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秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(11) (最終結論その2(3の2))  聖書の死生観:何故永遠の生命への追求は旧約人にはわずかにしか見られないのか

(録音は事情により4節のみ、最終回は次の週になります)。

 

秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(11) (最終結論その2(3回のうち))  

聖書の死生観:旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ

2021年12月5日

4.何故永遠の生命への追求は旧約人にはわずかにしか見られないのか 

 旧約と新約の死生観の論述内容の相違は興味深い。御子の受肉、受難と復活を介して啓示された福音が相互の連続性と展開とともに、新約から見る限り旧約における欠落そしてそれ故に待望が明らかになる。ここで、新約の視点から明らかになる旧約における不在ないし僅少の例を挙げる。(1)永遠の生命の獲得の記録はもとよりその希求。(2)神と敵とのあいだの執り成しの働きとその祈り(とりわけ「詩篇」における)。(3)聖霊による肉の弱さにある個々人への内在を介した呻きを伴う神の肯定的な意志の執り成し。(4)指導者や預言者たちの有徳者であることの記録、そして立派な有徳な人間になることへの奨励、ただし神による義人の認証を除く。(5)聖霊による一つの身体としての集会、教会の形成。(6)異邦人の救い。これらの記述が皆無ないし僅かにしか見られない。旧約人は新約において知らされているキリストの一つの身体を形成するそのような共同体や教会の観念をもたなかった。C.H.マッキントッシュは言う、「個々の霊の救と教会を一の特別の存在として聖霊によりて組成する事とは全く別事である。……旧約聖書にはどこにも教会の神秘について直接の啓示がない」(C.H.M. 1927, 16,18)。「エペソ書」において使徒は言う。「キリストの奥義は、今彼の聖なる使徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人の子たちには知らされてはいなかった」(Eph. 3: 4)。

  ここでは(1)について考察したい。詩人は神への讃美の機会を失わないためにこの世の生存を嘆願する。「あなたは、わたしの生命を死に渡すことなく、あなたの聖者が朽ちることを許さず、生への道を教えてくださる」(Ps. 16: 10)。「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐みを乞います。わたしが死んで墓にくだることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ、あなたの真実を告げ知らせるでしょうか」(Ps. 30: 10)。「あなたは死者に対して驚くべき御業をなさったり、死霊が起き上がってあなたを讃えるでしょうか。墓の中であなたの慈しみが、滅びの国で、あなたの真実が語られたりするでしょうか」(Ps. 88: 11)。生きている限りにおいて、一切を支配し導く神に讃美を捧げることができ、そのなかで祝福を頂くことができる。

 端的に言って、旧約人は直接的な仕方での永遠の生命を待望するということが、ヨブや預言者等特異な状況にある個人を除いては記録されてはいない。その待望は、民族の集団心理として、楽園追放以後、主の名前を「みだりに唱えるな」、「貪るな」という戒めに包摂されるタブー・禁忌であり、避けられたのであろうか。生命の木の実の実質は始めの人間の背きの故に言及することさえ許されなかったのであろうか。アダムが裸であることを恥じ、また茂みに隠れたように、旧約人は神への怖れのなかで自らの心情を吐露したり、最も重要な願望をさえ安易に要求できなかったのであろうか。復活はあまりに信じがたきことであったのであろうか(Mat.22:23)。永遠の生命への希求の記録の欠落は、これらの複合的事情によるものであろう。

 フォン・ラートは幾つかの箇所を論拠に挙げつつ、旧約人は来世を望むことがなく彼が「此岸性」と呼ぶ現実世界への集中を彼らの特徴としてあげる (Ps. 90: 4-11, 34: 14ff, 88: 6-11, Job. 9: 2-5, 29-31, Deut. 3: 15ff, Isa. 38: 11ff)。「旧約聖書には、死後の生に対する要求はない。それは、人間が簡単に要求できるものでもなく、まして、自分勝手にわがものにすることができるものではないことを知っており、それよりも、人間は完全に神の恵みに依存しているということの方が重要だったのです。……この待期期間、つまり、永生への希望の明白な欠如については、あたかも神が自分の共同体に、まず、初めに、完全な此岸を与えられたのではないかというふうに説明できるのではないでしょうか。実際、旧約の定めは、神の此岸に対する意志を含んでいます。……すべての不安が解消されるであろうと人々を誘惑する彼岸によって相対化されることはなく、むしろ、大地と人間は、神の側から、「出口なし」と示されて、それを真摯に受け止めたのです。……あらゆる彼岸信仰は、神の此岸に対する意志を無視する明らかな不服従と言うべきです」。(註 ラートはJ.ウェルハウゼンの問いを紹介する。「宗教的な動機をもった誠実な人たちが、それほど長く、死後の永生への希望なしにありえたのはなぜか」。ラートはこの問いが事実に即したものではないとし、「なぜなら、旧約聖書には、死後の生に対する要求はないから」と理由を提示する。しかし、これは人間本性からして、また生死の本性に鑑みて、旧約人に対する過度の要求、また過度の特殊民族性への要求が含まれている(フォン・ラート 2021, 67-68))。

 しかしながら、フォン・ラートによる旧約人のこの理解は正しいのだろうか。これまでの論述に基づくとき、少なくとも、「此岸性」と「彼岸性」、ひとの世界と神の世界の分断を含意するこの表現は、生と死を総合的に捉えることを不可能にしており、貧弱な死生観しか持ちえず、旧約人を矮小化してはいないであろうか。神から「出口なし」を示された人間はどこに希望を見出すことができるであろうか。より適切な表現を求めるべきである。

 旧約においては神が人間と関わる媒体は洪水や疫病そして死等自然事象を介してであり、そこではこの世界の事象を媒介にして具体的に関わる今・ここのエルゴン(働き)の神の報告で満ちているがゆえに、何か彼岸即ち神の前の事柄が考慮されずに、此岸即ちこの自然的世界だけが考慮される、そのような印象を与えたのだと思われる。しかし、エルゴンの神はひとの現実世界から分けられてはいないだけのことであり、その同じ神がどこまでも宇宙の栄光の神である。この神は当然死を支配している以上、死後を考慮しているが、そのことは新約において明確に知らしめられた。神は旧約人にはアブラハムの信仰義認とモーセの業の律法に基づく義認の枠のなかで、自らが人間的に理解されることを許容しつつ、恩恵を思い起させることにより罪とその値である死の乗り越えを迫っていた。罪と死の乗り越えが彼らの課題でなかったはずはない。あたかも旧約人が此岸に閉じ込められたかに見えるのは、神が自ら譲歩して彼らの理解に応じて今・ここにおいて具体的に人間的な様相において関わったからである。

 

5. 旧約のエルゴンの神と新約のロゴス及びエルゴンの神

 新約において、媒介者が真の人間であり真の神の子である場合には、神の前、即ち神自らの人間認識と判断から、ひとの前、即ち肉の弱さのもとにある人間の自由な責任主体を理論(ロゴス)上判別し、しかも両立的なものとして論じることができる(千葉 2018, 第三章)。ただし、神がイエス・キリストを介してのひとへの関わりは神の前とひとの前を分けない今・ここの具体的な神的かつ人間的働き(エルゴン)であることは常に留意されねばならない。新約の神を「御子故のロゴスとエルゴンの神」と呼ぶ。まさに「ロゴス(理・ことわり)は神であった」(John. 1: 1)。

 旧約における啓示の媒介は預言者や自然事象であり、それらの今・ここの働きの蓄積であり、理論があるとしてもこれらの働きの経験の総合として帰納に留まる。旧約では未だに、一回限りの決定的な啓示に基づき、他の一切の顕現が理解される新約における総合的神学が構築されることはなく、それ故に神が自らいかに認識し判断したかの知らしめをそれ自身として析出することができない。此岸と彼岸の支配者である神が関わっているという限りにおいて旧約人が出口なき此岸に自らを閉じ込めたということではない。そこで報告されているのは、永遠の神が人間的となり旧約人と分断されない仕方で彼岸のメッセージを此岸にその都度伝えたことである。

 二つの文書における一方の欠落と他方の充満の対比は興味深く、この著しい論述の相違、そしてそれにも関わらずその連続性をここまで確認した。それは同一の神が一つの計画のなかで、決定的な啓示、知らしめを介してそれ以前とそれ以後の人々の知識をめぐるコントラストを著しいものにしたという理解を道理あるものとする。ひとの心魂はいつの時代にあっても生死の根源的な理解においては同じ働き、反応をするという見解は道理あるものだからである。これは、例えば、人類が持つ同一の知性の展開のもとに科学が進み、人類が不老不死を獲得した場合、その後の死生観は今とまったく異なるであろうことと類比的である。

 旧約における神は自らの正義と憐みを人類に理解されるよう自然事象を介して自らの人間認識と判断を伝達する、自然化され、擬人化された神として描かれることを許容している。即ち、人間に近い神であり、人間の自然的生存を左右する神として人間の、とりわけ窮境における神理解を投影されることを許容している。旧約人と関わる限りの神は、宇宙の栄光としての超越的な神というより、その都度怒りや後悔などと表現される仕方で人間に関わる内在的な神と言うことができる、もちろん旧約における宇宙の栄光としての神讃美は豊かなものでありつつ。新約では神の超越性は御子の媒介によりロゴス上確認される。神のエルゴンは御子においてその都度確認される。

 預言者たちは今・ここの具体的な状況において民の罪を告発し、神への立ち帰りを要求している。このやりとりの集積が旧約人の歴史であった。かくして、旧約人は自らの心魂の内面において神の臨在と不在を感じつつ、今・ここの神との交わりにこそ自分たちの信仰の生命線を見ていたと言うことができる。救いが自らの外にイエス・キリストのうちに明確に立てられた新約とは異なり、エルゴンの神の隠れと顕現のもとに自らの心のup and downのなかで自らの心の状態が常に問われていた。「詩篇」はその記録であり、敵への執り成しを祈る余裕はなかった。旧約人は神について「隠れています神」と呼ぶことがあるように、十全な神の顕現が与えられない(Isa. 45: 15, Deut. 29: 28)。「いつまで主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか」(Ps. 89: 47-49)。新約においては、この訴えはなされえない。なぜなら、旧約において待ち望んだ「贖い主」、「仲保者」が到来したからである(Job. 9: 33, 33: 23, Isa. 43: 13, 47: 4, 49: 7, 54: 5)。

 しかしながら、顕現も報告されている。ヨブが神の正義を疑い問いかけ追及したはてに、神が旋風のなかから顕現して言った(神義論については『信の哲学』上巻456-462)。「これは何者か、知識もないのに、言葉を重ね、神の経綸を暗くするとは。男らしく腰に帯をせよ」と応答したその時に、その事実だけで、ヨブの一切の懐疑は払拭され、喜びに満たされている(Job. 38: 1-3)。イザヤは「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」の顕現に恐れ慄きつつ「滅び」を覚悟したが、火鉢による唇の清めにより「汝の咎は取り去られ、罪は赦された」という今・ここの罪の赦しの経験にいたっている(Isa. 6: 3-7)。旧約人はこの今・ここの働きを求め、何らかの顕現により満たされつつ待望を続けた民族であった。

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秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(10:最終結論1(2の1))聖書の死生観―旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ―

秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(10:最終結論1(2の1))

聖書の死生観

―旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ―

                             千葉 惠

「わたしは裸で母の胎をでた。また裸で帰ろう。主与え、主取りたまう、主の御名は褒むべきかな」(Job.1:20)

「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、なかにはいっても、主イエスの遺体が見当たらなかった。途方にくれていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ生きておられる方を死者のなかに捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」(Luk.24:2-6)。

 

1 死生観と神観念

 1.1生と死の動的な関わりの探求

 2021年夏、疫病の蔓延で医療崩壊のみならず、生が死に飲み込まれる人生崩壊の兆しさえこの国に広がった。人類が生存する限り問われる死が新たに問われた。死後についてなにがしか語ることは宗教の大きな仕事であるが、神など超越者をめぐっては、三つの態度が考えられる。そのなかで対立する二つの立場を突き詰めると、一方で一切を正確に知り公平な審判を遂行する一人の存在者がいるという唯一神論としての有神論となり、他方、個々人の一切はこの生の活動期間ののちに無に帰するという無神論となる。双方とも明確な信念のもとに生を構築する。第三の立場として神についてひとは知りえないという不可知論がその間にあり、最も理性的な態度のように見える。しかし、不可知論は神が存在する、それ故に死後神の前に立ち何らかの審判を受けるという想定のもとで、日々迫られる個々の行為を選択するという生を構築できないため、有神論を懐疑においてであれ真剣に受け止めない限り、事実上、無神論に吸収される。

 無神論に基づく死生観はここで展開する有神論の論述の否定として理解される。永遠の生命など存在せず、死後、肉体は自然とその生態系に還元されていくという見解である。不可知論は判断保留のまま生を遂行する。孔子は、弟子の子路が死について尋ねたとき、「わたしは生を知らない、どうして死について知っているだろうか」と応答した(『論語』11-11)。孔子の立場は生が何であるかを知れば、死を理解できるかもしれないというものであり、強い不可知論ではない。とはいえ、これらの立場は生を死によって知り、死を生によって知るという動的な関係において捉えてはいない。

 双方を分断したうえで、生の側から死を推し量ることがある。ひとは自らの過酷な生のゆえに死を望むことがある。そこでの暗黙の前提には死は一切の悪しきことの消滅であり、死後は、神ありなしに拘わらず、生の持つ過酷さをもたないかのごとき希望的観測がある。そうかもしれない、そうでないかもしれない。これに対し、双方を包括的に捉えるとは、生と死は何らか連続的であり、死が一刻一刻迫っているという事実こそ生に意味を与え、その生の内実が死に飲み込まれない肯定的なものである限り、死はその生の延長線上に肯定的なものとして開かれると捉える。その意味で死の何らかの理解が生を構成しており、生の何らかの理解が死を取り込んでいる。

 生と死を包括的な視点から捉えることにより、生死の分断的な思考を免れることができる。ひとはそのような総合的な、しかも前向きな理解を求める。実際、ひとは生きていることの充実感を得るには未来に時間が開かれているという感覚を必要としている。死はその前向き、肯定的な生の構成要素でありうる。生死を支配する神は人類の歴史においてそのような機能を担うものとして看做されてきたのであり、信じること、或いは懐疑においてであれ有神論を真剣に考慮することが生死を真剣に受け止めることを可能にさせる。突き詰めれば、宗教において生きて働く神を相手にするのでなければ、生死を動的な連関のもとで総合的に受け止めることはできない。「総合的」とは人類の歴史を考慮しつつそのなかに個人を位置づけ、各自が神への信仰、眼差しのなかで個々の古き自己の死と新しい自己の生命の再生の経験のフィードバック(送り返し)を介して全体としての自己理解を形成深化させることである。死を支配する者があるという信なしに、死は不可知の闇に留まる。

 

1.2 聖書の死生観―旧約から新約への飛躍―

 本稿において聖書が伝える死生観を紹介、吟味する。コンコルダンス(字句索引)によれば、聖書には「生命」(「命」)と「死」とその類縁語はそれぞれ約数百回見出すことができる(『 コルコルダンス 新共同訳聖書、聖書語句辞典』(木田、和田監修 キリスト新聞社 1997、以下新約からの引用は私訳を用い、旧約からの引用は基本的に日本聖書協会『新共同訳』(1987)を用いる)。二千頁の一つの書物において均せば二頁に一度はいずれかとその類縁語が現れていることになる。それ故にこの書は生命と死をめぐる書であると言ってよい。一方で、悪行や暴飲暴食が死を招くということや、他方で「ひとの生涯は草のよう、野の花のように咲く。風がその上に吹けば消え失せ、生えていたことを知る者もなくなる」という類の人生の儚さへの言及はアダムの末の誰もが語るであろう一般的な理解である(Prov.11:19,Lev.10:9,Ps.103:15,Job.14:1)。

 同様に、民族のリーダーたちは自らの使命の成就として長寿を全うしたが、そのこと自体に祝福された生を見ることも万国共通であろう。ユダヤ民族の始祖「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(Gen.25:8,15:15)。エジプトのファラオの娘の子として育てられたモーセやその後継者ヨシュアそして長老たちの死も生の成就でありその長寿は祝福されたものであった(Deut.34:1-8, Josh.24:29-31)。旧約において「ダビデは先祖と共に眠りについた」(1Ki.2:10)という表現に見られるように、他の固有名の挿入によるこれと同じ構文は40か所以上で見られ、慣用表現であったことがわかる(前掲コンコルダンスp.745)。

 この「眠りについた」という表現はエデンの園における「生命の木」に暗示されるように、生物的死が一切の終わり「永眠」というものではなく、覚醒の可能性を示唆していると言うことができる。この表現は新約における義人、聖徒の死が一時的な眠りであるという特徴づけを基礎づけたと推測される。もし神に背かなければ、アダムであれ誰であれたとえ生物として土に返ったとしても、義人の死は新約聖書においては「眠り」であると捉えられることになる(Mat.27:52、1Cor.15:6,18,20,51)。

 The Bookと呼ばれる人類の歴史で最も読まれているこの書物は一つの出来事を契機に二つの異なる文書が連続的な歴史の展開として編集されている。イエス・キリストの復活即ち死者たちのなかからの甦りを契機にして、旧約聖書と新約聖書の死生観は断絶と呼べるほどの飛躍を遂げている。新約において「永遠の生命」と呼ばれるものの在り処が歴史のなかで全人類に向けて神により知らしめられたと報告されている(John.3:18,Rom.5:21)。新約との著しい対比として、旧約において来世についての思弁や幻、永遠の生命の獲得とその希求の記録がほとんど見られない。その理由を探りつつ、人間の永生の可能性を基礎づける(神学的には)「ただ一度」(Rom.6:10)限り生起したと報告される死者の復活、甦りの事件が両文書の連続性と飛躍を道理あるものと理解させる、そのような異なる記述を許容する同一の神についての理解を深めたい。

 新旧約を貫く神の特徴づけは明確であり、唯一の神ヤハウェは宇宙万物の創造者として時空の外にあり、永遠の現在において過去も未来も現在のこととして了解している全知にして全能なる宇宙の栄光である(Gen.1:1-2:4,Ps.90:4,91:1,139:1-24,Rom.1:19-20)。双方の相違としては、神は自らの愛の相手として人間を創造したが、楽園追放後の人間との関わりの仕方即ち媒介が御子の出来事を契機にして判別される。一方、旧約においては天、主の使い、預言者そして洪水や疫病等自然事象を介してその都度の今・ここにおいて具体的な状況にある人々に働きかけていることが記録されている(「天」は旧新約全体で約650回使用のうち「天から」は旧新約それぞれ約60回、「御使い」は旧約で約50回、「天使」は新約で約200回使用)。預言者たちは人格的な存在者として神の言葉を取次ぐ。定型表現「万軍の神(主)は言う」は預言者たちにより150回以上用いられ神の認識や判断が取り次がれている。神の審判の預言は至るところに見いだされる(eg. Hosea 7:13-8:14, Isa.30:12-14, Jer.5:14-17)。ユダの王ゼデキアはじめ高官たちは紀元前6世紀に70年間にわたりバビロンに拘束された(Jer.25:11)。それはユダの堕落に対する神の怒りであった。「わたし(神)はエルサレムを瓦礫の山、山犬の住処とし、ユダの町々を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる」(Jer.9:6-10)。

 他方、新約において、神は根源的な仕方で神の子であり同時に受肉により真の人の子である和解の執成し手イエス・キリストないし聖霊を介して関わっていると報告されている。ナザレのイエスが自ら天父の子であるという「神の子の信」、信の「従順」を貫きその都度の今・ここの働きにおいて完全に神の義と神の意志、計画を実現したことにより、神により御子として嘉みされ甦りを与えられたと報告されている(Gal.2:20,Phil.2:8,Rom.4:25)。そのことにより、イエス・キリストは父なる神の信義の啓示および神の人間認識、判断の普遍的な仕方での啓示の媒介者とされる。そしてこれは父と子の協働の知らしめであるが故に、これは最も明白な神の自己顕現である(John.Rom.3:21-26,2Cor.5:19)。

 かくして、この自己顕現に基づき旧約における自然事象また族長、預言者を介した神の諸顕現を理解することは道理あるものとなる。根源的かつ普遍的に知られる父と子の協働作業のほうが具体的な状況、とりわけ窮状にある個々人に受け止められた限りにおいて記述される神よりも純化された仕方で神の特徴およびその働きが理解されうるからである。さらに、御子の派遣は然るべき時に決定的な仕方でなされたとする限り、その充足の時に至る準備期間として他の一切の顕現は理解されるからである。永遠の生命の知らしめの準備として旧約が位置付けられる。

 両文書の報告において同一の神が自らの隠れと顕現において歴史を一直線に展開させていると理解される。パウロは450節からなる「ローマ書」において旧約に先駆的形態のある信に基づく義・正義がモーセを介した旧約の中心的啓示である業に基づく義・正義よりも神自身にとってより根源的であることを論証する。彼はそこでキリストにおいて成就された福音(信義論、予定論)を旧約から60節(箇所)以上すべて肯定的に引用することにより裏付けている。救世主の復活の知らしめこそがそれまでの旧約人の知らされざるなかでの苦闘と待望を特徴づける。彼らは一回限りの歴史の進行のなかで政治的メシヤの出現であれ他の何かであれ救いを暗中模索していたが、自ら知らずにも或いはわずかに自覚的に復活による永遠の生命を求めていたことが明らかになる。

 

2 アダム―その組成と堕罪―

2:1 人類の始祖アダムとひとの心身の構成要素

 人類の始祖の誕生神話によれば、神が土に生命の息を吹き込むことによりひとが生きるものとなったとされている。「主なる神は土(アダマ)の塵でひと(アダム)を形づくり、その鼻に生命の息(pnoē zōēs)を吹きこんだ。そして人間は生きる魂となった」(Gen,2:7)。G. von Ratは言う「用いられる材料は土である、しかし人間は最初に神の口から神的な息のまったく無媒介的な吹きこみによって「生きもの(Lebewesen)」になった。この七節はかくして、ヤハヴィストには珍しいことであるが!、一つの厳密な定義を含んでいる」。G.v.Rhad,Theologie des Alten Testaments 7 Auflage Bd I,S.163 (Kaiser Verlag München 1978).

 人間は地水火風という自然の構成要素と異ならないものにより形成されていることは最も基礎的なこととして共約的に確認できることである。そのことは三十数億年の生命の進化の過程を経ての人類の誕生という理解にも道を備えることになるが、進化の問題をここで論じることはできない(『信の哲学』第二章一節四参照)。ここで確認すべきことは、なによりも、人間の構成要素に関するこの最も基礎的な事態が含意することとして、現代科学が対象とする人間と聖書の伝統のなかで新約の使徒パウロがナザレのイエスの生涯に基づき解明しようとする人間は少なくとも同一の質料的な基礎を持つということである。パウロは旧約以来の伝統のなかで、「最初の人間アダムは生きる魂となった、最後のアダムは生命を造る霊となった」(1Cor.15:45)と語り、生物的な生命原理として「魂」を提示し、またその延長線上に最後のアダムとしてのキリストをさらなる新たな永遠の生命の原理となる「霊」として提示している。

人間の心身の構成原理について確認する。伝統的に「魂(phsuchē)」が生命原理として最も基礎的なものとして位置づけられる。そのうえに「心(kardia)」に内属する感情や思考、信念等の心的事象が生起しさらには「内なる人間」と呼ばれる心の底に内属する霊的事象が出現する(Rom.7:24,2Cor.4:16)。パウロにおいては「人間」は「最初の人間」とその生物的な死を介して「第二の人間」双方から成り立つと想定されている。第一の人間は「魂的身体」を持ち、第二の人間は「霊的身体」を持つ。第一の人間アダムは「土に基づき土製の」組成を持ち「生きる魂」となった。第二の人間は「天から」の者であり、「終局のアダム」と呼ばれるキリストが「生命を造る霊」となったことに基礎づけられる(1Cor.15:44-48)。

 この事態は神話的には鼻に吹き込まれた「生命の息」と呼ばれる人間の魂体に関し、生物的な生命に関しては現代科学の知見は日進月歩であるが、現代科学がまだ解明できていないことがらを或いは異なる仕方で表現していることがらをパウロはすでに把握している可能性を否定しない。パウロは「霊(pneuma)」をその心身、魂体を統一する最も基礎的な要素として提示している。聖霊を受けたか否かについて、新約は帰結主義をとっており、愛の実践や平安、喜びの果実を得ているとき、即ち人格的成長が確認されるとき、その証があると主張される(Luk.7:44,Gal.5:22)。信が聖霊を受動する心魂の根源的部位において生起する限り、つまり正しい信である限り、真偽の知識に関わる理性の逸脱である狂信からも、心魂の人格的徳(善悪)に関わる身体的なパトス(受動的情念)の逸脱、過剰(例、恐怖)である迷信からも自由とされ、賢者となり聖者となるからである。

 アダムの存在論的な身分はいかなるものか。土製の自然に還元できるのか。神が土製のものに息を吹き込んで「生きる魂」となった以上、人間は実質的には霊的なものにより形成されている。しかし、聖霊が改めて注がれることは多くの箇所で語られている以上、この創造の息吹は聖霊を意味してはいない。生命原理としての魂のことが語られていることは明らかであり、その息吹は続いて与えられるでもあろう聖霊の注ぎを受けとる部位、「内なる人間」として理解することができる。少なくとも、単に土だけによって造られているわけではないので、何らかの神的行為に対応しうるもの、反応しうる部位が内在していると理解すべきである。

 実際、次のようにも言われている。「魂的人間は神の霊のことがらを受け取らない。というのも彼には愚かでありそして知ることができないからである、といのもそれは霊的に吟味されるからである。霊的な者はすべてを吟味するが、彼自身は誰によっても吟味されない」(1Cor.2:14)。霊的な人間は最も包括的に人間であることを把握した者であり、人間は肉の魂的な生命に還元されないことを知っている。注(生命と魂そして永遠の生命につらなる霊について即ち聖書が展開する心身論について、より詳しい議論は『信の哲学』第四章パウロの心身論))。

 

2:2堕罪とその影響―「善悪を知る木」と「生命の木」―

 これらは誰もが持つ心魂の態勢、働きであると聖書は主張する。一方で、生命の誕生であれ長寿であれ、祝福は土から造られた自然的な心魂のうえに注がれる。創造は「はなはだ良かった」のである(Gen.1:31)。自然的なものは草木であれ動物であれ、自らの生命の力能の十全な発揮においてこそ自然であり本来的である。人類の始祖アダムとエヴァは祝福のもとにあり、人類の隆盛に向けて生殖も祝福されている。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(Gen.1:28)。もし罪がなければ、ひとの人生はすべて自然のままに祝福されたものであったであろう。

 神はエデンの園の中央には「生命の木」と「善悪の知識の木」を生えいでさせた。最初のひとは園の木の実を自由に食することが許されていたが、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ」と警告されていた(Gen.2:17)。彼らは「神の如くになる」(3:4)という蛇の誘惑に負けて、この木の実を食した。すると目が開け裸であることを恥じた。ルターは「罪とはおのれの内側に曲がってしまった心である」と言う。彼らは神から自律した行為主体として善悪を判断して生きる道を選んだ。ひとは「啓蒙」と呼ぶでもあろうが、神の視点から言えば、従順の中での善悪の識別を介しての道徳的鍛錬は嘉みされたであろうが、神から離れての啓蒙は背きであり罪であった。神は「塵にすぎないお前は塵に帰る」という仕方で自然的な生物的死を生命維持の労役とともに罰として与えた(3:19)。

 楽園追放の理由は彼らが「生命の木」からも取って食べ「永遠に生きる者」となる恐れがあったからである(3:23)。これは時満ちて御子の派遣を介して永遠の生命が与えられる、そのような歴史を踏まえることなしに、永遠の生命を一気に獲得することが問題視されている。なぜ人類には初めから永生が明らかな仕方で与えられなかったかが説明されねばならない。

 ひとは道徳的となる力能および永遠の生命に与る主体となる力能をその創造において所有していた。少なくともそれらが然るべきときに神から与えられたさいには、それらの実を食し消化するする力能を備えていた。エデンの園から追い出せば、盗まれ食されることがなくなるという想定のもとに彼らは園を追放されたのであるから、それ以前も以後も彼らが食する力能を失ったわけではない。とはいえ、時が満ちたなら善悪の木のみならず、生命の木を食することが許されていたかもしれないが、最初の人間には許されなかった。

 人類はその後もこの力能を所持していると看做すべきことは一つの民族の展開のなかで、預言の成就として永遠の生命を担った御子の復活が生起したことから確認される。堕罪後人類の歴史は自然的制約というこの与件のもとで、神への背きと死の乗り越えを課題として引き受けることになる。生物的死が単に自然事象であり神への背きの罰であるという認識の欠如こそ神への背きを示しており、悔い改め立ち帰りがその都度求められている。それが原罪の持つ波及範囲の最も確かな理解である。(註 カトリックとプロテスタントにおいて最初の人間の腐敗はどれほど著しいかの論争がある(『信の哲学』第八章、九章第二節一)。カトリック教会は4世紀ヒエロニムスによりラテン語に翻訳されて以来聖典とされたVulgata版を1970年のNova Vulgataにおいてアダムの原罪が血を介して遺伝的に伝わるという遺伝罪という考えの典拠とされることもあった箇所(「ローマ書」5:12)の翻訳を修正している。罪は神の前の概念であって自然的な概念ではなく、罪の遺伝子が子孫に伝達されるという類の議論はなされえない(『信の哲学』第三章)。遺伝罪という理解は既に克服されたとして、人類はすべて神の前に罪を犯したと理解されている。アダム以来、ひとびとはずっとアダムを「模倣」(ペラギウス)してきたと理解される。或いは、「模倣」という言い方が躓きを与えるとすれば、神の前に一度は嘉みされなかった者として振る舞ってきたことになる)。

 

3神が生死を支配する

 ―旧約における確かなものごとと知らされざるものごと―

 生物的死はこのように聖書において罪の罰であるという基礎理解のもとに、旧約における来世、永遠の生命の希求の記録の欠如についていかなるものとして理解しうるか考察したい。旧約人はアブラハムの信とモーセ律法により鍛えられることとなる。彼らの歴史における神の意志の明確な知らしめは信仰に基づき義とされたアブラハムへの子孫の繁栄の約束と信仰に基づきエジプト脱出を導いたモーセへの十戒に見られる。この恩恵に絶えず立ち返ることは彼らのあらゆる神との関わりの規準、礎石となった。旧約の義人の系譜が信仰に基づくものであったことは「ヘブライ書」で旧約人14人の言及のもとに記録されている(11:1~40)。

 モーセは神の命に従い、ヘブライ人をエジプトから導きだし、神の山ホレブにおいて神から律法(十戒)を啓示された。「汝はわたしをおいて他に神があってはならない。・・わたしは主、汝の神。わたしは嫉む神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。・・汝の神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかない」(Exod.20:4-7)。

 生命と死は神の祝福と呪いの関連におかれる。「わたし[モーセ]は今日生命と幸い、死と災いを汝の前に置く。・・汝の神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法とを守るならば、汝は生命を得、かつ増える。・・もし汝が心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるなら、・・汝らは必ず滅びる」(Deut.30:15-18)。モーセは偶像崇拝に陥った民を一日で三千人処刑して、神の言葉を伝達した。「わたし[神]に罪を犯した者は誰でもわたしの書から消し去る。・・わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する」(32:28,33-34)。

 神が唯一であり他のいかなる神をも拝するなという唯一神の顕現とその神の名をみだりに唱えるなという戒めはイスラエル民族の思考と行動を支配した。神になずむことへの禁止は神への畏れのなかで死後への勝手な思弁や要求をブロックする。さらに口寄せや霊媒を通じての死者との交流の禁止は神から知らされていない事柄に対する思弁や希求の禁欲を強いている(Deut.18:11,Lev.19:31、20:6、20:27、2Ki.21:6、23:24、2Chr.33:6、Isa.8:19、19:4)。

 彼らの思考の枠はアブラハムの約束の成就への信とモーセ十戒の遵守による祝福と懲罰のもとに定められた。それはちょうど厳格な親の訓育のもと真面目で規範意識の高い子供が育つことと類比的である。パウロによれば、厳格な律法主義者には「誇り」が残り信に至らない可能性が指摘されている(Rom.3:27)。それでも、どのような養育環境にあっても人間が人間である限り共通する心魂の働きである感情や憧れ、思考そして信念を抱いている或いは何らかの心魂の法則性のもとに心的事象は生起すると想定することは道理ある。

 ここで旧約における死生観をめぐって彼らの特徴的な理解を幾つか挙げる。(a)生と死一切が神の支配のもとにある。預言者エゼキエルはバビロン捕囚のただなかで神の言葉を取次ぐ、「すべての生命はわたし[神]のものである。父の生命も子の生命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その者は死ぬ」(Ezek.18:3)。エレミヤはバビロン王ネブカドレツァルの侵攻を預言し神の言葉を取次ぐ。「見よ、わたしは汝らの前に生命の道と死の道を置く。この都に留まる者は戦いと飢饉と疫病によって死ぬ」(Jer.21:8)。生死は神に属するものである。「何ごとにも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時がある」(Eccl.3:1-2)。

 (b)神は生物的死や洪水、隕石の落下そして疫病など自然的事象を介して自らの意志とりわけ懲罰を知らしめる。(c)アブラハムは彼の子孫の繁栄に対する神の約束を信じ、それにより神と正しい関係にはいった。旧約においても信仰義認の系譜がその民族に対する神の祝福、肯定的な交わりの源泉である。(d)神を信じ畏れモーセ律法を遵守する者には祝福が与えられる。永遠の生命希求の代替として、指導者たちに見られる長寿とその祝福は定型句「眠りについた」により表現されている。(e)祝福と懲罰の前提として、ひとは誰もが自らの責任ある自由のもとに生きており、神に背くことも立ち帰ることもできる。ただし、楽園追放の与件のもとで立ち帰りが常に必須事項となる。

 ここでは(b)自然事象が神の意志を媒介するその擬人化、自然化について考察する。例えば、人類の悪の蔓延りに対する神の怒りがノアの洪水を引き起こしたと報告されている。「神はひとを創造したことを後悔し、心を痛めた」(Gen.6:6)。神はノアの家族を生き延びるように箱舟の建造を命じるが、そのとき「すべて肉なる者を終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らの故に不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(6:13)。

 またソドムとゴモラの町がその悪に対する神の怒りのもと硫黄の火により滅ぼされたと報告されている。この「硫黄の火」は近年の考古学的研究により紀元前1650年頃死海近辺のヨルダン川東岸における隕石の落下であることが判明しつつある。ソドムについて神は三人の使いを介してアブラハムに告げた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びがとても大きい」(Gen.18:20)。彼は神に願い、五十人の義人がいたとしても滅ぼすのかとソドムの都のために執成す。彼は義人の存在を十人まで値切り、神から「その十人のために滅ぼさない」との応答を得ることができた。しかし、ソドムにはそれだけの義人を見出しえなかった。

 ダビデの時代にイスラエルにおいて北の端であるダンから南の端であるベエルシェバまで疫病がもたらされ七万人が死んだと報告されている(2Sam.24:15)。「御使いはその手をエルサレムに伸ばして滅ぼそうとしたが、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言った、「もう十分だ、その手を下ろせ」」(24:16)。

 この物語や義人の値切りにみられるように、旧約において神は擬人化されており、意見を変え得るものとして宇宙の栄光を捨てた人間的な神として描かれている。しかし、新約の視点から言えば、これらは真の媒介者キリストを知らない者たちへの神の憐みの表現として理解される。宇宙の栄光である神は自らが理解されるべく、自然事象を介して人間と関わる。このように旧約においては神についての普遍的な理論化は遂行されることはなく個々の神とひとの今・ここの人間的な交わりが記録されている。かくして、旧約の神は神とひととのあいだを分けない仕方でその都度の今・ここにおいて関わる「エルゴン(働き)の神」と特徴づけられよう。

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秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(9)―旧約における媒介者の不在―

秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(9)―旧約における媒介者の不在― 

2021年11月21日

 

聖書箇所 ルカ24:1-38 (新共同訳)

  そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。 

 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 この一切の出来事について話し合っていた。 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

  イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 

 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

 

 7.1 はじめに―旧約から新約への飛躍(復習)―

 旧約聖書から新約聖書への飛躍は著しい。これはあたかも洞窟の闇の世界にいて手探りで行く手を探していた者が外に出て光輝くガリラヤの丘で春のおだやかで清新な風を身に受けるそのような情景への転換である。旧約と新約のあいだにはイエス・キリストの出来事が生起した。このコントラストを八回にわたる連続講義で確認してきた。

 この秋このキーパーソンを介して劇的な変化を遂げた人類の生と死の理解を学んできた。最初の人間の神に対する背き以来、人類は常に反抗し、背くその事実が伝えられている。この悲惨のなかで、神はモーセを介して律法を与え人類を正しい方向に導こうとしたことが報告されている。同一の人類の歴史はイスラエルを選んだ神の眼を通して理解するとき、生物的死は審判となり長寿や民族の繁栄は祝福となるが、それは神への立ち帰りのもとでの祝福こそイスラエルの民の目指すものとなった。道徳的規準により歴史を導く神の祝福と罰は勧善懲悪とも言える単純なものである。他方、イスラエルの祝福の系譜を支えるものは彼らの信仰であった(秋の連続講義(6)10月31日参照)。アブラハムは神の約束のもとに苦難の末に与えられたイサクを捧げる、そこに見られる生の一切を神への信のもとに遂行するその根源的態度が祝福された。モーセの「業の律法」とアブラハムの「信の律法」の関係づけこそ、この民の追い求めるものとなった。また課題であった。

 彼らは律法と約束への信のもとに歩んだが著しい制約のなかに置かれた。旧約の神はとても人間的である。なぜなら御子の受肉による神とひとの媒介者が不在であったからである。人間にもわかるように、神が嘉みする人としての在り方、道徳を教えた。宇宙の創造者にして栄光である神は時間的な制約を受けているかの如くに寛容や忍耐そして後悔等人間的な心の動きを共にする者として描かれることを許容している。さもなければ、選びの民イスラエルは神の意志や嘉みを理解できなかったからである。旧約人は自らの生存と繁栄、民族の繁栄を神に求めた。彼らは自らの永遠の生命を恰も当然の所有物であるかの如くに振る舞うことは、決してできず、嘆願することさえほとんどなかった。ひとの本来的な願いは時代を超えて同じであり、新約から見れば神の計画も罪と死の乗り越えである以上、預言者や詩人は時折、永遠の生命の預言と希求を記録してはいた。旧約人はそのつどそのつど恩恵を受けて感謝と賛美を捧げたが、基本的に自らの外に救いが、永遠の生命の在り処が明確に知らされてはいなかったため、心魂の内面の探索、表白そして希求に時を費やさざるをえない運命にあった。

 旧約人は死後を顧慮することは禁じられていた。あの世と交流をはかる霊媒や口寄せはその存在を認められず忌避された。換言すれば、彼らは死後についての神の意志について明白には知らず、自信がなかったのである。新約では生も死も天も深淵もイエス・キリストの出来事との関連で理解されるにいたる(Rom.10:5-13)。

 さらに旧約人はペンテコステのように神からの聖霊による平安と喜びのなかで共同に一体感を持つことを経験させられることはなかった。彼らの外に御子を介して明白に啓示された共通の知識を共有することはできなかった。シナゴーグではモーセ五書や預言書、詩篇等が朗読された。過ぎ越しや仮庵の祭りなどにおけるトーラー(律法)を与えられたことの喜びや賛美はあったが、「キリストの叡知」(1Cor.2:16)に基づき神の意志を知り共有することも、集会全体における聖霊の注ぎによるキリストに連なる有機的な交わりにおける平安と聖化を経験することもなかった。詩人のごとくに基本的に一人で神に賛美と栄光を帰しつつ、憐みを求め、虐げる者からの解放を願い、自らの救いを求める、そのような暗中模索の日々であらざるをえなかった。そこには当然神の憐みに具体的に触れ、喜びと賛美を捧げることがあったことは決して否定されない。

 これらは新約の視点から見た旧約人の特徴づけである。もし御子の派遣がなかったなら、人類はずっと擬人的な神と個々人の生のアップアンドダウンのなかで呼びかけを続けねばならなかったであろう。我等の外に明確にわれらと人類全体の救いが明らかに建てられたという主張は決して為されないままであったであろう。この状況は新たに知らされたものから、それまで知らされていなかったものどもを確認する営みである。そして、それまでの自らの無知に衝撃を覚えるとともに、どんな暗き世界を生きて来たかを確認することとなる。それはあたかも日本が明治期以来哲学を輸入して、或る大学では最初にはいったドイツ観念論やマルクス主義そして実存主義のみが哲学として講じられていた時代に類比的である。それしか知らされなければ哲学とはそのようなものだと思い込まざるをえなかったが、ヨーロッパには他にも豊かでより健全な思考の営みがあったのである。われらは新しいものとの出会いなしには、これが人生であるという思い込みのなかで生涯を過ごすことになるであろう。探求が求められるゆえんである。「探せ、探せば見つかる」。

 旧約においては今・ここで生きて働いておられる神への具体的な呼びかけは見いだされるが、自分たちの永遠の生命への希求は憚られていた。来世と取り次ぐ口寄せや霊媒は禁じられた。民族神ヤハウェへの忠誠のなかで他の神々への崇拝は厳しく咎められた。この現実世界のただなかで、神と正しい関係を結ぶべく、憐みと祝福を求めまた虐げる者からの解放を求めた。いきおい、メシヤ(救世主)を求めその出現を待つこと、それが民族の歴史であり、制約であり限界となった。メシヤが旧約の預言者たちに預言された。そのメシヤは神に背く者たちの罪の苦難を担い死においやられ、三日のあいだ死者たちのなかにいたが、復活することが預言されていた。

 

7.3 イエスはご自身を旧約の預言の成就と看做した

 イエスはこの預言を「神の言葉は失墜しない」という信のもとにご自身への預言と受け止め死を引き受けた(Rom.9:6, Mat.1:21-23,3:3,4:15,12:18,21:5,26:63)。これらの預言はナザレのイエスにおいて成就されたと言うことができよう。

 パウロによれば、イエスは自然的な肉の底に「内なる人」と呼ばれる神の霊に反応する「霊」と神の意志について霊的な接触を伴う知識である「叡知」と呼ばれる認知機能を持ち、叡知がその都度働いていた。旧約聖書の引用は自らの叡知の発動(エルゴン)の確認(ロゴス)として用いたと思われる。旧約の引用の報告はそのような認知機能をもちがたい律法学者や民衆に対する説得の言葉であると捉えることができる。ただし、イエスご自身肉の弱さを抱えていたがゆえに、十字架上で極度の苦痛のなかで「キリストの叡知」が一時的に発動しなかったことがあったかもしれない(Mat.27:46,2Cor.2:16,cf.Rom.11:33-34)。

 神の計画はこの民を恩恵の注ぎと懲らしめの訓練のもとで罪の克服に向かわせるものであった。そこでは永遠の生命を約束する時はまだ満ちていなかったのだと思われる。しかし、此岸性が彼岸性にとってかわられたわけではない。生と死を分断しない神とひととの動的な関わりが記録されていった。待望も今・ここで神に呼びかけることに他ならない。

この前歴史のもとでイエスは喜び喜べという天における報いを望みつつ、この世界を雄々しく耐え生き抜く力を提示している(Mat.ch.5山上の説教)。生と死は神に属するものつまり神の裁量のもとにあるという考えは旧約においても揺るがないが、新約聖書が記すように神はナザレのイエスにおいて顕現しているなら、人類はやはり他に何を必要とするであろうか。死も生も、天国も地獄もキリストを介して最も明確な仕方で知らされている。「神はご自身の独り子を賜うほどに世界を愛した。それはご自身を信じる者がすべて滅びず、永遠の生命を持つためである。というのは、神が世界に御子を派遣したのは世界を審判するためではなく、世界が御子ご自身を介して救われるためだからである」(John.3:16-18)。

 このように、ナザレのイエスへの探求は人生にとって避けては通れないものとなるであろう。自然的な人間には理解できない、また同じ一人の人間による甦りが人類の歴史において生起したということは自らのうちに自分に知らされてはいない力能が宿っているかも知れないことを告げ知らせるからである。

 イエスは苦難の僕に見られるように旧約聖書が自らについて証するものであるという信のうちに自らの生を通じて福音を言葉と働きにおいてリアルタイムに実現していった。彼はエマオの道の途上にて復活の主として弟子たちに「[旧約]聖書全体(en pasais tais graphais)」が自らについて書かれたものであることを説明した(Luk.24:27)。ルカは復活の主イエスによる弟子たちへの言葉をこう報告している。「わたしがまだ汝らとともにいるときに、汝らに語ったわが言葉はこうである。「モーセの律法においてそして預言者たちにおいてまた詩篇においてわたしについて書かれているものごとはすべて成就されねばならない」(24:44)。そのとき復活の主は書を理解させるべく随伴する弟子たちの叡知を開き示した。そして彼は彼らに言った、「こう書かれている、キリストは苦しみを受けそして三日目に死者たちから甦らされ、ご自身の御名のうえにすべての民族に罪の赦しへの悔い改めが宣教される。それらはエルサレムから始められるが、汝らはそのことどもの証人である。そしてわたしは汝らのうえにわが父の約束を送る。汝らは至高の場からの力に覆われるまでポリス(都市)に留まっていよ」(24:45-49)。弟子たちはエマオへの途上のこの出来事を「われらの心うちに燃えしならずや」と回想している(24:32)。

(録音されている実際の講義はここまで)。

 

7.4 イエスの復活が信仰を引き起こすとパウロは論じる。

 

 イエスは自身の受難の後に生じる未来のことであるという理由により、復活は自らの復活をも含め信仰箇条であるが、それは神の力ある働きの証言である聖書において預言されており、その預言の知識に基づく信念であった。「汝らは[旧約]聖書と神の力能を知らないから、彷徨っている。というのも、復活においては、人々は娶りも嫁ぎもしない、そうではなく天においては天使のようにあるからである。しかし死者たちの復活をめぐって、神が語ることによって、汝らに語られているものを読まなかったのか、「わたしはアブラハムの神である、またイサクの神そしてヤコブの神である」と。神は死者たちのではなく、生きている者たちの神である」(Mat.22:29-32,Exod.3:6)。

 パウロはこう語るナザレのイエスこそ聖書において預言された神の力能の顕われである復活の主メシア(救世主)であると宣教する。福音は「聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかからの甦りに基づき神の子と判別された」その方についてのものである(Rom.1:4)。神の力能はひとを救いだす御子の甦りに至るまでの力溢れる働きにおいて確認される。

 所謂「奇跡」における憐みのロゴスとエルゴン、言葉と働きの展開についてイエスとパウロのおかれた状況は異なる。イエスは十字架への途上の生を信によってリアルタイムに福音を生き抜いた。福音書記者たちはそれを伝記として伝えているが、もし彼が十字架から降りてきてしまったなら、父なる神に喜ばれず、ご自身が信に基づき義である方であることの啓示の媒介として用いられなかったそのような今・ここをナザレのイエスは生きていた。

 パウロにおいては父なる神の専決行為である埋葬されたイエスの甦らしはそれを信じる者を義とするためのものであると特徴づけることができた。「彼はわれらの背きの故に死に引き渡され、われらの義とすることの故に甦らされた」(Rom.4:25)。イエスの復活が救いをもたらす神の力能の福音への信仰を引き起こし、信に基づく義を実現させると特徴づけられた。復活は神ご自身のイエスの生涯が自らの意図を十全に遂行したことそしてそれ故に彼の生涯が罪に対する勝利であることを知らしめるものであると、パウロは受け止めることができた。

 神は身代わりの罪を罪なきイエスに罪なきままに担わせた。そのことによって、古き罪人はキリストの死に共に飲み込まれ死んでしまった。しかし、それはその死が生命に飲み込まれるためである。「われらはこのテント[身体]のなかにいるあいだ、われらは重荷を担いつつ呻いているが、彼にあってわれらは脱がされることを欲しているのではなく、[身体の]上に着ることを欲している、それは死すべきものが生命によって飲みこまれるためである」(2Cor.5:4)。われらは重荷に喘ぐ身体を脱ぐのではなく、キリストが担ったのはその身体の重荷であり、彼はその肉のうえに生命を担ったからこそ、身体は光栄あるものとなりその身体に帰属する死は生に飲み込まれる。彼は甦りにおいてご自身の身代わりの死が罪人たちのためであることをさらには永遠の生命を証した。われらの罪は御子の十字架において贖われ赦されてしまっている。御子が受肉した限りにおいて、この弱き肉に喘ぐわれらは甦りを介して神の栄光と化す。

 キリストの復活はこの歴史的前提のもとでの永遠の生命の証、罪に対する勝利の証であり、信じる者の罪を赦し、義とするものである。かくして、復活はイエスを神の子と信じる者を義とし永遠の生命に導くことへのその信仰を引き起こすものである。

 

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秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(8)―旧約におけるキリストとその復活の預言

 秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(8)―旧約におけるキリストとその復活の預言 

日曜聖書講義 2021年11月14日

 

聖書箇所 エゼキエル書37章1-10節

 「主の手がわたしの上に臨(のぞ)んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」。わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。

 そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」。

 わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨が近づいた。わたしが見ていると、実よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」。わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」(Ezek.37:1-10)。

