖書に記されているが、神は人間の限界ある言葉でこのようなご自身の人間への愛と罰が記されることを許容しておられる。文字として神の認識や判断、行為が神の言葉として遺されることを許容し、認可している。そして神の言葉と働きを最も権威ある仕方で伝達するものとして歴史のなかで審判され、逆に審判する書物が聖書である。聖書は神の言葉であるかという問いに対しては、神が人間の有限で誤りうる力能のなかで今あるように伝達されることを許容し、認可したという意味において「神の言葉」である。そして聖書研究を通じて、それは検証され、誤訳がただされ、より神の意志にそうように改善することができると理解している。

 

5 結論

 まとめるとするなら、聖書は人類の歴史のなかで最も権威ある書物として唯一神ヤハウェと神の子イエス・キリストを伝達している。そして生きて働いていたまう神により改善の余地はあるものの今ある仕方でも伝達されうるものとして認可していると言うことができる。

 

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聖書入門:神の探求

2022年度日曜聖書講義第1回 4月3日

聖書入門:神の探求

聖書箇所

「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまたひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからも私を囲み、御手をわたしの上に置いてくださる。その驚くべき知識はわたしを超え、あまりに高くて到達できない。

 どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府(よみ)に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙(あけぼの)の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし御手をもってわたしを導き、右の手をもってわたしをとらえてくださる。

 わたしは言う、「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す」。闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない。

 あなたはわたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造りあげられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。

(15-17節省略)

あなたの御計(おんはか)らいはわたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを究めたと思っても、わたしはなお、あなたのなかにいる」(詩篇139篇1-18)。

 

聖書講義(約35回)の探求対象:神そしてひとの心魂(こころ)

 〇唯一神: 神の探求は神が宇宙の唯一の創造者、統帥者であることをめぐってなされる。その唯一の神は時間と空間の創造者として宇宙の外に永遠の現在にいます宇宙の栄光であることが聖書(旧約聖書と新約聖書双方)において報告されている。

 〇神は知性、人格(道徳)、感性(五感)、そして霊性をその心魂に備えている存在者であるわれら人類に御子を派遣しとりわけ関わり、神は人類をご自身の愛の対象として創造され歴史を導いていることが報告されている。

 

方法 2000年読み継がれた聖書をテクストとして取り上げる。(そのさい、古典として遺されている哲学書等における人間や存在の探求を参照にする)。

 

〇「聖書」はThe Bookと呼ばれる古典として人類の吟味、検証を経て歴史に遺されている。古典は歴史の審判を経ておりしかも歴史を審判するものとして人類の歴史を導いている。古典テクスト研究の確かさの実験、検証は各人の日々の人生そのものにより確かめられる。聖書は科学や心理学、社会学の実験や調査による定量化、数量化による仮説の検証と矛盾せず、相補的である。

〇「聖書」は「神の言葉」であるということの理解について。

 聖書は「ヤハウェ(ヘブライ語、固有名)」と呼ばれる「神(エル)」とその神により選ばれたイスラエルの民との関わりの記述とその歴史的展開が旧約聖書として39書残されている。その展開のなかで神はご自身の御子(イエス・キリスト)を受肉(ひととなること)により人類に派遣した。ナザレのイエスの伝道および受難と復活の記録が新約聖書として27書残されている。 (「イエス (ヨシュア)」は固有名、「キリスト」は旧約聖書において神に選ばれた人物が預言者や王として立てられるその職務授与のさいに、儀式として頭に「油注がれる」ことに由来。(「油注ぐ」メッシャー →メシヤ (ヘブライ語)、キュリオー →キリスト(ギリシャ語)」))。 

 

 聖書はヘブライ語やギリシャ語という人間の文字で書かれている。その聖書は「神の言葉」と言われることがある。その理解として、様々な立場が想定されている。最も強い解釈は逐語霊感説(verbal inspiration)と呼ばれる。神によるイスラエルとの交わり御子の派遣とその生涯の記録は神の使いである聖霊により聖書記者たちに息吹を吹き込むようにあらゆる言葉を伝え、聖書記者たちはペンのようになり神の言葉がインクとして流れ出たという理解である。最も否定的な解釈としては神は聖書記者たちにより捏造された偶像であり偽りであるという虚構説(fiction)が考えられる。

 この講義の立場は人類の歴史に最も影響を与え続けた古典として遺されてきた書物であることに対する尊敬に貫かれる。当方に理解できないことがあるとして、それは当方の知性や心魂の未熟さ故のことであり、宇宙の栄光として宇宙の外にいますそして人類を愛のもとに創造した存在者への探求に貫かれる。ルターは言う、「聖書を正しく理解するところ、そこに聖霊が宿る」。神と人類を媒介する聖霊の援けを得ることができるかも知らない。

 「聖書」が「神の言葉」であるということの理解として、最も道理があると思われるものはこうである。一方、神ご自身について語り理解することができる知性的存在者である人類が宇宙全体とともに創造された限りにおいて、同じ知性的存在者として神がその宇宙の法則や宇宙の目的とともに人類に理解されることを許容しておられると想定することは道理ある。他方、人類がその歴史のなかで陥った神への背きに基づく悲惨と窮状を救出すべく神が御子を派遣した限りにおいて、人類は神の愛の対象であると理解することは道理ある。この知性的であり愛の対象である人類により神ご自身が人間の言葉で理解されることを認可したと想定することは道理ある。これに基づき、神と選びの民さらには人類全体との交わりが人間の言葉で記録されることを許容したという意味において、「聖書」は「神の言葉」であると理解することができる。当然人間の知性や道徳性の弱さそして言語の限界により、様々な神認識や状況認識とその報告において誤りや不備が見られるであろうが、それは聖書記者ならびに人類の限界として理解される。

 当方としては、70年近い人生において聖書の理解に取り組んできたが、聖書に裏切られた経験は一度もない。人間そして自己の探求、理解において聖書に基づきまた他の古典文書に基づき探求してこれたことを喜び感謝している。それは当方の理解があまりに低いためということもあるであろうが、人生の経験全体を通じて聖書が伝える神を求め、共に生きてきたことを感謝し賛美している。詩篇詩人は言う、「測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業(しぎょう、ゆずり)を受けました」(Ps.166)。

 

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 福音と剣―Soft Powerによるhard powerの秩序付け―

 福音と剣―Soft Powerによるhard powerの秩序付け―

 

 「私は汝らに平安を送る、世が与えるのではない仕方で平安を与える。心を騒がせるな、怯えるな」(ヨハ14:27)。

 この春、剝き出しの暴力を目の当たりにして、その対極にある平和の君イエスを仰ぎ見る。彼は強い者には仕えることを促し、柔和と謙りの究極のsoft powerを纏い驢馬の子に乗り入城する。「娘シオンよ、踊れ歓呼の声をあげよ。視よ、汝の王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた、高ぶることなく、驢馬の子に乗ってくる。エフライムから戦車と軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国民に平和が告げられる」(ゼカ9:9)。         

 福音と剣の関係はいかに?無差別な殺戮に極まる理不尽を為しうる人間とは何者か?この問いは人間の理性の明晰性、受動の深さに宿る感性、聖霊に反応する霊性その最先鋭地点における魂の総合的な力の結集を要求する。柔和力が力の政治を秩序づけうるのかが試されている。「愛を介して働いている信が力強い」(ガラ5:6)。

 双方に言い分はあろうが、「プーチンよ、何を恐れる私と直接交渉せよ隣人だ」と呼びかけ最前線で同胞を鼓舞し続ける者の潔さと宮廷で国営航空美女に囲まれ空しい言葉を弄する者の放つ偽りの腐臭、両大統領の魂の著しい対比は人類の光と闇を象徴する。一時委託された「カエサルのもの」は畢竟万物の統帥者「神のもの」であるように、ひとの責任ある自由は相対的自律に留まる(マタ22:15)。為政者が自ら端的自律と錯誤する時、「神の怒り」は罪への「引き渡し」のなか欲望に任せることがある(ロマ1:18)。イエスは命令に従背可能な中立的で自律的な人間社会を引き受け、裁判制度や戦争の現実から目を背けず、しかも「先ず神の国とその義を求めよ」と信仰に招き、福音のもとに律法と社会を秩序づける信の根源性を生き抜いた(6:33,5:25, ルカ22:37)。

 「汝らの肉の弱さ故に」身体の限界を自己の限界と捉える「人間中心的な語」りがあり、「汝らの心の頑なさ故に」モーセは離縁を許したと主は語り、肉への譲歩は弱さと頑なさ故になされる(ロマ6:19,マタ19:8)。ひとはどこまでその譲歩に甘えるのか。山上の説教を正面から引き受けた人々は肉の弱さを乗り越え、その霊によって貧しくその心清く「天の父の子」として神との正しい関係においてのみ満たされる心を持つ。

SNSの時代、戦場にsoft powerが際立つ。別れに母に抱かれ父の兜を叩き続ける幼児、侵入敵兵を胆力で追い返す老夫婦、柔い歌声で避難所を慰めで満たす少女。この独一無比の魂をもつ無辜の民を守るべく、不屈の精神でhard powerにより死を賭して抵抗する兵士、この状況でそれ以外に為す術はあるのか。

 イエスは弟子の伝道派遣時においてそしてもはや支援なく自助以外に術がない時、異なる命令を与える。「さあ行け、財布も袋も持っていくな」、「今は、財布ある者は持っていけ、袋も。剣のない者は、上着を売って剣を買え」(ルカ10:3,22:36)。主の命令は愛を介する信の普遍妥当する命令のもとに一切が秩序づけられるが、イエスは状況、文脈に応じて柔軟に命じる(「状況依存テーゼ」)。愛する者を守るべく生命を賭す不可避の状況がある。捕縛のとき、イエスは弟子にその耳が切り落とされた官憲を憐み癒した。愛敵の憐みのなかで、剣購入を命じ弟子に主を守る機会を与えたが、彼らは皆逃亡した。イエスご自身は苦難の僕の預言に呼応して無抵抗を貫いた。「静まりて私の神たるを知れ」(詩46:10)。「汝ら立ち帰りて静かにせば救いをえ、平穏にして依り頼まば力をうべし」(イザ30:15)。苦悩のパトスに沈む時、理性や良心は麻痺される。冷静に事態を見究め、心魂の根源的態勢である信に立ち帰るとき、憐みと公正、愛と正義が力強く動き出す。

  各人の与件や立場により判断や実践は異なるが、誰もがPutin的なもの、救い難きわが身を抱えている。今こそ文字の律法ではなく、今・ここで働いている柔和力の究極の主を仰ぎ、悔い改め、われらの外に明確に立つ福音に立ち帰ろう。イエスご自身は神の子の信の従順を貫き磔られ、神の前の救いを確立した。神はイエスの信の従順を嘉みし、死者たちから甦らせた。人類はこれにより永遠の生命の在り処を明確に知らしめられた。

 常に「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(ロマ14:22)と自らの責任ある自由を神の前の事柄に結び付けるよう命じられている。その事柄は贖罪と永遠の生命であり、信の対象である。神の前と人の前の今・ここの人格的な働き(エルゴン)上の分節は「キリストを引き裂くことだ」と宗教改革者は拒否し聖霊の執成しを常に求めた。この永遠の生命がもたらす平安はこの世界が与えるものと異なる。肉の弱さへの譲歩に胡坐をかくことなく目覚めおり、その都度神の子の幼子の信の根源性に立ち帰り柔和と謙遜の主の軛に繋がれ真直な道を共に歩もう。「雄々しかれ、われ既に世に勝てり」(ヨハ16:33)千葉惠(3月15日記)。

 

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福音と剣

福音と剣

               日曜聖書講義(ロシアによるウクライナ侵攻のときに) 2022年3月6日

聖書朗読

「さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。 もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」。そこで、彼らは出かけて行き、そして表通りの戸口に、ろばの子がつないであるのを見たので、それを解いた。すると、そこに立っていた人々が言った、「そのろばの子を解いて、どうするのか」。弟子たちは、イエスが言われたとおり彼らに話したので、ゆるしてくれた。そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。
 すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、

「 ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。
今き たる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた」(Mac.11:1-11)。

ゼカリアは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。

 

1戦時に平和の君を静かに思う

 馬ではなく驢馬は平和の象徴となる。イエスはゼカリヤの預言通りにろばの子に乗ってエルサレムに入場した。「ホサナ」即ち「どうか救ってください」というヘブライ語が歓呼の呼び声として用いられている。英国国歌の名称God save the Queen.もホサナからとられたのであろう。救い主のエルサレム入場を祝福し、「万歳」とでも訳すべき仕方で群衆は「ホサナ」と叫んで出迎えた。ゼカリヤの預言がここで成就した。

 わたしどもは今狂気を目の当たりにしている。ゼレンスキー大統領は「プーチンよ、何を恐れている、私と直接交渉せよ。私は君の隣人だ」と和平を呼びかけている。双方に言い分はあるにせよ、人々はロシア兵士と国民の良心に望みを抱いている。争い、これは家庭でも学寮でも地域社会でも国同士でもどこにでも起こる、この残念な事象。為すすべもなく、ただこのなかに巻き込まれていくのか。人類にこれを克服する道は残されていないのか。わたしにはそんなとき、決まって平和の君イエスを思い出す。彼に一縷の望みを抱く。静かに彼の教えに耳を傾けたい。心を騒がせずに、救い主に眼差しを注ぎたい。

 わたしどもが絶望や苦悩等のパトスにからめとられる時、良心は一時的に麻痺される。良心は共知であり、知識は感情や情念にひきずられているとき、働かないからである。良心は育った家族や世間との共同の知識から、「われらはキリストの叡知を持つ」(1Cor.2:16)という仕方でのキリストを介した神との共知に至るまでに変異があり、良心の呵責や平安として発動する。パウロは言う、「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11、Rom.9:1)。

 神との良心が発動するためにも、心静かにしておくことが求められている。イザヤは伝言する、「汝ら立ち帰りて静かにせば救いをえ、平穏(おだやか)にして依頼(よりたの)まば力をうべし」(Isa.30:15)。詩人は賛美する。「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、神がその声を出されると地は溶ける。万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である」(Ps.46:1-11)。

 私どもは停戦を祈りつつ心を落ち着け、人類の平和を希求していきたい。イエスは言われる。「わたしは汝らに平和を遺し、わたしの平和を与える。わたしがこれを与えるのは、世が与えるその仕方においてではない。汝らの心をして騒がせしめるな、怯えさせるな」(John.14:27)。まず世が与える平和とは異なるキリストの平和に預かりたい。

 

2 相対的自律性

 わたしどもはいつも聖書の教える平和と現実世界を支配しているパワーポリティックスにおける抑止力による平和などのあいだに緊張を強いられている。もちろんこの大きな問題に本格的に取り組むことはできない。議論のたたき台として方向を示唆したい。現在ウクライナで起きている惨状を前にして、現実的な判断を迫られるとき、今学んだろばの子に乗ってやってきて、無抵抗のうちに信の従順をその死にいたるまで貫かれたイエスといかなる仕方で関連づけることができるかを学びたい。

イエスは弟子を伝道に派遣するとき、二つの異なる命令を与えている。

 (1)「さあ行け。・・財布も袋も持っていくな。誰にもあいさつするな」(Lk.10:3-4)。

(2)「今は、財布のあるものは持っていけ。袋も同様に持っていけ。また、剣のない者は、自分の上着を売れ、そして剣を買え」(Lk.22:36)。

[「それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。(2)「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた」(Luk.22:35-38)。]

 (1)(2)は命令が語られる文脈を考慮しなければならないことを告げている。主の命令はあらゆる文脈において妥当するわけではない。それはあらゆる歴史的状況、文脈で杓子定規に適用されねばならないわけではない。そのように取られたなら、ナザレのイエスご自身が迷惑に思われるであろう。金持ちの青年に対する次の命令も同様である。

(3)「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやれ。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、私に従え」(Lk.18:22)。

誰もがこの発話の文脈を無視し、普遍化するなら、一定の富の総量と閉じられた小さな社会において、貧者が富者になった瞬間、この命令(3)により貧者となる、そのような際限なき貧者と富者の循環する社会が成立するでもあろう。イエスは反対のことを命じることもあり、歴史状況、文脈を参照して、命令を解さなければならないことを告げている。これを「状況依存テーゼ」と呼ぶことにする。

(2)はいよいよイエスが受難の時を迎えての発話である。生命を賭すその文脈で、弟子たちは主の受難により逃亡離散するが、自衛のために戦うこともある文脈を想定している。そして捕縛のとき、弟子が官憲の耳を切り落とすと、イエスは手をおいて癒した。この行為は憐みの中で遂行された。敵をも愛する憐みのなかで、剣の購入が命じられた。それは生存を計る弟子たちの何らか配慮である。イエスご自身は神の子の信の従順を死に至るまで無抵抗により貫いた。神はこの信の従順を嘉みし、死者たちから甦らせた。この事実は平和を考察するとき、最後まで常に心に留めることが求められている。神の義の啓示の媒介としてこの信は用いられ、人類はこれにより永遠の生命の在り処を明確に知らしめられた。この永遠の生命がもたらす平和こそ、この世界が与えるものとは異なるものである。

 この啓示の前提のもとに、われわれは相対的自律性のもとで、神に従うことも従わないこともできる中立的な存在者として位置付けられ、この中間時を生きている。パウロは「汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)と、神の前のことがらに鈍い肉の弱さに譲歩して人間中心的に語ることがある。イエスもモーセ律法の離婚のさいの離縁状について、「君たちの心が頑(かたく)ななので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」(Mat.19:8,cf.5:31)と語り、肉の弱さに対し譲歩している。イエスは相対的に自律したものとして人間社会を受け止め、裁判制度や戦争の現実をさらには弟子が剣を持つことを否定してはいない(Mat.5:25,Luk.22:37)。もちろん、ひとはどこまでその譲歩に甘えるのかが問われている。山上の説教を文字通りに受け止めるひとびとは肉の弱さへの譲歩を乗り越えた人々である。命令形に象徴的にみられるように、命令に従うことも背くことができる責任ある自由のもとに生きていることが前提にされている。

 納税義務をめぐってイエスを罠にかけようとしたパリサイ人にイエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に納めよ」と応えている(Mat.22:21)。一時的に委託された「カエサルのもの」は畢竟万物の統帥者である「神のもの」であるように、ひとの責任ある自由は相対的自律性に留まり、常に「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の事柄を自らの事柄と受け止めるよう励まされている。

 

3神とこの世の権力の関係

パウロも、権力に対する服従を相対的な次元で捉えている。「すべての魂は優越する諸権威に服従せよ。なぜなら、神によるのでなければ権威は存在しないからであり、現存するものどもは神により任命されているからである。かくして、権威に反抗する者は神の定めに抵抗しているのであり、抵抗している者たちは自らに裁きを招くであろう。なぜなら、支配者たちは善行に対して恐れであるのではなく、悪行に対してだからである。汝は権威を恐れないことを欲している。善を為せ、そうすることにより汝は権威自身から称賛を受けるであろう。なぜなら、それは汝にとって善きことへの神の補佐だからである。しかし、もし汝が悪を為すなら、恐れよ。なぜなら、それはいたずらに剣を帯びているのではないからである。というのも、神の補佐は悪を為す者に怒りのうちに罰を与えるからである。それ故に、単に怒りの故にだけではなく、良心の故にも服従する必然性がある。六実際、その故に汝らは税をも納めているからである。なぜなら、彼らがまさにこのことに献身している限り、神の従僕だからである」(Rom.13:1-6)。

ここで為政者は端的に自律したものとしては捉えられていない。権力は歴史に善を生み出す限りにおいて「神の補佐」として位置付けられる。神の権威のもとで剣を帯びること、つまり強制力をもって秩序の維持を担うことが委託されている。そして権威を恐れないことを望むなら善を為せと命じられている。これには誰もが同意できるであろう。他方、権力を持つ為政者について「彼らがまさにこのこと[善を生み出すこと]に献身している限り、神の従僕だからである」と言われ、もし良き秩序に仕えない権力者がいるとするなら、もはや神の従僕とは看做されていない。この過ぎ去りつつある中間時にあっては、権力者に抵抗しなければならない時が来ることが分かる。為政者は自らを端的自律性のもとにあるとみなし国と国民の平和と幸福追求の名のもとに罪に魂を引き渡しがちである(偶像化の危機)。そのときは状況に応じて抵抗の仕方が一様ではないことは先に確認した。剣を携行したとして、「剣によって立つ者は剣によって滅びる」(Mat.26:52)という、少なくとも、警告のもとにある。捕縛の前彼は弟子に切られた官憲の耳を癒し、敵をも愛した。イエスご自身は信の従順を貫き無抵抗のまま死に至り神の前の救いを確立した。それ故に、われらの外に神の救いの意志は明確に確立された。

個々人の与件や立場は異なる。為政者は国と国民の平和を造り維持する義務を担う。個々人の立場の異なりにより状況判断と実践は異なるが、誰もがわれらの外に明確に立てられた福音については同意できる。その同意内容はこの世のものではなく、復活と永遠の生命の在り処をめぐるものであり、信の対象である。

信じる者は神の前のことがらとの関連で現実を受け止めるよう命じられている。われらの一挙手一投足はこの神の前の救いとの関連で選択される。「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。ひとは自らの責任ある自由のもとで信じるが、その内容は神がイエス・キリストの信においてわれらの信を理解していたまうということを信じる。イエスが持った「幼子」の信仰にイエスご自身により招かれている。

肉の弱さへの譲歩に胡坐をかくことなく目覚めつつ、「残りの者」として心魂を刷新しつつ恐れず、喜んで細い真っすぐな道を歩みたい。「雄々しかれ、われ既に世に勝てり」(John.16:33)。

 

4イエスの柔和こそ平和を造る

憐み深いイエスに従う歩みは共同体において、キリストを首(かしら)とする一つの有機体を形成する。各自はその統一的な生命ある有機体の各部位として自らの特徴を用いて活動し、その体につらなり貢献する。それによりイエスによるご自身が神の子であるという信とそれに基づく憐みは、ひとに特権意識ではなく、低くなることを教え、自らのグループの特権的な自己栄光化を阻み他のグループを見下す党派心を乗り越えさせる。

イエスは弟子たちによる伝道がこの世界で重く見られない幼子のような者たちを介して実現されていること、すなわちこの世の権力を介せずに実現されていることを賛美した。それ故に、これらの栄光が権力者たちに憎まれ妬まれ彼に苦難の道を強いている。権力者たちに媚び諂い、彼らに奇跡をなす権能を与えることはなかったからである。

 福音とは、博識な者や立派な者たちのものではなく、モーセの業の律法を突破するものとして、他に縋ることのできない罪人を招く信の律法のことである。心魂の根源に信が生起するとき、救いの 確かさのなかで平安と喜びが出来事となるまさにそのものであった。心魂の根底が偽りから、裏切りから解放されるのは、「目には目を、歯には歯を」のように常に比較考量のもとにある業のモーセ律法の遂行によってではなく、比較を絶した善が、恩恵としての罪の赦しがこの世界に実現しそしてその確かさへの信に基づき、人生の一切を秩序づけるときである。この世のものに頼るものがあればあるほど、ひとはこの根源的な信に立ち返ることが難しい。「祝福されている、その霊によって貧しい者たち」(Mat.5:3)。この世にすがるべきいかなる者も持たない者、この世のいかなるものによっても満たされない者、そういう者たちが神を求める。

 福音はこの神への眼差し求めがイエスにおいて成就されたと告げ知らせる。イエスは「天の父の子」にふさわしいはずの平安と喜びそして愛がこの地上にはなく、羊飼いのいない羊のように彷徨っている群衆に深い憐みを感じた。そして、天国について教え始めた。「群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れみ」、「彼らに多くのことを教え始められた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。その憐みのなかでの神の国の宣教すなわち神の国がどのようなものであるかについての「教え」とそれがもたらす知識は弱ったひとびとを救いだす力である。イエスの憐みは天の父の子がいかなるものであるかの知識と、それとの対比、コントラストにおいて、何も知らずに彷徨っている人々を見たことのギャップから自然に湧き出てくるものであった。

 彼のこの憐みのパトスと平和と柔和な心持こそ、ひとびとのあいだの争い、諍いそして憎悪さらには国内での分派、分裂、さらには国家同士の戦争のうちに時を過ごす人々の悲惨な現状を克服したいという意志が彼の公生涯を特徴づけた。「河あり、その流れは神の都を喜ばしめ、至上者(いとたかきもの)の住みたまふ聖所をよろこばしむ。神そのなかにいませば都は動かじ、神は朝つとにこれを助けたまわん。もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国はうごきたり、神その声をいだしたまへば、地はやがてとけぬ。万軍の主はわれらとともなり、ヤコブの神はわれらのたかき櫓(やぐら)なり。きたりて主の御業をみよ、主はおほくのおそるべきことを地に為したまへり。主は地のはてまで戦いをやめしめ弓をおをり、矛(ほこ)をたち戦車(いくさぐるま)を火にてやきたまふ。汝ら静まりてわれの神たるを知れ」(Ps.46:4-10)。

 神はこの約束を守るべく、御子を地上に派遣された。平和の君は驢馬(ロバ)の子に乗ってくる。イエスは驢馬の子にのってやってくる平和の君であった。「平和を造る者」は山上の説教の第七福であった。その彼の軛に繋がれて歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与える者となる。平和の君だからである。ゼカリアは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。この神の御子の故に人類は平和への希望を持つことができる。

 イエスは彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(Luk.11:28)。

 

5 キリストにある一つの体の形成

 イエスと共にある平安は次第に隣人に伝わっていく。そしてキリストにある一つの体を形成していく。キリストが共にいます限り、ひとは彼を介して一つの有機的な体を構成すると考えられている。その特徴はパウロによれば同じ思いを持つということ、即ち、キリストとの関連において一切を考察するようになるということである。「われらの主イエス・キリストによってわたしは汝らに勧める、それは汝らが皆同じことを語りそして汝らのあいだに分裂がなく、汝らが同じ叡知においてまた同じ認識において秩序づけられてあるためである」(1Cor.1:10)。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。

 キリストへの帰一的なかかわりを持つ限り、ひとはそれぞれの個性を持ちながら同じ思いを共有し、それぞれの特徴をその一つの体の働きのために発揮する。イエスはご自身を葡萄の木にわれらをその枝になぞらえている (John.15:1-5)。イエスに繋がれている限り「多くの実」を結ぶとされるが、それは何よりも農夫である父なる神が喜ばれるものである。それは天国における果実であり、必ずしもこの世の成功ではないであろう。

 われらはキリストにつらなる体の各部位である(1Cor.12:12-27)。まずわれらに求められているのは信仰により神との正しい関係にはいることである。そのとき、ひとは一つの体の一部位であることを、自らの役割を知るに至る。種蒔きのたとえ話にあるように、自らが良き土地に蒔かれた種であることを知り、自らの自然的な与件の能力の30倍、50倍の実りをもたらすこともあろう。

 神との正しい関係におかれるとき、われらはひととの横の繋がりにおいても秩序づけられる。われらはキリストを介してそれぞれの人のタレント、特徴を知り適切にお互いに位置付けることができる。各人の能力や才能を神との関わりで見るがゆえに、直接的な関係において生じる嫉妬や羨望とは無縁であり、いかにそれぞれの能力が協力しあって、良き実を結ぶに至るかに集中する。「汝らはキリストの体であり、諸部分に基づく器官である」(1Cor.12:27)。身体の諸器官は中枢的な指令部位との関連においてそれぞれの機能を持つ。一つの霊を飲んだ者たちはキリストの体となり、有機的に一つのことを思いまた行う。

 この有機体の主張には、血液が体全体をめぐるように、聖霊が中枢部から注がれそれぞれの器官をめぐり一なる働きを遂行させる。聖霊は人々に喜びを与え秩序ある働きを生み出す。神の憐みのもと個々人に聖霊を与えられることもあろうが、「ペンテコステ(五旬祭)」のときのように、共同体に集団で与えられることもある。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえに留まった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話だした」(Act.2:1-4)。

 人類はこのような仕方で憐みを受けつつ、神とひととの交わりを形成してきた。有機的な一つの体として神に栄光を帰するそのような共同体、集団が出現したなら、どんなに幸いなことであろうか。しかし、歴史はそのような統一された共同体とともにその共同体の分裂を報告してきた。

 

6 党派心の根にある誘惑への身の引き渡し

 弟子たちの間でなされた誰が偉いかという議論はただちに党派主義(sectarianism)に通じる。「弟子たちのあいだで、誰が自分たちの中でより偉いか、推し量りが生じた。イエスは彼らの心の推し量りを知って、一人の子供の手を取り自らのかたわらにその子を立たせた。そして彼らに言った、「誰かこの子供をわたしの名のうえで受け入れるなら、その者はわたしを受入れている。誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる。というのも、汝らすべての者たちのなかでより一層小さな者である者はその者こそ大きいからである」。ヨハネは答えて言った。「先生、われらは或る者があなたの名前において悪霊を追い出しているのを見たので、彼にやめさせました、というのも、われらと一緒に[あなたに]彼はついてこないからです。イエスは彼に言った、汝ら妨げるな。というのも汝らに対抗しない者は、汝らの味方である」(Luk.9:46-50)。

 一番偉い者は子分を従え、二番目に偉い者はその子分よりの下の子分を従えることになり、権力、覇権を争うことになるであろう。権腐10年、権力は10年で腐敗すると言う。その一例が、ヨハネの応答にはしなくも顕れている。或る者がイエスの名前に言及することにより、悪霊を追い出していた。ここで悪霊とは、イエスの癒しの事例によれば、暴れまわる凶暴さを示すそのような手に負えない乱暴狼藉を働く一種の心の病である。それを或るひとがイエスの名によって癒したと報告されている。

 イエスが非ユダヤ人の土地であるガダラ地方に着くと、悪霊に憑りつかれた者は不浄とされる墓場からでてきたと報告されている。ルカによれば、「ゲラサ」と呼ばれる土地の「墓地に住んでいた」裸の男が悪霊につかれていたが、イエスは悪霊を豚に乗り移らせたことにより正気に戻った男の話が報告されている(Luk.8:27)。ガダラにおいては、イエスは憑りついた悪霊を追い出し豚のなかに追いやると、豚の群れは下の湖になだれ込み死んだ。彼らが正気に戻ったかは報告されていないが、憑りつきから解放された以上、ゲラサの墓堀人と同様癒されたのであろう。

 他方、豚飼いたちは豚を死なされたことからくる経済的損失を蒙ったために、イエスを村から追い出した。地上の宝に心を奪われている者はたとえ神の働きを目にしても自らの利益にとらわれ、人が癒されたことで神を賛美することはなかった。まさに「汝の宝のあるところ、汝の心もある」(Mat.6:21)である。われらも悪霊に憑依されることを何らか経験している。心の平衡を失い平安が去ってしまい心がささくれ立ち、悪しき思いに満たされることを経験する。もちろんそこに程度はあるが、何か自らのうちにないものに心魂を引き渡してしまっているそのような感覚を持つこともあろう。ふとしたことで平安を取り戻したときなど、正気を失っていたと気づくことがある。二度と罪の奴隷の軛に繋がれたくないと思う。

 一旦、自らの心魂を引き渡してしまうとどこまでもそれはエスカレートしてしまう。「穢れた霊は、ひとから出ていくと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、「出てきたわが家に戻ろう」と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、でかけて行き、自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう」(Mat.12:43-45)。ひとは自らの心に生の方向を失うとき、空虚となり、誘惑にかられやすい。一度、何らかの憐みにより悪しき思いから解放されたとしても、聖なるものに守られないとき、もっと悪い思いがひとを虜にすることがある。これはわれらも何らか経験していることである。