 

7.1 はじめに(復習をかねて)旧約の制約と新約への方向付け 

 ここまで、旧約聖書と新約聖書二つの文書の連続性と飛躍を見てきた。楽園を追放されたアダムの末たちが報告されている旧約聖書には、著しい特徴として「永遠の生命」に対する記述を見出すことができない。せいぜい、祝福のもとでの長寿と民族の隆盛を期待することができるだけであった。モーセが神の命に従い、ヘブライ人をエジプトから導きだし、ホレブ山において神とまみえたとき、神から律法(十戒)を啓示された。「汝はわたしをおいて他に神があってはならない。・・わたしは主、汝の神。わたしは嫉む神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(Exod.20:4-5)。この民族はモーセを介して与えられた神の律法を規準にして、選ばれた民として、神への畏れのなかで律法遵守の道を1千年以上にわたって歩み続けた。彼らは著しい制約のなかで、あからさまにまた喜びを伴い永遠の生命をいただく希望のうちに生きることができなかった。神から離れた自立的な者として善悪を判断しつつ生きる限りにおいて、彼らは常に罪にからみとられる歴史をすごしてきた。預言者たちがそのつど民に悔い改めと立ち帰りを訴えた。

 この神の民イスラエルの歴史をつづった旧約聖書と新約聖書を分けるものは著者たちがイエス・キリストを知っていたか否かである。キリストを知らない著者たちは信に基づく正義と愛の両立としての十字架上の罪の贖いを、さらには復活、甦りを知らされてはいない。彼らは著しい制約のなかで民族の歩むべき道をモーセ律法にたよりながら、いわば手探りで神に直接その顕現を願いつつ嘆願のうちに歩んだ。新約の記者たちは旧約を引用する際に御子の出来事への預言或いは裏付けとして捉え直している。それにより旧約は新約をめざすものとして位置づけられる。新約から彼らの制約はこう語られていた。

 「キリストの奥義は、今、彼[キリスト]の聖なる使徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人の子たちには知らされてはいなかった。それ[奥義]は異邦人たちも福音を介してキリスト・イエスにある約束の共同相続人にして共同の身体そして共同の所有者であるということである。わたしは神の恵みの贈りものに即してこの福音に仕える者となったのであり、それは[神]ご自身の力能の働きに即してわたしに与えられたものである」(Ephes.3:4-7)。恩恵は異邦人にも与えられるべきはずのものであったが、ユダヤ人はほとんどその思いにいたらなかった。

 「ヘブライ人への手紙」の著者は福音の媒介以前と以後をこう述べる。「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結されることがないためである」(Heb.11:39-40)。アブラハムに代表されるように、信仰義認、信に基づく正義は旧約においても働いていた。そしてそれが民族を統一するものであった。「信仰は望んでいるものごとの基礎に立つもの(hupostasis)であり、見ていないものごとの[見ずに留まることへの]反駁(elegkos)である。というのも信仰によって古への先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより諸時代が[先人たちのように]統一させられていることを、信仰により叡知において観取しており(pistei noūmen)、見ているものが現れないものども[神の言葉]に基づき生じたことを知るに至る」(Heb.11:1-3)。

 キリストの甦りはひとが甦りについて信仰を持つにいたり義とされるために生起したが、彼らには知らされてはいなかった。「その彼はわれらの逸脱故に引き渡され、そしてわれらの義化故に甦らされた」(Rom.4:25)。この人類の歴史の然るべきときに一度限り生じた復活を旧約人は知るにいたらなかった。彼らには永遠の生命を希望することはブロックされていた、或いは彼らの意識として躊躇されていたのであった。一つの人類の歴史の展開のなかで旧約人は新たに福音の啓示に向かう忍耐と待望の鍛錬の時代として位置づけられる。

 しかしながら、旧約においても救世主の預言そして復活の預言が時に与えられていた。ここではイエス・キリストを展開点とした二種類の文書における待望と成就の一直線の歴史において旧約から新約の連続性と飛躍の動的な歴史的展開の方向をメシヤ(救世主)預言において確認したい。新約の視点から見れば、旧約聖書において報告されているユダヤ民族の神の直接的、間接的交渉は、ユダヤ民族に救世主を待望させ、この民族のなかに御子の派遣への準備期間として位置付けられる。旧約の制約のなかで正しく生きてきたシメオンは赤子を見つけ、マリアから幼子イエスを抱き上げ言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いです、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です」(Luk.2:29-32)。

 

7.2メシヤ預言

 ここまで旧約聖書の歴史の途上性を確認してきた。彼らは知らされていることと知らされていないことのあいだで、その都度民族として生きた神との正しい関わりという一本の道を模索してきた。そのなかでユダヤ民族は一人の神に出会い、福音と新天新地の創造に至る信仰の一本道において預言者たちが遣わされ、時折、救世主を預言しまた幻を見ていた(Heb.11:1-40,Isa.ch.65-66,Zec.ch.14)。それが死後の世界に対する幻を垣間見ることともなった。生ける神の愛がイエス・キリストにあって明確に啓示され、知らしめられた限りにおいて、ひとびとは神とともにある永遠の生を希望することが許されるにいたる。そこで初めて明確なロゴス(理(ことわり)、理論)を得ると言ってもいい。このことは旧約人が死後の生への禁欲のなかで歴史の展開を介しての救い主への待望の強さを伝えている。

 ナザレのイエスの誕生と生涯を受けて記された新約聖書には、至るところに旧約の引用が見られるが、キリストの到来の預言として捉えられた。例えば、パウロはナザレのイエスが誰であり、人類にいかなるものをもたらしたかを体系的に明らかにした彼の神学的書簡「ローマ書」において旧約聖書を約60回引用しているが、すべて肯定的にイエス・キリストを証するものとして用いられている。マタイ福音書の著者マタイもイエスの生涯が旧約の預言の成就としてメシヤ(救い主)であることが描かれている(eg.Mat.2:15,17,23,5:18,8:17,12:17,15:7,21:4,22:42)。

 ここでは最初にエゼキエルとヨナの復活のヴィジョンを、続いてイザヤのメシヤ預言を確認する。エゼキエルは紀元前6世紀に、500年続いたダビデ王朝がバビロニア帝国に滅ぼされゼデキア王はじめ高官が捕囚の民となったときに、預言者として召命された。民族の死骸は谷に打ち捨てられて枯れた骨がうずたかく積まれていた。エゼキエルは捕囚の民が打ち捨てられ絶望のうちに「われらの骨は枯れた。われらの望みは消え失せ、滅びる」という声のなかで、終わりの日の救済のヴィジョンを見た(Ezek.37:11)。乾いた骨同士がカタカタと言う音を立てて近づき、「筋と肉が生じ、皮膚がそのうえを覆った」。続いて預言者は命じられるがままに言う、「霊よ、これらの殺されたものの上に吹き付けよ」。霊が吹き付けられて、枯れた骨は「生き返って」自ら立ち、大きな集団となっていった(37:1-10)。預言者は死者の復活の比喩を介して敵国の墓場にいる民族の再生のヴィジョンを語った。

 後にイエスに神の子であることの徴を求める者たちにこう言う、「悪しき背きの世代は徴を求める。預言者ヨナの徴を除いて徴はこの時代には与えられない」(Mat.12:38-42)。ヨナの物語はこうである。ヨナはニネべの町に罪の悔い改めを説くよう神に強いられるが、神の前を逃れて地の果てタルシシに向かうべく船に乗った。大きな嵐が起きた。船が難破しそうなのは神から逃走を計る自らのせいであるとして海に落とされたが、そうすると嵐はおさまった。彼は大魚に飲み込まれ三日三晩大魚の腹中の暗闇のなかで過ごした(Jona.2:1)。彼はこの話を用いて自ら死者のなかに三日三晩留まり復活することを預言した。イエスは言う、「ニネべの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネべの人々はヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここにヨナにまさる者がいる」(12:41)。イエスはヨナが好きでありヨナを自らの先駆と位置付ける。

 イザヤはメシヤを預言している。イエスはイザヤのインマヌーエール預言や苦難の僕の預言の成就であると認識している。「見よ、処女が身ごもりそして息子を産むであろうそして彼の名を「インマヌーエール(神われらとともに)」と呼ぶであろう。・・闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。・・ひとりのみどりごがわれらのために生まれた。ひとりの男の子がわれらに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国は権威を増し平和は絶えることがない。王国は正義と恩恵の業によって今もそしてとこしえに、立てられ支えられる」(Isa.7:14,8:1-6Mat.1:23)。旧約聖書の言葉が一つ一つイエスにおいて満たされていく(「生まれた」と過去形で表現されるのは「預言的過去」と呼ばれる)。

 イザヤは苦難の僕を介して死を乗り越え生命を与える救い主ナザレのイエスを預言する。「主よ、誰がわれらの伝聞を信じましたか。また主の御腕は誰に啓示されましたか。・・この人はわれらの罪を背負いそしてわれらのことで苦しめられており、われらもまた彼が苦しみ、神によって病のうちにありそして圧迫のうちにあると看做した。しかし、彼はわれらの罪の故に傷つけられたのでありそしてわれらの不法の故に病いを負わされたのであった。われらの平安の訓育(paideia eirēnēs hēmōn, cf. musar(ヘブライ語), discipline)が彼のうえにあり、われらはその傷によって癒された。

 われらはみな羊の如くさ迷い、ひとはおのが道に迷い込んだ。そして主はわれらのそれらの罪に彼を引き渡された。そして彼は苦しめられているということの故に口を開くことはない。彼は屠り場に引かれた羊のごとくに、毛を切る者の前に黙す子羊のごとくに、彼は口を開かない。その辱めにおいて彼への咎めはもくろまれた。誰が彼の世代を述べ伝えることになろうか、彼の生命はこの地から取り去られ、わが民の不法の数々から死へと運び去られたことを。「わたしは彼の埋葬の代わりに悪者たちを、そして彼の死の代わりに富者たちを与える。なぜなら彼は不法を為さなかったからである、彼の口に偽りは見いだされなかったからである」、そして主もまた彼を疫病から浄めることを望みたまう。もし汝らが罪に関して[自らを]捧げるなら、汝らの魂は長生きの子孫を見ることになるであろう。そして主はご自身の御手のなかで彼の魂のその苦しみを取り除くことを望みたまう、それは彼に光を示し、そして理解を形成し、多くの者に良く仕えたその正しい人を義とするためである」(Isa.53:1-12七十人訳に基づく)。

 この箇所はイエスによる罪の贖いの基礎テクストの一つである。苦難の僕は辱められ傷つけられ死へと運びさられた。ここで苦難の僕における同胞の罪の贖いの様式が問われる。僕についてイザヤは「われらの罪を背負い」また「主はわれらのそれらの罪に彼を引き渡された」さらには「われらの平安の訓育が彼のうえにあり」、「彼自身多くの者たちの罪を担いあげた、そして彼は彼らの不法の故に引き渡された」と報告している。これらのギリシャ語語彙はパウロを始め新約聖書に引き継がれている。

 「罪を背負う」、「担う」、「罪に引き渡される」という罪の贖いがイエスにおいてどのような様式において遂行されたかをここで論じることはできない(「愛の身代わりの力能」『方舟』61号2020参照)。注目すべきことは、ナザレのイエスはまったき人として肉の弱さを抱えていたが、「神の子の信」(Gal.2:20)のもとに、旧約聖書において報告される神の言葉を自らのことがらとして受け止め、それを忠実に実践したということである。(旧約)聖書を介した神の言葉は一人のひとが自らの生をそのもとに捧げるそれだけの真実と力能を持つものであった。

 

7.3 イエスはご自身を旧約の預言の成就と看做した

 イエスはこの預言を「神の言葉は失墜しない」という信のもとにご自身への預言と受け止め死を引き受けた(Rom.9:6, Mat.1:21-23,3:3,4:15,12:18,21:5,26:63)。これらの預言はナザレのイエスにおいて成就されたと言うことができよう。

 イエスは、パウロによれば自然的な肉の底に「内なる人」と呼ばれる神の霊に反応する「霊」と神の意志について霊的な接触を伴う知識である「叡知」と呼ばれる認知機能を持ち、叡知がその都度働いていたと思われる。旧約聖書の引用は自らの叡知の発動(エルゴン)の確認(ロゴス)として用いたと思われる。旧約の引用の報告はそのような認知機能をもちがたい律法学者や民衆に対する説得の言葉であると捉えることができる。ただし、イエスご自身肉の弱さを抱えていたがゆえに、十字架上で極度の苦痛のなかで「キリストの叡知」が一時的に発動しなかったことがあったかもしれない(Mat.27:46,2Cor.2:16,cf.Rom.11:33-34)。

 神の計画はこの民を恩恵の注ぎと懲らしめの訓練のもとで罪の克服に向かわせるものであった。そこでは永遠の生命を約束する時はまだ満ちていなかったのだと思われる。しかし、此岸性が彼岸性にとってかわられたわけではない。生と死を分断しない神とひととの動的な関わりが記録されていった。待望も今・ここで神に呼びかけることに他ならない。

 この前歴史のもとでイエスは喜び喜べという天における報いを望みつつ、この世界を雄々しく耐え生き抜く力を提示している(Mat.ch.5山上の説教)。生と死は神に属するものつまり神の裁量のもとにあるという考えは旧約においても揺るがないが、新約聖書が記すように神はナザレのイエスにおいて顕現しているなら、人類はやはり他に何を必要とするであろうか。死も生も、天国も地獄もキリストを介して最も明確な仕方で知らされている。「神はご自身の独り子を賜うほどに世界を愛した。それはご自身を信じる者がすべて滅びず、永遠の生命を持つためである。というのは、神が世界に御子を派遣したのは世界を審判するためではなく、世界が御子ご自身を介して救われるためだからである」(John.3:16-18)。

 このように、ナザレのイエスへの探求は人生にとって避けては通れないものとなるであろう。自然的な人間には理解できない、また同じ一人の人間による甦りが人類の歴史において生起したということは自らのうちに自分に知らされてはいない力能が宿っているかも知れないことを告げ知らせるからである。

 イエスは苦難の僕に見られるように旧約聖書が自らについて証するものであるという信のうちに自らの生を通じて福音を言葉と働きにおいてリアルタイムに実現していった。彼はエマオの道の途上にて復活の主として弟子たちに「[旧約]聖書全体(en pasais tais graphais)」が自らについて書かれたものであることを説明した(Luk.24:27)。ルカは復活の主イエスによる弟子たちへの言葉をこう報告している。「わたしがまだ汝らとともにいるときに、汝らに語ったわが言葉はこうである。「モーセの律法においてそして預言者たちにおいてまた詩篇においてわたしについて書かれているものごとはすべて成就されねばならない」(24:44)。そのとき復活の主は書を理解させるべく随伴する弟子たちの叡知を開き示した。そして彼は彼らに言った、「こう書かれている、キリストは苦しみを受けそして三日目に死者たちから甦らされ、ご自身の御名のうえにすべての民族に罪の赦しへの悔い改めが宣教される。それらはエルサレムから始められるが、汝らはそのことどもの証人である。そしてわたしは汝らのうえにわが父の約束を送る。汝らは至高の場からの力に覆われるまでポリス(都市)に留まっていよ」(24:45-49)。弟子たちはエマオへの途上のこの出来事を「われらの心うちに燃えしならずや」と回想している(24:32)。

 

 

 

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日曜聖書講義2021年11月7日

 聖書箇所「エペソ書」2章11-18、3章4-7節 

 「それ故にあなたがたは記憶しておきなさい。かつてあなたがたは肉において異邦人であり、所謂手による割礼者のもとでは「無割礼者」と呼ばれていました。当時あなたがたはキリストと関わりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神なき者たちでした。しかし、あなたがたは、以前は「遠く」離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血において「近い」者となったのです。

 というのも、キリストご自身が私たちの平和だからです、[イスラエルと異邦人]二つのものを一つにし、ご自身の肉において隔ての壁、敵意を解きほぐし、教えにおけるもろもろの戒めの律法を廃棄しました、それはキリストがご自身において敵意を滅ぼし、双方をご自身において一人の新しい人間に造り上げて平和を実現し、十字架を介して一つの身体において双方の者たちを神と和解させるためです。キリストはやって来られ、遠く離れたあなたがたに平和の福音を告げ知らせましたそして近い者たちにも平和を告げ知らせました。われら双方ともご自身を介して一つの霊において父に対して近づきを得ています」(エペソ書2:11-18)。

 「キリストの奥義は、今、彼の聖なる使徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人の子たちには知らされてはいなかった。それは異邦人たちも福音を介してキリスト・イエスにある約束の共同相続人にして共同の身体そして共同の所有者であるということである。わたしは神の恵みの贈りものに即してこの福音に仕える者となったのであり、それは[神]ご自身の力能の働きに即してわたしに与えられたものである」(エペソ書3:4-7)

 

6:1 旧約人も制約のなかで永遠の生命を求めていた

 旧約人は最初の人間アダムとその後の人類はアダムを模倣しつつの自らの背きのゆえに、著しい制約のもとに置かれている。彼らはモーセに啓示された神の意志、モーセ律法を規準に共同体の秩序ある形成に努めた。神の意志はその都度の指導者、王、預言者を介して伝えられ、モーセ五書や預言書のような文書は直接的に神と出会った者たち、啓示を受けた者たちの記録として整備されていった。多くの人々はそれを伝承として受け止めており、書物を読むということはなかった。

 その神との交わりを記録された文書によれば、預言者たちや王たちそしてヨブのような神に選ばれた顕著な人たちが単独で立ち上がり、神と関わり、周囲やユダヤ民族にその行く手を示した。基本的に単独者が孤独な歩みまた戦いを強いられており、主にある交わりを形成することはできなかった。この制約が救世主の待望を募らせている。

 最初の人間による神への背きのために、神にブロックされてしまって言挙げすることが憚られたこと、即ち彼らが心理的な抑圧を感じて表現しにくかったことがいくつかある。

 なによりも、詩篇には執り成しの祈りは見られない。一般に神に対するひとの執成し手はアブラハムのようにわずかである。なお、十戒の第三戒は「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかない」(Exod.20:7)に楽園を追放された者たちの姿を見ることができる。アダムは楽園において神と会話していたが、禁じられた善悪を知る木の実を食べ神から隠れたように、その後の人間はこの制約のなかで神と関わる。それでも詩篇に見られるように、詩人たちは神の憐みを直接求め、多くの場合この世界における正義の実現、罪の赦しに神の祝福を見ていた。旧約人には永遠の生命への願望を端的に言い表すことが、楽園喪失以来、神に阻まれているかのごとくである。

 とはいえ、人間が人間である限り、病や困難における絶望のうちにあるとき、光明を求めるように、究極的には救いを永遠の生命をもとめざるをえない。歴史の積み重ねから振り返れば、旧約人は永遠の生命を伝える新約をめざしていたに相違ない。旧約と新約の異なりと連続的展開の確認は神の経綸(計画、運営)を知るうえで重要である。ラートは旧約人における「永生への希望の明白な欠如」を指摘していた。しかしながら、旧約においても人々は自らの生の延長線上に何らかの希望を抱いていたことも指摘されるべきである。ヨブはいつの日か正しい神が塵の上に立ち贖ってくださることを神に訴える仕方で待ち望んだ。ヨブのように苦難を受けた多くの無名の義人たちも公平な審判の下される日を待ち望んだことであろう(cf.Gen.18:25,Ps.1:1-2,11:5,103:5,140:12-13,146:8,Isa.45:24,Jer.12:1)。(樋口進「旧約における正義」(『神戸教育短期大学研究紀要』第1号pp.24-35,2020)。

 また「永遠(オーラーム)」という概念は旧約においても何度か語られている(Hos.2:21,Jer.32:40,Ezek.43:7,Isa.60:21)。ホセアは神の言葉を取り次ぐ、「その日には・・わたしは汝と永遠の契約を結ぶ。わたしは汝と契約を結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ」(Hos.2:21)。イザヤは古き天地が巻き去られ新天新地を待ち望む。「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に永く続くように、汝らの子孫と汝らの名も永く続く」(Isa.66:22)。

 旧約の基本的な流れは神の御名をむやみに唱えず、神の沈黙に耐えることの覚悟であった。とはいえ、誰であれ苦しい時、助けをとりわけ神に求めることは自然なことである限り、聖書記者たちは神との今・ここのやり取りを記録することに傾注したと言うべきであろう。旧約人はヨブやイザヤのように神にまみえるという幸いな体験を与えられることを望んでいたに相違ない、ひそかにであれ待ち望んでいるものがあったに相違ない。しかし、それが神の隠れ或いは神から知らされていないことからくる抑圧であるとするなら、彼らに蓄積された待望のエネルギーはどれほどのものであったかが伺い知れる。

 「主は汝の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、生命を墓から贖いだしてくださる」(Ps.103:3-4)。「死の綱がわたしにからみつき、陰府(よみ)の脅威にさらされ苦しみと嘆きを前にして主の御名をわたしは呼ぶ。どうか主よ、わたしの魂をお救いください」(Ps.116:3-4)。その意味において、御子の受肉と受難と復活は彼らが憐みを求め、罪の赦しの救いを求めてきた真剣な人生の時が満ちたことを伝えていると捉えることができる。

 かくして、フォンラートの「此岸性」を別の言葉で言えば、或いはこの言葉で捉えきれない旧約聖書における神とひとの関わりを表現するものがあるとすれば、それは神の前とひとの前を分けない「今・ここの働き」、「具体性」或いはこれらを一括して「生身の人間と自らを憐みにより擬人化した神の今・ここの交わり」と表現し直すことができよう。ひとは各自の責任において神の意志である律法を遵守する。神はそれに対し祝福と懲罰を与える。神は憐みにより時に罰を思いとどまったり、軽くすることもある。この双方の働きのやり取りをこの語は表現している。生と死を分断しない神とひととの動的な関わりと言うこともできよう。待望も今・ここで神に呼びかけることに他ならない。

 旧約聖書におけるこれらの特徴は此岸と彼岸を分けない神の擬人化された働きとひとの働きの交渉という捉え方のほうがより適切であると思われる。知らされていないものごとの制約のなかで、単にこの世の生を義しく保つだけではなく、罪の贖いを求めて神に呼びかけて生きていたことは明らかだからである。この書においては、ひとの待望のもとでの呼びかけとともに、創造者にして一切を統帥しつつも隠されたところのある神がひとの一挙手一投足に関与したことがらについて集中的に報告されている。その意味において旧約に登場する神はご自身の正しさと憐みの双方を伝えるべく、あたかもひとであるかのごとく擬人化して表現されることを許容したと言うことができる。神は人類に対するご自身の計画のなかで、御子の派遣による救済に向けて、旧約人と擬人的な仕方で具体的に関わっていったと言うことができよう。

 

6:2 旧約人における媒介者による共同体形成の欠如

 旧約人は新約において知らされているキリストの一つの身体を形成するそのような共同体や教会の観念をもたなかった。C.H.マッキントッシュは言う、「個々の霊の救と教会を一の特別の存在として聖霊によりて組成する事とは全く別事である。・・旧約聖書にはどこにも教会の神秘について直接の啓示がない」(C.H.M著『創世記講義』p.16,18黒崎幸吉訳 一粒社版 1927)。「エペソ書」において使徒は言う。「キリストの奥義は、今彼の聖なる使徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人の子たちには知らされてはいなかった」(Ephes.3:4)。

 旧約人は新約のようにキリストの体としての秩序ある共同体、教会を持ってはいなかった。パウロは異邦人に向けて神の計画のもと今や旧約の人々と繋がり、一つの歴史を展開するとして言う、「それ故にあなたがたは記憶しておきなさい。かつてあなたがたは肉において異邦人であり、所謂手による割礼者のもとでは「無割礼者」と呼ばれていました。当時あなたがたはキリストと関わりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は「遠く」離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血において「近い」者となったのです。

 というのも、キリストご自身が私たちの平和だからです、[イスラエルと異邦人]二つのものを一つにし、ご自身の肉において隔ての壁、敵意を解きほぐし、教えにおけるもろもろの戒めの律法を廃棄しました、それはキリストがご自身において敵意を滅ぼし、双方をご自身において一人の新しい人間に造り上げて平和を実現し、十字架を介して一つの身体において双方の者たちを神と和解させるためである。キリストは来られ遠く離れたあなたがたに平和の福音を告げ知らせましたそして近い者たちにも平和を告げ知らせました。われら双方ともご自身を介して一つの霊において父に対して近づきを得ている」(エペソ書2:11-18)。

 「キリストの奥義は、今彼の聖なる使徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人の子たちには知らされてはいなかった。それは異邦人たちも福音を介してキリスト・イエスにある約束の[イスラエル人と共に神の国の]共同相続人にして共同おの身体そして共同の所有者であるということである。わたしは神の恵みの贈りものに即してこの福音に仕える者となったのであり、それはご自身の力能の働きに即してわたしに与えられたものである」(エペソ書3:4-7)。

 旧約と新約を媒介する方なしには、イスラエル人は異邦人と何ら障壁を取り除く術(すべ)を持たなかった。預言者たちやヨブのような傑出した個々人の働きが記録されそしてその促しのもとでの民族の歩むべき方向が指し示されてはいるが、共同体全体の形成にいたる力に乏しかった。個人の救済は記録されても、全人類の救済に向けられた福音が福音として明確に立つことはなかった。

 イザヤは神からのメッセージをこう伝える。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわたしに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。異なる想いと異なるはるかに高い道を歩みたまう神の知恵に合わせられるとき、良心の宥めが共知として生起する。旧約人は民族の選民思想へのこだわりのなかで良心の宥めをひそかに求めていたに相違ない。

 

6:3 イエスの憐みによる旧約の制約の突破

 イエスご自身、旧約の制約のなかで一歩一歩福音を実現していった。或るとき、カナン地方の女性が自分の娘を癒していただきたく「主よ、わたしを憐みたまえ」と懇願すると、イエスは「わたしはイスラエルの失われた羊にしか遣わされなかった」と応答した。そのときイエスはユダヤ人として旧約の伝統のなかに自ら自己規制していたことを明らかにしている(Mat.15:21-28)。しかし新しい葡萄酒は新しい革袋にいれなければ、破れてしまう。旧約の古い革袋のなかで彼は活動したが、あまりの福音、あまりの生命の故に、旧約は内側から破られてしまったのである。イエスが「子供たちのパンを取り上げそして犬に投げ与えることは良くない」と言うと、その女性は「主よ、そのとおりです、というのも子犬たちは主人たちのテーブルから落ちるパン屑を食べるからです」と言った。そのとき、イエスは彼女に応えた、「ああ女の方よ、汝の信仰は大いなるものである。汝が望むようにことが成るように」。そしてそのとき彼女の娘は癒されたのであった。旧約のただなかにモーセ律法を極性化、純化するそのただなかで、彼の憐みが迸りでる。信に基づく正義と正義の果実の一例がここで生まれた。彼の一言一句、一挙手一投足は旧約の制約のなかで信に基づく正義と信義の果実としての憐み、愛の双方の実現に向けられていたのである。

 そしてそれが異邦人をも含む全人類の救済に向けられている。旧約の制約を知れば、知るほど、そのコントラストとしてのイエスの言葉と働きはあらゆる障壁を打ち破り、人類を一つの共同体として作りあげていく力を与える。

 

6:4 人々を一つにするキリストの甦り

 人々が信仰によってしか突破できず、それによってしか力を得ることがないものがキリストの信の従順の生涯に与えられた正義の果実としての甦りであった。パウロは天国も黄泉(よみ)もキリストへの言及なしには理解できないことがらであるとして、信仰による突破をこう語る。「キリストが信じるすべての者にとって義に至る律法の目指すものである。というのも、モーセは律法に基づく義をこう記しているからである、「それらを為した者はそれらによって生きるであろう」、だが、信に基づく義はこう言うからである、「汝は汝の心のなかで、「誰が[義を求めて遥か]天に昇るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを引き降ろすことである、あるいは「誰が[義を求めて遥か]黄泉に降るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを死者たちのなかから引き上げることである。しかし、彼[モーセ]は何と言っているか、「言葉は汝の近くにある、汝の口のなかにそして汝の心のなかにある」、これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である。すなわち、もし汝が汝の口において主イエスを告白し、そして汝の心のうちに神が彼を死者たちから甦らせたと信じるなら、汝は救われるであろう。というのも、主イエスが心によって信じられるのは義のためであり、口で告白されるのは救いのためだからである」(Rom.10:5-10)。

 心の中での信仰を固く保持するためには公にそれを告白し社会の認知の中での自覚を必要としている。それほど復活は信仰による乗り越えと公的な表明を必要とするそのような理解に困難を伴うものだからである。パウロは知の都アテネのアレオパゴスで彼らが知らずに拝んでいる「知られざる神」を教えようと宣教にとりくみ、死者の復活について語り始めると、「われらはこのことについてはまたあなたから聞こう」と言って去っていった(Act.17:32)。アテネのことではない、エルサレムにおいてさえ使徒たちへの女性たちによる復活の第一報に対して「これらの言葉は彼らにはあたかも戯言(たわごと)に思えたそして彼女たちを信じなかった」と報告されている(Luk.24:11)。肉のイエスから予告されていたにもかかわらず、このような事情であった。だからこそ公的な告白は信じることできることそれだけで喜びであることを含意している。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13,cf.Gal.5:22-23)。聖霊による促しのなかでは「信じること」の対象への言及は必要とされない。既にそこにあるからである。

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秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(6)―「生命の木」からの追放下のもとでの信仰と背きに対する祝福と懲罰の蓄積の具体的な記録―

  秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(6)―「生命の木」からの追放下のもとでの信仰と背きに対する祝福と懲罰の蓄積の具体的な記録―

  (録音は自由に語られており、5.3.2までであるが、原稿としては5.3.3まで掲載する)

日曜聖書講義2021年10月31日

 

聖書朗読 「ヘブライ人への手紙」11章1~40節 (省略箇所あり 私訳)

 

「信仰は望んでいるものごとの基礎に立つもの(hupostasis)であり、見ていないものごとの[見ずに留まることへの]反駁(elegkos)である。というのも信仰によって古’(いにし)への先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより諸時代が[先人たちのように]統一させられていることを、信仰により叡知において観取しており(pistei noūmen)、見ているものが現れないものども[神の言葉]に基づき生じたことを知るに至る。

信仰によってアベルはカインに比し一層多くの捧げものをしたが、神ご自身がその贈りものを承認することによって、その信仰を介して正しい者であることが証された。アベルはその信仰を介して死んだが、彼は今なお語っている。「信仰によって、エノクは死を見ることなく[天に]移された、そして神が彼を移した故に彼は見つけられなかった。移される前に、彼が神に嘉みされていたことが証されていたからである。信仰によってノアはまだ見ていないものごとについて、神に警告されたとき、心に留めそして彼の家族を救うべく箱舟を建造したが、その信仰を介して彼は世界を審判した、そしてその信仰に即した義を介して受け継ぐ者となった。信仰によって、アブラハムは呼び出されると彼が受け継ぐことになる場所に出ていくべく従ったが、彼はどこに行くか知ることなしに出立した。信仰によって彼は、同じ契約の受け継ぎ手であるイサクとヤコブと共にあたかも他国に宿るように天幕(テント)で生活し、約束の地に滞在した。というのも彼は神がその設計者であり建設者でありたまう基礎を持つ都を待ち望んだからである。信仰によって不妊のサラも彼女自身、年齢上好機を過ぎていたが、懐妊に至る力能を獲得した、というのも彼女は約束した方が信実であると信じたからである。それ故にひとりの人しかも[老齢故に繁殖上]死んでしまった者から、天の星ほどのまた海辺の数えきれない砂ほどの多くの子孫が生まれた。この者たちはみな、自分たちは約束のものを受け取らなかったが、はるか遠くからそれらを眺めつつ(idontes)また歓迎しつつ、自分たちが地上にあって異邦人であり寄留人であることに同意しつつ、信仰に即して死んだ。(14~20省略・・)

信仰によってヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちのそれぞれを祝福し、杖の頭越(あたまご)しに神に礼拝した。信仰によって、ヨセフは自らの人生の終わりに、イスラエルの子らの脱出について語り、自らの埋葬について指示を与えた。信仰によってモーセは、彼が生まれたとき、彼の両親によって三か月間隠された、というのも彼らはその子が美しいことを見た[即ち、神に選ばれたことを知った]からであり、そして王の命令を恐れなかった。信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待されることを選び、キリストのために受ける嘲りをエジプトの財宝よりまさる富と考えた、[正当な]報いに目を向けていたからである。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを去った、というのも見えない方を見ている者として 忍耐したからである。(28-38節省略・・・・)

 この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらに優(まさ)ったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結される(teleiōthōsin)ことがないためである」(Heb.11:1-40)。

 

5.3 旧約人の伝承のなかでの神との交わりと救いの待望

5.3.1 はじめに

 人類は一回限りの歴史を刻んでいる。近年は情報革命が1995年頃始まったと言われる。その年の確定はWindows95の発売に象徴される。環境革命が今求められている。「持続可能sustainable」という言葉が使われ始めたのは2010年であったと言われる。太陽電池や人工光合成の技術化によりCO2の削減や食料増産など、人類はそのつど課題の克服につとめている。科学技術の最先端にいるひとびとはこのような使命感のもとに日々をすごしている。テクスト読みは人類が最も読んできた書物を正しく理解するとき、人類の問題を解決しうるという希望のもとにテクストに埋もれている。「聖書を正しく理解するところ、そこに聖霊が宿る」というルターの言葉が導きとなる。聖書を正しく理解できるなら、神と出会うことができるかもしれないという希望のもとに今日まで歩みを進めてきたが、辞書引き引きの毎日で日暮れて道遠しである。

 

5.3.2 楽園追放の制約のなかでモーセ律法を規範に神の祝福を求める旧約人

 アダムとエヴァは「神の如くになる」という蛇の誘惑にまけ、善悪を自ら判断する自律的行為主体となることにより神に背いた。彼らは楽園を追放されたが、それは「生命の木」の実をも食べて神のように永遠に生きる者となることを阻むためであった。塵から造られた者が塵に帰ることは自然なことであると思われようが、生物的な死は自然的なことであると同時に神への背きに対する懲罰であった。従って、罰としての生物的死は始めから乗り越えられるべきものという特徴をもっており、人類の歴史は神への背きとしての罪とその罪に基づく生物的死の乗り越えに向かう。

 最初の人類において背くことがなければ、自然的な死は単に一時的な眠りと捉えられたことであろう。エデンの園の神話の含意として、誘惑を介して、悪は人類に偶然入り込んだのであり、それは克服できるというものとなる。追放下にあっても生命の木の実を食する力能はそなわったままであり、何らか楽園に戻り永遠の生命を得る力能はそのまま保持されている。追放下においても信仰によって神との正しい関係を回復した者たちは生存中に懲罰としての死を乗り越え、「眠り」により「先祖の列に加えられた」と記録されている(Gen.25:8,15:15)。「ダビデは先祖と共に眠りについた(ekoimēthē Dauid meta tōn paterōn autū)」(1Ki.2:10  koimaomai fall asleep)。この表現に見られるように、他の固有名の挿入によるこれと同じ構文は40か所以上で見られ、慣用表現であったことがわかる(前掲コンコルダンスp.745)。モーセやその後継者ヨシュアそして長老たちの死も義とされた者たちにとって、死は生の成就でありその長寿は祝福されたものであった(Deut.34:1-8, Josh.24:29-31)。旧約世界にあっては、生物的な死を罰として受けつつも、長寿によりそれは何らか乗り越えられているないしやわらげられていると受け止めることができる。

 ただし、長寿の祝福に続くはずの永遠の生命への言及はブロックされたままであった。神の計画においては「生命の木」を食することは御子の受肉と受難そして復活によって始めて赦されるものであった。ナザレイエスによる信の従順の生なしに、永遠の生命への信を明確に持つことはできなかった。「彼ら[旧約人]は約束を受け取らなかった」(Heb.11:39)のである。

このまことに人の子にして神の子である執成し手なしには、ひとは自らの一挙手一投足に直接神の祝福と嘉みそして怒りと罰を受け止めるしかなかった。旧約聖書は彼らのリアルタイムの神との交わり、賛美、さらには沈黙する神への嘆願、嘆きと祈りの記録として約一千年かけて書き留められていった。「詩篇」には敵への執り成しの祈りは見られない。想像してほしい、先人たちの祝福と罰の伝承だけが自分たちの導きの教えであった者たちの現実を。ユダヤ人は先祖の教えを守って祝福と憐みを直接求める以外に生きる術をもたなかった民族であった。

 その後モーセ律法が神の意志としてひとびとの行動の規範となり、それに基づく神の祝福と罰が記録されていく。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(Exod.20:6)。福音を知ることなくリアルタイムに生きている詩人たちは、モーセ律法に基づき自らの生を構築しつつ、直接神に嘆願し、憐みを乞い、敵からの解放を求めている。詩人たちの祈りには族長たちの引用以外では、執り成しの祈りを見出すことはできない。媒介者がいなかったのである。神に訴える以外に罪と死に打ち勝つ方法をもたなかったからである。

 この伝統のなかでパウロによる業の律法の遵守についての認識はこう語られている。「われら知る、律法が律法のうちにある者たちに語る限りのものごとは、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服するものとなるためである。かくして、業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:19-20)。パウロによればひとは神に対する背き、罪に対する罰としての生物的死を免れる者はいなかった。「死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配した」(Rom.5:14)。

 旧約人は福音において永遠の生命による乗り越え、勝利が示されるまで概して業の律法そしてそれ故に罪のもとに閉じ込められていたと言うことができる。パウロは罪と義、業の律法と信の律法(福音)の関係をこうまとめている、「もし生命を造りうるものである律法が与えられていたなら、義はまことに律法に基づいていたことであろう。しかしながら、聖書はすべての者を罪のもとに閉じ込めた、それは約束がイエス・キリストの信に基づき信じる者たちに与えられるためである。その信が到来する以前には、われらは将に来たりつつある信が啓示されるべく閉じ込められながらも、律法のもとに保護されていた。かくして、律法はキリストに至るわれらの教育係となった、それはわれらが信に基づき義とされるためである」(Gal.3:21-24)。

 旧約人はモーセ律法に従って罪のもとに閉じ込められていたが、神の憐みも記録されているそのような祝福と罰の積み重ねのもとに暗中模索のなか福音の到来を待望していた。義人シメオンはは赤子のイエスを抱き上げ賛美した。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いです、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です」(Luk.2:29-32)。この民は神により死後のことを明確には知らしめられなかったからこそ、この此岸の生を正面から引き受けつつ福音の訪れを待望していたのである。

 罪への閉じ込めから解放されたということは、神の前では歴史に即して語るならモーセの業の律法が信の律法により凌駕され、信の律法により秩序づけられるにいたったことを含意する。個々人にはいずれのもとに審判されるかは知らされてはいないが、その信の根源性に立ち戻る限り、信の律法のもとに審判されることを期待することができるようにされた。古い人間が死ななければ、信の律法のもとに福音に与り新たな生を営むことはできない。

 そのことによって、キリストの死に古き罪人は共に飲み込まれ死んでしまった。しかし、それはその死が生命に飲み込まれるためである。「われらはこのテント[身体]のなかにいるあいだ、われらは重荷を担いつつ呻いているが、彼にあってわれらは脱がされることを欲しているのではなく、[身体の]上に着ることを欲している、それは死すべきものが生命によって飲みこまれるためである」(2Cor.5:4)。ここで死は生命によって凌駕されるものとして捉えられている。われらは重荷に喘ぐ身体を脱ぐのではなく、キリストが担いたまうたのはその身体の重荷であり、彼はその肉のうえに生命を担っていたからこそ、身体に帰属する死は生に飲み込まれる。受肉はどこまでもわれらへの憐みである。

 

5.3.3 旧約人における信仰による義に基づく生物的死の罰の克服

 旧約においても信に基づく義人たちが報告されている。彼らは生物的死を克服したひとたちである。冒頭に引用した「へブライ人への手紙」の著者、所謂第二パウロは信仰によって「諸時代が統一される」神の計画について議論を展開している。信仰は見えない神の意志についての何らかの可視化の基礎であると主張されている。そこでエノクのことがこう語られている。「信仰によって、エノクは死を見ることなく[天に]移された、そして神が彼を移した故に彼は見つけられなかった。移される前に、彼が神に嘉みされていたことが証されていたからである」(Heb.11:5)。このように旧約の義人たちは信仰により罪とその帰結である生物的死を克服る義人たちはこの著者によりこう報告されている。

 この信仰による時代の統一は当然今日まで継承されている。その者たちは目に見える「証人」とされている。不可視なものが不可視なものに留まることに対する最大の「論駁」は御言葉の受肉に他ならない。福音はイエスにおいて可視化された。受肉は明確に信仰を介した知識の対象である。「われらはキリストの叡知を持つ」(1Cor.2:16)。なお、アダムの背きから御子の受肉に至る中間時間そして準備期間として位置付けられる旧約人たちは彼ら自身において神との関係が「完結されることがない」ものとして記述されている。「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結される(teleiōthōsin)ことがないためである」(Heb.11:39-40)。一つの人類の歴史の展開のなかで旧約人は新たに福音の啓示に向かう忍耐と待望の鍛錬の時代として位置づけられる。彼らの歴史は御子の受肉、受難と復活故にその信に生きる者たちを介して始めて完結する。このことは歴史がそこに向かうゴールとしての完結への言及なしに、旧約は正しく理解されないことを含意する。福音の啓示は再臨から見れば途上であるが、旧約は福音への途上である。

 旧約の特徴は神とひとを媒介する者が不在であり、神との交わりは直接的なもの、直截なものとなる。神の啓示であるモーセ律法を基準にした種々の事象を介した祝福と罰が解釈される。祝福と罰は目に見えるもので確かめられる即物的なものとなる。かくして、個々人の外に明白な救いが立ってはおらず、神とひとの不安定な関係におかれる。詩人たちの嘆きと敵への憎悪が記録されることになる。イエスの復活は罪とその報酬である生物的死に対する勝利として記録されることになる。「この朽ちぬものが朽ちないものを死ぬものが不死を着せさせられるであろうとき、そのとき書き記された言葉が出来事になるであろう。「死は勝利に飲み込まれてしまった。死よ、汝の勝利はいずこにある、死よ、汝の棘はいずこにある」。罪が死の棘であり、罪の力能が[罪の(Rom.7:23)]律法である。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する」(1Cor.15:54-57)。

 かくして、アダムの背き以降御子の復活にいたるまで彼らに直接永遠の生への願望は心の底に蓄積されていった。神への嘆願や敵への呪いなど直接的な今・ここの交わりを追求した。先週学んだヨブのように神への訴えに対し、顕現を介した応答を得る者たちも記録されている。新約聖書においては、媒介者イエス・キリストにおいて神の働きが聖霊を介して伝達され、ひとの働きは聖霊を介して神に嘉みされるものとしてきよめられる。

 憐みと祝福は個々人の生にその都度与えられたが、異邦人をも照らす光として万人に妥当する福音の準備以上のものではなかった。復活に基づく永遠の生命が明確に言葉において伝えられることはなかった。それがフォンラートが「此岸性」と呼び「永生への希望の明白な欠如」という表現に繋がっているのであろう。ユダヤ人も異邦人もそれぞれの律法に閉じ込められていた。それ故に罪に閉じ込められていた。生物的な死を介して、その神の罰をも経験していた。そのなかで彼らに永生への希望がなかったわけではない。ヨブは自らの贖い主が生きており、いつの日か自らがこの窮境から贖いだされることを信じている。「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう」。詩人たちも永生を求めていることが記録されている。旧約人は楽園追放の制約のなかで祝福と罰を蓄積していったのである。そしてその歴史は御子の受肉への待望の日々であった。

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日曜聖書講義 2021年10月24日秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(5): ヨブに見られる旧約人の眼差しの方向―此岸の苦悩から彼岸の正義へ―

(録音は「5.2 ヨブにみられる待望および此岸性と彼岸性を媒介する神の応答」まで。原稿はフォンラートの「此岸性」による特徴づけよりも適切と思われる「生身の人間と自らを憐みにより擬人化した神との今・ここの交わり」と呼ぶべき議論まで)。

日曜聖書講義 2021年10月24日

秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(5)

ヨブに見られる旧約人の眼差しの方向―此岸の苦悩から彼岸の正義へ―

 

[問題の所在:復習をかねて]

 旧約聖書においては、まず宇宙の創造者である神により、人類は祝福されている。知性と人格性において神に似せて創造されている。「産めよ、増えよ、地に満てよ」(Gen.2:28)。そのうえで、神による祝福と懲罰は自然的な基盤のもとにある人間の善行と悪行のうえに注がれる。そこでは永遠の生命は約束されない。祝福と懲罰を介して永遠の生命を獲得するでもあろう可能性として旧約人は位置づけられている。旧約人においては神の計画のなかで知らされていることと知らされていないことのあいだのなかで歴史は展開しており、記者たちはそれを正確に記録していった。

 同一の人生が懲罰としての生物的死を誰もが等しく受け取ることと、その人生がとりわけ自らの力能を十全に発揮して与えられた長寿の生が祝福されることのあいだに矛盾はない。というのも、その生存のあいだに罰としての生物的生を乗り越えている可能性があるからである。アブラハムもダビデも信仰によって生物的死を克服している。新約聖書においても、モーセ律法が呼び起こされこう語られることがある。「子供たちよ、汝らの両親に従え。というのも、これは正しいことなのだから。「汝の父と母を敬え」、これは約束における第一の戒めである、「それは汝に良いことが起きるためであり、そして汝がその土地で長生きするためである」」(Ephes.6:1,cf. Dt.5:16, Exod.20:12)。生物的死が罰として与えられている中で、長寿が祝福されることがある。

 フォンラートは彼岸信仰としての永遠の生命を神に要求することは神の計画に対する不服従であるとして、許されていなかったと主張している。彼はこれを旧約人の「此岸性」、この世性として記述していた。フォンラートは言う。「旧約聖書には、死後の生に対する要求はない。それは、人間が簡単に要求できるものでもなく、まして、自分勝手にわがものにすることができるものではないことを知っており、それよりも、人間は完全に神の恵みに依存しているということの方が重要だったのです。・・この待期期間、つまり、永生への希望の明白な欠如については、あたかも神が自分の共同体に、まず、初めに、完全な此岸を与えられたのではないか、・・あらゆる彼岸信仰は、神の此岸に対する意志を無視する明らかな不服従と言うべき」。

 旧約人は知らされていることと知らされていないことのあいだで、緊張のうちに置かれていた。ヘブライ書の著者は福音の媒介以前と以後をこう述べる。「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結されることがないためである」(Heb.11:39-40)。一つの人類の歴史の展開のなかで旧約人は新たに福音の啓示に向かう忍耐と待望の鍛錬の時代として位置づけられる。約束のものとは御子の福音である。この福音のゆえに信に基づく神との正しい関係が打ち立てられている。彼らの歴史は現代にいたるまで人類により引き継がれ、終末において始めて完結する。

 旧約においては「生命の木」から人類は遠ざけられたが、永生の希望は誰であれ、あからさまにできなくとも、ひそかに抱かれていたものであったに違いない。ヨブはいつの日にか彼を贖う方が顕われることを信じている。彼岸への願望は水面下で大きく蓄積されていったに違いない。ここでヨブにより旧約人が此岸と彼岸という対比のなかで此岸に集中したという見解は必ずしも正確な理解ではないことを示したい。

 

5.2 ヨブにみられる待望および此岸性と彼岸性を媒介する神の応答

 今日はこの此岸性への集中という考え方にチャレンジしたい。旧約における神とひとの関わりをもっと正確に表現できると思われる。ひとがひとである限り永遠の生命に対する願望をもっていたことを誰も否定しないであろう。生物的死が一切の終わりではないということは十分に想定可能である。イザヤの召命に見られるように、宇宙の創造者にして聖なる神に直接まみえたなら、穢れた人間に生きていることはできないであろう。イザヤは自らの眼で万軍の主にまみえたことに驚愕しつつ、自分はもはや到底生きることができないと受け止めている。「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇もの者。汚れた唇の中に住む者。しかも、わたしの眼は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(Isaiah.6:5)。自らの罪穢れと万軍の主の崇高さ、聖性のコントラストはおのれの滅びを確信させるに十分である。神を見ることは想定されていないなかでの、憐みの顕現であった。神の使いが炭火をイザヤの唇に着けて言う、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(6:7)。憐みに触れたのであった。神の隠れを覚悟しているなかでの、顕現であった。この顕現でさえ、神は手加減しておられることは容易に想像できる。

 神は隠れのなかで或いは間接的に選びの民と関わっている。比ゆ的に言えば、ビッグバンのあの高熱とあの光のまばゆさに耐えられる者は誰もいない。神は人間的な姿で後悔したり、意見を変えたりしながら選びの民と関わっていると記述されることを許容している。ひとは神との直視に耐ええないものである。ひとは、神の御名をみだりに唱えることを禁じられたように、単に「永遠の生命」を自らのものであるかのごとくに口にすることは憚れたことであろう(Exod.20:7)。神の一つの計画のなかで知らされていることと知らされていないことの途上の歩みのなかではこのような謙りというか畏れのなかでの態度が旧約人に相応しい。ヨブはこの神に自らの正義を訴えた稀なるケースであった。このヨブを介して旧約聖書の方向を確認したい。