 イエスの聖性に気が付くとき、自らの穢れの深刻さ、尋常ではなかったことに気づかされ身震いする。眠らされていたのである。悪霊に憑りつかれるこれらの話は、過去のおとぎ話ではない。聖なるものとの対比においてのみ、われらの悪しき思いは聖性に対抗する穢れや悪の仕業であることを知るに至る。

 パウロと共に心を新たにする。「15それでは、どうか。われらは罪を犯そうか、われらは律法のもとにではなく、恩恵のもとにあるのだから。断じて然らず。16汝ら知らぬか、汝らが自らを奴隷として従がうべく捧げるその者に、死に至る罪のであれ、義に至る従順のであれ、汝らは汝らが服従するその者にとって奴隷であることを。17しかし、神に感謝あれ、なぜなら汝らは罪の奴隷であったが、汝らが心から手渡された教えの型に服従し、18罪から自由にされ義への奴隷とされたからである。19われは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る。すなわち、汝らはまさに汝らの器官を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの器官を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。20というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。21では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。22しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。23なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:15-23)。われらは罪の奴隷であったとき、それが自らに破滅をもたらすものに魂を売りわたしていることに気が付かない。そのコントラストを、即ち聖なるものを知ることによってのみ、それがいかに醜悪なものかを知るにいたるかるである。

 醜悪なものとは、或る場合には、自分たちは特別であると他者や他のグループと差別化をはかる党派的な思考、党派主義である。これもコントラストを知ることなしには、いかに醜悪な思考であるかに気付くことはない。党派心は人間の自然であって、誰かに従属することにより保護を受けつつ、敵対する者に対しては蹴落とし、破滅させようとし居丈高になる。弟子ヨハネもその一人であった。権力や数を支配する者が偉い者である。イエスはその考えと戦う。

 問題は、ひとは自覚せずにもいつのまにか信じることにおいて教祖とともに自己を絶対化しがちであるということである。人格が高潔であればあるほど、誘惑は大きくなるであろう。サタンは多くの者たちから賞賛を得ているその者を堕落させるなら、罪と死の支配を広げることができるため、さまざまな党派主義への誘惑をしかけてくることであろう。そしてそれがキリスト教の分派の歴史であった。人生は朽ちる栄冠を獲得する競争ではなく、朽ちぬ栄冠をいただくべき罪と悪との戦いなのである。

 

7 イエスの信とわれらの信・信仰―「信」の二相の判別による乗り越え―

 「信仰・信」の二相を判別することにより、イエスご自身における信の在り方はわれらの信・信仰の在り方の目標であり続ける。「神はイエスの信仰・信に基づく者を義とする」(Rom.3:25-6)。またパウロは命じる、「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。常にイエス・キリストにおいて生起した神の信義を自らのこととするよう勧められている。他方、われらはその啓示の媒介となった「イエス・キリストの信」とは異なり相対的な世界で生きている。「6われらはわれらに賜った恩恵に即して異なる賜物を持っているので、もし預言を持つならその信仰の割合に即して、[賜物を用いよ]」(Rom.12:6)。

 われらは肉の弱さのゆえに、信仰においても程度の世界に生きている。この自覚がないとき、イエスを崇めているつもりでいつの間にか自己をイエスに同化させ、他のグループから自らを特権化してしまう。イエスには偽りがなかった。彼は言葉と働きのうえに乖離がなかった。山上の説教を語り、それを実現すべく十字架の道を歩み抜かれた。彼はその心によって清い。彼はひとの内心をよく見抜いている。おのれの保身や自己栄光化、他者への恐れ、自己卑下そのようなものからまったく自由であった。イエスはご自身を神に至る唯一の道であること、彼自身が真理であり、生命であることを主張せざるをえない。自ら神の子であるという信のもとに生き抜いた者が他の者たちに他の道を勧めるということは信義の問題として、すなわち裏切りの問題としてあり得ないことである。イエスは山上の説教において究極の道徳を語った方であり、それを実現すべく信の従順を貫いた方である。

 端的に言って、山上の説教は聞く者自らの偽りを抉り出す。どこかでひとは自己と他者そして神をごまかしていることが、道徳的次元だけで明らかにされてしまう。イエスはここで信仰にも奇跡にも訴えることなく、ただ言葉で聴衆の良心に訴えている。「「目には目を、歯には歯を」(Ex.21:23)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、「悪人に手向かうな」誰であれ、汝の右の頬を打つなら、左の頬を向けよ。・・・「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:38-39, 43-46)。

 ひとは自分を愛してくれる者、たとえば家族を愛する。これは自然なことである。しかし、そこにイエスは二心、三つ心の偽りを見出す。自らの家族から他の家族とは差別化するとき、そこには家族を誇る自己栄光化の欲求が背後にうごめいている。自分たちだけがよい生活ができればよいという自己中心性、自己保存の本能が働いている。これは血を分けた者同士自然な欲求でもあろうが、イエスはそこに偽りを見出す。それほど天国の道徳はひとの思いを超えている。

 隣人を愛し、敵を憎むことは一種の二心(ふたごころ)である。敵も隣人であることもあろうからである。自分を特別視すること、それは生存と繁栄にプログラムされた生物にとっては抜きがたい傾向性であるが、そこに良心の鋭敏なひとは偽りを感じる。イエスの聖性とわれらの穢れ、このコントラストこそ正面から引き受けねばならない。さもないとき、福音を知ることはできない。この聖なる方が共にいたまうと約束しおられる。

 山上の説教においてイエスはひとが耐えうる限界状況そして為し得る限界状況を明白に提示した。それによって、ひとは何かどこまで落ちてもセーフティネットがあることを見出し、またどこまで登ってもひととしての最高の真実な在り方があることについて権威をもって語りかけられているのを知る。良心が宥められるほどに恩恵は圧倒的であり、その力によりひとはここまで高くなることができるのか、ひとは栄光を棄ててここまで低くなることができるのかをキリストの一挙手一投足において知らされる。 そのイエスは道徳的次元を内側から破り、信仰に招く。

 天の父は水臭くない方であり、この世界での生存をケアしている。ただし、人生に最も重要なことはまず神の国と神の義を求めることであるとされる。彼は山上の説教においてひとの罪や悔い改めを語らずに自然が神の被造物であることへの言及のなか、その「天の父の子」となるように招く。イエスは群衆にガリラヤの野辺で風にそよぐ花々をそして澄み渡った乾いた空を舞う鳥たちを指さしながら、生きることの祝福を語った(Mat.6:25-34)。明日のことを煩うな、一日の労苦、悪しきことはその日で十分である。この「煩うな」という命令形を語りうるのは、天の父なる神が養ってくださるからである。まず神の国と神の義とを求めよ、その神の義とは信に基づいて神と正しい関係に結ばれることである。端的にイエスはここで信仰に招いている。聴衆の良心に訴えて道徳的次元を内側から破る対人論法を介して、信の根源性を間接的に説いたのであった。律法について、急進化、先鋭化させて良心の発動に向けて心の最も内奥に訴える議論は「業の律法」を離れることを、業の律法への煩いを棄てて、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である」その信に導いている。神ご自身にとって信に基づく義が業に基づく義よりも一層根源的であることを「イエス・キリストの信を介して」(Rom.3:22)知らしめている限りにおいて、イエスは自らが「神の子の信」(Gal.2:20)に生きることそしてそれをひとに信じるよう要求することは道理あることである。

 他方、ひとは「肉の弱さ」において生きており、信仰の強い者もいれば弱い者もいる(Rom.6:19,14:1)。この相対的な世界において、神にとって信が根源的であるなら、ひとにとっても信は根源的であり、信に対して信により応答することがふさわしい。神との関係は信により心魂の根源からのものであることが求められている。神はご自身が「イエス・キリストの信」(Rom.3:22)を介して人類に信実であったとき、ひとは信じるのか、それとも裏切るのかが問われているからである。われらはその啓示の故に「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と命じられる。イエス・キリストにおける神の前の信をそのつど自らのものと信じるよう招かれている。ここに信の二相がある限り、われらは決してイエスを祭り上げることを通じて自己を祭り上げる党派根性はブロックされている。信は根源的なものである以上、神との関係においては他の道は拒絶されているが、ひととの関係においては個々人の心的態勢は強い弱いが帰属する相対的なものである限りにおいて、自らの信仰も啓示の媒介となったイエスの信のようなものではありえない以上、他者に対して寛容となる。われらはあくまでその都度自らの業を誇り、自己を栄光化する業の律法のもとに生きることから悔い改めを介して信の律法に立ち返るのである。そこに党派主義に陥る余地は構造上残されてはいない。

8 結論  

 ひとは人間のそして自らの不都合な真実に向き合うことを避け、また人生の苦しみに耐えられず、気晴らしや、願望をともなう思い込みに事実を歪めてしまう。イエスはひとがそのもとに創造された神との正しい関係性なしに、その生はどこまでも偽りであり空しいものであることを説き、神への立ち返りと自らが神の子であることを信じるよう促す。彼にはどこにも偽りを見出すことができない。父なる神への信にひたすら生きたからである。その心によって清い方そして憐み深い方だからである。彼についていこうと思う。「不法を赦され、罪を覆われし者は祝福されている。主にその咎を数えられざる者、その心に偽りなき者は祝福されている」(Ps.32:1-2)。「ひと[心]が全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひと[心]は自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。「身体を破壊しても魂[生命の源]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:28)。この信の根源性という究極のソフトパワーにより剣というハードパワーは秩序づけられることが求められる。さもなければ、軍拡競争に歯止めがかからないであろう。人類に絶望だけが残されるであろう。

 

 

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福音と律法の緊張―心を清め愛する力を与える―

日曜聖書講義  2022年2月6日

 福音と律法の緊張―心を清め愛する力を与える―

                            千葉惠

1 はじめに

 本年度最後の日曜聖書講義です。35回目になります。今日は福音と律法の緊張について学びたいと思います。ひとは自らの偽り、醜悪さ、罪深さに慄き、なんとか清められてイエスのようになりたいと思うとき、キリストに従いついて行こうと決心するのです。そしてその果実、その御褒美は神と隣人を愛することができるようになることです。

 信仰生活は単純であると言えます。この二年間学寮や学寮の支援者の方々の中にたびたび信仰の熱心に触れることがありました。その方々は一様にこのような動機付けで神への熱心のうちに日々を過ごしておられました。昨年HCDの学寮誕生物語のヒロイン小町勝美さんは「私が初代キリスト教の時代に生まれていたら、ただただ使徒パウロのあとについていって、伝道のお手伝いをしていたことでしょう」という印象的な言葉を遺しています。この情熱をもって学生のために、この登戸の土地を黒崎先生に寄贈したのでした。他にも純粋な思いでキリストに捧げて生きてきた人々を思い出すことは大きな励ましです。ここでは「愛を媒介にして働いている信仰が力強い」(Gal.5:6)というこの信仰と愛を聖書はどうとらえているかを学びたいと思います。愛に生きる信仰の力がどこから与えられるか探求したいと思います。

 

 2 福音と律法

 それは伝統的に福音と律法の関係として探求されてきました。「福音」は「信じるすべての者に救いをもたらす神の力能」であり、「愛」は「律法を充足するもの」「律法の冠」です(Rom.1:16,13:9-10)。ルターは「聖書を正しく理解するところそこに聖霊が宿る」と言いましたが、この福音と律法の関係を正しく理解するとき、即ち双方の緊張と秩序付けを正しく理解するとき、ひとは清められ喜びいさんでひとを愛することができるようになると思われます。聖書の研究は生きる力を与えます。イエスと交流のあった人々は「このひとの知恵と力能はどこから来たのか」(Mat.13:54)と不思議に思ったのです。イエスは神との正しい関係を信仰により持つことを通じて、山上の説教において純化されたモーセ律法を成就しました。「信の律法」即ち福音と「業の律法」即ちモーセ律法は二種類に神の義ですが、これら二つの神の正しい意志はイエスにより媒介総合され成就されたのです。福音と律法この二種類は常に緊張のなかにありますが、この地上に生きたひとりの人により実現された以上、われらにも希望が湧いてくるのです。

 

 3  旧約から新約へ、律法の時代から福音の時代へ

 イエスには先触れがいました。メシヤ(救い主)の到来を預言した洗礼者ヨハネはユダヤの宗教指導者たちに対し「蝮の子らよ、差し迫っている怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。「われらはアブラハムを父に持つ」とうぬぼれるな。わたしは汝らに言う、神はこれらの石からアブラハムの子孫を呼び起こすことができる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(Mat.3:7-10)。これが伝統的に預言者たちが宣べ伝えてきた神の怒りと審判の告知です。ヨハネは最後の預言者として偽りの生活への悔い改めとふさわしい実を結ぶよう律法を突き付けています。イエスはヨハネとの連続性において「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(Mac.1:15)と新しい福音の時代の到来を宣べ伝えました。

 律法の時代から福音の時代へ、これが人類の歴史のダイナミズム、力の源泉なのです。イエスご自身がご自身の言葉と働きにおいて福音を持ち運んでいました。先週お話した神の国の現在性との関連で言うなら、一挙手一投足において神の国を実現しつつあったと言うことができます。「福音」はパウロによればひとが持つ信仰に応答する救い出す「神の力能」(Rom.1:16)です。律法の時代のあとに、時が満ちて福音の時代が到来したのです。神の救いの力が歴史のなかにイエスにおいて顕されたのです。「福音(euaggelion)」とは文字通りには「良きこと(eu)」を伝える「天使・伝令のメッセージ(aggelion)」即ち「喜びの訪れ」です。ひとは御子の受肉とあの信の従順の生涯を神からの良き音信として喜び感謝して受入れてきたのです。

 ここでの一つの問がおきます。それではユダヤ人を鍛え、彼らの誇りであったモーセを介して与えられた律法はどこに行ってしまったのか。律法は神がご自身で選ばれた民族ユダヤ人にモーセを介して与えた、神に嘉みされる正しい人生の規範、規準です。これが永遠の現在にいます神の意志である限り、福音により廃棄されるということは考えられない。何らか新しい福音に秩序づけられるはずです。この関係を正しく理解するとき、ひとはエレミヤが糾弾した偽預言者たちが説いたような偽りの「平和」、「平安」に陥ることなく、またユダヤの宗教指導者たちが陥った生命なき律法主義、形式主義に陥ることなく、正しい信仰とその果実として自分自身から自由にされ、愛を結ぶようになると思われます。この力を正しく理解したいものです(Jer.6:14,28:15)。

 

 4 山上の説教

 イエスは山上の説教において律法の遂行においてパリサイ人の義に優るのでなければ、天国に入れないとして言います。「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。アーメン、汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(Mat.5:17-20)。

 イエスは神への愛と隣人への愛「これら二つに律法の全体と預言者たちが依拠している」と言い、パウロも「愛する者は他の律法を満たしてしまっている」として業の律法が愛に収斂されると伝統的なトーラー(律法)を急進化により理解しています(Mat.22:34-40,Rom.13:8)。ここでパリサイ人との関連で語られる「汝らの義」はまず業のモーセ律法の遵守による正義のことを意味しています。そしてモーセ律法は愛に収斂されます。イエスはモーセ律法を純化し極性化して言います、「敵をも愛せよ」。山上の説教における憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの新しい教えは尋常ではありません。これらの言葉はそれを正面から引き受けるひとには良心即ちイエスとの共知(sun-eidēsis, con-science)の痛みの発動を引き起こすに十分です(5:22,5:28,5:39)。人類はこのイエスの戒めに、一方で人類への絶望から解放される教えを受け取り、他方、山上の説教の前に身がすくみ、懐疑と反論を提示してきました。

 山上の説教は一方では人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、人類の誰かによって語られたことただその事実によって人類に絶望せずにすむと思われます。他方では、「律法は怒りをもたらす」(Rom.4:15)とあるように、これが告発者となり、これを語ったイエスは人間にはとうてい満たしえない心的規範また行動規範を与えており、誰にも負えない重荷を負わせ、道徳的苦悩をもたらすだけなのではないか、彼はそれによって彼の追随者たちをただ神の怒りのもとに怯えさせ苦しめる者なのではないか、説教それ自身は神の審判に他ならないのではないかとの問いと懐疑が提示されてきました。

 それらの懐疑への一つの応答は、聴衆は誰もその教えを守り切ることのできないことを知らしめその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすことを信じるよう促しているというルター主義的な理解です。この理解のもとではイエスは純化させたモーセ律法の枠のなかに留まっており、この説教は聴衆を福音に追いやる機能を担っていると主張されます。この解決案によれば律法と福音を審判と救いという仕方で二元的に峻別しているように受け止められます。しかし、生身のイエスご自身が律法の伝統のただなかで福音を確立しつつあるその動的な生きた関係をこそ把握しなければ、この説教は正しく理解されません。それはイエスを自らの心の内奥に迎え入れ、彼の良き軛を共に担い常に彼のことに思いを馳せ、共に歩む生活なしに、この純化された律法を全うすることは到底できないということです。

 

 

 5 律法成就のエルゴン(働き)

 これは今・ここのエルゴン次元における聖霊の媒介による信から愛に向かう力を獲得する手続きです。聖霊は二千年前のキリストの出来事を今・ここにいる者の出来事とする媒介の働きです。例えば聖霊はイエスの十字架上の処刑死を今・ここで信じる者において自らの過去の出来事として働いています。パウロは言います。「わたしは[信の]律法を介して、[業の]律法に死んだ、それはわたしが神によって生きるためである。わたしはキリストと共に磔られてしまった。もはやわたしが生きているのではない、キリストがわたしのうちにあって生きている。・・わたしは神の恩恵を空しいものにしない。というのも、義が律法を介するなら、そのときキリストは空しく死んだことになるからである」(Gal.2:20)。また彼は「わたしは汝らのうちにキリストが形づくられるに至るまで再び産みの苦しみをなす」(Gal.4:19)と言います。これは今・ここの一挙手一投足の生活の力として彼と共に古い自己に死に、新たに復活の主と共に信の律法のもとに生きることに他なりません。これは個々人の歴史のエルゴン(働き)次元における今・ここの生の指針であり、各人の責任に委ねられています。

 

 6 福音と律法の緊張のロゴス(理論)

 他方、理論的にロゴス次元において普遍的な仕方で福音と律法の緊張を正しく捉えることも求められます。福音と律法、恩恵と業績、信仰と業の関係はパウロをめぐる神学論争の中心的な主題であると言って過言ではありません。ここでは福音と律法、信仰と愛との緊張関係を正しく理解し、愛に至る力強い信仰の理論を明確に理解する必要があります。

 近年の聖書学の傾向として、例えばE.Sandersによりパウロがその出身であるパレスチナユダヤ教と福音の乖離と緊張を最小限のものとする理解が提示されています(『信の哲学』上p.170-175)。パウロが反対した律法主義はユダヤ人を他民族から差異化し社会的境界を特徴づけ特権化するそのような食事規定や清めなどの儀式についてであって、福音と律法は恩恵のもとに理解され矛盾緊張関係にあるものではないという理解が提示されています。恩恵への応答としての律法遵守と功績的な業とは経験的にも神学的にも判別されえないものであるとされ、それは「非ルター的パウロ」とも呼ばれます。Sandersによればパウロは律法による義の必然性の主張に対抗しており、信と業の対立を形式的な次元において捉えていると論じ、義をめぐりパウロ自身がその伝統のもとにあったラビ的ユダヤ教との親近性を主張しています。

 「もし律法を遵守することが神の約束を相続すべく必要にして十分な条件であるなら、キリストは無駄に死にそして信仰も無駄である。二つの議論―異邦人の包摂とキリストの死―はわれらがRom.3:21-26に見るように、共に立つ。しかし、他のいかなるものよりも、これらの理由により明らかに、パウロは律法を遵守する要求を拒絶している。これが意味するのは、メシアが到来したときには律法が妥当であることを止めるであろうという前もって抱かれた理論の故に(Schwizer)、また、律法を守る努力は人間をして真なる自己から導きそらすが故に(Bultmann)、彼は律法を遵守する必然性を拒絶したのではなかった。これらの解決双方とも救済(・・)は(・)ただ(・・)キリスト(・・・・)を(・)介して(・・・)得られるという彼の確信とは異なる要素により決定されうるパウロの律法についての見解を要求する」(『信の哲学』上p.172)。

 はたしてSandersのこのパウロ理解は正しいのでしょうか。律法を矮小化しているように見えます。「救済はただキリストからくる」ことにはSchweizerもBultmannも理由付けはどうであれ、同意するでしょう。問題は律法が救済に貢献するというパウロの業の律法理解、主張を見過ごしているところにあります。パウロは言います。「われら知る、律法が律法のうちにある者たちに語る限りのものごとは、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服するものとなるためである。かくして、業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:19-20)。業の律法のもとに生きる者は神の前で義とされないとパウロは主張します。かくしてこの律法成就のためには信の律法のもとに生きるしかないというのが彼の主張であって、「パウロは律法を遵守する要求を拒絶している」のではないのです。律法の一点一画たりとも廃れないのです、愛において。

 ここで、K.Barthのもう一つの律法の矮小化の理解を紹介します。Barthは神学的に「キリスト論的集中」の名のもとに福音一元論を説きます。律法はそこでは「同じ一つの啓示」であるキリストの出来事の否定的側面として福音に寄生するものと理解されます。

 「キリストにある神の義の啓示(1:17,3:21)の真の意味を取り出すべく、パウロは「ローマ書」1:18-3:20において心に留めさせているのは同一の啓示(dieselbe eine Offenbarung)が神の怒りの啓示であること、即ち、われらに到来した恩恵について語られているように、われらはわれら自身の審判における棄却を認めそして信じなければならないということである。・・・かくして、ちょうどその啓示を前提にしている陳述がひとつのキリスト教的陳述であるように、パウロが罪の知識は律法により来る(Rom.3:20)とユダヤ人との関連において言うとき、それもまた神とひととのあいだにキリストにおいて生じた出来事の前提のもとに語られている」。(K.Barth, Die Kirchliche Dogmatik I/2,Die Lehre vom Wort Gottes, ∬17,S.334-5 (EBZ 1938).千葉惠「 『信の哲学』に至る半世紀の問いと解―福音と律法」『哲学』第54号 p.127)。

 それに対し、ルターは福音と律法の緊張関係を維持します。「「律法の真の仕事(officium)と主要で固有な使用はひとに彼の罪、盲目性、惨めさ、邪悪さ、神についての無知、憎しみそして軽蔑、死、地獄、審判そして相応の神の怒りを啓示することである。・・律法は善であり有用であるが、その固有の使用とは第一には公民の逸脱を防止することであり、第二に霊的な逸脱を啓示することである。それ故に律法は光でありそしてそれが照明しそして示すのは神の恩恵や義そして生命をではなく、神の怒り、罪、死そして神の前におけるわれらの破滅そして地獄(iram Dei Peccatum, mortem,condemnationem nostril apud Deum et inferos)である」(p.124)。

 ルターによれば律法はこのように罪を暴き立て、福音に追いやる機能を持っており、こういう仕方で救いに貢献している。「その機能を伴って律法は義認に貢献する、しかし、それが義化するということの故にではなく、ひとをして恩恵の約束に追いやりそしてそれを甘美にして望ましいものにすることの故にである。・・それはわれらをキリストに追いやる最も有益な僕(utilissima ministra urgens ad Christum)であろう」(p.125)。

 イエスはこの緊張をたとえ話で伝えます。遊び暮らしている金持ちがいました。ラザロという乞食が金持ちの家から零れ落ちるものでしのごうとして門前に横たわっています。犬がきてラザロのできものを嘗めます。やがてラザロは死に天使によってアブラハムの側につれていかれ宴席にあずかります。金持ちも死んで葬られましたが、ハデス(黄泉)でさいなまされます。はるかにラザロを見て、父アブラハムに憐みを乞います。双方に渕があり、渡れないと告げられると、金持ちはラザロを遣わして家族に「こんな苦しい所に来ることがない様に言い聞かせる」よう伝言を頼みます。アブラハムはこたえます。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(Luk.16:19-31)。イエスはモーセ律法の遵守こそ、天国への一つの道であると言います。わたしどもは死後、一切を正確に知りまったく公平にして正しくそして憐み深い神の前に立つのです。

 

  7 神の公平な審判

 神には二つの律法即ち「業の律法」と「信の律法」の適用において偏りがありません(Rom.3:27)。「神には偏り見ることはない」(Rom.2:11)。なぜなら、一方、神は業の律法のもとに生きる者には業の律法を適用し、そこでは「すべての律法を為す義務がある」(Gal.5:3)こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」(Rom.2:13)、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」(Rom.2:6)からです。しかし、そこでは神の前に義とされることはないでありましょう、「律法を介した[神による]罪の認識がある」からです(Rom.3:20)。

 神の偏りのなさのもう一つの理由は、神は信の律法のもとに生きようとする者、「神の善性」(11:22,)に留まろうとする者には「イエスの信に基づいている」(3:26)かにより審判を遂行するからです。神が信の律法のもとに生きていると看做すことは、それが福音において啓示された限りにおいて、イエスの信においてその者たちの信を理解していることを含意しています。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(9:13)とあるのは、前者が信の律法のもとに、後者が業の律法のもとに生きたことが想定されているからです、ただしエサウがその後悔い改める可能性は否定されていません(cf.Heb.12:17)。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」(Rom.11;22)。神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は「叡知の機能不全」(1:28)の故に神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできません。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した」(1:28)。「彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではなく、行う者たちを是認さえしている」(1:32)。パウロは「サタン」についても「われらは彼の叡知内容(noēmata)を知らないわけではない」と言います(2Cor.2:11)。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるでありましょう(Rom.11:22,2:4)。まさに「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」です(Ps.18:26)。

 

 8 神の意志と判断は個々人には福音においてほど明確には知らされていない

 個々人には誰にも福音においてほど明確には神の意志は知らされていませんので、「汝が汝自身の側で持つ信を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の出来事を自らのことがらとするよう命じられます。パウロはまた「怖れと慄きをもって汝の救いを全うせよ」と命じます(Phil.2:12)。個々人にはいずれの律法が適用されるかは、神の意志がキリストにおいて明白において知らされているほど知らされていないという、この緊張こそが、ひとを福音の信に常に追いやります。そうしてのみ、ひとは救いを全うすることができます。

 福音と律法の緊張を解消するバルトにおいては、あまりに勝利が語られすぎるということが問題とされます。H.Thielickeは『神学的倫理学』「一定の組み合わせとしての律法と福音」においてヘーゲルやK.バルトのように精神の自己展開であれ、無時間的な永遠性のもとにおいてであれ律法を福音に吸収、解消してしまう一元的理解を批判している。ティーリケはルター主義者として福音と律法を「緊張」においてあるものとして捉えています。

 「もし聖性と愛、審判と恩恵のあいだのこの緊張が神学的省察において適切に表現されなければ、まことに、もしそれが最も僅かの度合いにおいてさえ弱められてしまうなら、愛は神の自然本性であると立ち現れることになるであろう。しかし、これはただちに楽観的なキリスト者の世界観を生じせしめることになる、そこにおいては至上の価値は「善き主」、神的善性であるところのものである。ここからハインリッヒ・ハイネの皮肉な観察に至るにはただもう一歩となる、即ち赦すこと、われらに善くあること、そしてそこからわれらをしてわれらの罪の繁茂を相対的な無関心を伴い楽しむこと、それが神の機能、即ち「それが神の仕事である!」」(p.128)。

(H.Thielicke,Theological Ethics, Vol.1Foundation, pp.94-125(Adan&Charles Black London 1968).E.P.サンダース等による非ルター主義的な解釈即ち福音と律法の対立緊張を最小のものにしようとする動きがNPP(New Perspective on Paul)という名称のもとに展開されている。パウロが反対したのはユダヤ人を特権的なものにする食事既定等であるとする律法の矮小化理解とそれに対応して信仰義認の非中心化、非ルター化がパウロに帰せられる。「法廷的・代理的贖罪論(義認論)」と呼ばれる伝統的な信仰義認論が衰退し、それに代わる「神秘的・参与的救済論」が台頭している。これら二つの名称は信の哲学が「ローマ書」1:17-4:25の信に基づく義の神の前の(A)言語は神の知恵を報告しており聖霊に対する言及がなく、それに対し五―八章が神の前とひとの前を媒介する聖霊への言及(D)言語により展開されているという理解にほぼ対応している)。

 このような福音のひいきの引き倒しとでもいうべき事態はただちに頽落形態を生み出します。孫悟空がどんなに飛び回ってもお釈迦様の掌から零れ落ちることはない。つまり慈悲のなかに包まれています。ひとは恩恵の循環の内に繭のなかの居心地の良さを感じるでもありましょう。信じることは神の恵みであり、信じせしめられることである。さらにまたそのことを信じるが、それも恩恵によると無限ループを繰り返します。この背後に究極の解釈学的循環が控えています。真の聖書の著者は聖霊であり、真の読者は聖霊である。聖霊の一人芝居に信仰も聖書研究も巻き込まれてしまいます。

 

 9 解釈学的循環を回避する著者と読者の切断―言語的意味の理解―

 著者と読者の間の癒着と循環を断つものは言語的な意味の理解は記号と記号とのあいだに成立するものであって、その記号が指示するでもあろう実在、ものごとの存在を要求しないそのような意味論の構築が求められます。文字や語られたことは言語共同体の約定によりものごと(実在)の「象徴・代理(シンボルsumbolon)」となる「記号(semeion)」です。言語はものごとを指示しコミュニケーションを成立させますが、その手前でものごとの存在や本質を括弧にいれ、記号と記号の関係として整合性を規範にして理解することができるのです。文字的意味(sensus literalis)の理解はものごとを知ることなしにも可能なことがらなのです。聖書の意味論的分析とは、解釈学の方法である著者の生活の座、先行理解を括弧にいれて、このように書かれたものをそれ自身として受け止め、語句の連関において整合的な意味理解につとめます。これは実在論的意味論(ものごとを最もよく知っている人が語句の意味を最もよく知り確定する)と両立的な意味論的に浅い立場であり、「いかに語るべきか」という規範的な仕方で語句の意味を理解する「ロギケー意味論」と呼んでいます。

 解釈学的循環のなかで、或いは信仰の循環のなかで憩う者は蛇が自らの尻尾を食べて回り続けるの自己食尽に陥ることもありましょう。そこには何ら新しいものとの出会いもなく、生気を失っていくことでしょう。神様あなたの仕事は私どもの罪を赦すことです、と。そのような安逸を貪る信仰は容易に懐疑と自暴自棄或いは自己欺瞞の信仰となってしまうことでしょう。理論(ロゴス)上福音と律法の緊張がいかに維持されるかが説明されたこととしましょう。

 

 10結論

 なぜこれほどの混乱があったかと言えば、「ローマ書」3:19-31が正しく翻訳されなかったからです。今日までのパウロの神学をめぐる論争は、彼の神学理論の中心的な主張を形成する「ローマ書」3章21節から31節のとりわけ22節(ū gar estin diastolē 従来訳「区別がない」、私訳「分離がない」)のヒエロニムスによるVulgata版(二世紀以降の古ラテン語訳の四世紀後半における彼自身の言葉では「編集」)の翻訳に起因するものであることが明らかです。そこでパウロは神の前のことがらを報告しており、その報告の内容は神ご自身がご自身の義の啓示の媒介としてイエス・キリストに帰属した信を用いられたこと、そしてその信とご自身の義の知らしめにおいて分離がないこと、即ちその信義の分離のなさにおいてご自身にとって根源的な義が信に基づくものであることを明らかにしておられることです。パウロは明確に神ご自身の認識をそれ自身として報告するとともに、そのわれらの外の啓示と人の前すなわちわれらのうちの信との関係の総合的な理解を展開したのでした。従来神の前と人の前の分節と総合が不明瞭であったために多くの混乱が生じたと思われます。新しい翻訳を挙げます。