 旧約における此岸性への集中の理解は一つの含意を持つ。彼岸信仰によって現実から逃避することをブロックする訓練を施している。神は徹底的にこの民に関わり忠誠を要求する。過酷な生であれ信仰により正面から引き受けるとき、肯定的な生、実りをもたらす生が開けてくる。苦難を回避したりシニシズム(冷笑)やニヒリズム(虚無)に陥るとき、待望は生起しない。厳しい現実との直面は待望のエネルギーをいやがおうにも蓄積させる。とはいえ、待望は彼岸への待望であり、此岸は彼岸との動的な関わりなしには萎縮し、生命を失っていくであろう。「彼岸」をどう定義しようが、此岸の持つ不十全性の認識は彼岸への眼差しを必然的なものとする。ここではラートが「此岸性」と呼び「永生への希望の明白な欠如」という旧約人の特徴づけには異論の余地があり、もっと適切な表現を与えるべきであると論じたい。

 ヨブ記はそれを告げる。ヨブの苦難における神義論の展開において人生の真剣さそして待望を確認できる。彼は試練のなかで家族や雇人、財産そして健康等一切が奪われる苦難を蒙り、彼は死を願いつつ友人たちに訴える。「わたしの生まれた日は消え失せよ。・・暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい」(Job.3:3-5)。ヨブは自ら不正を語らず、欺きを言わず、隣人の妻に心奪われ、城門で待ち伏せしたこともなく、奴隷や雇人の言い分をよく聞き、孤児を助け、貧しい者の父となり盲目者の眼となったと、「一日たりとも心に恥じることはない」と自己弁明する(Job.27:4-6,29:12,16,31:9,13,17)。

 ヨブは正義の神が最後に贖ってくださると訴える、「神はわたしの道をふさいで通らせず、行く手に暗黒を置かれた。・・息は妻に嫌われ、子供にも憎まれる。・・愛していた者たちにも背かれてしまった。骨は皮膚と肉にすがりつき皮膚と歯ばかりになってわたしは生き延びている。・・どうかわたしの言葉が書き留められるように碑文として刻まれ、鉛で黒々と記されいつまでも残るように。わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る」(Job 19:8-27)。

 旧約人は神について「隠れています神」と呼ぶことがあるように、十全な神の顕現が与えられない(Isa.45:15,Deut.29:28)。「いつまで主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか。心に留めてください、わたしがどれだけ続くものであるかを、あなたが人の子らをすべていかに空しいものとして創造されたかを。生命ある人間で、死を見ない者があるでしょうか。陰府の手から魂を救いだせるものがひとりでもあるでしょうか」(Ps.89:47-49)。新約においては、この訴えはなされえない。なぜなら、旧約において待ち望んだ「贖い主」、「仲保者」が到来したからである(Job.9:33,33:23,Isa.43:13, 47:4,49:7,54:5)。神は最も明白な仕方で沈黙から喜びの訪れに移行したからである。

 ヨブは神に訴える。「神よわたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答にならない。御前に立っているのにあなたはご覧にならない。あなたは冷酷であり御手の力をもってわたしに怒りを顕される。わたしを吹き上げ、風に乗せ、風のうなりのなかで翻弄なさる。わたしは知っている。あなたは私を死の国へすべて生命あるものがやがて集められる家へ連れ戻そうとなさっているのだ」(30:20-23)。

 このような訴えの連続のなかで、圧倒的な力によってつむじ風の中から神はヨブに顕現し語りかける。神はこの壮大な宇宙の栄光をヨブに見せ、語りかける。「お前にすばるの鎖を引き締め、オリオンの綱を緩めることができるか、時がくれば銀河を繰り出し大熊と小熊と共に導きだすことができるか」を問う(38:31-32)。ヨブには何であれこの顕現だけで十分であった。無上の光栄であった。自らの小さな義を主張することなどどうでもよくなった。ヨブは応答する「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か、知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは」。そのとおりです。わたしは理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。・・しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退けて、悔い改めます」(Job 42:2-6)。力強い神の顕現、それ以外にひとは他に何もいらない。ただ、ひれ伏し神を賛美する。ヨブの心魂はこのように造りかえられている。ヨブが自死してしまっていたなら、この逆転を経験する可能性を自ら排除してしまう。御子の派遣において福音が啓示された限りにおいて、神の経綸は最も明白な仕方で知らされており、ひとはこの神の顕現の栄光に浴したヨブと同じ状況にいる。

 

5.3旧約と新約の異なりと連続的展開

 旧約と新約の異なりと連続的展開の確認は神の経綸(計画)を知るうえで重要である。ラートは旧約人における「永生への希望の明白な欠如」を指摘していた。しかしながら、旧約においても人々は自らの生の延長線上に何らかの希望を抱いていたことも指摘されるべきである。ヨブはいつの日か正しい神が塵の上に立ち贖ってくださることを神に訴える仕方で待ち望んだ。ヨブのように苦難を受けた多くの無名の義人たちも公平な審判の下される日を待ち望んだことであろう(cf.Gen.18:25,Ps.1:1-2,11:5,103:5,140:12-13,146:8,Isa.45:24,Jer.12:1)。(樋口進「旧約における正義」(『神戸教育短期大学研究紀要』第1号pp.24-35,2020)。また「永遠(オーラーム)」という概念は旧約においても何度か語られている(Hos.2:21,Jer.32:40,Ezek.43:7,Isa.60:21)。ホセアは神の言葉を取り次ぐ、「その日には・・わたしは汝と永遠の契約を結ぶ。わたしはあなたと契約を結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ」(Hos.2:21)。イザヤは古き天地が巻き去られ新天新地を待ち望む。「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に永く続くように、汝らの子孫と汝らの名も永く続く」(Isa.66:22)。

 旧約の基本的な流れは神の御名をむやみに唱えず、神の沈黙に耐えることの覚悟であった。とはいえ、誰であれ苦しい時、助けをとりわけ神に求めることは自然なことである限り、聖書記者たちは神との今・ここのやり取りを記録することに傾注したと言うべきであろう。旧約人はヨブやイザヤのように幸いな体験を与えられることを望んでいたに相違ない、ひそかにであれ待ち望んでいるものがあったに相違ない。

 しかし、それが神の隠れ或いは神から知らされていないことからくる抑圧であるとするなら、彼らに蓄積された待望のエネルギーはどれほどのものであったかが伺い知れる。「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、生命を墓から贖いだしてくださる」(Ps.103:3-4)。「死の綱がわたしにからみつき、陰府(よみ)の脅威にさらされ苦しみと嘆きを前にして主の御名をわたしは呼ぶ。どうか主よ、わたしの魂をお救いください」(Ps.116:3-4)。その意味において、御子の受肉と受難と復活は彼らが憐みを求め、罪の赦しの救いを求めてきた真剣な人生の時が満ちたことを伝えていると捉えることができる。

 かくして、「此岸性」を別の言葉で言えば、或いはこの言葉で捉えきれない旧約聖書における神とひとの関わりを表現するものがあるとすれば、それは神の前とひとの前を分けない「今・ここの働き」、「具体性」或いはこれらを一括して「生身の人間と自らを憐みにより擬人化した神との今・ここの交わり」と表現し直すことができよう。ひとは各自の責任において神の意志である律法を遵守する。神はそれに対し祝福と懲罰を与える。神は憐みにより時に罰を思いとどまったり、軽くすることもある。この双方の働きのやり取りをこの語は表現している。生と死を分断しない神とひととの動的な関わりと言うこともできよう。待望も今・ここで神に呼びかけることに他ならない。聖書記者たちはこの具体的な交わりを記録している。

 旧約聖書におけるこれらの特徴は此岸と彼岸を分けない神の擬人化されたそれ故に人間的に理解されうる働きとひとの働きの交渉という捉え方のほうがより適切であると思われる。知らされていない制約のなかで、単にこの世の生を義しく保つだけではなく、罪の贖いを求めて神に呼びかけて生きていたことは明らかだからである。この書においては、ひとの待望のもとでの呼びかけとともに、創造者にして一切を統帥しつつも隠されたところのある神がひとの一挙手一投足に関与したことがらについて集中的に報告されている。その意味において旧約に登場する神は譲歩された擬人化された神であると言うこともできよう。

 

5.4 神の前とひとの前の理論上の分節を可能にするもの

 神の前とひとの前を理論上分けて考察することは、神の子でありまた同時に人の子である「イエス・キリスト」という媒介者の故に可能になることであり、説得的な神の学はこの関係をめぐって構築されよう。神話的、物語的表現はおとぎ話という虚構ではなく、神についての十全な理論的な把握のできない人類の成長段階のうえのこととして捉えるべきである。この媒介者が生まれる前は神への背きから立ち返り、神に向かう一挙手一投足の働きが正しい関わりと言える。福音の啓示に基づく神の前とひとの前を分節して論じる手法、これを「ロゴス(理論)主導」と呼ぶが、それは旧約においては十全には展開されない。旧約人における今・ここの働きにおける神とひとの交わりを「エルゴン主導」と呼ぶことができる。

 とはいえ、明確なロゴス(理)が受肉したことを受けて、ロゴスとエルゴンの相補性は新約聖書において十全に展開される。人類は不可視なものの秩序ある可視化をロゴス(理、言葉)とエルゴン(その働き)の相補性において捉えてきた。例えば、一オクターブの調和音は1:2の弦の比(ロゴス・形相)と空気(質料)の合成体である。これは一般的な定義としては比と空気はロゴス上分節されるが、今・ここで奏でられる一オクターブは働き上分離されてはおらず、空気が比によって秩序づけられている。生命の設計図としての遺伝子も四つの螺旋的塩基配列を秩序づけるが、その塩基配列を秩序づける可視的な遺伝子を構成する情報それ自身は物質ではなくタンパク質合成の理である。先哲によれば、ロゴスとしての形相は生成消滅過程を経ることなく、質料を一なる合成体として働かしめる。今・ここの秩序ある働きは不可視のロゴスの証である。

 新約聖書にもこの相補性の事例は豊かであり、エマオ途上の弟子たちは「神とすべての民の前にエルゴン(働き・実践)とロゴス(言葉・理論)において力ある預言者となったナザレのイエス」について語りあった(Luk.24:19、eg.Rom.15:17.2Cor.6:7,1Thes.1:5)。イエスはご自身が「ロゴス」であると報告されるが、羊飼いのいない羊のように彷徨う群衆を「深く憐み」、神の国について言葉で「多くを教え始めた」(John.1;1,Mat.9:36,Mak.6:34)。彼は自らの山上の説教それ自身を信の従順により生ききることにより、自らの言葉に偽りがないことを証したため、彼の言葉には「権威」が宿った(Mat.7:29)。これは新約聖書に特徴的なことがらである。旧約の預言者たちはこれほどの権威をもって神の国を語ることはできず、先見者として具体的な歴史的状況について神の意志を取次いだ。旧約聖書においては神についてエルゴン(働き)の報告はあっても、ロゴス(理論)の展開は十全には見られえない。

 ロゴス(理論・言葉)とエルゴン(実践・働き)は常に一方が他方の正しさを保証するそのような相補的な関係においてある。ロゴスとエルゴンの相補性は、例えば遺伝情報とその読み取り、楽譜と演奏、ルールとそのもとでのパフォーマンス等、何であれ被造物である限りあらゆるものに適用されよう。1時間に4キロ歩くと2時間で何キロになるかという算数の問いに、聡明な少女が答えられず「だって疲れちゃう」と言う応答は肉の弱さへの考慮によるロゴスとエルゴンの緊張を伝えている。エルゴンは本来的にロゴスを証するものとしての働きであるが、8キロ常に歩くとは限らない。パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)と言い、肉の弱さに譲歩し、肉としての自然的組成についての理論を展開し人間中心的に語る。旧約聖書においても登場人物は誰であれ神の意志を正しく遂行するかしないかを問われる責任ある行為主体である。さもなければ、祝福も懲罰も与えられることはないであろう。神とひとの今・ここのエルゴンの報告が旧約聖書を満たしていると言える。

 新約聖書はナザレのイエスの生涯とイエス・キリストの福音の出来事に集中しており、そこから人間の営み一切が捉え直されている。旧約においては、交わりの蓄積そのものが福音に向かっており、そこに至る神と人との具体的なやり取りが報告されている。詩人は言う、「わたしは黙し続けて絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重くわたしの力は夏の日照りにあって衰え果てました。わたしは罪をあなたに示し咎を隠しませんでした。わたしは言いました「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。あなたの慈しみに生きる者は皆あなたを見出だしうる間にあなたに祈ります」(Ps.32:3-6)。旧約聖書に親しむということは、神の前と人の前を分けずに、その都度自らの歩みを神の祝福と懲罰のなかで生死を思考する習慣を身に着けることである。

 神についての学問はそのエヴィデンスの蓄積の上でのものとなるが、とりわけ明確な媒介者を必要とする。此岸性や今・ここのエルゴン主導ののもとでのユダヤ教の歴史はその展開にとって媒介者を必要としている。業の律法のもとでの恩恵と懲罰の賦与という神理解から一歩進み、媒介者による神の恩恵の実現に向かう。その意味であのエルゴン主導の歴史はそこに至る必然的な過程であったと言えよう。

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秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(4)―旧約人の此岸性

[録音はテクストの朗読を基本としつつも自由に話しています。テクスト上は5.1「此岸性」途中までです。連続講義では繋がりをつけながら展開していきます]。。

日曜聖書講義 2021年10月17日

秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(4)

 旧約人の此岸性

 

[復習]

 旧約聖書における生と死を学んできた。なにごとにも準備期間を必要とする。彼らは神の子ナザレのイエスの誕生に向かう準備期間にある人々と位置づけられる。旧約聖書は当然新約聖書より以前に書かれたものであったが、新約から旧約を見るとき、生死をめぐる当時の人々の考えがよく理解できるようになる。彼らはイエスの復活により示された永遠の生命を神に求めることができない者たちであった。救い主の預言は与えられていたが、旧約人は直接的に神に憐みと祝福を求めて神の意志として知らしめられたモーセの十戒の遵守に生命を懸けていた。神に背くとき、具体的に懲罰を与えられていたことが報告されている。直接的な神とひととのやり取りが描かれている。そこには喜び、感謝、賛美があり、苦しみ、嘆き、訴えがある。一回限りの歴史を歩む人類は神の隠れを経験することも多く、救い主の待望のエネルギーが蓄積されていった。

 

4.6旧約における死後の世界の思弁をブロックするもの

 死は神の領域であり、聖書では一様に霊媒や口寄せ等死者と交流する者たちは汚れであり、理にかなわないものとして軽蔑される。「あなた方のあいだに、自分の子女に火の中を通らせる者、占い師、卜者(ぼくしゃ)、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない」(Deut.18:11、同様にLev.19:31、20:6、20:27、2Ki.21:6、23:24、2Chr.33:6、Isa.8:19、19:4参照)。死後の世界との交流を遮断したこの理性的な対処にこの民族の特徴を見出す。この民族が魔術や偶像をさらには恐怖などの過剰なパトスに由来する迷信を排し、生きた神との現実感の中で生きた交わりを結ぶことにこそ生の中心を置いていたことが確認される。

 ダビデ王はバテシェバとの子供が病気で死ぬまでは断食し、塵灰を被り生還を祈り続けたが、死を知らされると気持ちを切り替えている。「子が生きている間は主がわたしを憐み、生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ断食して泣いたのだ。だが、死んでしまった、断食したところで何になろう。あの子を呼び戻せようか」(2Sam.12:23)。彼らは死後については神の事柄として禁欲しつつ、この人生の導きを祈り求めている。詩人は言う、「あなたは、わたしの生命を死に渡すことなく、あなたの聖者が朽ちることを許さず、生への道を教えてくださる」(Ps.16:10)。このリアリズム(現実主義)は信仰からくる。一挙手一投足が神との関わりのなかにあり、神の認可においてないときは、一回しかない現実の歴史においては可能世界に耽溺することなく祝福を求めて次に進むしかないのである。

 詩人にとって生きることは神に賛美を帰す機会であると捉えられている。「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐みを乞います。わたしが死んで墓にくだることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ、あなたの真実を告げ知らせるでしょうか」(Ps.30:10)。「あなたは死者に対して驚くべき御業をなさったり、死霊が起き上がってあなたを讃えるでしょうか。墓の中であなたの慈しみが、滅びの国で、あなたの真実が語られたりするでしょうか」(Ps.88:11)。生きている限りにおいて、一切を支配し導く神に賛美を捧げることができる。そのなかで祝福を頂くことができる。

 紀元前千年頃ダビデそしてソロモンとイスラエルは版図を広げ強さを誇る時代をも経験した。その後北王国(イスラエル)と南王国(ユダ)に分かれるがバビロニア帝国による捕囚(598,587,582年)にいたるまで、ユダ王国は500年近い歴史を刻んだ。その間アモスやホセアに始まり、イザヤやエレミヤ、エゼキエルという預言者たちが王のブレーンとしてまた対峙する抵抗者として唯一神ヤハウェの意志を国家存亡の運命を握る判断、政策の選択において関与した。預言者たちはこの世俗権力としての国家と超越的な唯一神ヤハウェとのあいだに立って、歴史の帰趨を見究める者たちであった。彼らは多くの場合厳しい審判の言葉を告げることを強いられた。

 ユダの王ゼデキアはじめ高官たちは紀元前6世紀に70年間にわたりバビロンに拘束された(Jer.25:11)。それはユダの堕落に対する神の怒りであった。「わたしはエルサレムを瓦礫の山、山犬の住処とし、ユダの町々を荒廃させる。そこに住む者はいなくなる」(Jer.9:6-10)。審判の預言は至るところに見いだされる(eg. Hosea 7:13-8:14, Isa.30:12-14, Jer.5:14-17)。旧約人はこの人生のただなかで万軍の主でありすべてを統治する神に憐みを乞い、人生の祝福を祈った。もちろんそこでは信仰の純化が求められようが、現実的な憐みを直接求めた。

 ペルシャ王キュロスによるバビロンによる捕囚からの解放の後もユダヤ人は苦難の歴史を刻んだ。彼らはアレクサンダー大王以後ヘレニズム化の波に襲われ、ローマによりエルサレムが焼かれ(CE70)、その後離散(ディアスポラ)の民として、20世紀のホロコーストの被害者として苦難の歴史を歩んでいる。

 

5旧約聖書における「此岸性」の主張は生身の人間と譲歩した神のやり取りの展開のなかに位置付けられる。

5:1フォンラートによる死後の世界を要求しない旧約人の「此岸性」という特徴づけ

 この21世紀メシアの到来を信じないユダヤ人たちは未だに神の沈黙のなかで救済を待ち望んでいる。ナザレのイエスのあの生涯の後パウロやペテロなどはかの預言者たちに預言された救い主がナザレのイエスにおいて到来したと告げ、新たな宗教として旧約からの連続性のなかで生まれ、世界宗教となった。あの神の言葉の受肉と受難そして復活はまことに特異なこととして歴史のなかで生起した。それまでの旧約の民には知らされていることと知らされていないことがあり、その限界のなかで旧約人は自らの死生観を作り上げていった。各人の心魂の根底にある神に対する信仰とそのもとでの正しい人生の構築こそ彼らの精神性を特徴づける。見えない神と日々関わって生きることそれが彼らを独自の民族としている。彼らの独自性が救い主イエス・キリストを生み出すこととなる。他の民族も神の導きの歴史におかれていたが、ユダヤ民族から全人類の救い主が生まれたのである。旧約人はそこに至る準備期間、待望期間に置かれていたのである。

 このような旧約人の態度をフォンラートは「此岸性」と呼ぶ。「旧約聖書には、死後の生に対する要求はない。それは、人間が簡単に要求できるものでもなく、まして、自分勝手にわがものにすることができるものではないことを知っており、それよりも、人間は完全に神の恵みに依存しているということの方が重要だったのです。・・この待期期間、つまり、永生への希望の明白な欠如については、あたかも神が自分の共同体に、まず、初めに、完全な此岸を与えられたのではないか、・・あらゆる彼岸信仰は、神の此岸に対する意志を無視する明らかな不服従と言うべき」であるとする(『ナチ時代に旧約聖書を読む フォンラート講演集』荒井章三編訳pp.67-8 (教文館 2021)

 神の計画はこの民を恩恵の注ぎと懲らしめの訓練のもとで罪の克服に向かわせるものであった。そこでは永遠の生命を約束する時はまだ満ちていなかったのだと思われる。この旧約人の此岸性という特徴の理由はいくつか考えられる。第一に、神は人類の救済の計画において、旧約人に、今・ここの自らの圧倒的な介在、現在を知らしめ神への背きを懲らしめ神の意志としてのモーセ律法の遵守を迫っている。そこでは死は神の律法に対する忠誠違反に対する懲罰であると特徴づけられており、この生における罪との格闘に焦点を結んでいる。パウロによれば、後に考察するように、すべての口が塞がれ、世界が神に服すべくこの律法が与えられた(Rom.3:19-20)。

 或いは、第二に、旧約聖書の編集者が来世への思弁を展開する文書をブロックしたことが想定される。紀元前3世紀から約200年かけてプトレマイオス朝アレクサンドリアにおいて、旧約聖書がヘブライ語からギリシャ語に翻訳された。実は「七十人訳」と呼ばれるこのギリシャ語訳が現存している最古の旧約聖書である。ヘブライ語を理解できなくなった異国のユダヤ人たちは当時の公用語であるギリシャ語により自らの民族のルーツについて読むことができるようになった。その編集段階において、エジプトのピラミッドや王たちのミイラに見られるように人類の普遍的願望である永遠の生命についての思弁の記録は除かれたのかもしれない。また、紀元70年におけるローマによるエルサレム陥落のあとユダヤ教学者はヤムニアに集まりユダヤ教の正典となる(旧約)聖書を確定していった。その編集段階において、神の直接的な関わりへの記録を集中的に蒐集したのかもしれない。つまり、来世への希望や幻そして思弁が描かれていないのは旧約聖書の編集の意図が反映しているという理解である。

 第三に、誰であれ苦しい時、助けをとりわけ神に求めることは自然なことである限り、ひとが永生を何らか望むことを否定できないであろう。実際、ひとは生きていることの充実感を得るには未来に時間が開かれているという感覚を必要としている。死はその前向き、肯定的な生の構成要素でありうる。しかし、旧約人においては、モーセ律法を介した神とその代弁者である指導者、預言者たちとの関わりのなかで神の意志と摂理の知識を蓄積しつつ、死後の世界についていかなるものか神により明確に知らされていないその制約が働いていた。イザヤによれば預言者は「先を見る者」であり、歴史を予見し現実の政治社会の歴史の動向を予告する(Isa.30:10,44:24-26)。そしてその特徴と制約のなかで旧約聖書の素材が編集蓄積された。

 旧約人には死を乗り越える永遠の生命への明確な信仰と知識はブロックされていたのだと思われる。神への服従の訓練が施されていた。死後の思弁への禁欲は彼らのこの生における神の祝福と呪いを求めさせ、神との関わりのなかで生きながらえることそれ自体が祝福であった。

 この第三の考えは神の人類救済の計画の準備期間の正確な記述という第一の理解と聖書の編集段階における取捨選択という理解と矛盾するものではなく、旧約聖書は現在伝えられているように、主に神とユダヤ人の具体的な関わりの事実の記録として編集され報告されたと言えよう。

 そして、もしアブラハムに対し、彼の子孫の繁栄というよりも彼自身の永遠の生命を神が直ちに約束したとしたなら、民族としての特殊性はなくなるであろう。異教の神々に囲まれている状況にあって、一民族に忠誠を求め道徳的鍛錬を通じて祝福と懲罰を与えるという歴史を経なかった場合、その永遠の生命の約束は罪に対する勝利という位置づけを決して得ることはなかったであろう。「すべて信仰に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)というその神の信実とそれへの応答としてのひとの信仰を見出すことはできなかったであろう。棚ぼた式の救いの提示は恩恵として理解されることもないであろう。

 ひとつの民族の祝福を介して、祝福が全人類にゆきわたるそのような計画を神はいだいた。一弱小民族を選び鍛え、背きと立ち返りのなかで罪の給金が生物的死であることを知らしめ、時が満ちて御子を派遣し、罪とその値である死に勝利することは苦難なしに待ち望まれることもなかったことであろう。詩人は言う、「主よ、わたしを救ってくださる神よ、昼は援けを求めて叫び、夜も御前におります。わたしの祈りが御もとに届きますように。わたしの声に耳を傾けてください。わたしの魂は苦難を味わい尽くし、生命は陰府(よみ)にのぞんでいます。・・愛する者も友もあなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」(Ps.88:1-19)。

 神の沈黙を思わせる待望の歴史のなかで、罪とその値である死に対する勝利として永遠の生命が与えられるとすれば、それはアダムの創造に見られるように全人類に向けられるものであろう。歴史は時の満ち足りを必要としていたのである。アブラハムと彼の子孫だけに永遠の生命が与えられるとするなら、御子の信の従順の生涯は差別と分断を生むだけであったろう。

 もし受肉はもとより何の歴史的交流なしにUFOのようにアブラハムの時代に神が全人類に突然現れ、神自身が人類の創造者であることを知らしめたとして、それは人類の歴史になんら関わらない神である。その神による救済は棚ぼた式であり、多くの人はたとえ宇宙船を操る認知的卓越性を認めたとしても、人格的な正義(公平)と愛(憐み)の両立を知ることはなかったであろう。即ち、信に基づく正義を介して自らの罪が贖われたこと、罪と死に対して勝利が与えられ、懲罰としての死が永遠の生命に飲み込まれたその神の愛を信じるに至らなかったであろう。ユダヤ民族の歴史の展開においてモーセ律法(「業の律法」(パウロ))が先ず神の意志として啓示され、その正義の規準との関連で神への背きが告発され、この民は祝福とともに罪の懲罰を受けてきた。そのなかで時が満ちてもう一つの神の意志(「信の律法」)が御子の受肉と信の従順の生涯により福音として啓示されている。

 新約の視点からへブル書記者は旧約の人々をこう特徴づけている。「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結されることがないためである」(Heb.11:39-40)。旧約人は新約人を待って初めて彼らの生が何であったかが初めて明確にされ、完結されるものであった。忍耐のなかそれほどの待望のエネルギーが蓄積されていたのであった。

 憐みを待望む民にとっては各自における一つの生のただなかで神との今・ここの取り組みへの集中は相応しいことのように思える。その制約のなかで義人シメオンはマリアから幼子イエスを抱き上げ言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いです、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です」(Luk.2:29-32)。この民は神により死後のことを明確には知らしめられなかったからこそ、この此岸の生を正面から引き受けつつ福音の訪れを待望していたのである。

 

5.2 ヨブにみられる待望および此岸性と彼岸性を媒介する神の応答

 この此岸性は一つの含意を持つ。彼岸信仰によって現実から逃避することをブロックする訓練を施している。神は徹底的にこの民に関わり忠誠を要求する。過酷な生であれ信仰により正面から引き受けるとき、肯定的な生、実りをもたらす生が開けてくる。苦難を回避したりシニシズム(冷笑)やニヒリズム(虚無)に陥るとき、待望は生起しない。厳しい現実との直面は待望のエネルギーをいやがおうにも蓄積させる。とはいえ、待望は彼岸への待望であり、此岸は彼岸との動的な関わりなしには萎縮し、生命を失っていくであろう。ここではラートが「此岸性」と呼び「永生への希望の明白な欠如」という旧約人の特徴づけには異論の余地があり、もっと適切な表現を与えるべきであると論じたい。

 ヨブ記はそれを告げる。ヨブの苦難における神義論の展開において人生の真剣さそして待望を確認できる。彼は試練のなかで家族や雇人、財産そして健康等一切が奪われる苦難を蒙り、彼は死を願いつつ友人たちに訴える。「わたしの生まれた日は消え失せよ。・・暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい」(Job.3:3-5)。ヨブは自ら不正を語らず、欺きを言わず、隣人の妻に心奪われ、城門で待ち伏せしたこともなく、奴隷や雇人の言い分をよく聞き、孤児を助け、貧しい者の父となり盲目者の眼となったと、「一日たりとも心に恥じることはない」と自己弁明する(Job.27:4-6,29:12,16,31:9,13,17)。ヨブは正義の神が最後に贖ってくださると訴える、「神はわたしの道をふさいで通らせず、行く手に暗黒を置かれた。・・息は妻に嫌われ、子供にも憎まれる。・・愛していた者たちにも背かれてしまった。骨は皮膚と肉にすがりつき皮膚と歯ばかりになってわたしは生き延びている。・・どうかわたしの言葉が書き留められるように碑文として刻まれ、鉛で黒々と記されいつまでも残るように。わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る」(Job 19:8-27)。

 旧約人は神について「隠れています神」と呼ぶことがあるように、十全な神の顕現が与えられない(Isa.45:15,Deut.29:28)。「いつまで主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか。心に留めてください、わたしがどれだけ続くものであるかを、あなたが人の子らをすべていかに空しいものとして創造されたかを。生命ある人間で、死を見ない者があるでしょうか。陰府の手から魂を救いだせるものがひとりでもあるでしょうか」(Ps.89:47-49)。新約においては、この訴えはなされえない。旧約において待ち望んだ「贖い主」、「仲保者」が到来したからである(Job.9:33,33:23,Isa.43:13,47:4,49:7,54:5)。

 ヨブは神に訴える。「神よわたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答にならない。御前に立っているのにあなたはご覧にならない。あなたは冷酷であり御手の力をもってわたしに怒りを顕される。わたしを吹き上げ、風に乗せ、風のうなりのなかで翻弄なさる。わたしは知っている。あなたは私を死の国へすべて生命あるものがやがて集められる家へ連れ戻そうとなさっているのだ」(30:20-23)。

 このような訴えの連続のなかで、圧倒的な力によってつむじ風の中から神はヨブに顕現し語りかける。神はこの壮大な宇宙の栄光をヨブに見せ、語りかける。「お前にすばるの鎖を引き締め、オリオンの綱を緩めることができるか、時がくれば銀河を繰り出し大熊と小熊と共に導きだすことができるか」を問う(38:31-32)。ヨブには何であれこの顕現だけで十分であった。無上の光栄であった。自らの小さな義を主張することなどどうでもよくなった。ヨブは応答する「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か、知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは」。そのとおりです。わたしは理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。・・しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退けて、悔い改めます」(Job 42:2-6)。力強い神の顕現、それ以外にひとは他に何もいらない。ただ、ひれ伏し神を賛美する。ヨブの心魂はこのように造りかえられている。ヨブが自死してしまっていたなら、この逆転を経験する可能性を自ら排除してしまう。御子の派遣において福音が啓示された限りにおいて、神の経綸は最も明白な仕方で知らされており、ひとはこの神の顕現の栄光に浴したヨブと同じ状況にいる。

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秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(3)―アダムにおける永遠の生命の力能―

日曜聖書講義 2021年10月10日

秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(3)

アダムにおける永遠の生命の力能

[復習]

死の二重性

 聖書の死生観は神が歴史に関わるその経過の中で形成されており、人類そしてイスラエル民族の歴史とともにその死生観も変遷、成長しうるものである。紀元前1700年頃からのアブラハム以来の歴史の展開において民族の苦難や立ち帰りを通じて救済の福音への収斂を確認できる。旧約聖書において、神は個々人の責任における神への畏れと律法の遵守をめぐって祝福と呪い、祝福と懲罰において関わっていることが縷々報告されている。そこには一貫してモーセ律法に見られる神の意志の遂行が問題とされており、それは唯一の神による自らの民への関わり方が或る統一的な計画のもとに遂行され展開されていることを含意する。御子の福音の啓示にすべてが向かうものとして秩序づけられるとき、理不尽に思われる個々人の死も理解されうるものとなる。神と個々人の関わりとその理解は個々人の責任に帰せられるが、福音の啓示は全人類に向けられており、神の意志がそこにおいて最も明白なものとして知らされている。「神は独り子を賜うほどこの世界を愛した、それは彼を信じる者がすべて滅びることなく永遠の生命を獲得するためである」(John.3:16)。ひとはこの福音によって自らの生死を理解するよう促されている。

 生物的な生と死は自然的なものであり、それは自然科学によって解明されうるものである。人類の歴史は死者の数そしてその死因を基本的に計測可能、判別可能なものとして展開している。この同一の歴史が神の関与の歴史なのである。聖書の報告によれば、生と死は、一方で、「産めよ、増えよ、地に満てよ」という励ましのなか長寿を全うするそのような自然的な生命の発露として祝福されたものである。

 他方で、生は様々な困難にとらわれるものであり、その帰結である死は神への背きとしての罪に対する懲罰であると理解される。われらが土から生まれ土に帰り、それで終わりであることを自然的であると理解していても、福音において明らかにされたように永遠の生命こそ人間の本来性であるという理解を持つ神にとっては自然的な死即無ないし生態系への解消という理解は非本来的、残念なことであり死を乗り越えるべく奮起を期待しての懲らしめ、懲罰を意味することになる。福音の出来事から死を見る限り、それ以外の理解はできない。福音のもと生物的死への眼差しによって生を構成しつつ、罪と死を乗り越えるよう励まされている。

一方で、生命の誕生であれ長寿であれ、祝福は土から造られた自然的なもののうえに注がれる。創造は「はなはだ良かった」のである(Gen.1:31)。自然的なものは草木であれ動物であれ、自らの生命の力能の十全な発揮においてこそ自然であり本来的である。

神はエデンの園の中央には「生命の木」と「善悪の知識の木」を生えいでさせており、ひとは道徳的となる力能および永遠の生命に与る主体となる力能をその創造において所有していた。少なくともそれらの実を食し消化するする力能を備えていた。さもなければ、神に彼らが食する可能性を想定されることはなかったであろう。ただし、時が満ちたなら善悪の木のみならず、生命の木を食することが許されていたかもしれないが、人類の始まりの段階では許されたものではなかった。エデンの園から追い出せば、盗まれ食されることがなくなるという想定のもとに彼らは園を追放されたのであるから、彼らが食する力能を失ったわけではない。

 カトリックとプロテスタントにおいて最初の人間の腐敗はどれほど著しいかの論争がある(『信の哲学』第八章、九章第二節一)。カトリック教会は4世紀ヒエロニムスによりラテン語に翻訳されて以来聖典とされたVulgata版を1970年のNova Vulgataにおいてアダムの原罪が血を介して遺伝的に伝わるという遺伝罪という考えの典拠とされることもあった箇所(「ローマ書」5:12)の翻訳を修正している(新しい翻訳5:12-14は直ぐ下で提示している)。罪は神の前の概念であって自然的な概念ではなく、罪の遺伝子が子孫に伝達されるという類の議論はなされえない(『信の哲学』第四章二節六)。祝福と懲罰は自然的な基盤のうえに築かれる人生のうえに神との関わりにおいて与えられる。それ故に、自らの職務等を通じて力能を十全に発揮し、長寿を全うすることがあるとするなら、それ自身創造者である神からの祝福を得たものとなり、自然的なものとしても祝福された死であると言うことができる。興味深いことに旧約聖書においては祝福された死は語られてもまた民族の発展は語られても、その者たちに永遠の生命は約束されてはいない。

 他方、神は罪を犯す者たちに対して洪水や隕石等の自然的な事象を介して、さらには戦争等を介して死を懲罰として与える。旧約聖書においては、これは個々の具体的な事例を介してこの懲罰としての死が記録されているが、パウロにおいては罪から救済された者をも含め、それは普遍化され、理論的に把握されている。福音の視点から見れば、福音はすべての者の罪とそれ故の死から救済する神の力能である以上、どれほど軽微な罪であれ誰もが罰としての死を免れなかったとされる。救済を必要としないひとはいないからである。パウロは言う、「ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通したのである。というのも、律法[が与えられる]までにも罪は世界にあったのであり、律法が存在しないため罪は告訴されていないが、しかし、死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配したからである」(Rom.5:12-14)。神の判断として一方で罪には軽重があり、他方すべての者は罪を犯したが故にすべての者に死が貫き通されたと神に認識されており、その後信仰により義とされた者たちも、過去に犯したどれほど軽微なものであるにしても罪の故に懲罰としての死を免れなかったと報告されている。

 人類にこの一方祝福された自然的な死があると同様に誰もが懲罰としての死を免れることはなかったことを、「死の二重性(duality of death)」と呼ぶ。ただし、罪から自由にされた義人の生物的な死はしばしの「眠り」となり、「死」の意味は異なる。死の二重性において「死」は同様に息を止めることであり、ムクロとなることであるが、その自然的死を介して或る者は眠り他の或る者は滅びに定められ得るその可能性において捉えられる。かくして、死を懲罰として捉えることは、その罪が赦される限り、その死を乗り越えることができるものであり、自然的な死は人類にとって、最後的なものではないことを含意する。罪赦された者は「新しい被造物」として新しい生を生きる(2Cor.5:17)。そして罪赦されたことの証は隣人を愛しうることであるとされる(Luk.7:47)。

 同一の死が二重に理解されるとするなら、同一の生も死に向かう生と死を希望において既に乗り越えた生として二重に理解される。パウロは言う、「われらをキリストにおいて常に勝利の行進を歩ませたまうそしてあらゆる場においてわれらを介してキリストご自身の認識の馨を明らかにしたまう神に感謝あれ。われらは救われる者たちにおけるまた滅びゆく者たちにおける香ばしい匂いであり、かたや滅びる者たちには[生物的]死から[神の前の滅びの]死に至る匂いであり、他方、救われる者たちには[生物的]生命から[永遠の]生命に至る匂いである」(2Cor.2:14-16)。キリストにある者はキリストを受け入れない者にとって滅びの匂いとなる者であり、受け入れる者には永遠の生命の匂いとなる者たちである。ひとの生が死に対する勝利の生と死への滅びの生に二分されている。自然的な人生が懲罰としての死を正面から引き受け、その罪を赦すキリストを受け入れるとき、生命の行路に入る。

 

 

4.3 楽園追放に続く労苦による生命維持と土への帰還

 最初の人間アダムとエヴァは神への従順ではなく倫理的な行為主体となるべく「善悪を知る」木の実を食べて楽園を追放されている。その追放の理由は彼らがさらに「生命の木」からも取って食べ「永遠に生きる者」となる恐れがあったからであるとされる(Gen.3:23)。これは創造者である神のように永遠に生きる者となることを含意するが、歴史の展開のなかで御子の派遣による福音の啓示を介して永遠の生命が与えられる、そのような歴史を踏まえることなしに、永遠の生命を一気に獲得することが問題視されている。

 彼らは神に背いたあと、まず懲罰として生存のための労働と死がアダムに与えられている。「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに土は呪われるものとなった。お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ。・・お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る」(Gen.3:17-19)。エヴァに対してはこう罰が与えられる。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する」(3:16)。

 人類は生存のための額に汗する労働と出産に伴う苦しみさらに生物的死を懲罰として受け止めることになるが、それは塵が塵に返るという自然的な法則のもとに置かれたということであり、神との親密な交わりに人間の本来性を見出す霊的なものからの追放である。ひとはその後そのような制約を自然なもの、当然なものと受け止めるが、それこそ楽園を追放された者にとっての現実的認識である。本来は霊的な交わりを享受する者として造られた人間がその構成要素である土に帰ることが懲罰であると言える。

 ただ、最初の人間は善悪を知る木と生命の木の果実を食することができ、消化することができるそのような力能を持っていたとされている。つまり、永遠の生命を受動する何らかの力能を予め持っていたことが含意されている。楽園追放後もその力能においては変化がなかったと看做すべきである。そのことは一つの民族の展開のなかで、預言の成就として永遠の生命を担った御子の受肉と受難と復活が生起したことから確認される。楽園において罪を犯さずにも彼らは塵に返ったでもあろうが、それは眠りであり、時がくれば永遠の生命を授けられることもあろう、そのようなものである。この後人類の歴史は自然的制約というこの与件のもとで、神への背きと死の乗り越えを課題として引き受けることになる。

 もし神に背かなければ、アダムであれ誰であれたとえ生物として土に返ったとしても、義人の死は新約聖書においては「眠り」であると捉えられることになる(Mat.27:52、1Cor.15:6,18,20,51)。旧約聖書においても「ダビデは先祖と共に眠りについた」(1Ki.2:10)という表現に見られるように、他の固有名の挿入によるこれと同じ構文は40か所以上で見られ、慣用表現であったことがわかる(前掲コンコルダンスp.745)。この表現はエデンの園における「生命の木」に暗示されるように、生物的死が一切の終わり「永眠」というものではなく、覚醒の可能性を示唆していると言うことができる。「眠りについた」というこの表現は新約における義人、聖徒の死が一時的な眠りであるという特徴づけを基礎づけたと推測される。

 ここでは生と死は神への忠誠と背きとの関連に置かれることになったことを確認するにとどめよう。神の民は個々の人生を介して祝福と呪い、恩恵と怒りのもとに置かれる。この人類の始祖の神話物語の流れの中でまたその基礎のもとにアブラハムが神の召命を受け、約束の民族を形成していく。

 

4.4アブラハムの召命に続く民族の展開

 アブラハムに始まるこの民族は唯一神ヤハウェが彼にカナンの土地を与え、子孫は夜空の星のように浜辺の砂のように繫栄するという神の約束を信じ、神との交わりのなかで生と死、祝福と呪いのなかでその民族の歴史を刻んでいる(Gen.12:2、17:7、22:17)。アブラハムは神の約束の言葉を信じて、カルデヤのウルを出立した。見えない神を相手に生の一切を位置づけることは信仰による。「アブラハムは主を信じた。主はその信仰を義と看做した」(Gen.15:6)。信仰・信というものを心魂の根底におくとき、ひとはそれが正しい信仰である限りにおいて、心魂の卓越性(有徳性)がそこにおいて発揮される知識をめぐる認知的な力能、態勢と正義や愛等をめぐる人格的な力能、態勢を成長させる。最終的には賢者と聖者となる。理性の逸脱である狂信からそして恐怖等のパトスの異常である迷信からも自由にされる。彼らは一神教のただなかで、その心魂の態勢を信仰のもとに成長させた民族であったことを確認したい。もし正しい信仰を持つなら生の実りは各自に与えられる与件は「善き地」であるという信のもとにその力能を100倍、60倍にこの人生のただなかで実らすと約束されていた(Mat.13:18-23)。

 神はイサクに続きヤコブを祝福して言う、「私は全能の神である。産めよ、増えよ。あなたから一つの国民、いや、多くの国民の群れが起こり、あなたの腰から王たちが出る。私は、アブラハムとイサクに与えた土地をあなたに与える。また、あなたに続く子孫にこの土地を与える」(Gen.35:11-12)。人間が「土」という根源物質から形成されていること、生殖を通じての生命とその理想的な死としての長寿という生命の謳歌は自然的なことがらとして、それをめぐる道徳や生活環境さらには生命の儚さとともにすべてのひとに共通する反応や理解をこの民族にも見出すことができる。この民族にとってはひととしての共通素材である「土」のもとに、生命原理としての「魂」や意識事象を司る「心」を備えるそのような組成のもとに生と死を経験することにおいて、他の民族となんらかわらない。エジプトやアッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャやローマ等列強支配の圧力のもと、また過酷な自然環境のなかで長く生きうることそれ自体が祝福であったという理解は今日にも妥当する死生観であろう。ただし、これは霊と呼ばれる「内なる人間」に対する言及がなされない場合に限られる。聖書においては、その神との霊的な交わりのなかで自然的な長寿の生命が祝福されているのである。

 ヤコブ(十二部族の祖)は神の使いと一晩祝福を願い相撲を取ったことにちなみ「神と闘う」という意味の「イスラエル」と名付けられる(Gen.32)。この民族は歴史の変化とともに自らまた周辺国の呼び名で「ヘブライ人」、「ユダヤ人」と呼ばれることもある。ユダヤ民族の神との交わりの集中度は尋常ならざるものであった。現在まで宗教上特異な地位を占める民族として、また思想史、科学史、経済史上等特異な地位を占める民族である。この民族においては、唯一神ヤハウェに対する関わりのなかで、生と死は捉えられる。懲罰としてであれそうでないものとしてであれ、生あるものは土に返るという自然的な死生観と共通項をもちつつも、神とひとを媒介するものは「霊」と呼ばれる。神は生きて働いており、他の神々を拝することは忌避される。祝福と呪いのなかで生と死が置かれる。滅びることは懲罰として捉えられるとき、この生への真剣度はいやがおうにもまし、神に祝福と憐みを求めて生きることとなる。或いはそれをひとびとは狂信や迷信として拒絶する。

 モーセは神の命に従い、ヘブライ人をエジプトから導きだし、神の山ホレブにおいて神から律法(十戒)を啓示された。「汝はわたしをおいて他に神があってはならない。・・わたしは主、汝の神。わたしは嫉む神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(Exod.20:4-5)。

 生命と死は神の祝福と呪いの関連におかれる。「わたし(モーセ)は今日生命と幸い、死と災いを汝の前に置く。・・汝の神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法とを守るならば、汝は生命を得、かつ増える。・・もし汝が心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるなら、・・汝らは必ず滅びる」(Deut.30:15-18)。モーセの十戒に見られる偶像崇拝や偽りや姦淫、貪りは厳しく戒められた。(Exod.ch.20)。モーセが神の山に滞在している間、麓で金の子牛を鋳て偶像を拝した民は一日で三千人が処刑された。「主もモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者は誰でも私の書から消し去る。・・わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに懲罰する」(32:28,33-34)。

 

4.5 神義論

 これらの記述において少なくとも誰にも同意できることは、これらの歴史物語の著者が自然災害の理解に関わっていることである。ひとり或いは複数の聖書記者が神から啓示を受け、歴史的事象、事件についてその神の理解を報告していることである。これは新約聖書のパウロや福音書記者たちにおいても変わらない。

 ここに記者が神の理解と看做すことがらと実際神がそう看做すことがらのあいだに緊張が生じる。これらの歴史物語においては、神の認識と記者による神の認識の理解のあいだ双方に齟齬がないものとして報告されている。記者は忠実に神の認識と意志を報告していると自覚しているが、善良な被災者は自らの落ち度を見出し得ないと主張するかもしれない。しかし、聖書に親しむことにより神はそう看做してはいないということに習熟することが求められる。ただし、読者は神の言い分に道理のあることを求めるであろう。被災者のなかには軽微な罪を犯したと神に看做されている者たちも含まれようが、誰に対しても神は一切を正確に知っており、しかも憐み深く、終わりの日に正確な審判を下す、そのような神であることを求めることは道理ある。というのも、神により創造された人類は理性をもった存在者だからである。心魂の一部を構成する理性を納得させることのできない神は神ではないであろう。

 宇宙の創造者であり万物を支配、統治している神は、その定義上、現代科学により解明されている自然法則を用いて人類の歴史に関与することができることは明らかである。当時の記者たちはプレートテクトニクスも天文学や宇宙物理も知らない。彼らの認知的制約のなかで歴史物語として神と人類の関わりを描かざるをえなかったことも理解されよう。そして当時の記録者を含め人々は一つの自然事象を神の懲罰として受け止めたことも明らかなこととして同意されよう。これらの受けとめを為してきた者たちの記録をも含め人類の歴史はその報告とともに、即ち後代の人々の認知的理解に影響を与えつつ展開していく。

 その後の時代にも自然的災害は頻発し、また理不尽に思える幼児の死など到底承認できない死が頻発して今日に至る。現代のわれらは地球の歴史に終わりがくることを確かなものとして知っている。そのとき生存者がいたとして、生きている者はすべて自然災害により死に至ることも知っている(ただし、人為的災害により終わってしまうかもしれないが、それも何らかの自然的な力能の利用による一切の死である)。科学的説明ができる現代においても、神の関与の何らかの意味付けが探索されよう。そしてそれは個々人の良心に委ねられている。神は自然事象を介して何らかの意志を知らせることができるからである。

 まず確認すべきことは疫病で苦しむひとは具体的な個々人である。明らかなことは自然災害が生じたとき、被害者である個々人と神の関係において彼らは自らの責任において、神の懲罰であるのか、或いはただの偶然であり不運によるものか、それともはたまた何であれ人類の歴史は理不尽なもので満たされているとするのか、いずれかのものとして解釈する。聖書記者たちは神の罰として伝えたが、そこに神の憐みをも見ていた。個々の出来事を介して聖書記者が受け止めた限りの神の具体的な介入を報告しており、神の理論化は試みられてはいない。明確な神学の形成を可能にするのは自己完結的な神が明らかにされた限りにおいてである。神話や歴史物語においては神は後悔したり、意見を変えたりする人間的な姿で描かれることを許容している。神の怒りや憐みはそのような具体的なやりとりのなかでしか表現できなかったからである。神は人格的な自己完結性においてご自身の人類に対する認識そして愛を御子の派遣において十全に知らしめている。神についての理論化はまことの人にしてまことの神の子の媒介者においてのみ展開されうる。

 旧約聖書が伝える祝福と懲罰の積み重ねの歴史の展開によれば、これらの解釈の選択肢のうち神の意図にかなっていると看做されるのは、何らか福音との関係において肯定的に人生を捉え直す限りにおいてのことである。旧約聖書の登場人物たちは少なくとも自らの自然的、人的災難を懲罰として受けとめたのであり、自ら悔い改め立ち返り、さらには預言者として同胞にそう呼びかけている。彼らの自覚として神が懲罰から恩恵にいたるよう関与したことは確かなことである。これは後にヨブの分析を介して確認する。