 「 21しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、22神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。23なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、25,26その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。

 27それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。28かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。29それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、30いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。31それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31)。

 カトリック教会とプロテスタント教会相互のまたそれぞれ内部における二千年にわたる論争に思いをはせるとき、真剣で誠実なひとびとがそのテクストをめぐって長く争わざるをえなかった事実は、そのもとのテクストの最初の基礎的な翻訳に何らか誤解を生じさせるものが含まれていたと理解するよう促す。原語diastolē(最大希英辞書LSJではdrawing asunder (「双方に引いて分ける」)やseparationがdistinctionより前に挙げられる)の当該箇所のVulgata訳は non enim est distinctio「なぜなら区別がないからである」です。しかし、それ以降調査の限りすべての翻訳において、これがその理由文であるところの前文「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている」における「信じる者すべて」のあいだに「区別」や「差異」はないと理解されてきました。

 実はひとの心的状態としての信仰に区別や差異がないということではなく、「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに神の前のことがらとして「分離(separatio)はない」と訳されねばならなかったのである。神ご自身にとって信義はモーセの業の律法に基づく義より一層根源的であることを示しています。業の律法に即して「すべての者が罪を犯した」と神ご自身により否定的に認識されており、それを乗り越えるものとして、福音が「今や、業の律法を離れて」啓示されたのです。神の信義の啓示という肯定的なものごとは「イエス・キリストの信を媒介にして」遂行されました。神の義とその啓示の媒介者において生起したその信のあいだに分離がないと神が看做されたからこそ、「業の律法を離 れて」しかもより根底的な神の義として啓示されたのです。これが明示されていれば、今日までのこれほどの混乱はなかったことでしょう。

 この福音は「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)つまり神の義はモーセ律法とは分離されうるものであり、しかも「信の律法」(3:27)とは分離なきものとして啓示されたために、神ご自身にとって福音即ち信の律法のほうが業の律法よりご自身の義との関連においてより根源的です。神においてそうであるなら、ひとにとっても神ご自身が信義であることが啓示されたとき、信によって応答することのほうが、「汝~すべからず」、「汝~すべし」の命令のもとでの業の遂行よりも心魂の態勢、行為として根源的であることが含意されます。この啓示の言語網(3:21-26)は神の前の言語網であり、神ご自身の信と義、罪の贖いをめぐる理解がパウロにより報告されています。信の律法のもとに業の律法が満たされるのです。少なくとも人類はナザレのイエスにおいてそれが成就されたのです。

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山上の説教八福(第四回)「神の国の現在性」

山上の説教八福(第四回)「神の国の現在性」

                       2022年1月30日

テクスト

「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(5:1-12)。

 

1.神の国の現在性

 天国はこの人生が終わってから入る時間的に後続するものという理解と天国を構成する人々は掛け替えのない個性を持ちつつ、八福に見られるイエスに似たひとにより構成されていることに基づき、この個々人の歴史のただなかで目標としまた実現することのできるもの、という二つの視点から語られることを確認してきた。実際イエスは、「二人または三人がわが名のもとに集まるところ、そこにわたしは彼らのまんなかにいる」(Mat.18:20)と言う。イエスを呼び求める者たちが集まるところ、そこに彼が共にいたまう。これは神の御子にふさわしい。また、「ルカ福音書」にはこうある、「パリサイ人にいつ神の国は到来するのかを尋ねられて、イエスは応えて言った、「神の国はまなざしを向け続けているとやって来るものではない、また「見よ、ここで或いはあそこで」と人々が語ることによって、到来するものでもない。というのも、見よ、神の国は汝らのただなかにあるからである」(Luk.17:20-21)。

 これら二つの発言において、共通することがら、さらにはこの二箇所に基づき神の国について語りうることがらを考察したい。福音書において「それら諸々の天の国 (basileia tōn ouranōn)」という複数形による「諸天界」を意味する自然的な用語を用いて天国を表現することが24回見られる。他方、「神の国(basileia tou theou)」という神学的語彙を用いての表現は福音書では25回、パウロに3回見られる(他に「汝の国」(Mat.6:10)が主の祈りに見られる)。二つの表現により同一の国が指示されており、互換的に用いられているが、「神の国」のほうが神による支配や統治が遂行される国という意味においてより神学的であり、「天国」はより素朴であるという印象を与える。「マタイ」では種や麦等の自然物そして畑や真珠そして魚網などの人間の生活との類比において説明されるときは「天国」が用いられるが、マルコでは「神の国」が同じ自然物や営みに関して用いられており、いずれの使用が適切と判断するかは福音書記者の裁量に委ねられている(Mat.13:1-52,Mac.4:26-32)。山上の説教において「天国」のほうがより多く用いられるのは、ひとつには「汝らの天の父(ho patēr humōn ho ouranios)」という表現に見られるように聴衆にとってより理解されやすい語句が選択されたことが想定される(Mat.5:16,48,ch.5-7)。イエスは山上の説教において天の父を肉の自然的父との類比において議論を展開しており、この文脈において地上と大空を眺めつつ人生と神の国の関係がいかなるものであるかを教えている。

 次に、イエスのこれら二つの発言から語りうることとして、「二、三人」や「汝ら」複数人の集まりとの関係に成立するものとして「神の国」が特徴づけられている。天涯孤独の一人のなかに神の国がある可能性は否定されないであろうが、基本的にイエスの「名前において」共に集まるところに、キリストが共にいたまい、神の国が現在すると語られている。その意味で、彼の名において集まるこのような集会はキリストの臨在をいただく好機なのである。そしてこれらの仲間のあいだで約束された聖霊を分かち合うとき、後の日に死後知ることのできる神の国がどのようなものであるかを、この時空のただなかで知ることができる。ひとりのところにも神は憐みを注ぎ給うであろうが、神の国は聖霊の媒介のもとでの、平和と喜びの世界である。「神の国は食することと飲むことではなく、聖霊における義と平和そして喜びである」(Rom.14:17)。

 洗礼者ヨハネやイエスが「天国は近づいた」(Mat.3:2,4:17)、「神の国は近づいた」(Mac.1:15,Luk.10:9,11,21:31)と天国ないし神の国に招くとき、神の右の座にいたまうイエスご自身がわれらの歴史に突入したことにより、彼と共にいるところ、そこに神の国があると語りうるそのような状況が出来したことを伝えている。「辛子種」や「パン種」に似たものとして、「神の国」はこの世界で成長していくという譬えも用いられている(Mat.13:18-20)。

 神の国とこの現実世界を理論においてまた実践において分断してしまうとき、人間は自らの本来性を失ってしまう。神の前と人の前をわけずに共に主の名において集まっているとき、今この過ぎ去りつつある歴史のなかで、われらの肉の弱さの制約のなかではあるが、永遠の相においてある神の国を何らか受け止めることはできるであろう。カルヴァンは「神の前と人の前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う。理論上双方を分節して語ることができる、そのような理性の分析に適う仕方でイエスはこの地上で神の国を持ち運んだが、彼の働き・一挙投一投足において彼は神の国を持ち運んでいたのである。歴史的には神の国を実現しつつあったと進行形において語ることも許容されよう。復活の主とともにある限り、この悲惨な地上の世界に何らか「キリストの馨」がわれらを包むであろう。

 パウロは言う、「われらをキリストにおいて常に勝利の行進を歩ませたまうそしてあらゆる場においてわれらを介してキリストご自身の認識の馨を明らかにしたまう神に感謝あれ。われらは救われる者たちにおけるまた滅びゆく者たちにおける香ばしい匂いであり、かたや滅びる者たちには[生物的]死から[神の前の滅びの]死に至る匂いであり、他方、救われる者たちには[生物的]生命から[永遠の]生命に至る匂いである」(2Cor.2:14-16)。キリストにある者はキリストを受け入れない者にとって滅びの匂いとなる者であり、受け入れる者には永遠の生命の匂いとなる者たちである。ひとの生が死に対する勝利の生と死への滅びの生に二分されている。自然的な人生が懲罰としての死を正面から引き受け、その罪を赦すキリストを受け入れるとき、生命の行路に入る。

 

 2.柔和な者はイエスの低さに合わせられる

 この天国、神の国との関係において、ひとは祝福の対象である。第三福は「柔和な者」であった。柔和な者はそのまま第七福の平和を造る者となる。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を担ぎあげ、そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は良きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28)。彼は彷徨(さまよ)うひとびとを招く、彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙遜が伝わる。

 イエスの軛に繋がれ歩調に合わせて歩むとき、栄光を捨てひととなった低さ、そしてそれに基づく弱小さへの憐みと柔和さが次第に伝わってくる。パウロは言う、「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。キリストと共に担う軛とは自らが神の子であるとの信仰であり、その荷とは彼から伝わる柔和と謙遜であるが、キリストの低さと共にあることによりこの世から解放された者に伝わる生の喜びと軽やかさが比較から自由にされた生に力を与える。

 イエスにより誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂いた者は不公正や侮辱そして迫害に耐え、呪う者を祝福し「平和を造る者」となる(Gal.6:1,Mat.5:9)。「平和を造る者」は第七福であった。イエスは平和を造る君であった。その彼の軛に繋がれて歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与える者となる。

 彼の軛を共に背負う歩みは日常をも彼の憐みに委ねる。何を着、何を食べるか日常のことがらについて、「汝らの天の父はこれらすべてのことを汝らが必要としていることをご存知である」(Mat.6:32)と言われる。この慰励の言葉の背後には天父への信が働いている、「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(7:11)。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。イエスは信仰に招く。「まず神の国と神の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきことはその日で十分である」(6:32-33)。さもなければ、明日への不安の中で自らの肉を神とする「肉の欲」に飲み込まれ、神の意志に背くことになる(Gal.5:16)。神の意志に背くこと、それを「罪」と言う。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。

 

3.その心によって清い者はその純一さにおいて平和を造る

 第六福はこうであった。「祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである」(Mat.5:8)。「その心によって」即ち心魂の根底から全身にいきわたる仕方で混じりけがなく、純一であり、統一されているということが心の清さである。それは心の一つの根底的な態勢、構えであり、そこから良きパトスや行為が湧き出てくるないし遂行される。「ともし火を灯(とも)して、それを穴倉のなかや、升の下に置くものはいない。入ってくるひとに光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い」(Luk.11:33-34)。

 心の清い者、清くされた者は神を見る。ヨブは言う。「どうかわたしの言葉が書き留められるように・・。私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27)。

 「心(kardia)」とは聖霊が注がれる心魂の最も深い座をも含む思考や感情など心的働きの座である(Rom.5:5)。「魂 (phsuchē)」が基本的に生命にかかわる原理であるのに対し、「心」は意識などの働きの主体である。イエスは言われる。「汝の宝のあるところ、そこに汝のもある」(Mat.6:21)。「汝らのおのおのがその心から兄弟を赦さないなら、天の父も汝らに同様に赦さないであろう」(Mat.18:35)。またイエスは生命原理としての魂についてこう言われる。「身体を破壊してもを破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:26-28)。

 第七福の平和を造る者への祝福は第六福の心の清い者に続くが、それはこの祝福に相応しい。清くなくてどうして争いをやめさせ、平和を造ることができるであろうか。平和の君がイザヤの預言通りに人類に与えられた。「主はもろもろの国のあいだの争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし槍を打ち直して鎌(かま)とする。国は国に向かって剣をあげず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光のなかを歩もう」(Isaiah.2:4-5)。

 イエスは暴れ馬のような方ではなく、イエスは驢馬(ろば)の子にのってやってくる平和の君であった。預言者ゼカリヤはその平和の君を讃えた。ゼカリヤは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。

 心の目が澄んでいて正確にしかも公平にものごとを認識するひとにこそ、平和を造ることができるであろう。イエスがその心の清い方であった。心の清い者は良心の咎めなしに心魂が平安な者のことであった。また心の清い者は自他の悲惨の知識に基づき悲惨な状況にある者への愛、憐みのもとにあり、相手の最善を造りだそうとする者である。

 心の清い者は自らの利益を求めることはないので、争う者たちのあいだを執り成すことができる。柔和で謙ったイエスは神とひととのあいだを執り成すひとであった。彼は自ら争う者になることはなく、剣のもとに倒れ自ら死を選んだ。平和を造る者は執り成す者である。和解のための執り成そうとすることなしに、平和を造ることはできない。和解の執り成しは当事者をWin-Winの関係に導く。平和を造る者は護る者である。護るとは争う者双方をも護る。敵をも愛し、敵のために祈る者たちだからである。平安な者はその良心が聖霊により護られた者である。

 彼らは「神の子」と呼ばれることになる。キリストはその「長子」である。平和を造る者は当事者が二人しかいなくとも、即ち自らが争いの一方を担っている者となったとしても、イエスの軛を負う者として、媒介者の役割を担う。責める者と責められる者のあいだに自ら立つ。執成す者或いは執成される者となる。それ以外に平和は地上にこないであろう。

 

4. 結論、最も低いところにいますイエスのもとに憩う

 正義と迫害にかかわる第五福、第八福は正義に関わる人々への祝福であった。この箇所を理解するひとつの視点は良心の鋭敏さであった。正義に対する感受性の発動なしに、ひとびとの大勢に、世間に唯々諾々と従っているなら迫害されることはないであろう。「神が完全であるように、汝らも完全であれ」(5:48)と神に似せて造られた者としてひとの本来的な姿が提示されたとき、現実と本来性のあいだのギャップ、落差を知らされる。本来性は「内なる人間」(Rom.7:22,2Cor.4:16)が開かれたとき、認識することのできるものである。その本来性との関連で良心が発動するようになる。良心とは共知であった。聖霊と共に知ることであった。心の清い者は心魂の底から神と和解しており、良心の咎め(神の不興)の発動から免れさせられており、平和を造る者となる。

 イエスの軛に繋がれ歩んでいるとき、次第にイエスの歩調に合うものとなり、次第に造り変えられていくであろう。この世界に何ら確かなものがないと思い絶望する者でも、このような八つの心の働き、状況においてある者が祝福の対象であるなら、人類にその一番低い所にセーフティネットは明確に張り巡らされていることを知るにいたる。

イエスの弟子であろうとする者はイエスの担いやすい低い軛に一緒に繋がれ歩む。ひとは見捨てても彼は決して見捨てることはない。誰であれ、ご自身の栄光を棄てられ、ひととなり、貧しいもの、悲しむ者、争いを好まない者、正義から不当に見放され正義に飢え渇いている者、憐み深い者、平和を造る者そして正義のために迫害される者たちとどこまでも共にいたまう方のところなら行くことができる。この世界で見失われているひとびとであればあるほど、イエスの軛につながれつまり神の子の信のもとに生きることによって、この人生を歩むことができる。

 イエスはひとの肉の弱さに衷心からの憐みを示し、柔和であり謙遜であった。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ」(Mat.9:36,cf.Mak.1:41)。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れている者たち、重荷を負う者たち、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう」(Mat.11:28)。

 

 

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山上の説教八福「天国とは」(第三回)

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日曜聖書講義

                           2022年1月23日 

山上の説教―「天国とは」(第三回)―   

                                    千葉 惠

テクスト

「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(5:1-12)。

 

1人生全体は天国により秩序づけられる

イエスは山上まで彼についてくる群衆に八つの幸い即ち神から祝福されている心の在り方について語った。その祝福は神の国、諸々の天の統治との関連において語られる。天国というこの不可視なものごとの理解については、自然科学のように感覚を介した観察、観測は適用されない。かくして、この人生全体を天国への関連付けのなかで理解するには言葉(ロゴス)による理解がアクセスの鍵を握る。イエスの言葉による教えを十全に理解することが求められる。そしてその言葉を語られるイエスご自身を理解することが天国の理解の鍵を握る。