 神の意志としてもっとも明白に知らされたことがらは神自身の専決行為である御子の派遣を介した歴史的展開である。これはそれまでの個々人の神との関わりによって報告された自然的事象を媒介にした出来事よりも神の意志を明確なものとして伝える。ノアの洪水やソドムの隕石による滅びという一つの自然的な出来事が神の意志の顕れであるかどうかは、神自身による御子の派遣という神の専決行為ほどには明確ではない。或いはより適切には自然災害などの苦難を神の懲罰として受け止めるかの正しい理解は福音の啓示との関連におかれる限りにおいてのことである。神の憐みに触れる限りにおいて、懲罰は正しく理解される。

 聖書の読者は問われている、個々人についての神の認識については十全には知らされてはいないそのような神と関わっていくかという仕方で。人類はその認知的不十全性を信仰により突破してきたのである。歴史は災いによる死者たちとそれを生き延びた者たちにより信仰において不信仰において構成されていく。全体として一方向に秩序ある仕方で歴史が進行している限り、そこに神の意志の実現の道理ある過程を見て取ることはできる。

 最も明白に知らされた御子の派遣という神の専決行為は人類の罪を贖うために遂行されたものである以上、この知らしめに立つ限り、それまでの歴史にも神の訓育、祝福と懲罰による導きを理解することは道理あるものとなる。かくして、死の二重性をめぐる問いはすべてイエス・キリストの問いに収斂することが明確となる。ひとは問われている、福音の啓示はわれら個々人ひいては人類の罪を贖い、罪の給金としての死に打ち勝ち、復活の主と共に新たな生を生きるものであることを信じるかと。福音による救いの経験は前史における神の関与とその報告も道理あるものとして理解されるに至る。旧約聖書は新約聖書において報告される神の決定的な歴史への関与からして理解されるべきことを確かなこととして確認できる。

 旧約聖書の登場人物はその意味において手探りに歴史の導きを試行錯誤のうちに模索していたことになる。知らされていない救いを求め待望のエネルギーは蓄積されていったに相違ない。彼らは現実の生を神の約束に頼りつつ、その代弁者である預言者たちに頼りつつ、展開していく。死後についてもほとんど告げ知らされてはいないなかで、彼らは今・ここにおける神の憐みを求めて生きていた。

 

4.6旧約における死後の世界の思弁をブロックするもの

死は神の領域であり、聖書では一様に霊媒や口寄せ等死者と交流する者たちは汚れであり、理にかなわないものとして軽蔑される。「あなた方のあいだに、自分の子女に火の中を通らせる者、占い師、卜者(ぼくしゃ)、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない」(Deut.18:11、同様にLev.19:31、20:6、20:27、2Ki.21:6、23:24、2Chr.33:6、Isa.8:19、19:4参照)。死後の世界との交流を遮断したこの理性的な対処にこの民族の特徴を見出す。この民族が魔術や偶像をさらには恐怖などの過剰なパトスに由来する迷信を排し、生きた神との現実感の中で生きた交わりを結ぶことにこそ生の中心を置いていたことが確認される。

ダビデ王はバテシェバとの子供が病気で死ぬまでは断食し、塵灰を被り生還を祈り続けたが、死を知らされると気持ちを切り替えている。「子が生きている間は主がわたしを憐み、生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ断食して泣いたのだ。だが、死んでしまった、断食したところで何になろう。あの子を呼び戻せようか」(2Sam.12:23)。彼らは死後については神の事柄として禁欲しつつ、この人生の導きを祈り求めている。詩人は言う、「あなたは、わたしの生命を死に渡すことなく、あなたの聖者が朽ちることを許さず、生への道を教えてくださる」(Ps.16:10)。このリアリズム(現実主義)は信仰からくる。一挙手一投足が神との関わりのなかにあり、神の認可においてないときは、一回しかない現実の歴史においては、ありえた世界の夢想に耽溺することなく祝福を求めて次に進むしかないのである。

詩人にとって生きることは神に賛美を帰す機会であると捉えられている。「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐みを乞います。わたしが死んで墓にくだることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ、あなたの真実を告げ知らせるでしょうか」(Ps.30:10)。「あなたは死者に対して驚くべき御業をなさったり、死霊が起き上がってあなたを讃えるでしょうか。墓の中であなたの慈しみが、滅びの国で、あなたの真実が語られたりするでしょうか」(Ps.88:11)。生きている限りにおいて、一切を支配し導く神に賛美を捧げることができる。そのなかで祝福を頂くことができる。

 

 

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[先週の復習を兼ねた部分]

2.2 懲罰としての生物的死と永遠の生命

 聖書の死生観の最大の特徴そして躓きは、死とは神への背きに対する懲罰という理解である。パウロは言う、「ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通したのである。というのも、律法[が与えられる]までにも罪は世界にあったのであり、律法が存在しないため罪は告訴されていないが、しかし、死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配したからである」(Rom.5:12-14)。神の判断として一方で罪には軽重があり、他方すべての者は罪を犯したと神に認識されており、その後信仰により義とされた者たちも、過去に犯したどれほど軽微なものであるにしても罪の故に懲罰としての死を免れなかったと報告されている。

 神に背く者の懲罰は擬人化される罪への、勝手にせよと、「引き渡し」という仕方で遂行される(Rom.1:18-32)。パウロは旧約聖書に基づき罪の懲罰としての死を罪への隷属に対する罪からの「給金(報酬)」という理解を提示し、神に仕えることの果実としての「永遠の生命」を対抗させる。「永遠」についてここでは語りえないが、北極星をめぐる星々や掛け時計等の規準運動に基づきより先とより後の今を個々人が数えることにより時間の経過を認識するが、もしそのような運動の前後を心が測らなければ、幅のある今を生きることになる(千葉惠「時間とは何か―クロノス(運動の数)とカイロス(永遠の徴)―」『時を編む人間』田山忠行編 pp.217-247北大出版会2015、『信の哲学』上巻p.412(北大出版会2018))。

 パウロは神の前の出来事つまり神による人間認識の啓示を括弧にいれて、「わたしは汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)という自然的な肉の弱さへの譲歩のもとに人間中心的に語ることがある。「肉」とは「土」と呼ばれる根源物質から構成される身体を持つ自然的な存在者の自然的な生の原理のことを言う。そこではパウロは「義の奴隷」か「罪の奴隷」かいずれかに属しうる責任を担う自律的中立的な存在者として人間を捉え、その隷属の帰結は死か永遠の生命かであると提示することにより義の奴隷となるよう励ます。

 「汝らはまさに汝らの肢体を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの肢体を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:19-23)。

 ここでの課題は、神への背きを介して罪の奴隷となることにより、生物的な死は懲罰として与えられるという主張を正しく理解することである。罪の側から言えば、生物的死は擬人化される罪が自らの奴隷に対する給金、報酬であり、「よくやった、神に逆らった褒美をやる」というものであるとされる。それは単に生物的に息を止めるということではなく、「給金」はこの生物的死を介してお前を愛したでもあろう神に対し永遠の滅びを宣告させること、神にダメージを与えることに対する報酬を含意するであろう。神への背きである罪の勢力を増させること、それは神による懲罰としての生物的死を契機にして、神に反抗することに他ならない。「彼らは誰であれこのようなこと[前節で列挙された17種の悪行]を行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではなく、行う者たちを是認さえしている」(Rom.1:32)。パウロは「サタン」についても「われらは彼の思考内容を知らないわけではない」と言う(2Cor.2:11)。

 この死を神の側から言えば、御子の派遣により罪に勝利したのであり、パウロはその啓示の知識を前提に責任ある自由のもとにある人間にサタンの計略にはまるな、罪を乗り越え永遠の生命を獲得せよと命じることができる。聖書は死をこのような神への反抗の帰結として理解し、恩恵に基づきその克服を展開している。

 はじめに旧約聖書における死生観を確認し、この死の二重性と生の動的な関わりを明らかにしたい。死の二重性は道理あるものであるのか。死生観にいかなる変遷ないし強調点の展開が見られるのか。聖書の旧および新約聖書が展開する人類の歴史は神の計画のもとに一貫したものとして理解できるか、これらを明らかにしたい。

 

[今週の議論]

3自然災害や理不尽な死は神の懲罰であるか

3.1 神義論序説―神は本当に正しいのか―

 自然災害や疫病による死や理不尽な死さらに幼児の死も神の怒りや懲罰であるのかが問われてきた。隕石や洪水のような自然災害であれ病気であれ、その死は罪の奴隷になったことの懲罰なのであろうか(e.g.,Exod.5:3,2Sam.24:15,Ps,106;29)。親に捨てられ亡くなる幼児の死にさえひとはそれを主張するのであろうか。これは死の二重性理解の大きな躓きとなっている。

 人類の悪の蔓延りに対する神の怒りがノアの洪水を引き起こしたと報告されている。また紀元前1650年頃死海近辺のヨルダン川東岸にあったと思われるソドムとゴモラの町がその悪に対する神の怒りのもと硫黄の火により滅ぼされたと報告されている。この「硫黄の火」は近年の考古学的研究により隕石の落下であることが明らかになってきている。神は人々の不法に怒り隕石を落とし、洪水を引き起こすことがある、と聖書記者により報告されている。

 神はノアの家族を生き延びるように箱舟の建造を命じるが、そのとき「すべて肉なる者を終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らの故に不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(Gen.6:13)。またソドムについて神は三人の使いを介してアブラハムに告げた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びがとても大きい」(Gen.18:20)。彼は神に願い、五十人の義人がいたとしても滅ぼすのかとソドムの都のために執成す。彼は義人の存在を十人まで値切り、神から「その十人のために滅ぼさない」との応答を得ることができた。しかし、ソドムにはそれだけの義人を見出しえなかった。

 ダビデの時代にイスラエルにおいて北の端であるダンから南の端であるベエルシェバまで疫病がもたらされ七万人が死んだと報告されている(2Sam.24:15)。「御使いはその手をエルサレムに伸ばして滅ぼそうとしたが、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言った、「もう十分だ、その手を下ろせ」」(24:16)。この物語や義人の値切りにみられるように、旧約において神は擬人化されており、意見を変え得るものとしてあたかも人間であるかのごとくに描かれている。旧約においては、永遠の現在にいまし、一切を知り全能の神の理論的な議論は展開されることはない。当時の神は神の民ユダヤ人との交わりの歴史の展開において自らを譲歩により柔軟な神として描くことを許容している。人間化された神とまさに肉の弱さにおいてある人間のやり取りのなかで、歴史物語はこのように懲罰と憐みの神を報告する。ここに神は厳格というよりも恣意的なのではないのか、罹患させる者とエルサレムに住むそうでない者のあいだに依怙贔屓があるのではないかと問われよう。これらが神の義をめぐる神義論を要求する。生死の問題は神は本当に正しい方なのかという問いを引き起こしている。

 

3.2 福音の啓示に基づき懲罰としての死を理解する

 自然災害や幼児の死がいかに位置付けられるかは、神はそもそも正しい神であるのかをめぐる神義論として論じられている。もし神が公平であり正義でありさらに憐み深くあるなら、当事者即ち此岸性の視点からは理不尽に思える災害や苦難そして死も何らか明確に理解されうるものとなるに相違ない。神義論は理不尽な歴史的事象のみならず、パウロの所謂信仰義認論をめぐっても論争が繰り返されている。パウロにとって神が義・正義であることを確立することは重要な論証課題となっている。ここでは最初に旧約における神の義と人類の死をめぐる理解を提示し、パウロの神義論の基本的な理解の方向を続いて紹介する。

 聖書の報告によれば、旧約から新約の歴史はユダヤ民族にその都度必要とされるものが神により知らしめられており、神の意図の十全な展開は時が満ちて御子の受肉と受難そして復活において最も明白に知らしめられている。この民族の歴史は前史を持ち創造、人類の始祖の背きと懲罰としての楽園追放、その制約のもとでのアブラハムの召命に始まる。族長時代を経てモーセへの律法授与、背き、悔い改めの連続のなかで時が満ちて御子の受肉が生起しており、神の意志の民族におけるまた民族を介した世界への知らしめとして持続的かつ発展的にしかも一直線上に展開している。それは新約の出来事が常に旧約の律法や預言の成就として位置付けられることに確認される。理不尽な死も福音の啓示に向かう一つの捨て石或いは構成要素であったことが理解される。

 ここでは旧約において報告されている擬人化された神と個々人との関わりは一つのことであり、他方神による世界に対する自らの認識や意志の知らしめは別のことであることを基本的なこととしておさえておこう。神は自然災害を用いて何らか関わるであろうが、その神による懲罰はあくまで個々人の責任ある生に対して向けられている。アブラハムによるソドムの義人の値切りの話は、恐らく一人の義人のみでも、神は町を滅ぼすことはなかったであろう。その値切りにおいて義人が罪人の罪を贖うことは直接には語られないが、少なくとも義人への神による嘉み、憐みを含意しており、それは罪人への罰を神に思い留まらせる一要素であることを伝えている。個々人が自然災害や理不尽な死に対して神にどうかかわるかが残されている。

 こう語ることができるのは、神の意志は御子の受肉と受難そして復活において最も明白に知らされているからである。神が福音において知らせたことはどんな災害においても、どんな不運においてもそれを乗り越えることのできる普遍的な救済であった。個々人の災難と神の力能における普遍的な救済、この対比は常に念頭に置かれねばならない。パウロは言う、「福音は聖なる書にご自身の預言者たちを介してはるか以前に約束されたものであり、肉に即してダビデの子孫から生まれた、聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかの甦りに基づき神の御子と定められた御子ご自身、われらの主イエス・キリストについてのものである」(Rom.1:2-4)。「わたしは福音を恥としない。なぜなら、[御子の]福音はまずユダヤ人にそしてギリシャ人にもすべて信じる者に救いをもたらす神の力能だからである」(1:16)。

 人類にとってこの神の力能が顕現され、救いが出来事になった限りにおいて、ここの災いは乗り越えられるものとして位置づけられる。イエスは永遠の生命を約束する。「わたしは一人ではない、父が共にいるからである。これらを汝らに語ったのは、汝らがわたしのうちに平安を持つためである。汝らはこの世界にあって苦しみを持つ。雄々しかれ、わたしは既に世界に勝っている」(John16:32-33)。

 このことは人類の死生観の理解においてもとりわけ重要なことがらである。一般的に幼児に高等数学を教えることがふさわしくないように、神による人類の歴史そしてユダヤ民族との関わりの歴史のなかで、適切な時に適切な介入がなされていると想定することなしに、不可視な神に対する道理ある理解は望めない。この神の歴史への道理ある介入を恩恵と懲罰による人類に対する鍛錬として確認していく。

 この展開なしにユダヤ教に母体をもつキリスト教が世界宗教に発展していくことはなかったであろう。パウロにおいてはひとつの神学として神の人間認識が展開されるが、旧約聖書においては歴史物語として展開される

 

 4 旧約聖書の死生観

4.1 生命の横溢

 コンコルダンス(字句索引)によれば、聖書には「生命」(「命」)と「死」とその類縁語はそれぞれ約数百回見出すことができる(『 コルコルダンス 新共同訳聖書、聖書語句辞典』(木田、和田監修 キリスト新聞社 1997)。二千頁の一つの書物において均せば二頁に一度はいずれかとその類縁語が現れていることになる。それ故にこの書は生命と死をめぐる書であると言ってよい。一方で、悪行や暴飲暴食が死を招くということや、「ひとの生涯は草のよう、野の花のように咲く。風がその上に吹けば消え失せ、生えていたことを知る者もなくなる」という類の人生の儚さへの言及はアダムの末の誰もが語るであろう一般的な理解である(Prov.11:19,Lev.10:9,Ps.103:15,Job.14:1)。

 同様に、民族のリーダーたちは自らの使命の成就として長寿を全うしたが、そのこと自体に祝福された生を見ることも万国共通であろう。ユダヤ民族の始祖「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(Gen.25:8,15:15)。エジプトのファラオの娘の子として育てられたモーセやその後継者ヨシュアそして長老たちの死も生の成就でありその長寿は祝福されたものであった(Deut.34:1-8, Josh.24:29-31)。

 生殖を介した民族の繁栄への祝福とリーダーとして民の安寧と繁栄をもたらし、導くべく知力と気力と体力の限りを尽くした人生をまっとうするとき、その生は祝福されたものである。マキアベリは運により君主になった者たちと自らの力量で君主になった者たちの実例をあげつつ、モーセを「運ではなく、自らの力量によって君主になった人々」の一人に挙げている。バビロニアからユダヤ人を解放したペルシャ帝国の王キュロスやローマ建国の祖ロムルス等「卓越している者」、「立派な君主」であるとするが、モーセについては「神に命じられたことがらをただたんに実行しただけなので、彼を論議の対象にすべきではないかもしらない。しかし、彼はひとえに神の恵みにより、神と語るにふさわしい人に選ばれたのであるから、それだけでも賞賛に値するであろう」と特徴づける。マキアベリは彼らの台頭の歴史的状況、好機を挙げつつも「このように、それぞれのよい機会がこの人たちを成功させたわけであり、また一方、彼らの抜群の力量が機会をもたらしたのであった。こうして彼らの祖国は一段と立派になり、繁栄するようになった」(N.マキアベリ『君主論』p.63-4池田廉訳(『マキアベリ』世界の名著16中央公論社1966)。

 このように自然的な生命の儚さとそのなかにあってのリーダーとしての成功と長寿の祝福はいずれの民族にあっても共有されるものであろう。人類の始祖アダムとエヴァは祝福のもとにあり、人類の隆盛に向けて生殖も祝福されている。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(Gen.1:28)。もし罪がなければ、ひとの人生はすべて自然のままに祝福されたものであったであろう。

 

4.2 人類の始祖アダムとひとの心身の構成要素

 人類の始祖の誕生神話によれば、神が土に生命の息を吹き込むことによりひとが生きるものとなったとされている。「主なる神は土(アダマ)の塵でひと(アダム)を形づくり、その鼻に生命の息を吹きこんだ。そして人間は生きる魂となった」(Gen,2:7)。G. von Ratは言う「用いられる材料は土である、しかし人間は最初に神の口から神的な息のまったく無媒介的な吹きこみによって「生きもの(Lebewesen)」になった。この七節はかくして、ヤハヴィストには珍しいことであるが!、一つの厳密な定義を含んでいる」。G.v.Rhad,Theologie des Alten Testaments 7 Auflage Bd I,S.163 (Kaiser Verlag München 1978).

 人間は地水火風という自然の構成要素と異ならないものにより形成されていることは最も基礎的なこととして共約的に確認できることである。そのことは三十数億年の生命の進化の過程を経ての人類の誕生という理解にも道を備えることになるが、進化の問題をここで論じることはできない(『信の哲学』第二章一節四参照)。ここで確認すべきことは、なによりも、人間の構成要素に関するこの最も基礎的な事態が含意することとして、現代科学が対象とする人間と聖書の伝統のなかでパウロがナザレのイエスの生涯に基づき解明しようとする人間は少なくとも同一の質料的な基礎を持つということである。パウロは旧約以来の伝統のなかで、「最初の人間アダムは生きる魂となった、最後のアダムは生命を造る霊となった」(1Cor.15:45)と語り、生物的な生命原理として「魂」を提示し、またその延長線上に最後のアダムとしてのキリストをさらなる新たな生命の原理となる「霊」として提示している。

 人間の心身の構成原理について確認する。伝統的に「魂(phsuchē)」が生命原理として最も基礎的なものとして位置づけられる。そのうえに「心(kardia)」に内属する意識等の心的事象さらには「内なる人間」と呼ばれる心の底に内属する霊的事象が出現する。パウロにおいては「人間」は「最初の人間」とその生物的な死を介して「第二の人間」双方から成り立つと想定されている。第一の人間は「魂的身体」を持ち、第二の人間は「霊的身体」を持つ(1Cor.15:44)。第一の人間アダムは「土に基づき土製の」組成を持ち「生きる魂」となった(1Cor.15:45)。第二の人間は「天から」の者であり、「終局のアダム」と呼ばれるキリストが「生命を造る霊」となったことに基礎づけられる(1Cor.15:47-48)。

 この事態は神話的には鼻に吹き込まれた「生命の息」と呼ばれる人間の魂体に関し、生物的な生命に関しては現代科学の知見は日進月歩であるが、現代科学がまだ解明できていないことがらを或いは異なる仕方で表現していることがらをパウロはすでに把握している可能性を否定しない。パウロは「霊」をその心身、魂体を統一する最も基礎的な要素として提示している。聖霊を受けたか否かについて、新約聖書は帰結主義をとっており、愛の実践や平安、喜びの果実を得ているとき、即ち人格的成長が確認されるとき、その証があると主張される(Luk.7:44,Gal.5:22)。

 アダムの存在論的な身分はいかなるものか。土製の自然に還元できるのか。神が土製のものに息を吹き込んで「生きる魂」となった以上、人間は実質的には霊的なものにより形成されている。しかし、聖霊が改めて注がれることは多くの箇所で語られている以上、この創造の息吹は聖霊を意味してはいない。生命原理としての魂のことが語られていることは明らかであり、その息吹は続いて与えられるでもあろう聖霊の注ぎを受ける部位として理解することができる。少なくとも、単に土だけによって造られているわけではないので、何らかの神的行為に対応しうるものが内在していると理解すべきであろう。

 実際、次のようにも言われている。「魂的人間は神の霊のことがらを受け取らない。というのも彼には愚かでありそして知ることができないからである、といのもそれは霊的に吟味されるからである。霊的な者はすべてを吟味するが、彼自身は誰によっても吟味されない」(1Cor.2:14)。霊的な人間は最も包括的に人間であることを把握した者であり、人間は肉の魂的な生命に還元されないことを知っている。生命と魂そして永遠の生命につらなる霊について即ち聖書が展開する心身論についてはここで十全に議論することはできない(『信の哲学』第四章パウロの心身論)。

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秋の連続講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(1)―聖書の死生観における死の二重性序論―

2021年度秋学期最初の講義原稿をアップします。録音は脱線しつつ自由に話しています。聖書の死生観についてクリスマス頃まで連続で講義予定です。なお、改定日10月3日には先週の録音の文章より改善しています。録音は変えられないため、文章により改善することにより、連続講義に対応させていきます(9/26改定日10/3)。

日曜聖書講義 2021年9月26日

秋の連続聖書講義:神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導く(1)

―聖書の死生観における死の二重性序論―

                       千葉 惠

「わたしは裸で母の胎をでた。また裸で帰ろう。主与え、主取りたまう、主の御名は褒むべきかな」(Job.1:20)

「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、なかにはいっても、主イエスの遺体が見当たらなかった。途方にくれていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ生きておられる方を死者のなかに捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」(Luk.24:2-6)。

 

1序―死生観のありうる立場のなかでの聖書の特徴―

 1.1 生と死の動的な関わりの探求

 2021年夏、疫病の蔓延で適切な医療を受けられず、感染することさえ許されない状況がわが国においても出来し、死は何か身近なものとしてひとびとを不安と恐れに陥れている。日常生活に訃報の報せが日々飛びかい、ひとの意識活動は感染防止の生活、日々の糧の摂取即ち延命処置に費やされている。よく生きるために働いているはずなのに、身体及び精神活動の制約のなかで死の影に怯えつつ死に向かって生きている。医療崩壊のみならず、生が死に飲み込まれる人生崩壊の兆しさえこの国に広がっている。

 それでも心はかつて疫病や過酷な歴史に苦しんできた歴史上の人々と変わらない。死の不安や恐怖は身体の衰えとともにこの生命が途中で燃え尽きてしまうことに対する未練とともに湧き上がろう、或いは死後まったく無に帰するのかそれとも厳粛な法則のもと人生に対する公平な審判が遂行されるのか、神に対する畏れがこれまでの生に対する後悔や感謝、さらには賛美と共に湧き上がろう。

 孔子は、弟子の子路が死について尋ねたとき、「わたしは生を知らない、どうして死について知っているだろうか」と応えたと言う(『論語』11-11)。われらの生はその始まりと終わりにより囲まれているが、知らないもの即ち「出生前」と「死後」に囲まれている。この当たり前の事実が人生の醍醐味を伝える。われらが生まれる時、肉の父母を選択できない、さらにはその諸条件や環境を選択できない。この不平等さに面して、或る者は自らの誕生を呪うであろうし、或る者はその境遇を感謝することであろう。しかし、この事実は例外なしにすべてのひとに適用されることに直に気づく。この意味において、ひとは等しい者として造られている。個々人の差異はその唯一性を形作っている。

 われらはわれらの人生の出発位置における差異がもたらすであろう或る意味における不平等な帰結を否定できないけれども、それぞれの個々人の唯一性はわれら個々人にとって貴重なものと捉えられうる。もしわれらが、そのもとに皆が正確にして公平に考慮されうる平等主義的規準を何らか打ち立てることができるなら、われらの人生はまったくわれら個々人の責任に帰せられることになる。人類の歴史において人々は秩序ある社会を維持すべく、象徴的には「朕は国家なり」という行政、律法、司法一切をわが物にする動きに対抗して、この平等主義的な観点を宗教においてまた社会契約説等の政治制度、社会活動においてそして心魂の在りようの哲学的また科学的考察を通じて打ち立てようとしてきた。

 死後についてなにがしか語ることは宗教の大きな仕事であるが、神など超越者をめぐっては、三つの態度が考えられる。対立する二つの立場を突き詰めると、一切を正確に知り公平な審判を遂行する一人の存在者がいるという唯一神論としての有神論がある。他方、個々人の一切はこの生の活動期間ののちに無に帰するという無神論がある。双方とも明確な信念のもとに生を構築する。第三の立場として神についてはひとは知りえないという不可知論がその間にあり、最も理性的な態度のように見える。しかし、不可知論は神が存在する、それ故に死後神の前に立ち何らかの審判を受けるという想定のもとで、日々迫られる個々の行為を選択するという生を構築できないため、有神論を懐疑においてであれ真剣に受け止めない限り、事実上、無神論に吸収される。

 無神論に基づく死生観はここで展開する有神論の論述の否定として理解される。不可知論は判断保留のまま生を遂行する。孔子の立場は生が何であるかを知れば、死を理解できるかもしれないというものであり、強い不可知論ではない。とはいえ、これらの立場は生を死によって知り、死を生によって知るという動的な関係において捉えてはいない。ひとは、一方で過酷な生のゆえに死を望むことがある。そこでの暗黙の前提には死は一切の消滅であり生が持つ過酷さをもたないかのごとき希望的観測がある。そうかもしれない、そうでないかもしれない。

 他方、確かに生は常に死に向かっているが、その死が一刻一刻迫っているという事実が、生に意味を与え死に飲み込まれない肯定的な生の構築に向かわせる。その意味で死の何らかの理解が生を構成している。生と死を包括的な視点から捉えることにより、生死の分断を免れることができる。ひとはそのような総合的な、しかも前向きな理解を求める。実際、ひとは生きていることの充実感を得るには未来に時間が開かれているという感覚を必要としている。死はその前向き、肯定的な生の構成要素でありうる。神は人類の歴史においてそのような機能を担ってきたのであり、懐疑においてであれ有神論を真剣に考慮する或いは信じることのみが生死を真剣に受け止めることを可能にさせる。換言すれば、神を相手にするのでなければ、生死を動的な連関のもとで総合的に受け止めることはできない。「総合的」とは人類の歴史を考慮しつつそのなかに個人を位置づけ、各自が神への信仰、眼差しのなかで個々の古き自己の死と新しい自己の生命の再生の経験のフィードバック(送り返し)を介して全体としての自己理解を形成深化させることである。その経験とは例えば「「わが足滑りぬ」と叫んだとき、主よ、汝の憐みわれを支えり」という類のものである(Ps.94:18)。ひとはそれぞれ個人史を持つ。

 

1.2 一神教の歴史のなかでの確立

 今理性のみによる神の存在証明を遂行できないが、ここでは有神論しかも唯一神との関わりにおいてひとの生死を位置づけている聖書の死生観を考察したい。一人の神のみを拝するということが聖書の民族の最大の特徴である。「わたしはヤハウェである。わたしの他に神はない、一人もない。・・わたしは光を造りまた闇を造る、平和をもたらし、災いを造る」(Isa.45:5-7)。旧約聖書には一人の神の働き即ち啓示行為の報告で満ちているが、一神教という教義が理論として展開されてはいるわけではない。「神は一人である」(Rom.3:30)。一人の神しかいないということは神の統一的な働きに対する個々人の歴史を介しての認識と承認のなかで確立されていったと思われる。アブラハム、イサク、ヤコブそしてヨセフという個々人においてもその集積である民族においても、人生の流れの中で一人の神を相手にしているという認識が与えられてきたのだと思われる。個人のまた民族の歴史が或る一つの流れをもっており、そこに常に同一の神が関与していることの報告が聖書において蓄積されている。

 ここではそれを待望と成就という一直線の歴史の展開において確認する。それがいかなる準備のもとに神の子の啓示を待望したのか、そしてみ言葉の受肉と受難に続く復活がどのような生と死の理解を人類にもたらしたのかその解明の道筋をつかみたい。神は個々人の生死に関わりつつ福音によって歴史を導きたまう。ユダヤ人の歴史は御子の派遣に向かっており、その後は新天新地の創造における御子の再臨に向かっている。浅野順一は言う、「聖書の宗教は歴史に根差す宗教であり、その啓示は歴史的である。歴史を離れて啓示の観念は成立しない」(浅野順一『イスラエル預言者の神学』p.3(創文社1955)。ここでは数回にわたり、世界宗教となる契機の事件となったキリストの復活、甦りに至る、聖書に報告されている人類およびユダヤ民族の歩みを考察する。

 

2 聖書の生死の基本的理解と躓き

2.1 神に導かれる歴史と個々人の責任―死の二重性―

 聖書の死生観は神が歴史に関わるその経過の中で形成されており、人類そしてユダヤ民族の歴史とともにその死生観も変遷、成長しうるものである。紀元前1700年頃からのアブラハム以来の歴史の展開において民族の苦難や立ち帰りを通じて救済の福音への収斂を確認できる。旧約聖書において、神は個々人の責任における神への畏れと律法の遵守をめぐって祝福と懲罰において関わっていることが縷々報告されている。そこには一貫してモーセ律法に見られる神の意志の遂行が問題とされており、それは唯一の神による自らの民への関わり方が或る統一的な計画のもとに遂行され展開されていることを含意する。御子の福音の啓示にすべてが向かうものとして秩序づけられるとき、理不尽に思われる個々人の死も理解されうるものとなる。神と個々人の関わりとその理解は個々人の責任に帰せられるが、福音の啓示は全人類に向けられており、神の意志がそこにおいて最も明白なものとして知らされている。「神は独り子を賜うほどこの世界を愛した、それは彼を信じる者がすべて滅びることなく永遠の生命を獲得するためである」(John.3:16)。ひとはこの福音によって自らの生死を理解するよう促されている。

 生物的な死は自然的なものである。それは自然科学によって解明されうるものであるが、聖書の報告によれば、生と死は「産めよ、増えよ、地に満てよ」という生の祝福のもと長寿を全うするそのような自然的な理解とともに、生の困難とその帰結である死は神への背きとしての罪に対する懲罰であると理解される。われらが土から生まれ土に帰り、それで終わりであることを自然的であると理解していても、福音において明らかにされたように永遠の生命こそ人間の本来性であるという理解を持つ神にとっては自然的な死即無という理解は残念なことであり奮起を期待しての懲らしめ、懲罰を意味することになる。これを「死の二重性(duality of death)」と呼ぶ。

 他方、罪から自由にされた義人の生物的な死は眠りとなる。死を懲罰として捉えることは、その罪が赦される限り、その死を乗り越えることができるものであり、自然的な死は人類にとって、最後的なものではないことを含意する。罪赦された者は「新しい被造物」として新しい生を生きる(2Cor.5:17)。そして罪赦されたことの証は隣人を愛しうることであるとされる(Luk.7:47)。

 この意味において死は生を変革する力を持ち、人生は罪の値としての死を乗り越え、永遠の生命を獲得することが目標となる。イエスは端的に言う、「ひと[心]が全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひと[心]は自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えることになるのか」(Mat.16:26)。彼はまた言う、「身体を破壊しても魂[生命の源]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:28)。

 聖書は生と死を分断することなく、双方を全知であり全能である創造者にして救済者である神との関わりにおいて捉える。預言者エゼキエルはバビロン捕囚のただなかで神の言葉を取次ぐ、「すべての生命はわたし[神]のものである。父の生命も子の生命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その者は死ぬ」(Ezek.18:3)。エレミヤはバビロン王ネブカドレツァルの侵攻を預言し神の言葉を取次ぐ。「見よ、わたしは汝らの前に生命の道と死の道を置く。この都に留まる者は戦いと飢饉と疫病によって死ぬ」(Jer.21:8)。生死は神に属するものである。「何ごとにも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時がある」(Eccl.3:1-2)。

 個々人の一切が神の経綸のもとにある。死への恐怖は怒る神への恐怖であったのである。「[業の]律法は怒りをもたらす」(Rom.4:15)。「信の律法」に基づく神との和解は死を乗り越えさせ平安を得るに至るものとなる(Rom.3:27)。聖書にはひとびとがその死を見ない平安な退去としての死が報告されている(Gen.5:24)。死が複層的に受け止められるとき、「一つの夜[死]が万人を待つ(omnes una manet nox)」(Horatius)という、そして、後がない一回限りの生を燃焼させ歴史に名を残す「千載青史に列するを得ん」(頼山陽)という単純なものではなくなる。個々人の生と死が一つの計画、一つの経綸のもとに置かれるとき、いかなる生の努力も風化し無に帰するという空しきものとはならなくなる。生きた証として、永遠の相のもとにあるこの美しい地球とその歴史にただ真実なもの、善きもの、美しいものだけを遺していきたいという思いに清められることであろう。

 なお、もし一切が予め定められロボットのように神の計画に組み込まれるだけの人生であるなら、それはまた空しいのではないかという懐疑が提示されよう。それに対しては肉の弱さに譲歩して人間中心的に語る限り、ひとは選択において自由な行為主体であることを確保でき、また個々人の救いをめぐる神の認識は福音の啓示においてほどには誰にも明確に知らされてはいないということにより応答できる。そこでは「畏れと慄きをもって救いを全うせよ」と命じられうる(Phil.2:12)。ひとの人生は各自の責任においてある。

 

2.2 懲罰としての生物的死と永遠の生命

 聖書の死生観の最大の特徴そして躓きは、死とは神への背きに対する懲罰という理解である。「ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通したのである。というのも、律法[が与えられる]までにも罪は世界にあったのであり、律法が存在しないため罪は告訴されていないが、しかし、死は、アダムからモーセに至るまで、アダムの背きと同じ仕方で罪を犯さなかった者たちをも支配したからである」(Rom.5:12-14)。神の判断として一方で罪には軽重があり、他方すべての者は罪を犯したと神に認識されており、その後信仰により義とされた者たちも、過去に犯したどれほど軽微なものであるにしても罪の故に懲罰としての死を免れなかったと報告されている。

 神に背く者の懲罰は擬人化される罪への、勝手にせよと、「引き渡し」という仕方で遂行される(Rom.1:18-32)。パウロは旧約聖書に基づき罪の懲罰としての死を罪への隷属に対する罪からの「給金(報酬)」という理解を提示し、神に仕えることの果実としての「永遠の生命」を対抗させる。「永遠」についてここでは語りえないが、北極星をめぐる星々や掛け時計等の規準運動に基づきより先とより後の今を個々人が数えることにより時間の経過を認識するが、もしそのような運動の前後を心が測らなければ、幅のある今を生きることになる(千葉惠「時間とは何か―クロノス(運動の数)とカイロス(永遠の徴)―」『時を編む人間』田山忠行編 pp.217-247北大出版会2015、『信の哲学』上巻p.412(北大出版会2018))。

 パウロは神の前の出来事つまり神による人間認識の啓示を括弧にいれて、「わたしは汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)という自然的な肉の弱さへの譲歩のもとに人間中心的に語ることがある。「肉」とは「土」と呼ばれる根源物質から構成される身体を持つ自然的な存在者の自然的な生の原理のことを言う。そこではパウロは「義の奴隷」か「罪の奴隷」かいずれかに属しうる責任を担う自律的中立的な存在者として人間を捉え、その隷属の帰結は死か永遠の生命かであると提示することにより義の奴隷となるよう励ます。

 「汝らはまさに汝らの肢体を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの肢体を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:19-23)。

 ここでの課題は、神への背きを介して罪の奴隷となることにより、生物的な死は懲罰として与えられるという主張を正しく理解することである。罪の側から言えば、生物的死は擬人化される罪が自らの奴隷に対する給金、報酬であり、「よくやった、神に逆らった褒美をやる」というものであるとされる。それは単に生物的に息を止めるということではなく、「給金」はこの生物的死を介してお前を愛したでもあろう神に対し永遠の滅びを宣告させること、神にダメージを与えることに対する報酬を含意するであろう。神への背きである罪の勢力を増させること、それは神による懲罰としての生物的死を契機にして、神に反抗することに他ならない。「彼らは誰であれこのようなこと[前節で列挙された17種の悪行]を行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではなく、行う者たちを是認さえしている」(Rom.1:32)。パウロは「サタン」についても「われらは彼の思考内容を知らないわけではない」と言う(2Cor.2:11)。

 この死を神の側から言えば、御子の派遣により罪に勝利したのであり、パウロはその啓示の知識を前提に責任ある自由のもとにある人間にサタンの計略にはまるな、罪を乗り越え永遠の生命を獲得せよと命じることができる。聖書は死をこのような神への反抗の帰結として理解し、恩恵に基づきその克服を展開している。

 はじめに旧約聖書における死生観を確認し、この死の二重性と生の動的な関わりを明らかにしたい。死の二重性は道理あるものであるのか。死生観にいかなる変遷ないし強調点の展開が見られるのか。聖書の旧および新約聖書が展開する人類の歴史は神の計画のもとに一貫したものとして理解できるか、これらを明らかにしたい。

 

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キリストにある一つの体(2)―党派心を乗り越える

 キリストにある一つの体(2)―党派心を乗り越える―

                       日曜聖書講義 2021年8月1日

[録音は自由に話しており、朗読は1と5途中からである。先週アップしたものとは連続性を重視したが、文章としては全体を書き直している。一学期は17回目の本日で終わる。お役にたちうるなら、幸いです]。

 

 聖書箇所

「弟子たちのあいだで、誰が自分たちの中でより偉いか、推し量りが生じた。イエスは彼らの心の推し量りを知って、一人の子供の手を取り自らのかたわらにその子を立たせた。そして彼らに言った、「誰かこの子供をわたしの名のうえで受け入れるなら、その者はわたしを受入れている。誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる。というのも、汝らすべての者たちのなかでより一層小さな者である者はその者こそ大きいからである」。ヨハネは答えて言った。「先生、われらは或る者があなたの名前において悪霊を追い出しているのを見たので、彼にやめさせました、彼はわれらと一緒に[あなたに]つき従おうとしないからです。イエスは彼に言った、汝ら妨げるな。というのも汝らに対抗しない者は、汝らの味方である」(Luk.9:46-50)。

 

1 はじめに

 今東京オリンピックたけなわである。爆発的感染拡大のただなかで、日本選手たちは競技に参加しうることを喜び感謝し、その感謝を伝えようとする思いが選手たちの躍進の力になっていると思われる。サッカーの森保監督はそう語っていた。確かに、開催が危ぶまれた状況のなかで、アスリートたちはこの機会を得たのであり、若者たちはそこで輝いている。彼らのひたむきな姿に感動と勇気を与えられる。

 登戸学寮の若者たちもそれぞれのオリンピック、甲子園、ワールドカップがあることであろう。或いは、一切の営みに虚しさがつきまとうひともいよう。確かにコーヘレトは言う、「空の空、空の空なるかな、すべては空なり、日の下にひとの労して為すところの諸々の働きはその身に何の益かあらん。世は去り世は来る」(Ecl.1:2)。これらの定まらない思いに対しては、誰もが心魂のポテンシャルとして二番底をもっており、足弱であっても、或いは足弱であるからこそ、「肉」と呼ばれる身体を持つ自然的存在者の生の原理の底に、「内なる人」と呼ばれる神から力をいただく二番底があることに眼差しを向ける。誰もがこの常に刷新を必要とする部位を持っており、心をいつも新しくすることにより、新たな力をいただき自らの目標に日々精進することができる。

ひとは言うでもあろう、アスリートたちは朽ちる冠のためにあれだけ情熱をかたむけているのに、信仰者は朽ちない栄光の義の冠のためにどれだけ集中しているのか、と。確かに朽ちるものと朽ちないものの栄光には差があるであろうが、しかしここでもひとは同じ心魂(こころ)を持っていることに注意を向けよう。パウロは言う、「汝ら知らぬか、競技場で走る者たちはみな走るが、一人が賞を獲得する。汝らそれを獲得すべくこう走りなさい。すべて競技をする者はなにごとにも自制する、かくして、彼らは、かたや、朽ちる冠を獲得すべく、われらは朽ちぬ冠を獲得すべく自制する。それ故、わたしは定めのない漫然とした仕方で走ることはない、わたしは空を撃つそのような仕方で拳闘をすることをしない。むしろ、他の人々になんらか宣教しながら、自ら失格者とならないように、わたしはわが体を拘束する」(1Cor.9:24-27)。朽ちる冠であれ、朽ちない冠であれ、目標を定めそれを獲得するひたむきさ、集中の様式は変らない。このことは朽ちない冠をめざすのであれ、自ら自制しつつひたむきに習練するアスリートは朽ちない冠を得るよい訓練をしているということを含意する。求める方向さえ変われば、それまでの自制と修錬は朽ちない冠にむけても有益であることであろう。信仰は自らの生の方向、まなざしを天に向け、まず神との正しい関係の確立を求める。そして心魂における信の根源性は常にそこに立ち帰る以外に心の刷新はないことを含意している。信仰はそこにおいて神の意志、愛が知らされている受肉した神の御子イエス・キリストを介して神に眼差しを向ける。

 信仰の世界は幼子の世界であった。幼子が天国の上客であった。小さい者を受入れるとき、イエスを受入れると言われていた。イエスは小さな者を受入れ愛することは自分を受入れることだと言う。この地上で小さい者は天国で大きい偉い者であると彼は主張する。そのことを明らかにすべく彼は自ら父とともにある偉大なる栄光を捨てて自らひととなった。イエスは小さい被造物ひととなった。イエスは十二弟子を伝道に派遣し、その成果の報告を受けたとき、大きな喜びに捕らわれたことが報告されている。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びに溢れて言われた。「天地の主である父よ、褒めたたえます。汝はこれらのことを知恵者や学識ある者には隠して、幼子たちに顕されました。その通りです、父よ、というのも汝の御前に[汝の]嘉みしたまうものごとがこうして生起したからです」 (Luk.10:21)。

われらは競争世界のなかで少しでも大きな者になろうと努力しているのではないだろうか。しかし、二番底、「内なる人」の力を信じる者は、自然な欲望によってではなく、清められて生きることこそ魅力に思えてくる。イエスのようになる者は小さな者たちを受入れる。ひとはここに躓くが、二番底に生起する信仰は他者との競争のことがらではなく、神との端的な関係である限り、ただ心魂の根源における信頼し委ね任せまつるそれだけでよいということが全知であり全能の神との関係においては相応しい。

 今日も信仰と憐みについて学んでいきたい。先週の続きであり、共同体はイエス・キリストにあって一つの体を形成するとき、各器官、各部位は有機的な働きのゆえに、力を発揮するものとなることを学びたい。一つの体を構成するには相互のリスペクトが不可欠である。とりわけ、人間的には小さい取るに足らないと思われる者こそイエスは招き給うのであるから、われらの心が清められ、キリストの思いが自らにも働くことを求める。

 

2 イエスの柔和こそ平和を造る

 憐み深いイエスに従う歩みは共同体において、キリストを首(かしら)とする一つの有機体を形成する。各自はその統一的な生命ある有機体の各部位として自らの特徴を用いて活動し、その体につらなり貢献する。それによりイエスによるご自身が神の子であるという信とそれに基づく憐みは、ひとに特権意識ではなく、低くなることを教え、自らのグループの特権的な自己栄光化を阻み他のグループを見下す党派心を乗り越えさせる。

 イエスは弟子たちによる伝道がこの世界で重く見られない幼子のような者たちを介して実現されていること、すなわちこの世の権力を介せずに実現されていることを賛美した。それ故に、これらの栄光が権力者たちに憎まれ妬まれ彼に苦難の道を強いている。権力者たちに媚び諂い、彼らに奇跡をなす権能を与えることはなかったからである。

 福音とは、博識な者や立派な者たちのものではなく、モーセの業の律法を突破するものとして、他に縋ることのできない罪人を招く信の律法のことである。心魂の根源に信が生起するとき、救いの確かさのなかで平安と喜びが出来事となるまさにそのものであった。心魂の根底が偽りから、裏切りから解放されるのは、「目には目を、歯には歯を」のように常に比較考量のもとにある業のモーセ律法の遂行によってではなく、比較を絶した善が、恩恵としての罪の赦しがこの世界に実現しそしてその確かさへの信に基づき、人生の一切を秩序づけるときである。この世のものに頼るものがあればあるほど、ひとはこの根源的な信に立ち返ることが難しい。「祝福されている、その霊によって貧しい者たち」(Mat.5:3)。この世にすがるべきいかなる者も持たない者、この世のいかなるものによっても満たされない者、そういう者たちが神を求める。

 福音はこの神への眼差し求めがイエスにおいて成就されたと告げ知らせる。イエスは「天の父の子」にふさわしいはずの平安と喜びそして愛がこの地上にはなく、羊飼いのいない羊のように彷徨っている群衆に深い憐みを感じた。そして、天国について教え始めた。「群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れみ」、「彼らに多くのことを教え始められた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。その憐みのなかでの神の国の宣教すなわち神の国がどのようなものであるかについての「教え」とそれがもたらす知識は弱ったひとびとを救いだす力である。イエスの憐みは天の父の子がいかなるものであるかの知識と、それとの対比、コントラストにおいて、何も知らずに彷徨っている人々を見たことのギャップから自然に湧き出てくるものであった。

 彼のこの憐みのパトスと平和と柔和な心持こそ、ひとびとのあいだの争い、諍いそして憎悪さらには国内での分派、分裂、さらには国家同士の戦争のうちに時を過ごす人々の悲惨な現状を克服したいという意志が彼の公生涯を特徴づけた。「河あり、その流れは神の都を喜ばしめ、至上者(いとたかきもの)の住みたまふ聖所をよろこばしむ。神そのなかにいませば都は動かじ、神は朝つとにこれを助けたまわん。もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国はうごきたり、神その声をいだしたまへば、地はやがてとけぬ。万軍の主はわれらとともなり、ヤコブの神はわれらのたかき櫓(やぐら)なり。きたりて主の御業をみよ、主はおほくのおそるべきことを地に為したまへり。主は地のはてまで戦いをやめしめ弓をおをり、矛(ほこ)をたち戦車(いくさぐるま)を火にてやきたまふ。汝ら静まりてわれの神たるを知れ」(Ps.46:4-10)。

 神はこの約束を守るべく、御子を地上に派遣された。平和の君は驢馬(ロバ)の子に乗ってくる。イエスは驢馬の子にのってやってくる平和の君であった。「平和を造る者」は山上の説教の第七福であった。その彼の軛に繋がれて歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与える者となる。平和の君だからである。ゼカリアは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。この神の御子の故に人類は平和への希望を持つことができる。

 イエスは彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(Luk.11:28)。

 

3 キリストにある一つの体の形成

 イエスと共にある平安は次第に隣人に伝わっていく。そしてキリストにある一つの体を形成していく。キリストが共にいます限り、ひとは彼を介して一つの有機的な体を構成すると考えられている。その特徴はパウロによれば同じ思いを持つということ、即ち、キリストとの関連において一切を考察するようになるということである。「われらの主イエス・キリストによってわたしは汝らに勧める、それは汝らが皆同じことを語りそして汝らのあいだに分裂がなく、汝らが同じ叡知においてまた同じ認識において秩序づけられてあるためである」(1Cor.1:10)。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。

 キリストへの帰一的なかかわりを持つ限り、ひとはそれぞれの個性を持ちながら同じ思いを共有し、それぞれの特徴をその一つの体の働きのために発揮する。イエスはご自身を葡萄の木にわれらをその枝になぞらえている (John.15:1-5)。イエスに繋がれている限り「多くの実」を結ぶとされるが、それは何よりも農夫である父なる神が喜ばれるものである。それは天国における果実であり、必ずしもこの世の成功ではないであろう。

 われらはキリストにつらなる体の各部位である(1Cor.12:12-27)。まずわれらに求められているのは信仰により神との正しい関係にはいることである。そのとき、ひとは一つの体の一部位であることを、自らの役割を知るに至る。種蒔きのたとえ話にあるように、自らが良き土地に蒔かれた種であることを知り、自らの自然的な与件の能力の30倍、50倍の実りをもたらすこともあろう。

 神との正しい関係におかれるとき、われらはひととの横の繋がりにおいても秩序づけられる。われらはキリストを介してそれぞれの人のタレント、特徴を知り適切にお互いに位置付けることができる。各人の能力や才能を神との関わりで見るがゆえに、直接的な関係において生じる嫉妬や羨望とは無縁であり、いかにそれぞれの能力が協力しあって、良き実を結ぶに至るかに集中する。「汝らはキリストの体であり、諸部分に基づく器官である」(1Cor.12:27)。身体の諸器官は中枢的な指令部位との関連においてそれぞれの機能を持つ。一つの霊を飲んだ者たちはキリストの体となり、有機的に一つのことを思いまた行う。

 この有機体の主張には、血液が体全体をめぐるように、聖霊が中枢部から注がれそれぞれの器官をめぐり一なる働きを遂行させる。聖霊は人々に喜びを与え秩序ある働きを生み出す。神の憐みのもと個々人に聖霊を与えられることもあろうが、「ペンテコステ(五旬祭)」のときのように、共同体に集団で与えられることもある。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえに留まった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話だした」(Act.2:1-4)。

 人類はこのような仕方で憐みを受けつつ、神とひととの交わりを形成してきた。有機的な一つの体として神に栄光を帰するそのような共同体、集団が出現したなら、どんなに幸いなことであろうか。しかし、歴史はそのような統一された共同体とともにその共同体の分裂を報告してきた。

 

4 党派心の根にある誘惑への身の引き渡し

 今回のテクストの、この誰が偉いかという議論はただちに党派主義(sectarianism)に通じる。一番偉い者は子分を従え、二番目に偉い者はその子分よりの下の子分を従えることになり、権力、覇権を争うことになるであろう。その一例が、ヨハネの応答にはしなくも顕れている。或る者がイエスの名前に言及することにより、悪霊を追い出していた。ここで悪霊とは、イエスの癒しの事例によれば、暴れまわる凶暴さを示すそのような手に負えない乱暴狼藉を働く一種の心の病である。それを或るひとがイエスの名によって癒したと報告されている。

 イエスが非ユダヤ人の土地であるガダラ地方に着くと、悪霊に憑りつかれた者は不浄とされる墓場からでてきたと報告されている。ルカによれば、「ゲラサ」と呼ばれる土地の「墓地に住んでいた」裸の男が悪霊につかれていたが、イエスは悪霊を豚に乗り移らせたことにより正気に戻った男の話が報告されている(Luk.8:27)。ガダラにおいては、イエスは憑りついた悪霊を追い出し豚のなかに追いやると、豚の群れは下の湖になだれ込み死んだ。彼らが正気に戻ったかは報告されていないが、憑りつきから解放された以上、ゲラサの墓堀人と同様癒されたのであろう。

 他方、豚飼いたちは豚を死なされたことからくる経済的損失を蒙ったために、イエスを村から追い出した。地上の宝に心を奪われている者はたとえ神の働きを目にしても自らの利益にとらわれ、人が癒されたことで神を賛美することはなかった。まさに「汝の宝のあるところ、汝の心もある」(Mat.6:21)である。われらも悪霊に憑依されることを何らか経験している。心の平衡を失い平安が去ってしまい心がささくれ立ち、悪しき思いに満たされることを経験する。もちろんそこに程度はあるが、何か自らのうちにないものに心魂を引き渡してしまっているそのような感覚を持つこともあろう。ふとしたことで平安を取り戻したときなど、正気を失っていたと気づくことがある。二度と罪の奴隷の軛に繋がれたくないと思う。

 一旦、自らの心魂を引き渡してしまうとどこまでもそれはエスカレートしてしまう。「穢れた霊は、ひとから出ていくと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、「出てきたわが家に戻ろう」と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、でかけて行き、自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう」(Mat.12:43-45)。ひとは自らの心に生の方向を失うとき、空虚となり、誘惑にかられやすい。一度、何らかの憐みにより悪しき思いから解放されたとしても、聖なるものに守られないとき、もっと悪い思いがひとを虜にすることがある。これはわれらも何らか経験していることである。

 イエスの聖性に気が付くとき、自らの穢れの深刻さ、尋常ではなかったことに気づかされ身震いする。眠らされていたのである。悪霊に憑りつかれるこれらの話は、過去のおとぎ話ではない。聖なるものとの対比においてのみ、われらの悪しき思いは聖性に対抗する穢れや悪の仕業であることを知るに至る。

 パウロと共に心を新たにする。「15それでは、どうか。われらは罪を犯そうか、われらは律法のもとにではなく、恩恵のもとにあるのだから。断じて然らず。16汝ら知らぬか、汝らが自らを奴隷として従がうべく捧げるその者に、死に至る罪のであれ、義に至る従順のであれ、汝らは汝らが服従するその者にとって奴隷であることを。17しかし、神に感謝あれ、なぜなら汝らは罪の奴隷であったが、汝らが心から手渡された教えの型に服従し、18罪から自由にされ義への奴隷とされたからである。19われは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る。すなわち、汝らはまさに汝らの器官を無律法に至る不潔と、無律法に奴隷として捧げたごとくに、今や汝らの器官を聖さに至る義に奴隷として捧げよ。20というのも、汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であったからである。21では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである。22しかし、今や、汝らは罪から自由にされ神に仕えており、汝らの聖さに至る果実を持している、その終局は永遠の生命である。23なぜなら、罪の[奴隷への]給金は死であるが、神の賜物はわれらの主キリスト・イエスにある永遠の生命だからである」(Rom.6:15-23)。われらは罪の奴隷であったとき、それが自らに破滅をもたらすものに魂を売りわたしていることに気が付かない。そのコントラストを、即ち聖なるものを知ることによってのみ、それがいかに醜悪なものかを知るにいたるかるである。

 醜悪なものとは、或る場合には、自分たちは特別であると他者や他のグループと差別化をはかる党派的な思考、党派主義である。これもコントラストを知ることなしには、いかに醜悪な思考であるかに気付くことはない。党派心は人間の自然であって、誰かに従属することにより保護を受けつつ、敵対する者に対しては蹴落とし、破滅させようとし居丈高になる。弟子ヨハネもその一人であった。権力や数を支配する者が偉い者である。イエスはその考えと戦う。

 

5 宗教における党派心とその乗り越え―黒崎先生の場合―

 「ルカ」9章のテクストに戻ろう。ヨハネは、イエスの名によって悪霊を追い出している者を咎めた。それは「われらと一緒に」イエスに「つき従う」ことをしなかったからであるとされる。これはいかにもイエスのことに配慮し、彼を崇める敬虔な態度のように見える。しかし、これは自分たちのグループを特権的なものだと思い込んでいることからくる、他人の働きを妨害するものだとイエスにより、諫められる。その男は悪霊の追い出しという良き癒しをおこなっているのであり、ことがらとして責められるものではない。われらも縄張り意識を持つことがある。誰かが同様のことを為しているとき、自らの業界、職域、専門に無断で入り込んでいるように思え、自らその領域の権威であると看做す自己に敬意が払われない、侵害されていると感じる。これは心の狭い、偏狭な自意識過剰である。イエスは言う、「汝らに対抗しない者は、汝らの味方である」(Mat.9:50)。

 黒崎先生は党派心の分析とイエスにおける信仰の異なりを説明する。「この場合ヨハネは既に信仰を自分たちのグループの独占としようとしたのであった。そして自分たちの権威を以って真のイエスの弟子と然らざるものとを判断しようとして。この精神がローマカトリック教会において復活し、プロテスタントにおいて継承された。そして無教会のなかにも幾分これが残っている。しかるに、一方イエスはイエス自身を中心とし彼を主と仰ぐべきことを徹底的に主張し給うた。「われと偕(とも)ならぬ者はわれに背き、われと共に集めぬ者は散らすなり」(「わたしと共にいない者はわたしに敵対する者であり、わたしと共に集めない者は散逸させる者である」)(Mat.12:30,Luk.11:23)とあるように、いかなる場合でもイエスは中心でなければならず、イエスが神の国の首(かしら)でなければならないことを主張し給うた。「われは道なり、真理なり、生命なり、われに由らでは誰にても父の御許(みもと)にいたる者なし」(John.14:6)と言い給うたことも、イエスの絶対性を主張しておるのであり、いかなる者もイエスを主と仰がずに救われることがないということを明白にしておるのである。そしてペテロは「使徒行伝」4:12にこの天の信仰を告白しておる。

 しかしこれをイエスの宗派根性と考えることはできない。何となればイエスは神の子であり神より遣わされた救い主であるからである。イエス中心が神の福音の本質であり、イエスを離れてキリスト教もなく福音もなく救いも無い。イエスが自己を唯一の救い主と主張し、イエスを離れて救いが無いことを主張することは当然である。そしてイエス以外には何人もこの主張を為すことができず、もしこの主張を為すキリスト者があるならばそれは呪わるべきである。

 しかるに所謂分派精神は煎じ詰めると自分の宗派の主張が絶対無謬であり、他派は間違っており異端であると決定する態度である。「無教会にあらざれば救われない」と言う人もあるとのことであるが、彼は自分をキリストの地位に置く高慢な人間である」。(黒崎幸吉『一つの教会』p.40(聖泉会 1953)。

 聖書が主張する信仰の集まりとはイエスが「首(かしら)」となり、それにそれぞれの特徴を有する個々人が自らの持ち分を発揮することにより身体の四肢として一つの生命を分かち合う有機的な身体を構成すると理解されている。この文章はその英訳がOne body in Christとあるように、キリストに連なる共同体の構築こそ、信仰者のつとめであるという主張である。これは黒崎先生の信仰告白である。イエスは唯一の救い主であり、他の何人をもイエスと同列に扱ってはならない、絶対化してはならないという主張である。キリストへの集中は大方の賛同を得るであろう。この点において異論を主張するひとがあれば、直ぐに自己神化の「高慢」を咎められるであろう。

 問題は、ひとは自覚せずにもいつのまにか信じることにおいて教祖とともに自己を絶対化しがちであるということである。人格が高潔であればあるほど、誘惑は大きくなるであろう。サタンは多くの者たちから賞賛を得ているその者を堕落させるなら、罪と死の支配を広げることができるため、さまざまな党派主義への誘惑をしかけてくることであろう。そしてそれがキリスト教の分派の歴史であった。人生は朽ちる栄冠を獲得する競争ではなく、朽ちぬ栄冠をいただくべき罪と悪との戦いなのである。

 

6 イエスの信とわれらの信・信仰―「信」の二相の判別による乗り越え―

 黒崎先生のこの信仰告白に対し単に敬虔な主張とわきにおいてしまうのではなく、イエスが一つの有機体の頭脳部・首(かしら)であるという主張がパウロにおいて「信・信仰」の二相の分析に基づき秩序づけられていることにより先生の議論を信じる者にも信じない者にもテクストの読みとして同意されうる次元で一般的な論拠を提示したい。「信仰・信」の二相を判別することにより、イエスご自身における信の在り方はわれらの信・信仰の在り方の目標であり続ける。「神はイエスの信に基づく者を義とする」(Rom.3:25-6)。またパウロは命じる、「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。常にイエス・キリストにおいて生起した神の信義を自らのこととするよう勧められている。他方、われらはその啓示の媒介となった「イエス・キリストの信」とは異なり相対的な世界で生きている。「6われらはわれらに賜った恩恵に即して異なる賜物を持っているので、もし預言を持つならその信仰の割合に即して、[賜物を用いよ]」(Rom.12:6)。

 われらは肉の弱さのゆえに、信仰においても程度の世界に生きている。この自覚がないとき、イエスを崇めているつもりでいつの間にか自己をイエスに同化させ、他のグループから自らを特権化してしまう。イエスは確かに黒崎先生が仰るようにわれらとは異なる。彼には偽りがなかった。彼は言葉と働きのうえに乖離がなかった。山上の説教を語り、それを実現すべく十字架の道を歩み抜かれた。彼はその心によって清い。彼はひとの内心をよく見抜いている。おのれの保身や自己栄光化、他者への恐れ、自己卑下そのようなものからまったく自由であった。イエスはご自身を神に至る唯一の道であること、彼自身が真理であり、生命であることを主張せざるをえない。自ら神の子であるという信のもとに生き抜いた者が他の者たちに他の道を勧めるということは信義の問題として、すなわち裏切りの問題としてあり得ないことである。イエスは山上の説教において究極の道徳を語った方であり、それを実現すべく信の従順を貫いた方である。

 端的に言って、山上の説教は聞く者自らの偽りを抉り出す。どこかでひとは自己と他者そして神をごまかしていることが、道徳的次元だけで明らかにされてしまう。イエスはここで信仰にも奇跡にも訴えることなく、ただ言葉で聴衆の良心に訴えている。「「目には目を、歯には歯を」(Ex.21:23)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、「悪人に手向かうな」誰であれ、汝の右の頬を打つなら、左の頬を向けよ。・・・「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:38-39, 43-46)。

 ひとは自分を愛してくれる者、たとえば家族を愛する。これは自然なことである。しかし、そこにイエスは二心、三つ心の偽りを見出す。自らの家族から他の家族とは差別化するとき、そこには家族を誇る自己栄光化の欲求が背後にうごめいている。自分たちだけがよい生活ができればよいという自己中心性、自己保存の本能が働いている。これは血を分けた者同士自然な欲求でもあろうが、イエスはそこに偽りを見出す。それほど天国の道徳はひとの思いを超えている。

 隣人を愛し、敵を憎むことは一種の二心(ふたごころ)である。敵も隣人であることもあろうからである。自分を特別視すること、それは生存と繁栄にプログラムされた生物にとっては抜きがたい傾向性であるが、そこに良心の鋭敏なひとは偽りを感じる。イエスの聖性とわれらの穢れ、このコントラストこそ正面から引き受けねばならない。さもないとき、福音を知ることはできない。この聖なる方が共にいたまうと約束しおられる。

 山上の説教においてイエスはひとが耐えうる限界状況そして為し得る限界状況を明白に提示した。それによって、ひとは何かどこまで落ちてもセーフティネットがあることを見出し、またどこまで登ってもひととしての最高の真実な在り方があることについて権威をもって語りかけられているのを知る。良心が宥められるほどに恩恵は圧倒的であり、その力によりひとはここまで高くなることができるのか、ひとは栄光を棄ててここまで低くなることができるのかをキリストの一挙手一投足において知らされる。 そのイエスは道徳的次元を内側から破り、信仰に招く。

 天の父は水臭くない方であり、この世界での生存をケアしている。ただし、人生に最も重要なことはまず神の国と神の義を求めることであるとされる。彼は山上の説教においてひとの罪や悔い改めを語らずに自然が神の被造物であることへの言及のなか、その「天の父の子」となるように招く。イエスは群衆にガリラヤの野辺で風にそよぐ花々をそして澄み渡った乾いた空を舞う鳥たちを指さしながら、生きることの祝福を語った(Mat.6:25-34)。明日のことを煩うな、一日の労苦、悪しきことはその日で十分である。この「煩うな」という命令形を語りうるのは、天の父なる神が養ってくださるからである。まず神の国と神の義とを求めよ、その神の義とは信に基づいて神と正しい関係に結ばれることである。端的にイエスはここで信仰に招いている。聴衆の良心に訴えて道徳的次元を内側から破る対人論法を介して、信の根源性を間接的に説いたのであった。律法について、急進化、先鋭化させて良心の発動に向けて心の最も内奥に訴える議論は「業の律法」を離れることを、業の律法への煩いを棄てて、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である」その信に導いている。神ご自身にとって信に基づく義が業に基づく義よりも一層根源的であることを「イエス・キリストの信を介して」(Rom.3:22)知らしめている限りにおいて、イエスは自らが「神の子の信」(Gal.2:20)に生きることそしてそれをひとに信じるよう要求することは道理あることである。

 他方、ひとは「肉の弱さ」において生きており、信仰の強い者もいれば弱い者もいる(Rom.6:19,14:1)。この相対的な世界において、神にとって信が根源的であるなら、ひとにとっても信は根源的であり、信に対して信により応答することがふさわしい。神との関係は信により心魂の根源からのものであることが求められている。神はご自身が「イエス・キリストの信」(Rom.3:22)を介して人類に信実であったとき、ひとは信じるのか、それとも裏切るのかが問われているからである。われらはその啓示の故に「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と命じられる。イエス・キリストにおける神の前の信をそのつど自らのものと信じるよう招かれている。ここに信の二相がある限り、われらは決してイエスを祭り上げることを通じて自己を祭り上げる党派根性はブロックされている。信は根源的なものである以上、神との関係においては他の道は拒絶されているが、ひととの関係においては個々人の心的態勢は強い弱いが帰属する相対的なものである限りにおいて、自らの信仰も啓示の媒介となったイエスの信のようなものではありえない以上、他者に対して寛容となる。われらはあくまでその都度自らの業を誇り、自己を栄光化する業の律法のもとに生きることから悔い改めを介して信の律法に立ち返るのである。そこに党派主義に陥る余地は構造上残されてはいない。

7 結論

 ひとは人間のそして自らの不都合な真実に向き合うことを避け、また人生の苦しみに耐えられず、気晴らしや、願望をともなう思い込みに事実を歪めてしまう。イエスはひとがそのもとに創造された神との正しい関係性なしに、その生はどこまでも偽りであり空しいものであることを説き、神への立ち返りと自らが神の子であることを信じるよう促す。彼にはどこにも偽りを見出すことができない。父なる神への信にひたすら生きたからである。その心によって清い方そして憐み深い方だからである。彼についていこうと思う。「不法を赦され、罪を覆われし者は祝福されている。主にその咎を数えられざる者、その心に偽りなき者は祝福されている」(Ps.32:1-2)。

 

 

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キリストにある一つの体(1)―党派心を乗り越える―

キリストにある一つの体(1)―党派心を乗り越える―

                       日曜聖書講義 2021年7月25日

 聖書箇所

「弟子たちのあいだで、誰が自分たちの中でより偉いか、推し量りが生じた。イエスは彼らの心の推し量りを知って、一人の子供の手を取り自らのかたわらにその子を立たせた。そして彼らに言った、「誰かこの子供をわたしの名のうえで受け入れるなら、その者はわたしを受入れている。誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる。というのも、汝らすべての者たちのなかでより一層小さな者である者はその者こそ大きいからである」。ヨハネは答えて言った。「先生、われらは或る者があなたの名前において悪霊を追い出しているのを見たので、彼にやめさせました、彼はわれらと一緒に[あなたに]つき従おうとしないからです。イエスは彼に言った、汝ら妨げるな。というのも汝らに対抗しない者は、汝らの味方である」(Luk.9:46-50)。

 

1 はじめに

 このところ、学寮の先輩立花隆氏の逝去の報せなどを契機にして、「何を為しても赦されるか」、「イエスとパウロ」、「信仰にはマジックはあるのか」という主題で、道徳不用論と信仰の関係、信仰と正義と愛との関係について学んできた。あるひとは「頭をフル回転させて聞いた」と言っていたが、これらキリスト教神学の中心となる概念をめぐる神学的議論は難しかったかもしれない。これらの議論の以前には、今年度は「福音書」を中心にイエスの憐み深さについて、本来性と非本来性のコントラストの知識との関連で学んできた。信仰と憐みの関係は深いものがあり、今後もこの二つを中心に学んでいきたい。

 今日は先週のテクスト(Luk.9:46-8)の続きを学ぶ。先週は前講で、Y君から小学校時代の暴力少年S君との交わりにつき聞いた。母上は彼を何とか守ろうとしつつ、「敵をも愛せよ」という教えを伝え、共に祈った。彼は一学級しかない学校で六年間、劣悪な家庭環境で育った腕力強い少年に対しけなげに聖書の言葉に従って対応し、生きぬこうと苦闘した。彼のその葛藤が彼を心理学の勉強に導いた。

 転校したらとか、教師がさらには政治が悪いという感想まで飛び出した。確かにイエスもパウロも「汝らの肉の弱さの故に」人間中心的な対応を認めている。親が教師などに相談し善処することは当然でもあろう。ある人は彼が小学校生活を棒に振ったと考えることであろうし、理不尽に思えよう。小学生にこのような状況は酷であり、自らの信仰を押し付けるべきではないとも言われよう。ただし、何であれ人間的に解決するとき、イエスの言葉に従う際の葛藤はないであろうが、イエスが共にいたまう喜びと平安を経験することもない。信仰とは心魂の根底において神の恩恵を信じて幼子のようにイエスの言葉と働きに従うことだからである。母上様は怪我が絶えない愛する子供とともに、憐み深い神を信じて聖書の言葉を信じて実践したのである。

 父親に暴力を振られ続け連れ子に暴力を振るう劣悪な環境で育った暴力少年S君に対しイエスは深く憐れんだことであろう。その憐みをY君親子はキリストの弟子として示そうとしたのだと思う。

イエスの教えに従って生きようとすることは暴力にさらされ生命掛けとも言える。少なくともY君にとっては六年間暴力に耐えた。しかし、イエスに従おうとする者は自らがこの世界におけるイエスの救い主であることの証人であり、ひととして正しい人間理解のもとに生を紡いでいることを証する。歯を食いしばって、右の頬をうたれたら左の頬を向ける。キリストに従う道は狭くてまっすぐである。しかし、そこには人間の本来性を獲得したという喜びを伴う。偽りから解放されているからである。

 神が公平に審判してくださるという信があるからこそ、神の怒りに任せ、自らはイエスの御跡にしたがう。「17誰にも悪に対して悪を報いることなく、あらゆるひとびとの前で善き事柄に配慮しつつ。可能なら、汝らの側からはあらゆるひとびとと平和を保ちつつ。愛する者たち、自ら復讐することなく、むしろ怒りに場所を与えよ。・・21悪によって負かされるな、善によって悪に勝て」(Rom.12:17-21)。

 

 今日も、イエスの言行を学び、信仰とそこから生まれる憐みという心魂の態勢について学びたい。憐み深いイエスに従う歩みは共同体において、キリストを首(かしら)とする一つの有機体を形成する。各自はその統一的な生命ある有機体の各部位として自らの特徴を用いて活動し、その体につらなり貢献する。それによりイエスによるご自身が神の子であるという信とそれに基づく憐みは、ひとに特権意識ではなく、低くなることを教え、自らのグループの特権的な自己栄光化を阻み他のグループを見下す党派心を乗り越えさせることを明らかにしたい。

 

2 非本来性のうちに生きる者たちへの憐みー「より偉い者」とは―

 先週の復習をする。ナザレのイエスは人として非本来性に沈む人々への憐みによって、癒しなど所謂奇跡により群衆から注目を浴びた。イエスに従っていく者たちのなかでペテロやヨハネら十二人は自分たちが「弟子」として選ばれたことに誇りに思ったことであろう。

  イエスが十二弟子を伝道に派遣したさいに、彼は彼らに特別な力能を授けてこう語っている。「行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。病人を癒し、死者を生き返らせ、皮膚病を患っている者を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(Mat.10:7-8)。イエスは憐みの故に人々を癒していたが、その力を彼らは授けられたこともあり、自分たちの尋常ではない力の行使を誇っていた。そのようななかで弟子たちは彼らのなかで誰が偉いかと心の中で推量し、また口にだして議論していた(Mak.9:38-41)。たとえば、誰がイエスの傍らに座るかなどの具体的状況のなかで、イエスは彼らの心の動きに気づき、幼子を傍らに招いて、「大きい」と「小さい」という比較について、見るだけで明らかな背の高さを比べて、ひととしての「偉さ」「偉大さ」の規準を提示している。

 「より偉い」という言葉は文字通りには「より大きい」という物理的な量を示す単語である。傍らの子供は誰よりも小さい。イエスは「天の国はこのような者たちのもの」であるとして、幼子こそ天の国を継ぐ者であると語る(Mat.19:13-15)。偉大さの規準はその子を受入れ愛するか否かだとイエスは明確に語る。この世界で虐げられ、苦しめられるひと、弱いひとも小さい人たちであろう。イエスはことのほか、「地の民」と呼ばれる差別され、蔑まれた人々と共におり、励ましていた。「アーメン、わたしは汝らに言う、汝らがわがきょうだいであるこの最も小さい者たちの一人に為したものごとは、わたしにしてくれたのである」(Mat.25:40)。イエスは悲惨な状況におかれた学校に通うS君とY君たちに深い悲しみとともに憐みを感じられたことであろう。

 イエスはより小さな者を受入れ愛することは自分を受入れることだと言う。この地上でより小さい者は天国でより大きい偉い者であると主張する。そのことを明らかにすべく彼は自ら父とともにある偉大なる栄光を捨てて自らひととなった。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。ここで「似様性」という表現は自らの受肉故にまったきひとではあるが、その間神の前において神の子であることをやめなかったため、われら肉において創造された者とは「似た様」においてあると書かざるをえなかったのである。このような状況において、イエスは小さい被造物ひととなった。

 イエスは創造者神よりも小さい「苦難の僕」として生きる自分を神の子として受入れるか否かを問うている。小さな寄る辺ない幼子を受入れることは自分を受入れることであるとイエスは主張する。というのも、イエスはその幼子を自らのこととして受け入れ愛しているからである。自らが愛している者を受入れる者は自らをも受け入れているのであり、天の父は自らを「天の父の子供」として受け入れておられるのであるから、「誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる」とイエスは主張する。

 イエスがその者たちのために自らの生を捧げた罪人たちは、彼に敵対する者たちでもあったが、彼はそのような敵を受入れ愛したのである。イエスご自身は誰であれ敵を受入れ愛する者たちがご自身を受入れる者として受け止められたのである。われらと今共に過ごすY君が「敵をも愛せよ」の母の言葉に即して歯を食いしばってS君を赦し愛そうとしたのである。イエスの言葉への信頼、聖句への献身が憐みの感受性の基礎にある。敵に対して神の国における本来性から遠い者であるコントラストの認識にイエスには「憐み」が「はらわた」から湧き出てくる。われらはこのような感覚を持つであろうか。小さな者たちをさらには自らを責めさいなませる者に憐みを抱くであろうか。悪に対し悪で報いず、善により対応し、彼らの幸いを願う。迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜び祝え、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において友と友となる希望が生じる。その希望に伴う喜びは、愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清める。イエスは人類をそのような仕方で受け入れ愛したのである。非本来性のうちに沈んでいる人類に深い憐みをいだいたのであった。

 イエスはかたわらの幼子のように自らも父なる神により神の幼子として受け入れられ愛されていることを信じている。われらにとっては、その宇宙の創造者であり一切の秩序の源である偉大なる神が御子をこの世界に派遣した。その御子は栄光を捨てひととなり僕となったのである。この人類を受入れ、憐みそして救いだすためである。この低さ、小ささが神の国における偉大さを示している。イエスがご自身の栄光を捨て人類の救済のために受肉したこと、それが神の意志であると受け入れ信じることが、神の国における偉大さの規準である。イエスの一切の言葉と働きは自らが神の子としてこの世界に遣わされたという信により貫かれている。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされた方を信じる。わたしを見る者はわたしを遣わされた方を見る。わたしを信じる者が誰も暗闇の中に留まることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」(John.12:44-47)。

 イエスの謙りをこそ、われらは内側から身に着けたい。その低さのままで天国においては偉大なのであるとされる。イエスは偉大であり続けたが、この世界では軽蔑され、殴られ、殺された。その低さ、小ささこそ偉大さ、偉さを示しているのである。キリストの弟子であることを喜ぶ者には感受性が変化し、もはや人に偉大に見えることに何ら魅力を感じなくなる事であろう。

 

3 イエスの軛に繋げられる者は「柔和と謙遜」を得る。

 このように小さな者になった方と共に生きるとき、見えてくるもの、感じることがらに変化がおき、イエスに似た者にされていくことであろう。イエスはひとの肉の弱さに衷心からの「憐み(splangchnon=はらわた)」を示し、柔和であり謙遜であった。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」(Mat.9:36,cf.Mak.1:41)。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から次第に柔和と謙遜が伝わる。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂き、ひとは不公正や侮辱そして迫害に耐え、呪う者を祝福し「平和を造る者」になっていく(Gal.6:1,Mat.5:9)。

 この喜びを経験するとき、二度と罪の奴隷の軛に繋がれたくないと思う。「汝らは罪の奴隷であったとき、義に対しては自由であった。では、そのとき、汝らはいかなる果実を得たのか。それは今では汝らが恥としているものである。なぜなら、かのものどもの終局は死だからである」(Rom.6:20-21)。

 

4 キリストにある一つの体の形成

 イエスと共にある平安は次第に隣人に伝わっていく。そしてキリストにある一つの体を形成していく。キリストが共にいます限り、ひとは彼を介して一つの有機的な体を構成すると考えられている。その特徴はパウロによれば同じ思いを持つということ、即ち、キリストとの関連において一切を考察するようになるということである。「われらの主イエス・キリストによってわたしは汝らに勧める、それは汝らが皆同じことを語りそして汝らのあいだに分裂がなく、汝らが同じ叡知においてまた同じ認識において秩序づけられてあるためである」(1Cor.1:10)。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。

 キリストへの帰一的なかかわりを持つ限り、ひとはそれぞれの個性を持ちながら同じ思いを共有し、それぞれの特徴をその一つの体の働きのために発揮する。「わたしはまことの葡萄の木、わたしの父は農夫である。わたしに繋がっていながら、実を結ばない枝はみな、父は取り除かれるが、実を結ぶものはみないよいよ豊かに実を結ぶために清くしてくださる。わたしが語った言葉の故に、汝らは既に清くなっている。わたしに繋がっていなさい。わたしも汝らに繋がっている。葡萄の枝が、木に繋がっていなければ実を結べないように、汝らもわたしに繋がっていなければ、実を結ぶことができない。わたしは葡萄の木、汝らはその枝である。わたしに留まる者は、わたしもまたその者のうちにおりその者は多くの実を結ぶ、というのも、わたしを離れては汝らは何もなしえないからである」(John.15:1-5)。ここで「多くの実」とは何よりも農夫である父なる神が喜ばれるものである。それは天国における果実であり、必ずしもこの世の成功ではないであろう。

 パウロはこのキリストとの繋がり、交わりこそひとを造りかえ一つの清められた体を構成すると主張する。「われらが賛美する賛美の杯はキリストの血の与りではないのか?われらが裂くパンはキリストの体の与りではないのか?パンは一つであるがゆえに、われら大勢であるが一人である、というのもわれらは皆一つのパンに与るからである」(1Cor.10:16-17)。

 「まさに体は一つでありそして多くの器官を持ち、他方体のあらゆる器官は多でありながら一つの体であるように、キリストもまたこの様式においてある。というのも、われらは皆、それはユダヤ人であれギリシャ人であれ奴隷であれ自由人であれ、一つの霊において一つの体へと潜浸させられたからであり、そしてわれらは一つの霊を飲んだからである。というのも、体は一つの器官ではなく多くの器官だからである。もし足が、「わたしは手ではないから体からでていない」と言うにしても、この発言に即して足が体からでていない、というわけではない。また、もし耳が、「わたしは目ではないから、わたしは体からでていない」と言うにしても、この発言に即して耳が体からでていない、というわけではない。もし体全体が目であるなら、聴覚はどこにあるのか。もし全体が聴覚であるなら、嗅覚はどこにあるのか。

 しかし、今や、神はそれらの器官を据えたのであり、それら器官のそれぞれ一つのものは神が意図した仕方で体のうちにある。もしあらゆるものが一つの器官であったなら、体はどこにあるのか。しかし、今や、多くの器官があり、体は一つである。目は手に対して「わたしは君を必要としない」と言うことはできない、或いは今度は、頭が足に対して、「わたしは君たちを必要としない」と言うことはできない。それどころか、体のより弱いと思われる諸器官は一層必要なものごとが内属することがある。さらに、われらがかたや体のより尊ばれないと思うものどもに関してわれらはそれらに一層尊いものを授けた、またわれらの見栄えの良くないものどもはより一層見栄えのよいものを持つ。われらの見栄えのよいものども[例えば、顔]はその必要を持たない。むしろ神はより劣っているものに一層の尊さを与えることによって体を統合した、それは体に分裂がなく諸器官が互いに同じものごとに配慮しあうためである。もし一つの器官が苦しむなら、すべての器官が共に苦しむ。もし一つの器官が尊ばれるなら、すべての器官が共に喜ぶ。汝らはキリストの体でありそして諸部分に基づく器官である」(1Cor.12:12-27)。

 「ローマ書」12章ではこう展開される。「12:3わたしに賜った恩恵を介してわれ汝らのうちのおのおのすべてに告げる、思うべきことがらを超えて思いあがることなく、むしろ神が各自に分け与えた信仰の量りに応じて、思慮深くあるべく思うように。4というのも、それは、まさにわれらはひとつの身体に多くの器官を持つが、器官すべてが同じ働きを持つことはないように、5そのようにわれら多くの者もキリストにあって一つの体であり、一人に即して互いに器官だからである。6われらはわれらに賜った恩恵に即して異なる賜物を持っているので、もし預言を持つならその信仰の割合に即して、7あるいはもし奉仕を持つならその奉仕において、あるいは教える者はその教えにおいて、8あるいは勧めを為す者はその勧めにおいて、分け与える者は端的に、指導する者は熱心に、憐れむ者はほがらかに[賜物を用いよ]。9愛は偽りなきものである。悪を憎み、善に親しみつつ、10互いに兄弟愛において慈しみ、相互に尊敬において導き手とし、11熱心に怠けることなく、霊に燃え、主に従僕し、12希望において喜んでおり、艱難において忍耐し、祈りに固着し、一三聖徒の必要において分担し、旅人のもてなしに勤めている。14汝らを迫害する者たちを祝福せよ、祝福せよそして呪うな。15喜ぶ者たちと共に喜び、泣く者たちと共に泣くこと。16互いに思いを同じくし、高ぶった思いを抱かず、低き者たちと共にありつつ。汝ら自らの側で賢き者となるな」(Rom.12:3-15)。

 われらはキリストにつらなる体の各部位である。まずわれらに求められているのは信仰により神との正しい関係にはいることである。そのとき、ひとは一つの体の一部位であることを、自らの役割を知るに至る。種蒔きのたとえ話にあるように、自らが良き土地に蒔かれた種であることを知り、自らの自然的な与件の能力の30倍、50倍の実りをもたらすこともあろう。

 神との正しい関係におかれるとき、われらはひととの横の繋がりにおいても秩序づけられる。われらはキリストを介してそれぞれの人のタレント、特徴を知り適切にお互いに位置付けることができる。われらは「一人に即して互いに器官である」。身体の諸器官は中枢的な指令部位との関連においてそれぞれの機能を持つ。一つの霊を飲んだ者たちはキリストの体となり、有機的に一つのことを思いまた行う。

 この有機体の主張には、血液が体全体をめぐるように、聖霊が中枢部から注がれそれぞれの器官をめぐり一なる働きを遂行させる。聖霊は人々に喜びを与え秩序ある働きを生み出す。神の憐みのもと個々人に聖霊を与えられることもあろうが、「ペンテコステ(五旬祭)」のときのように、共同体に集団で与えられることもある。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえに留まった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話だした」(Act.2:1-4)。

 人類はこのような仕方で憐みを受けつつ、神とひととの交わりを形成してきた。有機的な一つの体として神に栄光を帰するそのような共同体、集団が出現したなら、どんなに幸いなことであろうか。しかし、歴史はそのような統一された共同体とともにその共同体の分裂を報告してきた。

[講義では時間切れとなり、来週の予告を兼ねて黒崎先生による分派主義の分析を紹介して終わりました(この部分録音あり)。来週1学期の最後の講義として「キリストにある一つの体(2)」として続きを講義します。]

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小さな者が「より偉い」

小さな者が「より偉い」

                       日曜聖書講義 2021年7月18日

[録音では或る事情により予定したものより短いルカ9:46-48の範囲で「より小さい者」が「より大きい(偉大である)」ことについて話した。録音にあわせ、原稿として用意したものの一部を掲載する。次回に、信の二相の判別によりひとは党派心に陥ることなく信仰を持つことができることをルカ9:49-59の範囲で論じたい]。

 

 聖書箇所

「弟子たちのあいだで、誰が自分たちの中でより偉いか、推し量りが生じた。イエスは彼らの心の推し量りを知って、一人の子供の手を取り自らのかたわらにその子を立たせた。そして彼らに言った、「誰かこの子供をわたしの名のうえで受け入れるなら、その者はわたしを受入れている。誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる。というのも、汝らすべての者たちのなかでより一層小さな者である者はその者こそ大きいからである」。ヨハネは答えて言った。「先生、われらは或る者があなたの名前において悪霊を追い出しているのを見たので、彼にやめさせました、というのも、われらと一緒に[あなたに]彼はついてこないからです。イエスは彼に言った、汝ら妨げるな。というのも汝らに対抗しない者は、汝らの味方である」(Luk.9:46-50)。

 

1 はじめに

 この何週か、朝礼拝の話や学寮の先輩立花隆氏の逝去の報せなどを契機にして、「何を為しても赦されるか」、「イエスとパウロ」、「信仰にはマジックはあるのか」という主題で、道徳不用論と信仰の関係、信仰と正義と愛との関係について学んだ。あるひとは「頭をフル回転させて聞いた」と言っていたが、これらキリスト教神学の中心となる概念をめぐる神学的議論は難しかったかもしれない。最近三度のこれらの議論の以前には、「福音書」を中心にイエスの憐み深さについて、本来性と非本来性のコントラストの知識との関連で学んできた。ふたたび、福音書を中心にして、イエスによるご自身が神の子であるという信とそれに基づく憐みは、ひとに特権意識ではなく、低くなることを教え、自らのグループの特権的な自己栄光化を阻み他のグループを見下す党派心を乗り越えさせることを明らかにしたい。イエスにならい、ひとの心の奥底に認知的そして人格的力能、可能性として宿っている憐みという心魂の態勢について学び、獲得したい。

 

2 非本来性のうちに生きる者たちへの憐みー「より偉い者」とは―

 ひとはしばしば自らを他人と比較する。容姿について、生まれ、仕事、所得、人格、知識、家族、友人、恋人等について、たとえ口に出して言わないとしても比べてしまう。背後に競争心があり、恐れがあり、誇りがあるからである。ナザレのイエスは人として非本来性に沈む人々への憐みによって、癒しなど所謂奇跡により群衆から注目を浴びた。イエスに従っていく者たちのなかでペテロやヨハネら十二人は自分たちが「弟子」として選ばれたことに誇りに思ったことであろう。

  イエスが十二弟子を伝道に派遣したさいに、彼は彼らに特別な力能を授けてこう語っている。「行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。病人を癒し、死者を生き返らせ、皮膚病を患っている者を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(Mat.10:7-8)。イエスは憐みの故に人々を癒していたが、その力を彼らは授けられたこともあり、自分たちの尋常ではない力の行使を誇っていた。そのようななかで弟子たちは彼らのなかで誰が偉いかと心の中で推量し、また口にだして議論していた(Mak.9:38-41)。「心の」なかでの思案ということは、やはりそれは主が喜ばれないという思いがあったから、公に議論することは憚られたのであろう。たとえば、誰がイエスの傍らに座るかなどの具体的状況のなかで、イエスは彼らの心の動きに気づき、幼子を傍らに招いて、「大きい」と「小さい」という比較について、見るだけで明らかな背の高さを比べて、ひととしての「偉さ」「偉大さ」の規準を改めて提示している。

 「より偉い」という言葉は文字通りには「より大きい」という物理的な量を示す単語である。傍らの子供は誰よりも小さい。イエスは「天の国はこのような者たちのもの」であるとして、幼子こそ天の国を継ぐ者であると語る(Mat.19:13-15)。偉大さの規準はその子を受入れ愛するか否かだとイエスは明確に語る。この世界で虐げられ、苦しめられるひと、弱いひとも小さい人たちであろう。イエスはことのほか、「地の民」と呼ばれる差別され、蔑まれた人々と共におり、励ましていた。「アーメン、私は汝らに言う、汝らがわがきょうだいであるこの最も小さい者たちの一人に為したこものごとは、わたしにしてくれたのである」(Mat.25:40)。

 イエスはより小さな者を受入れ愛することは自分を受入れることだと言う。この地上でより小さい者は天国でより大きい偉い者であるということの確認に基づき、彼は父なる神よりも小さいこの地上のイエスを神の子として受入れるか否かを問うている。小さな寄る辺ない幼子を受入れることはイエスを受入れることである。というのも、イエスはその幼子を自らのこととして受け入れ愛しているからである。自らが愛している者を受入れる者は自らをも受け入れているのであり、天の父は自らを「天の父の子供」として受け入れておられるのであるから、「誰かわたしを受入れる者は、わたしを遣わされた方を受入れる」とイエスは主張する。

 イエスがその者たちのために自らの生を捧げた罪人たちは、彼に敵対する者たちでもあったが、彼はそのような敵を受入れ愛したのである。イエスご自身は誰であれ敵を受入れ愛する者たちがご自身を受入れる者として受け止められたのである。この感受性が憐みの基礎にある。敵に対して神の国における本来性から遠い者であるコントラストの認識に彼には憐みがはらわたから湧き出てくる。われらはこのような感覚を持つであろうか。小さな者たちをさらには自らを責めさいなませる者に憐みを抱くであろうか。悪に対し悪で報いず、善により対応し、彼らの幸いを願う。迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜び祝え、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において友と友となる希望が生じるからである。その希望に伴う喜びは、愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清めるものだからである。イエスは人類をそのような仕方で受け入れ愛したのである。非本来性のうちに沈んでいる人類に深い憐みをいだいたのであった。

 イエスはかたわらの幼子のように自らも父なる神により神の幼子として受け入れられ愛されていることを信じている。われらにとっては、その宇宙の創造者であり一切の秩序の源である偉大なる神が御子をこの世界に派遣した。その御子は栄光を捨てひととなり僕となったのである。この人類を受入れ、憐みそして救いだすためである。この低さ、小ささが神の国における偉大さを示している。イエスがご自身の栄光を捨て人類の救済のために受肉したこと、それが神の意志であると受け入れ信じることが、神の国における偉大さの規準である。イエスの一切の言葉と働きは自らが神の子としてこの世界に遣わされたという信により貫かれている。

 

3 山上の説教から導出される信の根源性

 イエスには偽りがなかった。彼は言葉と働きのうえに乖離がなかった。山上の説教を語り、それを実現すべく十字架の道を歩み抜かれた。彼はその心によって清い。彼はひとの内心をよく見抜いている。おのれの保身や自己栄光化、他者への恐れ、自己卑下そのようなものからまったく自由であった。端的に言って、山上の説教は聞く者自らの偽りを抉り出す。どこかでひとは自己と他者そして神をごまかしていることが、道徳的次元だけで明らかにされてしまう。イエスはここで信仰にも奇跡にも訴えることなく、ただ言葉で聴衆の良心に訴えている。「「目には目を、歯には歯を」(Ex.21:23)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、「悪人に手向かうな」誰であれ、汝の右の頬を打つなら、左の頬を向けよ。・・・「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:38-39, 43-46)。

 ひとは自分を愛してくれる者、たとえば家族を愛する。これは自然なことである。しかし、そこにイエスは二心、三つ心の偽りを見出す。自らの家族から他の家族とは差別化するとき、そこには家族を誇る自己栄光化の欲求が背後にうごめいている。自分たちだけがよい生活ができればよいという自己中心性、自己保存の本能が働いている。これは血を分けた者同士自然な欲求でもあろうが、イエスはそこに偽りを見出す。それほど天国の道徳はひとの思いを超えている。

 隣人を愛し、敵を憎むことは一種の二心(ふたごころ)である。敵も隣人であることもあろうからである。自分を特別視すること、それは生存と繁栄にプログラムされた生物にとっては抜きがたい傾向性であるが、そこに良心の鋭敏なひとは偽りを感じる。しかし、聖書はその特別視を一概に否定しているわけではなく、「汝の隣人を、汝自身を[愛する]如くに、愛せよ」と言い、「われ」と「汝」のあいだの「等しさ」を主張する。ひとりひとりとのあいだに、支配からも支配されることからも自由となり相互の等しさが出来事になるとき、もはや自分を特別視していることにはならない。ひとは愛が出来事になるとき、自らの良心が宥められていることにであう。喜びがあるからである。

 しかし、悪人に手向かうなという命令はどうであろうか。所謂イエスの「無抵抗主義」である。自分に関しては、ちょうど殉教者たちが不思議な平安に満たされたときのように、可能かもしれないが、自分の愛する者がそのような状況にあるとき、看過することはできないように思われる。「われらが[神に対し]敵であったとき」(Rom.5:10)、神はわれらにモーセ律法の同害報復のように比較比量的な対応とは異なる、比較を絶する善をイエス・キリストの信を介して人類に示した。比較考量の世界では決して良心に平安を得ないのである。業に基づく正義とは別に信に基づく正義の領域が開けてくる。このことが想定されるとき、右の頬を打たれて逃げたり、愛する者のために正当防衛を試みることが完全には神の御心に適うものではないのではないかと思われてくる。神の想いはわれらの想いと異なる(Isaiah.55)。  偽りは究極的には神の子として造られた自己に対し、あたかも自らの力で生きているかの如くに看做すことに他ならない。

 山上の説教においてイエスはひとが耐えうる限界状況そして為し得る限界状況を明白に提示した。それによって、ひとは何かどこまで落ちてもセーフティネットがあることを見出し、またどこまで登ってもひととしての最高の真実な在り方があることについて権威をもって語りかけられているのを知る。良心が宥められるほどに恩恵は圧倒的であり、その力によりひとはここまで高くなることができるのか、ひとは栄光を棄ててここまで低くなることができるのかをキリストの一挙手一投足において知らされる。 そのイエスは道徳的次元を内側から破り、信仰に招く。

 天の父は水臭くない方であり、この世界での生存をケアしている。ただし、人生に最も重要なことはまず神の国と神の義を求めることであるとされる。彼は山上の説教においてひとの罪や悔い改めを語らずに自然が神の被造物であることへの言及のなか、その「天の父の子」となるように招く。「それ故にわたしは汝らに言う、汝らが何を食べ、何を飲もうか汝らの魂によって思い煩うな、また汝らが何を着ようか汝らの身体によって思い煩うな。魂は食べ物より以上のものであり、身体は衣服より以上のものではないか。空の鳥をよく見よ。種も蒔かず、刈入れもせず、倉に納めもしない。だが、汝らの天の父は鳥を養ってくださる。汝らは鳥よりも一層優っているのではないか。汝らのうち誰が思い煩いにより、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つか注意して見よ。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく、栄華をきわめたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、汝らにはなおさらのことではないか、信少なき者たちよ。だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」思い煩うな。それはみな異邦人が切に求めているものだ。汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう。だから、明日のことまで思い煩うな。明日のことは明日が自ら煩う。その日の悪しきものごとはその日だけで十分である」(Mat.6:25-34)。

 イエスは群衆にガリラヤの野辺で風にそよぐ花々をそして澄み渡った乾いた空を舞う鳥たちを指さしながら、生きることの祝福を語った。明日のことを煩うな、一日の労苦、悪しきことはその日で十分である。この「煩うな」という命令形を語りうるのは、天の父なる神が養ってくださるからである。まず神の国と神の義とを求めよ、その神の義とは信に基づいて神と正しい関係に結ばれることである。端的にイエスはここで信仰に招いている。聴衆の良心に訴えて道徳的次元を内側から破る対人論法を介して、信の根源性を間接的に説いたのであった。律法について、急進化、先鋭化させて良心の発動に向けて心の最も内奥に訴える議論は「業の律法」を離れることを、業の律法への煩いを棄てて、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である」その信に導いている。神ご自身にとって信に基づく義が業に基づく義よりも一層根源的であることを「イエス・キリストの信を介して」(Rom.3:22)知らしめている限りにおいて、イエスは自らが「神の子の信」(Gal.2:20)に生きることそしてそれをひとに信じるよう要求することは道理あることである。

 

4結論

 天国では偉さの規準が異なる、神の子が栄光を捨てて弱き肉となり、父なる神への信の従順を貫いた。それにより父なる神は小さな者を受入れる者であることを知らしめた。この世界でより小さな者が天国では偉い者である。イエスのこの憐みの感受性は天国にふさわしい神に似せて造られた人間がこの地上において羊飼いのいない羊のようにうちひしがれて生きていることに対する反応であった。山上の説教は道徳的次元における偽りを摘出することにより、道徳的次元では神に正しくあることはできないことを示している。業のモーセ律法を純化したうえで、良心に訴え、業のモーセ律法を内側から破り、イエスは信仰に招いたのであった。まず神の国と神との正しい関係を求めるように。ひとは信仰により神との正しい関係にはいる。その霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされないものは神の国を求める。小さな者はこの世に頼るものがないからこそ、祝福されたのである。信じることが残されているからである。だからこそ、より小さい者が天国においてはより偉いのである。

 

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信仰にマジックはあるのか?―「喜び」が恩恵の証である―

信仰にマジックはあるのか?―「喜び」が恩恵の証である―

                  7月11日 日曜聖書講義

聖書箇所

 「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。

 

1はじめに

 先週は道徳的次元とは異なる宗教的次元というもののあることをお話した。それに伴い心魂にも自然的な肉の次元の底に神の働きに反応できる「内なる人間」と呼ばれる部位のあることを示唆した。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)とは心魂におけるこの根源性を表現しており、その根源から生きるときひとは神と正しい関係にはいいるとされる。ルターは心魂の根源性を「信仰のみ」と表現した。心魂を肯定的、創造的に秩序づけ統一する信が道徳的次元をも秩序づける。信仰に生きるとき、律法即ち道徳を守り満たすことができる。神とひと双方を媒介するものが信仰であり、正しい信仰は道徳的次元以前の超越的な神との人格的な関係を正しいものにすると理解されてきた。神はアブラハムへの約束に信実である正しい方であり、イエス・キリストにおける福音の啓示においてご自身の義を最も明白に知らしめた。

 今日は人間的な理解として、道徳的破産者であった者が信仰によって道徳的要求を満たすことができるようになるとしたなら、信仰には何らか魔法的な効力があるのではないかという問いに応答したい。「信仰・信」には明確な説得的議論を展開できることの一端を示したい。