ご自身が祝福されるべき八福の心的態勢にあった。「その霊によって貧しい者」とはこの世のいかなるものごとによっても満たされないそのような態勢にある者のことである。他方、イエスは70人の派遣による伝道が成功したとき、「聖霊によって喜びに溢れた」(Luk.10:21)。これは、その霊によって富んでいる、そのような状態であり、当然これも祝福されている。霊によって貧しい者は天国を求めざるをえず、霊によって富んでいる者は天国の証を得ており、双方とも天国と関係づけられる限りにおいて、「天国は彼らのものだからである」と祝福される。ゲッセマネおよび十字架上のイエスの苦闘はあまりの心身の苦悩により天国を一時的に見失ったが、その霊によって貧しい状態のなかで「わが神、わが神」と呼び求めている限りにおいて祝福されていたに相違ない。

イエスは様々な場面で悲しむ方であり、柔和であり、義に飢えそして渇いており、憐み深く、その心によって清い方であり、平和を造る方であり、それ故に義の故に迫害された方である。このような態勢にある人々が祝福されるのは、ひとえに、天国に招かれるからである。かくして、天国の住人はそれぞれ掛け替えのない個性を持ちながらも、すべてイエスに似た人々であるに相違ない。イエスのような人々が住む天国になら、他の何をおいてでも行きたいと思う。「天国は、畑に隠されている宝に似ている、或るひとがその宝を見つけると、隠したそして喜んで自分の家に戻り、そして彼が持っているあらゆる持ち物を売りそしてかの畑を買う」(Mat.13:44)。

天国についての思弁、妄想は旧約聖書においてはほとんど見られない。これは著しいことである。ユダヤ教の一派であるサドカイ派の人々は復活を否定していた(Mat22:23)。この不可視な世界にアクセスが可能であるとすれば、神の身許から栄光を捨ててひととなったイエスにより理解するしか確かなことは言えないであろう。それ故に、天国のことがらは信仰の問題となる。即ち、心魂の根源において自らがイエスのような人間であるかを問い、彼我の乖離において天国の清さ、完全さを知るに至る、それ以外のアクセスはないと思われる。そしてそれが最も正しい、神の国、天国に対する態度となる。旧約人はキリスト・メシヤを預言においてしか与えられてはおらず、彼らは知らされていない事柄について思弁を弄することはなかった。これは潔い態度であり、それができたのも、生けるまことの神のその都度の畏れ敬うべき顕現に心が圧倒されていたからであろう。

人類は不可視的であるがゆえにそう語らざるを得ない「御言葉」の受肉により、ようやく神の国すなわち天国にアクセスを得るに至った。だからこそ、山上の説教においてはとりたてて宗教言語が用いられないのであると思われる。野の百合、空の鳥にみられる被造物全体に対する「天の父」によるケアが語られる。自然の親が自然の子に対して自然な愛情を感じるように、天の父は親のごとき愛情深い方であることが語られる。

「まず神の国とご自身の義を求めよ」。この恵み深い父に対する信頼のもとに、この地上の生活の一切を秩序づけることが求められている。神学的には神の前とひとの前を分けない生活が説かれている。

 

2モーセ律法の純粋化、内面化

山上の説教のもう一つの柱はモーセ律法の純粋化、内面化である。ユダヤ人は自らが選ばれた民として律法を誇り、異邦人や罪人とは異なるという差別的な態度を取っていた。イエスは当時の彼らの伝統的な道徳観そして死後天国か地獄に行くという世界像を自らも引き受け、議論の前提を彼らと共有することに基づく対人論法(argumentum ad hominem)により、ユダヤ人の道徳的不徹底さを、さらにはこの世もあの世もという二心(ふたごころ)に潜む偽りを指摘する。イエスはそこで彼らが依拠するモーセ律法を急進化、内面化そして純化する。その論法はまず定型句で「汝らは聞いている、昔の人々によりこう語られたのを」と切り出して、その言い伝えを引用する。伝統的な教えを提示したのち、「しかし、わたしは汝らに言う」と切り返し、それらの問題点を摘出する。それは殺人、姦淫、離婚、誓い、同害報復、敵への憎しみをめぐって展開され、道徳的次元が内側から突破される。つまり彼らの立場は首尾一貫せず保持できないことが内的に論駁される。

イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18,Ps.139:21-22)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:43-46)。イエスは家族や隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益そして被害や危害との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において差別や支配そして操作が遂行されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵は友となることもある偶然的な関係にすぎず、ひとがひとである限り本来的に友と友の等しさつまり愛が成立しうる者だからである。

とはいえ、いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの新しい教えは尋常ではない。これらの言葉はそれを正面から引き受けるひとには良心・共知(sun-eidēsis, con-science)の痛みの発動を引き起こすに十分である(5:22,5:28,5:39)。認知的な協和と不協和に即した良心の平安、宥めと疼きをめぐっては、部族や国民との共知から神との共知まで多様である。一方、「赤信号みんなで渡れば怖くない」と言われ、自己責任のもと歩行者の共知として疼きもなく、カルニヴァル(人肉食)の部族においては友人に自らの最良の部位を遺品として残すそのような人々がいた。他方、イエスとその山上の説教とを共知の相手方とする者たちには、心の少しの歪曲が痛みになる。右目や右手が罪を犯させるなら抉りとり切り取ってしまえ、全身が地獄に投げ込まれるよりましである、と警告される(5:27-30)。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。

「良心」とは、最終的には、神において明らかなことが聖霊の証を伴い自分たちにも明らかになるその心の働きである。パウロは言う、「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11、Rom.9:1、第11条)。良心とは神に明らかなことがらが自らにも明らかになるその心の認知的座である。ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことがらが自らや隣人にも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。

 

3.八福とモーセ律法の純化の結びつき

かくして八福とモーセ律法の純化、内面化は結びつく。偽りのない生活はただ「天の父の子となる」その道によってしか実現されないことが明らかにされている。神との正しい関係を確立する信仰によって、愛に収斂するモーセ律法が満たされる。パウロによれば、神の意志は「信の律法」ないし「キリストの律法」と呼ばれるものと、「業の律法」ないし「モーセ律法」と呼ばれるものの二種類であるが、それらは「神の義」の二種類である(Rom.3:27,1:17,Gal.6:2,1Cor.9:9)。イエスは「律法の一点一画とも廃棄されない」(Mat.5:18)というモーセ律法への尊敬のなかで、その極性化された律法の成就に向かう道を山上の説教で示した。これは言葉による説教であるが、その「権威」(7:29)は彼自身の一挙手一投足においてその言葉に偽りのないことが示されているところからおのずと湧き上がったものである。ひとびとは「このひとの知恵と力能はどこから来たのか」(Mat.13:54)といぶかしがったのである。イエスは神との正しい関係を信仰により持つことを通じて、モーセ律法を成就した。神の義の二種類はイエスにより媒介総合された。福音と律法この二種類は常に緊張のなかにあるが、この地上に生きたひとりの人により実現された以上、われらにも希望が湧いてくる。

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山上の説教八福「その霊によって貧しく、悲しむ者」

日曜聖書講義

                      2022年1月9日(録音は二節まで)

                       

山上の説教~八福を生き抜いたナザレのイエス~  

その霊によって貧しく、悲しむ者 

                            千葉 惠

                   

テクスト

「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(5:1-12)。

 

 はじめに

 マタイ福音書五章から七章の山上の説教のまとめとしてわたしどもはここで八福を再び学ぶ。その八福を生きた方はまさにイエスそのひとであることを確認したい。

 

一、経済的な貧富に拘わらず、この世界のいかなるものによっても満たされず神を求める者の幸い

 第一福「その霊によって貧しい者」とはいかなる者か。経済的な困窮者それも自発的に貧しい者なのか、それとも精神的に謙遜な者なのか、とりわけ神との関係において充足的なものではないがしかも神に縋りついているそのような意味での貧しき者を理解すべきなのか、或いは双方のいずれでもあるのか。ルカには端的に「貧しい者」(Luk.6:20)とあるが、そこでは経済的な困窮者をただちに指示しているように見える。このマタイではそれを包摂しつつも天の父なる神との関係においてその貧困を捉えるそのような限定が付与されている。ここではやはりイエスに即してまた打ちひしがれてついてくる群衆の文脈でこの箇所を理解しよう。

「霊によって貧しい」の対義語のひとつに「欲望によって貧しい」が考えられる。「箴言」に「欲望はひとに恥をもたらす。貧しい者は欺く者よりも幸い」(Prob.19:22)、「初めに嗣業(ゆずり・遺産)をむさぼっても、後には祝福されない」(Prob.20:21)、「貪欲な者は財産を得ようと焦る。やってくるのが欠乏だとは知らない」(Prob.28:22)とある。「第一テモテ」に「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥る。その欲望がひとを滅亡と破滅に陥れる。金銭の欲はすべての悪の根だ。金銭を追い求めるうちに信仰から迷いでて、様々のひどい苦しみに突き刺された者もいる」(1Tim.6:9-10)とある。従って、「欲望によって」貧しい者また欲望によって一時的に富んだ者、金銭への執着によって富んだり貧しかったりする者たちが祝福の対象であることは考えにくい。

 かくして「その霊によって」貧しい者、つまり神との関係において貧しい者、富みであれ名声であれこの世のいかなるものによっても満たされず、神との正しい関係を求め飢え渇き、救いを求めざるをえない者が祝福されている。このことは少なくとも語りうる確かなことである。

 「誰も二人の主人に兼ね仕えることはできない。というのも、一方を憎みそして他方を愛するか、或いは一方に忠実であり、他方を軽蔑するかだからである。汝らは神と富双方に仕えることはできない」(6:24)。金持ちが天国に入ることが難しいのは神にではなく金銭に頼るからである。金持ちであっても神に頼り、信仰のもとに愛の道を歩む者は貪欲な者たちの金の使用とは異なる使用に向かうであろう。この世の富は相対的なものに留まる。愛することは信、希望とともに心魂の最も基礎的な態勢、在り方を定めるものであり、イエスに従う者はもとより誰にも妥当するものとして普遍化されるであろうが、愛の具体的な形は個々の状況において異なることであろう。施しが求められる場合もあり、何か学寮のような施設を造ることが適切な場合もあるであろう。

 ナザレのイエスは父なる神の意向をその都度聴くという仕方で謙っており、天の父との豊かな、富んだ交わりのもとに福音を宣教した。その意味において彼は豊かであった。他方、彼は恒常的に経済的に自発的に貧しくあった。さらに、或る特別な状況において一時的に神が御顔を隠したことによって、彼は「エリ、エリ」の叫び「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てられたのですか」(Mat.27:46)という呻きのなかで、神を見失いつつも神に訴えかけるという仕方で霊的に貧しい状況に陥った。そのとき聖霊が呻きをもって、苦しむ彼に神の意向を執成し、励ましていたことであろう。そのように経済的に貧しい者も神と関わり続ける限りにおいて、即ち困窮のただなかでまたいかなる状況にあってもその霊によって「貧しい者」である限りにおいて祝福され、天国にいれていただく。山上まで救いを求めてついてきた群衆に彼はその祝福を語っている。欲望によってではなく、その霊によって貧しい者は祝福されている。

 第一の祝福は普遍化されるのであろうか。「その霊によって貧しい者たち」という三人称による呼びかけであり、命令ではなく神の嘉みの対象であるから、一般的に妥当すると言える。とはいえ、これら八福すべてを満たさねば祝福されないというわけではなく、この点においてイエスに似た者になるにつれその祝福は大きいものとなるであろう。神との関係において貧しい者、悲しんでいる者、柔和な者、義に飢え渇いている者、憐れみ深い者、その心によって清らかな者、平和を造る者そして正義のために迫害される者となるにつれて、イエスに似た者となることであろう。

 

二、パトス(感情)は心魂の態勢の指標である~信の根源性に基づく生の秩序づけ~

 第二福は「悲しんでいる者」の祝福である。感情の文法によれば、この感情が生起する文脈は愛しいものを失うというものであった。感情実質は他の何ものによっても満たされない喪失感である。彼らは後の日に慰められる。わたしたちが愛しいものを喪失し悲しんでいるとき、神に慰められることになるから祝福されている。何か代替物により気晴らしするなら、そこに自らを慰めさせる装置、偶像を持ち込むこととなり、神に慰められることはない。ここでも天の父との関係において悲しみを捉えることが求められる。パウロは「神に即した苦しみは救いにいたる後悔なき悔い改めを働く。しかし、世の苦しみは死をもたらす」と言う(2Cor.7:10)。

 感情はパトス、passive(受動的)であり選択できずに、おのずと身体的な受動を介して心に湧き上がってくるものだった。パトスとは身体にその座をもつことから、例えば怒ると顔が赤くなり、恐れると青ざめるそのような身体的特徴を伴う。アリストテレスは「パトスはヘクシス(心魂の態勢)の徴(しるし)である」と言った。すなわち、どんな感情が湧き上がってくるかにより、そのひとがそれまで培った心魂の態勢、実力、構(かまえ)がどのようなものであるかを示すという議論を展開した。感情の背後には心魂の実力として認知的態勢と人格的態勢が控えていると考えた。

 認知的とはものごとの真偽に関わる心魂の知性、知識に関するものである。人格的とは外界からの刺激に対する身体的な受動の善悪に関わるものである。人格的に有徳な者、卓越した者は「パトスに対して良い態勢にある」。正義な者は怒りに対して良い態勢にある、つまり正しいひとは怒らないのではなく、怒るべき時に怒るべき仕方で怒るべき程度の怒りが湧いてくるそのような調和のとれたひとである。

 怒りが正義と関わるパトスであるのに対し、恐れは勇気と関わる。恐れは自らを破壊するものに出会うという文脈において生起する。その感情実質は身のすくむ思いという類の身体の萎縮感を伴うものである。正しいひとはその感情に打ち勝ち公平な選択をすることの出来る者である。有徳性のひとつの指標は「中庸」と呼ばれた。恐れに対する勇気ある者、欲望や快楽に対する節制ある者も同様である。正義と関わる怒りが過剰なものである場合には、それは悪い心魂の態勢における身体的反応、噴出であり、パトスが心魂の態勢の指標となる。知性の明晰なひとは「賢者(sage)」と呼ばれ、人格の成熟したひとは「聖者(saint)」と呼ばれる。真理と偽りすなわち事実に関わるものが知性であり、善と悪すなわち価値に関わるものが人格である。

 また知性もパトスに対して影響を与える。例えば、ウイルスの振舞いを知れば、ウイルスに対して正しく恐れること、或いは、ウイルスを制御できるようになれば、恐れなくなること、そのようなことが起こる。イエスは「天国のことを学んだ律法学者は自分の蔵から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:52)と言っている。古いものとは旧約のことであり、新しいものはその延長線上に打ち立てられた新約のことであるという理解がなされることがある。しかし、より一般的に、きちんと心魂という自分の倉庫を管理しており、知性においても人格においても一切を天国との関連において秩序正しく考慮することができ、そのうえで行為を形成することのできるひとが一家の主人に比せられるべきひとである。そのようなひとの生は心魂の根底が信仰のもとにあり、他の一切がそこから秩序づけられて認知的、人格的に卓越した者となる。

 聖書はなにか人格に関わるものと捉えられがちであるが、認知的な卓越性は聖書においても重要な位置を占める。パウロは「わたしはわが主キリスト・イエスの認識の卓越の故に、あらゆるものを損失と考える、彼の故にわたしは一切を失ったが、それらをわたしは塵芥と看做す」(Phil.3:8)と言う。人類は知性と人格を総合するものを求めてきた。