 天涯孤独、寄る辺なき、援けなき、他の何ものにも縋ることのできない状況において、藁にも縋る思いで神の援けを信じるということがおきる。信仰には人間の認知的、人格的実力いかんにかかわらず、特別な力が与えられるのではないかが期待されてきた。ひとはそれを「聖霊の援け」と呼んできた。イエスはそれを約束しておられる。「わたしは汝らを残して孤児(みなしご)とはせず」、「わたしは父に願う。父は別の助け主を遣わして、汝らと共にいるようにしてくださる」、「わたしが行けば、助け主を汝らのもとに送るであろう」(Mat.11:28-30,John.14:18,15,16:7)。

 パウロは見えない聖霊が「霊の果実」としての愛や喜び、平安を引き起こすとエヴィデンスによる論証を遂行した。「霊の果実は愛であり、喜び、平安、寛容、親切、善意、信、柔和、節制である」(Gal.5:22)。風のように自由に吹く聖霊は超自然的な魔法的な力であって、理性的な理解を拒絶するそのようなものであろうか。二千年続いてきたこの宗教において、ひとはそのつど不思議な力をいただいてきたことを言葉と行為において証してきたが、その心的事実は否定されないであろう。理性に反する端的な狂信、パトス(情動)に引きずられる端的な迷信であれば、それは歴史のなかで淘汰されていたことであろう。

 実際、パウロは福音において啓示された神の意志を一般的な仕方で知ることができると主張している。彼は「叡知(ヌース)」という不可視なものに対する接触知について明確な理論を提供している。「叡知」は感覚や良心のように瞬時に働く認知的な機能であり、これは「内なる人間」と呼ばれる心魂の部位に宿る。今日はこの叡知については語ることができないが、その叡知が発動するさいに伴う聖霊について少し説明する。この聖霊について聖書は明確に人間の心魂の態勢(たいせい、かまえ)そして働きとして受け止める「内なる人間(ひと)」と呼ばれる部位があると語り、それを様々なエヴィデンスのもとに説明している。「たとえ外なる人間(ひと)は衰えていくにしても、内なる人間(ひと)は日々刷新される」(2Cor.4:16)。この所謂「二番底」の働きの最良のエヴィデンスは喜びであることを明らかにしたい。

 

2道徳不用論

 ひとは救われたいという願望から信仰に魔法・マジックを帰属させてきたのではないか。この最初の躓きは、どんなに悪い人間でも信じるだけで救われるという主張から生まれてくる。ひとはそこにモラルハザード(道徳的危機)を見てきたのである。この信じるだけで罪赦され、義とされることは不当利得を要求する魔法の言葉なのであろうか。それなら潔しとせず、自ら神に頼ることなく、自らの責任で人生を切り開いていこうとするひとも多いことであろう。この事態は正しく理解されねばならない。

 確かに、信仰の持つダイナミズムを表現するために、道徳不用論が語られることがある。実際、パウロも後述のように「律法に死んだ」即ち業のモーセ律法のもとに道徳的世界において生きることをやめたと語っている。とはいえ、それはキリストとの新しい生命の関連において語られており、道徳は新たに秩序づけられている。

 パウロは明晰に理性において理解できるよう「知恵の説得的議論」と呼ばれる論証を「聖霊」に対する一切の言及なしにディアトリベー(談論風発)と呼ばれる様式において展開している(1Cor.2:4)。実際、「ローマ書」における信仰義認論と予定論(選びの教説)には一切「聖霊」という言葉が見られない(Rom.1:17-4:25,9:6-11:36)。他方、「ローマ書」5章から8章においては「霊と[神の]力能の論証」と呼ばれる、人間の肉の弱さを前提にして聖霊の援けのもとで霊的な秩序づけの議論を展開している(1Cor.2:4)。

 パウロは「ローマ書」で4章までにおいて信仰義認論を理性のみにて展開したあと、5章から8章まで聖霊の働きに訴えて信徒には道徳は無用である、旧約以来連綿として伝えられてきたモーセの業の律法のもとにいないと説得する。「罪は汝らの主人とはならないであろう。それは、汝らは律法のもとにではなく恩恵のもとにあるからである」(Rom.6:14)。

 内村鑑三は「律法のもとにない」とは律法が不用であるということだとしてこう主張する。「律法が全く廃滅してしまうかまたはわれらが律法に触れぬほど潔(きよ)まるか、いずれにしても律法なるものと事実上絶縁してしまうということが必要である。一言にして言えば道徳不用である、故にすこぶる革命的である、したがってこれを誤解するときは可成り危険である、しかしながら誤解を虞(おそれ)てこの大切なる真理を敬遠することは出来ない、人は実に道徳不用の境地に一度到達せずしては真の信仰の喜ばしさ、貴さを知ることは出来ない、もちろん「聖潔」は道徳不用の境[究極地点]である、されば道徳廃棄は人をして真の信仰と聖潔に至らしむべき必須なる要因である、道徳の下にあるとき人はおのれの罪を悟らされるのみで、決して信仰の歓びと聖潔のさいわいに至ることは出来ない、この道徳を一蹴したるところに生命も安心も歓喜も起こるのである、七章一節―六節はさらになおこの道徳不用の主張である」(『羅馬書の研究』全集26p.259)。

 「ローマ書」7章4節以下にはこうある。「わが兄弟たち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:4-6)。信じる者を救い出す福音が知らしめられたことの故に、ひとは業の律法から解放され、信じることにおける霊の新しさのもとに生きることができるようになった。石板であれ紙であれそのうえの文字としての律法、法律、道徳訓はひとに力を与えない。罪が寄生し誘惑するからである。罪の誘惑は7章で展開されるが、今語ることはできない。

 文字と対比されるのが霊である。ひとはここにマジックを見出すことであろう。霊の働きを信じられない限りにおいて、言葉や紙の上での人間のあるべき姿を表現するものでしかない道徳に対して、自らの態度を決定するしかない。ニーチェのように「神は死んだ」として、善悪をすべて嘗め尽くし、善悪の彼岸にいたる超人(スーパーマン)を目指すこともあろう。この道徳を道徳的次元それ自身において満たそうとするとき、常に罪に敗れてしまうとパウロは主張する。罪悪深重、極悪熾盛、地獄ぞ一定住処ぞかし、の人間は神や弥陀の憐み、慈悲に縋らざるを得ない。信仰にはマジックはないが、恩恵のあることを把握しなければならない。それにはまず信仰が喜びをもたらすのは、道徳的世界から解放されたところで、全知全能の正義にして憐み深い人格的神との恩恵の交わりにはいることによることを理解しなければならない。ナザレのイエスが自ら身代わりの死を遂げることによって無償の贈りものとして永遠の生命の希望の根拠を歴史のなかでうちたてたのである。

 黒崎幸吉先生は恩恵の無償性についてこう語っている。「自分の罪がキリストの十字架の贖いによりて、全部しかも永遠に赦されたことをそのままに確信することはなかなか容易ではない。その故はそれがあまりにも不当利得のごとくに見えるからである。しかしながら、この不当利得すなわち神の恩恵をそのままに受けてこれを信ずることが本当の信仰であり、すなおにこれを確信することによりて、始めて「信仰のみによりて義とせらるる事」の何たるかを知ることができる」(『閃光録』 p.83、1973)。

 この信じるだけで罪赦され、義とされることは不当利得なのであろうか。黒崎先生によれば「本当の信仰」はその不当利得ではないかという懐疑を乗り越えるものであるとされる。パウロが「律法に死んだ」即ち業のモーセ律法のもとに道徳的世界に即して生きることをやめたと語ることができるのは、それに代わる福音が啓示されたからである。そこでは善行を為すか為さないかという道徳的主体が問題ではなく、神が御子において人類に信実であったとき、信じるかそれとも裏切るかという心魂の根源における人格的関係が問題となっている。人間に求められているのは、憐み深く正しい神を裏切るわけにはいかない、神を信じついていこうというものだけである。この信仰が神との正しい関係を開く。これが信仰義認である。信仰義認論は神ご自身の信に基づく正義が啓示されたことを基礎にして展開されており、その信に基づく義は人間にも適用されることにより導かれる。

 

 

3信に基づく正義と憐みの成就―神による甦らし「へ」のイエスの道と「から」のパウロの宣教―

 ここではナザレのイエスの生涯がパウロによりいかに神学的に理解されているかを確認したい。福音書とパウロの書簡の対話を遂行する。最初に二人の置かれた状況の相違を確認する。イエスの信仰の招きが業のモーセ律法の遵守の要求のただなかで遂行されたのに対し、パウロは神の力能の働きである他に例を見ないイエスの十字架の処刑死とその三日後の甦りの出来事から彼の一切の神学的思考を展開している。彼はイエスの甦りが人類に何をもたらしたのかを受け止め、そこから信に基づく義とその義の果実としての愛が生まれるその神学理論を展開した。

 パウロは、神によるアブラハムへの約束に対する信実が歴史上御子の受肉と受難と復活において証された、その「神の信」(Rom.3:3)を基礎に彼の神学を展開する。信は人間にとっては賢者に至る知識をめぐる認知的要素と聖者に至る有徳をめぐる人格的要素の成長への基盤となるが、神は認知的、人格的に十全である。「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全であれ」(Mat.5:48,cf.Ps.139)。パウロは、神によるご自身の約束への信実がナザレのイエスにおいて成就されたと主張する。その約束に対し神は信実であり、神が正しい方であったこと、即ち「神の義」は「イエス・キリストの信」を媒介にして人類に明らかなものとされた。パウロはこれをひとつの神の意志として受け止め「信の律法」と呼んだ。これが人格的義である。それに対し、モーセを介して知らしめられたもう一つの神の意志をパウロは「業の律法」と呼んだが、彼はこれら二つの神の意志を信に基づく義と義の果実としての愛として秩序づけた。神の義の一方を「人格的正義」と呼び、他方を「司法的正義」と呼ぶことにする。

 常に心に留めるべきことは、山上の説教はナザレのイエスそのひとが今・ここにおいて純化された究極の律法を語りつつ、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」と信仰に招くことにより、その内面化された愛に収斂される律法成就の道を示したことである。イエスご自身は神の愛の先行性を自ら生き抜きご自身がその道となったがゆえに、パウロは神の愛の先行性に基づき愛の相互性を秩序づけることができた。まず、神との正しい関係が確立されることなしには、人間の一切の営みは秩序を得ることはないという明確なメッセージをナザレのイエスは発信した。しかも、彼はユダヤ人の伝統に留まりつつ、旧約の律法を内側から破ることによって、新しい生命に満ち溢れる信仰に招く福音を展開した。福音と律法を静的な関係において捉えてはならない。イエスはガリラヤの野辺を歩きながらリアルタイムに神の意志を実現しつつあったのである。もし彼が公生涯の終わりに十字架から下りてきたしまったなら、神のみ旨は実現されてはいないと看做され、福音の啓示の媒介者として用いられることはなかった、そのような緊張のなかで、肉の弱さを抱えたイエスご自身により一言一句、一挙手一投足が遂行されていたのである。われらはそこに同じ人間として山上の説教を成就しうる可能性と力能を見出す。そして人類の誰かにより山上の説教が語られた事実に、われらは人類に絶望することはない。ましてや彼はそれを信の従順により完遂した方である。

 パウロそして福音書記者たちも十字架と復活と昇天ののちにナザレのイエスが何者であったかをめぐり信に基づく義と選びの神学さらにはその伝記を書き残したのであった。パウロは歴史の展開のなかで信の従順を死に至るまで貫き、父なる神の専決行為による甦らしが生起したことのゆえに、福音の成就した視点から「この方はわれらの背きの故に引き渡されたそしてわれらの義化の故に甦らされた」(Rom.4:25)と語ることができた(ここで「義化」とは「義とすること」の名詞表現である)。御子の十字架と復活は神の前で即ち神ご自身の理解として、歴史のなかで身代わりの死によるわれらの罪から信仰による義化への移行の成就として知らしめられた。「イエス・キリストの信」を介した「神の義」の啓示は「信の律法」としてわれらに業のモーセ律法からの解放と、信に基づく義による業の律法の新たな秩序づけとして位置づけることができた。

 

4復活を信じうることに伴う喜び

 十字架と復活は人類の歴史において「一度限り」(Rom.6:10,cf.1Cor.15:6)のことであり、他の誰かによって再現されるものではない。さもなければ、父なる神は御子の信の従順を贖いに不十分なるものと看做し、御子を裏切ることになる。再現性のないものについては科学的知識の対象とはなりえず、ひとは御子の復活については信仰により突破するしかない。もちろん、科学は例えばあらゆる物質を通過する素粒子の研究などにより知見を重ね、一般的な仕方でドアを通過し、脇腹に槍穴のある質量をもつ三次元の存在者についてのその科学的仕組みの解明に向かい続けるであろう。そういう意味で現在われらに不思議に思えることがらの一般的な探求とその解明は蓄積されていくことであろう。とはいえ、復活は優れて信仰の対象であり続けるであろう。一般に信念は知識をもたずにも、或る命題を真理であるという信念をいだく知識以前の認知的働きだからである。そして預言されていることとして復活は終わりの日にしか個々人には救いとして体得的知識とならないそのようなものだからである(Phil.3:8-11)。キリストの来臨に伴う終わりのラッパと共に死者が呼び起こされる。その再臨信仰を基礎づけるものがキリストの復活である。

 パウロは天国も黄泉もキリストへの言及なしには理解できないことがらであるとして、信仰による突破をこう語る。「キリストが信じるすべての者にとって義に至る律法の目指すものである。というのも、モーセは律法に基づく義をこう記しているからである、「それらを為した者はそれらによって生きるであろう」、だが、信に基づく義はこう言うからである、「汝は汝の心のなかで、「誰が[義を求めて遥か]天に昇るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを引き降ろすことである、あるいは「誰が[義を求めて遥か]黄泉に降るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを死者たちのなかから引き上げることである。しかし、彼[モーセ]は何と言っているか、「言葉は汝の近くにある、汝の口のなかにそして汝の心のなかにある」、これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である。すなわち、もし汝が汝の口において主イエスを告白し、そして汝の心のうちに神が彼を死者たちから甦らせたと信じるなら、汝は救われるであろう。というのも、主イエスが心によって信じられるのは義のためであり、口で告白されるのは救いのためだからである」(Rom.10:5-10)。

 心の中での信仰を固く保持するためには公にそれを告白し社会の認知の中での自覚を必要としている。それほど復活は信仰による乗り越えと公的な表明を必要とするそのような理解に困難を伴うことがらだからである。パウロは知の都アテネのアレオパゴスで彼らが知らずに拝んでいる「知られざる神」を教えようと宣教にとりくみ、死者の復活について語り始めると、「われらはこのことについてはまたあなたから聞こう」と言って去っていった(Act.17:32)。アテネのことではない、エルサレムにおいてさえ使徒たちへの女性たちによる復活の第一報に対して「これらの言葉は彼らにはあたかも戯言(たわごと)に思えたそして彼女たちを信じなかった」と報告されている(Luk.24:11)。肉のイエスから予告されていたにもかかわらず、このような事情であった。だからこそ公的な告白は信じることできることそれだけで喜びであることを含意している。

 種蒔きの譬えはイエスの宣教を介して神のみ言葉、み心が聴衆の心に蒔かれそれを受け止めた信仰の実りについてのものである。「イエスは彼らを多くの譬えで教えた、そしてご自身の教えのなかでこう言われた。「聞け、そして見よ。種を蒔く者が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞け」と言われた」(Mak.4:2-10)。

 この譬えにおいてみ言葉の蒔き手はイエスご自身であり、受け止める心、拒否する心等われらの様々な心の環境のもとにみ言葉が蒔かれる。これは人生にも適用される。誰も自らの親を選べない、そこに自らの生が奪われ、焼け枯れる運命の過酷さを見るひともいよう。同時にそこに「誰も~ない」という人生の或る意味での平等さと醍醐味がある。自らにこの生が与えられたことを厳しい与件に思えても、肉の親の背後にいたまう蒔き手を信じ、自らを「良い土地」であると受け止めることなしには三十倍、五十倍に実らすことはできず、蒔き手に対する信頼が不可欠となる。荒地に蒔かれ悲惨にしか思えない与件であるにしても、聞く耳を持ち神に与えられた良い土地であると信じるとき、開墾が始まり、自らの与件から推定されるものの百倍の実りをもたらすこともあろう。豊かな実りとは山上の説教の「祝福されている」と八福を語られるイエスご自身にとって「天の父の子となる」こと以外ではないであろう。

 パウロはとりわけ「ローマ書」においてまた「ガラテア書」において正しい信仰とはいかなるものかの議論を展開する。永遠の生命の保証として主の復活はわれらの信仰を引き起こしそして信に基づく義を保証するものである。パウロは主の復活という神の歴史への介入から十字架とその生涯を捉えなおしたのである。神が愛である限り、この人生は良き土地となる、復活の主が共にいたまうからである。「主はわたしの運命を支える方。測り縄はわたしに向けて良き地に落ちた、わたしは良き嗣業(ゆずり)を得た」(Ps.16:5-6)。

 なお、当のイエスご自身も苦闘のただなかにあったことを忘れてはならない。山上の説教が生命を懸けて生き抜かれたことによって、われらはひととして想定しうる最も偽りのない在り方が福音に包摂される。新しい生命が福音という新しい革袋に入れられた。その喜びの福音はパウロにおいて聖霊によりもたらされる「信じること」が喜びとなり信に基づき救いだす「神の力能」(Rom.1:16)の働きであると特徴づけられる。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。「ユダヤ人にもギリシャ人にも呼び出された者たち自身にとっては、キリストは神の力能でありまた知恵である」(1Cor.1:22)。信じうることの喜びと公的な信仰告白は自らが神に呼び出された者であることを証する光栄ある心の働きである。

 主イエスの甦らしを遂行したまう神の力能によって古い業の律法も新しい信の律法の光のもとに照らし直され新しくなり、業のモーセ律法は何等か新しい酒に変換させられる。それは少なくとも人類にひとりは福音の光のもとに山上の律法を成就した方がいるからであり、それゆえに神はナザレのイエスをご自身の御心に適う者として嘉みし、ご自身の信に基づく義の啓示の媒介として用いられたからである。かくして、業に基づく義とは異なる信に基づく義が、業の律法の冠である愛を実現させるその力能が人類に付与されるに至った。

 モーセ律法は信の律法に秩序づけられた。信の力能こそ彼の十字架と復活において明らかにされたのである。子供の治癒を懇願する男性の願い方に反応し、イエスは応える。「「できるものなら」と言うのか、信じる者にはあらゆることができる」(Mak.9:23)。「できる」というその力能は宇宙万物の創造者にして救済者である神にいたるまで一切との秩序を回復させる心魂の根源的態勢としての信である。秩序のもとにある信にあらゆる肯定的な力能が含まれるとして、そのあらゆるものごとは神においてそうであったように当然愛の業に秩序づけられ収斂される。それ故にこそ、われらは山上の説教をそれにより満たしうるのではないかとの希望を抱く。パウロはそれを理論化した。

 

5結論

 ひとは信仰には魔法があると思っているかもしれないが、パウロはこれだけの人間一般の心魂の分析のもとに復活という歴史のなかで生起した一度限りの尋常ならざる事件を受け止めたのである。そこにマジックがあるのではなく、恩恵があると。

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何を為しても赦されるのか(その2)―神の憐みと正義―

何をしても赦されるのか?(その2)―神の憐みと正義―

                              2021年7月4日

[先週は「イエスとパウロ―故立花隆氏のイエス論手掛かりに―」として先輩の追悼をこめて学寮時代の彼の真摯な人生の取り組みにふれつつ、イエスの今・ここの実践をパウロは忠実に理論化したことを確認した。福音と律法の関係を正しく理解するとき、二人のあいだに齟齬のないことを確認した。先々週「何をしても赦されるか―神の憐みと正義―」は時間の都合で原稿を読まずに自由に話をした。その原稿をアップしたが、今週は(その2)としてその原稿を改善したものをアップしつつ、講義した。講義は短く自由に話したものが録音されている。これも福音と律法の正しい理解によって解決される]。

 

聖書朗読

「ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:6-8)。

 

1はじめに

 6月16日水曜日の朝礼拝はI君が担当で、詩篇51篇のダビデの悔い改めの祈りのところであった。I君は「サムエル記」をひきながら、イスラエルの王ダビデの軍隊の司令官ウリヤとその妻バテシェバとダビデ直属の預言者ナタンに言及しながら、聖書の中心的な問題である罪の赦しについて話した。ダビデはウリヤの妻を略奪した。戦闘の状況を報告にきたウリヤに妻のもとで休むようにすすめるが、部下が最前線で戦っているこのときに妻と過ごすことはできないとして、野営した。そこでダビデはひそかに伝令をだし、ウリヤを最前線に送り、死なせた。預言者ナタンがダビデのもとにやってきて貧しい羊飼いが大切にしていた一匹の羊を多くの羊を所有する富者が奪ってしまった話をした。ダビデは怒りそのような悪者に死を宣告すると、ナタンは「汝がそのひとなり」と難詰した(2Sam.12:7)。ダビデは悔い改め、その祈りが詩篇51篇として遺されている。I君は詩篇を註解しながら、条件文で「もし悔い改めるなら、何をしても赦されるのか」という問いかけという仕方ではあるが、その一つの可能な解釈を提供した。これは聖書の中心的な問いのひとつである。

 春以来毎週日曜聖書の学びを通じて競争や嫉妬や憎しみなどの争いでもない憐みの心を獲得すべく、福音書と格闘してきたが、ここでは罪の赦しという問題を神の憐みと正義いう視点から考察したい。ドストエフスキーは『カラマゾフの兄弟』のなかでやはりこの問いを引き受け、「一切は赦されている。しかし、一切が赦されていることを知っている者はそんなこと(赤子を槍で突き刺したり、少女を凌辱したり)をしない」という言葉で神の憐みとひとの罪とその克服についての解決案を提示している。しかし、この知識に訴えた理解において、何をしても一切が赦されていることが神ご自身の認識であると想定されているからこそ、その事態が知識の対象とされている。悔い改めさえすれば、福音を信じさえすれば誰もが何でも赦されるのであろうか。そこではどのように、どれほど悔い改め信じればというわれらの悔い改めや信仰の程度は問われないのか。ここに神の前のことがらとひとの心的態勢がそれぞれいかなるものであるか、そしていかなる仕方で関係しているのかが問われる。神による一切の赦しの意志は「知られうる」ものとして啓示され知らしめられているのであろうか。そのように知らされていなければ、誰も一切が赦されていると知ることはできないであろう。そこではドストエフスキーの言葉は反聖書的なものとなる。啓示されている福音と道徳的な有徳さ、聖書的には業の律法の成就のあいだにどのような関係があるかこそ明らかにされねばならない。

 

2. 美しく問う

 まず、そこでの問いは、何をしても赦してしまう神は子供を甘やかしてダメにしてしまう父親のようなものであり、そのような神は知恵もなくまた正しくないのではないのかというものとなろう。他方、父親があまりに厳しければ、子供は萎縮し自己不信に陥ってしまい自ら責任をもって判断する主体となりえないか、反抗するかに走りがちであり、親子のあいだに共依存や反発はあっても愛の関係を築けないであろう。かくして憐み深さと正しさが両立することを示しえてのみ、憐みについて正しく知ることができるのではないかという問いが起きよう。甘やかしすぎまたは厳しすぎのダメ親父は自ら愛や憐みということがらを正しく知っているとは誰も言わないであろう。

 神はそのようなダメ親父に比較させられるようなことがあってはならないはずである。道徳的な危機にもたらすそのような神は信じるに値しないのではないかが問われよう。このような問いがただちに続く。思考を前進させるには一歩一歩問いをたて答えを見いだし、そのうえでその答えが新たな問を生むそのような「美しく問うこと」(アリストテレス)が求められる。何をしても赦されるかというあいまいな問いが立てられた場合に、その問いそれ自身の理解をめぐり多くの問が問わねばならない。イエスの十字架上の罪の贖いの行為はいかなる仕方で遂行されたのか、いかなる効力を持つのかが神学的に問われよう。罪の赦しと恩赦とはどのような関係にあるのか。たとえ神の前で「雪よりも白くなる」(Ps.51:9)ことがあったとしても被害を被った人々は憎しみと有罪を取り消すことはないであろう。そしてひとは罪を犯した場合に、神による罰を恐れているよりも、それが人の前で暴かれこの世で一切を失う者となることを恐れているのではないかも問われる。その場合、神へのどこまでもの不忠実、偽りが明らかとなる。なんとも人間とはどこまでも自己中心的なものである。

 

3. 宗教に求められるものと道徳の関係

 ひとは宗教に藁にも縋る思いで救いを求めてきた。宗教はおのれの悪さに悩みまた苦しむ者を救うところにその真骨頂があるのではないのかも問われてきた。そこでは、宗教を信じるだけで、何をしても赦されるようになるのか、という自らの罪責の重さに慄き絶望から、或いは罪や煩悩に悩む衆生を救うという宗教の機能に対する願望からくる問いが生じるであろう。そこではどこまでも自分の神理解を投影し優しい神をしたてあげその自ら描く神に救いを求めてきたのではないか。いや宗教とはとりすましたものではなく、他のなにものにも救いを見出しえない者のためにこそあると応答されることであろう。

 その究極は万人救済説(universal salvation)であり、信じる信じないにかかわらず神の憐みのゆえに、弥陀の慈悲の故に、罪悪深重、極悪熾盛、地獄ぞ一定住処ぞかしの身にとっても救いは確かなものであると信じる。この信仰というものにはどれだけのマジックが働くのかが問われている。

 ルターの次の言葉も信仰がもたらす大逆転を知識との関係において捉えている。ルターは「義人とはおのれの罪があまりに深くて、どれほど深いか知りえないことを知っている人間だ」という主旨のことを「ローマ書註解」で語っているが、罪の深さから義人への大逆転こそ信に求められてきた。親鸞の悪人こそ救われるという悪人正機説も救いのなさのただなかで信に縋る以外に「別の子細なき」状況が語られている。「親鸞におきてはただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしとよきひと[法然]のおおせをかうぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」。「念仏」とは信仰のことであるが、親鸞の師法然はこう語っている。「念仏といふは、ただこころをひとつにして、もはら阿弥陀の名号(みょうごう)を称念する、これを念仏とは申す」(山崎正一『親鸞』p.58集英社)。親鸞は「いずれの行もおよびがたき身なればとても地獄は一定すみかぞかし」という理解のもとに念仏と行即ち道徳的行為を対置して、道徳的には悪いことしかできず地獄がふさわしい自分に残されているのは信仰だけであるとする(「歎異抄」第二章)信にはどれほどの大逆転のマジックがひめられているのか。彼ら宗教の達人たちは信、信仰について正しく理解した者は憐みも正しく理解できると主張しているように見える。

 ひとは直覚的に信じさえすれば何を為しても赦されるという類の信念は正しくないと感じることであろう。誰であれ、万人が救われるのであるなら、ひとは自らの行為に何ら責任を負うこともなくなる。そのような考えはモラルハザード(道徳的危機)を引き起こしてしまう。ただ、救いを必要としている者の主観的現実としては、おのれの悪さに絶望し、見失われており人生をまっとうできないという感覚を持つことであろう。そのような者には藁にも縋る思いで「汝の罪赦された」と過去形において語られるパッセージを血眼になって探すことであろう。宗教はそのような者を救う力あるものでなければならないはずである。

 内村鑑三は或る文脈においては「道徳無用論」を唱えることができなければ、宗教はその力と醍醐味を失うという主旨の発言を『ロマ書註解』のなかでしている。また黒崎幸吉先生は恩恵の無償性についてこう語っている。「自分の罪がキリストの十字架の贖いによりて、全部しかも永遠に赦されたことをそのままに確信することはなかなか容易ではない。その故はそれがあまりにも不当利得のごとくに見えるからである。しかしながら、この不当利得すなわち神の恩恵をそのままに受けてこれを信ずることが本当の信仰であり、すなおにこれを確信することによりて、始めて「信仰のみによりて義とせらるる事」の何たるかを知ることができる」(『閃光録』 p.83、1973)。

 この信じるだけで罪赦され、義とされることは不当利得なのであろうか。黒崎先生によれば「本当の信仰」はその不当利得ではないかという懐疑を乗り越えるものであるとされる。しかし、不当利得であると思われるようなことを人生の根幹にすえることはできない、潔よくないとして、自ら神に頼ることなく、自らの責任で人生を切り開いていこうとするひとも多いことであろう。この事態は正しく理解されねばならない。実際、パウロも「律法に死んだ」即ち業のモーセ律法のもとに道徳的世界に即して生きることをやめたと語っている。とはいえ、律法はキリストとの新しい生命の関連において語られて新たに秩序づけられており、正しく理解する必要がある。パウロは言う。「わが兄弟たち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:4-6)。

 

4信に基づき道徳的に有徳である場合にのみ、恩恵と責任は両立する。

 宗教と道徳の関係がこれほど緊張したものであるとき、一方で、恩恵の無償性、つまり端的な贈り物であることを明確に論証し、他方で各人の責任ある自由が確立されねばならない。ドストエフスキーの恩恵を「知っている人間」は悪行に身をそめることはないという「その知識」とはいかなるものであり、いかなる仕方で善行を生み出すかの明晰な説明が求められる。神の前のことがらと人の前のことがら、道徳と信仰の関係、そして正義と愛の関係が明確に秩序づけられ把握されねばならない。

 この大きな問を解くには多くの議論が必要とされることは明らかである。神学や聖書学そして文学は恩恵の無償性、贈りもの性についてどこまでも深くキリストの贖いを掘り下げることによって説得的で美しく語ることができるであろう。福音がもつこの恩恵の豊かさこそ、日曜のメッセージに含まれるべきものであるが、今ここではそれに従事することはできない。

 今後の信仰と正義と愛の関係をめぐる議論の基礎として、いくつか基本的な事項を確認しておこう。誰もが同意することとして、信・信仰はどれだけ人格的に悪くてもまたどれだけ認知的に愚かであっても持つことができる、即ち幼子のような仕方で心的態勢の実力いかんにかかわらず心魂の根源に生起する心の働きであるように見える。そこでは善悪をめぐる人格的有徳性も真偽をめぐる認知的有徳性も問われることがないため、正しい信仰ということも問題にならないように見える。藁にも縋る思いで神や仏に向かい始めるという意味では、そうでもあろう。ただやはり誰もが同意するであろうこととして、人類は立派な人間(聖者)になりまた知識を蓄え思慮深い人間(賢者)になることが、そのひとが正しい信仰の持ち主であることの証拠、エヴィデンスになることも否定されないであろう。無律法主義の無頼漢がたとえわたしは救いを信じていると言っても、誰もそのひとを信用することはないであろう、ただし神がそのひとを憐み救い出してくださるよう祈るであろう。

 かくして憐みに縋れば何をしても赦されるというとき、どのような仕方で憐みに縋るのか、信じるのかが一方で問われることになる。他方で、憐みや恩恵の無償性について、明確に理解できないとき、ひとは宗教のもつ力動的な救いをも経験できないであろう。

 

5. 信から愛へ

 ここではイエスとパウロがこの心魂の根底に生起する信と神の憐みそして正義の関係について明確に議論しているので、その理解の大枠を提示したい。神の憐み、恩恵と神の正義そしてひとの信仰の関係について正しく理解したい。

 パウロはモーセの「業の律法」を一概に否定しているわけではなく、新たに啓示された福音即ち「信の律法」のもとに秩序づけている(Rom.3:27)。パウロがその教えを理論化しようとしたそのもととなるイエスご自身山上の説教のなかで律法への尊敬と使命を語っていた。「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。アーメン、わたしは汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(5:17-20)。

 ただし、イエスもパウロもモーセ律法を愛に収斂させており、愛が満たされたなら、一切の律法が満たされていると主張していた。イエスは「愛」が一切の律法のなかで「偉大な戒め」であると理解しており、そのもとに他の一切の戒めが秩序づけられる限り、この主張は理解可能となる。愛は業の律法の充足、冠として位置づけられるそのような関係においてある。「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心に即し]そして汝の魂を尽し[生命ある限り]そして汝の思考を尽して[理性に即し]愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身の如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat.22:36,cf.「律法の冠」、「律法の充足」Rom.13:9,10)。愛が満たされる限り、業の律法としての正義は満たされており、あらゆる律法がめざす愛を実現する限りにおいて一点一画とも過ぎ去らないと言うことができる

 愛は業の律法の冠である。愛をそれ自身において実践できるかが問われている。パウロは「業の律法に基づくすべての肉は神の前で義とされないであろう。なぜなら、[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:20)として誰も愛を愛それ自身として満たすことはできないと主張する。パウロは「愛を媒介にして実働している信が力ある」(Gal.5:4)と語り、イエス同様に信に基づき愛に至ろうとする。パウロは業の律法のもとに生きる者はそのもとで審判を受けると言う。「汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しき裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」。かたや、忍耐に即して善き業の栄光とその名誉とその不朽とを求める者たちに永遠の生命を報い、他方、利己心から真理に服せず、不義に服する者たちには怒りと憤りがあるであろう」(2:5-8)。他方でパウロはこうも言う、「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものと認定される。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される」(4:4-5)。ここに矛盾はないのであろうか。

 この「不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される」という主張はわが国においては専修念仏を唱える親鸞の「悪人正機説」の系譜に属するものである。魂の根源的態勢としての念仏と業、信仰と愛の関係は或る人々の唯一の救いの希望ともなり、また克服不能な妨げともなってきた。一般的に言って、所謂point of no return(後戻りできない一点)、消せない過去を経験してきた人々にとっては、自らの自然的な生を何事もなかったかのように継続することはかなわない。それ故にこそ信や念仏の力に縋る以外に生きる道が残されず、そこに救いを見出してきた。ただ「南無阿弥陀仏」を唱え続けること、ただ「汝の罪は赦された」を唱え続けること、それが求められる信の行為であるとされた。そしてそれは道徳的行為と看做されず、それより根源的な心魂の根底における一心不乱な祈りの働きであると看做された。ひとが自らの業や他人の業を振り返り、自他を審判するとき、その者は業の律法のもとに生きている。その業が既に赦されたことを信じる者は信の律法のもとに生きていることがパウロにより報告されている。

 二つの律法の異なりは、一方で業の律法のもとでは各人の道徳的責任が問われており、盗むか・盗まないか、貪るか・貪らないか等の二者択一が他人にもある程度認識できる仕方で問われているが、信の律法のもとでは神がイエス・キリストにあって信実であったとき、信じるか・裏切るかが問われている。そこでは神と個人の関係が問われており、他人が軽々に判断や裁くことのできない縦の関係が成立しており、神の側からの視点が不可欠である。信じるか・信じないかという業の律法での二者択一ではなく、より根源的なものとして神の信への応答が問われている。ひとは裏切るなら、そこでは神とのあいだに信と信の人格的関係が結ばれてはおらず、信に基づく義も生起してはいない。「おおよそ信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。これが信の根源性を明らかにしている。

 信の律法は神にとってもそしてそれ故にひとにとっても業の律法よりも根源的なのである。以下業の律法は罪の自覚を生じさせ悔い改めを介して信の律法に導くことにその機能があることを確認する。信の律法のほうがより根源的であることは、立派な行いなしにもその信が神に嘉みされる場合には罪赦されるという恩恵が確保される。

 「いずれの行も及び難き身」には、ただ「見よ、われは汝の不法を雲の如くに、そして汝の罪を霧の如くに散らした(apēliphsa)。われに立ち返れ、そうすればわれは汝を贖うであろう」の言葉に身を委ね、「地獄ぞ一定すみかぞかし」という思いに捕らわれるとき、ただ「わが思いは汝らの思いと異なる」を思い返し続けるだけであろう(Isaiah 44:22,55:8)。律法主義から解放され、信の律法のもとに生きること、「信じます」という告白がそのつど求められている第一のことがらであり、生の更新の唯一の可能な契機となる(Rom.10:10)。甦りを信じうることそしてそれを告白できることに喜びが伴っているとき、そこには聖霊の働いていることの証になるとパウロは言う。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。

 

6. 信仰義認の教説に対する反論とパウロの応答

 信の心魂における根源性は承認されよう。しかし、通俗的な信仰義認論や悪人正機説の理解によれば、どんなに悪人であっても、ただ信じさえするなら神は罪を赦免し義とする、弥陀の慈悲を受けるというが、そのような神や仏は不義ではないのか、立派な人間だけが救われるに値するのではないかと古今東西を問わずひとびとは困惑してきた。また「われヤコブを愛し、エサウを憎んだ。・・われが憐れもうとする者をわれは憐れむであろう。・・欲する者を彼は憐れみ、欲する者を彼は頑なにする」そのような神は不義なのでないか、依怙贔屓ではないか、「誰が神に逆らえようか」と嫌疑がかけられてきた(9:13-19)。パウロは第一に神の主権によりしかも憐れみの啓示に基づき応答する、「それは望む者のでも、奔走する者のことがらではなく、憐れむ神のことがらである」(9:16)。神に不正の嫌疑がかけられるのは神の憐れみを知らないからである。

 一般的に言えることは、「神には偏り見ることがない」(2:11)とすれば、神が業の律法の適用において、また信の律法の適用において一つの明確な基準のもとに判断が遂行されているなら、憐みに依怙贔屓があることにはならないということである。業の律法のもとに生きる者には業の律法が適用され、信の律法のもとに生きる者には信の律法が適用されているならば、そこに依怙贔屓はないと言えよう。信の律法を充足する者とは「イエスの信に基づく者」また「アブラハムの信に基づく者」として、その信が神に嘉みされる者のことである(3:26,4:16)。

 神の自由な選びにこそ恩恵の無償性が成り立つ。「ご自身が予め定めた者たち、その者たちを彼は呼びだされもした。そして彼が呼びだした者たち、その者たちを彼は義ともされた。しかし、ご自身が義とした者たち、その者たちに彼は栄光をも賜わった」(8:30)。しかし、そこに神の恣意性の疑いがもたれてきた。神の永遠の選び、予定ということが定まっているなら、どこにわれらの自由があろうか。

 ここでは恩恵の無償性、贈りもの性について詳しく展開することはできない。神学や宣教そして文学においてこの神の恩恵はどこまでも豊かに語られることであろう。ここでは、神には偏り見ることがなく、不正がないことをパウロの議論から確認したい。どんな罪をも赦してしまう神は不正ではないのかという問いは道理あるものである。それに対してパウロは適切に応答していることを確認するだけに今回は留まる。

 「[業の]律法は怒りを成し遂げる」(Rom.4:17)とあるように、「神の怒り」の規準は「業の律法」、モーセの十戒を介して明確に啓示されたとパウロにより報告されている。「ローマ書」一章の議論の展開としてまず「神の義」は福音において啓示されていることが提示され、その神が義であることの第一の理由が神の怒りにあると報告されている。(B)「なぜなら神の怒りは天から不義のうちに真理をはばむ人間たちのすべての不敬虔と不義のうえに啓示されているからである[現在形]」(1:18)。神の怒りは今・ここで真理をはばむと神に看做されている人間たちの裁量のもとにある不敬虔と不義という心魂の態勢のうえに、即ち心魂の或る在り方のうえに「引き渡し」、勝手にしろという仕方で啓示されている(1:24)。怒りの啓示内容は人間化された心的状態ではなく、神の行為において顕されている。そして彼の議論のなかではその怒りは福音に立ち帰らしめるものとして位置づけられる。

 (B)「神の怒り」の啓示の報告の結論として「業の律法に基づくすべての肉はご自身の前で義とされることはないであろう[未来形]。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」と終わりの日に罪人として審判されるに至ることがこの啓示の含意として導出されている(2:20)。ただし、この未来形表現により、当人が悔い改めた場合には事情が異なることもあろうことが含意されている。悔い改めとは業の律法のもとから信の律法のもとに移行することである。ただし、自らが信の律法のもとで信仰を持ったか、業の律法のもとで貪りとして信仰をもったかは、終わりの日に知らされる。業の律法のもとに生きる者は義とされないことが一般的に知らされている。悔い改めは神の意志に背くことから神の意志に服し信に基づき義とされることにより遂行される。「恐れと慄きをもって汝の救いをまっとうせよ」(Phil.2:12)。

 神の義の第一論証であるこの怒りと業の律法のもとにある者の不義の結論に続き、第二論証が展開される。(A)神の信義の啓示が報告される。(A)「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている[現在完了形]。・・神は、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」(3:21-26)。(A)義人はいかなる者であるかに関して、「神はイエスの信に基づく者を義とする[現在分詞形]」により啓示内容として一般的に知らされている。さらに、信の律法のもとにあり(A)「イエスの信に基づく者」と看做される者についてはアブラハムによる先駆的事例がある。「アブラハムにその信仰が義と認定された」(4:3)。このようにイエス以前の「アブラハムの信に基づく者」(4:16)に関しても同様である。なおイエスご自身は正しい信仰を「幼子」の如き信仰と表現することがある。「まことに汝らに告げる、幼子のように神の国を受け入れない者はそこに入ることはないであろう」(Mak.10:15)。どれほど認知的に人格的に愚かで悪くても、そうであるからこそ「幼子」のように信じることはできる。最も困難な探求対象が最も容易な幼子の信のみを心魂の根底に要求しているということは認知的、人格的に十全な全知全能の神にふさわしい。われらは幼子のように信じるその「神はおのれの独り子を賜うほどに世界を愛した」(John.3:17)方である。

 かくして、今・ここで二種類の神の義が啓示されているが、一方は神の怒りであり他方は神ご自身の信義ならびにイエスの信に基づく者の義認である。神の怒りは直接には罪人の最終的審判ではなく、ここに(A)(B)啓示行為内容の非対称性が見られる。怒りから逃れるべく悔い改めの余地が残されるからである。他方、義認が今ここで生起している者については神の認識の変更(人間的に言えば)は想定されていない。

 

7. 悔い改めは業の律法から信の律法のもとに移行することである。

 この二種類(A)(B)の神の義の啓示を介して、信の律法のもとに生きる以外に義とされる道のないことが知らされている。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。業の律法に基づくと神に看做される者は終わりの日にその業に応じて報いを受けるが、そこでは誰も義と看做されることはないであろうからである(前節)。

 かくして、ひとは悔い改めにより怒りを逃れて信の律法のもとで罪の赦しの義認に向かうことができるだけである。「ひとよ、汝は神の裁きを逃れると思うのか。それとも汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか。汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しい裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」」Rom.2:3-6)。

 パウロは「ガラテア書」において自らの自覚としてこの業の律法から信の律法への移行を罪の値である死からキリストにおける生への移行として語る。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。

 8. 神には二つの律法の適用において偏りがない。

 「神には偏り見ることはない」(Rom.2:11)。なぜなら、一方、神は業の律法のもとに生きる者には業の律法を適用し、そこでは「すべての律法を為す義務がある」(Gal.5:3)こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」からである(Rom.2:13,2:6)。他方、信の律法のもとに生きようとする者、「神の善性」(11:22)に留まろうとする者には「イエスの信に基づいている」(3:26)かにより審判を遂行するからである。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(9:13)とあるのは、前者が信の律法のもとに、後者が業の律法のもとに生きたことが想定されているからである、ただしエサウがその後悔い改める可能性は否定されていない。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」(11:22)。神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は「叡知の機能不全」(1:28)の故に神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできない。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した」(1:28)。「彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではなく、行う者たちを是認さえしている」(1:32)。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるであろう。まさに「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」(Ps.18:26)。

 9. 結論 解決案

 以上のような事情であるとして、ひとは信の律法のもとに生きていると自ら思っていても神はそのようには看做していないかもしれない。「わたしに「主よ」、「主よ」と言う者がみな天の国にはいることになるわけではない」(Mat.7:21)。他方、自分には地獄が決まって住処であり永遠の滅びに定められていると思っていても、神はそう看做していないかもしれない。「ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:6-8)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みした。神は自らに背く者たちについて「彼ら自身において考慮することなく」十字架上のイエスの信義に基づき考慮していたまう(2Cor.5:19)。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。

 この福音のメッセージは個々人の誰にもイエス・キリストにおいてほど明確には知らされてはいない。これが何でも赦されるかという問いをめぐる最も重要な応答となる。同様に万人救済論に神はコミットしているか否かもイエス・キリストの信においてほど知らされてはいない。神の意志はモーセ律法とイエス・キリストの信において最も明確に知らされている。だからこそ、そのつど自ら神の憐みのもとにおり、罪赦されていると信じることが実質的なものとなる。ひとは自らの責任ある自由において神の前の啓示の出来事を自らのものとするよう命じられている。「汝が汝自身のがわで持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。命令されるということは受容することも拒否することもできる、即ち「義の奴隷」とも「罪の奴隷」ともなりうる自由な存在者であることを示している(6:20)。パウロ個人にとっても同様であり、彼は「わたしは他者にいかにも福音を宣教しながら自ら失格者となることがないように、わたしはわが身体を打ち、身体を拘束する」と、さらには「恐れと慄きをもって救いを全うせよ」と、神の前の出来事を自らのものとすべく、その都度信に立ち返る(1Cor.9:27, Phil.2:12)。そこに彼は「汝らが聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れる」聖霊の執り成しが生起することを願っている(Rom.15:13)。「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えることがないためである」。

 ドストエフスキーによる罪の赦しを知っている者は不道徳なことをしないというこの知識は個別的に聖霊の援けのなかでの今・ここの知識であると理解する。聖霊の平安をいただいた経験を感謝してまた信に立ち帰ることであろう。罪を犯さないということは人生のそのつどの今・ここのことがらだからである。パウロは聖霊によるキリストの十字架の出来事の過去と彼自身の現在の媒介のもとに、ひとつの知識主張をする。「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えることがないためである」(Rom.6:6)。あの過去の十字架の出来事を自らの「古き人」の死と同化できるのは聖霊の今・ここの媒介の働きによってのみである。「ヘブライ人への手紙」では信仰による知識の証言がこう語られている。「信仰は望んでいるものごとの基礎(hupostasis)であり、見ていないものごとの[見ずに留まることへの]反駁(elegkos)である。というのも信仰によって古への先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより諸時代が[先人たちのように]統一させられていることを、信仰により叡知において観取しており(pistei noūmen)、見ているものが現れないものども[神の言葉]に基づき生じたことを知るに至る」(Heb.11:1-2)。

 或るひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証はどれだけ隣人を愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。罪赦されたことの証は多く愛しうるということに見られるなら、われらは歯を食いしばって敵をも愛することであろう。今・ここでキリストにあって自ら神の憐みを受けているという信が愛を実現する唯一の道である。

 

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イエスとパウロ―故立花隆(橘隆志)氏「方舟」創刊号のイエス論を手掛かりに

イエスとパウロ―故立花隆(橘隆志)氏「方舟」創刊号のイエス論を手掛かりに

                                           日曜聖書講義 2021.6.27

 

聖書箇所

「あなた方は久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなた方は堅い食物ではなく乳を必要としている。すべて乳を飲んでいる者は幼子なのだから義の言葉を味わうことができない。」(へブル書5:11-13立花氏引用訳文)。

 

1はじめに 立花隆氏のイエスとパウロ論

 学寮の草創期の先輩に「知の巨人」と呼ばれた政治から宇宙そして死に至るまで「僕は3万冊読んで100冊書いた」と語ったジェネラリスト立花隆氏がいる。彼が4月30日に逝去されていたことが6月14日月曜に報道された。立花隆(本名、橘隆志)氏は1959年6月「方舟」創刊号にイエスとパウロについての若き魂の躍動を感じさせる短文を寄稿している。とても興味深い文章なので、追悼の意味をこめてここで紹介して、イエスとパウロの関係について考えたい。そのため先週約束した「ひとは何を為しても赦されるか」の続きを一旦中断することをおゆるしいただきたい。とはいえこれら二つの論題は深いところでつながっているので、罪の赦しの議論の序論として今日の話をお聞きいただきたい。2021.7.5追記。6月27日の文章に誤りがあったので、訂正します。ジッドの『田園交響楽』の一節を氏自身のものとみなし論じていました。お詫びして訂正します。

     考えていること 橘隆志

 「『神は死に対する恐怖の苦痛です。苦痛と恐怖とを征服したものは自ら神となるのです。      その時こそ新生活が始まる。新人が生まれる。一切が新しくなる・・・・その時こそ、歴史を二つの部分に分けるようになる・・ゴリラから神の撲滅までと、神の撲滅から・・』そうだ僕等は神を撲滅し、キリーロフに従おう、神の撲滅により、僕らに全き自由が達成されるのだ。」こんなことを考えては何度か神様から離れようと思いました。でもいつも事実が、キリスト・イエスという事実が僕をひきとめました。神を否定してもイエスという事実が残るのです。そしてそのイエス様がとてもきれいな存在なのです。あんまりきれいなので聖書を読んでいて泣きたくなる時があるほどです。その清らかさがどんな恋人にもまして離れがたさを感じさせます。イエス様にくらべてパウロはいやです。きらいです、パウロの手紙もきらいです。「ジェルトリードの宗教教育は、私に新たな眼で福音書を読み返させることになった。それにつれて益々われわれのキリスト教の信仰を形づくっている数多の概念がキリスト自身の言葉というよりは寧ろ、聖パウロの釈義に負うところが多いようにおもわれてくるのだった。―中略―私は福音書のどこを探しても、誡命、威嚇、禁則の類は一つとして見出すことができない。すべてこれらはことごとく聖パウロに発している」[田園今交響楽]。僕等は生命のパンを直接にたべるべきだと思います。「あなた方は久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなた方は堅い食物ではなく乳を必要としている。すべて乳を飲んでいる者は幼子なのだから義の言葉を味わうことができない。」[へブル書5:11-13]僕たちもう形而上学的論争をやめよう。行動こそ、直接イエスの言葉を味わうことのできる道だ。

 若々しい生命の躍動感が伝わる清冽な言葉である。アンドレジッドの『田園交響楽』における牧師による盲目の少女ジェルトリードの教育について、氏は牧師の言葉を引用しているが、彼はそれに同意している。孤児のジェルトリードを引き取った牧師は罪について教えなかったが、手術により目が見えるようになり、物語は急展開を告げる。(配布の松澤有子氏によるブログ「ジェルトリュードの心情」(2014.8.31)からあらすじをご理解いただきたい)。そこで重要な働きを為すパウロの言葉は「ローマ書」七章九節と十三節である。その前後を含め引用する。「それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。8しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。9しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。10だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見いだされた。11なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺いたそしてその戒めを介して殺したからである。12かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である。13それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ、罪が善きものを介してわれに死を成し遂げていることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」(Rom.7:7-13)。彼女は牧師に言う、「あなたが授けてくださる幸福は何から何までわたしの無知のうえに築かれているような気がしますの」。盲目の少女に規範を教えずに、あたかもアダムとイブが神の光のなかにいることを認識しないほどに光のなかにいた時期があったように、美しいものを教え、闇や醜悪なものを教えなかった。そこでは規範がないため、妻子ある男性を愛することに気づいていても自覚的には罪意識を持つことはないであろう。なんでもありの世界はタブーも存在しない。9節は律法の一つの役割についてアダムをモデルにして教えている。パウロによれば律法は福音の準備として位置づけられる。

 立花氏は入寮作文において「クリスチャンになりました」その経緯を読む者に興味深く書いている。ただし、本人が公にすることを望んでいないかもしれず公にはできない。立花氏はのちにキリスト教が他の宗教を邪教として排斥するその独善がいやで学生時代に離れたと回想している。「キリスト教は他の宗教をすべて邪教と考える独善性がいやで、大学時代に離れた。いまは哲学的&科学的世界観にもとづく無宗教派といったところです」(文春オンライン 2014.11.6「追悼 立花隆さんインタビュー#2」)。このように若い時に読んだドストエフスキーやジッドの作品は彼の思想形成に大きな影響を与えたことがこの短文からも理解できる。彼は「私に新たな眼で福音書を読み返させることになった」という牧師の言葉を引用しつつ、福音書に対する新たな理解とパウロに対する嫌悪感を表明する。彼はパウロの律法理解に同意できなかったのではないかと思われる。学寮時代はイエス・キリストの「事実」により支えられていたけれども、パウロ神学に躓いたのだと思われる。しかし、後年或る時、大江健三郎との対談で、タイムマシーンで訪ねたい時代があるかという話題になって、二人ともナザレのイエスに会いたいと語っていた。彼は最後までナザレのイエスの清さに惹かれ、憧れていたことであろう。

 わたしどもには神がひとの内面をどう見ておられるかについては2千年前の福音の啓示においてほどには、個々人の誰にもそれほど明確には知らされていないので、信による突破が不可欠となる。一方でイエスは「主よ、主よという者が皆天国にいれていただくわけではない」(Mat.7:21)と語っており、自分で信仰があると思っても神はそう看做していないかもしれない。他方で、イエスご自身「後の者が先になり、先の者が後になる」(Mat.20:16)と語っておられ、自らは後退したと思っても、神ご自身はそう看做しておられないかもしれない。

 パウロもイザヤを引いて、神の選びの自由について語っている。「14それでは、信じることのなかったその方にいかにひとびとは呼びかけるであろうか。聞くことのなかったその方をいかに彼らは信じるであろうか。しかし、宣教する者なしにいかに彼らは聞くのであろうか。15しかし、遣わされなかったなら、いかにひとびとは宣教するのであろうか。まさにこう書いてある、「いかに麗しいことか、よきことを告げる者たちの足は」。16しかし、あらゆる者が福音に聞き従ったのではない。というのも、イザヤは語っている、「主よ、誰がわれらの伝聞を信じたでしょうか」。17かくして、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの語りを介してである。18しかし、彼らは聞かなかったのではないかと、われは語っているのか。いや、むしろ、「その者たちの声は全地に響きわたった。そして彼らの言葉は世界の果てにまで[及んだ]」。19しかし、イスラエルは知らなかったのではないかと、われ語っているのか。誰よりもまずモーセが語っている、「われ [わが]民でない者のことで汝らに嫉みを起こさせるであろう、悟りなき民のことで汝らに怒りを抱かせるであろう」。20他方、イザヤは大胆でありそして語る、「われはわれを探し求めない者たちに見いだされた、われを尋ね求めない者たちに現れる者となった」」(Rom.10:14-20)。このように、神の恩恵は風が思うがままに吹くように、自由であり、その恩恵を受けながら自ら自覚していないということも起きよう(「神には偏り見ることがない」(Rom.2:11)神の公平性についてはここでは扱ええない)。

 神との関わりは最後まで福音の啓示ほどには知らされてはおらず、「恐れと慄きをもって救いをまっとうせよ」(Phil.2:12)と命じられることになる。この世界は「後の者が先になり、先の者が後にな」(Mat.20:16)そのような状況にある。わたしどもは立花氏が力一杯この人生を駆け抜け、著しい好奇心のもとに生と死を探求したことに心から敬意を表したい。彼はテロでも戦争でも何でも起これ自分が一番先に現場に行くという「こと起これ主義」を標榜し、イエスのように「行動」のひと、実践のひととして勇敢に人類の苦しみや、悪そして死を調査と科学的知見を頼りに正面から受け止めた。パウロの理論化に躓いたことがあったかもしれないが、それは聖書学者たちによるパウロの誤解像に基づくものであったかもしれず、天の父なる神様が今は彼に一切を明らかにし、彼の御霊を受け止めてくださるよう、祈る。

 10代のこの若々しい文章には清らかなイエスへの愛が美しく表明されている。その対比においてパウロに対する嫌悪も明瞭に記されている。新約聖書のラテン語訳は二世紀の古ラテン語訳(vetus latinus)に基づきヒエロニムスが四世紀に自らその「編集」であるとして世にだした流布版Vulgata聖書が権威として位置付けられてきたが、わたしはパウロの神学的主張の中心的部分「ローマ書」の3章22節等がそれ以降今日まで誤訳されてきたために、カトリックとプロテスタントが分かれてしまったことを指摘し、正しい理解の普及に努めている。パウロは既にカトリックとプロテスタントの和解案を分裂以前に提案していた。またパウロはイエスの山上の説教をはじめ彼の宣教を最も適切に理論化していると主張している。それ故に長いキリスト教史のなかで立花氏が引用するジェルトリードの議論にも何らかの誤解があると考えている。立花氏は聖書学者たちの誤訳の一人の(人間的には)犠牲者であったのではないかと思われる。わたしどもはなんとか正しくイエスとパウロの教えを世に伝えていきたい。

 イエスが言葉と働き(ロゴスとエルゴン)において成し遂げたことをパウロが理論化したが、ここでは「良心」、「愛」、「福音」、「信仰」それから「排他性或いは寛容」について双方の理解が合致していることを確認したい。「良心」については①J、①Pと表記し、良心は神との共知として働くことにおいて双方同意見であることを明らかにする。モーセ律法が「愛」に収斂されていることにも二人は同意見であり、双方の理解を②J②Pと表記する。イエスはリアルタイムに「福音」を生きまたそのために死にそしてその生死が神に嘉みされ甦った(③J)が、パウロはその福音を復活に基づき理論化した(③P)。「リアルタイム」というのは、例えばもしイエスが十字架から降りてきてしまったなら、神の計画は成就されず、新約は実現しなかった、そのような一挙手一投足が問題となることを言う。イエスは自然とその創造者、管理者である天の父が野の百合空の鳥を養っていることに聴衆に思いを向け、道徳的次元を内側から破り「信仰」に招き(④J)それにより律法を成就できることを自ら実践した。パウロは心魂の分析を介して「信仰・信」(④P)がその根源的態勢であることを理論化することにより、信仰が罪を克服させ一切を創造的、肯定的に秩序づけた。他の道を歩む者への排他性或いは寛容をめぐって、双方とも神の前においては信の一本道を歩んだが隣人に対しては肉の弱さへの譲歩故に寛容であったことを明らかにする。(⑤J)イエスは狭い真っすぐな道を歩みぬき、「わたしのもとに来なさい」と信仰に招くが、イエスは従う者に他の道を勧めることにより裏切ることは想定されない。他方、(⑤P)パウロはその福音の宣教とともに「汝らの肉の弱さのゆえにわたしは人間的なことを語る」と言う仕方で、「何であれ真実なるもの」に対する理解を示している。これは立花氏がキリスト教に躓いた論点である。おおよそ真実なるもの、信実と裏切りの概念からして神の前における排他性と肉の弱さへの寛容の両立を捉えたい。

 

 2「良心」と律法

 イエスは山上の説教において人類の語りうる最高の道徳を提示した。憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの新しい教えは尋常ではない。モーセ律法を極性化したこれらの言葉はそれを正面から引き受けるひとには良心・共知(sun-eidēsis, con-science)の痛みの発動を引き起こすに十分である(Mat.5:22,5:28,5:39)。イエスとその山上の説教とを「共知」の相手方とする者たちには、心の少しの歪曲が痛みになる。右目や右手が罪を犯させるなら抉りとり切り取ってしまえ、全身が地獄に投げ込まれるよりましである、と警告される(5:27-30)。①J良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。良心は神の歓心を買いつつひとへの憎しみを育てる二心の偽りにたいして発動する。

 パウロにおいてこのイエスの良心理解に完全に対応する議論①Pを見出すことができる。パウロも良心を神に明らかなことが自らに明らかになることであると規定する。「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:11)。異邦人ならびに「アダムからモーセに至るまで」のユダヤ人をも含め、ひとの「良心」は「律法を持たずにも自らに対し律法」である(Rom.5:14,2:14)。神の義の一つの顕れである神の怒りは律法に違反する者に対し「引き渡す」即ち勝手にせよという仕方で啓示されている、完全に引き渡されている限り良心は反応しないであろうが(Rom.1:27,32)。というのも、罪との共知のもとでは、神の意志について盲目にされており、何ら良心の痛みを感じることなしに、罪の手下として悪を繁殖させるだけであろう。

 律法が良心を目覚めさせる。律法という善が与えられたのは、「罪が善きものを介してわたしに死を成し遂げていることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」(Rom. 7:13)。ひとが悪行に身を染めているその瞬間には、自らが「死を成し遂げている」その自覚をもたないであろう。律法は罪の奴隷となり悪行に身を任せ死に向かっていることを知らしめる。律法による罪の暴きたてに呼応して、「内なる人間」が「叡知の律法」に即すことによって霊を伴う良心が発動し、葛藤が引き起こされる、そのような役割を業の律法と叡知の律法は担う(Rom.7:22-25)。この葛藤を介して信の律法に移行するべく「福音」が宣教される。このようにパウロの良心論は業のモーセ律法から福音に導くものとして位置付けられる。イエスご自身は律法への尊敬のなかで、しかも業の律法を実現すべく、天の父の子であることへの信仰に招く。

 

3モーセの業の律法の「愛」への収斂と「信」を介した愛の実現

 イエスは山上の説教において旧約との対比において②J「愛」についてこう命じる。「「隣人を愛し、敵を憎め」と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(5:43-46)。

 イエスは家族や隣人や友人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益、世間体との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において二心や三つ心があり支配や操作そして独善や欲望が遂行、解放されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。ここに②J敵をも愛する究極の愛の姿が示されている。愛とは支配からも被支配からも唯一自由な場所で、我と汝の等しさが生起することである。敵がその敵意の差し向ける相手である自らがまずその敵の友となることによって友となることである。そこには恐れから解放された喜びがある。

 イエスは旧約に伝えられる600を超える律法の第一と第二の戒めが愛であるとして律法を秩序付ける。②J「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心に即し]そして汝の魂を尽し[生命ある限り]そして汝の思考を尽して[理性に即し]愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身の如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat. 22:36-40)。イエスは「律法の一切」および「預言者」がこの掟により秩序づけられると主張する。イエスはこのように父なる神の意志、律法を一つの体系のなかで捉え、軽重を明確に判別している。「ああ、なんということだ、汝ら、律法学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばきそして憐みそして信を蔑(ないがし)ろにしている」(Mat.23:23)。彼はここで正義と憐みそして信を律法のなかで重要な戒めとして位置づけた。イエスは義と愛と信これら三つのなかで、この途上の生においては顔と顔とをあわせてまみえることのできない神との関係においては、神に向かう根源的な心魂の態勢である信を基礎にして愛と義の両立に向かった。

 かくしてイエスはこう宣言することができる。「わたしは律法と預言者を破壊するためではなく、成就するべく来た。わたしはまことに汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう」(Mat.5:17-18)。律法から一点一画たりとも「過ぎ去ることはない」のは、律法は神の生ける意志であり、その一切は愛の道具、徴、表現としてそして総じて愛を実現することに向けて収斂しているからである。

 イエスは急進化された律法を実現するべく、道徳的次元を内側から破り信仰に招く。イエスは自らが「天の父の子」(5:45)であるという信仰のもとに、父の御心としての律法は愛に収斂されるとして、愛に至る信の従順を貫いた。「汝らの天の父はご自身を求める者に善いものをくださるであろう」(7:11)。「神は独子を賜うほどにこの世を愛された」(John.3:18)。各人にとって求めるべき善きものとは神ご自身であり、その最も善きものに他の一切の善、良きものが秩序づけられる。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれら[生活必需品から神を知るに至るまで]すべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(6:32-33)。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。誰かに何か善きものを求めることはそのひとに対する信頼を前提にしている。天の父なる神がその信仰を嘉みされたそのひとりのひと、ナザレのイエスはアブラハム、ダビデの系図のなかで生まれ、良心を宥める究極的な律法を語り生きまたその成就に向けて死んだまさにその方である。

 新しい葡萄酒は新しい革袋にいれなければ、破れてしまう。イエスはご自身の言葉を身をもって成就した。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けてそして酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。ユダヤ人の伝統的な罪の犠牲の供犠は律法違反に対する自分たちの償いのために神を宥めるべく犠牲を捧げる。自らの罪と献げものの交換の提供である。旧約の視点から見ればイエスはその犠牲の子羊であると言えるであろう。しかし類比はそこまでである。そこに神が共にいました場合にはその子羊は神にではなく罪人たちに提供されたのである。方向が逆であると言える。そこでは人類の罪と犠牲の交換の提供ではなく、神からの和解の提供となった。

 これが③Jイエスにおいてご自身の一言一句、一挙手一投足において実現された③「福音」である。「わたしは憐れみを好み、犠牲を好まない」(Hose.6:6)。それを可能にしたのが御子の受肉による執り成し、仲保の働きであった。人格的な正義と憐みが両立する和解には間に入る人格的な存在者を必要とする。一方、死に至るまでの従順により信に基づく正義を成就し、他方、罪から贖いだすべく身代わりの死を差し出すことにより愛を成就した、そのような仲保者のみが両立を可能にする。

 

4イエスとパウロの歴史的文脈―復活に至る「福音」の実現と復活に基づく「福音」の理論へ―

 旧約においてはこの愛に収斂され急進化されたモーセ律法を守りえないことが罪であるとされた。イエスのこれらの言葉に偽りなく、山上の説教に即して、彼を攻撃するパリサイ人はじめ人類の重荷を担い、この山上の説教が満たされるべく生きそして右の頬を打たれたら左の頬を差し出しつつ父の御心に従順に従いつつ十字架上で死んだ。「誰かわたしの後に従いたいと思うならば、自分を否定せよそして自分の十字架を担ぎ上げよそしてわたしについてこい」(Mat.16:24)。イエスご自身にとって自ら担うべき十字架とは全人類の罪であった。

 イエスは苦難の僕に見られるように旧約聖書が自らについて証するものであるという信のうちにご自身の生を通じて福音を言葉と働きにおいてリアルタイムに実現していった。彼はエマオの道の途上にて復活の主として弟子たちに顕れた。そのさいに、復活のキリストは「[旧約]聖書全体(en pasais tais graphais)」がご自身について書かれたものであることを説明した。「わたしがまだ汝らとともにいるときに、汝らに語ったわが言葉はこうである。「モーセの律法においてそして預言者たちにおいてまた詩篇においてわたしについて書かれているものごとはすべて成就されねばならない」(Luk.24:44)。そのとき復活の主は書を理解させるべくエマオへの道を随伴する弟子たちの微睡んでいた目を開き知識を授けた。そして彼は彼らに言った、「こう書かれている、キリストは苦しみを受けそして三日目に死者たちから甦らされ、ご自身の御名のうえにすべての民族に罪の赦しへの悔い改めが宣教される。それらはエルサレムから始められるが、汝らはそのことどもの証人である。そしてわたしは汝らのうえにわが父の約束を送る。汝らは至高の場からの力に覆われるまで街に留まっていよ」(24:45-49)。弟子たちはエマオへの途上のこの出来事を「われらの心うちに燃えしならずや」(24:32)と回想している。

 これらの言葉はイエスの十字架に至る途上でのリアルタイムの発言の報告であり、また復活の主の発言としての報告である。パウロの宣教はこれらのイエスの言葉と働きを前提にしている。「福音」③Pについてパウロは論じる、主の復活の勝利が示すように人類の罪は十字架上で既に処分された。キリストの弟子たろうとする者は苦難の僕の先駆同様に、人類の罪を担うことこそ光栄ある僕の道であるが、それは既に罪と死に勝利した復活の主と共に担うものとなった。「自分を否定せよそして自分の十字架を担ぎ上げよそしてわたしについてこい」とはパウロによれば、もはや肉に即して生きるのではなく、この罪と死に対する勝利者への信仰のもとに、復活の主の軛に繋がれて生きることに他ならない。罪とその値である死に対して勝利が打ち立てられたからこそ、イエスの「自分を否定せよ」を肯定の言葉として聞くことができる、つまり主イエスと共に重荷を担って歩むことである。「われらの主イエス・キリストによりわれらに勝利を賜る神に感謝しよう」(1Cor.15:57)。イエスがその信仰に基づく義の道を切り開き、それは彼の復活において確証されたからこそ、パウロは「信に基づかないあらゆるものごとは罪である」(Rom.14:22)と神ご自身にとってもひとにとっても信の根源性に基づき信に基づく義そして信仰義認論を展開することができたのである。

 かくして、パウロは業のモーセ律法をこう位置付ける。「業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:20)。愛を成就するには信の道を通るしかないことが知らされている。「愛を媒介にして実働している信が力強い」(Gal.5:6)。

 このことの故に愛が満たされるとき、一切の律法は充足されると語ることが許容される。信と愛はパウロにおいても、一方、信は信の律法により啓示され、他方、「愛は業の律法の充足である」(Rom.13:10)として位置づけられるそのような関係においてある。パウロは愛が「義の果実」(Phil.1:11)、つまり信に基づく正義が生み出す肯定的な産物であるとする。そこで正義はもはや「目には目を償い」(Exod.21:24)のモーセ律法の比量的な正義ではなく「信に基づく義」(Rom.10:6)、「神の義は・・信に基づき啓示されている」(Rom.1:17,cf.Gal.3:16)、「キリストの信を介した義」(Phil.3:9)と特徴づけられる神が信に基づき義であることからひとも同様にキリストの信に基づき義とされる神の前の正義を意味し、その正義と愛の両立が打ち立てられる。イエスは信の従順を貫いた、そしてそこにおいて公正なさばき・正義と憐み・愛が新たな正義の理解のもとに和解した。これが福音である。

 「福音」とはパウロのまとめによれば「信じる[と神が嘉みする]すべての者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:16)。そしてそれは「信の律法」(3:27)と呼ばれ、「業の[モーセ]律法」から概念上、より一層根源的なものとして判別されている。信の律法は正義をめぐる神の意志であり、「神の信」(3:3)に基づく神の義として告げ示されている。「業の律法を離れて」神の義は「イエス・キリストの信」を介して啓示されている。信の律法における信義は「分離されない」が、モーセの業の律法とは分離されうるのである(Rom.3:21-22)。神ご自身にとって義との関連において信はより根源的である。

 神の信が先行し、それに対応する即ち神に嘉みされる信に基づく義・正義を「人格的義・正義」と呼び、司法的次元における正義と概念上区別することにする、ただし、司法的な正義は神の意志である限り人格的正義に基礎づけられるはずのものであるが。イエスはユダヤ人が信奉するモーセ律法は道徳的次元のみにて比量的、応報的、配分的な業に基づく正義として捉えられうるものであることを提示している。それに対し十字架の受容に至るまでの従順の信を貫き、イエスは信に基づく正義を打ち立てることにより、「業の律法」を乗り越える。彼は比量、応報を超える新たな正義のもとに純化されたモーセ律法の正義をも信の従順により満たす。山上の聴衆が「天の父の子となるために」そして天国における報いとしての最終的な正義の実現への信仰によって、彼は地に固執する群衆を新たに「地の塩、世の光」となるよう導く(5:13-14,45)。

 

5主の復活が信仰を基礎づけ山上の説教を満たさせる。

 イエスのリアルタイムにおける十字架に至る信の貫徹とその義の証である復活が福音をもたらした。パウロはこの福音の実現を受け止めて、福音の理論を構築した。パウロはとりわけ「ローマ書」においてまた「ガラテア書」において正しい信仰とはいかなるものかの議論を展開する。永遠の生命の保証として主の復活はわれらの信仰を引き起こしそして信に基づく義を保証するものである。パウロは主の復活という神の歴史への介入から十字架とその生涯を捉えなおしたのである。

 なお、当のイエスご自身が苦闘のただなかにあったことを忘れてはならない。山上の説教が生命を懸けて生き抜かれたことによって、われらはひととして想定しうる最も偽りのない在り方が福音に包摂される。新しい生命が福音という新しい革袋に入れられた。その喜びの福音はパウロにおいて聖霊によりもたらされる「信じること」が喜びとなり信に基づき救いだす「神の力能」(Rom.1:16)の働きであると特徴づけられる。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。「ユダヤ人にもギリシャ人にも呼び出された者たち自身にとっては、キリストは神の力能でありまた知恵である」(1Cor.1:22)。信じうることの喜びと公的な信仰告白は自らが神に呼び出された者であることを証する光栄ある心の働きである。

 主イエスの甦らしを遂行したまう神の力能によって古い業の律法も新しい信の律法の光のもとに照らし直され新しくなり、業のモーセ律法は何等か新しい酒に変換させられる。それは少なくとも人類にひとりは福音の光のもとに山上の律法を成就した方がいるからであり、それゆえに神はナザレのイエスをご自身の御心に適う者として嘉みし、ご自身の信に基づく義の啓示の媒介として用いられたからである。かくして、業に基づく義とは異なる信に基づく義が、業の律法の冠である愛を実現させるその力能が人類に付与されるに至った。モーセ律法は信の律法に秩序づけられた。信の力能こそ彼の十字架と復活において明らかにされたのである。子供の治癒を懇願する男性の願い方に反応し、イエスは応える。「「できるものなら」と言うのか、信じる者にはあらゆることができる」(Mak.9:23)。「できる」というその力能は宇宙万物の創造者にして救済者である神にいたるまで一切との秩序を回復させる心魂の根源的態勢としての信である。秩序のもとにある信にあらゆる肯定的な力能が含まれるとして、そのあらゆるものごとは神においてそうであったように当然愛の業に秩序づけられ収斂される。それ故にこそ、われらは山上の説教をそれにより満たしうるのではないかとの希望を抱く。パウロはそれを理論化した。

 

 6排他性と寛容

 最後に、立花隆が躓いたキリスト教の持つ排他性についてイエスとパウロはいかなる態度をとっていたかを確認する。

 イエスは神の前で狭い真っすぐな信の道を歩みぬいた。立花はこの潔さに心の清さを見て惹かれたのであろう。それは同時に他の道を必然的に排除することになる。その彼には他の道を顧みる必要を感じることもゆとりもなかったことであろう。明確な父の意志の認識のもとに言葉と業において権威ある者として憐みを実現していった。彼は「イスラエルの失われた羊」のみに遣わされているという旧約的な文脈で宣教したが、異邦人の信仰に触れしばしば感動を経験しており、旧約の制約にとらわれることなく分け隔てなく信仰への嘉に基づく憐みの業を遂行している。神の意志の成就に向けて彼は多くの敵にかこまれながらその一挙手一投足において愛と正義と喜びから構成されている神の国をこの地上に持ち運んでいた。

 イエスは山上の説教において八福を展開した。そのなかで例えば祝福される心の態勢として、柔和な心、義に飢え渇いている心、憐み深い心、清い心、そして平和を造る心、そのような心の持ち主が祝福されていると教える。これらすべては心の深いところでの平安を維持している者たちであることがわかる。外界からの様々な攻撃や刺激に対して、揺さぶられない平安を持っている人々である。その平安の根拠は神と神の国との関連において人生を捉えることができていることにある。確かにそのような者たちは祝福されている。イエスご自身がその八つの心的態勢にあり祝福されたひとであった。端的に神の子となること以上に祝福されたことはないであろう。

 憐みを受けているからこそ、ひとは憐みや柔和な心を得る。善きサマリア人は憐み深く窮境にあるひとを介抱するとき、自ら憐みをかけている今・この時において憐みを受け取り直していることを知っている。憐み深くありうること、柔和でありうること、心の清くありうること、平和を造りうること、それだけで平安があり、喜びである。自らの悲惨を知る者にとっては、この喜びが湧いていること自体が憐れまれていることの証拠であると知っている。このような平安な心の状態それ自身が祝福を受けていることであると認識し、感謝している。即ち既に憐れまれているからこそ、平安でありうる。憐みうる者は既に憐みを受けているのである。そしてさらに憐みを受けるであろう。すべてが、憐まれていることのもとに遂行される。

 そこでのひととの交わりの規準となるものは「この言葉はこの行いは平和を造るか、正義を実現するか、心の柔和さと清さと憐みの表れか」というものである。これらは人々とのあいだで競争的、勝者たろうとする者にはどうしても採用できない行為規準である。山上の説教への納得のもと、ナザレのイエスの弟子であろうと覚悟する者はこの道を行く。何よりもキリストと共に歩む。それを望まない者は心の平和と平和を造る者たることを諦めることになる。

 ひとは言うでもあろう、他の仕方で柔和、憐み、清さ、正義心を追求できると。他の仕方とはいかなる仕方か。神の国とご自身の義を求める信仰によるものではない仕方がまず考えられる。生得的に素直で争いの嫌いな柔和なひとはいることであろう。それは祝福されていることであろう。その場合、そのひとがコントラストのなかで自らの憐みや柔和を受け止めているかが問われることであろう。そうでない自然にあふれる柔和や憐みはキリストのそれとは異なることになる。この自然的な共感能力はイエスのそれに似ているであろう。ただし、イエスは明確な神の国の現実の認識のもとにそのコントラストのうちで困窮している人々に憐みを抱いている。そのひとには無意識に沈んでもいよう、かつて憐れまれたことを思い返すよう促されることであろう。

 さらに他の仕方のもう一つの在り方として、信心は持つがナザレのイエスの父への信仰ではなく、仏が伝える永遠の法や他の神々への信仰により同じ感情を得るというものである。イエスの弟子になろうとする者にはこの他の仕方を尊重することが求められる。しかし、イエスご自身は言う、「わたしが道である、また真理である、そして生命である。わたしを介するのでなければ、誰も父のもとに行くことはない。汝らはもしわたしを知ったなら、わたしの父をも知ることになるであろう。そして今から汝らはご自身を知っておりまた見てしまってもいる」(John.14:6-7)。

 イエスはご自身が神の子であるという自覚にあるとき、他の道を勧めることは考慮の外にある。それは無責任であり信仰の本質に反すると言うべきである。信仰は二心なき心魂の根底における幼子のごとき混じりけのない承認であり信頼であり委ねである。「あなたは仏教の世界で育ったのだから、その道を追求しなさい」とイエスご自身が言ったとしたら、山上の説教における彼の真剣さは何であったのかという疑念がわくのみならず、大いなる失望のもとに彼の御跡についていくのを止めてしまう者が続出することであろう。

 聖書の神は「わたしをおいて他に神があってはならない。・・わたしは妬む神である」(Exod.20:3-5)と言われる神である。「生命に通じるもんはなんと狭く、その道も細い」(Mat.7:14)。キリストにのみ救いがあるという信仰は排他的に見えても信仰の根源性からして少なくとも自らに関わる限りにおいては他の道の排除は要請されるものである。神は「妬む神」である。信仰においては他者との水平的な関係ではなく、他人はいざしらず、自己と神の信実な関係が問われている。神がイエス・キリストにおいて信実であったとき、信仰により応答するのかそれとも裏切るのかが問われている。

 しかし、それは非理性的な狂信とも偏った感情である迷信とも異なるものであるに相違ない、正しい信仰である限り。ひとは他の道にいくひとに言うであろう。「少なくともわたしはどこまでもイエスについていく、人生が終わってしまわなければわからない事柄に関して、人生の途中で様々な挫折により捨ててしまったなら実験は未遂に終わる」、また「未来形で語られる神の子となることや慰めを諦めることになるであろう」。少なくとも一緒の道を歩めないことを告げるとき、こう言うであろう。「あなたがあなたの道を行くことは尊重する。ただし双方とも迷信や狂信に決して陥らない仕方で信仰生活を遂行しよう」。他の道を諦め、捨ててnarrow and straight roadを歩むことは信仰生活の基本となり、そこに信じることにおける喜びがわきおこる。信仰とは人生をかけることである。あれもこれもという二心は単に欲深にすぎない。

 ひとはただイエスに従う人生においてその確かさのエヴィデンスを蓄積していく。この世が与える平安とは異なる平安をいただくことを経験する。それは彼が永遠の生命にあるからこそ与えることのできるものである。イエスは言う、「わたしは汝らに平安を遺していく、わたしの平安を汝らに与える、わたしが汝らに与えるその仕方はこの世界が与える仕方のものではない。汝らの心は騒がさせられるな、また恐れさせられるな。汝らは私が汝らに語ったことを聞いた、「私は去っていくそして汝らのもとに戻ってくる」と。もし汝らが私を愛していたなら、わたしが父のもとに赴くことを喜んだことであろう」」(John.14:27-28)。イエスは父とともにある平安の故に、心を騒がせることも恐れることもない。「天の父の子」となった者たちも同様である。そして迫害の歴史において、その証は多く与えられてきた。この不思議な平安とそれに伴う喜びこそ神の国の証、エヴィデンスであると言える。

 パウロは不可視なものについての接触的な知識である「叡知(ヌース)」という認知機能について言及しつつ、神から与えられる平安についてはヌースがヒットすることのない仕方で与えられることがあると主張する。ひとは自らの平安を認識できないことがあるにしても、不思議な平安に護られることがある。パウロは言う、「あらゆるヌース(叡知)を超えている神の平安が汝らの心をそしてキリスト・イエスにある汝らのノエーマタ(かつて得た叡知内容)を護るであろう」(Phil.4:7)。この平安が現実のものでなければ、キリスト教史においてあれほどの殉教者が平安のうちに死んでいくそのような状況を想定することは難しい。そこでは正義のために迫害されても、喜んでいることができる、言ってみればこの世の生死を突き抜けている心の態勢にあるからである。「われには生きることはキリストである。死ぬことは益である」(Phil.1:21)。

 この突き抜けのもとに、認知的、人格的態勢が成長していく。「われ祈る、汝らの愛が、知識においてまたあらゆる感覚においてますます満ち溢れ、汝らが[重要度の]諸差異を識別するに至ることを、それはキリストの日に、汝らが染みなく、咎めなき者となるためである」(Phil.1:9-10)。「平和の神ご自身が汝らをあますところなく聖なる者とし(hagiasai)、汝らの霊と魂と身体とがわれらの主イエス・キリストの来臨の時に備え非のうちどころのないよう完全なまでに護られるように」(1Thes.5:23)。このような認知的、人格的成長がある限り、その信仰は狂信からも迷信からも自由な正しい信仰であると語ることができる。

 イエスの軛に繋がれ歩んでいるとき、次第にイエスの歩調に合うものとなり、次第に造り変えられていくであろう。この世界に何ら確かなものがないと思い絶望する者でも、このような心の働き、状況においてある者が祝福の対象であるなら、人類にその一番低い所にセーフティネットは明確に張り巡らされていることを知るにいたる。イエスのもとにならいくことができる。

 このような人物に対し、君は他の道を認めていないと言って誰が責めることができようか。その批判の次元の届かないひたすらなる道であった。イエスに二心があったとすれば、責めることもできよう。しかし、信の従順を貫いた者に不寛容を責めることはできない。部下の癒しを求める百人隊長、涙で足を洗う罪の女性に、自らの病気の子を犬にたとえて憐みを請う異邦の女性たちにその信仰に感動して憐みを示しているイエスに何が足らないというのか。イエスは目の前の隣人の救いに今・ここで没頭していた。その言葉と働きにおいて偽りを見出しえない者に、リアルタイムにそのつど最善を尽くしており、その状況においてそれ以外の振る舞いの想定できない者に対し、不寛容や排他性を責めることができるであろうか。彼がもし十字架から降りてきてしまったなら、彼の人生について新約聖書が書かれることはなかったそのような人であった。責める者があったとすれば、ものごとをよく見ず、ひとは他宗教に寛容であるべきと単におのれの願望や欲望をイエスに投映しており、目の前の隣人を愛しているイエスならざる自らの理念に基づきそこにいないひとを責めている。譬えて言えば、或る丸い集合があるとせよ、その外は空集合であるとせよ。要素の何もない空集合にあたかも何か完全なメンバーがあるかのごとく、要求する者に似ている。人間でない者を人間であると主張している者に似ている。

 それでは立花が嫌いだと言ってはばからないパウロはどうであろうか。われらはここまでパウロは明確な自覚のもとにナザレのイエスがキリストであることを告白しつつ、イエスの生涯が全く神の意志を成就するものであったことを論証している。イエスは今・ここのエルゴン(実践)に生き、パウロはそのロゴス(理論)を明らかにしたと言うことができる。もちろんパウロもキリストを宣教するというエルゴンにおいてあるのであるが、イエスのエルゴンはその一言一句、一挙手一投足が神の国を持ち運んでいたのに対し、彼の書簡はその福音の宣教のエルゴンに従事している。福音書がイエスの言行を報告しているのに対し、パウロは自らの書簡において復活のキリストの出来事を報告しつつ、それが人類の救済の出来事であることをイエスの信と愛の生涯の理論化により論証したと言うことができる。

 ひとはパウロを非難するでもあろう。なぜ福音の排他性や不寛容の非難に対し手当てをしなかったのか、と。彼は同じ欠け多き人間として、理論化の過程で他の救いの教説に寛容を示すべきであったのではないか、と。パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的に語る」(Rom.6:19)と譲歩を示しつつ、人間中心的な議論をも展開している。そこでは人間は神から独立した者として「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる中立的な自律的存在者である。パウロはこの譲歩により人間を滅ぼすべく罠をかけたのであろうか。どうぞ他の宗教に行ってください、それにより罪となり滅びてくださいと。キリストの弟子としてそれは想定できない罠である。イエスご自身、ひとびとの心の頑なさ故にモーセが離婚を認めたケースを紹介するように、弱さに譲歩することがあるが、そのつど悔い改めて信仰に立ち帰るよう促している(Mat.19:8)。パウロは「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(14:22)とそれぞれの責任と自由において持つ信仰を神ご自身の出来事即ち、イエス・キリストの信においてわれらの信仰を理解しておられることを信ぜよとそのつど神の前への立ち帰りを促す。

 ひとが持つ心的態勢としての「ピスティス(信・信仰)」には「成長」や「増大」、「強い」「弱い」が帰せられるものであり、人々のあいだでまた一人の歴史において異なりや変動がある(Phil.1:25, 2Cor.10:15, Rom.14:1)。「信仰において弱い者を受容せよ、損得勘定を介した分断に至ることなく」(Rom,15:1)。「われらはわれらに賜った恩恵に即して異なる賜物を持っているので、もし預言を持つならその信仰の割合に即して[賜物を用いよ]」(Rom,14:1)。信に基づき、人格の成長と認知的成長がめざされる。

 パウロは宣教のさいに、キリストを告げ知らせるために何であれ肯定的、創造的、喜ばしいものに対して全方位的に心に留めた。「何であれ真実なるものごと、気高く、正しく、清く、愛すべき、良き聞こえのあるべきものごとを、またもし何か徳そして何か称賛に値するものがあるなら、汝らはこれらを心にとめよ」(Phil.4:8)。あらゆる人々への福音宣教の覚悟はこう語られている。「わたしははあらゆるものごとから自由であり、わたし自身をあらゆる人々に奴隷となした、それは多くの人々を獲得するためである。わたしはユダヤ人にはユダヤ人のようになった、ユダヤ人を獲得するためである。律法のもとにある者たちには律法のもとにある者のようになった、わたし自身は律法のもとにいないけれども、律法のもとにある者たちを獲得するためである。律法なき者たちには無律法の者のようになった、神の無律法者ではなくキリストの律法のうちにいるけれども、それは律法なき者たちを獲得するためである。わたしは弱い者たちには弱い者となった、弱い者たちを獲得するためである。あらゆる者たちにはあらゆる者となった、あらゆる仕方で幾人かを救い出すためである。福音の故にあらゆるものごとを為す、それはわたしが福音を共に分かちあう者となるためである」(1Cor.9:19-23)。

 

7結論

 パウロは仏教徒やイスラム教徒に対しては彼らのようになったことであろう。神の前の福音は揺るがないからである。彼は人々との交わりにおいては肉の弱さへの譲歩の故にどこまでも譲ることができたのである。生命をさえ捧げたのである、彼らを救いにもたらすために。それでも彼の偏狭を責めるのであろうか。われらはここまで良心について業の律法の愛への収斂について、そして信を介しての愛の成就について、総じてパウロは福音を成就したナザレのイエスに基づき福音を理論化したことを確認した。二人のあいだに歴史上の置かれた状況は異なるが、神の子自身によるご自身の理解とその神の子についての理論的な理解とのあいだに何ら齟齬のないことを確認してきた。従来福音が正しく理解されなかったため、カトリックとプロテスタントが争ったのであり、われらは今・ここに和解の言葉を提示できる。パウロはイエスの忠実な弟子であり、宣教者であったからである

 この新しい「義の言葉」(へブル書5:11)について立花隆氏の意見を聞いてみたい。実際、2018年に編集者が立花氏の意志を確認したうえで彼に拙著『信の哲学』(北大出版会 2018)をお送りした。そのままになってしまったが、いつか彼と議論できる日のくることを待ち望んでいる。彼の霊に平安がありますように。

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何をしても赦されるのか(1)―神の憐みと正義―

何をしても赦されるのか?(1)―神の憐みと正義―

               日曜聖書講義2021年6月20日

[先週の録音が原稿の途中で終わってしまったので、「憐みを引き起こすもの」の続き(その2)をお話する予定でしたが、今週から以下の理由で罪の赦しと正義の問題について複数回お話します。本日は或る事情で時間がとれず、原稿なしで何をしても赦されるのかという問いをめぐって入門的な話を30分弱しました。用意した原稿をアップしますが、来週はこれを読む予定にしています]。

 

聖書朗読

「ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:6-8)。

 

1はじめに

 先週の16日水曜日の朝礼拝はI君が担当で、詩篇51篇のダビデの悔い改めの祈りのところであった。I君は「サムエル記」をひきながら、イスラエルの王ダビデの軍隊の司令官ウリヤとその妻バテシェバとダビデ直属の預言者ナタンに言及しながら、聖書の中心的な問題である罪の赦しについて話した。ダビデはウリヤの妻を略奪した。戦闘の状況を報告にきたウリヤに妻のもとで休むようにすすめるが、部下が最前線で戦っているこのときに妻と過ごすことはできないとして、野営した。そこでダビデはひそかに伝令をだし、ウリヤを最前線に送り、死なせた。預言者ナタンがダビデのもとにやってきて貧しい羊飼いが大切にしていた一匹の羊を多くの羊を所有する富者が奪ってしまった話をした。ダビデは怒りそのような悪者に死を宣告すると、ナタンは「汝がそのひとなり」と難詰した(1Sam.12:7)。ダビデは悔い改め、その祈りが詩篇51篇として遺されている。I君は詩篇を註解しながら、条件文で「もし悔い改めるなら、何をしても赦されるのか」という問いかけという仕方ではあるが、その一つの可能な解釈を提供した。これは聖書の中心的な問いのひとつである。

 春以来毎週日曜聖書の学びを通じて競争や嫉妬や憎しみなどの争いでもない憐みの心を獲得すべく、福音書と格闘してきたが、ここでは罪の赦しという問題を神の憐みと正義いう視点から考察したい。ドストエフスキーは『カラマゾフの兄弟』のなかでやはりこの問いを引き受け、「一切は赦されている。しかし、一切が赦されていることを知っている者はそんなこと(赤子を槍で突き刺したり、少女を凌辱したり)をしない」という言葉で神の憐みとひとの罪とその克服についての解決案を提示している。しかし、この知識に訴えた理解において、何をしても一切が赦されていることが神ご自身の認識であると想定されているからこそ、その事態が知識の対象とされている。悔い改めさえすれば、福音を信じさえすれば誰もが何でも赦されるのであろうか。そこではどのように、どれほど悔い改め信じればというわれらの悔い改めや信仰の程度は問われないのか。ここに神の前のことがらとひとの心的態勢がそれぞれいかなるものであるか、そしていかなる仕方で関係しているのかが問われる。

 

2美しく問う

 そこでの問いは、そのような神は子供を甘やかしてダメにしてしまう父親のようなものであり、そのような神は知恵もなくまた正しくないのではないのかというものとなろう。他方、父親があまりに厳しければ、子供は萎縮し黙してしまうか反抗するかに走りがちであり、親子のあいだに愛の関係を築けないであろう。かくして憐み深さと正しさが両立することを示しえてのみ、憐みについて正しく知ることができるのではないかという問いが起きよう。甘やかしすぎまたは厳しすぎのダメ親父は自ら愛や憐みということがらを正しく知っているとは誰も言わないであろう。このような問いがただちに続く。思考を前進させるには一歩一歩問いをたて答えを見いだし、そのうえでその答えが新たな問を生むそのような「美しく問うこと」(アリストテレス)が求められる。何をしても赦されるかというあいまいな問いが立てられた場合に、その問いそれ自身の理解をめぐり多くの問が問わねばならない。

 

3宗教に求められるものと道徳の関係

 ひとは宗教に藁にも縋る思いで救いを求めてきた。宗教はおのれの悪さに悩みまた苦しむ者を救うところにその真骨頂があるのではないのかも問われてきた。そこではどこまでも自分の神理解を投影し優しい神をしたてあげその自ら描く神に救いを求めてきたのではないか。そこでは、宗教を信じるだけで、何をしても赦されるようになるのか、という願望からくる問いが生じるであろう。その究極は万人救済説(universal salvation)であり、信じる信じないにかかわらず神の憐みのゆえに、弥陀の慈悲の故に、罪悪深重、極悪熾盛、地獄ぞ一定住処ぞかしの身にとっても救いは確かなものであると信じる。この信仰というものにはどれだけのマジックが働くのかが問われている。

 ルターの次の言葉も信仰がもたらす大逆転を知識との関係において捉えている。ルターは「義人とはおのれの罪があまりに深くて、どれほど深いか知りえないことを知っている人間だ」という主旨のことを「ローマ書註解」で語っているが、罪の深さから義人への大逆転こそ信に求められてきた。親鸞の悪人こそ救われるという悪人正機説も救いのなさのただなかで信に縋る以外に「別の子細なき」状況が語られている。「親鸞におきてはただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしとよきひと[法然]のおおせをかうぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」。「念仏」とは信仰のことであるが、親鸞の師法然はこう語っている。「念仏といふは、ただこころをひとつにして、もはら阿弥陀の名号(みょうごう)を称念する、これを念仏とは申す」(山崎正一『親鸞』p.58集英社)。親鸞は「いずれの行もおよびがたき身なればとても地獄は一定すみかぞかし」という理解のもとに念仏と行即ち道徳的行為を対置して、道徳的には悪いことしかできず地獄がふさわしい自分に残されているのは信仰だけであるとする(「歎異抄」第二章)信にはどれほどの大逆転のマジックがひめられているのか。彼ら宗教の達人たちは信、信仰について正しく理解した者は憐みも正しく理解できると主張しているように見える。

 ひとは直覚的に信じさえすれば何を為しても赦されるという類の信念は正しくないと感じることであろう。誰であれ、万人が救われるのであるなら、ひとは自らの行為に何ら責任を負うこともなくなる。そのような考えはモラルハザード(道徳的危機)を引き起こしてしまう。ただ、救いを必要としている者の主観的現実としては、おのれの悪さに絶望し、見失われており人生をまっとうできないという感覚を持つことであろう。そのような者には藁にも縋る思いで「汝の罪赦された」と過去形において語られるパッセージを血眼になって探すことであろう。宗教はそのような者を救う力あるものでなければならないはずである。

 内村鑑三は或る文脈においては「道徳無用論」を唱えることができなければ、宗教はその力と醍醐味を失うという主旨の発言を『ロマ書註解』のなかでしている。また黒崎幸吉先生は恩恵の無償性についてこう語っている。「自分の罪がキリストの十字架の贖いによりて、全部しかも永遠に赦されたことをそのままに確信することはなかなか容易ではない。その故はそれがあまりにも不当利得のごとくに見えるからである。しかしながら、この不当利得すなわち神の恩恵をそのままに受けてこれを信ずることが本当の信仰であり、すなおにこれを確信することによりて、始めて「信仰のみによりて義とせらるる事」の何たるかを知ることができる」(『閃光録』 p.83、1973)。

 この信じるだけで罪赦され、義とされることは不当利得なのであろうか。それなら潔しとせず、自ら神に頼ることなく、自らの責任で人生を切り開いていこうとするひとも多いことであろう。この事態は正しく理解されねばならない。実際、パウロも「律法に死んだ」即ち業のモーセ律法のもとに道徳的世界において生きることをやめたと語っている。とはいえ、それはキリストとの新しい生命の関連において語られて新たに秩序づけられており、正しく理解する必要がある。パウロは言う。「わが兄弟たち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:4-6)。

 

4信に基づき道徳的に有徳である場合にのみ、恩恵と責任は両立する。

 宗教と道徳の関係がこれほど緊張したものであるとき、一方で、恩恵の無償性、つまり端的な贈り物であることを明確に論証し、他方で各人の責任ある自由が確立されねばならない。ドストエフスキーの恩恵を「知っている人間」は悪行に身をそめることはないという「その知識」とはいかなるものであり、いかなる仕方で善行を生み出すかの明晰な説明が求められる。神の前のことがらと人の前のことがら、道徳と信仰の関係、そして正義と愛の関係が明確に秩序づけられ把握されねばならない。

 この大きな問を解くには多くの議論が必要とされることは明らかである。神学や聖書学そして文学は恩恵の無償性、贈りもの性についてどこまでも深くキリストの贖いを掘り下げることによって語ることができるであろう。福音がもつこの恩恵の豊かさこそ、日曜のメッセージに含まれるべきものであるが、今ここではそれに従事することはできない。

 今後の信仰と正義と愛の関係をめぐる議論の基礎として、いくつか基本的な事項を確認しておこう。誰もが同意することとして、信・信仰はどれだけ人格的に悪くてもまたどれだけ認知的に愚かであっても持つことができる、即ち幼子のような仕方で心的態勢の実力いかんにかかわらず心魂の根源に生起する心の働きであるように見える。そこでは人格的有徳性も認知的有徳性も問われることがないため、正しい信仰ということも問題にならないように見える。藁にも縋る思いで神や仏に向かい始めるという意味では、そうでもあろう。ただやはり誰もが同意するであろうこととして、立派な人間になりまた知識を蓄え思慮深い人間になることが、正しい信仰であることの証拠、エヴィデンスになることも否定されないであろう。無律法主義の無頼漢がたとえわたしは救いを信じていると言っても、誰もそのひとを信用することはないであろう。

 かくして憐みに縋れば何をしても赦されるというとき、どのような仕方で憐みに縋るのか、信じるのかが一方で問われることになる。他方で、憐みや恩恵の無償性について、明確に理解できないとき、ひとは宗教のもつ力動的な救いをも経験できないであろう。

 

5信から愛へ

 ここでは聖書とりわけパウロがこの心魂の根底に生起する信と神の憐みそして正義の関係について明確に議論しているので、その理解の大枠を提示したい。神の憐み、恩恵と神の正義そしてひとの信仰の関係について正しく理解したい。

 パウロはモーセの「業の律法」を一概に否定しているわけではなく、新たに啓示された福音即ち「信の律法」のもとに秩序づけている(Rom.3:27)。パウロがその教えを理論化しようとしたそのもととなるイエスご自身山上の説教のなかで律法への尊敬と使命を語っていた。「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。アーメン、わたしは汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(5:17-20)。