 アリストテレスはそれを「実践知(phronēsis, practical wisdom)」と呼び、イエスやパウロは「信(pistis, faithfulness)」と呼んだ。心魂の根底に信があるとき、知性が磨かれ認知的に有徳な者となり、身体からわきでるパトスに対し安定的な構えができ、人格的に有徳な者となる。

 アリストテレスは「いかに生きるべきか(pōs biōteon;)」という問いのもとに歴史の最前線において個々人に与えられた与件のなかで最善の行為を選択する認知的卓越性を「実践知」と名付けた。アリストテレスが人格と知性の融合の成功した視点からとらえたのに対し、聖書は信という肯定的な力ある生をつくる心魂の根源的態勢に集中した。イエスもパウロも信に基づき愛することができる者となるなら、それは人格的に完成されると主張した。パウロは信に基づき神との正しい関係(義・正義)に置かれた者はその「正義の果実」(Phil.1:11)、即ち正しい信の証が愛であるとした。木は実によって知られる(Mat.7:15)。信に基づき神との関係がただしくされたひと、即ちよき木は愛というよき実を結ぶ。

 正しい信と対立する狂信は理性の逸脱であり、迷信はパトスの逸脱である。理性の吟味にかなわないような信仰、例えば3+5=10だから信じる即ち「不条理なるがゆえにわれ信ず」という類の信仰は狂気にひとしく、当然排除される。身体の反応であるパトスの逸脱である迷信は、例えば、恐怖の過剰が信仰を抱かせるべく追いやるそのような信仰は迷信であり、排除される。正しい信は心魂の一切を秩序づけるとともに、生の果実により送り返され、その信仰の正しさが吟味される。 

 常に心に留めるべきことは、山上の説教はナザレのイエスそのひとが今・ここにおいて純化された究極の律法を語りつつ、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」(Mat.6:33)と信仰に招くことにより、その内面化された愛に収斂される律法成就の道を示したことである。イエスご自身は神の愛の先行性を自ら「神の子の信」(Gal.2:20)のもとに生き抜きご自身がその道となったがゆえに、パウロは信に基づく義とその義の果実としての愛を秩序づけることができた。そして愛は「律法の充足」である(Rom.13:10)。

 まず、神との正しい関係が確立されることなしには、人間の一切の営みは秩序を得ることはないという明確なメッセージをナザレのイエスは発信した。しかも、彼はユダヤ人の伝統に留まりつつ、旧約の伝統的理解のもとにある律法を内側から破ることによって、新しい生命に満ち溢れる信仰に招く福音を展開した。

 福音と律法を静的な関係において捉えてはならない。イエスはガリラヤの野辺を歩きながらリアルタイムに即ち彼の一挙手一投足のエルゴン(働き)において神の意志を実現しつつあったのである。もし彼が公生涯の終わりに十字架から下りてきたしまったなら、神のみ旨は実現されてはいないと看做され、福音の啓示の媒介者として用いられることはなかったかもしれない、そのような緊張のなかで、肉の弱さを抱えたイエスご自身により一言一句、一挙手一投足が遂行されていたのである。そして八福の祝福は彼自身の生にこそ告げられるべき、そのような心魂の態勢におかれており、神に祝された方であった。われらはそこに同じ人間として山上の説教を成就しうる可能性と力能を見出す。そして人類の誰かにより山上の説教が語られた事実に、われらは人類に絶望することはない。ましてや彼はそれを信の従順により完遂した方である。

 

三、悲しみのパトスが憐みを生む

 この第二福、悲しんでいる者が祝福されているとは、これまた尋常ならざる主張である。しかし、悲しんでいる者が祝福されると言われているからと言って、常に悲しむことが求められているわけではない。愛しい者や大切にしているものを失っているその状況にある人々に向けて語られている。愛しいものをもたないひとは悲しみを感じることもないであろう。裏切りなど心に傷をおったひとはパトスの発動が生じないように、一切から距離を置くことになる。パスカルは「愛から遠ざかれば、すべてから遠ざかる」と言う。「すべて」とは生きることそのものから遠ざかることに他ならない。

 イエスは終末、世の終わりが近づくと愛が冷え切ってしまうと言った。彼の終末における迫害の預言はこうであった。「そのとき彼らは汝らを困窮に追いやりそして殺すであろう。そして汝らはわが名の故にあらゆる民に憎まれるであろう。そしてそのとき多くのものたちが躓きそして相互に引き渡すであろう、また相互に憎しみあうであろう。そして多くの偽預言者たちが立てられ多くの者たちを惑わすことであろう。無法がはびこることの故に、多くの者たちの愛は冷えてしまうであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶその者は救われるであろう。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として、全世界に伝えられる。それから終わりが来るであろう」(Mat.24:9-14)

 愛する世界がこのようになるなら、実に悲しいことだ。イエスは深く悲しんだことが報告されている。捕縛前ゲッセマネという場所で、彼はこう言っている。「「わたしが向こうへ行って祈っているあいだ、ここに座っていなさい」。ペテロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」。少し進んで行って、うつ伏せになり祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心(みこころ)のままに」」(Mat.26:36-39)。イザヤ書五三章の苦難の僕はイエスの預言であるとされているが、そこでも人類の罪のために悲しみ苦しむ僕が預言されている。

 虚無主義(ニヒリズム)はこの世のあらゆることに何ら差異、違いがないと主張する。善は悪であり、知識は誤謬であり、愛は憎しみである。十人殺せば悪党であり、百万人殺せば英雄である。この世界には何ら確かなものはないという考えがニヒリズムである。そこでは悲しむことも喜ぶことにも何ら差異はなく、たとえばニーチェはすべての感情をも考慮せず、善悪の彼岸にいたろうとする。そのように愛が冷えていくなかで耐え忍んで、少しでも平和を造る者となりたいと思う、そのような思いのひとびとが登戸学寮をつくった。

 第五福は「憐み深い者」である。これもひとつの身体的受動としてのパトスである。イエスは羊飼いのいない羊のようにうちひしがれて彼についてくる群衆を見て、「深く憐れんだ、そして多くのことを教え始めた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。第五福の「憐れむ」という動詞は「はらわた」という名詞の派生である。はらわたから憐みが溢れ出す。ひとは通常憐みの感情が湧くのは不当な仕方で或いは相応しくない仕方で不幸に見舞われたひとや状況に対してである。近年のネット上のバッシングは自業自得だという仕方で同じ不幸に見舞われても憐みがわくことがない状況を示している。イエスは群衆に「汝らが天の父の子となる」(5:44)と呼びかけるが、神に似せて創造された人類が相応しくない仕方で争い、妬み、憎しみ合うそのような状況にあることに深い憐みをもった。その憐みが彼をして福音の宣教に駆り立てている。彼は深い憐みをおぼえたあとに、天国について「多くのことを教え始めた」に報告されている。

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 神の愛―クリスマス、闇夜に光が輝いた―             日曜聖書講義2021年12月19日

 神の愛―クリスマス、闇夜に光が輝いた―

             2021年12月19日 2021年最終講義

 

聖書 ルカ福音書 1章46-55節 「マグニフィカット」

  マリアは言った。「わが魂は主を大いなるものとします(magnify)。わが霊はわが救い主なる神を崇め讃えました。主はご自身の奴隷の卑しさを顧みてくださいました。というのも、ご覧なさい、力ある方がわたしに大いなることを為されたがゆえに、今から、すべての世代の人々がわたしを祝福いたします。ご自身の御名は聖です、そしてご自身の憐みは世代から世代へとご自身を畏れる者たちに注がれます。力ある方がご自身の御腕において示されました、心の思いによって高ぶる者たちを散らされました。ご自身は権力者たちを彼らの玉座から引き降ろされました、そして卑しき者たちを高められました。飢えている者たちに良きもので満たされました、そして富める者たちを空しく追い出されました。ご自身の子イスラエルを受け止められました、憐みを思い出されつつ。われらの父祖たちに語られたように、ご自身はアブラハムと彼の子孫に対しとこしえに導かれます」。

 

1 御子の受肉は神の愛に他ならない

 この一年もパンデミックが継続し人類史的なあるいは黙示録的な一年でした。人類にとってこのいっそう濃くなっていく闇のなかで光が燦然と輝いています。キリストの生誕を祝います。闇が濃ければ濃いほど、天上の導きの星のように輝きを増し、ひとびとの歩むべき道を指し示しています。2000年前、ベツレヘムにおいて大きな光が輝き羊飼いや東方の博士たちを馬小屋に導きました。彼らはそこで生まれたばかりの赤子を神の御子として拝しました。

 この光は宇宙の始まりの光の源です。宇宙の創造者なる父は子とともに永遠の現在のもとにいました。われらが理解できる時空の外にいます。それ故に、宇宙の歴史、人類の歴史における過去と未来は現在のことがらとして理解されています。聖書が報告する神とひとの交わりは、神の永遠の計画のもとで、御子の受肉の故に父なる神が歴史的存在者として描かれることを引き受けられたことに基づき生起します。神はひととなったのです。それは神が愛だからです。神は宇宙の創造者として単に神が望む一切を為すことができ、また一切を知っているだけではなく、神は、われらが人格的存在者として善悪を判断する道徳的存在者であるように、われら個々人と父と子、即ち我と汝の等しさにおいて交わることを望まれたのです。人類は神の愛の対象として造られたのでした。

 我と汝の等しさとは、わたしはあなたによってわたしであり、あなたはわたしによってあなたであるという、父と子、友と友、良人と妻、社長と社員、その都度、隣人とのあいだに成立する等しさのことです。その都度、支配することからも支配されることからも唯一自由なところで出来事になる隣人と隣人のあいだに成立する等しさです。そこには喜びが伴います。ひとは愛を求めているからです。愛が出来事になっていることの感情実質は喜びです。そこには過去により支配される後悔や怒り等の感情からも、未来により支配される焦りや不安そして恐れ等からも自由にされ、今を生きていることの充溢があります。そこではこの現在の充溢のなかで過去からも未来からも自由にされ、今・ここで時と和解しており、なんらか永遠と関わっています。ひとは情熱恋愛でさえ永遠との関わりなしに愛を語ってこなかったのです、それが単におのれの胸のトキメキを、心臓の心拍数を愛しているにすぎないにしても。

 ひとは自ら意識しないとしても、自らと同じ値においてない誰かと出会うとき、目をそむけたくなるそのような思いに駆られます。あまりの悲惨、あまりの不正義、あまりの横暴このようなものを目撃するとき、ひとは喜びを失います。楽園を追放された者には、この儚く、残酷な過ぎ去りゆく世界に投げ出されており、労苦と争いが待ち受けています。それに打ち勝つものは人類にとっては永遠と結びつく愛しかないのです。

 二千数百年前の「申命記」や「レビ記」の記者は神による隣人愛への戒めを報告するとき、すでに「汝が汝自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ」と語り、「汝が汝自身を愛するように」という限定とともに命じ、愛の持つ等しさを捉えていました(Lev.19:18)。ひとは隣人と等しくあるときのみ、喜ぶがわくのです。この隣人愛の前提には神への愛がモーセにより命じられています。「聞け、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。汝は心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、汝の神、主を愛せよ」(Deut.6:4)。神の愛に反応し、神を愛するとき、心魂は秩序づけられ統一の持つ力を得るにいたります。そしてその力は横にいる隣人への愛として注がれていきます。宇宙の創造者の愛の力がこの弱い身体から溢れだしていきます。「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。パスカルは言います。「何かから遠ざかるということがあるとするなら、それは愛からでしかない」と。つまり、愛から遠ざかればすべてから、即ち生きることそのものから離れてしまいます。ですから、神の愛に留まる限り、ひとはこの世界を前向きに肯定的に受け止めることができます。

 この世界はシーソーのバランスが崩れるように、勝ち組と負け組、支配層と被支配層により構成されています。このような差別や驕りさらには侮蔑の関係にあるとき、直ちに争いの闇に落ちてしまいます。このような争いと、諦めは闇の支配者である罪の奴隷になることからきます。神は「焼き尽くす火」です(Heb.10:27)。人間的に言えば、神の怒りが大きいのは神の愛が大きいからです。なんとか罪の奴隷となり闇に沈む人類を救い出そうとしておられるのです。人類はこんなはずではないのです。無気力に陥り、諦めてしまっている人々はおのれのポテンシャルを知らないのです。人間の本来性を知れば知るほど、現在の闇に沈む人類とのコントラストが大きくなります。水が高きから低きに流れるように、愛がコントラストに沈む人々に流れ注がれていきます。

 

2マグニフィカット

 マリアの「マグニフィカット」と呼ばれる神への賛歌は、神が取るに足らない貧しい一人の若い女性を顧みてくださったことへの感謝と賛美です。「主はご自身の奴隷の卑しさを顧みてくださいました」。差別に苦しむ者たちが救いの光を照らされ、希望と賛美に満たされたのです。神は人類の最も低いところで苦しんでいる人々に救いの光を差し込んだのです。われらが高ぶって、輪切りの小さいほうに入ろうとし、競争しているとき、そこに救いの光は届きません。われらは光をもとめず、罪の奴隷となる闇を求めているからです。キリストの低さと柔和さはキリストと共に信の従順の軛を担う者に与えられます。

 イエスはひとの肉の弱さに衷心からの「憐み(splangchnon=はらわた)」を示し、柔和であり謙遜でした。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」と報告されています(Mat.9:36,cf.Mak.1:41)。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙りが伝わります。栄光を捨ててのご自身の自己卑下が弱小者への祝福を裏付けます。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂く以外に、ひとは謙遜を学び自らより弱小者への憐みを頂き、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者にはなりえないのです(Gal.6:1,Mat.5:9)。

 

3預言の成就

 すでに預言者イザヤが今から約2700年前にこの救い主を預言しています。

 「暗闇を歩める民は大いなる光を見、死の陰の地に座したる者に光が照らした、主は民を増し加え、歓喜を大ならしめた。・・ひとりの男子(おのこ)がわれらのために生まれ、一人の子がわれらに与えられた。支配はその肩におかれ、その名を読んで霊妙なる議士、大能の神、永遠の父、平和の君と称えられん。その政事(まつりごと)と平和は増し加わり、限りなし。かつダビデの位に座してその国を治め、今よりのちとこしへに公平と正義とをもてこれを立てこれを保ちたまわん。万軍の主の熱心これを為し給うべし」(Isaiah.9:1-6)。

 イザヤは預言します、万軍の主は熱心にわれらを救いだそうとしていると。この公平と正義そして平和はナザレのイエスにおいて実現されました。ここで「一人の子がわれらに与えられた」と過去形で表現されていますが、預言的過去(prophetic past)と呼ばれるものであり、時間を超える神の霊的な知らしめの何らかの痕跡であると言えます。イザヤは闇に打ち勝つ罪の贖いを先駆的にこう語っています。「恐るるなかれ、われ汝と共にあり、驚くなかれ、われ汝の神なり、われ汝を強くせん。・・汝はわが僕なり、われ汝を造れり。イスラエルよわれは汝を忘れじ。われ汝の咎(とが)を雲の如く消し、汝の罪を霧の如くに散らせり、汝われに帰れ、われ汝を贖いたればなり」(Is.41:10,44:21-23)。

 旧約と新約を貫く神はもちろんおひとりであり、旧約人をアブラハムの信に基づく正義とモーセの業に基づく正義により鍛えつつ、御子の受肉と宣教、受難と復活に歴史は向かったのです。物理的時間(クロノス)は時の凝縮、カイロスを持つにいたったのです。イエスは励まします。「この世界にあって汝らは苦難にあう。しかし、雄々しかれ、わたしは既にこの世界に勝っている」(John.16:33)。

 あの救いの光を感謝し賛美します。牧場の羊飼いたち、東方からの三人の博士たちは大きな星に導かれベツレヘムの馬小屋において受肉し、自然的な存在者となった神の子に出会い喜び拝しました。天使は高らかに賛美しました。「いと高きところには栄光神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」。彼らは預言通りについに救い主が誕生したことを確認し喜んで帰っていきました。またそのころシメオンという信仰深いひとには「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」という示しがありました。シメオンはマリアに抱かれエルサレムに昇ってきたイエスを見つけました。「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いです。異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です」(Luk.25-35)。