 ただし、イエスもパウロもモーセ律法を愛に収斂させており、愛が満たされたなら、一切の律法が満たされていると主張していた。イエスは「愛」が一切の律法のなかで「偉大な戒め」であると理解しており、そのもとに他の一切の戒めが秩序づけられる限り、この主張は理解可能となる。愛は業の律法の充足、冠として位置づけられるそのような関係においてある。「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心に即し]そして汝の魂を尽し[生命ある限り]そして汝の思考を尽して[理性に即し]愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身の如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat.22:36,cf.「律法の冠」、「律法の充足」Rom.13:9,10)。愛が満たされる限り、業の律法としての正義は満たされており、あらゆる律法がめざす愛を実現する限りにおいて一点一画とも過ぎ去らないと言うことができる

 愛は業の律法の冠である。愛をそれ自身において実践できるかが問われている。パウロは「業の律法に基づくすべての肉は神の前で義とされないであろう。なぜなら、[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:20)として誰も愛を愛それ自身として満たすことはできないと主張する。パウロは「愛を媒介にして実働している信が力ある」(Gal.5:4)と語り、イエス同様に信に基づき愛に至ろうとする。パウロは業の律法のもとに生きる者はそのもとで審判を受けると言う。「汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の義しき裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」。かたや、忍耐に即して善き業の栄光とその名誉とその不朽とを求める者たちに永遠の生命を報い、他方、利己心から真理に服せず、不義に服する者たちには怒りと憤りがあるであろう」(2:5-8)。他方でパウロはこうも言う、「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものと認定される。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される」(4:4-5)。ここに矛盾はないのであろうか。

 この「不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される」という主張はわが国においては専修念仏を唱える親鸞の「悪人正機説」の系譜に属するものである。魂の根源的態勢としての念仏と業、信仰と愛の関係は或る人々の唯一の救いの希望ともなり、また克服不能な妨げともなってきた。一般的に言って、所謂point of no return(後戻りできない一点)、消せない過去を経験してきた人々にとっては、自らの自然的な生を何事もなかったかのように継続することはかなわない。それ故にこそ信や念仏の力に縋る以外に生きる道が残されず、そこに救いを見出してきた。ただ「南無阿弥陀仏」を唱え続けること、ただ「汝の罪は赦された」を唱え続けること、それが求められる信の行為であるとされた。そしてそれは道徳的行為と看做されず、それより根源的な心魂の根底におけることばの働きであると看做された。ひとが自らの業や他人の業を振り返り、自他を審判するとき、その者は業の律法のもとに生きている。その業が既に赦されたことを信じる者は信の律法のもとに生きていることがパウロにより報告されている。

 二つの律法の異なりは、一方で業の律法のもとでは各人の道徳的責任が問われており、盗むか・盗まないか、貪るか・貪らないか等の二者択一が問われているが、信の律法のもとでは神がイエス・キリストにあって信実であったとき、信じるか・裏切るかが問われている。信じるか・信じないかという業の律法での二者択一ではなく、より根源的なものとして神の信への応答が問われている。ひとは裏切るなら、そこでは神とのあいだに信と信の人格的関係が結ばれてはおらず、信に基づく義も生起してはいない。「おおよそ信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。これが信の根源性を明らかにしている。

 信の律法は神にとってもそしてそれ故にひとにとっても業の律法よりも根源的なのである。以下業の律法は罪の自覚を生じさせ悔い改めを介して信の律法に導くことにその機能があることを確認する。信の律法のほうがより根源的であることは、立派な行いなしにもその信が神に嘉みされる場合には罪赦されるという恩恵が確保される。

 「いずれの行も及び難き身」には、ただ「見よ、われは汝の不法を雲の如くに、そして汝の罪を霧の如くに散らした(apēliphsa)。われに立ち返れ、そうすればわれは汝を贖うであろう」の言葉に身を委ね、「地獄ぞ一定すみかぞかし」という思いに捕らわれるとき、ただ「わが思いは汝らの思いと異なる」を思い返し続けるだけであろう(Isaiah 44:22,55:8)。律法主義から解放され、信の律法のもとに生きること、「信じます」という告白がそのつど求められている第一のことがらであり、生の更新の唯一の可能な契機となる(Rom.10:10)。

 

6信仰義認の教説に対する反論とパウロの応答

 信の心魂における根源性は承認されよう。しかし、通俗的な信仰義認論や悪人正機説の理解によれば、どんなに悪人であっても、ただ信じさえするなら神は罪を赦免し義とする、弥陀の慈悲を受けるというが、そのような神や仏は不義ではないのか、立派な人間だけが救われるに値するのではないかと古今東西を問わずひとびとは困惑してきた。また「われヤコブを愛し、エサウを憎んだ。・・われが憐れもうとする者をわれは憐れむであろう。・・欲する者を彼は憐れみ、欲する者を彼は頑なにする」そのような神は不義なのでないか、依怙贔屓ではないか、「誰が神に逆らえようか」と嫌疑がかけられてきた(9:13-19)。パウロは第一に神の主権によりしかも憐れみの啓示に基づき応答する、「それは望む者のでも、奔走する者のことがらではなく、憐れむ神のことがらである」(9:16)。神に不正の嫌疑がかけられるのは神の憐れみを知らないからである。

 一般的に言えることは、「神には偏り見ることがない」(2:11)とすれば、神が業の律法の適用において、また信の律法の適用において一つの明確な基準のもとに判断が遂行されているなら、憐みに依怙贔屓があることにはならないということである。業の律法のもとに生きる者には業の律法が適用され、信の律法のもとに生きる者には信の律法が適用されているならば、そこに依怙贔屓はないと言えよう。信の律法を充足する者とは「イエスの信に基づく者」また「アブラハムの信に基づく者」として、その信が神に嘉みされる者のことである(3:26,4:16)。

 神の自由な選びにこそ恩恵の無償性が成り立つ。「ご自身が予め定めた者たち、その者たちを彼は呼びだされもした。そして彼が呼びだした者たち、その者たちを彼は義ともされた。しかし、ご自身が義とした者たち、その者たちに彼は栄光をも賜わった」(8:30)。しかし、そこに神の恣意性の疑いがもたれてきた。

 ここでは恩恵の無償性、贈りもの性について詳しく展開することはできない。神学や宣教そして文学においてこの神の恩恵はどこまでも豊かに語られることであろう。ここでは、神には偏り見ることがなく、不正がないことをパウロの議論から確認したい。どんな罪をも赦してしまう神は不正ではないのかという問いは道理あるものである。それに対してパウロは適切に応答していることを確認するだけに今回は留まる。

 「[業の]律法は怒りを成し遂げる」(Rom.4:17)とあるように、「神の怒り」の規準は「業の律法」、モーセの十戒を介して明確に啓示されたとパウロにより報告されている。「ローマ書」一章の議論の展開としてまず「神の義」は福音において啓示されていることが提示され、その神が義であることの第一の理由が神の怒りにあると報告されている。(B)「なぜなら神の怒りは天から不義のうちに真理をはばむ人間たちのすべての不敬虔と不義のうえに啓示されているからである[現在形]」(1:18)。神の怒りは今・ここで真理をはばむと神に看做されている人間たちの裁量のもとにある不敬虔と不義という心魂の態勢のうえに、即ち心魂の或る在り方のうえに「引き渡し」、勝手にしろという仕方で啓示されている(1:24)。怒りの啓示内容は人間化された心的状態ではなく、神の行為において顕されている。そして彼の議論のなかではその怒りは福音に立ち帰らしめるものとして位置づけられる。

 (B)「神の怒り」の啓示の報告の結論として「業の律法に基づくすべての肉はご自身の前で義とされることはないであろう[未来形]。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」と終わりの日に罪人として審判されるに至ることがこの啓示の含意として導出されている(2:20)。ただし、この未来形表現により、当人が悔い改めた場合には事情が異なることもあろうことが含意されている。悔い改めとは業の律法のもとから信の律法のもとに移行することである。ただし、自らが信の律法のもとで信仰を持ったか、業の律法のもとで貪りとして信仰をもったかは、終わりの日に知らされる。業の律法のもとに生きる者は義とされないことが一般的に知らされている。悔い改めは神の意志に背くことから神の意志に服し信に基づき義とされることにより遂行される。「恐れと慄きをもって汝の救いをまっとうせよ」(Phil.2:12)。

 神の義の第一論証であるこの怒りと業の律法のもとにある者の不義の結論に続き、第二論証が展開される。(A)神の信義の啓示が報告される。(A)「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている[現在完了形]。・・神は、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」(3:21-26)。(A)義人はいかなる者であるかに関して、「神はイエスの信に基づく者を義とする[現在分詞形]」により啓示内容として一般的に知らされている。さらに、信の律法のもとにあり(A)「イエスの信に基づく者」と看做される者についてはアブラハムによる先駆的事例がある。「アブラハムにその信仰が義と認定された」(4:3)。このようにイエス以前の「アブラハムの信に基づく者」(4:16)に関しても同様である。なおイエスご自身は正しい信仰を「幼子」の如き信仰と表現することがある。「まことに汝らに告げる、幼子のように神の国を受け入れない者はそこに入ることはないであろう」(Mak.10:15)。どれほど認知的に人格的に愚かで悪くても、そうであるからこそ「幼子」のように信じることはできる。最も困難な探求対象が最も容易な幼子の信のみを心魂の根底に要求しているということは認知的、人格的に十全な全知全能の神にふさわしい。われらは幼子のように信じるその「神はおのれの独り子を賜うほどに世界を愛した」(John.3:17)方である。

 かくして、今・ここで二種類の神の義が啓示されているが、一方は神の怒りであり他方は神ご自身の信義ならびにイエスの信に基づく者の義認である。神の怒りは直接には罪人の最終的審判ではなく、ここに(A)(B)啓示行為内容の非対称性が見られる。怒りから逃れるべく悔い改めの余地が残されているからである。他方、義認が今ここで生起している者については神の認識の変更(人間的に言えば)は想定されていない。

 

7 悔い改めは業の律法から信の律法のもとに移行することである。

 この二種類(A)(B)の神の義の啓示を介して、信の律法のもとに生きる以外に義とされる道のないことが知らされている。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。業の律法に基づくと神に看做される者は終わりの日にその業に応じて報いを受けるが、そこでは誰も義と看做されることはないであろうからである(前節)。

 かくして、ひとは悔い改めにより怒りを逃れて信の律法のもとで罪の赦しの義認に向かうことができるだけである。「ひとよ、汝は神の裁きを逃れると思うのか。それとも汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか。汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しい裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」」Rom.2:3-6)。

 パウロは「ガラテア書」において自らの自覚としてこの業の律法から信の律法への移行を罪の値である死からキリストにおける生への移行として語る。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。

 

8 神には二つの律法の適用において偏りがない。

 「神には偏り見ることはない」(Rom.2:11)。なぜなら、一方、神は業の律法のもとに生きる者には業の律法を適用し、そこでは「すべての律法を為す義務がある」(Gal.5:3)こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」からである(Rom.2:13,2:6)。他方、信の律法のもとに生きようとする者、「神の善性」(11:22)に留まろうとする者には「イエスの信に基づいている」(3:26)かにより審判を遂行するからである。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(9:13)とあるのは、前者が信の律法のもとに、後者が業の律法のもとに生きたことが想定されているからである、ただしエサウがその後悔い改める可能性は否定されていない。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」(11:22)。神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は「叡知の機能不全」(1:28)の故に神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできない。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した」(1:28)。「彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではなく、行う者たちを是認さえしている」(1:32)。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるであろう。まさに「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」(Ps.18:26)。

 

9結論 解決案

 以上のような事情であるとして、ひとは信の律法のもとに生きていると自ら思っていても神はそのようには看做していないかもしれない。「わたしに「主よ」、「主よ」と言う者がみな天の国にはいることになるわけではない」(Mat.7:21)。他方、自分には地獄が決まって住処であり永遠の滅びに定められていると思っていても、神はそう看做していないかもしれない。「ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:6-8)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みした。神は自らに背く者たちについて「彼ら自身において考慮することなく」十字架上のイエスの信義に基づき考慮していたまう(2Cor.5:19)。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。

 この福音のメッセージは個々人の誰にもイエス・キリストにおいてほど明確には知らされてはいない。これが何でも赦されるかという問いをめぐる最も重要な応答となる。同様に万人救済論に神はコミットしているか否かもイエス・キリストの信においてほど知らされてはいない。神の意志はモーセ律法とイエス・キリストの信において最も明確に知らされている。だからこそ、そのつど自ら神の憐みのもとにおり、罪赦されていると信じることが実質的なものとなる。ひとは自らの責任ある自由において神の前の啓示の出来事を自らのものとするよう命じられている。「汝が汝自身のがわで持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。命令されるということは受容することも拒否することもできる、即ち「義の奴隷」とも「罪の奴隷」ともなりうる自由な存在者であることを示している(6:20)。パウロ個人にとっても同様であり、彼は「わたしは他者にいかにも福音を宣教しながら自ら失格者となることがないように、わたしはわが身体を打ち、身体を拘束する」と、さらには「恐れと慄きをもって救いを全うせよ」と、神の前の出来事を自らのものとすべく、その都度信に立ち返る(1Cor.9:27, Phil.2:12)。そこに彼は「汝らが聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れる」聖霊の執り成しが生起することを願っている(Rom.15:13)。

 或るひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証はどれだけ隣人を愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。罪赦されたことの証は多く愛しうるということに見られるなら、われらは歯を食いしばって敵をも愛することであろう。今・ここでキリストにあって自ら神の憐みを受けているという信が愛を実現する唯一の道である。

 

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憐みを引き起こすもの(その1)―コントラストの知識をもたらす信仰―

憐みを引き起こすもの(その1)―コントラストの知識をもたらす信仰―

日曜聖書講義 6月13日

(録音は4節「復活と永遠の生命」の途中までです。来週また、われらの心魂に憐みを引き起こすものの探求を続けます)。

 

聖書箇所(マタイ福音書25:31-44口語訳)

[25:31]人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。

 

1憐みをかけるひとは誰であれ主にかけている。

 春からわれらは挑戦している。憐みを獲得することができるかどうか。いかなる競争心や憎悪、嫉妬からも自由にされ、喜びのうちに友と友の関係を構築できるかを。憐みのうちに、善きサマリア人のように困窮したひとを援けることができるかを。そこに至る道は「われは道であり、真理であり、生命である」と言ったイエスの歩みに追随する以外にないであろう。イエスの軛を共に担ぎ上げ、彼と共に歩むこと以外に、イエスの柔和を獲得することはないであろう。この世のものではない神の平安がわれらを守るであろう。他の道が魅力あるものともはや見えない。富や栄華やそして名声など、この世の価値はこの憐みと柔和を持つ、ひととしての本来性から比べて、いかにもこの世への隷属を示している。

 「誰も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。汝らは、神と富とに仕えることはできない」(Mat.6:24)。「その心によって清い者」とはその心に二心(ふたごころ)がなく、心の目が光のように明るく澄んでおり、ものごとがよく見え最終的に「神を見る」者のことであった。「汝の宝のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.5:21)。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置く者はいない。ひとが入ってくるとき光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い。それだから、汝のうちにある光が暗くないか吟味せよ。かくして、もし汝の全身が明るく、何か暗い部分をもたないなら、ともし火が明るさによって汝を輝かすときのように、全体を輝かすものとなるであろう」(Luk.11:33-36)。山の上にある街は隠れることがなく、周囲を照らす。そのように「世の光」はこの世界を支え、導く(Mat.5:14,cf.Phil.2:12-15)。

 ひとは光を好むか闇を好む。全身の明るい秩序を求める者はイエスのもとに行く。彼と共に歩む。福音書のイエスの言葉に、小さな者への愛が福音のもとに生きているか否かの規準になることの証が見られる。イエスはどのようなひとが憐み深いひとかを、競争や怒りや憎しみなどの争いに明け暮れている者たちとのコントラストにおいてこう語る。「[イエス]「わが父に祝福された者たち、天地創造のときから汝らのために用意されている国を受け継げ。汝らはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したことは、わたしに為してくれたことである」。・・[イエス]「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。汝らはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらは汝が飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」」。(Mat.25:34-45)。

 これら二種類の生の規準は何であろうか。人間の本来性の理解のもとにひとをそして隣人をリスペクトし、ひととして困窮している状況に出会ったとき、それは天の父の子としてのわれらに相応しくないという明確な認識である。これは一種の理想主義に捉えられよう。山上の説教においては人間のありうる究極的な道徳が語られているため、理想主義的に捉えられようが、これはユートピア「生起する場所のない幻想的な場」ではない。イエスがあの山上の説教を生命をかけて生き抜いたからである。

 言葉と行いを合致させたこの方を忘れて、困窮者一般を問題にするとき、律法主義に陥ってしまい、イエスの生命を失ってしまうことがある。善きサマリア人の譬えが教えるように、この三人のうち「誰が隣人となったのか」がその都度問われているのであり、一般的に悩める人、苦しむ人、神の子に相応しくない人一般を相手にしようとするとき、いつの間にか生きた主を忘れ、自らの理念に捕らわれてしまうことに気を付けよう。常に原点に立ち帰ることによってだけ、隣人となることができる。

 イエスの「この小さな一人にしたことはわたしにしたことだ」という発言においてはっきり分かることは、イエスは困窮した人々に自らを重ね合わせていたことである、少なくとも共にいるということである。われらは一度でもこのような視点をもったことがあるであろうか。誰かがシリアの難民に何か食べ物を送ったときに、「ありがとう、わたしにくれてありがとう」と言ったり、受け止めたりしたことはあったであろうか。はっきり言って、わたしはそのような感覚をもったことは一度もない。これは或る意味でキリストの弟子として衝撃的なことである。しかし、そこに自らのパトスが今後変わっていくかもしれないという手がかりを得たと言うこともできよう。

 キリストについていくということは具体的にキリストが為したように生きることである。これは覚悟がいる。しかし、「その霊によって貧しい者は祝福されている」。この世の様々な富、つまり自らの人徳、名誉、金銭そして地位など、これらの所有によって自らに満足している者は飢え渇くことはない。肉によってこの世の豊かなもので満たされている者たちは一つ欠けているかもしれない、即ちその霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされないことを知っているその知識を欠いていよう。その霊によって貧しい者たちは「天の国は彼らのものだからである」と、この祝福が語られている者たちであった。この世のいかなる富や才覚によっても満たされず、天国の平和と正義と愛を求めて、入れていただくことにのみ希望を見出す者たちがいる。イエスはこのようなひとたちと共におり祝福していたことが分かる。イエスのこのような言葉にであうとき、われらにはまだ分かっていない人間の消息があるのではないか、われらがこの社会において求めている良きものとは異なる良きものがあるのではないかという思いにいたる。

 

2良きものどもの秩序づけ

 良きものどもが正しく秩序づけられないとき、二心、三つ心が生じるのであった。イエスは山上の説教においてパリサイ人のこの心魂の分裂、欲深さを責めていた。イエスは山上の説教においてモーセ律法(業の律法)を純粋化、先鋭化し、新しい教えを言葉の力のみによって伝えた。そこで乗り越えが企てられている敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」。このように山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろう。「裁くな」「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済や文化活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は戦争はもとより正当防衛をさえ不可能にするように見える。

 しかし、イエスは誰にも担いえない重荷を課す方ではなく、その重荷から解放する信仰に招いていたまう。業の律法のもとに生きるパリサイ人への彼らの自己矛盾を指摘する厳しい言葉の数々も、ご自身がそのもとにある信の律法への立ち返りを促すものであった。イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。

 ひとは天国への帰一的集中のもとに行為の選択から宇宙の構成の知識に至るまで一切を秩序づける。「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものだ」。人間に最も重要なことを学んだ者は生の全体のなかで個々のものをそれは古いものであれ新しいものであれ自由に適切に位置づけそしてそれに対応して行為を選択することができる一家の主人に似ている。この発言を単にパトスに対して良い態勢にある人格的な有徳性に対してだけではなく、その認知的な卓越性に対する賞賛と読むことができる。

 

3ひとの心魂の根底にのみ正しい信仰が宿る

 かくして、二心や三つ心のなさを求める者は心魂の根底から生きることが求められる。そしてひとの心魂の構造、構成からして、「信」「信仰」こそ人間の心魂の一番根底に生起するものとして人類は位置づけてきた。ひとびとはこれを「理解を求める信仰(fides quaerens intellectum)」「知るために信じる(Credo ut intelligam)」と呼び信仰が知識をもたらす心魂の基礎となることを確認してきた。哲学において「知識」とは「正当化された真なる信念」として定義されてきた。或る主張を真理であると信じることがおこり、そしてそれが検証されエヴィデンスを蓄えることにより知識となると理解された。また儒教においても「信なくば立たず」と語られ、実際生活において社会のなかで生きていくためには、信頼、信実、信義が生の基本を作るということは古今東西変わらぬ生の原理であるとされてきた。

 正しい信が根底にあるときのみ、ひとには肯定的創造的な生の展開を望むことができた。正しい信仰とは非理性的な心魂から生じる狂信でもなく、パトスの偏りから生じる迷信でもなく、知性と人格を成長させるそのような心魂の根底の在り方であった。心が散逸しているとき、誘惑に引きずられるとき、もはやわが心そこにあらずであり、目の前の問題、課題そして使命に誠実に取り組むことがなくなり、ひとは「人生は暇つぶしに他ならない」と嘯きつつ、焦点のぼやけた生を営むことになる。ひとの心はこのようなものに満足できないのである。聖霊に応答する二番底パウロの言う「内なる人間」(Rom.7:24)があるからである。それが人であると明確に認識した者たちは、信に立ち帰る。信仰という不思議な心の働きが生得的に一つの力能として心魂の根底に備えられている。

 ということは、この情報化時代、心が様々なことがらに散逸しやすい時代にあって、最も求められるのは、自ら戸を閉めて父なる神に祈り、対話し心を根底から秩序づけることを常に繰り返す以外にないであろう。ルターは95か条の提題第一条において「信仰は悔い改めに始まる」と言う。二心、三つ心、四つ心を悔い改めて、心を清め、イエスと共に生きることをその都度始めることが信仰生活ということになる。なぜひとはこれほどの狭い真っすぐな道を歩んできたのか。そこには喜びがあるからである。

 喜びは最も現在的な感情であった。放物線が接戦に触れるように、今の充溢があった。未来の煩いや恐れによって今を生きるのでもなく、過去の後悔や憎悪によって今を生きるのでもなく、永遠の愛に触れ心が刷新され、喜びがわいてくるのであった。イエスは人間の本来性であるひとびとが「天の父の子」となるべく、自ら「神の子」であるという信のもとに、信の従順の生を十字架に至るまで貫かれた。その信仰が嘉みされ神との正しい関係においてあったその信義の故に、彼は復活を与えられた。そしてそれは永遠の生命の証であり、召天後、キリストが共にいたまうとき、「聖霊」が注がれるにいたった。

 

4復活と永遠の生命

 十字架と復活は人類の歴史において「一度限り」のことであり、他の誰かによって再現されるものではない(Rom.6:8-10)。再現性のないものについては科学的知識の対象とはなりえず、ひとは御子の復活については信仰により突破するしかない。もちろん、科学は例えばあらゆる物質を通過する素粒子の研究などにより知見を重ね、一般的な仕方で、ドアを通過し、脇腹に槍穴のある質量をもつ三次元の存在者についてのその科学的仕組みの解明に向かい続けるであろう。そういう意味で現在われらに不思議に思えることがらの一般的な探求とその解明は蓄積されていくことであろう。

 とはいえ、復活は優れて信仰の対象であり続けるであろう。というのも、信念は、一般的には、知識をもたずにも、或る命題を真理であると信じる、そのような知ること以前のそして知ることに向かう認知的働きだからである。そして預言されていることとして復活は終わりの日にしか個々人には救いとして体得的知識とならないそのようなものだからである。キリストの来臨に伴う終わりのラッパと共に死者が目覚めさせられ呼び起こされる。その再臨信仰を基礎づけるものがキリストの復活である。御言葉が受肉し受難により生物的死を引き受け三日後に甦らされたことは永遠の生命を保証するものであり、終わりの日の新天新地を伴う栄光ある到来を備えるものである。

 パウロはキリストへの言及なしに天国も黄泉も理解できないとして信仰による突破をこう語る。「キリストが信じるすべての者にとって義に至る律法の目指すものである。というのも、モーセは律法に基づく義をこう記しているからである、「それらを為した者はそれらによって生きるであろう」、だが、信に基づく義はこう言うからである、「汝は汝の心のなかで、「誰が[義を求めて遥か]天に昇るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを引き降ろすことである、あるいは「誰が[義を求めて遥か]黄泉に降るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを死者たちのなかから引き上げることである。しかし、彼[モーセ]は何と言っているか、「言葉は汝の近くにある、汝の口のなかにそして汝の心のなかにある」、これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である。すなわち、もし汝が汝の口において主イエスを告白し、そして汝の心のうちに神が彼を死者たちから甦らせたと信じるなら、汝は救われるであろう。というのも、主イエスが心によって信じられるのは義のためであり、口で告白されるのは救いのためだからである」(Rom.10:5-10)。

 心の中での信仰を固く保持するためには公にそれを告白し社会の認知の中での自覚を必要としている。それほど復活は信仰による乗り越えと公的な表明を必要とするそのような理解に困難を伴うものだからである。パウロは知の都アテネのアレオパゴスで彼らが知らずに拝んでいる「知られざる神」を教えようと宣教をはじめ、死者の復活について語り始めると、聴衆は「われらはこのことについてはまた汝から聞こう」と言って去っていった(Act.17:32)。アテネのことではない、エルサレムにおいてさえ使徒たちへの女性たちによる復活の第一報に対して「これらの言葉は彼らにはあたかも戯言(たわごと)に思えたそして彼女たちを信じなかった」と報告されている(Luk.24:11).肉のイエスから予告されていたにもかかわらず、このような事情であった。だからこそ公的な告白は信じることができることそれだけで喜びであることを含意している。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13).

 そこに伴う生命の躍動は永遠の生命の何らかの兆候であろう。ヨハネもイエスの言葉を報告している。「[16:7]しかし、わたしは汝らに真実を語る、わたしが去って行くとき、汝らには益となる。わたしが去って行かなければ、汝らのところに助け主は来ないであろう。もし行けば、わたしは彼を汝らに送ろう。彼がやって来て、罪についてそして義についてそして公正な裁きについて、世界に露(あら)わにすることであろう。一方、罪についてとは、彼らがわたしを信じないということである。他方、義についてとは、わたしが父のみもとに行くということそして汝らはもはやわたしを見なくなるということである。公正な裁きについてとは、この世の支配者が裁かれてしまっているということである。

 [16:12]わたしには、汝らに言うべきことがまだ多くあるが、汝らは今担うことができない。しかし、かのもの、真理の御霊が来る時には、汝らをあらゆる真理に導いてくれるであろう。というのも、彼は自らから語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべきものごとを汝らに知らせるであろうからである。彼はわたしに栄光を帰するであろう、わたしから受け取り、それを汝らに知らせるからである。父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。そのことの故に、わたしは言った、彼がわたしから受け取り、それを汝らに知らせる、と。

 [16:16]まもなく、汝らはもうわたしを見なくなる。しかし、またまもなく、わたしに会えるであろう」。そこで、弟子たちのうちのある者は互に言い合った、「彼がわれらに語っていることは何であるのか、「まもなく、汝らはわたしを見なくなる。またまもなく、わたしを見るであろう」また「わたしの父のところに行く」とは」。そのとき彼らはまた言った、「「まもなく」とは何であるのか。われらには、彼が語っていることがわからない」。イエスは、彼らが尋ねたがっていることに気がついて、彼らに言われた、「まもなくわたしを見なくなる、またまもなくわたしを見るであろうと、わたしが言ったことで、互に尋ねあっているのか。 アーメン、アーメン、わたしは汝らに言う、汝らは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。汝らは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。女性はお産の時、その時がやってきたと不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、ひとりのひとがこの世に生まれたという喜びのゆえに、もはやその苦しみをおぼえてはいない。このように、汝らにも今は不安がある。しかし、わたしは再び汝らとまみえるであろう。そして、汝らの心は喜びに満たされるであろう、そしてその喜びを汝らから取り去る者は誰もいない。かの日には、汝らはわたしに何も問うことないであろう。アーメン、アーメン私は汝らに言う。汝らがわたしの名において父に求めるものはなんでも、下さるであろう。今までは、汝らはわたしの名において求めたことはなかった。求めよ、そうすれば、汝らは受け取るであろう、そこでは汝らの喜びが満ちあふれるであろう。

 [16:25]わたしはこれらのことを汝らに比喩(イメージ)で話したが、もはや比喩(イメージ)では話さないで、端的に父のことを汝らに話してきかせる時が来るであろう。かの日には、汝らは、わたしの名において求めるであろう、そしてわたしは汝らに、汝らについて父に願うとは言わない。父ご自身が汝らを愛しておいでになるからである、というのも、汝らがわたしを愛しており、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたからである。わたしは父のところから出てこのの世にやってきた、またこの世を去って、父のみもとに行く」。

 弟子たちは言った、「見てください、今は端的にお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。今、われらは、汝がすべてのことをご存じであり、誰も汝にお尋ねする必要をもたないことが、わかりました。このことによって、われらは汝が神からこられた方であると信じます」。イエスは彼らに答えられた、「汝らは今信じているのか。見よ、汝らは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。しかも、わたしはひとりではない、父がわたしと共におられる。これらのことを汝らに話したのは、わたしにあって汝らが平安を得るためである。汝らは、この世では悩みみがある。しかし、雄々しかれ。わたしはすでに世に勝っている」(Joh.16:7-33)。

 信仰がもたらす喜びこそ、この狭くまっすぐな道を歩ませる。助け主が聖霊としてこの世の苦難に打ち勝つべく支え励まし共にいたまうからである。永遠の生命の希望がそこに湧き上がるからである。

 

結論 生命の証

 種蒔きの譬えはイエスの宣教を介して神の御言葉そして御心が聴衆の心に蒔かれそれを受け止めた信仰の実りについてのものである。「イエスは彼らを多くの譬えで教えた、そしてご自身の教えのなかでこう言われた。「聞け、そして見よ。種を蒔く者が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞け」と言われた」(Mak.4:2-10).

 この主による種蒔きの譬えは人生にも適用される。誰も自らの親を選べない、そこに自らの生が奪われ、焼け枯れる運命の過酷さを見るひともいよう。同時にそこに「誰も~ない」という人生の或る意味での平等さと醍醐味がある。肉の親の背後にいたまう蒔き手を信じ、自らが蒔かれた所は「良い土地」であると受け止めることなしには三十倍、五十倍に実らすことはできず、蒔き手に対する信頼が不可欠となる。荒地に蒔かれ悲惨にしか思えない与件であるにしても、聞く耳を持ち神に与えられた良い土地であると信じるとき、開墾が始まり、自らの与件から推定されるものの百倍の実りをもたらすこともあろう。復活信仰は困難を伴う、しかし、実りと呼ばれる生命の横溢のなにがしかをこの生において経験するとき、永遠の生命への希望が湧きあがる。夢は抱くものであるが、希望は何らかの現実の肯定的な変革に伴い湧いてくるものである。告白するということは自らの心に二心がないからこそなしえることであるがゆえに、その二心のなさにおいてある自己を喜ぶ。豊かな実りとは八福を語られるイエスご自身にとって「天の父の子となる」こと以外ではないであろう。

 

 

 

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憐み深く柔和な心―かつてと今のコントラスト―

憐み深く柔和な心―かつてと今のコントラスト―    2021年6月6日

 

聖書箇所

「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を汝らのうえに繋げなさい。そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は良きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28-30)。

「祝福されている、柔和な者たち。彼らは[約束の]地を受け継ぐであろうからである。祝福されている、正義に飢えそして渇いている者たち、彼らは満ち足りるであろうからである。祝福されている、憐れむ者たち、彼らは憐みを受けるであろうからである。祝福されている、その心によって清い者たち、彼らは神を見るであろうからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれるであろうからである」(Mat.5:5-9)。

 

1憐み深い心を請い求める―「コントラスト(対比)」―

 われらは入寮式以来、憐みを求めてきた。支配からも競争からも憎悪からも自由なところで生起する憐み深いひとになることを求めてきた。憐みとは何かを探求してきたが、愛や競争心や嫉妬など種々の感情の文法の分析を通じてそれらの何であるかとの対比において憐み深くなることを追い求めてきた。憐みはわれと汝の等しさとしての愛に向かう心の基礎的な感情である。愛の感情実質は喜びであった。喜びは最も現在的な感情であり、愛は情熱恋愛でさえ永遠との何らかの関わりにおいてしか成立しないものであった。放物線が接戦に触れるように、永遠がこの過ぎ去りつつある今に触れるとき、ひとは時と和解する。そこでは未来により支配される焦りや欲望からも、過去により支配される後悔や憎悪からも解放されている。愛の感情実質がこの今の充足のうちに生じている。

 それに対し、憐みの感情実質はより複雑であり可哀そうという思いや愛おしい、慈しむという思いなどからなり、憐みの感情は、そのときにおいては少なくとも相手を支配する、操作するそのような欲望から解放されている。愛は支配することからも支配されることからも唯一自由な心の場で出来事になるわれと汝の等しさであった。憐みはこの友と友のような等しさが生起している愛に方向づけられる。憐みはわれと汝の等しさの喜びに向かう源泉となる力であると言うことができる。

 イエスによる神の国の宣教活動のなかで、彼は「はらわた(splagchnon)」からの深い憐みにとらわれたことが報告されていた。イエスは人々が人間の本来性に相応しくない仕方で彷徨い、苦しんでいることに対する状況に直面し、深い憐みを抱いた。イエスは「群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れみ」、「彼らに多くのことを教え始められた」と報告されている(Mak.6:34,Mat.9:36)。

 憐みがわきだしているところ、そこではかつてと今、悲惨と救い、非本来性と本来性これらコントラストの認識にこそこの感情の源泉がある。善きサマリア人は彼自身かつて強盗に襲われるなどして悲惨な状況を経験しており、誰かに憐みを受け救われたからこそ、今目の前に倒れている半死半生のユダヤ人に憐みを抱いたのだと思われる(Luk.15)。憐れまれたことの経験あるひとは「わが足すべりぬと言いしとき、主よ、汝の憐みわれを支えたまえり」(Ps.94:18)に同意するであろう。あのとき、あの援けがなかったら、自分は破滅していた、と。暗黒から光明を見出した者はこのコントラストのなかで、かつて己がそうであった状態に沈んでいる人がいた場合には、憐みをいだく。

 イエスはひとは本来「天の父の子」(Mat.5:45)たるべきものであるという認識のもとに、そのあまりのギャップのもとにある人々に自然に憐みをいだいた。そして彼は天国について「多くのことを教え始めた」。イエスはご自身の使命をシナゴーグにおいて聴衆に聖書のメッセージに託しそれを読みながらこう伝えている。「「主の御霊がわたしのうえにある。貧しい者たちに福音を宣べ伝えるべく、そのためにわたしに油を注いでくださった。主がわたしを遣わしたのは、囚人たちに赦しを、盲人たちに視力の回復を告げ知らせ、虐げられた者たちを解放において遣わし、主の受容の年を告げ知らせるためである」。彼は書を閉じたそしてそれを係りの者に返しそして座った。シナゴーグにいる皆の目が彼に注がれた。そして彼は彼らに語った、「今日この書それ自身が、汝らが聞くことのなかで、成就されてしまっている」」(Luk.4:18-21)。

 彼はこの使命感のもとに困窮している人々と自らが預言の成就であることを伝えつつ、共に生きた。憐みのなかでの神の国の宣教すなわち愛と正義と平和で満ちた神の国について教えた。彼は自らの宣教の言葉を死に至るまで生き抜いた。この憐みのもとでの教えがもたらす知識は弱ったひとびとを窮境から救いだす力である。

 

 2 山上の説教は憐まれているなかで憐れむその平安の在り処を教える―

 イエスは山上の説教において旧約のモーセ律法が伝える道徳を純化しつつ、旧来の道徳を内側から破り信仰に招いた。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(6:32-33)。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。ひとはみな愛と平和と正義の満ちる神の国に入れていただくこととの関係において、しかも神を愛することと隣人を愛することとを通じて、一切を捉え直すよう励まされている、それが山上の説教の主眼である。神の国についての明晰な理解がひとを新たにするという言葉の力を山上の説教は示している。彼は彼を求めてついてくるひとびとを見捨てることは考えられず、彼の権威ある祝福はこれらを聞いたひとびとの心に直に響いたことであろう。

 イエスは山上の説教において八福を展開した。そのなかで例えば祝福される心の態勢として、柔和な心、義に飢え渇いている心、憐み深い心、清い心、そして平和を造る心、そのような心の持ち主が祝福されていると教える。これらすべては心の深いところでの平安を維持している者たちであることがわかる。外界からの様々な攻撃や刺激に対して、揺さぶられない平安を持っている人々である。その平安の根拠は神と神の国との関連において人生を捉えることができていることにある。確かにそのような者たちは祝福されている。「祝福されている、柔和な者たち。彼らは[約束の]地を受け継ぐであろうからである。祝福されている、正義に飢えそして渇いている者たち、彼らは満ち足りるであろうからである。祝福されている、憐れむ者たち、彼らは憐みを受けるであろうからである。祝福されている、その心によって清い者たち、彼らは神を見るであろうからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれるであろうからである」。これらは今或る心的な態勢、状態のうちにある者たちの祝福であるが、それは未来文で表現される善きことどもに基礎づけられて祝福されている。端的に神の子となること以上に祝福されたことはないであろう。

 憐みを受けているからこそ、ひとは憐みや柔和な心を得る。善きサマリア人は憐み深く窮境にあるひとを介抱するとき、自ら憐みをかけている今・この時において憐みを受け取り直していることを知っている。憐み深くありうること、柔和でありうること、心の清くありうること、平和を造りうること、それだけで平安があり、喜びである。自らの悲惨を知る者にとっては、この喜びが湧いていること自体が憐れまれていることの証拠であると知っている。このような平安な心の状態それ自身が祝福を受けていることを認識し、感謝している。即ち既に憐れまれているからこそ、平安でありうる。憐みうる者は既に憐みを受けているのである。そしてさらに憐みを受けるであろう。すべてが、憐まれていることのもとに遂行される。

 これが、「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれら[生活に必要なもの]すべては汝らに加えて与えられるであろう」(Mat.6:33)というイエスの信仰の招きのメッセージである。これらすべてのものごとと生活の必需品をはじめ、各人が打ち込んでいるものごとに必要なものごとも含まれよう。「汝らの天の父はこれらすべてのことを汝らが必要としていることをご存知である」(Mat.6:32)と言われる。この慰励の言葉の背後には天父への信が働いている、「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(7:11)。イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。各人にとって求めるべき善きものとは神ご自身であり、その最も善きものに他の一切の善、良きものが秩序づけられる。

 全知全能であり「完全」(5:48)な天の父により一切が秩序づけられるとき、すべて肯定的な心的態勢は神の憐みのうちにあることであろう。地に住むことそれ自体が重力の法則の枠のなかにあるように、肉の弱さを抱え「何を食べ、何を着ようか煩う」(6:25)ことが常となるそのような者たちへの憐みの中で、人々は正義を求め飢え渇き、柔和で清く平和を造るべく憐み深くあろうとする。

 

3柔和で憐みの生の準則とそのエヴィデンス

 そこでのひととの交わりの規準となるものは「この言葉はこの行いは平和を造るか、正義を実現するか、心の柔和さと清さと憐みの表れか」というものである。これらは人々とのあいだで競争的、勝者たろうとする者にはどうしても採用できない行為規準である。山上の説教への納得のもと、ナザレのイエスの弟子であろうと覚悟する者はこの道を行く。何よりもキリストと共に歩む。それを望まない者は心の平和と平和を造る者たることを諦めることになる。

 ひとは言うでもあろう、他の仕方で柔和、憐み、清さ、正義心を追求できると。他の仕方とはいかなる仕方か。神の国とご自身の義を求める信仰によるものではない仕方がまず考えられる。生得的に素直で争いの嫌いな柔和なひとはいることであろう。それは祝福されていることであろう。その場合、そのひとがコントラストのなかで自らの憐みや柔和を受け止めているかが問われることであろう。そうでない自然にあふれる柔和や憐みはキリストのそれとは異なることになる。この自然的な共感能力はイエスのそれに似ているであろう。ただし、イエスは明確な神の国の現実の認識のもとにそのコントラストのうちで困窮している人々に憐みを抱いている。そのひとには無意識に沈んでもいよう、かつて憐れまれたことを思い返すよう促されることであろう。

 さらに他の仕方のもう一つの在り方として、信心は持つがナザレのイエスの父への信仰ではなく、仏が伝える永遠の法や他の神々への信仰により同じ感情を得るというものである。イエスの弟子になろうとする者にはこの他の仕方を尊重することが求められる。しかし、イエスご自身は言う、「わたしが道である、また真理である、そして生命である。わたしを介するのでなければ、誰も父のもとに行くことはない。汝らはもしわたしを知ったなら、わたしの父をも知ることになるであろう。そして今から汝らはご自身を知っておりまた見てしまってもいる」(John.14:6-7)。

 イエスはご自身が神の子であるという自覚にあるとき、他の道を勧めることは考慮の外にある。それは無責任であり信仰の本質に反すると言うべきである。信仰は二心なき心魂の根底における幼子のごとき混じりけのない承認であり信頼であり委ねである。「あなたは仏教の世界で育ったのだから、その道を追求しなさい」とイエスご自身が言ったとしたら、山上の説教における彼の真剣さは何であったのかという疑念がわくのみならず、大いなる失望のもとに彼の御跡についていくのを止めてしまう者が続出することであろう。

 聖書の神は「わたしをおいて他に神があってはならない。・・わたしは妬む神である」(Exod.20:3-5)と言われる神である。「生命に通じるもんはなんと狭く、その道も細い」(Mat.7:14)。キリストにのみ救いがあるという信仰は排他的に見えても信仰の根源性からして少なくとも自らに関わる限りにおいては他の道の排除は要請されるものである。神は「妬む神」である。信仰においては他者との水平的な関係ではなく、他人はいざしらず、自己と神の信実な関係が問われている。神がイエス・キリストにおいて信実であったとき、信仰により応答するのかそれとも裏切るのかが問われている。

 しかし、それは非理性的な狂信とも偏った感情である迷信とも異なるものであるに相違ない、正しい信仰である限り。ひとは他の道にいくひとに言うであろう。「少なくともわたしはどこまでもイエスについていく、人生が終わってしまわなければわからない事柄に関して、人生の途中で様々な挫折により捨ててしまったなら実験は未遂に終わる」、また「未来形で語られる神の子となることや慰めを諦めることになるであろう」。少なくとも一緒の道を歩めないことを告げるとき、こう言うであろう。「あなたがあなたの道を行くことは尊重する。ただし双方とも迷信や狂信に決して陥らない仕方で信仰生活を遂行しよう」。他の道を諦め、捨ててnarrow and straight roadを歩むことは信仰生活の基本となり、そこに信じることにおける喜びがわきおこる。信仰とは人生をかけることである。あれもこれもという二心は単に欲深にすぎない。

 ひとはただイエスに従う人生においてその確かさのエヴィデンスを蓄積していく。この世が与える平安とは異なる平安をいただくことを経験する。それは彼が永遠の生命にあるからこそ与えることのできるものである。イエスは言う、「わたしは汝らに平安を遺していく、わたしの平安を汝らに与える、わたしが汝らに与えるその仕方はこの世界が与える仕方のものではない。汝らの心は騒がさせられるな、また恐れさせられるな。汝らは私が汝らに語ったことを聞いた、「私は去っていくそして汝らのもとに戻ってくる」と。もし汝らが私を愛していたなら、わたしが父のもとに赴くことを喜んだことであろう」」(John.14:27-28)。イエスは父とともにある平安の故に、心を騒がせることも恐れることもない。「天の父の子」となった者たちも同様である。そして迫害の歴史において、その証は多く与えられてきた。この不思議な平安とそれに伴う喜びこそ神の国の証、エヴィデンスであると言える。

 パウロは不可視なものについての接触的な知識である「叡知(ヌース)」という認知機能について言及しつつ、神から与えられる平安についてはヌースがヒットすることのない仕方で与えられることがあると主張する。ひとは自らの平安を認識できないことがあるにしても、不思議な平安に護られることがある。パウロは言う、「あらゆるヌース(叡知)を超えている神の平安が汝らの心をそしてキリスト・イエスにある汝らのノエーマタ(かつて得た叡知内容)を護るであろう」(Phil.4:7)。この平安が現実のものでなければ、キリスト教史においてあれほどの殉教者が平安のうちに死んでいくそのような状況を想定することは難しい。そこでは正義のために迫害されても、喜んでいることができる、言ってみればこの世の生死を突き抜けている心の態勢にあるからである。「われには生きることはキリストである。死ぬことは益である」(Phil.1:21)。

 この突き抜けのもとに、認知的、人格的態勢が成長していく。「われ祈る、汝らの愛が、知識においてまたあらゆる感覚においてますます満ち溢れ、汝らが[重要度の]諸差異を識別するに至ることを、それはキリストの日に、汝らが染みなく、咎めなき者となるためである」(Phil.1:9-10)。「平和の神ご自身が汝らをあますところなく聖なる者とし(hagiasai)、汝らの霊と魂と身体とがわれらの主イエス・キリストの来臨の時に備え非のうちどころのないよう完全なまでに護られるように」(1Thes.5:23)。このような認知的、人格的成長がある限り、その信仰は狂信からも迷信からも自由な正しい信仰であると語ることができる。

 

4キリストの弟子のこの世における独自の在り方

 このような柔和、憐み、清さを求めるひとはこの世にあって競争的な人々によりそれぞれの従事する領域において抑圧され、冷遇を受けまた押し出されてしまうのではないかと問われよう。もちろん天に宝を積むことが目的であるから、この世の栄華、権力とは無縁であろう。しかし、それぞれの仕事や活動において独自な働きをなすことができよう。信仰による統一された心の働きであるため、様々な誘惑から護られまた気をそらされることもなく、集中して活動に従事することであろう。

 種蒔きの譬えはイエスの宣教を介して神の御言葉、御心が聴衆の心に蒔かれそれを受けとめた信仰の実りについてのものである。「イエスは彼らを多くの譬えで教えた、そしてご自身の教えのなかでこう言われた。「聞け、そして見よ。種を蒔く者が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞け」と言われた」(Mak.4:2-10)。

 この譬えにおいて御言葉の蒔き手はイエスご自身であり、受け止める心、拒否する心等われらの様々な心の環境のもとに御言葉が蒔かれる。これは人生にも適用される。誰も自らの親を選べない、そこに自らの生が奪われ、焼け枯れる運命の過酷さを見るひともいよう。同時にそこに「誰も~ない」という人生の或る意味での平等さと醍醐味がある。自らに生が与えられたことを厳しい与件に思えても、肉の親の背後にいたまう蒔き手を信じ、自らを「良い土地」であると受け止めることなしには三十倍、五十倍に実らすことはできず、蒔き手に対する信頼が不可欠となる。荒地に蒔かれ悲惨にしか思えない与件であるにしても、聞く耳を持ち神に与えられた良い土地であると信じるとき、開墾が始まり、自らの与件から推定されるものの百倍の実りをもたらすこともあろう。まったく黒歴史であると思っていた自らの生が憐みに触れ一気に白歴史に変換させられるひともいよう。

 豊かな実りとはイエスご自身の認識では「天の父の子となる」こと以外ではないであろう。誰であれ自らの人生の終盤にさしかかり、自らの人生のかつてと今との対比において、三十倍、五十倍の実りを経験している者には、始めと終盤のコントラストの著しさにただただ驚愕し、神に賛美を帰することであろう。こう語る私自身も、人から見れば取るに足らないものであろう小さき実りではあるが、始まりのころの無知蒙昧、悲惨な現実に思いをはせるときこの果実にただ驚愕し、感謝している。

 ひとは天の父の子として父に栄光を帰しつつ生きるとき、単に競争的であり、他人を蹴落とそうとする人々より、豊かな実りをもたらすこともあろう。われら個人の生にはじまり、社会そして地球や宇宙全体が唯一の神のもとに秩序づけられるとき、それは最も道理ある人間、世界理解であるという心の真っすぐさのゆえに、よき仕事を遺すことであろう。

 

5結論 イエスと共に歩むとき、柔和な者となる。

 八福の第三福は柔和な者であった。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を汝らのうえに繋げなさい。そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は良きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28)。イエスは暴れ馬のような方ではなく、イエスは驢馬の子にのってやってくる平和の君であった。その彼の軛に繋がれて歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与える者となる。平和の君だからである。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。

 イエスの弟子であろうとする者はイエスの担いやすい低い軛に繋がれる。ひとは見捨てても彼は決して見捨てることはない。誰であれ、ご自身の栄光を棄てられ、ひととなり、貧しいもの、悲しむ者、争いを好まない者、正義から不当に見放され正義に飢え渇いている者、憐み深い者、平和を造る者そして正義のために迫害される者たちとどこまでも共にいたまう方のところなら行くことができる。この世界で見失われているひとびとであればあるほど、イエスの軛につながれつまり神の子の信のもとに生きることによって、この人生を歩むことができる。

 イエスの軛に繋がれ歩んでいるとき、次第にイエスの歩調に合うものとなり、次第に造り変えられていくであろう。この世界に何ら確かなものがないと思い絶望する者でも、このような心の働き、状況においてある者が祝福の対象であるなら、人類にその一番低い所にセーフティネットは明確に張り巡らされていることを知るにいたる。イエスのもとにならいくことができる。

 

 

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