 

4罪の奴隷からの解放

 この秋学んできたように、キリストの誕生は長い準備をかけてこのような展開のもとに実現しました。わたしどもは人類史的にも個人史的にも闇を抱えています。生物的死は各自の罪に対する罰なのです。罪から自由にされた者には生物的死は一時的な眠りとなります。死の陰に怯えています。死は多くの者には不可知なものとして闇です。死の支配は罪の支配なのです。罪の軛に繋がれている限り、死は恐れと不安の源となります。御子は人類をその闇と恐れそして不安から解放してくださったのです。パウロは言います。

 「15それでは、どうか。われらは罪を犯そうか、われらは律法のもとにではなく、恩恵のもとにあるのだから。断じて然らず。16汝ら知らぬか、汝らが自らを奴隷として従がうべく捧げるその者に、死に至る罪のであれ、義に至る従順のであれ、汝らは汝らが服従するその者にとって奴隷であることを。17しかし、神に感謝あれ、なぜなら汝らは罪の奴隷であったが、汝らが心から手渡された教えの型に服従し、18罪から自由にされ義への奴隷とされたからである。19われは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る。すなわち、汝らはまさに汝らの肢体を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの肢体を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。20というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。21では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。22しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。23なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:15-23)。

 罪の奴隷であったとき、われらはどんな実を結んでいたのであろうか。悪臭はなつ醜悪なものであった。個人的には、二度と罪の奴隷の軛に繋がれたくないと思い毎日過ごしています。「そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか」。あの悲惨はもうごめんです。愛のないところ、そこには支配があり、争いがありそして死があります。端的に言って闇に包まれます。ひとは闇に耐えることができないのです。この罪の軛を断ち切ることが人類には不可欠であったのです。

 ナザレのイエスはご自身が神の子であるという信によって生涯父の意志の実現にむけて従順の信を貫きました。それ故に罪とその給金である死に対し勝利しました。そこに人類の歴史において、明確に正義の概念が打ち立てられました。それは神との関係の正しさとしての正義であり、「信に基づく正義」(Rom.9:30)と呼ばれました。イエスはガリラヤの野辺で 野の百合、空の鳥を見ながらそして自然的な父と子の類比に訴えながら、「天の父の子」(Mat.5:45)となるよう信仰に招きます。「汝らまず神の国とご自身の義とを求めよ」(Mat.6:33)。神との正しい関係に入ることにより、ひとは神の愛を知ることができます。信仰は正義すなわち神による義認を生み、罪の支配からの解放である義認の喜びは愛を生みます。信→義→愛、この動的な関係が動き出すのです。誰もが心魂(こころ)の根底に信仰・信が宿る部位を力能・ポテンシャルとして持っています。神から聖霊を介して送られる神の愛に反応することのできる部位です。そこは二心がある限り、この世もあの世もという二心がある限り、決して開かない部位です。モーセの十戒において第一の戒めは「わたしをおいてほかに神があってはならない」(Exod.20:3)というものです。これは幼子が親に対してもつような混じりけのない信頼であり、幼子のようになるのでなければ、持ちえない心魂の透明さです。人類は大丈夫だということ、罪の縄目からキリストの十字架と復活において解き放たということ、それ故に喜びだということ。これがクリスマスのメッセージです。

 

 

 

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秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(12) (最終結論その3(3回のうち))聖書の死生観:一回限りの復活信仰が生物的死を乗り越えさせる

 

秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(12) (最終結論その3(3回のうち))

聖書の死生観:旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ

                                      2021年12月12日

 

テクスト「コリント前書」15:35-58

 35ひとは問う、「死者たちはどのように甦らされるのか、どのような身体(sōma)で彼らは来るのか」。愚か者よ、汝が蒔くものは、もしそれが死ななければ生命にもたらされることはないではないか。また汝が蒔くものは、やがて成るべく身体ではなく、麦であれ何か残りのものであっても、裸の種粒である。神は自ら意図したように(kathōs ēthelēsen)そのもの[麦]に身体を、そして[生物]種のそれぞれに固有の身体を与えている。すべての肉(sarx)は同じ肉ではなく、かたや人間たちのものであり、他方獣たちの肉は別のもの、鳥たちの肉は別のもの、魚たちの肉は別のものである。40そして天上的な身体もあれば、地上的な身体もある。かたや、天上的なものどもの栄光があり、他方、地上的なものどもの栄光が別にある。太陽の栄光と月の栄光は別であり、また星々の栄光も別である。

 死者たちの復活もまた同様である。朽ちるものに蒔かれ、朽ちないものに甦らされる。価値なきものに蒔かれ、栄光に甦らされる。弱さのうちに蒔かれ、力能のうちに甦らされる。魂体(魂的身体)(sōma phsukikon)に蒔かれ、霊体(霊的身体)(sōma pneumatikon)に甦らされる。魂体があるなら、霊的なものもまたある。45こう書かれてもいる、「最初のひとアダムは生きる魂となった」、最後のアダムは生命を造る霊となった。しかし、霊的なものではなく魂的なものが最初であり、続いて霊的なものである。最初のひとは地に基づく土製であり、第二のひとは天に基づく。その土製の者[アダム]がそうあるように、土製の者たちもそのようにあり、そして天上の者[キリスト]がそうあるように、天上の者たちはそのようにある。ちょうどわれらが土製の形姿(eikona tū choikū)を担ったように、われらはその天上の者の形姿(eikona tū epūraniū)をも担うであろう。50兄弟たち、われ語る、肉と血(sarx kai haima)は神の国を相続することはできない、さらに朽ちるものは朽ちないものを相続しないと。

 見よ、われ汝らに奥義を語る。われらすべてが眠りにつくということにはならず、かえってわれらすべてが、不可分の間に、瞬く間に、最後のラッパにおいて、変化させられるであろう。というのも、死者たちもまた、ラッパが鳴ると、不死なる者たちとして甦らせられそしてわれらもまた変化させられるであろうからである。というのも、この朽ちるものが朽ちないものを着させられそしてこの死ぬものが不死を着させられねばならないからである。しかし、この朽ちるものが朽ちないものを死ぬものが不死を着させられるであろうとき、そのとき書き記された言葉が出来事になるであろう。「死は勝利に飲まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにある、死よ、汝の棘はいずこにある」。罪が死の棘であり、罪の力能が[罪の]律法である。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する。かくして、わが愛する兄弟たち、あらゆるときに主の働きにおいて満ち溢れつつ、汝らの労苦が主にあって無駄なものではないことを知りつつ、動かされることなく、堅固たれ(1Cor.15:35-58)。

 「ヘブライ人への手紙」9:24-28

「キリストは、まことのものの写しにすぎない人間の手で造られた聖所にではなく、今や、神のみ前に、われらのために説明するべく、天そのものに入られた。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、たびたびご自身をお捧げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。しかし、今や、一度限り、諸時代の完成において、ご自身の捧げを介して罪の取り去に向けて、顕現されました。また、人間にはただ一度限り死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている限りにおいて、キリストも多くのひとの罪を負うためにただ一度身を捧げられた後、二度目には、罪を離れて、ご自分を待望している者たちに、救いをもたらすべく顕われてくださるのです」(Heb.9:24-28)。

 

5. 旧約のエルゴンの神と新約のロゴス及びエルゴンの神

 新約において、媒介者が真の人間であり真の神の子である場合には、神の前、即ち神自らの人間認識と判断から、ひとの前、即ち肉の弱さのもとにある人間の自由な責任主体を理論(ロゴス)上判別し、しかも両立的なものとして論じることができる。ただし、神がイエス・キリストを介してのひとへの関わりは神の前とひとの前を分けない今・ここの具体的な神的かつ人間的働き(エルゴン)であることは常に留意されねばならない。新約の神を「御子故のロゴスとエルゴンの神」と呼ぶ。まさに「ロゴス(理・ことわり)は神であった」(John. 1: 1)。

 旧約における啓示の媒介は預言者や自然事象であり、それらの今・ここの働きの蓄積であり、理論があるとしてもこれらの働きの経験の総合として帰納に留まる。旧約では未だに、一回限りの決定的な啓示に基づき、他の一切の顕現が理解される新約における総合的神学が構築されることはなく、それ故に神が自らいかに認識し判断したかの知らしめをそれ自身として析出することができない。此岸と彼岸の支配者である神が関わっているという限りにおいて旧約人が出口なき此岸に自らを閉じ込めたということではない。そこで報告されているのは、永遠の神が人間的となり旧約人と分断されない仕方で彼岸のメッセージを此岸にその都度伝えたことである。

 二つの文書における一方の欠落と他方の充満の対比は興味深く、この著しい論述の相違、そしてそれにも関わらずその連続性をここまで確認した。それは同一の神が一つの計画のなかで、決定的な啓示、知らしめを介してそれ以前とそれ以後の人々の知識をめぐるコントラストを著しいものにしたという理解を道理あるものとする。ひとの心魂はいつの時代にあっても生死の根源的な理解においては同じ働き、反応をするという見解は道理あるものだからである。これは、例えば、人類が持つ同一の知性の展開のもとに科学が進み、人類が不老不死を獲得した場合、その後の死生観は今とまったく異なるであろうことと類比的である。認識が変われば、パトス(身体の受動的反応)もかわっていく。

 旧約における神は自らの正義と憐みを人類に理解されるよう自然事象を介して自らの人間認識と判断を伝達する、自然化され、擬人化された神として描かれることを許容している。即ち、人間に近い神であり、人間の自然的生存を左右する神として人間の、とりわけ窮境における神理解を投影されることを許容している。旧約人と関わる限りの神は、宇宙の栄光としての超越的な神というより、その都度怒りや後悔などと表現される仕方で人間に関わる内在的な神と言うことができる、もちろん旧約における宇宙の栄光としての神讃美は豊かなものでありつつ。新約では神の超越性は御子の媒介によりロゴス上確認される。神のエルゴンは御子においてその都度確認される。「イエスはピリポに言う、「これだけの時間わたしが汝らと共におりながら、ピリポよ、君はわたしを認識しないのか。どうして君は言うのか、「われらに御父をお示しください」と。わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられることを信じないのか。わたしが汝らに言う言葉は、わたしから語っているのではない。わたしのうちに留まっておられる父が、ご自身の働き(ta erga)を為しておられる。わたしが父のうちにおり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。さもなければ、これら働き自体を介して信じなさい」(John.14:9-11)。

 預言者たちは今・ここの具体的な状況において民の罪を告発し、神への立ち帰りを要求している。このやりとりの集積が旧約人の歴史であった。かくして、旧約人は自らの心魂の内面において神の臨在と不在を感じつつ、今・ここの神との交わりにこそ自分たちの信仰の生命線を見ていたと言うことができる。救いが自らの外にイエス・キリストのうちに明確に立てられた新約とは異なり、エルゴンの神の隠れと顕現のもとに自らの心のup and downのなかで自らの心の状態が常に問われていた。「詩篇」はその記録であり、敵への執り成しを祈る余裕はなかった。旧約人は神について「隠れています神」と呼ぶことがあるように、十全な神の顕現が与えられない(Isa. 45: 15, Deut. 29: 28)。「いつまで主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか」(Ps. 89: 47-49)。新約においては、この訴えはなされえない。なぜなら、旧約において待ち望んだ「贖い主」、「仲保者」が到来したからである(Job. 9: 33, 33: 23, Isa. 43: 13, 47: 4, 49: 7, 54: 5)。

 しかしながら、顕現も報告されている。ヨブが神の正義を疑い問いかけ追及したはてに、神が旋風のなかから顕現して言った(神義論については『信の哲学』上巻456-462)。「これは何者か、知識もないのに、言葉を重ね、神の経綸を暗くするとは。男らしく腰に帯をせよ」と応答したその時に、その事実だけで、ヨブの一切の懐疑は払拭され、喜びに満たされている(Job. 38: 1-3)。イザヤは「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」の顕現に恐れ慄きつつ「滅び」を覚悟したが、火鉢による唇の清めにより「汝の咎は取り去られ、罪は赦された」という今・ここの罪の赦しの経験にいたっている(Isa. 6: 3-7)。旧約人はこの今・ここの働きを求め、何らかの顕現により満たされつつ待望を続けた民族であった。

 

6. 結論

 エルゴンの神、即ちひととその都度の今・ここにおいて関わる神が前史として描かれなかったなら、父と御子の協働行為としての福音は正しく福音として位置づけられなかったことであろう。あの準備期間においてこそ、同一の神の御子の派遣の必然性と、さらには罪と死の克服としての受肉、宣教、受難、復活の主は正しく理解されるにいたる。かくして、他の民族の歴史からはナザレのイエスは誕生しなかったという理解は道理がある。同様に生と死も旧約のあの禁欲的な準備なしに、総合的な理解はかなわなかったであろう。

 もしユダヤ人の歴史のなかでの受肉はもとより、何の歴史的交流なしにUFOのようにアブラハムの時代に神が全人類に突然現れ、神自身が人類の創造者であることを知らしめたとして、それは人類の歴史になんら関わらない神である。その神による救済は棚ぼた式であり、多くの人はたとえ宇宙船を操る認知的卓越性を認めたとしても、人格的な正義(公平)と愛(憐み)の両立を知ることはなかったであろう。これは御子のあの生涯なしに十全には実現されなかったことがらである。信に基づく正義を介して自らの罪が贖われたこと、罪と死に対して勝利が与えられ、懲罰としての死が永遠の生命に飲み込まれたその神の愛を信じるに至らなかったであろう。

 「見よ、わたし[パウロ]は汝らに奥義を語る。われらすべてが眠りにつくということにはならず、かえってわれらすべてが、不可分の間に、瞬く間に、最後のラッパにおいて、変化させられるであろう。というのも、死者たちもまた、ラッパが鳴ると、不死なる者たちとして甦らせられそしてわれらもまた変化させられるであろうからである。というのも、この朽ちるものが朽ちないものを着させられそしてこの死ぬものが不死を着させられねばならないからである。しかし、この朽ちるものが朽ちないものを死ぬものが不死を着させられるであろうとき、そのとき書き記された言葉が出来事になるであろう。『死は勝利に飲まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにある、死よ、汝の棘はいずこにある』[Isa.25:8,Hos.13:14]。罪が死の棘であり、罪の力能が[罪の]律法である[Rom.7:23]。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する。かくして、わが愛する兄弟たち、あらゆるときに主の働きにおいて満ち溢れつつ、汝らの労苦が主にあって無駄なものではないことを知りつつ、動かされることなく、堅固たれ」(1Cor. 15: 51-58)。

 ユダヤ民族の歴史の展開においてモーセ律法(「業の律法」(Rom. 3: 19-20, 3: 27))が先ず神の意志として啓示され、その正義の規準との関連で神への背きが告発され、この民は祝福とともに罪の懲罰を受けてきた。そのなかで時が満ちてもう一つの神の意志(「信の律法」(3: 27)が御子の受肉と信の従順の生涯により福音として啓示されている。罪とその値である死が克服された。

 新約の視点から「へブライ人への手紙」の記者は旧約の人々をこう特徴づけている。「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結されることがないためである」(Heb. 11: 39-40)。旧約人は新約人を待って初めて彼らの生が何であったかが明確にされ、完結されるものであった。

 旧約人の宿命として、彼らは神と自らの交わりのエルゴンの積み重ねをアブラハムの信とモーセ律法のもとに続けた。そこには祝福と懲罰の経験があった。自らの心魂を離れて神の審判に耐えうる力はなかった。新約人は自らの外に、イエス・キリストのうちに自らの救いの力を見出した。旧約人は明確な知識をもたずにも神の義と愛という一本の道を忍耐のもとに歩み続けたそのただなかに、キリストを待望するエネルギーが蓄積されていったのであった。

 

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